再び請願について

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、1911〜12年にロシア社会民主労働党内でボリシェヴィキとメンシェヴィキのあいだで繰り広げられた「請願」論争に捧げられた論文である。

 ボリシェヴィキは、メンシェヴィキ解党派が開始した国会への請願カンパニアを専制下では無意味な行為であり、典型的な日和見主義であるとして糾弾したが、トロツキーは、このような合法的運動は分散した大衆を結集させ、より高度な運動へと導くかけはしとして有意義であり、国会と大衆闘争を結びつける戦術の一つであるとして擁護した。この文脈の中でトロツキーは「革命的議会主義」という言葉を用いて、反動的な議会を革命的な目的のために利用することの可能性と必要性を明らかにしている。ただし、メンシェヴィキがこの運動を非合法闘争に対置する形で遂行したこと、この運動をメンシェヴィキ解党派単独でやろうとしたことに批判的であった。

 この問題についてはすでに、トロツキーは「団結の自由と請願カンパニア」で体系的に論じていたが、本論文では、『プラウダ』編集部が行なったドイツとオーストリアの社会民主党の著名な指導者へのアンケートを踏まえながら、『プラウダ』編集部に来たペテルブルクの同志からの手紙に反論する形で改めて請願カンパニアの正当性を論じている。

 なお、この論文自体は無署名論文だが、内容と文体からして筆者がトロツキーであることは間違いない。のちにトロツキーが別の署名論文の中で、ここで書かれた文章とまったく同じ文章を再現していることからも明らかである。ルイス・シンクレアの有名な『トロツキー文献目録』は、ウィーン『プラウダ』に掲載されたトロツキーの多くの論文を収録していない。しかし実際には、ウィーン『プラウダ』に掲載された無署名論文のほとんどはトロツキーによって書かれたものである。多くのトロツキー研究者はシンクレアの目録を頼りにしているため、トロツキーの多くの重要論文がその研究対象から排除されるという事態が生じている。

 Л.Троцкий, Еще раз о петиции, Правда, No.23, 10(23) Декабря 1911.


 ペテルブルクの「手紙」は、請願カンパニアに反対するうえで最も説得的な論拠を提示している。これは、われわれがこの手紙を印刷した理由の一つである。それにもかかわらず、われわれは、『団結の自由と請願カンパニア』というパンフレットの中で展開した主張のいずれもこの手紙によっては論駁されていないと、あいかわらず確信している。

 実際そうである。手紙は言語恐怖症という非難を断固として退けている。請願という名称は筆者たちを驚かせはしない。彼らは必ずしも、「団結の自由」が「自由主義的な要求」であると考えているわけではない。この要求が、政治的民主主義の綱領全体に対するプロレタリアートの最高の階級的基準であるということに関して、彼らはわれわれに同意する。そうすると、何がいったい彼らを押しとどめているのか? それは、「現今の社会的・政治的条件」なるものである。言うまでもなく、カウツキー、ヴィクトル・アドラー、オットー・バウアーが、請願カンパニアを開始するか開始しないかの問題は、当該時点での具体的な諸条件にしたがって決定されていると言うとき、彼らはまったく正しい。しかし、同じことはどのストライキの問題にも、どの街頭デモにも、どの国会質問にも、国会のどの議事妨害にもあてはまる。団結の自由に関する法案の導入にも、同じスローガンのもとでの請願カンパニアにも、「いたずらに」着手することはできない。しかしながら、当該時点でのいったいいかなる具体的な「社会的・政治的」条件が、請願に着手することに対立するのか? このような条件をわれわれに教えてくれるならば、われわれはそれを考慮に入れるだろう。これは具体的な評価の問題である。ここでは、何であれ原則的な意見の相違の占める場所はない。

 しかし、問題の核心は、「現今の条件」の外観のもとに、われわれの批判者たちが、すでにわれわれが以前にパンフレットの中で批判したすべての原理的主張を、そして今号の『プラウダ』で最も著名な西欧マルクス主義者が壊滅的な評価を与えている原則的主張を、提起していることである。

 実際、ペテルブルクからの「手紙」が請願に反対して持ち出しているあらゆる論拠が、完全に次のことにも反対するものであることを見るのは、難しくない。すなわち、

 現在の時点における大衆のあらゆる政治的行動にも、

 社会民主党の利益のために国会を利用するあらゆる試みにも

 

   請願への反対ではなく、政治への反対

 手紙はこう述べている――「広範な労働者大衆の中に非合法組織が存在しないこと、前述の請願カンパニアのスローガンに対する大衆の関心が弱いこと、その他、このスローガンの革命的側面や第3国会に労働者階級が関心を寄せることの真の意義を大衆に十分完全かつ明確に説明することをきわめて困難にしている一連の諸事情――たとえば、この種の問題について合法出版物の中で何ごとも包み隠さず説明することが不可能であること、現時点で存在する非合法組織が脆弱であること、非合法文献の普及が取るに足りないこと、今では工場集会のみならず、多少なりとも重要な秘密会合すら開催することがおそろしく困難になっていて、請願のスローガンや計画全体を大衆自身による討論に付すことが不可能になっていること、など――、以上の事実を念頭に置くならば、このことから次のような結論が出てくる。(このような条件のもとでは)請願行動は事実上、工場で単に署名を集めることに帰するだろう」。

 いっとき、これらすべてが真実であると仮定しよう――たとえ、第2国会議員団の事件(1)と結びついたカンパニア(今やそれはかくも前途有望なものとして発展している)が、悪魔もペテルブルクの手紙が描き出しているほど怖くはない(2)ことを示しているとしても、である。しかし、それが真実であると仮定しよう。このことからいったいいかなる結論が出てくるか? 明らかに一つのことだけは明らかである。大衆との広範な接触がほとんど完全に不可能であることを考慮して、われわれは、大衆の意識の中に幻想を生まないよう、あらゆる政治行動を拒否しなければならないことである。第2国会議員団のための闘争だって? しかし、われわれが恩赦をツァーリに陳情しているとか、ツァーリの裁判所に対する信頼を表明していると、大衆が少しでも考えたらどうするのか! 労働者保護法案に対する社会民主党の修正だって? しかし、われわれが労働者に対するグチコフ(3)やクルペンスキー(4)の愛に期待を抱いていると、大衆が思い込んだらどうするのか! ではするべきこととして何が残っているのか? もちろん、「今のところ」、政治を拒否して、理論的自己修養につとめるべきである、というわけだ。

 こうした袋小路から抜け出すためには、何よりもわれわれ自身がいくつかの戦術的幻想を退けておかなければならない。どんな政治的カンパニアも、どの国においても、どんな条件下でも、一撃で大衆の政治的蒙昧を明確な政治的意識に置きかえることはできないということである。どんな政治的スローガンであれ、それが無自覚的な大衆のもとに届くときには、必然的にあれこれの幻想を生み出す。完全な蒙昧や無関心や沈滞と比べるならば、政治的幻想でさえ一定の進歩や前進を意味するし、興味関心や能動性の喚起を意味する。そして、何らかの政治的カンパニアのたびごとに、問われるべき問題はこうである。カンパニアの終わりには、それが開始された時点よりも大衆の政治的意識が高まっていることを内的に保証するものが、そのカンパニア自身の中にあるのかどうか、である。

 

   請願への反対ではなく、議会制度への反対

 しかし、この問いに対して、手紙の筆者達は否定的に答える決意がつかない。だが彼らが、そこから引き出した結論は根本的に誤っている。彼らはこう書いている。

「疑いもなく、究極的には、請願カンパニアは、何をするべきではないかという有用な教訓を大衆に与え、6月3日体制の英雄たちの正体を大衆に示すだろう。しかし、国会に対する幻滅した大衆は容易に、その運動の指導者たち、すなわち請願運動のイニシアチブをとった社会民主党に幻滅するだろう。このことから大衆は容易に次のような論理的帰結を引き出すだろう。国会に目を向けるようわれわれに助言している社会民主党は、自分自身、国会の本当の意義について理解しておらず、したがって、その本来の立場に立っていないか、あるいは、意識的に大衆をだましている、そして、あらゆるデマゴギーにとってきわめて好都合な土壌を作り出している、と」。

 以上のようなものが、請願カンパニアに対する「手紙」の最も原理的な反対論である。しかし、まさにこの反対論が最も原理的であるがゆえに、それは最も破綻したものでもあるのだ。なぜなら、ここで請願カンパニアに反対して言われたことはすべて、完全に、一言一句、国会質問に関しても、法案の作成に関しても、さらには、国会選挙そのものに関しても繰り返すことができるからである。われわれは「手紙」の筆者のひそみにならって、こう繰り返すことができる――「第3国会に幻滅した大衆は(なぜなら、第3国会は、社会民主党のあらゆる法案や質問を退けているし、今後とも退けるだろうからである)、容易にその運動の指導者たち、すなわち第3国会選挙のイニシアチブをとった社会民主党に幻滅するだろう。大衆はこのことから容易に、次のような論理的帰結を引き出すだろう」…云々、云々。この推論が正しかろうと間違っていようと(もちろんまったく間違っているのだが)、このことの「論理的帰結」は単に請願の拒否ではなく、国会を利用するあらゆる試みの拒否である。すなわち、召還主義ボイコット主義である。

 われわれの戦術的論争に関して発言したヨーロッパのすべての同志たちは、まさにわれわれと同じように問題を立てている。前掲のカウツキーやバウアーの手紙を読みたまえ。しかし、この点に関してとりわけはっきりしているのが、メーリング(5)の手紙である。メーリングは、他のすべての回答者と同じく、大衆を動員する一形態として請願は許容できるかどうかに関するアンケートを送付されたにもかかわらず、その有意義な回答の中で、そもそも一度も請願について言及しさえしていない。ドイツ社会民主党の歴史を書いたこの著述家は、請願が法案の提出や国会質問と原則的に区別できるものとまったく考えておらず、それゆえ彼は、プロレタリアートの社会的・革命的教育のためにブルジョア議会ないしエセ議会を利用することができるかどうかという一般的問題に答えているのである。

 法案作成はよいが、請願はだめ――このような区別は原理的根拠のないものであり、ある者にとっては誤解の産物であり、別の者にとっては分派的気まぐれである。原理的に対置されるべきは、革命的議会主義か、エセ革命的反議会主義かである。

 

   無原則性

 前掲の「手紙」の筆者たちは、われわれの『団結の自由と請願カンパニア』の小冊子におけるあらゆる論拠がペテルブルク地区の決議に矛先を向けているとみなしているが、それは誤っている。実際には、われわれは、国外出版物および合法出版物で請願に反対するために持ち出されたすべての論拠をあの小冊子で総括しているのである。とりわけ、請願書の文言に対する不誠実な批判というわれわれが投げかけた非難は、けっしてペテルブルク地区の代表者にはあてはまらない。彼らがその決議の中で請願書の文言について一言も述べていないという一つのことだけからしてもすでにそうである。われわれが直接言っているのは、数千人の労働者によって国会に提出され、社会民主党議員のチヘイゼによって演壇から読み上げられた請願を、哀れな「哀願」であるとして悪意を持って不誠実に軽蔑することにしか自分の力を発揮するすべを知らない「文筆家」のことである。

 われわれは請願の文言を逐語的にドイツ語に翻訳して、それを、社会主義インターナショナルの公認の権威者たちの審判にゆだねた。カウツキーはこう書いている――「請願の文章はけっして、従順な哀願者の調子で書かれてはいない。それはお願いではなく、要求である」。

 非妥協的な革命家であるカール・リープクネヒトもこう書いている――「提出された請願の形式は、屈辱的な嘆願と真っ向から対立している(ist das Gegenteil von erniedrigend)」。

 ドイツとオーストリア社会民主党での豊かな経験を備えたマルクス主義者であり、われわれのよく知るアドルフ・ブラウン(6)はこう書いている――「この『請願』の調子は、私には模範的で真面目で立派なものであると思われる。この請願のどの内容も、この言葉[請願]の文字通りの意味で解されることはないだろう。力強く精力的に事実の言葉で語っているこの請願書は、労働者の諸要求を表現しており、労働者階級の知的活動にとって有益な文書である」。

 われわれから質問されたヨーロッパの同志たち――その政治的能力と革命的感性にはあえて誰も異を唱えないだろう――の誰一人として、請願書の中に、労働者階級の誇りと両立しないような何ものも見出さなかった。だが、わが党の一部の文筆家たちは、請願書について、みじめで、屈辱的で、愚劣で、哀れな紙切れにすぎないとわめきたてている。そしてわれわれは尋ねる。評価のこのような途方もない不一致はいったい何によって説明されるのか、と。われわれはすでに社会主義インターナショナルを乗り越えてしまったのか? それとも、もしかしたら、まさにロシア社会民主党においては、次のような民族主義的決まり文句があてはまるのか――「ドイツ人にとって健康になるものは、ロシア人には死をもたらす!」。いや、問題は言うまでもなくこんなところにはない。

 わが党のますます堕落しつつある分派主義的セクト主義の呪いはまさに、それが政治的に無原則的で、道徳的に不誠実な点にある。その自己保存のための闘争において、セクト主義的グループは、一方では、すべての潮流が友好的に協力し合えるような基本的な大課題を系統的に無視するか、後景に退けることを余儀なくされ、他方では、同じ原因のせいで、現存する意見の相違を途方もなく誇張し、虚構の相違をでっち上げることを余儀なくされている。真の社会民主主義的政策の本質は、革命的リアリズムに、すなわち根本的な問題を2次的な問題から、真の存在を偽の存在から区別する能力にある。したがって、分離につながるあらゆるものを人為的にかき集め、統一につながるあらゆるものを系統的に無視するということにもとづいているセクト主義的サークル主義の政策が、社会民主主義的戦術の基本原則の完全な拒否に行きつくのは、まったく明らかである。

 団結の自由、プロレタリアートのこの「大憲章(マグナカルタ)」――わが友人オットー・バウアーの卓越した表現によれば――のための闘争はまさに、わが党のすべての潮流と傾向、わが党のすべての組織、われわれのありとあらゆる種類の武器を同一の目的に向けてむすびつけることができるしそうしなければならない、根本的で、明々白々な大課題である。しかし、このような統一的な闘争において、あらゆるセクト主義的サークルは滅びるだろう。なぜなら、この闘争において、この種のサークルは自足的存在であることをやめ、全体の一部になるからである。自己保存の本能は、これらのサークルに対し次のことを命じる。いかなるものであれ共同行動を掘りくずし、その内的困難を誇張し、他者の――実際のないし偽りの――誤りをあげつらい、統一したスローガンの意義を過小評価し、すべての展望を破壊し、小を大に、大を小に見せかけ、そして最後に、行動のイニシアチブをとった人々をあれこれのやり方で貶めることである。つまり一言で言えば、何よりも明確さと清廉さとが必要とされるところで、混乱、不信、動揺、カオスをまき散らすよう命じるのである。

 現在、われわれの目の前で、分派からの解放の過程が疑いもなく生じているが、しかしながら、古い分派体制の政治的不可能性を今のところ漠然としか感じていない多くの同志たちは、あたかもわが党の分派主義が原則性の過剰にすぎないという偏見をやはりまだ払拭していない。だが実際には、分派主義的サークル主義は、政治的無原則性を体現しているのである。その「非妥協性」は、他のサークルとの野放図な競争によって生じているにすぎず、しかも、それによって、マルクス主義的政治の最高原則であるプロレタリアートの階級闘争の統一性を破壊しているのである。

 『ラボーチャヤ・ガゼータ(労働者新聞)』(7)のグループ[レーニン派]は、召還派の党追放のみならず、(この派のことを「合法則的な色合い」であると認めたというかどで)フペリョート派の党追放をも要求しているが、自分自身、実際には完全に召還主義的立場に立っていること――たしかに徹底してはいないが――は、この上なく教訓的なことではないだろうか? そしてこれは、われわれの観点から見てそうであるだけでなく、カウツキー、メーリング、アドルフ・ブラウン、オットー・バウアー、レーデブール(8)、カール・リープクネヒトの観点からしてもそうである。これらの人々は、『ラボーチャヤ・ガゼータ』が請願カンパニアに反対するために持ち出しているあらゆる論拠が、国会のあらゆる利用に反対するものであり、国会選挙そのものにさえ反対するものであることを明らかにしている。このような事例は、大衆の政治行動に足場を持っていない「全般的線引き」というサークル主義的戦術が、その方法の点でまったく恣意的で気まぐれなものであり、その結果の点で不毛なものであることを、1001回目に物語っているのではなかろうか? 

 

   カウツキーの党統一論

「ロシア社会主義の分派の現状を考えれば――とカウツキーは書いている――、何をなすべきかという問題よりも、何をなすにせよ一致団結してなすべきであるということの方がはるかに重要である」…。
「最も素晴らしい行動でさえ、それが分派的争いを引き起こすかぎり、いかなる成果ももたらさない。他方では、批判的見地からすれば完全に満足するべき水準にいたらない行動でも、それがすべての分派の共同事業として行なわれるならば、……プロレタリアートの中に大きな影響を及ぼし、彼らを活性化させるだろう」。

 これは、政治行動というものを何よりも他の分派に反対する行動として取り組んでいるグループのエセ「原則性」に対する、容赦のない断罪ではなかろうか。そして、ロシアのどの社会民主主義者も、国際社会民主主義の最も権威ある理論家が革命闘争の再生にとっての主要なブレーキとみなしている「非妥協性」の真の価値について厳しい疑念の目を向ける道徳的義務があるのではなかろうか。

 さらに、カウツキーは、もっとはるかに手厳しい調子でこう述べている――。

「社会民主党がこのような内的な組織解体と敵意のうちにあるかぎり、社会民主党は大衆のあらゆる行動にとって直接的な障害物となるだろう。そして、党の影響力が強力に維持されていればいるほど、この障害はますます大きなものになるだろう」。

 これは恐るべき有罪宣告ではなかろうか。われわれの党、プロレタリアートの党が、大衆の活動力にとっての障害物になるというのだから! もちろん、分裂の事業の名人および徒弟にとっては、簡単な出口がある。すなわち、カウツキーを解党主義者に数えることである。やってみるがよかろう、われわれは見守るとしよう…。

 だが、解党派という名称をつくりだした者たちは、まったく無節操なことに、カウツキーを自分たちの同意見者の中に数えいれている。たしかに、カウツキーは、現在のわが党に対してきわめて手厳しい評価を下した。だが、カウツキーは、この党の構成の中に、まったく正当にも、「解党派」を党の分派の一つとして含めているのである。「解党派」がいかに現在のわれわれの党に対し否定的に対していようとも、彼らは党から飛び出すことはできない。歴史的かつ政治的に、彼らは党の不可欠の一部なのである。解党派が「古い党に背を向け」ようとしたとき、これは単に、彼らがそうすることで自らの分派的自己保存のために闘っていたことを意味しており、その次の日には、彼らは、自分たちが言葉の上で「背を向けた」党に活動の中で正面から向き合うことを余儀なくされた。カウツキーは、その慧眼な目でたちまち請願カンパニアのアキレス腱を見抜いた。諸君にあっては――と彼は言う――、それ[請願カンパニア]は「一部の同志たち」の事業だが、本来それは党の事業にならなければならない、と。われわれも自分たちのパンフレットの中で次のように述べている。

「請願カンパニアのイニシアチブをとった合法運動の活動家たちは、このカンパニアが、その最初の一歩から、党のアジテーションによって補完され深められるように配慮するべきであった。だがそのためには、非合法組織の活動家たちと非合法の党出版物の協力を前もって取りつけなければならなかった」。

 言いかえれば、カンパニアの開始と同時に、党のすべての潮流を包含する地方の党組織の再建に着手しなければならなかったのである。この課題こそが現在、われわれの前に全面的にそびえ立っている。合法主義者がこの課題の実現に参加するならば、それは党派性(パルティノスチ)にとっての巨大な成果になるだろう。手段を選ばず合法主義者を党の境界の外に放り出そうとすることは、無分別で犯罪的なことである。

共同行動のためにさまざまな分派を統合することは、どんな行動であれそれが成功するための前提条件となるだろう。そして、それはわがロシアの同志たちの最も重要な実践的課題になるだろう」。

 このように諸君らロシアの労働者に語っているのは、もはや『プラウダ』ではなく、最も強力で最も原則的に首尾一貫したドイツ社会民主党の理論的指導者、カール・カウツキーである。

 この言葉をわが党のすべての活動の指導原理にしようではないか。そして、来るべき全党協議会を通じて、最終的にこの原理を実現しようではないか!

ウィーン『プラウダ』第23号

1911年12月10日

『ニューズレター』第31号より

  訳注

(1)第2国会議員団の事件……1907年6月3日、ストルイピンは急進的な第2国会を解散させ、選挙法を改悪したが(ストルイピンのクーデター)、そのとき社会民主党の国会議員団を逮捕・流刑した。

(2)「悪魔も絵に描いているほど怖くはない」=「案ずるより生むが安し」という意味のロシア語のことわざをもじっている。

(3)グチコフ、アレクサンドル(1862-1936)……ロシアのブルジョア政治家。大資本家と地主の利害を代表する政党オクチャブリスト(10月17日同盟)の指導者。第3国会の議長。ロシア2月革命で臨時政府の陸海相になり、帝国主義戦争を推進するが、4月の反戦デモの圧力で辞職(4月30日)。グチコフの代わりに陸海相になったのがケレンスキー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と激しく敵対。1918年にベルリンに亡命。パリで死去。

(4)クルペンスキー、パーヴェル・ニコラエヴィチ(1863-192?)……帝政ロシアの反動政治家、大地主。ベッサラビア出身で、第2国会、第3国会、第4国会議員。

(5)メーリング、フランツ(1846-1919)……マルクス、エンゲルスの友人、ドイツ社会民主党の指導者、ローザと並ぶ左派の指導者。第1次大戦中、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトとともにスパルタクス団を結成し、その後ドイツ共産党を創設。

(6)ブラウン、アドルフ(1862-1929)……オーストリア社会民主党およびドイツ社会民主党の指導的幹部、新聞編集者。1893〜1898年、ドイツ社会民主党の『フォアヴェルツ』の編集者。第1次世界大戦中はドイツ社会民主党の左派。

(7)『ラボーチャヤ・ガゼータ』……ボリシェヴィキの大衆的な非合法新聞で、1910年から1912年までパリで発行。この新聞にはプレハーノフ派(党維持派メンシェヴィキ)も参加。

(8)レーデブール、ゲオルグ(1850-1947)……ドイツの古参の社会民主党員、中央派。1917年に独立社会民主党の創設者の一人。独立社会民主党の第3インターナショナルへの加盟に反対。1922年に社会民主党に復帰。1931年に社会主義労働者党に参加。1933年にスイスに亡命。

 

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