「日本」問題

トロツキー/訳 西島栄

ジョルジュ・クレマンメ[

【解説】これは、第1次大戦中にトロツキーがキエフの急進民主主義新聞『キエフスカヤ・ムイスリ』に寄稿した論文である。

 この時期、トロツキーは、オーストリアのウィーンから逃れて、スイスに一時滞在したあと、フランスのパリに腰を落ち着けていた。この地で、トロツキーは、他のロシア人亡命者とともに、国際主義的日刊紙『ゴーロス』(後に『ナーシェ・スローヴォ』)を編集するかたわら、生活のために、引き続き『キエフスカヤ・ムイスリ』に記事を送っていた。その中の一つが、この「『日本』問題」である。題名に「日本」という国名が入るのは、この時期の論文としてはおそらく唯一のものであろう。この論文は、当時、非常に話題になっていた、日本軍のヨーロッパ戦線への投入問題を扱ったものである。当時、対独戦線において膠着状態にあったフランスの一部の政治家は、同盟国である日本の軍隊をヨーロッパに派遣させ、それでもってドイツの包囲を打ち破ることを主張していた。その中心人物は、古くからの外交官ピションと大戦末期に首相となるクレマンソー(右上の写真)であった。

 この論文は、読めばわかるように、日本そのものについてはほとんど論じていない。あくまでも、フランスの政治情勢とのかかわりでのみ、日本のことに触れられているにすぎない。日本側は、輸送の困難さなどを理由に、ヨーロッパ出兵を拒否したが、連合国側からの出兵要請は、その後も断続的に行なわれ、部分的な合意にいたり、日本軍は地中海に艦隊を派遣することになった。しかしそれは戦闘には参加せず、事実上アリバイ的なものであった。

Л.Троцкий, “Японский”вопрос, Сочинения, Том.9−Европа в война, Мос-Лен, 1927.


ステファン・ピション

 現在、文字通りフランス世論の焦点として燃え上がっている問題がある。それは、日本の援助という問題である。事実上これは、フランスのマスコミの中で激烈な闘争が繰り広げられている唯一の政治問題である。大戦のほとんど開始時点からこの問題を提起するイニシアチブを取っていたのは、前外相のピションである。ピション(1) [右の写真]は外相時代の1907年に、日仏協定を成立させ、その数ヵ月後に日露協定が成立した。ピションは、状況が自分にとって助けになると確信している人間のごとく、あるいは、当分は人に理解されない目的を追求している人間のごとく、単調な執拗さをもって、『プチ・ジュルナル』(2)の中でキャンペーンを展開した。決裂したはずのかつての同僚にして弟子の助けに馳せ参じたのは、クレマンソー(3)であった。クレマンソーはたちまちのうちに、ヨーロッパにおける自軍の主力部隊に日本軍を引き込むべきかどうかの問題をめぐる討議に毒々しさを持ち込んだ。彼は、弱腰連中を嘲笑し、「道徳的」および「民族的」疑念をせせら笑い、外務省(ケ・ドルセー)の高官たちを世間知らずのお坊ちゃんであるかのごとく鼻であしらった。そして、ついには、ピションによって提起された課題を今日における基本政策の中心問題にまで引き上げたのである。フランスの外交予備軍のこれらの最重要人物の助けに現われたのは、身軽なゲリラ兵(franc-tireur)たちであった。フランスのアカデミズム出身のピションは、すでに2〜3週間前に歌のような論文を執筆し、次のような言葉で締めくくっている。「ようこそ、日出ずる国の末裔たちよ!」。

 いずれにせよ、問題は設定された。そしてそれは新聞の中だけではない。本稿が読者の手に届くころには――これは今では恐ろしく長い期間になっている――、問題はすでにいずれかの方向で実践的に解決されている、あるいはより正確に言えば、外交的に解決されている、ということも大いにありうる。それだけにいっそう、時機を失することなく読者の注意をこの日本問題のもう一つの側面、すなわちフランスにとって特別な鋭さを帯びている側面に向けることが重要であるように思われる。

ジョッフル将軍

 事の本質はまったく単純である。戦争はすでに5ヶ月も続いている。フランスに対するドイツの嵐のような強襲は瓦解した。ドイツ側の攻撃は全線線で停止している。しかし、ドイツ軍がベルギー全体とフランス領の5分の1を占領しているという事実は、依然として確固たる力を持っている。ドイツの攻撃は撃退されたが、時が経つにつれてますます、これが戦争の課題の小さな一部分にすぎないということが明らかになるだろう。今やフランスが攻撃に出る番である。ドイツの参謀本部は、総攻撃を命じたジョッフル(4)[左の写真]の本物の命令を公表した。その総攻撃は[1914年]12月17日に始まることになっている。実際、この日以来、前線は、それに先立つ数週間の停滞の後、再び「活気」を帯びはじめた。両国の総司令部の発表を比較検討したスイスの陸軍大佐フェイラーは、次のように述べている。フランス軍は毎回、新たに占領された塹壕や、以前占領した塹壕の強化について語っている、つまりは積極的な成果について語っている。それに対してドイツ軍はほとんどもっぱら、攻撃が撃退されたことについてのみ語っている、と。しかし、フランスの攻撃の性格そのものが、フランス軍の前にある課題がいかにまだまだ巨大なものであるかをこの上なくよく物語っているのである。

 数週間前、『フィガロ』(5)に、古くからの外交官であるガブリエル・アノトー(6)の論文が掲載されたが、それは、ヨーロッパの問題に日本が直接に介入することに対する、社会意識の中にいまだ保持されている民族的な「偏見」を体現したものだった。勝利は何よりも「フランスの」勝利でなければならない。日本の25万の兵員は、数百万人規模の軍隊に比してあまりにもちっぽけであり、とうてい決定的な意義を持つことはできない。それにもかかわらず、日本軍に支援を呼びかけたりすれば、「われわれは、おそらく、将来の世界の運命にとって必要欠くべからざることは自分たち自身の手でやり遂げるのだという優越性を失うことになるだろう」。このような思想に対して、同じ断固とした調子で反対したのが、アノトーの友人であるピションと、いつもは両名の政敵となっているクレマンソーである。

 クレマンソーはこう述べている。「フランス外務省の精神をこの上なく体現しているアノトーは、われわれの勝利が『とりわけてフランスの』勝利であることを望んでいる。おそらく、彼はイギリス、ロシア、ベルギー、セルビアのことを忘れているのであるまいか? 国が自力だけでやっていけるならけっこうなことである。このことに反対して論争する者がいるだろうか? しかし、それでもやはりそういうことはありえない。われわれフランス人にとって、われわれの依存性が増大することのほうが、それを一方的に凍結するよりも好都合である。問題を、情緒的な議論の土壌から、実際的な交渉の土壌へと移すべき時である」。これと同じ趣旨のことをピションも述べている。「われわれの陣営の数が増大すればするほど、強力になればなるほど、それだけ早く戦争を終わらせることができる。もしわれわれが自国の兵士の命、わが国の資源、民族の未来を大切にしたいのなら、われわれは自分たちの側にできるだけ多くの武装した友人・同盟者・仲間を確保するべきである」。

 「原則的」性格の反対論を退けたあとにも――もっとも、この原則的反対論には、今やアノトー自身があまり固執していないのだが――実務上の困難が残っており、その困難の程度をピションもクレマンソーもけっして過小評価していない。まず第1に、同盟諸国との合意に達しなければならない。日本は、公式的にはイギリスとのみ同盟関係にある。ところがそのイギリスは、そのような例外的手段を用いて軍事作戦を推進することに、他の国よりも乗り気ではない。第2に、同盟諸国との合意は、日本にとって受け入れられるような条件で結ばれなければならない。問題は、ヨーロッパの運命に介入する権利を「黄色人種」に委ねることができるのかどうかではなく、どのようにして日本を軍事干渉に引き込むのか、にある。フランスのメディアは、理想主義的文学への伝統的嗜好を有しており、情熱的な美辞麗句の外皮をともなってしか戦争を論じない。しかし、だからといって、フランスの政治家に現実感覚がないということではけっしてない。まったくそうではない。彼らは、セルビア人の民族的自治やベルギー人の踏みにじられた権利の回復のために日本が自国の軍隊をヨーロッパに派遣するようなことはない、ということをはっきりと理解している。したがって、何よりも問題になるのはその代償なのである。

 たとえば、『エクレール』(7)の編集者エルネスト・ジューデはこう述べている、「取引には対価の支払いがつきものであるとすれば、日本が何を与えることができるのか、その費用はどれぐらいかを知ることこそが、重要なポイントである」。『リベルテ』(8)もこう語る、「われわれは、対価の支払いが必要であることをよく承知している。しかし、抽象的理念に支払うよりも、積極的な協力に支払うほうが容易である」。ギュスタフ・エルヴェ(9)は、彼独特の安直な断固さで問題に取り組んだ。「もし日本人が、もっぱら名誉のためだけに協力することに同意したとしたら、彼らはあまりに無邪気だということになろう。明らかに、手ごたえのある何か(quelque chose de palpable)を彼らに提案しなければならない。ずばりそれは何か? さあ(allons!)、鍋の周りをぐるぐる回っている場合ではない」。しかし、今まさにエルヴェが外交の鍋に指を突っ込もうとしたそのとき、彼の社説には大きな空白がぽっかりあいているのである。

 クレマンソーは、今すぐに交渉を開始することを要求している。なぜなら、現在、フランスの軍事事情が少なくとも同盟国よりも悪くはなく、したがって、日本の奉仕に対する支払いがフランス一国だけにかかってはこないと期待することができるからである。フランスが軍事的な失敗を喫した場合には――とクレマンソーは言う――、日本の協力は明らかに切羽詰ったものとなり、日本への支払いは3倍高くつくものとなるだろう。しかしながら、今でも、支払いは間違いなくかなり高くつくものとなるだろう。

 日本が極東の舞台に登場したことは、フランスにとって巨大な意義を持った事実であった。青島(10)を占領した日本は、552平方キロメートルもの面積をもつ植民地を手中にしただけでなく、中国に住む全ドイツ人を手に入れた。膠州(11)を占領することによってドイツは、山東省全体の鍵をわがものとした。ドイツは、巧みで粘り強い政策によって、中国内陸部にいたる鉄道の利権を手に入れ、大河の運河建設事業に着手し、北京に対する政治的影響力を手に入れた。以上のことは今では日本の支配下で起こっている。極東情勢に通じたドイツ人作家のヴェルトハイマーはこう書いている。「日本が青島と満州全体を獲得して以来、日本は二つの方面から袁世凱(12)の権力の中心地である中国北部を包囲した。当時、この恐るべき政治家は完全に日本の手中に落ちた。これによって、中国は北部と南部に分裂した」。南部では、イギリスが地歩を固めている。北部では日本が主人となった。こうして、日本は今ではもはや、軍事的成功における自国の取り分に関していかなる不満も述べることはできない。基本的にごくわずかな軍事的努力と犠牲によって、日本の前には巨大な規模の可能性が開かれることになった。このような状況のもとで、明らかに、日本が、50万人もの自国の兵士をヨーロッパ戦争の渦の中に投げ込む決意をするには、その餌となるような新しい利益は、よっぽど魅力的で国内で人気を博すようなものでなければならない。日本政府がその対価の一つとして…ハンブルクを要求しているという噂が新聞の中でまことしやかに流されているが、それも無理のないところである。しかし、ハンブルクは今のところまだドイツの手中にある。

 日本にとって非常に重要なのは、黄色人種の移民のためにオーストラリアの門戸開放を勝ち取ることであろう。この譲歩は日本の援助への対価に入るかもしれない。しかし、このような譲歩にはオーストラリアの方が合意しないだろう。オーストラリア社会の全体は、資本と労働の保護主義に立脚している。黄色人種の波にダムの水門を開けることは、保護主義にもとづいて高賃金と発達した社会立法とを保持していたオーストラリアに、巨大な社会的激変を引き起こすだろう。フランスは、インドネシアにおける自国の植民地でもって日本に支払うこともできる。その植民地は安南(13)およびトンキン(14)と呼ばれている。しかし、このような代償は、今ではフランス本国の中であまり人気がない。フランスの新聞は言う――それは、ドイツの軍事的優位性の結果として国家の属領が犠牲にされたものと受けとめられるだろう。この問題を論じている評論家たちはこう絶叫する――敵に直接支払いをしようが、あるいは、敵に対抗する援助の代金として同盟国に支払いをしようが、結局のところ、差はそんなに大きくはない。ベルギーとフランス北部がすでにドイツの手中にあるが、戦争全体の結果はまだ予断を許さない現在、フランス政府にとって、自らの植民地でもって日本の援助に支払いをするのはきわめて困難なことであろう。

 翌々日ピションは、政府によって「明確で緊急の」交渉が行なわれていることを明かした。たしかに、東京の外務大臣は、ロンドンの日本大使館と同じく、この交渉の噂を否定したが、『ル・タン』(15)は自信たっぷりに、この否定が単に形式の問題にすぎないとみなすよう示唆している。たしかに日本に対する公式の提案はなされていないが、交渉は行なわれている、しかもはっきりとした形で。『ル・タン』はさらに、議会の解散(16)をもたらした日本国内における政治的危機が、極東の同盟国の参戦に影響を及ぼさないだろうとの希望を表明している。

 いずれにせよ、日本軍にとってヨーロッパにいたるには二つの道がある。シベリア鉄道を使って東ヨーロッパの戦場に至る陸路と、イギリスの艦隊に守られて西ヨーロッパの戦場に至る海路である。「したがって、全問題の鍵は」、とジューデは述べている――「パリよりもむしろロンドンとペトログラードに見出すべきである」。

パリ

『キエフスカヤ・ムイスリ』第6号、1915年1月6日

ロシア語版『トロツキー著作集』第9巻『大戦中のヨーロッパ』所収

『トロツキー研究』第35号より

 

  訳注

(1)ピション、ステファン(1857-1933)……フランスの政治家。1885〜93年、急進党の下院議員。1900年、駐清大使。1906〜1911年、外相。在任中、オーストリア=ハンガリーがボスニア=ヘルツェゴビナを併合した時にロシアの外相イズヴォリスキーと交渉にあたる。1906年から上院議員。1917〜20年にも外相。首相のクレマンソーを助け、対独講和を締結。

(2)『プチ・ジュルナル』……フランスのブルジョア右派の大新聞で、大きな影響力を持ち、一時期、100万部の発行部数を誇っていた。

(3)クレマンソー、ジョルジュ(1841-1929)……フランスのブルジョア政治家、急進党の指導者。1902年に上院議員、1906年に内相。同年に首相に就任したが、急進主義を捨てる。対ドイツ対決政策を推進し、軍備増強。第1次大戦中は、政権の弱腰を批判し、大戦末期に首相になるや、独裁権を行使して戦争遂行に邁進。

(4)ジョッフル、ジョゼフ(1852-1931)……フランスの元帥。第1次世界大戦で協商国側の陸軍総司令官として、マルヌの戦いを勝利に導いた。

(5)『フィガロ』……フランスの大新聞。大資本および金融資本の機関紙。

(6)アノトー、ガブリエル(1853-1944)……フランスの歴史家、政治家、右派自由主義者。長いあいだ教師として古文書学を研究し、その後、外務省に勤務、古文書係に。急速に出世の階段を駆け上がり、1986〜89年、下院議員。1894〜98年、外務大臣。在任中、ロシアとの友好関係の強化に尽力する一方、アフリカの植民地化に力を注ぐ。1914年に再び外務大臣として入閣。1921年に国際連盟のフランス代表に。歴史に関する多数の著作あり。

(7)『エクレール』……フランスの共和派民族主義者の新聞。

(8)『リベルテ』……フランスの夕刊新聞で、反動的民族主義派の機関紙。

(9)エルヴェ、ギュスタフ(1871-1944)……フランス社会党員で、アナルコ・サンディカリスト。第1次大戦前はフランス社会党の最左派で、『社会戦争』紙を発行。第1次大戦勃発後、排外主義に転じた。

(10)青島(チンタオ)……中国の山東省の港湾都市で、山東半島南海岸にある膠州湾の湾口東岸に位置している。1914年に日本によって軍事占領された。

(11)膠州……中国山東省の南部にある港で、日清戦争後の3国干渉でドイツに租借された。

(12)袁世凱(えん・せいがい/Yuan Shi-kai)(1859-1916)……中国の傑出した政治家、軍閥。長い間、中国のさまざまな州の知事を歴任し、第1次中国革命(辛亥革命)の勝利後の1911年に総理大臣、孫晩仙の排除後の1912年、中国の臨時大総統に。最初、中国のブルジョア民主主義政党である国民党を尊重していたが、大総統に就くやいなや、革命運動を弾圧しはじめ、公然と反動的クーデターを準備。1913年に国民党員を議会から一掃し、その後すぐ議会を解散し、正式の初代大総統に。君主制を復活しようと画策し、1915年末に、清王朝を復活させて1916年2月に自らの皇帝戴冠式を執り行なうと宣言。この知らせを聞いた中国の人民大衆は各地で決起し、この蜂起は全土に広がる。袁世凱は、この蜂起を知って、最初は戴冠式の延期を宣言するが、運動がいっこうに止まないのを見て、戴冠式を断念。失意のうちに、1916年夏に死去。

(13)安南……アンナン。ベトナムの北部から中部にかけてあったフランス保護領の名称。

(14)トンキン……ベトナム北部に対するフランス人植民者による呼称。

(15)『ル・タン』……フランスの大新聞で、外務省寄りの立場。1861年創刊。

(16)議会の解散……1914年12月25日、衆議院は2個師団の増設費用を否決したことによって、解散させられた。この2個師団の費用は翌年の6月に可決されている。

 

 

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