来るべき産業好況

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、10年に及ぶ恐慌が終わりにさしかかり、好況への転換の徴候が見え始めた頃に書かれた論文であり、来る産業好況がプロレタリアートの革命運動に及ぼす影響について述べている。

 当時、支配層も革命側も、好況が革命運動にとってマイナスになるであろうと思われていた中で、トロツキーは、何年にもおよぶ革命的攻勢とその敗北、そしてその後の恐慌の中で完全に疲弊しエネルギーを奪い取られ分散させられたプロレタリアートにとって、むしろ好況は、自分たちの傷を癒し、経済闘争を通じて再結集を図る絶好の機会を提供するものであると指摘した。そして、深い確信をもって、この好況のあとに訪れる恐慌はプロレタリアートを再び革命的攻勢へと導くだろうと予想した。この予想は全体としてきわめて正確なものであった。後にトロツキーは、経済景気と革命運動とのあいだの弁証法的関係をより普遍化することになる。

 本稿はすでに『トロツキー研究』第29号に経済済みであるが、今回アップするにあたって訳注を追加している。

Л.Троцкий, В ожидании промышленного подьем, Правда, No.7, 21 Ноябрь 1909.


 ストルイピンの『ロシア』紙に記事を書いている嘱託の評論家は、始まりつつある経済的活況ほど「解放者」にとって恐ろしいものはないと断言している。でたらめだ! 経済好況は反動を救いはしない。逆である。それは革命的高揚を準備するのだ。

 

   10年恐慌の終わり?

 ロシアにおける激しい産業恐慌は、ほとんど中断することなく、すでに10年も続いている。1899年の秋からだ! 当時それは、全ヨーロッパ的な生産過剰の影響のもとに始まった。しかし、ヨーロッパは1903年にすでに恐慌から回復しはじめ、それに続いてロシアも新しい産業好況の時期に突入する準備が整った。しかし、ちょうどその時、日本との戦争が勃発し、国民経済全体に恐るべき混乱が生じた。戦争の後には革命が起こった。革命の後には反革命が続いた。

 革命は独自の課題を有していた。すなわち、人民大衆の生活条件を向上させ、国内市場を拡大し、したがって生産力の強力な発展のための条件をつくり出すことである。しかし、革命そのものは、何百万もの労働者をストライキへと決起させ、不可避的に生産を解体させた。経済的諸関係にはるかに重大な悪影響を及ぼしたのは、反革命だった。ポグロム、懲罰大隊、農村の焼き打ち、都市の破壊…。1907年にはすでに、反革命は全戦線で勝利の凱歌をあげ、いわゆる秩序が回復された。労働者は、いまだ癒えぬ傷を負ったまま、工場という兵営へと再び押しこめられた…。そうこうするうちに、あらゆる生産ストックが使い果された。物価ははなはだしく高騰した。こうして、新しい産業好況のための条件はそろったが、ただ一つだけ足りなかった。貨幣資本がそれである。

 ロシアの工業は西ヨーロッパの資本によって養われていた。わが国におけるどの産業好況も、ヨーロッパからの資金の流入とともに始まった。しかし、1907年、弱体化し疲弊しきったロシアがヨーロッパの貨幣をとりわけ必要としていたというのに、欧米における好況はすでに絶頂に達し、すべての手持ちの資本は投下され、金利は著しく高騰し、1907年の10月にはすでに正真正銘の貨幣恐慌が勃発していた。これは最初アメリカで起こり、ついでヨーロッパに波及した。このような状況のもとでは、ヨーロッパの資金がロシアの工業に流入することなど、問題になりえない。ヨーロッパ自身が血眼になって遊休貨幣を探していたのである。

 かくして、当初は、対外戦争と内乱のせいでロシアは世界的な産業好況を利用することができなかったが、1907年以降は、世界的な金融恐慌のせいで、ロシア資本主義は、国内の平静さを利用することができなかった。そして、どちらにおいても、代償を支払わされたのはプロレタリアートであった。

 戦争は労働者と農民に重くのしかかった。革命をほとんど全面的にその背に担ったのは労働者であった。それゆえ、反革命もまた労働者に集中された。すべての力、すべての忍耐力、すべてのヒロイズムはその肉体的限界にまで達した。政治的敗北ののちに訪れた激しい恐慌は、完全に労働者を疲弊させ、解体し、エネルギーを奪い去り、無力化した。1908年の後半と1909年の前半はずっとロシア労働者の闘争史において最も暗黒の時期となった。現在でも、活況の徴候が疑いもなく存在するとはいえ、工業の主要部門のどれ一つにおいても、実際には本格的な前進はまだ見られない。金属工業では、南部ロシアにおいてだけこの8ヵ月間の成果は昨年よりもよい。ポーランドでは製鉄生産は減少している。ウラルの工業は、政府の補助金にもかかわらず、崩壊を続けている。石油産業に関しては、採掘量は多少増えているが、ロシアの市場はそれに対する販路を去年よりはるかに少なくしか提供していない。繊維市場も、最も活況を呈しているとはいえ、まだまったく不安定である。おそらく、失業率は少しは減少している。しかし、失業者の自殺は、これまでと同様、伝染的性格を有している。

 それにもかかわらず、ロシアの取引所は、好景気になりつつある徴候を熱心につかもうとしており、政府系新聞の評論家は産業好況によって毎日のようにわれわれを「脅かし」ている。

※原注 景気とは、市場の一般的な状況のことであり、恐慌、好況、過渡的状況などを指す。

 彼らが持ち出しているのは以下のものである。(1)抜群の豊作――これは、ココヴツォフ(1)の敬虔な表現によれば、神からの贈り物である――、(2)国内を「秩序」が支配していること――これは秘密警察のもとでの例外的な状況である――、そして(3)世界市場の有利な条件、である。

 

    豊作

 今年、全体で40億プードを越える収穫があり、ここ5年間の平均よりも10億プードも多かった。もちろんこれは大して自慢できるものではない。ここ数年間はまったくの不作だっただけで、今年も一デシャチーナあたりの収穫量は平均して35〜40プードであり、ドイツの66プード、アメリカ合衆国の79プードにはるか及ばない。

 しかしながら、問題は収穫量だけではなく、その販売条件もである。国庫は、廉価な信用供与を通じてただちに大地主を援助した。それによって大地主たちは穀倉に穀物を退蔵させ、穀物価格を上げることができるようになった。しかし、一般の農民には貸付はなされず、それを待っている余裕もない。かくして、農民の穀物は、いつものように、安い価格で穀物商人に売り渡される。大蔵省の機関紙である『商工業新聞』でさえそのことを認めざるをえない。豊作が農民の購買力に活力を与えるだろうとの見込みは、したがって、半分かそれ以下しか当たらなかった。ニジニ・ノヴゴロドの定期市は活気があった。工場主たちは商人たちに山のような商品をクレジットで与えたが、農民がすべて買いきるものと期待してのことだった。だが実際にはそうはならなかった。そしてサマラでの聖十字架祭の定期市は去年よりもはるかに好調であったが、ハリコフとゲオルギエフスキーでの聖母祭の定期市は一般的な期待を完全に裏切った。ベロストクでは、繊維工業の一時的な活況の後、再び停滞した。商品は売れずに残っている。ロストフでは、毛織物の売り上げは完全に停滞している。

 10億プードの余剰穀物は、もちろん、国の経済流通にとって大きな意義を有している。しかしながら、それはロシアを経済恐慌から救い出すにははなはだ不十分である。これに加え、秋蒔きの出来はまったく不調だった。まさにそれゆえ、支配階級の注意は、秋になってからますます、神の贈り物である豊作から、農民への期待から、西欧の資本と外国の販路市場の方へと移りつつあるのである。「オデッサとモスクワのペチカから離れて――と『レーチ』[カデットの機関紙]はせかせる――国際的諸関係の寒さと雨の中に進んで出ていこう」というわけだ。

 

   国際市場から何を期待することができるか?

 現在、国際市場自身が、商工業恐慌から抜け出たとはとうてい言いがたい状況にある。しかしながら、疑いもなく、アメリカでも西ヨーロッパでも、すでに景気の好転を告げる明瞭な徴候が現われている。恐慌の2年間、すなわち生産のはなはだしい縮小の時期、商品在庫はしだいに解消され、工業に投資されない遊休資本は銀行に集まっていった。こうして、新しい産業好況にとって必要な二つの前提条件がそろったのである。

 ツァーリ政府は、ヨーロッパの銀行に集まっている遊休資金を横目でにらみながら、新しい巨額の借款を手に入れようと忍び寄っている。ロシアの資本家たちは元気を取り戻し、ヨーロッパの資金がロシアの産業に流れこむのを期待している。しかしながら、物事はそう簡単には進まない。

 世界市場に「活況」の徴候が現われるやいなや、アメリカとヨーロッパの遊休資本はただちに、銀行の地下室から株式投機の舞台へと移された。株を買え、もうけの匂いがする! 生産の方はまだほとんど拡大していない。いくつかの部門――たとえば綿紡績業――では、アメリカとイギリスのシンジケートは労働時間の短縮を時宜にかなったものとさえみなしている。貨幣資本は、新しい企業を起こすことにほとんど用いられず、古い企業の株の売買でもうけを追求することに使われている。あらゆる銘柄の株価が上昇した。しかし、新しい借款のチャンスは減った。なぜなら、遊休資金は手から手にわたってしだいに解消され、今年秋の数週間におけるすさまじい金利上昇の中で雲散霧消したからである。10月のはじめ、イギリスの銀行は貸出金利を2・5%から5%へと、すなわち2倍にも引き上げた。純粋な貨幣恐慌の危険性が生じ、それは今なお、新しい産業好況が開花するのを妨げている。

 「わが国の完全な復興」のための数十億ルーブルの、あるいはせめて数億ルーブルの新しい借款については、ココヴツォフは断念せざるをえない。絶好の機会を彼は逃してしまったのである。8400万の赤字が補填できれば、それで十分だ! しかし、工業への資本流入への期待もかすみつつあり、いずれにせよ将来に先送りされてしまった。ヨーロッパ市場の貨幣資本は不足気味であり、この数週間で貸出金利は再び下がったとはいえ、それでもまだ高い(ロンドンで約4%)。つまり、イギリスの金融資本――主としてそれを当てにしていたのだが――にとって、もはやロシアに投資する誘因は存在しないのである。なぜなら、カデットがロシアの憲法は――ありがたや!――まだ健在であると断言しているにもかかわらず、ロシアの政治関係は今なお不安定だからである。イギリスの資本家や技師はロシアを訪問し、ウラルをじっくり見て回り、カフカースで物価を調べ、分析をし、あれこれと計測や計算をし、ロシアの議員や大臣と会談したが、そのさい彼らのフロックコートのボタンはきっちりかけられたままであった。

 では今後どうなるのか? ロシアにおいて産業の活況は起こるのか、それとも起こらないのか? そして、もし起こるとしたら、それは深く長期的なものなのか、それとも表面的で短命のものなのか?

 このことはまたしても、世界市場における今後の発展過程に依存している。どれだけ早期に、資金が株式投機から引き上げられて新しい工業企業の建設と既存企業の生産拡大に向けられるのか、このことを予言することは困難である。株価の上昇傾向は、生産そのものの上昇なしには、すなわち生産の現実的な拡大なしには、長期にわたって継続することはできない。生産の拡大なしには、株価の上昇は不可避的に破局へといたり、商工業恐慌を深刻化するだけだろう。

 銀行家たちは、来年の春、あるいはそれよりも早く1910年のはじめごろまでには、貨幣市場が好転し、資金が「潤沢」にさえなり、産業好況がとどこおりなく発展することを期待している。もしこの予想が現実のものとなれば、そのときにはロシアにも順番が回ってくるだろう。イギリス、フランス、そして最後に――といっても重要性において劣るわけではないが――ベルギーの資本(これは、昨年、それがロシアに投資した10億フランの資金を、4500万フランの付加価値分ともども、ロシアから引き上げた)がロシアの山河に押し寄せ、産業好況の新世紀を切り開くだろう。

 

   誰にとって好況は危険か?

 だが、本当にわれわれは、政府系新聞の評論家が断言しているように、産業好況を恐れなければならないのだろうか? いや、いささかも。もし産業好況がプロレタリアートを階層分化させ、彼らの間に「強い」プロレタリアートと「弱い」プロレタリアートをつくり出すとするならば――11月9日の法律(2)が農民の間に作り出したように――、その場合にはたしかに社会民主主党は好況を恐れなければならないだろう。しかし、このようなことは、どんな好況でも達成不可能なことである。それどころか、産業の活況は労働者たちを結束させ、経済闘争という偉大な学校へと彼らを導く。工業の繁栄という基盤にもとづいてのみ、労働組合の繁栄を考えることができる。この2年間の恐慌は、労働者を革命化させなかっただけでなく、反対に労働者をばらばらにし、彼らの確信と力を打ち砕いた。それとは対照的に、産業好況は再び労働者に、現代の経済と国家のすべての機構が生産階級としての彼らに依存していることを示すだろう。好況の時期、とりわけ市場が無限に拡大しうるように見えるその最初の時期には、資本は労働力の一つ一つを重宝し、生産と搾取の連続性を維持するために、国家に抗して労働組合の一定の自由を守ろうとしさえする。資本の利益に対する配慮から、そして、自然発生的な力で発展する労働組合そのものの圧力に押されて、国家の警察活動は緩和される。もちろん、経済的組織に対してだけであるが。しかし、経済を政治から分離する神聖な境界線など、いったいどこにあるのか? それを指し示すことなど誰にもできないだろう。社会民主党の任務は、口を開きつつあるあらゆる裂目に、組織という楔をいっそう深く打ち込むことである。労働組合の一定の自由を利用して、政党活動のための広い空間を獲得することである。

 したがって、産業好況の時期に袋小路にはまりこむのは、われわれではなく、警察国家の方である。社会民主党の「殲滅」は、プロレタリアートを解体することによってしか、したがってまた生産を解体することによってしか不可能である。「社会平和」と資本主義的利得を守るためには、社会民主党を黙認するしかない。このような状況のもとで、警察のずる賢い連中がどのようにして窮境から脱するのかを、後でわれわれは見ることになろう。今のところ、われわれが彼らに約束できるのは一つのことだけである。ぼんやりしていると、思いっきり尻尾を長靴で踏んづけられることになるぞ。

 

   しかし、産業好況は「秩序」を強化することになりはしないか? 

 第3国会の支配ブロックの状況が一時的に楽になることは言うまでもない。シンジケートに結集している大資本家たちは、もちろん、甘い汁を吸うことだろう。新しい資本が流入することで国家の財政はいっそう改善される。つまり、官僚と貴族の懐にも小金が流れるということである。もちろん、彼らは分け前をめぐってお互いに噛みつき合うだろう。しかし、そのたびごとに、貪欲さの統一性が彼らを和解させる。有産階級が目を細めながらもうけを消化しているあいだ、先鋭な反対と政治的衝突が生じる余地はない。そして、この意味で経済的上昇は反動を救うものではないにせよ、いずれにせよ、その破産を先延ばしすることにはなる。しかしながら、ただ短期間、先送りするだけである。

 「繁栄」の数年間の後には、再び恐慌が訪れる。経済の上昇が高ければ高いほど、崩落はそれだけいっそう激しくなる。そのとき、帝政ロシアのすべての矛盾は再び表面化するだろうが、十倍化した上でそうなるだろう。そして、この革命的矛盾に立ち向かうことになるのは、最も激しい痛手を好況期に癒し、誤ることのない階級的自覚を持ち、経済闘争の勝利のなかで強化されたプロレタリアートなのである。

 この点に関し、ロシア労働者にはかけがえのない階級的経験がある。1890年代の後半、わが国で強力な好況が全面的に展開された。外国資本の流入、新しい企業、鉄道の敷設、国家予算の拡大――こうした状況のもと、ヴィッテ(3)=ロマノフの支配がいつまでも続きそうに見えた。しかし、他方の極では、不可避的に労働者の産業的集中とその階級的教育が進行していた。激しい経済闘争に引き込まれたプロレタリア大衆は、そして時にはその指導者も、ストライキ闘争の勝利をもたらした力が産業好況であることに気づかなかった。衝突につぐ衝突、ストライキにつぐストライキを通じてプロレタリアートは、少しづつ、「歴史なき民」からはい上がり、全体としての自分たち存在を認識しはじめ、他方で、国家権力を自らの不倶戴天の敵とみなすようになった。まさにこの時期を通じて、ロシアの労働者階級は、その後の時期に果たすことになる巨大な政治的役割を担うべく団結と成熟を深めていったのである。われわれは、いつにもましてこのことをしっかりと理解しなければならない。今世紀初頭における商工業恐慌が公然たる革命闘争の道へと労働者階級を駆り立てたとすれば、この革命に向けて労働者に準備を整えさせたものこそ、1890年代の産業好況なのである。

 今後の新しい産業好況においても、われわれは同種の課題に当面することになるだろう。すなわち、数的に増大したプロレタリアートを集中させること、彼らの士気を高め、彼らを組織化すること、である。だが、以上のことは、比較にならないほど広大な歴史的基礎の上で行なわれることになるだろう。なぜなら、われわれは一から物事を始めるのではなく、完遂されなかった革命によってプロレタリアートに委ねられたきわめて豊かな思想的遺産を利用しながら、これからの課題を遂行するからである。

ウィーン『プラウダ』第7号

1909年12月4日(11月21日)

『トロツキー研究』第29号より

  訳注

(1)ココヴツォフ、ウラジーミル(1853〜1943)……ロシアの政治家、官僚。地主出身。1896年に大蔵次官。1904年以降、大蔵大臣で国会議員。ストルイピンが暗殺された1911年に首相に就任。1914年に辞任。

(2)11月9日の法律……1906年に発布されたもので、ミール共同体を解体して強力な自営農の育成をめざした法律。

(3)ヴィッテ、セルゲイ(1849-1915)……ロシアのブルジョア政治家。資本主義育成策に力を注ぎ、1905年革命のさなかに首相となって、国会開設などの一連の改革を指導。その後、反動化とともに失脚。

 

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