マサリク教授のロシア論

トロツキー/訳 照井日出喜・西島栄

解題本稿は、トロツキーがチェコスロヴァキアの社会哲学者にしてチェコ初代大統領となったマサリクのロシア論を批判した論文である。この論文は、西ヨーロッパ諸国とロシアの社会的・政治的構造を比較して、ロシアにおける西欧型市民社会の不在とそこから生じるロシア絶対主義の独特の性格について詳しく論じており、トロツキーのロシア論の一貫したモチーフ(『文学と革命』『ロシア革命史』など)に連なる重要論文である。(右の写真はマサリク)

 この論文はグラムシの大きな注意を引き、グラムシ自らイタリア語に翻訳して解説を書いているぐらいである。獄中ノートでもこのトロツキー論文に2回にわたって言及しており、この論文におけるロシア論から大きな影響を受けたことがわかる。実際、グラムシの「西方と東方」に関する考察には、この論文の強い影響が認められる。

 本論文は、オーストリア社会民主党の理論誌『カンプ(闘争)』1914年12月号に掲載されたものだが、ロシアではそれ以前の1914年6月に『キエフスカヤ・ムイスリ』に2つの論文に分けて掲載されている。前半部分は「ロシアとヨーロッパ」という表題で(1914年6月2日付『キエフスカヤ・ムイスリ』)、後半部分は「マサリクのロシア・マルクス主議論」という表題で(1914年6月19日付『キエフスカヤ・ムイスリ』)発表された。全文がロシア語版『トロツキー著作集』第20巻『旧世界の文化』(モスクワ=レニングラード、1926年)に収録されている。

 本翻訳は、基本的にドイツ語版を底本にしているが(ドイツ語からの翻訳は照井が担当)、ロシア語版と詳細に照合したうえで(照合は西島が担当)、ロシア語版から大きく異なっている部分には訳注をつけて異同を示しておいた。大きな違いの大部分は、単なる両言語の表現上の違いを除けば、主に2つのカテゴリーに分けられる。一つは、ドイツの読者に向けたのと、ロシアの読者に向けたものとの違いから生じているものである。ドイツ人にとってあまり興味のなさそうな話題がドイツ語版では割愛されている。2つ目は、ロシア語版が帝政ロシアの合法的ブルジョア新聞に掲載されたのに対し、ドイツ語版がヨーロッパの社会民主党機関誌に掲載されたということから生じているものである。そのため、たとえばロシア語版ではいくつかの表現が穏健化されたり(「革命運動」→「解放運動」、「社会主義」→「集産主義」など)、削除されたりしている。なお、2次的な細かい相違は、両底本を比較して、文脈上より適合的で意味の通りやすいほうを選択した。

 N.Trotsky, Professor Masaryk uber Russland, Der Kampf, Siebenter Band, Oktober 1913 bis Dezember 1914.

Л.Троцкий, Россия и Европа, Масарик о русском марксизме, Проблемы культуры. Культура старого мира, Сочинения. Том 20. Мос-Лен, 1926.


 ※『カンプ』編者注 この論文は戦争の勃発前に執筆されたものである。

ドストエフスキー

 マサリク教授()によるロシア論は、上下2巻、大判で900ページを超える大著であり、つい先頃、その下巻が上梓された。とはいえ、この大著自体は、著者自身の言明によれば、ドストエフスキー〔右の画像〕という彼の主要な著作テーマのほんの序文でしかない。というのも、マサリクにとってドストエフスキーは、単に1人の芸術家にしてロシア文化の卓越した表現者であるのみならず、いわばそのロシア文化そのものを人格化した存在であるとともに、その「偉大なる分析者」でもあるからである。すなわち、マサリク教授にとっての課題は、ロシアという国全体を、その精神の根本的な諸問題ごと、ドストエフスキーの文学創造の道徳的・哲学的枠組みの中に無理やり押し込むことなのである。

 実際、彼の大著そのものが、『ロシアの歴史哲学と宗教哲学』※という何とも漠然とした書名をもっている。この書名とそれに続く「序文」の最初の数ページを読むならば、不安の念を抱かないわけにはいかない。なぜなら、病的なまでの諸矛盾を抱え、心理学的な深さと、社会評論における反動性をそなえていたドストエフスキーという複雑きわまりない存在を、宗教と哲学の双方を含むロシア史から解明しようとする意志は著者にはまったくなく、逆に彼は、ロシア史の諸問題、ないし「ロシア問題」と呼ぶべきものを、ドストエフスキーから、「その内面から把握」しようとしているからである。

 ※原注 Th・G・マサリク『ロシアの歴史哲学と宗教哲学――社会学的概論』、全2巻、オイゲン・ディーデリヒス社、イエーナ、1914年。

メレシコフスキー

 およそ中身のない皮相な空文句を並べ立てるメレシコフスキー〔左の写真〕()の明らかな影響のもと、このような心理学的とも哲学的ともつかない課題を立てたのちに、マサリクは、ロシア史がドストエフスキーから始まるものではないことを思い出す。それゆえ、彼は、キエフ・ルーシとモスクワ時代、ピョートル大帝の改革、フランス革命後の反動期、クリミア戦争[1853〜56年]での大敗後の改革を、とくに特徴のある諸時期として描き出す。しかしながら、ロシア史は、ドストエフスキーのうちに自己の完成とそれと同時に自己意識を見出すというような目的論的な過程ではないがゆえに、マサリクには、その著書の数百ページもの長きにわたって、ドストエフスキーのことを完全に忘れ去ることが必要であった。マサリクは、彼の著書全体にきわめて明白な痕跡をとどめている大いなる艱難辛苦の果てに、ロシア史という巨大な素材を――たとえ紙の上であれ――ドストエフスキーという道徳的・哲学的な図式の中に押し込むことが不可能であることを(そもそも本来的に非図式的な存在であるドストエフスキーを、何らかの図式へ転化させることが可能だとしても)ついに確信するにいたったのちにおいても、自らのプランを放棄することをかたくなに拒否する。

 もっとも、そのさい、彼は、さすがにロシア史にその罪を負わせることはせず、いかにも無邪気な自己否定でもって、その失敗の責を自分自身に、より正確に言えば自分の文学的才のなさに負わせる。曰く、「告白すると、著書の全体は、本来はドストエフスキーを対象としたものだったのだが、ドストエフスキー論のなかにすべてをうまく織り込むほどの文体上の(!)能力が私にはなかった」。実際、こうした告白には、ほとんど言うべき言葉がない。すなわち、マサリクは、ロシア全体をドストエフスキーに「織り込む」に十分な「文体上の能力」を持ってはおらず(たしかに、彼にとって文体は手に負えないものだ!)、それゆえ、序文に引き続く上下2巻の大著において、ロシア史は、何らの内的な連関が示されることもないままに、だらだらと書き流されていくことになる。このような構造的な欠陥は、実際には、ロシア史からその「宗教哲学」を抽出したうえで、それを恣意的に選択された人物に体現させようとする本質的に誤った見解の、完全なる破綻を示すものにほかならない。とはいえ、イデオロギー的な無知蒙昧さゆえに、マサリク氏は自らの完全な破産を理解することができないのである。

 さて、それでは、この2巻の大著の最初の巻は、何をその内容としているのであろうか? プラグマチックな歴史記述か? それとも、諸事件についての要約的な叙述であろうか? 実際には、そのどちらでもなく、そもそもマサリク氏は歴史家でさえないのであり、彼は自らの著作を「社会学的概論」と命名している。生きた人間の歴史は、彼にとってはおよそ興味の引かぬ無定形な材料にすぎず、そうした材料は、あたかも固定的な形状を持たぬ封蝋が印章の押印によってはじめて形を得るがごとく、かの哲学体系の中においてはじめてその意味と正当性とを獲得するのである。

 マサリクはカント主義者である。彼の目には、人類の発展は、2つの相異なる部分に分割されたものとして現われる。すなわち、カント以前――人間精神の予備期――と、カント以後――成熟期、少なくとも、包括的な理論的・認識論的「規範」と道徳的価値「規範」とを明確に把握した者たちにとってのそれ――である。しかしながら、これらの規範が「包括的」であるのは、それが歴史的内容をことごとく欠いているからにすぎない。実際、歴史的過程の永遠に変転してやまぬ内容を、不動の規範によって汲みつくそうとするのは、水をザルで、より正確に言えば、桶のわっかで汲み出そうとするようなものである。もっとも、われわれにとってすでに明らかなように、外的な諸条件に実際に適応する中で経済や国家、信仰や哲学上の偏見といったものを形成する社会的人間の現実の発展過程といったものは、プラハの教授にとって関心のないことなのである。彼の課題は、歴史的な発展過程の道徳的・哲学的な上澄みをすくい取ることだけである。彼はどのようにしてこの目的を果たすのだろうか? 単純きわまる仕方においてである。すなわち、彼は、イデオロギーの歴史を、さまざまな歴史的段階においてどこまでカントの規範哲学に近づいているかというただ一つの観点から考察するのである。

 「ロシア人にはカント主義が欠けている」――マサリクは繰り返しこう嘆く。カントが人間精神の成熟を体現する存在であるがゆえに、ロシア史に対するマサリクの関係は、ロシア史の中等教育終了のための卒業試験のようなものになる。規範哲学は、マサリクにとって、歴史の解明に役立つことはなく――この哲学はそもそもそのようなことには無力である――、ロシア社会の発展における個々の時代と個々の代表的人物たちの哲学的・道徳的「評価」に役立つのみである。そして、こうした「包括的」な評価が問題となるときには、不可避的にこの規範のわっかから、プラハ出身の教授のけっして包括的とは言えない頭がにょっきり突き出ることになる。

 印章の押印を保持するためには、経験的な封蝋が必要である。宗教哲学は、人間の歴史という土壌のうえに成立するものであり、それゆえ、マサリク教授は、このテーマにも取り組むことを余儀なくされる。しかし、彼は、それに取り組むいかなる方法もなしにこの課題の前に立っている。折衷主義者という呼称自体、彼に対しては、あまりにも立派すぎる呼び名である――というのも、歴史家としての彼は、単に無批判的に資料を寄せ集めるのが関の山なのであり、途方に暮れて混乱の極みを披瀝するのみだからである。たしかに、マサリクが間違いなく多くの資料に目を通し、抜き書きし、さまざまに比較し、自分が読んだものについて彼なりに大いに思索をめぐらせたことは事実である。しかし、彼が達成しえた成果は、そのために費やした莫大な努力におよそ釣り合うようなものではない。彼には歴史的直観も、一元論的な理論も同じく欠如している。それゆえ、彼が掻き集めた膨大な量の歴史的事実は、あたかも散乱する瓦礫の山のごとく残されたままである。だがまさにそれと同じ理由で、著者のあらゆる学問的良心にも関わらず、著書のなかには、事実関係に関する誤り、アナクロニズム、誤解が大量に存在するのである(3)

 こうして、ロシア史は2度にわたってマサリクの手から滑り落ちる。一度目は、彼がドストエフスキーという人物のうちにロシア史の「精神」をとらえようとすることにおいてであり、2度目には、ロシア史を規範哲学の法廷のもとへ召喚することにおいてである。彼の仕掛けた罠を難なくすり抜けてしまった歴史の原形質は、まるでぐにゃぐにゃのパン生地のように数百ページにもわたってだらりと広がっている。そこには、何らかの組織化、構成化の原理が欠如している。マサリクが持ち込む唯一の秩序は、著作を章と節とに分割することだけである。

 

   ロシアは神政国家か?

 この著作の「基本思想」は、マサリク氏の著作を紹介したカタログによると、以下のようなものである――「ロシア的な思考は2つの特質によって特徴づけられる。第一にそれは、理論的というよりは、実践的な志向を持っている。国家、民族性、革命という諸問題が歴史哲学を形成しており、攻撃や擁護の対象である国家が神政国家であるがゆえに、歴史哲学はただちに宗教哲学と結びつく。第2に、一方における神政国家と非文化的でただ信心深いだけのロシアの民族性、他方における現代の新しい諸潮流、この両者の対立は、ロシアとヨーロッパとの対立として現われる。すなわち、ヨーロッパは、ロシアが単に到達したいと欲しているだけの地点にすでに到達しているのである」。

 ここで述べられている対立関係は、マサリクによって一度ならず繰り返されているが――もっとも、それはただ限定された意味においてのみ本書の「基本思想」と呼びうるにすぎない――、きわめて無定形で、結局は無内容なものである。

 ロシアは、国家としても、社会としても、神政国家的な存在であるという。そこからマサリクは、ロシアの思想的営みや、ロシアの文学、ロシアの革命といったものの性格を導き出そうとする。しかしながら、マサリクがこの神政国家という概念に中身をつめようとするやいなや、彼にとっては、近代の人類全体が、ヘーゲルが「ギムナジウム就任演説」で述べた次のような言葉の意味で、神政国家的な存在であることが判明するのである――「宗教の存在しないところには、国家は存在することができない」、「宗教は、あらゆる国家活動における実体であり、本質である」()。マサリクが近代の社会生活の基礎をなすものとして理解しているのは、「批判精神」ではなく、依然として「宗教的伝説(神話)」なのである。たしかに、現在のヨーロッパは「カント以後」の時代に属しており、合理主義の時代たる18世紀全体が、あたかも楔のごとく神話的伝統のなかに打ち込まれている。すなわち、西方では国家的な宗教的伝説はとっくの昔にその中世的な完全性を喪失している。しかしロシアにおいても、現在の世代の眼前で進行しつつあるのは、まさしくそれと同じ過程にほかならない。だがそうだとするならば、ロシアとヨーロッパとの対立関係は、いったいどこに存在するのか? それは、単に、批判と国家的合理主義への道において、つまりは、議会政治への道において、ヨーロッパがはるかに先を行っているという点にあるのだろうか? 要するに、ロシアは後進国だということであろうか? しかし、この程度の一般的結論にたどり着くだけのために、何もそこまで膨大な理論的エネルギーを費やす必要もなかろう。

 ロシアとヨーロッパとのあいだには、とりわけ、教会と国家との相互関係、あるいは「宗教的伝説」の役割と「批判」の役割との相互関係といった問題に関しては、単に、年代的な差異とか発展テンポの違いといったものにとどまらない相違が存在している。換言すれば、ロシアの社会生活の緩慢な発展テンポは、今に続くヨーロッパとの質的な相違を内包した諸関係を成立させたのである。

 マサリクにおける神政国家という概念は、政治的および歴史的な内容を欠いている。彼は、この概念を心理学的に規定しているにすぎず、何らかの宗教意識、ないしは、何らかの宗教的伝説にもとづいている国家は、彼にとってはことごとく神政国家になってしまう。しかしながら、この神政国家という概念を、むしろ国家に対する教会ヒエラルキーの直接的な支配としてとらえるなら、東方と西方との差異について、はるかに容易に認識することが可能となるだろう。ローマ法王の国家的な支配は、基本的に神政国家的な性格を持つものであった。カトリシズムは、あらゆる西方諸国において、ローマにその一端がつながっている自らの自立した組織を国家に対抗させて作り上げた。それに対して、東方のビザンティン教会にあっては、聖職者の権力がきわめて弱体であったために、神政国家にまで高まることは不可能であった。彼らは国家権力に順応し、国家権力をその宗教的権威によって支え、国家権力にある種の神聖な性格を付与したのであり、その見返りとして、さまざまな物質的恩恵を国家から受け取った。ロシアは、キリスト教と、教会ヒエラルキーの頂点に位置するものとの双方を、東ローマ帝国から受け取った。ロシアの聖職者たちは、単に国家権力の高みにまで登りつめることができなかっただけでなく、そもそも国家的な要求を掲げること自体、一度としてなかった。モスクワの法王たる役割を演じようとした総主教ニコン()の試みは、自らの罷免と追放に終わっただけだった。ピョートル1世の改革に総主教アドリアン()が抵抗した時には、1700年に総主教という役職そのものが廃止されることになり、それに代わるものとして、官僚的行政組織であるロシア宗務院が設置されることになった。

 東欧と西欧との歴史的発展過程における基本的な相違は、東方の物質的かつ文化的な諸条件が比較にならぬほど不利であったという点にある。海岸線の状態にせよ、土壌にせよ、気候風土にせよ、これらすべての条件において、西方は東方よりはるかに有利であった。さらに、西方においては、貴重な物質的遺産とローマ文化の思想的伝統――それは「野蛮民族」[ローマ人が外国人を呼ぶときに用いた呼称]の発展に強力な刺激を与えた――が維持されていた。しかしながら、東方の大平原(ステップ)では、われわれの先祖にとって文化的な遺産となるべきものは何ら用意されておらず、くわえて、自然はわれわれの祖先を、ブリザード(極地の暴風雪)やアジア遊牧民族の絶えざる侵入に容赦なくさらした。それゆえ、貧困で苛酷なモスクワの行政中心地をともなった広大な空間に、東方アジアと西方ヨーロッパの双方に抵抗しうる国家を成立させるためには、住民の物質的諸力を極端に張りつめさせることが必要だった。このような条件下では、教会は自立的な組織として発展することができなかった――そのために必要な養分となるべきものがその国に欠如していたからである。教会はただちに国家に従属するところとなり、単に国家の思想的な支柱としての役割を演じただけでなく、国家の直接的な行政的道具とならざるをえなかった。

 聖職者たちは、庇護を与えてくれる封建領主に従属していたのだが、それは教区の住民たちからの醵金があまりにも不十分だったからである。教会は、個々の領主諸邦の分離主義に対するモスクワの中央集権的な抑圧を支持しなければならず、さらには、モスクワ・ルーシの鈍重な保守主義に反対するピョートルの国家的改革を支持しなければならなかった。領主たちが主教を任命したり追放したりした。主教たちの権利と義務を決定したのも領主であった。モスクワの府主教は、影のごとく世俗の権力につき従い、モスクワに頑として反抗する領主たちを呪い、ノヴゴロド[ペテルブルク南東に位置する古都]の伝統的な独立と自治に対して激しい非難の言葉を浴びせた。分裂によって弱体化した教会は、国家にますます深く従属していった。ペテルブルク時代に、教会の官僚化は最終的に完成にいたり、宗務院総裁(退役した軽騎兵や引退した外科医、あるいは元ドイツ人などが就任した)を長とするロシア宗務院が、ロシア正教徒の官僚機関の頂点に位置することになった。教会がこのような形で国家に従属し、自らのヒエラルキーを国家のヒエラルキーの一部に組み込むことによって、もちろんのこと、教会は、国家を自らの権威によって神聖化することになった。とはいえ、ここから神政国家まではまだほど遠い。警察国家的な絶対主義は、教会と同盟を結ぶことによって神政国家化したのではなく、むしろ、教会をまごうことなく官僚主義化したのである。

 ロシアの経済発展が緩慢で、しかも経済的後退によって長期にわたって発展が中断されたことは、単に教会の組織上の貧しさの原因になっただけでなく、「宗教的伝説」、つまり教会の信仰教義をも含む全体的な社会的イデオロギーの貧しさを生み出す要因にもなった。というのも、イデオロギーの発展には、物質的な余剰が必要だからである。西方の教会が古い文明の遺産の恩恵にあずかっていた時期に、ロシアの教会は最小抵抗線に沿って進み、異教徒の原始的な宗教的伝説を拝借することですませていた。西方の教会は、古典思想の宝庫の鍵であるラテン語を自らの言語としていた。それに対して、ロシアでは、礼拝の儀式の際にギリシャ語に代わるスラブ語を導入したのだが、それは、スラヴ主義者たちが言い立てるがごとく、ロシア正教会のより大きな「民主主義」の表現などではなく、この国の文化的貧しさの表現にほかならなかった。中世における精神的創造のかまどとなったのは、現在と同様、都市である。しかし、中世のロシアはあまりに貧しかったために、複雑な内的結晶物――ツンフト、ギルド、自治体、大学――を伴うヨーロッパ的な都市を生み出すことができなかった。カトリック教会に対する憤りは、民衆の間では分離宗派的な運動の性格を帯びただけであり、都市の助けを借りてのみ、都市の精神文化――神学的・スコラ的にして人文的なそれ(ルネッサンス!)――の助けを借りてのみ、宗教改革へといたることができるのである。ロシアには、たしかにロシア正教会の深刻な分裂はあったが、宗教改革は存在しなかった。この教会分裂において、農民や小市民、商人階級の闘争の矛先は、苛酷きわまる兵役と徴税によって肥え太る貪欲なリヴァイアサン国家をあらゆる点で支持した公式の正教会に向けられた。しかし、国民の間の精神的な雰囲気は、なおきわめて貧困なものにとどまっていたために、分裂した教会から、公式の教会の教義に対する批判が現われることもなければ、何らかの独自の宗教的伝説が生み出されたわけでもなく、ただ、公式の教会によって訂正された、教会の古い書物と典礼儀式の諸規則におけるさまざまな欠陥や書き誤りにしがみついただけであった。要するに、ロシア正教会は、イエスという名の書き方をめぐる問題と、典礼儀式上の取るに足らぬ諸問題をめぐって分裂したのである。こうして、ロシアは、宗教改革の代わりに古式分派運動()を得ることになったのである。

 宗教改革を生み出すことができなかったほどに公認の教会イデオロギーは原初的で柔軟さに欠けるものであったが、まさにそのことが将来において、新しい社会階級が教会とラディカルに決別することを準備した。古きルーシ[ロシアの古名]における敬虔な信仰心というものは、単に農民層にとどまらず、支配階級にも広く浸透していたが、それは純粋に世俗的な性格を持つものであった。そうした信仰心は、生活の単調さから生み出されたものであり、彼らの生活は、何世代にもわたって千篇一律の諸形態を再生産し、それを宗教的伝説というセメントによって固定化したのである。しかし、近代的個人がそのまどろみから目覚めはじめ、西方の物質的・精神的文化の影響のもとで、周囲の世界に対する自らの態度を意識的に定めはじめたとき、新たな世界観を構築するための材料として役立つようなものは、硬直化した公認イデオロギーの中にまったく見出されなかった。それゆえ、カトリック文化の諸国とは異なり、ロシアでは、目覚めはじめた近代的個人は、あまり大きな内面的葛藤を経ることもないまま、宗教的伝説から決別し、現実主義の土壌へと身を置くにいたったのである。この決別の過程においては、マサリクがメレシコフスキーのひそみにならって発見したような巨大な主体的悲劇なるものは、およそ含まれていなかった。本当の意味での主体的悲劇()が始まったのは、まどろみから目覚めた近代的個人が、教会の宗教的伝説と決別する段階から一歩進んで、その宗教的伝説を徹底的に利用していた専制国家()との闘争の段階に移行した地点においてであった。

 新しいロシアの精神的な始祖となったのはロシア・インテリゲンツィアであり、彼らは、その100年にもおよぶ伝統からして教会の外部に位置し、その圧倒的多数は無宗教であった。このことは、貴族階級のインテリゲンツィアにも、それに代わって台頭したブルジョア民主主義的インテリゲンツィアにも等しくあてはまった。現在のロシア自由主義の圧倒的多数は、宗教の問題にはまったく無関心である。もっとも、このことは次のような事実といささかも矛盾するものではない。すなわち、教会の教義をより現代的でより柔軟なものにし、そうすることで、広範な民衆との新たな宗教的紐帯を無力な自由主義者のために作り出してくれるような、そうした遅ればせの宗教改革を自由主義者に代わって成し遂げてくれる人物が出現するとすれば、国家的地位をもったロシア正教会を弁護しているロシアの自由主義者たちでさえそれを歓呼して迎えるだろう、ということである。自由主義にとって、教会の問題は主体的な信仰の問題ではなく、単に政治的な問題にすぎないのだ。

 一方、労働者は、おそらくはインテリゲンツィアよりもはるかに心の痛みを伴うことなく教会からの決別を成し遂げた。唯物論的社会主義(10)こそ、そもそも彼らにとっての主体的存在――すなわち対自的存在――の最初の形態にほかならない。ロシアの現実の社会的・国家的秩序を超歴史的な神政国家に変えてしまうことでマサリクは、現代ロシアの精神生活における宗教的伝説と、その伝説に対する闘いとの双方が持っている意味を、途方もなく誇張した。メレシコフスキーに無批判に追随することでマサリクが導き出した結論は、「まさしく宗教問題こそ革命主義の危機を引き起こした」というものであった。もちろん、ここで彼のもとへと助太刀に駆けつけるのは、メレシコフスキーの寛大な仲介のもとで天上界に媚びを売る思い上がったテロリスト、ロープシン(11)である。マサリクは、いかにも無邪気に、革命運動(12)は、神の問題、彼岸の世界の問題ゆえに分裂したのだと固く信じている。彼は、実際には事態はまったく逆であるということに気づいていない――すなわち、深部に横たわる社会的要因によって引き起こされた革命運動(12)の危機こそが、一部のインテリゲンツィアの意識のうちに、ある種の神秘主義の反映を生じさせたのである…。

 ※ロシア語版編者注 これは、ロープシン(本名はボリス・サヴィンコフ)の小説『蒼ざめた馬』を指している。

 マサリク氏は、「ロシア問題」を、信仰に対する無信仰の闘争として描き出しているのだが、こうした立場を最後まで守り続けることはできなかった。カント主義者としてのマサリクにとっては、ロシアのみならず世界の思想の内容は、宗教的伝説に対する批判闘争に還元される。それによってロシアとヨーロッパとの対立関係なるものは完全に輪郭の曖昧なものになってしまったが、かといって、人類の精神的発展の頂点たる、宗教的伝説に対する批判という図式自体が深まるわけではまったくない。実際のところ、19世紀の思想は、宗教的伝説との形式的・批判的対決という水準よりはるかに先に進んでいた。そこでは、宗教的伝説を単に徹底的に「払拭」することだけでなく、宗教的伝説を、いやそれに対する批判さえも、集団的な人間の物質的な存在様式と発展の諸条件から解明することが習得されるにいたっていたのである。まさしくここに唯物論的弁証法があるのだが、マサリクはこの唯物論的弁証法については、それに関する何冊かの分厚い著作を書いているにもかかわらず、およそ何の理解もしていないのである。

 

   ロシア・マルクス主義について

 本書の第2部は、そのかなりの部分が、ロシア・マルクス主義にあてられている。まさにここで、マサリクの寄せ集め的折衷主義は最悪の結果をもたらしており、この第2巻は、あらゆる点において第1巻に劣るものとなっているばかりか、その大部分は、ほとんど使い物にならぬ代物である。

 まず何よりも、この第2巻には事実誤認と誤解が大量に存在する。一例として、ロシア・マルクス主義の歴史に関する章を取り上げることにしよう。マサリクの主張(310頁)とは異なり、プレハーノフは、一度も「人民の意志」派のメンバーであったことはない。もし彼の用いているロシアの政治用語が彼にとって生きた政治的内容を備えたものであったならば、この程度のミスは彼にも発見できたに違いない。彼はまた、ロシア・マルクス主義の指導者たち、「とりわけプレハーノフ」は、常にドイツのマルクス主義者たちときわめて親密な個人的関係をもっていた、と述べているが、一般論として正しいこの主張は、実のところ、G・B・プレハーノフ自身には最も妥当しない。というのも、長年にわたってチューリッヒに居を構えていたP・B・アクセリロートが、ドイツ社会主義の雰囲気の中で生活し、カウツキー、ヴィクトル・アドラー、ベルンシュタインといった面々と友情によって結ばれていたのに対して、ジュネーヴにとどまっていたプレハーノフは、ドイツのマルクス主義者たちよりも、フランス社会主義のマルクス主義派(ゲード、ラファルグ)とはるかに近い関係にあったからである。

 さらに、ロシア社会民主党の最初の創立大会は、マサリクが284頁で書くのとは異なり、国外ではなく、ロシアのミンスクで開催されている。くわえて、新しい世紀への変わり目の時期、新聞『イスクラ』と雑誌『ザリャー(曙)』という、ロシア社会民主党の発展史においてきわめて大きな役割を演じた在外出版物を発刊したマルクス主義著作家たちから、マサリクは、P・アクセリロートとN・レーニンという2人の名前を除いている。だが実際には、新聞『イスクラ』の性格に最も明白な刻印を押した者こそ、この2人の人物なのであり、その第1期(1900年〜1903年)においてはレーニン、その第2期(1903年〜1905年)においてはアクセリロートがそうであった。

 マサリクは、「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」との闘争について述べたのち、以下のように指摘している。

 「このような混乱状態にもかかわらず、第1国会と、とりわけ第2国会に、社会民主党は相対的にかなり多くの議員を当選させたのだが、その後の国会選挙では、党はほとんど壊滅的な大敗北を喫するにいたった。こうした結果にもかかわらず、ボリシェヴィキは、なお自らの戦術を転換しようとはしなかった。しかしそれでも、1906年には、2つの分派の合同がやや真剣に試みられたが、それは結局なんら積極的な成果を挙げることなく終わった」(第2巻、287頁)。

 第3国会と第4国会の選挙で、社会民主党が1ダースをようやく越える程度の議員を当選させることができたにすぎなかったというのは、本当である。しかし、マサリクは、第2国会と第3国会とのあいだの1907年6月16日(13)にクーデターが勃発し、プロレタリアートの選挙権が途方もなく制限されるにいたった事実をつけ加えることを忘れている。さらに、1906年におけるボリシェヴィキとメンシェヴィキとの合同の試みを、先に引用したようにマサリクは、第3国会と第4国会の選挙におけるロシア社会民主党の「壊滅的な大敗北」の間接的な結果として描き出しているのであるが、実際には、1906年のストックホルム「合同」党大会は、第1国会の選挙中に開催されたものであった。マサリクはさらに、第4国会の社会民主党議員団が7名のメンシェヴィキと6名のボリシェヴィキからなり、「それでなくとも少数のボリシェヴィキは、召還派、レーニン派、その他のグループに分裂していた」(第2巻、288頁)と述べている。つまりは、国会のなかに…召還派が、つまり国会のボイコットを主張し、それゆえ国会からの議員の召還を要求するグループが議席を占めていた、ということになる。もちろん、これはナンセンスである。ボリシェヴィキの国会議員団の全グループは周知のようにレーニンの路線に従っているし、また、この会派の団長であったマリノフスキー(14)のまったく何の理由もない議員辞職という事態――実際、彼は、まったく予期しえぬ悲しむべきやり方で自らを国会から「召還」した――が、マサリクによって予見されていたということは、無論ありえない15)。さらに、マサリク教授は、「中央委員会」をメンシェヴィキに、「組織委員会」をボリシェヴィキに、それぞれ誤って結びつけており、同様の誤りは、ペテルブルクの労働者新聞である『ルーチ』と『プラウダ』に関しても繰り返されている。

 くわえて、この第2巻の364頁では、驚くべきことに、社会革命党の全グループのみならずボリシェヴィキも最大限綱領派(マクシマリスト)に含められている。実際、こうした種類の誤りの例は、本書のなかでは、それこそ無数に挙げることができるだろう。要するに、マルクス主義に対するマサリクのカント主義的な軽蔑の念は、そのきわめていい加減な情報収集において、おそらくは最も明瞭に表現されているということである。他方、弁証法的唯物論を支持する者たちに対する不公平な扱いの数々を、マサリクは、弁証法的唯物論の思想上の敵対者であるナロードニキについての、ほとんど同じ程度にまで誤った記述によって熱心に埋め合わせようとしている。しかし、『カンプ』の読者諸氏に、マサリクのしでかしたそうした誤りの数々を一覧にして提示することは、およそ時間の無駄というものであろう16)。

 ロシア・マルクス主義に関してマサリクが書いた内容は、本質的に、マルクス主義一般について彼がこれまで一度ならず述べてきたことの繰り返しにすぎない。15年ほど前、彼は、「マルクス主義の危機」に関する1冊の本を著した17)。彼はいま、それとまったく同じ危機を、ロシアのマルクス主義において確認しているわけである。一般に、この危機という概念は、時間的に限定された一つの過程として、そして破滅か刷新かのいずれかに帰結する一つの転換期として理解されるのが普通である。ところが、イデオロギー的敵対者たちによって弁証法的唯物論者たちに帰せられている「危機」なるものには、始まりもなければ終りもない。この「危機」は、永遠に不変なものであり、けっして解決されることがないのだ。

 マサリクによれば、マルクス主義は、理論的にはすでにとうの昔に克服されている。「それは解決ずみの事柄である」と彼は言う。しかしそれでは、マルクス主義の影響が弱体化することなく、むしろ強まりつつあるという事実は、いったいどう説明されるのか? これに答えてマサリクは、マルクス主義が同時に革命的社会主義(18)の科学的な表現でもあるということがなければ、そうした事実はおよそ理解不可能なことだ、と述べている。すなわち、換言すれば、理論的にはすでに崩壊しているマルクス主義という建物が、労働運動の実践的な必要によって、どうにか持ちこたている、というのである。しかしその一方で、マサリクは、マルクス主義は理論的のみならず、実践的にも、そして何よりもその革命主義の点で19)、すでに乗り越えられていると飽きることなく繰り返している。とすれば、マルクス主義の存在を支えているものは、いったい何なのか。おそらくそれは、われらがプラハの教授の温情のみ、ということになるのであろう20)。

 マルクス主義の危機に関するこの無駄口は政治的には、たいていの場合、民主主義的自由主義の再生への希望と結びついている。もちろん、マサリクにあってもこの種の希望は無縁のものではない。チェコやオーストリア全体の政治状況にあって、彼とその民主主義的「現実主義」はまったく孤立している。オーストリアの帝国議会において彼は、自らの善意と3ダースほどの友人たちを代表するにすぎない。そして、それだけになおさら、マサリクがロシアに対して抱く政治的希望は楽観的なものになる。自国の社会発展が彼にとって不利なものになればなるほど、彼は、自らの思想のために、ロシアにいっそう多くのものを期待する権利を有するというわけだ21)。

 ここでもう一度、ロシア・マルクス主義の問題に立ち戻ることにしよう。ロシア・マルクス主義の歴史のうちに、マサリクは、「マルクスの史的唯物論に対する真に有効な新しい反駁」を見出す22)。つまり、マルクス主義は、1890年代にロシアの急進的インテリゲンツィアの陣営において支配的な思想潮流となったが、それは、そのわずか10年ほど前に、インテリゲンツィア的「労働解放団」によって、はじめてロシアの地に根を下ろしはじめたものである。それゆえ、マサリクによれば、階級の利害が歴史の推進力をなすものではないのは明らかだ、ということになる。しかし、それではいったい何が推進力なのか? マサリク自身、ロシアにおけるマルクス主義の歴史を、どのように説明するのか? ほかならぬロシアのインテリゲンツィアがマルクス主義を受け入れたのは、いったい何ゆえなのか? どのような形で彼らはマルクス主義を受け入れたのか? いつ、そしてまた、なにゆえに、彼らは大挙してマルクス主義の陣営から去ったのか? しかし、こうした数々の疑問に対する答えをマサリクの著書に求めるのは23)、無駄なことであろう。彼にあっては、階級利害とは、あたかも、いついかなる場合でも同一の徴候に表現されるある種の永遠不変の数値であり、彼はそうした観念をマルクス主義に押しつけているにすぎないからである。それゆえ、彼が新しい徴候に出くわすとき、その新しい徴候のうちに同一の階級利害が表現されていることを認識することができないのである24)。

 しかしながら、ある階級の社会的役割から生じる社会的な利害というものは、本来きわめて柔軟なものであって、さまざまな歴史的時期にきわめて多種多様な表現形態を取りうる。ロシアのインテリゲンツィアは、一つの社会階層としてその地歩を固めて以来、社会体制の民主化に深い関心を抱くにいたった。その左翼部分は、1870年代に、農民の中に支持基盤を見出そうと無駄に努力した挙げ句、「人民の意志」派の闘争の中で自らを使い果たし、1880年代の歴史的袋小路に入り込むことになった。マルクス主義理論は――その後、どの社会階級に奉仕する運命であるかはともかくとして――、何よりもインテリゲンツィアに袋小路からの出口を指し示した。それは、資本主義の発展という事実を、したがってまた、インテリゲンツィアの依拠しうる政治的勢力としてのプロレタリアートの発展という事実を、理論的に確証するものだった。左翼インテリゲンツィアが、頼みの綱としてマルクス主義にしがみついたのも、そうした歴史的条件のもとでは、きわめて当然のことであった。ロシア・マルクス主義は、自らを待ち受ける運命について自分自身の唯物論的観点から――うまい下手は別にして――説明しており、広範なインテリゲンツィア層のマルクス主義からの決裂の不可避性を、その決裂が実際に到来するはるか以前から予言していた。もしかしたら、こうした説明は根拠のないものかもしれない。たとえそうであったとしても、事実によって歴史的予測を確認することはそれなりに価値があることだろう。しかし、マサリク教授は、問題の本質に踏み込もうとはしない。歴史のみすぼらしい現実を理解するには、彼の理想主義はあまりにも高邁すぎるのであろう。

 マサリクの描き出すロシアの社会思想史は、そこに社会的な根が欠如しているために、無秩序に散らばった瓦礫の山のままである。そこでは、さまざまなロシアの哲学的および社会的・政治的な体系の骨組みが、いかなる歴史的観点もないままに、ヨーロッパのさまざまな体系と形式的に関連づけられている。しかもそのさい、マサリクは、ロシアないしヨーロッパのすべての体系について、いちいち冗長きわまりない哲学的注釈を加えることが、理論的な良心の命じる義務とみなしており、しかもそれらの注釈は、いずれも等しく単調きわまりないものでありながら、相互に矛盾しあっている。そのため、彼の労作を読むことによって得られるのは、有益な知識よりも疲労感の方が多いのである。

 とはいえ、ここで満足の念をもって確認しておくべきは、大部分の「学識ある」誹謗者連中とは異なり、マサリク教授がロシアの解放運動に熱い共感を寄せていることである。道徳主義的なお説教がもう少し少なくなり、思想的な明瞭さと政治的な輪郭がもう少ししっかりとし、文体がもう少し良くなれば、この共感はなおい素晴らしいものになったろう! 結局のところ、マサリクについては、彼がクロポトキンについて語ったことがそのまま当てはまる――「非常に共感の持てる人物ではあるが、優れた思想家ではない」。

『カンプ』1914年12月号

『トロツキー研究』第42/43合併号より

  訳注

(1)マサリク、トマシ(1850-1937)……チェコスロバキアの自由主義的民族主義思想家・政治家。1900年チェコ人民党(のち進歩党)を結成。1898年に『社会問題』を発表し、マルクス主義を批判。第1次世界大戦後に亡命。1915年にチェコ民族会議を創設。1918年にチェコスロヴァキア共和国を創設し、初代大統領に。

(2)メレシコフスキー、ドミートリー・セルゲーエヴィチ(1866-1941)……ロシアの詩人、作家、批評家。1896〜1905年に「キリストと反キリスト」3部作を発表。1901〜02年に評論「トルストイとドストエフスキー」を発表。しだいに神秘主義的傾向を強める。1919年にフランスに亡命。

(3)ロシア語版にはこの後に次の一文がある。「諸事実を取り違えないためには、単に事実を『知っている』だけでは不十分であり、それらの諸事実の内的連関を理解していなければならない。」

(4)「近代の人類全体が、ヘーゲルが『ギムナジウム就任演説』で述べた次のような言葉の意味で、神政国家的な存在であることが判明するのである――『宗教の存在しないところには、国家は存在することができない』、『宗教は、あらゆる国家活動における実体であり、本質である』」のくだりは、ロシア語版では次のようになっている。「中世から抜け出した近代の人類全体が神政国家的な存在であることが判明するのである。国家はほとんどいたるところで教会と結びつけられており、教会は神の啓示にもとづいた組織である――『教会は、社会を組織するものであり、国家とその組織を導く支柱であり、神政国家の土台であるが、それでもはやり教会は民衆の教師にして教育者であり続けている』(第2巻、504頁)」。

(5)ニコン(ニキータ・ミノフ)(1605-1681)……農民出身のロシアの聖職者。1652年にロシアの総主教となり、教会改革を断行。反対者を弾圧したため教会の分裂を招いた。また、帝政に対する教権の優位をはかったが、1666年にツァーリの不興を買って失脚。僻地に追放され、そこで没した。

(6)アドリアン(1627-1700)……ロシアの聖職者、最後の総主教。1690年に総主教になる。ピョートル大帝の改革に抵抗し、失脚した。

(7)古式分派運動……教会の改革を拒否し古い儀式を保持しようとした17世紀中庸のロシア正教徒運動。

(8)「主体的悲劇」はドイツ語版では「客観的悲劇」になっている。

(9)「その宗教的伝説を徹底的に利用していた専制国家」は、ロシア語版では「その発展において立ち遅れていた国家」になっている。

10)「唯物論的社会主義」はロシア語版では「唯物論的集産主義」になっている。

11)ロープシン……本名ボリス・サヴィンコフ(1879-1925)。ロシアのテロリスト、エスエルの幹部、詩人。1903年にエスエル入党。エスエル戦闘団の一員としてアゼーフの片腕として内相プレーヴェやセルゲイ大公の暗殺に関与。1906年に逮捕され死刑を宣告されるも、脱走。1911年に亡命。第1次大戦中は祖国防衛派としてフランス軍に志願。2月革命後、臨時政府の最高総司令部付コミッサール。ケレンスキー政権において陸軍官房長。ケレンスキーとコルニーロフとのあいだで暗躍し、コルニーロフ反乱を起こす重要な役割を果たす。10月革命後、反革命行動に積極的に参加。1921〜23年、ポーランドからソ連内部での反革命運動を組織。1924年に国境付近で逮捕され、エスエル裁判において自らの罪を告白。モスクワの獄中で自殺。ロープシンという筆名で『蒼ざめた馬』『テロリストの回想』などの作品を残す。

12)この2ヶ所の「革命運動」はロシア語版ではいずれも「解放運動」になっている。

13)「6月16日」はロシア語版では旧暦にもとづいて「6月3日」になっている。

14)マリノフスキー、ロマン(1878-1918)……ボリシェヴィキ党内の長年にわたるツァーリ警察のスパイで、1912年のボリシェヴィキ独立後の最初の中央委員会に選出。同年、国会へのボリシェヴィキ派議員に。1914年、突然ドゥーマの議席を放棄し、党を除名。彼についての疑惑はあったが、彼と警察との関係は10月革命後警察のファイルが開かれるまで、証明されることはなかった。1918年、裁判にかけられ、処刑。

15)「また、この会派の団長であったマリノフスキーのまったく何の理由もない議員辞職という事態――実際、彼は、まったく予期しえぬ悲しむべきやり方で自らを国会から『召還』したのだ――が、マサリクによって予見されていたということは、無論ありえない」の一節はロシア語版にはない。

16)「しかし、『カンプ』の読者諸氏に、マサリクのしでかしたそうした誤りの数々を一覧にして提示することは、およそ時間の無駄というものであろう」という記述は、ロシア語版では次のようになっている。「V・ヴォロンツォフについてマサリクは『新しい』ナロードニキであるとし、ペシェホーノフに対しては、憲法を承認するのかなどと皮肉っぽく問いただしている。さらに次のことを指摘しておくのも、それなりに興味深いだろう。マサリクは、ミハイロフスキーのことを、その方法論的首尾一貫性の点で賞賛し、そのまずい単調な文体の点で非難している!」

17)ロシア語版ではこの後に次の一節がある。「この著作は当時、ロシア語に訳された」

18)「革命的社会主義」はロシア語版では「社会主義政治」になっている。

19)「そして何よりもその革命主義の点で」の一節はロシア語版にはない。

20)「おそらくそれは、われらがプラハの教授の温情のみ、ということになるのであろう」という一節は、ロシア語版では次のようになっている。「どうしてそれは、衰退するのではなく、発展しているのであろうか? この問題に対する答えをマサリクに求めても無駄であろう」。

21)ロシア語版ではこの後に次の一節がある。「彼は言う――『自由主義の社会化と民主主義化の問題は、ロシアにとって特別な、しかもすぐれて現代的な意義をもっている。なぜならロシア自由主義は最初から、多少の動揺を経た上でのことだが、実際に社会主義的理想を受け入れていたからである』(第2巻、400頁)。社会主義的理想を受け入れたロシア自由主義ということで念頭に置かれているのは、おそらくゲルツェンであろう。しかし、いったいどのようにしてマサリクがゲルツェンの思想を新しい状況下で復活させるつもりなのか、とんとわからないし、正直に告白するが、ミリュコーフとマクラコフの党[カデットのこと]が夏の休暇中に――『多少の動揺を経た上でのことだが』――自らの自由主義の社会化と民主主義化に取り組むだろうという確固たる確信はとうてい持てそうにもない。しかしながら、われわれは、15年後にもマサリク氏の新たな著作に今回と同じ希望に出くわしたとしても、けっして驚きはしないだろう。」

22)ロシア語版にはこの後に次の一節がある。「ロシアの読者には、何のことを言っているのかすぐに察しがつくことだろう。」

23)ロシア語版ではここに「またしても」という一句が入る。

24)「その新しい徴候のうちに同一の階級利害が表現されていることを認識することができないのである」は、ロシア語版では次のようになっている。「その新しい徴候のうちに古い階級利害が表現されていることを認識することができず、マルクス主義は反駁されたと高々と宣言するのである」。

 

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