二つの顔

――ロシア革命の内的力

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】これは、2月革命勃発直後、アメリカのロシア人亡命者の社会主義新聞『ノーヴィ・ミール』に執筆されたトロツキーの一連の諸論文の一つである。この論文の中でトロツキーは、2月革命によって成立した自由主義ブルジョアの政府を容赦なく批判し、彼らが戦争を最後まで遂行することを使命とした反革命的帝国主義政府に他ならないことを暴露している。

Л.Троцкий, Два лица, Сочинения, Том.3, 1917, Часть.1, Мос-Лен., 1924.


 現在進行している事態をより詳しく見てみよう。

 ニコライ(1)は退位し、ある情報によれば拘禁さえされているという。黒百人組の最も悪名高い連中は逮捕され、そのうちの何人かの最も憎むべき連中は殺された。オクチャブリスト[反革命的ブルジョア政党で指導者はグチコフ]、自由主義者、急進派のケレンスキー(2)から成る新しい内閣が組織された。全般的な恩赦が布告された。

 以上のすべては輝かしい事実であり、偉大な事実である。これらは外部世界にとって最も目につく事実である。ヨーロッパとアメリカのブルジョアジーは、政府上層部におけるこうした変化に基づいて諸事件の意義を評価し、革命は勝利し完了したと表明している。

 ツァーリとその黒百人組は権力を維持するためだけに戦った。戦争、ロシア・ブルジョアジーの帝国主義的計画、「同盟国」の利害――これらすべては彼らにとって二義的なものであった。最も忠実な連隊の手を自由にし、自国民との戦闘に振り向けるために、彼らにはいつでも喜んでホーエンツォレルン家やハプスブルク家と講和を結ぶ用意があった。

 国会の進歩派ブロック(3)は、ツァーリとその閣僚を不信任した。このブロックはロシア・ブルジョアジーのさまざまな政党によって構成されていた。それは二つの目的を持っていた。第1に、最後まで戦争を遂行することであり、第2に、内部改革――よりしっかりとした秩序、統制、財政――を行なうことである。ロシア・ブルジョアジーにとって、市場を獲得し、領土を拡張し、豊かになるためには、勝利が必要である。勝利のためには何よりもまず改革が必要である。

 しかし、「進歩」派の帝国主義ブロックは平和的改革を望んでいた。自由主義者は君主制に議会的圧力をかけることによってイギリスとフランス両国政府の援助で君主制を抑制しようとした。彼らは革命を望まなかった。革命は、労働者勢力を前景に押し出すがゆえに彼らの支配にとっての脅威に、何よりもまずその帝国主義的計画にとっての脅威になるだろうということを、彼らは知っていた。都市と農村、および軍隊自身の勤労大衆は平和を望んでいる。自由主義者はこのことを知っている。それゆえ、彼らは常に革命の敵であり続けたのである。数ヵ月前、ミリュコーフ(4)は国会でも「もし勝利のために革命が必要なら、私はむしろ勝利を望まない」と表明しさえした。

 ところが、今では自由主義者は革命のおかげで権力に就いている。ブルジョア新聞の記者たちはただこの事実だけしか見ていない。ミリュコーフは、すでに新しい外務大臣として、「革命は外敵に対する勝利のために行なわれたものであり、新政府は最後まで戦争を遂行する責任を引き受ける」と表明した。ニューヨークの軍需関係の証券取引所はロシア革命をまさにこのように理解した。自由主義者が権力に就いた――したがって、より多くの弾丸が消費されるだろう、というわけだ。

 証券取引所の中には多くの賢い連中がいるし、ブルジョア新聞の中においても同様である。しかし、彼らは、大衆運動が問題となるやいなや、まったく驚くほど愚鈍になってしまう。彼らはミリュコーフが、銀行や新聞社の管理を指導しているのと同じ意味で革命を指導していると考えている。彼らは、進展しつつある事態の自由主義政府への反映しか、すなわち歴史の奔流の表面に浮かぶ泡しか見ていないのである。

 長い間うっ積してきた大衆の不満が爆発したのは非常に遅く、開戦から32ヵ月目であった。それは、大衆の前に警察の堤防が立ちはだかっていたからではなく――これは戦争中にすっかりがたがたになってしまった――、あらゆる自由主義的な制度や機関が社会愛国主義者の走狗とともに、労働者の最も意識の低い層に巨大な政治的影響力を及ぼし、彼らに「愛国的」秩序と規律が必要であるという観念を吹き込んでいたからである。すでに飢えた女性たちが街頭に繰り出し、労働者がゼネストでそれを支援する準備を整えていた時に、報道によれば、自由主義ブルジョアジーは――床ブラシで潮の満ち干を押し止めようと試みたディケンズ(5)の小説のヒロインのように、――、アピールを出したり、説教をしたりして事態の進展を押し止めようとしていたのである。

 だが運動は下から、労働者街から展開された。軍隊は数時間ないしは数日間におよぶ躊躇と発砲とこぜりあいの後、下から、兵士大衆の最良分子から蜂起に合流した。旧権力は無力化し、麻痺し、消滅した。黒百人組の官僚たちは、ゴキブリのように、こそこそと隅に身を隠した。

 この時はじめて、国会の出番がやってきたのだ。ツァーリは最後の瞬間になってそれを解散しようと試みた。そして、もし国会が解散できる条件にあったならば、「ここ数年来の前例にしたがって」その命令におとなしく従っていたことだろう。しかしながら、首都はすでに、自由主義ブルジョアジーの意向を無視して闘争のために街頭に繰り出した他ならぬあの革命的人民によって支配されていた。軍隊は彼らとともにあった。そして、もしブルジョアジーが自分たちの政権を組織しようとしなかったならば、蜂起した労働者大衆の中から革命政府が生まれていただろう。6月3日体制の国会はけっしてツァーリズムの手から権力をあえて奪取しようとはしなかったろう。しかし、君主制は一時的に消滅したが革命政府はまだ樹立されていないという空位期の好機を国会は利用しないわけにはいかなかった。

 ロジャンコ(6)がこの情勢下にあってもこそこそと逃げまわろうとしたことは大いにありそうなことである。いや、間違いなくそうだとさえ言える。しかし彼は、イギリスとフランスの両大使館によって厳格に統制されていた。臨時政府の創設に「同盟国」が加わっていたことは疑いない。ニコライによる単独講和という危険性と、労働者大衆による革命的講和という危険性の間にはさまれて、同盟国の諸政府は、唯一の救いは進歩派帝国主義ブロックの手中に権力が移行することであるとみなした。ロシア・ブルジョアジーは現在、ロンドンへの最も密接な金融上の依存関係にあり、イギリスの「アドバイス」は彼らにとって命令として響く。それゆえ、自由主義ブルジョアジーは、その過去の全歴史に反して、その政策に反して、その意向に反して、権力に就いたのである。

 ミリュコーフは現在、ロシアは「最後まで」戦争を継続すると語っている。これは簡単に出てきた言葉ではない。なぜなら、彼は、自分の言葉が新政権に対する大衆の憤激を引き起こすに違いないということを知っているからである。それでも彼は、かかる言葉をロンドン、パリ、そして……アメリカの証券取引所のために語らざるをえなかったのである。彼が自分の好戦的な宣言を外国に打電しながら、自国にはそれを隠しているということは、大いにありそうなことである。なぜならば、ミリュコーフは、現在の状況においては戦争を遂行することもできないし、ドイツを粉砕したり、オーストリアを分割したり、コンスタンチノープルやポーランドを占領したりすることもできないということを非常によく知っているからである。

 大衆はパンと平和を求めて蜂起した。若干の自由主義者たちは権力に就きはしたが、飢えている者を満腹させなかったし、誰の傷も癒しはしなかった。人民の最も先鋭で最も差し迫った必要を満たすためには平和が必要である。だが、自由主義的帝国主義ブロックは講和についておくびにも出そうとしない。その理由は、まず第1に同盟国のためであり、第2にロシアの自由主義ブルジョアジーが現在の戦争に対して巨大な責任を負っているからである。ロマノフ王朝の側近グループとともに、ミリュコーフ派とグチコフ派(7)も国をこの途方もない帝国主義的冒険の中に投げ込んだ。悲惨な戦争を停止すれば、すなわち元の木阿弥になってしまえば、この企てについて人民に説明しなければならなくなる。ミリュコーフ派とグチコフ派は革命を恐れているが、それに劣らず戦争の終了をも恐れているのである。

 まさにこのようなジレンマをもって彼らは政権に就いている。すなわち、彼らは戦争を遂行せざるをえないが、勝利の展望も持つこともできない。彼らは人民を恐れ、人民は彼らを信用していない。

「彼らは最初から人民を裏切りやすく、旧世界の代表である王権と妥協しがちであった。なぜなら彼ら自身が旧世界に属していたからである。……彼らが革命の舵を握ったのは、人民がその背後に従ったからではなく、人民が彼らを前に突き出したからである。……自分自身を信頼せず、人民を信頼せず、上に向かっては不平を言い、下を前にしては震えあがり、両方に対して利己的であり、しかも自分の利己主義を承知しており、保守派に対しては革命的で、革命派に対しては保守的で、自分自身の標語を信用せず、思想の代わりに空文句を使い、世界の嵐におびえ、世界の嵐を利用し――……独創性がないがゆえに低俗であり、ただ低俗であるという点においてのみ独創的であり――、自分自身の願望を自ら値切り、イニシアチブもなく、自分自身を信用せず、人民を信用せず、世界史的な使命も持たず――……力あふれる人民の最初の若々しい運動を自分自身の老衰した利益にそって指導し悪用する運命にある、忌ま忌ましい老いぼれ――目も、耳も、歯も、何もない連中――これが3月革命の後でプロイセン国家の舵をとったプロイセン・ブルジョアジーの姿であった」(カール・マルクス)(8)

 偉大な師の以上の言葉は、わが国の「3月革命」の後で政権の舵をとっているロシアの自由主義ブルジョアジーの完全な肖像を与えてくれる。「自分自身を信頼せず、人民を信頼せず、目も、耳も、歯もない」、これが彼らの政治的顔である。

 だが、ロシアとヨーロッパにとって幸いなことに、ロシア革命にはもう一つの真の顔がある。外電によれば、革命を纂奪し人民を君主制に引き渡そうとしている自由主義者に対して労働者委員会が抗議の声をすでにあげ、臨時政府に対立しているそうである。

 もしロシア革命が自由主義の要求通り今日ここで立ち止まったならば――かつてプロイセンの反革命が自由主義のすべての代表に対して行なったように――、明日にはツァーリと貴族と官僚の反動勢力が力を結集して、ミリュコーフ派とグチコフ派をその不安定な内閣の塹壕から追い払うことだろう。だが、ロシア革命は立ち止まりはしない。革命は、それが現在ツァーリ反動を一掃しつつあるように、さらに発展していって、前に立ちふさがるブルジョア自由主義をも一掃するだろう。

   『ノーヴィ・ミール』第938号

     1917年3月4日(新暦17日)

ロシア語版『トロツキー著作集』第3巻『1917年』第1部所収

『トロツキー研究』第5号より

 

  訳注

(1)ニコライ2世(1868-1918)……ロシアの皇帝、在位1884-1917。血の日曜日事件(1905年)を引き起こし、第1次世界大戦では自ら最高司令官となったが、敗北を重ね、1917年の2月革命で退位に追い込まれ、1918年に家族といっしょに銃殺された。

(2)ケレンスキー、アレクサンドル(1881-1970)……ロシアの政治家、弁護士。1912年、第4国会でトルドヴィキ(勤労者党)の指導者。2月革命後、エスエルに。最初の臨時政府に司法大臣として入閣。第1次連立政府で陸海相、7月事件後に首相を兼務。第2次連立政府、第3次連立政府の首相。8月30日、コルニーロフに代わって全ロシア最高総司令官に。10月革命直後に、クラスノフとともにボリシェヴィキ政府に対する武力反乱を企てるが、失敗して亡命。アメリカで『回想録』を執筆。

(3)進歩派ブロック……第4国会選挙時と同国会において形成されたブルジョア=地主諸党のブロック。カデットがその指導的政党。

(4)ミリュコーフ、パーヴェル(1859-1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3、第4国会議員。2月革命後、臨時政府の外相。4月18日に、連合諸国に、戦争の継続を約束する「覚書」を出し、それに抗議する労働者・兵士の大規模デモが起こり(4月事件)、外相辞任を余儀なくされる。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。『第2次ロシア革命史』(全3巻)を出版。

(5)ディケンズ、チャールズ(1812-70)……イギリスの作家。社会悪に対する怒りを作品に表現した。『オリヴァー・トウィスト』『クリスマス・キャロル』『二都物語』など。

(6)ロジャンコ、ミハイル(1859-1924)……大地主、オクチャブリスト。1907〜17年、国会議員。1917年の2月革命後に国会議員臨時委員会議長。国内戦中はデニーキン白衛軍に属して、ソヴィエト政権に敵対。1920年にユーゴに亡命。回想録『帝政の壊滅』(1929)。

(7)グチコフ、アレクサンドル(1862-1936)……大資本家と地主の利害を代表する政党オクチャブリスト(10月17日同盟)の指導者。第3国会の議長。ロシア2月革命で臨時政府の陸海相になり、帝国主義戦争を推進するが、4月の反戦デモの圧力で辞職(4月30日)。グチコフの代わりに陸海相になったのがケレンスキー。10月革命後、ボリシェヴィキ政府と激しく敵対。1918年にベルリンに亡命。パリで死去。

(8)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第6巻、104〜105頁。

 

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