全党員に訴える 

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、ウィーン『プラウダ』の最終号になった第25号の付録のうちの一つで、全党員に対し、目前の第4国会選挙に向けて真の統一した全党協議会を実現するよう全党員に訴えたものである。この論文の中でとりわけトロツキーは、1912年1月に分裂主義的党協議会を開催したレーニン派を厳しく批判するとともに、全党協議会に敵対的な姿勢をとっているポーランド人をも手厳しく批判している。

Л.Троцкий, Ко всемъ членамъ партии, Приложение к No.25 Правда, 1912.4.23.


 尊敬する同志諸君!

 現在の政治情勢がわが党の運命にとってきわめて重大であることをかんがみて、われわれは、この手紙を諸君に宛てることを必要不可欠なこととみなす。

 国会選挙まであと残すところ半年を切った。一般政治的諸関係においてのみならず、とりわけわが党にとって、その成長と発展にとって、選挙が巨大な意義を持っていることは、これ以上説明を要しないほど明白である。ところが、わが党は、組織的に細分化され、諸分派に寸断されているという状況にあり、そのため、この数週間のうちに英雄的努力によってわが党の内的カオスを克服しないかぎり、まったくの準備不足の中で選挙を向かえる羽目になるだろう。そして、最悪なことには、選挙カンパニアにまでわが党の細分状態のみならず、分派闘争までもが持ち込まれることになるだろう。こうした状況になれば、選挙は、党の再建をもたらす代わりに、長期の歴史的時期にわたって党の完全な士気阻喪状態をもたらすだろう。

 『プラウダ』第24号において(「選挙カンパニアの諸問題」)、われわれは、程度はどうあれ、選挙カンパニアに分派闘争を持ち込むことを正当化するような政治的意見の相違はわが党には存在しないことを示そうとした。ボリシェヴィキの『ズヴェズダー』も、メンシェヴィキの『ジヴォーエ・デーロ』も、選挙戦術の基本的諸問題に関しては同一の観点を擁護している。さまざまな分派(ボリシェヴィキ党維持派、メンシェヴィキ党維持派、非「分派」派、「解党派」)からなる著名な古参活動家たちのペテルブルク・グループは、共同で、選挙向け政綱と選挙戦術の基本的内容を作成した(『ジヴォーエ・デーロ』第9号参照)。また、ペテルブルクでは、10人の最も著名なボリシェヴィキが、選挙カンパニアに関するその決議の中で――レーニン派協議会の決定に反して――、解党主義派を含むすべての分派の共同の活動が可能であり義務的であることを認めている。それより以前にすでに同志ゲルマノフ(1)(党維持派ボリシェヴィキ)は、『ズヴェズダー』の中で、政綱の統一の可能性と必要性を宣言するとともに、統一政綱は国会議員団による政綱案の承認を通じて達成することができるという「解党派」ユーリー・チャツキー(2)の意見に同意している。この意見に『ズヴェズダー』編集部も同意した(この点につき『プラウダ』第24号参照)。以上の事実は、われわれがすでに一度ならず分派意識からの解放と呼んでいる過程にとって、きわめて重要な意味を持っている。

 たしかに、この同じ『ズヴェズダー』には、すべての潮流の合意を掘りくずし、選挙カンパニアよりも反解党主義カンパニアを優先させることを意識的に目指した諸論文も掲載されている。しかしこれらの論文は、その政治的論調やその論争的文体がはっきりと物語っているように、ペテルブルクで書かれたものではない(3)。こうした事情はきわめて注目に値する。ロシアで活動している最も成熟した権威あるボリシェヴィキたち――彼らは、実際の労働者運動の必要性から出発し、現場で解党派と顔をつき合わせている――の声明は、選挙カンパニアの統一はまったく可能である、解党派を含むすべての潮流との合意は無条件に必要である、と述べている。それと同時に、まさにこの同じ『ズヴェズダー』には、国外からの、途方もない論争的誇張をともなった純粋に分裂主義的論文も掲載されており、その悪意ある戯画性は成熟したすべての読者にとって明らかであると思われるが、しかし、一般読者の意識の中にはなはだしい混乱を持ち込みうるものである。『ズヴェズダー』が、その多くの読者を前にして、いかなる曖昧さもない完全に明確な立場をとろうとせず、分裂主義的論文を留保なしに掲載したことで、その責任の一端を自らに引き受けたことは、残念でならない。しかし、それでもやはり、次の事実は残る。すなわち、当の『ズヴェズダー』を通じて、注意深い読者が、在ロシアのボリシェヴィキの真の見解と、自分の姿に似せて人為的に独自の協議会をかき集めたパリ・グループ[レーニン派]の志向とのあいだにある深淵を検討することができる、という事実である。

 他方で、解党派も最近、政治的問題に関してのみならず、党の組織問題に関しても、より明確な態度をとるようになった。彼らは組織委員会に合流し、全党協議会の召集を自らの課題とするようになった。彼らの組織的・戦術的見解の特殊な色合いがいかなるものであろうとも、彼らは今後、この色合いを全党的組織の枠組みの中に収めるつもりであり、そのことから生じるすべての義務を引き受けるつもりである。これは疑いもなく巨大な一歩前進である。

 解党派は、確固とした党組織――それは、あれこれの歴史的予測を完全にわきに置くならば、現時点では非合法的なものでしかありえない――の役割と意義を過小評価していると非難されてきたし、それには多少なりとも根拠があった。この線に沿って、「解党主義」との主要な闘争が遂行された。だが、反解党主義的な論争と組織闘争とは、それがどのように行なわれたかをふまえるならば、われわれの見るところ、主として否定的な意味を持っていた。その政治的皮相さ、手段を選ばぬやり口、そのサークル的で利己的な性格からして、それは党を士気阻喪させ、解党派が党派性の側へと成長進化していく過程を遅らせた。しかし、この成長進化はそれでもやはり生じた。それは、解党主義自身の政治的課題の成長に影響されたものだった。そして、解党派を、現在進行しつつある非合法の全党協議会の準備に参加させる事態をもたらした。もし解党主義との闘争が単に思想的・政治的動機を持っているだけだったならば、解党主義の反対者たちは、解党派がはっきりと党派性の側に進化していった事態を歓迎しなければならないはずである。解党派が「独立の」(自由主義的な)労働者政党を創設しようとしているかのように言うあらゆる予言は、たわごとであることがわかった。解党派のいかなる特殊な「独立」政党も建設されなかった。彼らは、レーニン派をも含むわれわれ全員とともに同一の党で活動することを欲している。繰り返すが、この事実も歓迎するのみであるはずだ。しかしながら、レーニン派の側には、彼らに対するまったく正反対の態度が見られる。解党派が党的になればなるほど、レーニン派は彼らに対しますます狂暴に襲いかかる。そして、これは基本的に理解できることである。自らを党と同一視することが習慣化しているサークルは、党というものを図式的に考える。英雄群衆というふうに。このようなサークルは、当然ながら、自らの極少人数のセクトを、大衆運動と密接に結びついた真の党のうちに溶解させることを恐れる。レーニン派は、一つの党の中で、最も自分たちに近しい同意見者たちとさえ折り合うことができない。フペリョート派とも、プレハーノフ派とも、党維持派ボリシェヴィキとも、そして最後に、国外のポーランド人グループとも折り合うことができない。とすれば、彼らの政策――誰もいない所へサークル的指令を出す政策――からして、ますます解党派と合意することが不可能になるのは、火を見るより明らかである。ここから、実際には存在しない虚構の意見対立をでっちあげ、さまざまな事実や引用――2年も前に起こった事柄で、しかも誤って描かれている――でもって分裂を正当化しようとする志向が生じる。そのため、彼らは自ら解党派の進化に目を閉じ、ボリシェヴィキの合法新聞の中で、行動の調整と勢力結集への傾向が現われるやいなや、その同じ新聞の中で、同じ狂暴さをもってそうした傾向を台無しにしようとするのである。

※  ※  ※

 しかしわれわれは、他の在外グループの中にも、「解党派」を党の隊列の中に含めないようにしようとする傾向が見られることを隠すつもりはない。この傾向をわれわれはきわめて有害で、何よりもその担い手を堕落させるものであるとみなす。彼らの目的は、現実の社会民主党を人為的に仕立て直すことによって、自分たちの潮流ないしいくつかの同種の潮流が支配権を握ることである。こうした志向は、党統一の旗に隠れているだけになおさら士気を破壊する性格を持っている。この統一の旗は、この1年間で非常に人気を博すようになったので、分裂主義政策を自らの職業としているグループがそれに飛びついたわけである。

 何よりもこのような政策を遂行しているのは、ポーランド社会民主党の名において行動している在外グループである。言うまでもなく――そしてこのことはロシアの同志たちは十分に知っていることだが――、このグループはわれわれの党にいかなる思想的影響も及ぼしていない。彼らは、ロシアの労働者にポーランド社会民主党の内部生活についてほとんど何も知らせてこなかったし、われわれの知るかぎり、ポーランド労働者にロシア社会民主党の内部生活に関する情報を何ら提供してこなかった。党の国外上層部において、このグループは、分派闘争を利用することによって、他のすべての潮流に対するレーニン派の分裂主義的行動を支えるという役割を果たしてきた。レーニン派グループの足元から基盤が明らかになくなりはじめると、このポーランド人同盟者は、レーニン派から距離をとるようになったが、それでいて、自派の密かな影響力を強めるために今後とも分裂を利用するという発想と手を切っていない。たとえば、彼らは最近、組織委員会の構成メンバーとして、民族組織の代表者を除けば、レーニン派「組織委員会」をつくった四つの組織とプレハーノフ派の代表者だけを含めるよう要求している。他の党組織と他の潮流は、ポーランド人サークルの計画によれば、閉め出しを食うことになっている。しかも、この途方もない要求が、何と…党統一に対する配慮という言葉でごまかされているのである。それだけではない。ポーランド人在外グループは、組織委員会の方法が、レーニン派サークルの方法と同様、分派主義的であると主張している。組織委員会の分派性はいったいどの点にあるというのか? それは、組織委員会が分派的資格を否定し、党の中に、プロレタリアートのあいだで煽動を行なっていて、かつ、ロシア社会民主労働党の再建をめざして活動する用意があることを宣言しているすべての社会民主主義的潮流・組織・グループを含めているという点にである。では、ポーランド人在外グループの真の党派性がいかなる点にあるかというと、それは、彼らが最初から組織委員会の構成を人為的に歪め、この人為的に歪められた組織委員会に、人為的に歪められた協議会の召集を委任するという点にである。そしてこの犯罪的な計画において、このグループは1910年の総会を持ち出している。よりにもよって、ポーランド人グループとともにレーニン派が行なったクーデター(4)によってその決議が破棄されたあの総会を、である。このような信じがたい主張を永遠に断罪するには、それについてはっきりと語るだけで十分である。そして、独自の過去、独自の人脈、そして最後に、党から簒奪した「独自の」資金を有しているレーニン派のグループでさえすでに、党を自らに従属させることに失敗したとすれば、在外ポーランド人グループはなおさらそれに成功しないだろう。彼らは、そのまったく野放図な行動によってただポーランド社会民主党の権威を失墜させるだけであり、ロシア社会民主労働党のロシア人部分のすべての潮流とすべての民族組織のうちに、彼らに対する怒りを掻き立てるだけである。

 もし他の何らかの在外グループがポーランド人グループの道を進むとすれば、それは同じ結果を招くことだろう。すなわち、あらゆる信用を喪失し、党から孤立することになるだろう。いずれにせよ、われわれの側から、最も断固たる反撃に出会うだろう。

 言うまもなく、レーニン派とポーランド人が一般的な権利にもとづいて組織委員会に参加することを欲しない場合には、この組織委員会は、たとえ党の圧倒的多数を代表するとしても、全党を代表するわけではないことになる。このことに目を閉じるのは愚かしいことだろう。そして、レーニン派とポーランド人が党全体の隊列においてしかるべき地位を占めることができるようあらゆる措置をとらないとしたら、それは犯罪的であろう。しかし、他の潮流を排除するという代償を払ってまであれこれのグループを参加させようとすることは、なおのこと犯罪的であろう。人為的な独占や一つの潮流の特権にもとづいた、あるいは、他の潮流に対する例外法にもとづいた、いくつかのグループの同盟は、けっして有益なものにも生命力あるものにもならない。なぜならそれは自分自身のうちに、内部からむしばむ欠陥を抱え込むことになるからである。この2年のあいだに、われわれは、プレハーノフ派とレーニン派のブロック、ついで、レーニン派とボリシェヴィキ調停派とポーランド人のブロックを目にした。どちらのブロックも何ももたらすことなく分裂し、党内の混乱を増大させただけであった。今やついに唯一正しい結論を引き出すべきときである。さまざまな潮流の協同は、ただすべての者にとって共通ですべての者にとって同等な党内権利という基盤にもとづく場合のみ考えられる、ということである。自分自身に理由不明の長子権を要求する一つの潮流を満足させ、他方、他のすべての潮流との同等の権利にもとづいて党内で活動する用意のある他の諸潮流を犠牲にすること――このような独特の「調停主義」は、党存立の土台そのものを最も無原則的な形で裏切ることを意味する。この種の政策は、いかなる詭弁によってもその裸体を覆い隠すことはできない。

 言うまでもなく、レーニン派を協議会に参加させるなという要求が、もし何らかの形で提起されたならば、われわれは、解党派やゴーロス派を一掃しようとする試みに対して闘ってきたように、この要求に対してもまったく同じように反対して闘うだろう。われわれがかつて、「フペリョート」派の学校への参加を受け入れ、それを擁護した記事を『プラウダ』に掲載したが、それは、他の潮流に反対してフペリョート派を支持するべきだと感じたからではなく、党の基盤にとどまることを欲し、全党的な枠組みの中で活動を遂行しようとしているグループに対する迫害を、直接的であれ間接的であれ、能動的であれ受動的であれ、支持することは犯罪的であると考えたからである。これが、今日に至るまでのわれわれの立場であり、今後ともそうだろう。思想的影響力の獲得をめぐる正常な闘争は、相互に対する敬意と信頼とが党風となる場合のみ、そして、党の組織的見解に立脚した党体制が、分派的制裁や個人的専制のあらゆる可能性を排除する場合のみ考えられる。このような条件を創出するために活動することは、巨大な原則的重要性を持った義務である。幸いなことに、このことはますます、すべての成熟した同志たちによって意識されるようになっている。言葉の最良の意味での党的な人間とは、したがって、次のような者でしかありえない。すなわち、そのシンパシーが「左派」たると「右派」たるとにかかわらず、すべての者にとって共通で、すべての者にとって同一の党内権利の基盤を創出するために闘う者である。

※  ※  ※

 しかしながら、分裂主義的傾向とサークル的権利主張とが、ある種の懐疑主義によって支えられていることを認めざるをえない。この懐疑主義は、より広い基盤にもとづいて党の活動を打ち立てようとするあらゆる試みに対して、党内の非常に多くの同志たちが抱いているものである。基本的に反革命による精神的打撃の産物であるこの懐疑主義は、とりわけ全党協議会を召集することに対して向けられている。原理的な「解党主義」とは何の共通性もない立場をとっている同志たちでさえ、しばしばこう言う。「党は、協議会を召集するにはまだあまりにも組織的に脆弱である。レーニン派の試みは、周知のように、何ものももたらさなかった。各地方に帰っていった代議員たちは、協議会前と同様、孤立したままである。その影響はどこにもまったく現われていない。第2の協議会が、たとえそれが別の方法によって召集され、比較にならないほど多くの分子に依拠していたとしても、同じような危険に陥るのではないだろうか?」

 これに対してはわれわれは一つの答しか持たない。レーニン派の協議会は、まさにそれが、同意見者の人為的な選択にもとづいていて、労働者運動と結びついた真の社会民主主義グループ――このグループがいかに弱いものであろうとも――の代表制にもとづいていないがゆえに、完全に生命力がないことがわかった。まさにレーニン派の中央部が、広範な政治的課題を自らに設定せず、純粋にサークル的な課題を立てていたがゆえに、彼らが自らの周囲に結集できたのは、まったく偶然的な分子、きわめて少数で、その大多数は最も未熟な分子だけであった。その課題は、「英雄」の周囲に「群衆」を集めることである。それは非常に単純で、出入国と移動のための資金さえあるならば、一昼夜で解決することができる。しかし、プロレタリアートの階級運動と結びついた真面目な活動家たちは、「解党主義」との思想闘争に、党建設と党活動の内容を決定づけるような主要課題として熱中することはできない。レーニン主義の不幸は、運動の要求をサークルの自己保存要求に日和見主義的かつ無原則的に従属させている彼らには、党員としての本格的な経験を有した分子を自らの周囲に結集することが体質的にできないという点にある。「英雄」の周囲に集まるのは「群衆」だけであり、そのあいだには、狭量な「仕切り」がある。しかし実際のところ、ボリシェヴィキ調停派とはいったい何だろうか? これは、全体としてボリシェヴィキ実践家のより古い世代であり、[1905年]革命と革命前の時代の大部分を経てきた同志たちである。それゆえ彼らは、レーニン主義の「英雄主義的」方法を受け入れることができないが、しかし残念ながら、いまのところまだ、レーニン主義に対して十分原則的かつ十分きっぱりと反対していない人々である。しかし、何といっても労働者運動の中では、古い世代の活動家たちは、ボリシェヴィキであれメンシェヴィキであれ、指導的役割を果たしているし、今後とも果たすだろう。そして、レーニン派の協議会が彼らと関係を断ったために、すなわち、党の古い世代の蓄積された経験をまるごと、純粋に清算[解党]主義的なやり方で拒否したために、レーニン派の協議会が自らの周囲に集めることができたのは、ロシア全土で400〜500人ほどの細分化した「群衆」だけであった。これによって、この協議会は自らを不毛なものへと運命づけたのである。

 全党協議会の課題は、われわれの理解するところでは、何よりも、この数年間に自分自身の足で立つことを学んだ最も成熟した自立的な党活動家を一個に結集することである。まさにこれらの同志たちが、各地方で遂行されているあらゆる諸活動を指導している人々であるがゆえに、そしてまた組織委員会が、協議会において、各地方の活動を真に代表する人々を選出することを自らの課題とし、その際、いかなる2次的な目的も追求しないことを肝に銘じているがゆえに、まったく当然のことながら、協議会は最も権威ある活動家たちを選りすぐって結集するだろうし、全体としての党が現時点で労働者運動と結びついているのとまったく同じ程度に、労働者運動と結びつくことになるだろう。誰も現在の発展段階を飛び越すつもりはないし、虚構の数値をでっち上げることは誰も企図していない。協議会に代表されてくるのは、わが党の現状どおりの人々であろう。しかし同じく、わが党の現状を過小評価する必要もない。わが党が全国で独立した勢力として選挙に参加するとすれば、われわれが、自分たちの勢力を計算し行動計画を立てるために、事前に自分たちの代表者を召集することができないわけがない。多少なりともしっかり確立された党細胞以外に、何千という社会民主主義分子がわが党にはいる。彼らは今まで党と同じ側にとどまっているが、内部の激しいいがみ合いや分派的陰謀のせいで党から距離をとっており、自分の力を用いるすべをまだ見出していない。そして彼らはけっして見劣りしない同志たちである。選挙カンパニアの準備は疑いもなく、彼らをますます党の隊列へと引き入れるだろう。今のところまだ相互に分離しているこれらの分子たちに共通の行動綱領を与えることは、権威のある全党協議会によってのみ可能である。一部の同志たちがしているように選挙の準備に対して協議会の準備を対置することは、まったく考えられない。協議会はまさに選挙の準備であり、少なくともこの準備の最も重要な一部分である。もちろん、選挙カンパニアというものを、あちらこちらでのばらばらな運動としてではなく、全国家的規模での計画的な政治的闘争として理解するならば、だが。そして実際、真剣な選挙準備が行なわれているところでは、同時に、協議会の準備も進んでいる。他方、協議会への呼びかけが積極的な反応を受けていないところでは、選挙準備は実際には、紅茶カップを手にしての…自分たちの弱さに関する漠然としたおしゃべりに収斂してしまっているのである。

 現在の状況下で協議会がどの程度多人数で、どの程度盛況で、等々でありうるのかについて占う代わりに、それができるだけ盛況でできるだけ権威あるものになるよう、全力を尽くすべきだろう。

 われわれはすべての同志諸君に訴える。押し黙った冷淡さも饒舌なそれも払拭し、将来の選挙についての無責任な仲間内のおしゃべりから、選挙に向けた確固たる政治的・組織的準備に移行することを。すべてのグループが――3人だろうが30人だろうが変わらない――、自らの構成をはっきりさせ、党の当面する課題に対する自らの態度をはっきりさせよう。選挙カンパニアにおいて依拠することのできる力と手段[資金]と結びつきがどの程度のものであるかを明確に理解しよう。選挙戦術に対する自らの態度を確定しよう。これらの政治的諸課題と直接に結びつけて、協議会と組織委員会に対する態度を決定しよう。選挙カンパニアの時期にスト破りに参加することを欲しないすべての潮流とグループが組織委員会の周囲に結集するよう、大声で決然と要求しよう。選挙カンパニアの統一の名において党の世論を動員することは、まだ眠っているすべての者を目覚めさせ、ばらばらの状態にあるすべての社会民主主義勢力を行動力ある統一した組織のうちに結集するという事業に向けた最初の一歩である。

 選挙カンパニアの統一問題に関する決議を採択しよう。この決議を労働者のグループを通じて実行しよう。諸君の勢力を数えよう。協議会の問題、その召集方法と議題に関する決議を採択しよう。組織委員会に対する諸君の態度を決定しよう。組織委員会と連絡をとろう。もし諸君に組織委員会と連絡をとる方法がない場合には、諸君の知っている『プラウダ』編集部の在外アドレスを通じてアピールと声明を送ることができる。代議員を派遣するための資金を集めよう。ぐずぐずするな、選挙は近い、週単位の道だ!

  『プラウダ』編集部

  ウィーン『プラウダ』第25号付録

  1912年4月23日

『トロツキー研究』第37号より

  訳注

(1)ゲルマノフ……エヌ・イ・フルムキン(1878-?)の別名。1890年代から社会民主主義運動に参加、古参ボリシェヴィキ。1917年の2月革命後はクラスノヤルスクおよびオムスクで党県委員。1920年、シベリア革命委員会副議長。1922年以降、財務人民委員部参与、外国貿易人民委員部代理、財務人民委員代理などを歴任。

(2)チャツキー、ユーリー(1881-1944)……別名ガルヴィ。本名ブロンシュテイン。解党派メンシェヴィキ。第5回ロンドン党大会で中央委員に。1912年、ウィーン協議会(8月ブロック)に参加し、組織委員会に選出。解党派の雑誌『デーロ・ジーズニ』を編集。1922年に亡命。

(3)これは、国外のボリシェヴィキ亡命者グループ、すなわちレーニンによって書かれたものであるということを、トロツキーは暗に示唆している。

(4)1911年にボリシェヴィキとポーランド人中央委員が他の潮流の中央委員を排除して、組織委員会を独自に形成し、全党協議会の召集を呼びかけたことを指している。

 

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