ベイリス事件

トロツキー/訳 志田昇

【解説】本稿は、1911年に起こり世界的に有名になった帝政ロシアの反ユダヤ主義事件、ベイリス事件を総括した論文である。(右下の写真はベイリスとその家族。左から2番目の人物がメンデル・ベイリス)

ベイリス一家(逮捕前)

 1911年3月11日にウクライナの13歳の少年が殺され、8日後に洞窟の中で切り刻まれた死体が発見された。その数ヵ月後の7月21日、まったく無関係のユダヤ人レンガ職人のメンデル・ベイリスが犯人として逮捕され、2年間もそのまま投獄された。被害者の少年は、ユダヤ教の儀式のために残酷に殺されたのだというでっち上げが反ユダヤ主義者らによってなされ、この事件を契機に全国の黒百人組的組織や反ユダヤ主義的メディアはいっせいにユダヤ人の恐怖を煽った。この事件の裁判は1913年の9月25日になってからようやく始まった。検察側は、ベイリスを犯人に仕立てるためにでっち上げや証拠の隠蔽やあらゆる卑劣行為を行なった。しかしそうしたいっさいの努力にもかかわらず、ベイリスを有罪とすることができず、帝政政府の面目を完全につぶす結果となった。それどころか、この事件は帝政政府の犯罪性と道徳的破産ぶりをロシア国内ばかりでなく世界的にも赤裸々に暴露するとともに、労働者を中心とした反政府運動が全国に燃え上がるための重要なきっかけにさえなった。

 本稿は当初、ドイツ社会民主党の理論誌『ノイエ・ツァイト』にドイツ語で掲載され、10月革命後、ロシア語版『トロツキー著作集』第4巻『政治的年代録』にロシア語で再録された。翻訳はこのロシア語版によっている。本翻訳は最初『トロツキー研究』第30号に訳出したものであるが、今回アップするにあたって、いくつかの訳注を追加した。

 Л.Троцкий, Под знаком дела бейлиса, Сочинения, Том.4−Политическая хроника, Мос-Лен., 1926.


 [1913年]11月10日に終わったキエフのベイリス裁判は、その発端が取るにたりないものであったにもかかわらず、国民の意識に長く刻み込まれ、しばしば政治生活の2つの時期を画するような歴史的事件と化した数少ない訴訟の一つである。

黒百人組のビラ

 あらゆる社会的・民族的矛盾と異常な文化的対照性をかかえた、あるがままのロシア全体は、この情熱的闘争のなかに自分が直接的または間接的に反映されていることに気づいた。この闘争のきっかけとなったのは浮浪少年[アンドレイ・ユシチンスキー]の切り刻まれた死体であり、闘争の賭け金は無名のユダヤ人労働者の運命であった[右の写真は、殺された少年の写真を利用して反ユダヤ主義を煽る黒百人組のビラ]

 ユダヤ人を迫害する裁判の陰の演出者たちが、魔女が悪魔の夜会へでかけた時代から引き継がれた非常識な告発を20世紀にあえて行なったのは、もっぱら、自分の背後に強力な支えの存在が感じられたからにすぎない。というのは、ニコライ皇帝は、馬泥棒から宮廷で奇跡を行なう聖者に転職した怪しげなペテン師[ラスプーチン]の保護から抜けることができず、何とかして殺人事件の真相がユダヤ教の儀式である証拠を手に入れようとしたからである。ニコライの大臣たちの中には、新聞がほめのかしているように、ロシア当局が世界に恥をさらすのに反対した者もいた。たとえば、ココヴツォフ氏(1)は、明らかに、ロスチャイルドの目にどう映るだろうかと思って心配した。だが、例によって、優位を占めたのは、大臣連の中で最も奴隷的で恥ずべき連中であった。かつて「自由主義的」な判事の誇りであった法務大臣のシチェグロヴィトフ(2)が、ユダヤ教儀式を告発する裁判を組織し、皇帝が望むような有罪判決をもたらすという任務を引き受けた。

 国家権力はすべての力を動員した。事態の成り行きによってユダヤ教儀式の摘発という筋書きから離れてしまった刑事や裁判所の取調官たちは、他の人間に替えられ、最も頑固な人物は裁判にかけられた。地方の行政機関や一般に捜査に関わりのある者はすべて警察的迫害によって脅され、鑑定人は偏執狂や札つきのペテン師の中から選ばれた。反政府新聞はこれまでの10倍もの弾圧によって脅され、陪審員の構成は歪められた。

 しかし、反撃も予想外の規模のものであった。この儀式裁判の悲喜劇の発端は、1911年初頭の沈滞期に当たっていた。当時、政治的活性化の動きはほとんど認められず、潜在的なものにとどまっていた。他方で、反動派はすでにその内的な資源を使い果たし、いっそうの業績を成し遂げるために外からの刺激を探し始めていた。しかし、この企て全体――少なくとも、ベイリス事件と結びついた部分――の大詰めは、発端からほぼ3年も先に伸ばされ、都市における嵐のような不満の高まり――大衆的政治ストライキ、大学の騒動、さまざまな団体の抗議の意思表示、反政府新聞の成長、労働者新聞の重要な役割――の時期に重なった。戦闘的な反動派によって日程にのせられた問題――映画と飛行機の時代にユダヤ人がキリスト教徒の血を要求しているなどという問題、すなわち、その異常さによって最も無知な農村の大衆を当てにした問題――それ自体は都市においては、怒りと激しい羞恥の感情を引き起こすことができただけである。最も穏健な人々でさえ、反動派の犯罪的な見境のなさに驚いた。反動派は時代の状況を判断する能力を完全に失ってしまったのである。上流の人たちの間で有力な『ノーヴォエ・ブレミャー(新時代)』紙――これは、明らかにこのあまり清潔ではない地球上で最も卑劣な新聞である――を除けば、十紙に満たない小部数のポグロム的な新聞が、ユダヤ教儀式糾弾というスローガンを採用したにすぎない。キエフの民族主義派の指導的な機関紙である『キエフリャーニン』は、主として南西地方に読者をもっているが、事前に儀式糾弾の泥舟を放棄した。残りの新聞全体が、中世的裁判の提唱者に反対して、世論を動員することに熱心に取り組んでいた。

盗賊団の親玉ヴェーラ・チェヴィリャーク

 だが、儀式糾弾派の一派は、少年を殺した犯人であるキエフの泥棒たちから始まって、警察や裁判所当局を含み、その頂点には全ロシアの皇帝を戴いていたので、血まみれの中傷に反対するアジテーションは自由主義的な政治家や編集部の意志とは独立に、明らかに革命的な反君主制的性格を帯びていた。このことを最もよく心得ていたのは警察であった。警察は、チェヴィリャーク(3) [左の写真]の盗賊団を暴露した諸新聞に対し非常に熱心に罰金を課したり、それを没収したりした。まるで、皇帝陛下を直接に中傷でもしたかのような扱いであった。裁判中およびそれと関連して66件の新聞弾圧があった。総額1万400ルーブルにのぼる罰金が合計34回も課せられ、30回にわたる新聞没収があり、4件で編集者が逮捕され、2つの新聞が裁判が終わるまで発行禁止になった。

 説明するまでもないことだが、一番ひどく迫害されたのは、労働者新聞であった。新聞の煽動は、最もよく知られた社会活動家および文筆家の共同アピールや学会および自由主義的な専門職団体の決議によって補完された。組織的な裁判のでっち上げに対する大衆的な労働者ストライキは、怒りを表す最も強烈な意思表示であり、反ユダヤ主義十字軍の「人民的」性格に関する作り話に根本的な打撃を与えた。

 かくして、ベイリス事件がさまざまな段階を経過するにつれて、この事件からあらゆる方面に糸がのびていった。ペテルブルグの宮廷貴族のサロンと革命的な労働者街へ、自由主義的な編集部と修道院へ、盗賊の巣窟と皇帝の宮殿へ。

 一方の側は次のように語った。これこそが、自由主義、民主主義、革命だ。これが強力な国際的な政府を先頭とした秘密のユダヤ・フリーメーソン組織だ。この組織の任務は、キリスト教世界全体を服従させることだ。この目的を果たすために、指導的なユダヤ人はキリスト教徒の子供の血で力をつけているのだ!

 もう一方の側は次のように応酬した。これこそが、ロシアを支配している反動派だ。反動派は、自分たちが生き残るために、都合のいい情勢をつくりだすために、中世の裁判を復活させることを余儀なくされているのだ! 

 こうした、緊迫した政治的情熱と両陣営の全面的な動員という雰囲気においても、もちろん、階級的な輪郭は一瞬たりとも消えなかった。しかし、諸勢力の基本的なグループ分けは、実際にはより初歩的な線に沿ってすすんだ。すなわち、17世紀と20世紀との間に。そして、わがロシアの17世紀は、ヨーロッパ中世の遺産をまねて、全面的に挫折した。裁判という儀式は、とりわけ政治的利害や民族偏見から完全に自由であるという虚構に立脚している。こうした虚構はたいてい、ひどく買収されていればいるほど大げさに強調されるものである。しかし、キエフ裁判の経過において、この厳粛な偽善の痕跡さえ残っていなかった。すべての人にとって明白なように、裁判のメカニズム全体は、貴族的・君主制的な反動とポグロム的排外主義のはずみ車につけられた駆動ベルトの運動に引き込まれていった。

 ロシア全体が裁判の前を通り過ぎた。郊外から来た靴職人、ユダヤ人の資本家、農民の御者、刑事、浮浪児、自由主義的なジャーナリスト、泥棒、ユダヤ人出身のロシア正教の修道士、懲役囚、身持ちの悪い娘、司祭、憲兵隊の将校、指導的な愛国者の役割を演じる破産した質屋の主人、自発的な探偵の役割を演じる元革命家、弁護士側の証人、医者、カトリックの司祭、宗教学校の教授、ユダヤ教のラビ、泥棒と「立派」な人々、学識のある専門家と中傷家、ポグロム的反動派の屑と革命の破片――これらもろもろのものが、主として農民からなる12人の無知な人々の、驚き当惑した視線の前を通り過ぎた。彼らは、中世的裁判のために最も都合のよい陪審員として、法務省によって意識的に偏って選び出された人々であった。

 もちろん、事件の事実的な側面は、新聞の報告の最もあざやかなエピソードで読者によく知られている。われわれは、ここでこうしたバラバラな細かい事実をまとめ、一つの構図を描き出したいと思う。それは、この事件について展開しうるあらゆる政治的な意見よりもはるかに多くのことを、それ自体で語っている。

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 1911年3月20日、キエフ郊外の洞窟の一つで、残酷に傷つけられた少年の死体が発見された。捜査によってこの犯罪について何事かが確かめられる以前にすでに、少年の母親は、どこかの旅先から匿名の手紙を受け取った。その手紙は、彼女の息子が儀式のためにユダヤ人によって殺されたと知らせるものであった。解剖を行なった町の医者は、まだ解剖を行なう前に、町の郵便局を通じて匿名の手紙を受け取った。それは、ユシチンスキーがユダヤ人の狂信の犠牲となったということを知らせるものであった。少年の葬式のとき、墓地でユシチンスキーの死に対してユダヤ人に復讐するようキリスト教徒に呼びかけたビラが撒かれた。ビラを撒いた人物はその場で逮捕されたが、この男は警察によく知られた犯罪者で、しかも愛国主義団体「双頭の鷲」(4)の一員であった。この組み合せは、事柄の本性にまったくふさわしいものである。

 この頃、黒百人組の新聞は、まるで合図にしたがったかのように、キエフの犯罪がユダヤ教の儀式によるものであるとわめきはじめた。「統一貴族会議」――反革命のあらゆる手段が例外なくここから出てくる戦闘的な階層組織――は、ユダヤ教儀式の糾弾裁判の論集を出版し、ユダヤ人の法的権利をさらに制限せよと主張した。黒百人組の代議士で元検事であるザムイスロフスキー(5)は、『ユダヤ人に殺された人々』という煽動的パンフレットを出版して、その殺された人々のなかにアンドレイ・ユシチンスキーも入れた。「ロシア国民同盟」[最も代表的な黒百人組組織]は、事件全体に民族的性格を付与しようとして、ロシア正教の聖人の列にアンドレイ・ユシチンスキーも加えるよう宗務院に提案した。この魅力的な提案は残念ながらもみ消されなければならなかった。というのは、実は、ユシチンスキーが、キエフの大聖堂の一つを略奪しようとしていた盗賊団と近い関係にあったという間接的な証言があったからである。

 キエフの刑事警察は、事件の状況にしたがってまったく違った方向で犯罪の捜査していたので、黒百人組の新聞は、捜査当局が世界ユダヤ人会議に買収されているという猛烈な叫び声をあげた。政府は動揺し、陰の一派の明らかに犯罪的な要求に屈服するのをためらった。極右たちは、同じザムイスロフスキーに指導されて、死体が発見されてから6週間後には、国会で質問をし、その中で政府が静観政策を放棄してユダヤ人による血の儀式の陰謀を暴露するよう要求した。よく知られているように、ポグロム的な儀式糾弾派の先頭に立っていたのは、またしてもニコライ2世であった。政府当局は屈服した。与えられた任務を果たすことのできる人間を求めて、裁判所の取調べ担当者は次々に変えられた。

 まず、キエフの刑事部長ミシチュクは、ユシチンスキーから血を抜いたユダヤ教のラビを発見することができなかったので、捜査の仕事を解任され、後に予想外の厳しさで裁判にかけられ、ある文書偽造事件で弾劾された。しかし、この種の犯罪は、一般的にいえば、ロシアの警察官の経歴を満たしているものではあるが、この場合には、どうやらミシチュクはまったく無実だったようである。

 ペテルブルグの刑事クンツェヴィッチは首都警察の誇りであったが、彼もまたユダヤ教の儀式の証拠を見つけるにはまったく向いていないことをすぐに露呈し、彼が犯罪の真犯人にたどりつくおそれが出てくるやいなや罷免された。

ベイリス事件の捜査にあたったニコライ・クラソフスキー

 キエフの愛国主義組織の主張にしたがって、事件は、南部で有名な刑事であるクラソフスキー[右の写真]にゆだねられた。その際、クラソフスキーには、はじめから非常に厳粛な状況のもとで、次のような指示が与えられた。すなわち、前任者たちのたどった誤った道をとらずに、「しかるべき」方向でただちに捜査をするようにという指示である。クラソフスキーのとったあらゆる措置は、ポグロム組織の監督のもとで進められた。この組織の先頭に立っていたのは、真にロシア的なチェコ人であるロズミタリスキーで、彼は破産した質屋の主人であった。ユダヤ教のラビと屠畜業者と近くのレンガ工場のユダヤ人従業員に対する有罪の証拠を見つけるという一連の不毛な試みの後で、クラソフスキーは真犯人である盗賊団にたどり着いた。この盗賊団は、根拠があったにせよなかったにせよ、ユシチンスキーを裏切り者とみなしたのである。

 捜査をやり遂げる前にクビになるのを恐れたクラソフスキーは、自分の非公式の上司であるロズミタリスキーの目をそらそうとして、近いうちにユダヤ教の儀式を摘発できると思うと請け合った。そのとき、事件に何も関係もなかった憲兵隊が、クラソフスキーの捜査過程を無視して、レンガ工場の従業員ベイリスを特別治安条項[革命運動を取り締まるために制定された弾圧立法]にしたがって逮捕した。すなわち、ベイリスは、ロシアにおいては、憲兵の見地から見てさえ有罪証拠がなくても政治犯を逮捕できるという条項にしたがって逮捕されたのである。死体の発見された場所の一番近くに住むユダヤ人であるベイリスが逮捕されたことは、結局、あらゆる階層の儀式糾弾派に、あらゆる必要なニセの証拠を集中するための望ましい中心軸を与えた。

 クラソフスキーの捜査活動は、明らかにユダヤ教儀式のでっち上げにとって脅威となるものであったので、前任者たちと同様に、クラソフスキーは解任された。その後、彼は、自分の名誉回復のために、個人として捜査を続けると表明したとき、その全経歴のなかで彼が行なった(あるいは行なわなった)犯罪を理由に裁判にかけられた。その犯罪の中には、10年前に彼が行なったらしい文書偽造事件も含まれていた。クラソフスキーは逮捕されたが、裁判所は彼を無罪とした。こうしたすべてのスキャンダルを何とか隠すために、黒百人組の新聞は、ロシアの捜査官はみな世界ユダヤ人会議によって系統的に買収され堕落している、とわめいた。しかし、指導的な影の一派は、行動の遅さと優柔不断さに不満であった。1911年11月に、影の一派は、国会で2回目の質問を行ない、法務大臣から精力的な措置をとるという約束を得た。

 裁判所の取調官で捜査を指導したフェネンコは、他の人に代えられた。彼の代わりにペテルブルグから派遣されたのは、特別に重要な事件を担当する取調官であるマシケヴィッチであった。この男は、前任者たちの運命を十分によく知っており、右往左往せずにまっすぐ秘密の目標へ向かって進んだ。ベイリスに取調べのテコをすえて、ユダヤ教儀式に関するあらゆるデマや嘘の証言やでっち上げを機械的に一つに集めた。これらのものは、すべての前任の捜査官によって役立たないとみなされて投げ捨てられたものであった。マシケヴィッチが心配していたのは、「科学的」鑑定の形を整えることができるかどうかだけであった。長い探求と一連の失敗の後で、彼が自分の目標のために見いだしたのは、もうろくした精神科医シコルスキーとカトリックの神父プラナイティスであった。プラナイティスは学識あるユスリ屋として、かつて宗教アカデミーの教授をやめ、神に仕えるため中央アジアに去ることを余儀なくされた人物である。

 この時から問題は完全に軌道に乗った。ユダヤ教儀式の鑑定がなされ、10冊の捜査資料が積み上げられた。これだけの捜査資料があれば、陪審員を呆然とさせることができる。何よりも、鼻が曲がって、アゴ髭の黒い、生身のユダヤ人がいる。このユダヤ人を被告人席に座らせ、かくして、裁判をつくり出すことができる。こうしたベイリス裁判の準備の過程には、ちょうど種のなかに未来の木があるように、すでに、キエフの裁判の手法全体が含まれていた。しかしながら、目標にいたる途上で恐るべき危険として立ちはだかったのは、将来の陪審員であった。しかし、これにも解決策が見つかった。事件の最も重要な演出者であるザムイスロフスキーは、ロシアの反革命舞台における最も買収されやすい人物であるが、司法当局に、都市住民は陪審員としてはまったく当てにできない連中であるということを執拗に指摘した。そして、彼は複雑な医学的・歴史的鑑定やユダヤ教儀式やタルムードに関する鑑定が控えているベイリス事件のために、キエフの裁判史上まったく前代未聞の構成の陪審員を選び出すことに成功した。これらの陪審員は、小役人の指導のもとに、無知で反ユダヤ人のデマゴギーに感染したキエフ県の農民から選ばれた。裁判の全期間をつうじて、この小役人は検察に役立つ用意があることを表明した。検察官としてペテルブルグから派遣されたのは、若い検事のヴィッペルであった。彼は真にロシア的なドイツ人であり、バルト海沿岸地方ドイツ人に典型的な最も低劣な人物の1人であり、出世欲にすっかり支配されていた。

 バルト海沿岸地方のドイツ系男爵たちは、ツァーリズムに対する卑屈さとラトビア人に対する軽蔑との中で育てられ、周知のようにロシアの外交や検察や憲兵隊の中で大きな役割を演じ、官僚的ニヒリズムの最も純粋な文化を提供していた。このニヒリズムには、民族性もなければ、もとからの住民との封建的な結びつきさえなく、良心も名誉もなかった。とはいえ、公式の検事[ヴィッペル]の悪意は、彼のそれ以上に乏しい知的資源と釣りあっていなかったので、彼は裁判の全期間にわたってザムイスロフスキーの言いなりになった。ザムイスロフスキーは、この裁判の原告側として指導的な地位を占めていた。2番目に重要な原告として登場したのは、弁護士シマコフであった。彼は尊敬すべきユダヤ教学者で、とりわけ、自分の研究において、美女ヘレネを誘拐したパリスを、不道徳のゆえに、ユダヤ人の1人に数えたことで有名であった。ヴィッペルにふさわしいパートナーとなったのは、真にロシア的な精神と象徴的な名前を持つもう1人のドイツ人でキエフ総督づきの特殊任務をもつ官吏であるメルデル[「メルデル」はドイツ語で「殺人」の意味]であった。彼は証人をよそおって、意味ありげなほのめかしによって、陪審員に、ユシチンスキーの血は当時建設中だった礼拝堂を清めるために、ユダヤ人に必要だったのだという考えをふきこもうとした。

 1ヵ月以上続いた裁判全体が、幸いにもキエフの新聞の速記報告の中に、この時代の恐るべき文化史的記念碑として記録された。裁判長は恥知らずな偏見を持っていた。被告人の自由主義的な弁護人は、黒百人組ではないかと思われる陪審員をいらだたせるのを避けようとして、しばしば驚くほどの優柔不断さと曖昧さを示していた。にもかかわらず、キエフの裁判は、警察・行政・裁判所の類例のない陰謀の真に驚くべき姿を暴露した。ポグロム的・反ユダヤ主義的デマゴギーのために、この制服を着たならず者の一派は、力をあわせて、たまたま巻きこまれたユダヤ人労働者の血を裁判という儀式のために使おうと決めた。このユダヤ人労働者の全生涯は、誠実な労働と無権利状態とから成っていた。

 ベイリス事件はしばしばドレフュス事件と比較される。このよく知られたアナロジーを否定することはできないが、両者の間の違いも明白である。これはちょうど、フランスのサロン的で偽善的な反ユダヤ主義とロシアのポグロム的で犯罪的な黒百人組との間に違いがあるようなものであり、また、神も悪魔も信じない教養ある冷笑家のポアンカレと、今でもまだ魔女が煙突から出て箒に乗って夜ごとに空を飛ぶと信じているニコライ帝との間に違いがあるのと同じである。

 将校のドレフュスは軍事機密漏洩の罪で起訴された。起訴された罪を構成するものそのものには、何も異常なものはなかった。異常なのは、起訴事実がまったく虚偽であったことである。しかし、宗教教義にはあまり興味はないが、全面的に無権利状態にあり、キエフのポグロムという学校を通り抜けてきた平凡なユダヤ人労働者のベイリスは、突然、妻や子供から切り離され、おまえは生きた子供から血をすべて抜き取り、あれこれの仕方でそれをエホバの神のために使用しただろうと言われたのである。26ヵ月間も投獄されていたこの不幸な人物の気持ちを一瞬でも想像するなら、身の毛のよだつ思いをすることは間違いない!

 被告人を有罪にする証拠がまったくなかったので、検察側と、検察にいつでも何でも迎合した裁判官の課題は、キエフの陪審員に、ユダヤ人であるベイリスに対する憎しみをあおることであった。あらゆる迷信と偏見が動員された。裁判所にユダヤ出身の無学な70歳の修道士が呼び出された。この修道士に、ザムイスロフスキーは、ユダヤ人に殺された聖ガブリールの不滅の力に対するユダヤ人の侮辱を自分の目で見たことがあるかどうかと質問した。この質問の際に、検事ヴィッペルは、くやしさのあまり自分の唇をかんだにちがいない。というのは、ルター派である彼は、このようなはかない物質的な証拠を不滅の力であるかのように扱うことはできなかったからである。その代わりに、この検事は、聖書とタルムードで埋めあわせをした。学のあるペテン師であるプラナイティスという鑑定家――彼もまた自分の学術的な著作のなかで、ドイツの偽造者ユストゥスとローリングから剽窃していた――を得て、検察は聖書とタルムードに大胆な攻撃をしかけ、あらゆる時代と世紀を一つの山に積み上げ、ベイリスの知的共犯者として、紀元2、3世紀の一連のユダヤ人の神学者だけでなく、アブラハムとヤコブの先祖にも疑いをかけた。聖書のエホバの神は、キリスト教の年代記にしたがえば、イエス・キリストの生みの父とこれまでみなされていたのだが、ルター派の検事によって無礼にも襟首をつかまえられた。しかも、聖書の神のキエフ滞在さえ、第一ギルドの商人である証明書がないので、ユダヤ人の居住権に関するロシアの法律を明白に侵犯するとみなされたろう。

 ベイリスは、首をしゃんと伸ばし憔悴した表情で、法廷をじっと見つめていた。その法廷では、検察側のペテン師と鑑定のペテン師とがいっしょになって3日で有識者委員会を構成し、数時間ものあいだ、タルムードにおいてベイリスのまったく知らない「セイル」という言葉がいかなる意味をもつのかを定義していた。その際、事のいきさつから、もし「セイル」が雄ヤギを意味するにすぎないならば、ベイリスは自分の家族のもとに帰れることになるだろうし、もし3世紀のいくつかのテキストにおいて「セイル」が「ローマ人」をも意味するならば、ベイリスは無期懲役をまぬがれないということになった。そして、すべてこうしたことは、あまり字の読めない12人のおびえきっている人々からなる陪審員の前で繰り広げられたのである。陪審員たちは、聖書の寓意とタルムードの難解な表現との意味を、キエフ郊外の浮浪児の運命との関連で推測しなければならなかった。

 検察は、すべての証人に対して2人の恐るべき「ツァディーク」[ユダヤ教ハシディズムの指導者]であるエッティンゲルとランダウについて、執拗に尋問した。この2人が、ユシチンスキーを殺害するために、ベイリスのもとにやってきたかのように主張された。法廷では、この2つの名前のまわりに神秘的な雲がたちこめた。もっとも、それは、この2人のツァディーク自身が弁護人の要請で外国から到着するまでのことであった。彼らのうちの1人はオーストリアの有名な地主であり、ユダヤ教の儀式よりもウィーンの夜遊びの場の儀式の方にずっと精通していた。パリからやってきたもう1人の方は、いくつかのオペレッタの有名な作者であり、その劇のなかでは、一滴のキリスト教徒の血も流されなかった。もっとも、十戒の7番目の戒律[汝、姦淫するなかれ]に関してははなはだ具合がよくなかったが。2人のツァディークは、最高の仕立て屋がつくった服を身につけて法廷にあらわれた。彼らの1人は、検事が陪審員に不吉そうに指摘したところによれば、化学博士でさえあった。周知のように、有機化学は、敬虔なユダヤ人の日用品のために、キリスト教徒の血を加工し保存する方法について、非常に貴重な指示を与えるというわけである。かくして、裁判という交響楽全体には、苦しく恐ろしい調子とならんで、喜劇的な調子も鳴り響いた。だが、その基調をなしていたのは、見境のない下劣さであった。

 裁判が最高の緊張に達したのは、少年を殺した真犯人である2人のプロの泥棒に尋問がされたときであった。彼らは、自発的に捜査をしていた刑事たちに見つけ出され、今や、被告人席にすわっているベイリスの面前で法廷にたつ尊敬すべき証人として現れた。これは、検察にとって困難な数分間であった。ローマ人を雄ヤギと同一視するタルムード主義者がどんなに犯罪的であろうと、また、ベイリスという人物にこのような状況によって投げかけられた光がどんなに不吉なものであろうと、はっきりしているのは、検察にとって2人の泥棒が法廷にあらわれることがどれほど危険か、ということであった。なにしろ、この2人の泥棒は、他の多くの証拠があるだけでなく、証人2人の前で、殺人の自白をしていたのだから。

 検事は、原告とともに、裁判長と用心深く協力しながら、ユシチンスキーを殺した犯人を弁護した。何がなんでも、自分のアリバイを確立するために、2人の殺人犯自身が取調官に対して、殺人のあった夜には自分たちは光学器具店を襲撃していたかのように述べた(3人目の殺人犯は、ユシチンスキーの事件で逮捕されるかもしれないということが、取調官の言葉から明らかになるやいなや、窓から飛び降りて死んだ)。盗みの自白は、まったく明白な嘘だったので、取調官は自供した泥棒を起訴しさえしなかった。にもかかわらず、検事は、泥棒のアリバイの証明に固執した。弁護人は、店の襲撃が夜の12時に行なわれたのに対して、殺人は朝9時から10時に行なわれたものであり、したがって、アリバイはまったく問題にもならないということに、証人の注意を向けた。3度繰り返されたこの反対尋問は、法廷全体の注意が集中したにもかかわらず、2人の殺人犯は、一言も答えなかった。しかし、そこに、検察側が事態に介入した。もっぱら農民陪審員の知的な鈍さを当てにした粗野な誘導尋問によって、証人たちは本格的で経験のある泥棒であるから、入念な予備調査なしに店で泥棒をすることはできなかったろう(実際には、彼らは盗みをしなかった)という考えを展開した。つまり、彼らは、状況全体や家の習慣をあらじめ研究しなければならず、したがって、(実行されなかった)泥棒をするまでの14時間の間に、少年を殺すという脱線をしている余裕はなかった、というのである。2人の殺人犯には、この意見を一言だけの相槌で確認するしかなかった。混乱と恐怖の数分間が過ぎると、殺人犯たちはまもなく足元にしっかりとした地盤を感じ取った。彼らは、検事と判事が、それ以外の場合には非常に恐ろしい存在だが、今や彼らの直接の共犯者であり、自分たちが、殺人に関してしらを切ることによって重要な国家的義務を果たし、感謝を当てにすることができるということを理解した。この場面は、速記録の報告で読むとき、疑問が次々に生じて、ありそうもないことのように思われる。そして、殺人犯の潔白の証明と無実の人の告発のために行なわれたこの明白な嘘の証言、しかも検事と裁判長に指導された嘘の証言は、全国および全世界の面前で行なわれた。そして、検事の制服を着た大胆なペテン師は、自分の犯した犯罪の責任を恐れていなかったばかりか、反対に、この犯罪の恥知らずで厚かましい性格こそが、法務大臣の感謝に満ちた記憶と宮廷の好意を獲得し、最も確実に自分の出世を保証すると確信していたのである!

 ロシアの裁判の年代記には、数多くの恥ずべきページがあり、反革命の時期は、例外なくロシア司法の堕落の時期である。しかし、1億6千万人の運命を支配している徒党のルンペン的・官僚的な低劣さがこれほどひどく露骨に展開された裁判を、われわれは一つも知らない。裁判記録を読むと、あらゆる気分や考えとならんで、とりわけ生理的嫌悪感が沸いてくる。そして、おそらく、このような感情を引き起こすことができたということにこそ、ベイリス事件の主要な意義があるのであろう。

 この歴史的な数週間に国全体をとらえた緊張を伝えることは難しい。今でもまだロシアは、ベイリス事件の影響のもとにある。反動派の立法活動においてと同様に、事件の中心に立っているのは、労働者階級でも、農民でも、ユダヤ人でもなく、支配階級の「イデオロギー」的な要求のために生きたまま犠牲にされようとしたある特定の生きた人間だった。裁判のこの劇的で個人的な性格そのものが、それにかかわりのあるすべての問題の大衆化を異常に促進した。最も遅れた無関心な人々でさえ心を揺さぶられた。同時に、ベイリスのこの悪夢のようなドラマは、事件が本質的にはベイリスに結びついているだけでなく、それに劣らず他のあらゆることにも結びついていたので、一般的な推進力を、すなわち貴族的・君主制的堕落と官僚的ギャング行為を暴露した。そして、ベイリス事件は、1人の弱く無力なユダヤ人労働者、すなわち無権利状態の極致を体現した人物に対して、強力な国家機構が組織したでっちあげとして現われた。犯罪の異常さは、毎日、事件について読んだり、考えたり、間接的に知ったりしているすべての人々の良心をうずかせた。反政府系新聞の発行部数は、この1ヵ月間に2倍、3倍に増加し、それを読んだり聞いたりする人の数は、おそらく10倍になったろう。何百万人もの人々が、1ヵ月のあいだ毎日熱心に新聞にかじりつき、拳を握り締め、歯ぎしりをしながらそれを読んでいた。政治に無関心な人々は、ちょうど列車事故の時に座席から跳び起きるように、当惑と恐怖のあまり跳び起きた。ロシアの政治制度に反対する意識的な反体制派を自認する人たちは、わが国を支配しているのがこれほどの卑劣漢だとは思いもよらなかったと毎日改めて納得させられたにちがいない。言うまでもないことだが、最も熱心に反応したのは都市労働者である。今年まがい物の300年記念祭を派手に祝った君主制に対する憎しみの中で、プロレタリアの魂をもった何百万もの人が鍛えられた。

 政府は、この事件で、その卑劣さだけでなく、その弱さをも徹底的に暴露した。陪審員はベイリスを無罪と認めた。陰険に定式化された第1の問題に対して、混乱させられた農民たちは、殺人事件の儀式的性格を偽装された形で半ば承認したと解釈しうるような回答を出した。こうした事情は、おそらく、法律文書の偽りのコレクションをときどき補充する必要のある職業的な反ユダヤ主義者にとってしか重要性を持たないであろう。しかし、人為的に選ばれた12人の人たちが1ヵ月も閉じ込められ、でっち上げで混乱させられ、ユダヤ人の暴虐の幻によって理性を麻痺させられ、君主制と教会の権威によって脅されたにもかかわらず、自分たちに課せられた低劣な任務を果たすことができず、ベイリスを家に帰してやったという明白で単純な事実は、人民大衆の意識を物語っている。陪審員はこう言った、「無罪だ」と。つまり、外見上の強さにもかかわらず、ツァーリズムはこの裁判の結果、人民の前に道徳的破産者として現われたのである。

 黒百人組は公然と、また原告は法廷においてすら、次のように脅迫していた。ユダヤ人に対するポグロムが起こるぞ(とくに無罪判決が出た場合には)、と。しかし地方当局は、いかなる「行き過ぎ」も許さないと表明した。そして、ポグロムは実際に起きなかった。政府は裁判で破綻したので、こうすることによって自分の力を示そうと考えたのである。だが実際には反対のことが生じた。ポグロムは政府当局が望むときにしか起こらないということの雄弁な証拠が得られたのである。反ユダヤ主義の自然発生的で克服しがたい性格に関するあらゆる作り話が嘘であるとわかった。政府の背後には、警察の意志とは独立に力を発揮できるような人民大衆は存在しない。だが、政府に反対する側には、そのような大衆が存在する。ポグロムは禁止された。そして、それは起こらなかった。ユダヤ人に対する血なまぐさい中傷に反対する抗議の労働者ストライキは、ありとあらゆる禁止にもかかわらず、全国に広まった。工場の集会、街頭デモ、大学の騒動、新聞のアジテーション、団体や教会の抗議。これらのものはすべて、警察の大量弾圧にもかかわらず、順調に進んだ。道徳的に面目を失墜させた政府は、物理的暴力の組織としても無力であることが明らかになった。反動側の評論家たちは、ますます頻繁に自分の文章の中で1905年の亡霊を呼び出しつつある。

 もちろん、これらすべては、空から降ってきたわけではなく、複雑な分子的過程によって準備されたものである。産業好況の時期は、労働者階級を健康にし、しゃんとさせた。そして、このことはすぐ国全体の政治的気分に反映された。民主主義勢力は再び自信を持つようになった。ベイリス事件は、人民大衆の急速な革命化の過程に外的で劇的な性格を集中して提供したにすぎない。

 ツァーリズムは、自分の歴史的権利を何も放棄することなく、みせかけの立憲制度によって社会発展の新しい要求に適応しようと8年間も努力を積み重ねた挙げ句、犯罪的・ルンペン的な性格が明白な、まったく麻痺した組織として、全国の前に現われた。身分制的・黒百人組的君主制とすべての歴史的に生命力のある社会階級との間の必然的な深淵を明らかにし、この深淵を底まで見る機会を双方に与えたことで、キエフのベイリス裁判は、巨大な政治的な仕事をなしとげ、深い革命的振動の新しい時代の前兆としてロシア史の中に入ったのである。

『ノイエ・ツァイト』

1913年11月

『トロツキー著作集』第4巻『政治的年代録』所収

『トロツキー研究』第30号より

  訳注

(1)ココヴツォフ、ウラジーミル(1853-1943)……ロシアの政治家、官僚。地主出身。1896年に大蔵次官。1904年以降、大蔵大臣で国会議員。ストルイピンが暗殺された1911年に首相に就任。1914年に辞任。

(2)シチェグロヴィトフ、イワン・グリゴリエヴィチ(1861-1918)……帝政ロシアの反動政治家。若い頃は自由主義者の法曹家で、自由主義新聞に寄稿。1906年夏から法務大臣。ストルイピン時代に忠実なストルイピン派として活躍し、札付きの黒百人組的反動政治家となって、ロシア国民同盟の活動を支援。ベイリス事件では何としても有罪の評決を勝ちとるために裁判に介入。1915年夏にスホムリノフに大臣を譲る。1916年国家評議会(参議院)議長になり、2月革命までその地位にとどまる。1918年にモスクワでユダヤ人革命家に殺される。

(3)チェヴィリャーク、ヴェーラ……殺された少年ユシチンスキーの友人の母親で、盗賊団の親玉。

(4)「双頭の鷲」……キエフの右翼の青年学生を中心とした黒百人組組織。

(5)ザムイスロフスキー、ゲオルギー・ゲオルギエヴィチ(1872-1918)……帝政ロシアの反動政治家。1908年から最も凶暴な黒百人組である「ロシア国民同盟」の指導的メンバー。第3国会、第4国会の代議士。国会では最も露骨な帝国主義政策を主張。ベイリス事件では検察側の一人として裁判に参加し、ベイリスをユシチンスキー殺しの犯人に仕立て上げるために策動。裁判で敗れた後も、ベイリスこそが犯人であるという立場を堅持し、1917年革命の直前には『アンドレイ・ユシンスキーの殺人者』という著作まで出版し、ベイリス犯人説を繰り返した。

 

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