トロツキー『1月9日以前』への序文

パルヴス/訳 西島栄

【解説】本稿は、トロツキーの小冊子『1月9日以前』(右の写真)に付されたパルヴスの序文であり、1905年1月9日の血の日曜日事件以降に「革命の展望」をめぐるロシア社会民主党内部の大論争の引き金となるとともに、トロツキーの永続革命論の形成史に決定的な影響を与えた歴史的文献である。同序文は、ロシア社会民主党が現在進行中の事件の中で権力を獲得し、社会民主主義政府を形成することができることを初めて展望した。

 「ロシアにおいて革命的変革をなし遂げることができるのは労働者だけである。ロシアの革命的臨時政府は労働者民主主義の政府になるだろう。社会民主党がロシア・プロレタリアートの革命運動の先頭に立つならば、この政府は社会民主主義的な政府となるだろう。」

 他方、トロツキーの小冊子は、ロシアのブルジョア自由主義派と都市民主主義派の無力さを激しい論調で暴露したものであり、このような見方はパルヴスの大胆な展望を媒介として永続革命論へとつながっている。

 この序文は、現代思潮社の『わが第一革命』の付録としてすでに訳出されているが、すでに絶版で手に入りにくい文献でもあるし、またいささか直訳調でもあるので、改めてロシア語から訳しなおしてアップすることにした。

Парвус, Предисловие, Н.Троцкий:До девятаго января, Женева, 1905.


 1月9(22)日の血の日曜日事件は、ロシアの歴史的運命に新しい時代を切り開いた。ロシアはその発展の革命的時期に突入した。旧体制の崩壊がはじまり、新しい政治的勢力配置が急速に形成されつつある。革命の思想的プロパガンダが将来の事態を予告したばかりで、したがってそのような事態が空想的なものに見えていたというのに、今や現実の事態が意識を革命化し、革命戦術の構築の方が革命的発展に間にあわないでいる。革命は政治的思考を前方へ駆り立てる。わずか数日の革命的日々のあいだに、ロシアの世論は徹底した批判を政府権力に浴びせ、統治形態に対する自らの態度を明確なものにした。それは、国内に議会制度がある場合でさえ何年もの発展によって達成される水準をはるかに凌駕していた。上からの改革という観念は脇へ投げ捨てられた。それととともに、ツァーリの国民的使命なるものへの信頼も地に堕ちた。それに続いてただちに、世論は立憲君主制という観念と袂を分かち、たった今まで空想的と思われていた革命的臨時政府や民主共和制という観念が政治的現実性を帯びるようになった。

 革命はすべての政治潮流や政治観に自らの刻印を捺し、こうして反体制派を相互に結びつける酵素を形成する。諸党派の区別は、共通した革命的課題の前に一時的に姿を消す。それとともに、革命は自由主義イデオロギーをその政治的極限にまで駆り立てる。自由主義的諸党派は、その実態よりも急進的な様相を呈し、自分が依拠している社会階層を通じて実行しうる以上のことを約束し、それ以上の任務を自分に課してさえいる。革命はすべての反政府諸政党を左転換させ、それらを相互に接近させ、革命的な理念によって結合させる。

 革命は政治的変革の輪郭を明確にするが、しかし政治的諸党派の違いを曖昧にする。この歴史法則は、ロシアの現在の革命期においても現象せずにはいなかった。しかもロシアでは、国内の政治的発展の若干の特殊性がこの法則にとって有利に働いている。

 ロシアでは、政治的諸勢力の明確な分化はまだ生じていなかったし、生じえなかった。社会の政治的諸勢力のこの分化過程を遂行し、それぞれの特殊な経済的諸利害に従って相互に対置させることこそ、まさに議会制度の歴史的課題の一つである。議会制度は、人民の統治というイデオロギー的定式のもとに、すべての社会階層を権力のための闘争に引き入れる。法的に承認され規制されているこの闘争においてこそ、諸階級の政治的相互関係が明確なものとなり、諸階級の力も測られるのである。ロシアでは、これまでのところ政治的諸潮流は――後述するプロレタリアートと社会民主党の階級闘争を除けば――イデオロギーという観念的領域で発展し、いまだに「人民」や言葉の狭い意味での「社会」(すなわちブルジョアジー)との結びつきだけを求めている。それは、不明瞭で無定形の流動的な大衆であり、その政治的方向はあちらこちらに向き、簡単にばらばらになったかと思うと、簡単に再凝固する。彼らが主として自分の依拠する社会階層にのみもとづいて政策をたてるかぎり、その時々の政策は、彼らの政治的発展と最も鋭く矛盾することもある。たとえば、現在ロシアにおける自由主義の主要な支柱であるゼムストヴォ(地方自治会)は、いちじるしく保守的な傾向をもった地主政党を議会制ロシアのために準備している。ロシア絶対主義は、地主と工業資本との闘争に[議会という]政治的な活動舞台を与えなかった。その結果、絶対主義は両者ともに敵にまわすことになった。

 迫り来る資本主義に対する農業ロシアの闘争に政治的表現が与えられなかったことで、何よりも工業資本主義に対する文学的批判が盛んになった。しかし当の地主内部での階級分化のゆえに、そしてヨーロッパの文化的発展に影響されて、この批判はその後、革命的批判の内的な発展法則にしたがって民主主義的性格を帯びるようになり、最後には――ロシアの外部で発展しつつあった労働者社会主義に到達しなかったかぎりでは――トルストイ的教義でもって完成を見た。この教義は、資本主義の外部に文化的結びつきを求めるのではなく、文化一般を否定する。すなわち、自らの観念論的欠陥を歴史の原則にまで高める。この文学的幻影の観念は、気まぐれな、時には鮮やかな色彩でもって実生活の芸術的反映と幻視者の幻想とをないまぜにし、発展への生きた志向を死せる過去の感傷とないまぜにする。それは、政治的イデオロギーと絡み合い、そうすることで政治的諸利害の階級的背景をおおい隠した。文学と政治とのこの混合物はナロードニキ主義の形をとってあらゆる党派に広くゆき渡り、しかも、ここでも社会民主党を別にすれば、政治的に急進的な傾向をもっていればいるほど文学的要素が優越しているのである。

 西ヨーロッパにおける政治的急進主義は、周知のように、主として小ブルジョアジーに依拠していた。彼らは手工業者であり、一般にブルジョアジーの中で、工業の発展に捉えられつつも、同時に資本家階級によって脇へ押しのけられた部分の全体であった。忘れてはならないのは、西ヨーロッパでは、手工業者たちが都市をつくり出したこと、都市が彼らの政治的優位性のもとで大いに繁栄したこと、そして手工業の親方たちが数世紀にわたってヨーロッパ文化に自らの刻印を捺したことである。たしかに、議会体制が導入される頃になると、親方たちの力はもう失われていたが、しかし多数の都市の存在、その中での中産身分の数的優位性という事実そのものがすでに、政治的な重要性を有していたし、それは発展しつつあるプロレタリアートによってのみ争われうるような優位性であった。この社会階層が資本主義の階級対立の中に溶解するにつれて、労働者の側について社会主義的になるか、それとも資本主義的ブルジョアジーの側について反動的になるか、という一つの課題が民主主義的諸党派の前に提起されるようになったのである。

 それに対して、ロシアでは、前資本主義期に、都市はヨーロッパ流というよりも、中国流に発達した。それは政治的重要性をほとんど持たず、純粋に官僚的な性格を帯びた行政的中心であり、経済面では、都市の周囲にいる地主や農民のための商業市場であった。都市の発展が資本主義的過程によって中断されたとき、その発展水準まだまったく取るに足りないものだった。資本主義は大都市を自らの姿に似せて、すなわち工場都市と世界商業の中心地として創出しはじめた。その結果、ロシアには、資本主義的ブルジョアジーはいるが、西欧の政治的民主主義の源泉および基盤であったところの中間的ブルジョアジーがいないという事態が生じた。今日の資本主義的ブルジョアジーの中間層は、ヨーロッパ全体と同じくロシアにおいても、医師や弁護士、著述家などのいわゆる自由業者、すなわち生産関係の外に立つ社会階層と、さらに資本主義的商工業およびそれに隣接する保険会社や銀行のような産業部門の技術職員や商業スタッフなどから成っている。これらの雑多な諸分子は、独自の階級的綱領を持つことができず、そのために彼らの政治的共感や反感は、革命的プロレタリアートと資本主義的保守主義のあいだをたえず動揺している。ロシアでは、もう一つ、雑階級分子をつけ加えねばならない。それは、資本主義的発展過程を受け入れることができなかった、農奴解放以前のロシアの階級的・身分的残存物である。

 ヨーロッパ中世の歴史的学校を通過せず、経済的紐帯も、過去の伝統も、未来への理想も持っていないこの都市住民に、ロシアの政治的急進主義は立脚することになる。それゆえ、それが別の基盤を探し求めたとしても何ら驚くにはあたらない。一方の極として、それは農民に与しようとする。そこでは、ロシア・ナロードニキ主義の文学的性格が最もよく現われている。彼らは、階級的な政治綱領を練り上げる代わりに勤労と困窮を文学的に神聖視する。他方の極では、ロシアの政治的急進主義は工場労働者に基盤を求めようとする。

 以上のような状況のもとで、ロシアの革命は反政府的諸潮流の接近と結合という作業を遂行している。多様な諸分子のこうした結合にこそ、専制の打倒にいたるまでの革命の力があるが、それと同時に専制の打倒以後の革命の弱さもまたこの点にある。これらの諸勢力の共同の闘争がその矛先を向けていた政府が打倒されるやいなや、革命によって結合されていた政治的諸潮流の利害の相違と対立が姿を現わし、革命の軍勢は解体して相互に敵対する諸部分に分解する。社会が諸階級に分裂しているかぎり、今日までのあらゆる革命の歴史的運命はそのようなものであったし、それ以外の政治革命はありえないのである。

 この内部闘争は、1848年革命においてすでに、革命の政治的力を完全に麻痺させるほど強力で、反動と反革命を可能にしたことを、われわれは知っている。それは、フランスでは、ブルジョアジーがさっきまでいっしょに革命闘争を遂行していた労働者に血の制裁を加えるという事態にまでいたった。

 ロシアの資本主義ブルジョアジーは、専制打倒後、西欧の1848年革命のときに劣らぬ速さでプロレタリアートから離れるだろうが、革命的な変革の過程は長引くだろう。それは、革命が解決しなければならない政治的課題の複雑さによって規定されている。なぜなら、問題となっているのは単に政治体制を変えることだけではなく、もっぱら専制を養ってきた官僚的・警察的システムに代わって、近代工業諸国の複雑な生活全体を包括する国家組織をはじめて創出することだからである。それはまた、ロシアにおける農業関係の複雑さによっても規定されているし、さらには、先に特徴づけた国内の非プロレタリア的政治潮流の無定形さ、社会的な非凝集性によっても規定されている。

 では、ロシアにおける革命のこうした客観的諸条件のもとでの社会民主党の任務はいったい何であろうか?

 社会民主党は、革命の出発点たる専制の打倒のみならず、そのさらなる発展の全体を考慮に入れなければならない。

 社会民主党は、自己の戦術を一時の政治情勢に合わせることはできない。それは継続的な革命の発展に向けて準備しなければならない。

 社会民主党は、専制を打倒することができるだけでなく革命の発展の先頭に立つこともできるような政治勢力を準備しなければならない。

 その手中にあってこのような勢力となりうるのは、独自な階級として組織されたプロレタリアートのみである。

 社会民主党は、プロレタリアートを全人民・社会の革命運動の中心およびその先頭に導きつつ、同時にプロレタリアートを、専制打倒に続く内乱に向けて準備させなければならない。地主的・ブルジョア的自由主義の側からの攻撃、および政治的急進派や民主主義派の側からの裏切りに対して準備させなければならない。

 労働者階級は、革命と専制の打倒とがけっして同一ではないこと、革命的な変革を成し遂げるためには、まず専制に対して、次いでブルジョアジーに対して、闘争しなければならないことを知らなければならない。

 プロレタリアートが自己の政治的独自性を自覚することよりもずっと重要なことは、その組織の独立性を保つことであり、他のあらゆる政治的潮流から実際に分離することである。国内の革命的諸勢力を一つにまとめることの必要性についてわれわれに語る者がいるが、プロレタリアートの革命的エネルギーを分散させないよう配慮することのほうが、われわれにとってはより重要である。

 したがって、プロレタリアートの組織と政策の独立性は、革命前にも革命期にも革命後にもけっして停止されない階級闘争の利益のためばかりでなく、革命的な変革そのものの利益のためにも必要である。

 とはいえ、このことは、プロレタリアートが政治的に孤立したり、他の諸党派の政治闘争を無視することを意味するものであってはならない。

 必要なのは、政治情勢をその複雑な全体性においてとらえることであって、戦術的諸問題の解決を容易にするために情勢を単純化することではない。自由主義派とともにとか、あるいは自由主義派と対立して、などと語るのは簡単だ! それは非常に単純だが、同時に非常に一面的で、それゆえに誤った問題解決である。すべての革命的および反政府的諸潮流を利用しなければならないが、しかし同時に、自らの政治的独立性を確保しなければならない。それは、簡潔に表現すれば、その時々の同盟者との共同闘争を行なう場合の次のような諸事項に帰着する。

 1、組繊を混同するな。別箇に進んで、ともに撃て。

 2、自己の政治的要求を放棄するな。

 3、諸利害の相違を隠すな。

 4、自己の同盟者を、敵に対すると同様に注視せよ。

 5、同盟者を確保することよりも、むしろ闘争が作り出した状況を利用することに留意せよ。

 したがって、何よりもまず、プロレタリアートの革命的カードルを組織せよ。革命の足をひっぱる政治的底荷(バラスト)を除去するために、この力を利用せよ。この底荷とは、私が理解するところでは、専制打倒までプロレタリアートといっしょに進むものの、打倒後は、その明確な敵対性、政治的中途半端さや不決断によって、政治的な変革を先に延ばし、弱め、歪めるような社会階層と諸政党の影響力のことである。政治的民主主義と急進主義のすべての潮流を前方へ駆り立てよ。

 民主主義派を前へ駆り立てるということは、彼らを批判することを意味する。しかし奇妙な頭の持ち主には、それは愛玩用の小犬を砂糖で釣るように、甘言で彼らを誘惑することを意味するようだ。民主主義派はいつも中途で立ちどまる用意をしているのであって、たとえわれわれが彼らのたどってきた道程の一つ一つを賞賛したとしても、彼らはやはり立ちどまるであろう。

 口先の批判では不十分であり、政治的圧力が必要である。だがこのことは、またしてもわれわれをプロレタリアートの革命党に導く。

 ロシア・プロレタリアートの階級闘争は、絶対主義のもとですでに明確な姿を現わした。小ブルジョア的民主主義派の発展を妨げた諸事情は、逆にロシアにおけるプロレタリアートの階級的意識性にとって有利に作用した。すなわち、手工業的な生産形態の発展が弱かったことがそれである。それゆえプロレタリアートはただちに工場に集中されることになった。経済的支配は、生産とは無縁な資本家というその最も完成された形態をとってプロレタリアートの前に立ち現われ、国家権力は、もっぱら軍事力だけに依拠する専制というその最も中央集権的な形態をとって立ち現われることになった。さらに社会民主党はすみやかに西欧社会主義の歴史的経験をロシアに持ち込んだ。

 ロシアのプロレタリアートは、この三重の学校を通過したことが無駄ではなかったことを示した。彼らは独立した革命政策の道程を確固たる足どりで歩んだ。彼らはロシア革命をつくり出し、自己の周囲に人民と社会を団結させた。しかし、自らの固有の階級的利害を一般的な革命運動に溶解させはしなかった。彼らは労働者民主主義の政治綱領を掲げた。彼らは自らの階級闘争の利益のために政治的自由を要求しており、市民的諸権利と並んで労働立法を要求している。

 われわれの課題は今や、8時問労働制を、議会の予算審議権と同じような、革命的変革の基準にすることである。

 しかしわれわれは、革命の政治綱領にプロレタリア的性格を与えなければならないだけでなく、どんな場合でも事態の革命的歩みから立ち遅れてはならない。

 革命的プロレタリアートを他の政治諸潮流から区別してその独自性を保ちたいと望むならば、われわれは思想的に革命運動の先頭に立ち、誰よりも革命的にならなければならない。もしわれわれが革命の発展から立ち遅れるならば、プロレタリアートは――まさにそれ自身の革命性ゆえに――、われわれの組織をすり抜けて、革命の自然発生的過程に溶解してしまうだろう。

 必要なのは革命的イニシアチブの戦術である。

 ロシア大革命の第一幕は終わった。それは政治の中心にプロレタリアートを据え、その周囲に社会のすべての自由主義的および民主主義的諸階層を糾合した。それは、プロレタリアートの革命的結集、およびその周囲への国内の反政府勢力全体の結集という二重の過程である。政府が譲歩しなければ、この革命的過程は幾何級数的に発展するだろう。プロレタリアートはますます結束を固め、ますます革命的意識をわがものとしていくだろう。われわれのなすべきは、このことをプロレタリアートの革命的組織化のために利用することである。自由主義勢力がこの発展についていくことができるのか、それとも成長しつつあるプロレタリアートの革命的力量におびえてしまうのか、これはまだ疑問形のままに残されている。だが間違いないのは、彼らがあちらこちらへとふらふらすることである。革命に対する恐怖から政府の方を向き、政府から平手打ちをくらって革命派の方に逃げ込むというように。民主主義的分子は労働者の側にとどまるであろう。しかし、すでに述べたように、彼らはロシアではきわめて脆弱である。農民はずっと大きな集団をなして運動に引き込まれるであろう。しかし、彼らにできるのは、国内の政治的無政府状態を拡大し、そうして政府を弱めることだけであって、結束した革命的軍勢を構成することはできない。それゆえ、革命の発展とともに、政治的活動のますます大きな部分がプロレタリアートにかかってくるだろう。それと同時に、その政治的自覚は高まり、その政治的エネルギーは増大するだろう。

 ロシア・プロレタリアートは今日、他の諸国民が革命的決起の際に発揮したすべてのエネルギーを凌駕する革命的力をすでに発揮した。人民が全国でこれほど大規模に決起したことは偶然ではない。ドイツとフランスの人民は、はるかに少ない犠牲で自由を獲ち取った。ツァーリ政府の抵抗は、それが自由にしうる軍事力のおかげで、はるかに頑強である。しかしこの抵抗は、プロレタリアートの革命的エネルギーをいっそう大きくを発展させるだけであろう。ロシア・プロレタリアートがついに専制を打倒したあかつきには、彼らは革命闘争の中で鍛え抜かれた軍勢となっているだろうし、断固たる決意をもって、つねに自己の政治的要求を実力で実現しようとするだろう。

 フランス・プロレタリアートは、すでに1848年に、自らの代表者たちを臨時政府に参加させることができた。革命政府は、労働者の支持なしには存在しえず、それゆえ、労働者の国家的後見人になるという喜劇的役割を演じた。

 今日すでに、革命の政治綱領に独自のプロレタリア的要求を持ち込んでいるロシアの労働者は、革命のあかつきには、はるかに強力になっているであろうし、いずれにせよ、1848年のフランス労働者に負けぬ階級意識を示すことだろう。彼らは、疑いもなく、自らの代表者を革命政府に任命するであろう。社会民主党は、臨時政府に対する責任を引き受けるか、それとも労働者の運動から離れるか、というジレンマの前に立たされるであろう。社会民主党がどのように振舞おうと、労働者はこの政府を自分たちの政府とみなすだろう。革命闘争によってこの政府を創出し、国の中心的な革命勢力にとどまることによって、労働者は、実際には、投票用紙によるよりもはるかに確実に政府をわがものとするだろう。

 ロシアにおいて革命的変革をなし遂げることができるのは労働者だけである。ロシアの革命的臨時政府は労働者民主主義の政府になるだろう。社会民主党がロシア・プロレタリアートの革命運動の先頭に立つならば、この政府は社会民主主義的な政府となるだろう。社会民主党がその革命指導においてプロレタリアートから離れるならば、それは取るに足らないセクトと化すだろう。

 社会民主主義的臨時政府は、ロシアで社会主義的な変革をなし遂げることはできないだろうが、専制の崩壊と民主共和制の樹立の過程そのものがすでに、政治的仕事にとっての有利な基盤をこの政府に与えるだろう。

 われわれはみな、西欧において社会民主党の個々の代表者がブルジョア政府に参加することに反対して闘ってきたが、それは、社会民主党の大臣は社会革命以外には何もすべきではないということを根拠にしていたのではなくて、政府内で少数派としてとどまるかぎり、そして国内に十分強力な政治的支持がないかぎり、彼はそもそも何もすることができないのであって、われわれの批判を回避する避雷針として資本主義政府に奉仕するだけである、ということを根拠にしてきたのだ。

 しかし、ロシアの社会民主主義的臨時政府は、これとはまったく異なった立場に置かれる。それは、政府の権力が非常に大きくなる革命の時点で形成され、社会民主主義的多数派をもつ全一的な政府となるだろう。そしてその背後にいるのは、政治的変革をなし遂げ、歴史上類例を見ないような政治的エネルギーを発揮した革命的労働者軍である。そしてこの政府の前には、革命闘争に向けてロシアの全人民を団結させるという政治的課題が提起されている。社会民主主義的臨時政府は、もちろん他の誰よりも徹底的にこの仕事を遂行するであろう。

 ツァーリ政府が近い将来に譲歩したとしても、そのことによって、もちろん政治的困難は解決しないばかりか、状況はいっそう錯綜としたものにさえなるだろう。革命的な発展のもとでさえ長期の時間を要するロシアの政治的再建の過程は、進歩的発展を一歩ごとに妨害する政府が国家権力の頂点に残っているかぎり、当然、はるかに長引くものとなる。それとともに、革命によって中断されていた諸政党の形成過程は、はるかに力強く再開されるだろう。しかし、政治的イデオロギーのばら色の霧の中から、それぞれの階級的諸利害にもとづいた諸政党が登場してくるまで、そしてそれらの党が、それぞれの政治的相互関係や、それ自身あちらこちらへと大きく揺れる政府に対する関係を明確に理解するにいたるまで、国はたえざる激動の中にあるだろう。しかも、政治的権利、とりわけ議会の権利の拡大をめざす闘争がたえず行なわれることになるのだからなおさらである。それは長期にわたる政治的動乱であり、その中で最終的な決定因となるのは――必ずしも最初の起動要因であるわけではないが――「力」であろう。政府の側の軍事的力と人民の側の革命的力がそれである。

 したがって、その場合にも、プロレタリアートには積極的な政治的役割がある。プロレタリアートは、その際に自らの政治的独立性を堅持するならば、かなりの政治的成果を収めることができるだろう。

 現在すでに、2つの異なった陣営が懸命に労働者のご機嫌とりをはじめている。ツァーリ政府は労働立法の拡大を約束している。また、自由主義系の新聞や半自由主義系の新聞さえも、労働者の困窮、労働連動、社会主義についての論文で紙面を埋めている。どちらの事実も、プロレタリアートの革命的エネルギーに対して政府とブルジョアジーがどれほどの恐怖と敬意を抱いているかを示しているという一点からしてすでに、注目に値する。

 こうした状況のもとでの社会民主党の戦術は、次の点に帰着する。事態をいっそう革命的なものにすること、政治的衝突を拡大し、それを利用するよう努めること、政府を打倒し、そうすることによって革命の発展に広大な可能性を開くこと。

 今後の政治的発展がどのようなものであれ、いずれにせよわれわれは他のすべての政治的潮流から自己を区別しなければならない。革命はさしあたりは政治的相違を払拭している。それだけに、歴史的な1月9日の日曜日以前に諸党派の政治的戦術がどのように展開されてきたかを確認することはますます重要である。同志トロツキーの小冊子から、自由主義派と民主主義派がいかに無気力で不決断な仕方で政治闘争を行なってきたかを知ることができる。それは、上からの改革を遂行するために政府に圧力をかけることに完全に帰着する。彼らは他のいかなる可能性も認めず、他のいかなる展望も見ようとしなかった。そして、政府が彼らの助言や嘆願や要求を考慮するのを断固として拒否するやいなや、人民から隔絶している彼らはたちまち行き詰まってしまった。彼らは無力であり、彼らには反動政府に対置すべきものが何もないことが明らかになった。他方、ロシアの労働者の政治闘争がいかに発展してきたか、それがいかにますます拡大し、ますます大きな革命的エネルギーに満たされているかをこの小冊子から知ることができる。この小冊子は1月9日以前に執筆されたが、その中で述べられているロシア・プロレタリアートの革命闘争の発展は、その後の事態がわれわれを感嘆させるほど巨大なものになったとしてももはや驚くに値しないほどの水準にまで至った。プロレタリアートは、革命を生み出したことによって、自由主義派と民主主義派を袋小路から解放した。今では、彼らは労働者にくっついて、新しい闘争方法を見出し、それとともに新しい手段をとり始めている。プロレタリアートの革命的攻勢のみが、他の社会的階層を革命化したのだ。

 ロシア・プロレタリアートは革命を開始した。革命の発展と成功は、ひとえにプロレタリアートにかかっている。

ミュンヘン、1905年1月18日(31日)

パルヴス

『ニューズレター』第42号より

 

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