上げ潮

景気変動と世界労働運動

トロツキー/訳 志田昇

【解説】この論文は、景気変動と階級闘争の満ち干との関連について論じた重要論文の一つである。トロツキーはレーニンとともに、コミンテルン第3回大会において、攻勢理論と闘い、統一戦線戦術への転換を主導したが、同時に、このような転換の必要性を、より広い歴史的視野に立って理論的に解明する作業に着手した。それが、資本主義全体の浮沈と景気変動との関係、およびこの両者と階級闘争の満ち干との関係を解明することであった。トロツキーは、1900年代終わり頃から、階級闘争の満ち干が必ずしも単純に景気変動と連動しているわけではないこと、不況や恐慌が革命運動の高揚につながるとは限らず、場合によってはその逆がありうることを強調してきたが、この経験は、ロシア革命後、二つの波動論としてコミンテルン第3回大会報告、この論文、および、その後の第4回大会報告で生かされている。こうした観点は、一方ではコンドラチェフの長期波動論として、他方ではグラムシの陣地戦論として、それぞれ発展することになった。

 またこの論文の中でトロツキーは、もしプロレタリアートとその党が、絶好の革命的情勢を逃して、失敗に失敗をつみ重ねるならば、数千万人の人間の死の後に、新たな資本主義的均衡が確立され、新しい有機的な発展が起こる可能性を示唆している。不幸なことに、歴史はまさにその通りになった。スターリン指導下のコミンテルンが、あいつぐ革命的情勢をことごとく破壊した結果、数千万人の人間の屍の上に新しい資本主義的均衡が回復され、アメリカニズムとフォーディズムの支配のもとに、新しい有機的な発展が始まったのである。

Л.Троцкий, Прилив, Правда, No.292, 1921.12.25.


 資本主義世界は産業好況の時期に入った。不況から好況への転換――これは、資本主義社会の有機的法則である。この好況は、けっして階級構造に均衡が確立されたことを示しているわけではない。恐慌はしばしば、労働者の間に無政府主義的な気分や改良主義的な気分が成長することを促す。好況は労働者大衆の団結を助けるだろう。

 

 ヨーロッパの労働運動の中では、新たな革命的上げ潮の徴候が明らかになりつつある。今回の上げ潮が最高潮にまで達するかどうかを予言することはできない。だが、革命の発展の曲線が明らかに上昇していることに、疑問の余地はない。

 ヨーロッパ資本主義の最も危険な時期は、戦後の最初の年(1919年)であった。イタリアで革命的闘争が最高の盛り上がりを示した(1920年の9月事件)のは、ドイツやイギリスやフランスにおける政治的危機の最も先鋭化した瞬間がすでに克服されたように思われた時期だった。今年ドイツでおこった3月事件は、過ぎ去った革命期の遅ればせの反響であり、新しい革命期の始まりではなかった。すでに、1920年のはじめには、資本主義と資本主義国家とは、彼らの最初の陣地をかためて、さらなる攻勢にうつっていた。労働者大衆の運動は、防衛的な性格を帯びた。共産党は、自分たちが少数派であり、ある時期には労働者階級の圧倒的多数から孤立しているように見えるということを思い知らされた。ここから、いわゆる、第3インターナショナルの「危機」が生じた。だが、現在では、すでに述べたように、一つの転換点がはっきりと示されている。労働者大衆の革命的攻勢は高まりつつあり、闘争の展望はますますひらけつつある。

 こうした一連の諸段階は、いろいろな種類の複雑な原因の産物であるが、根本的には、戦後期の資本主義の発展を反映する景気変動の鋭いジグザクから生まれている。

 ヨーロッパのブルジョアジーにとって最も危機的な時期は、欺かれていた兵士たちが復員によって家庭に帰り、生産の場に再び配置された時にやってきた。戦後最初の数ヶ月には、ひどい窮乏が生みだされ、これが革命闘争を先鋭化させた。だが、ブルジョア支配層は、手遅れになる前に事態に気づき、復員による危機をやわらげるために大規模で広範な財政政策を実施した。国家予算は戦時中のとてつもない規模を維持しつづけた。多くの企業は人為的に操業をつづけ、[政府による]多数の注文が失業をさけるために継続され、住宅は建物の修理もできないほどの安い家賃で貸され、政府は予算から補助金を出してパンと肉を輸入した。いいかえれば、戦時中の見せかけの商工業好況を引き延ばすという政治的な目的のために、国債は累積し、通貨は減価し、経済の基礎は掘りくずされた。だが、これによって、産業界は、主要企業の技術設備を更新し、それらの企業を民需生産に再転換する機会が与えられたのである。

 だが、こうした見せかけの好況はたちまち、全般的な窮乏化にぶつかった。市場が極度に縮小したために、消費財生産がまずゆきづまり、過剰生産という最初の障壁を作り出して、これはやがて重工業の発展をはばんだ。恐慌は未曾有の規模となり、かつてないような形態をとった。アメリカで春のはじめに始まった恐慌は、1920年の中頃までにヨーロッパに波及し、いまや過ぎ去ろうとしている1921年の5月には底をうった。

 こうして、公然たる、まごうことなき戦後の商工業恐慌が(見せかけの好況の1年が経過したのち)開始されたとき、労働者階級によるブルジョア社会に対する最初の自然発生的な突撃はすでに終わりかけていた。ブルジョアジーは抜け目なく立ち回り、労働者に譲歩したり、部分的には軍事的抵抗を行なったりすることによって、生き延びたのである。

 プロレタリアートのこの最初のの突撃は明確な政治的目標や理念もなく、計画も指導機関もない混乱したものだった。この最初の攻勢の推移と結果は、労働者たちに、自分たちの運命を変えブルジョア社会を改造することは、戦後最初に抗議が表明された時期に考えられていたよりもはるかに複雑な仕事であることを教えた。労働者大衆は、彼らの革命的な気分がまだ無定形だったわりには、かなり均質であったが、その後、急速にこうした均質性を失いはじめ、彼らの間に内的な分化が生じた。労働者階級の最も積極的な部分、過去の伝統に拘束されることの最も少ない部分は、イデオロギーを明確にし組織的に団結する必要性を経験から学んだのち、共産党に合流した。何回かの失敗の後で、より保守的な分子や自覚的でない分子は、一時的に革命的な目標や方法から離れた。労働官僚は、失地回復のためにこうした分裂を利用した。

 1920年の商工業恐慌は、春から夏にかけて始まったが、さきに述べたように、このころには労働者階級の内部に政治的ならびに心理的な反動がすでに始まっていた。たしかに、恐慌は、かなりの数にのぼる労働者階級の諸集団間の不満を増大させ、あちこちで、不満の嵐を引き起こした。しかし、1919年の攻勢が失敗に帰し、その結果、労働者階級の分化が生じたのちは、経済恐慌は、もはやそれだけでは運動に必要な統一を回復することができなかったし、より決定的な新しい革命的突撃という性格を運動に持たせることもできなかった。

 こうした状況は、労働運動の進行に及ぼす恐慌の影響が一部の単純な人によって考えられているような一面的性質のものではけっしてないというわれわれの信念を改めて強めた。恐慌の及ぼす政治的影響(その範囲ばかりでなくその方向も)は、現在の政治状況全体ならびに、恐慌に先立つ出来事や恐慌と同時に起こる出来事によって、特に恐慌直前の労働者階級の闘争や、それが成功したか失敗したかによって、決定される。一連の条件のもとでは、恐慌は労働者大衆の革命的活動に強力な刺激を与えうるし、他の条件のもとでは、プロレタリアートの攻勢を完全に麻痺させるかもしれない。また、もし恐慌があまりにも長く続き、労働者があまりにも多くの損失をこうむるならば、単に労働者階級の攻勢力を著しく弱めるばかりでなく、その防衛力をも弱めるかもしれない。

 今日、過去をふりかえってこうした考えを説明するために、次のような仮定をたてることができるだろう。もし経済恐慌が、大衆的な失業や不安をともなって、戦争が終わった直後に生じたならば、ブルジョア社会の革命的危機は、はるかに鋭く深い性質を帯びていたであろう。まさに、こうしたことを避けるために、自らの財政機構や経済機構のいっそうの解体という犠牲を払ってブルジョア国家は、投機的な好況を作り出すことによって、すなわち不可避的な商工業恐慌を1年か1年半先送りすることによって、革命的危機の矛先をにぶらせたのだ。このために、恐慌はますます深化し先鋭化した。しかしながら、時間的には、恐慌はもはや復員の荒波の時期と一致せず、逆に復員の波がすでに退潮したとき、つまり、一方の陣営がバランスシートを作成して自己の再教育にとりかかりつつあり、他方の陣営が幻滅におちいり、分裂をきたしつつあるとき勃発したのだ。労働者階級の革命的エネルギーは内部に向かい、それは共産党を創立しようという熱烈な努力のなかに最もはっきりと表明された。そして、共産党は、ただちにドイツとフランスで単一勢力として最大の勢力にまで成長した。1919年には投機的好況を人為的につくりだした資本主義は、当面の危険をくぐり抜けた後には、やってきた恐慌を利用して、労働者を、その前の時期に資本家の自己保存の手段として譲り渡した陣地(8時間労働制、賃金の上昇)から追い出そうとした。後衛戦を闘いながら、労働者は退却した。権力を奪取し、ソヴィエト共和国を建設し、社会革命を遂行するという考えは、賃金切り下げに反対して――いつもうまくいったわけではないが――闘わねばならなかったとき、彼らの意識のなかで薄れていかざるをえなかった。

 経済恐慌が過剰生産やきびしい失業といった形をとらず、そのかわりに、国家自体が競売にだされ勤労者の生活水準が切り下げられるという一段と深刻な形をとった所(ドイツ)では、労働者階級のエネルギーは低下するマルクの購買力を埋め合わせるために賃上げに向けられたが、これはちょうど自分の影を追いかける人間に似ていた。他の国々においてと同様に、ドイツの資本主義も攻勢に転じ、労働者大衆は抵抗しながら算を乱して退却した。

 今年ドイツで3月事件が起こったのは、まさにこうした一般的な情勢の中であった。この事件の本質は次の点にある。すなわち、若い共産党が、労働運動における革命的潮流の明らかな退潮に驚いて、プロレタリアート内部の積極的な一小部隊の行動を利用することによって、労働者階級に「電気ショック」を与え、可能なかぎり事態を推し進めて決定的戦闘を開始しようという絶望的な賭けに出たということである。

 コミンテルンの第3回世界大会は、ドイツにおける3月事件の印象がまだ鮮明に残っている時に召集された。周到な分析を加えたすえ、大会は、「攻勢」戦術や革命的「電気ショック」戦術等々と、経済的・政治的情勢の変化や推移とともに労働者階級全体の内部で進行しつつあったもっと深い過程との間にあるギャップから生まれる危険性をしかるべく評価した。

 もし、1918年または19年のドイツに、1921年3月の共産党に匹敵するほど強力な共産党があったならば、プロレタリアートが早くも1919年の1月か3月に権力を握っていた可能性は大いにある。だが、当時そんな党はなく、プロレタリアートは敗北を喫した。そして、こうした敗北の経験の中で、共産党は成長したのである。もし、党が1921年に、1919年に共産党が存在していたならばとるべきだったやり方で行動しようとしたならば、粉々に粉砕されたであろう。先の世界大会が明らかにしたのは、まさにこのことだった。

 攻勢理論をめぐる論争は、景気変動ならびにその将来の発展に関する評価の問題と密接に結びついてきた。攻勢理論の最も徹底した代弁者は、次のような見解を展開した。全世界は恐慌にとらえられ、恐慌は経済秩序を解体しつつある。この恐慌は不可避的に深化せざるをえないし、その結果、労働者階級をますます革命化せざるをえない。こうした見地からすれば、共産党が、その後衛部隊やその主要な予備軍を注視することはまったく余計なことである。党の任務は資本主義社会そのものに対して攻勢をとることだ。遅かれ早かれ、プロレタリアートは、経済的崩壊に駆り立てられて、党を支持するであろう…。

 こうした立場は、大会の席上ではこのような完成した形では出されなかった。なぜなら、経済情勢の問題をとりあげた委員会の会議中に、こうした理論の最も鋭い角は鈍らされてしまったからだ。商工業恐慌が相対的な好況に席を譲るかもしれないという考えですら、攻勢理論の意識的ないし半意識的な信奉者からは、ほとんど中間派の考えとみなされた。商工業の新たな復興が革命へのブレーキとして作用しないばかりか、かえって逆に革命に対して新しい活力を与えるだろうという考えにいたっては、ほとんどメンシェヴィズム同然だとみなされた。「左翼」の疑似ラディカリズムは、ドイツ共産党の最近の大会で採択された決議に、かなり無邪気な形で遅ればせながら表明された。ちなみに、私はわが党の中央委員会の見解を明らかにしただけなのだが、この見解は私の個人的な反論として特別扱いにされた。私は「左翼」のこうしたつまらない無害な腹いせとは喜んで和解しよう。なぜなら、全体として見れば、第3回世界大会の教訓は、すべての人々に、とりわけわがドイツの同志諸君に、影響を残さないわけにはゆかないからである。

 

 今日では景気の転換に関して争いがたい徴候がある。現在の恐慌が崩壊まで続く最終的な恐慌であり、革命期の土台をなすものであり、プロレタリアートの勝利で終わるほかない、といった陳腐な決まり文句は、明らかに、経済発展の具体的な分析ならびにそこから出てくるいっさいの戦術的結論にとって代わることはできない。実際、世界恐慌は、すでに述べたように、今年の5月に停止した。景気が好転したことを示す徴候は、まず消費財工業のなかで明らかになり、その後、重工業もこれに続いた。今日では、これは、統計の中に反映されている争う余地のない事実である。読者が論旨をたどることをこれ以上難しくしてはいけないので、ここでは統計は引用しないでおこう

※原注 私はこうした重要な統計に興味をもたれる読者のために、『共産主義インターナショナル』第10号にのせられた同志パブロフスキーの論文と『エコノミーチェスカヤ・ジーズニ』(284、285、286号)にのせられた同志S・A・フォリクネルの諸論文の参照を求める。(L・T)

 上に述べた事実は、資本主義の経済生活の崩壊が停止したことを意味するだろうか? この経済の均衡は回復したのだろうか? 革命の時代は終わりに近づきつつあるのだろうか? いやけっしてそうではない。景気の転換が意味しているのは、資本主義経済の崩壊と革命時代の進行が、一部の単純な人々の思っているよりも複雑だということである。

 経済発展の運動は、違った種類の二つの曲線によって特徴づけられる。第1の、そして基本的な曲線は、生産力・商品流通・外国貿易・銀行業務その他の一般的な発展を示す。全体として、この曲線は資本主義の発展全体を通じて上昇する。それは資本主義のもとで社会の生産力と人類の富とが増大したということを示している。しかしながら、こうした基本曲線は不均等に上昇する。つまり、この曲線がほんのわずかしか上昇しない数十年間があるが、やがて急角度で上昇する数十年間がこれに続く。だが、その後にくる新たな時期には、曲線は長い間同一の水準でとまってしまう。いいかえれば、資本主義の歴史には、生産力が急速に増大する時期もあるし、より漸進的に増大する時期もある。たとえば、イギリスの外国貿易のグラフをとれば、われわれは、きわめて容易に、それが18世紀の末から19世紀の半ばまでの間には、きわめてゆっくりとした増加しか示さなかったことを確認することができる。ところが、それは、その後の20数年間(1851〜1873年)には、きわめて急速に上昇したが、これに続く時期(1873〜1894年)にはほとんど不変のままにとどまり、その後大戦まで再び急速に上昇した。

 もし、われわれがこれをグラフに描くならば、その不均等な上昇曲線は、全体もしくはその一局面における資本主義発展のコースの概要をわれわれに示してくれるだろう。

 しかし、われわれは、資本主義の発展が好況、停滞、恐慌、恐慌の停止、景気の好転、好況、停滞といった一連の景気変動を含むいわゆる産業循環を通して行なわれるということを知っている。歴史を研究すれば、こうした循環が8年ないし10年ごとに起こることがわかる。こうした各循環をグラフに描けば、資本主義の発展の一般的な方向を特徴づける基本曲線の上に重ねて、上昇したり下降したりする一連の周期的波動ができる。景気の循環的変動は、心臓の鼓動が生きた有機体につきものなのと同様に、資本主義経済につきものなのである。

 好況は恐慌につづき、恐慌は好況につづく。だが、全体として見れば、資本主義の曲線は、数世紀の間に上昇したのである。好況の総計は、あきらかに、恐慌の総計よりも大きかった。しかしながら、発展の曲線は、時期によって、異なった姿をとった。景気停滞の時期も何度かあった。循環的変動は止まなかった。だが、全体としての資本主義の発展がゆっくりと上昇を続けていた場合には恐慌が好況をほぼ帳消しにしていたわけである。生産力が急速に上昇している時期には、循環的変動が交替で起こったが、それぞれの好況は、明らかに、つづいて起こる恐慌が後退させるよりも大きな幅で経済を前進させた。経済発展の線が張りつめた弦に似ているとすれば、景気循環の波動は、弦の振動にたとえることができる。もちろん、実際には、経済発展はもっと複雑な曲線をなしているのだが。

 恐慌と好況との絶えざる交替を通じて行なわれる資本主義発展のこうした内的メカニズムは、現在の恐慌が間断なく深刻化し、プロレタリア独裁の樹立まで(それが起きるのが1年後か3年後か、それとも、もっと後かには関係なく)続くにちがいないという考えが、どんなに不正確で一面的で非科学的であるかをすでに十分に示している。われわれは、第3回世界大会の報告と決議の中でこうした見解に反論し、ちょうど瀕死の人間にも心臓の鼓動がなくならないのと同じように、資本主義社会には、成立期にも、成熟期にも、衰退期にも、循環的変動がつきものであると述べた。たとえ、一般的な状況がどのようであろうと、経済の衰退がどんなに深刻であろうと、商工業恐慌は、過剰な商品や生産力を一掃し、生産と市場の間により密接な均衡を確立し、まさにそれによって、産業の復興の可能性を開くのである。

 そして、経済復興のテンポや規模や強さや継続期間は、資本主義の生命力を特徴づける諸条件の総体によって決まる。今日、積極的に言うことができるのは(われわれはすでに第3回大会当時にこのことを述べたのだが)、恐慌が法外な高価格という当面の障壁をうちたおしたのち、始まったばかりの産業復興は、現在の世界情勢のもとでは、たちまち他の多くの障壁にぶつかるだろう。すなわち、アメリカとヨーロッパとの間の経済的均衡のきわめて深刻な破壊、中央ヨーロッパと東ヨーロッパの窮乏化、金融制度の長期にわたる深刻な解体、等々である。言いかえれば、この次の好況はけっして、戦前の条件に比較できるような、将来の発展の条件を回復することはできないだろう。反対にこの好況はおそらく最初の成果の後で、戦争によって掘られた経済上の塹壕にぶつかることだろう。

 だが、そうはいっても、好況はとにかく好況である。それは、商品に対する需要の増大、生産の拡大、失業の減少、物価の騰貴、賃金上昇の可能性を意味する。そして、現在の歴史的状況のなかでは、この好況は労働者階級の革命闘争を弱めないで、かえってこれを鋭くするだろう。このことは、先行する事態全体の中から生じる。すべての資本主義国で、労働者階級の運動は、戦後、頂点に達し、その後、われわれが見てきたように、程度の差こそあれ明らかな失敗と退却におわり、労働者階級自体の内部で分裂をきたしてしまった。こうした政治的ならびに心理的前提のもとにあっては、もし恐慌が長びくならば、こうした恐慌は、労働者大衆(とくに失業者と半失業者)の怒りを高めるにちがいないが、それと同時に、彼らの積極性を弱める傾向をもつだろう。なぜならば、労働者の積極性は、自分たちが生産のなかでかけがえのない役割を果たしているという意識と密接に結びついているからだ。

 革命的な政治的突撃が敢行され、退却に終わった時期につづいて失業が長びくという事態は、けっして共産党に有利に作用するものではない。それどころか、恐慌が長びけば長びくほど、それは一方の翼では無政府主義的な気分を、他方の翼では改良主義的な気分をつくり出す危険がある。こうした事実は、アナルコ・サンディカリストの諸グループが第3インターナショナルから分裂したこと、アムステルダム・インターナショナルと第2半インターナショナルとがある程度統一したこと、セルラティ派が一時的に強化されたこと、レヴィのグループが第3インターナショナルから分裂したことなどに現れた。これとは反対に、産業の復興は、何よりもまず、突撃の失敗と自らの隊列の不統一とによって掘りくずされていた労働者階級の自信を高め、工場の労働者階級を団結させ、戦闘的な行動のなかで意志を統一しようという欲求を高めるにちがいない。

 われわれは、すでに、こうした過程が始まりつつある時期に立ち会っている。労働者大衆は、自分の脚の下の地面がこれまで以上にしっかり固まったと感じている。彼らは隊列を統一しようとつとめ、分裂が行動を阻んでいると痛切に感じている。彼らは、恐慌から生じた資本の攻勢に対して、これまで以上に一致した抵抗を行なうために努力しているばかりでなく、産業の復興にもとづく反撃も準備している。恐慌は、挫折した希望と怒り――しばしば、こうした怒りは無力だったが――の時期だったが、現在進行しつつある好況は、こうした感情にもとづく行動にはけ口を与えるだろう。われわれが擁護した第3回大会の決議が述べていることは、まさに次のとおりである。

「だが、もし、発展のテンポがゆるみ、現在の商工業恐慌が、いくつかの国で、好況期と交替したとしても、このことはけっして『有機的な』時期が開始されたことを意味しはしないだろう。資本主義が存在するかぎり、循環的変動は避けられない。こうした変動は、青年期や成熟期の資本主義につきまとっていたのとまったく同様に、死の苦悶の中にある資本主義にもつきまとうだろう。プロレタリアートが現在の恐慌の過程で資本主義の攻勢のもとに退却せざるをえない場合でも、彼らは、景気が少しでも改善されはじめるや否や、ただちに攻勢を再開するだろう。彼らの経済上の攻勢は、こうした場合には、戦時におけるあらゆる欺瞞に対して、そして恐慌中のあらゆる暴利や酷使に対して復讐せよというスローガンをとらざるをえないが、こうした攻勢は、まさに現在の攻勢的な闘争がそうであるように、公然たる内乱に転化する傾向を持つだろう」。

 

 ブルジョア・ジャーナリズムは、経済的「再建」の成功や資本主義的安定の新しい時代の展望について鳴り物入りの宣伝を行なっているが、こんな浮かれた気分にはまったく根拠がない。ブルジョア・ジャーナリズムは、他方では、恐慌が不断に悪化することから革命が生まれてくるにちがいないと信じている「左翼」を恐れているのだが、ジャーナリズムの浮かれた気分に根拠がないのはこうした恐れに根拠がないのとまったく同じである。実際には、来たるべき商工業好況は経済的にはブルジョアジーの最上層にとっての新しい富を意味しているのだが、すべての政治的な利益はわれわれのものとなるだろう。現在、労働者階級の内部にみられる統一への傾向は、彼らの行動への意志が増大しつつあることを示すものにほかならない。労働者は今日、ブルジョアジーに対する闘争のために、共産党員が独立社会民主党員や社会民主党員と協定を結ぶことを要求しているが、明日は、運動が大衆的規模で成長するにつれて、これらの労働者は、革命闘争の中で彼らを指導することができるのは、ただ共産党だけであると確信するだろう。上げ潮の第一波は、すべての労働団体をつきあげて、彼らに協定を結ぶよう迫っている。だが、これとまったく同じ運命が、社会民主党員や独立社会民主党員をも待ちうけている。彼らは、革命的上げ潮の次の波にあいついで呑みこまれていくだろう。

 以上のことは――攻勢理論の支持者の主張とは反対に――直接プロレタリアートの勝利に導くものは恐慌ではなくて来るべき経済復興だということを意味するのであろうか? こうした絶対的な断定は根拠がないであろう。われわれは、すでに、景気変動と階級闘争の性格との間には機械的な関係ではなく、複雑な弁証法的依存関係があることを示した。将来の動きを理解するためには、われわれが恐慌の時期に入った時よりもはるかによく準備をととのえて経済復興の時期に入りつつあるということを理解するだけで十分である。ヨーロッパ大陸の主要な国には、強力な共産党がある。景気の転換が、われわれの前に、単に経済の領域だけでなく政治の領域においても、攻勢の可能性を開くものであることは疑いない。現在、こうした攻勢がどこで終わるだろうかということに頭を悩ますことはまったく不毛な仕事である。攻勢は今まさに開始されつつあり、今や視界に入りつつあるのだ。

 詭弁家たちは次のように反論するかもしれない。もし、今後の産業の復興が必ずしもわれわれを直接勝利に導くとは限らないということを認めるならば、明らかに新たな産業循環が生じるし、これは資本主義的均衡の回復に向かう次の一歩を意味するだろう。こうした場合には、実際、資本主義復興の新しい時代が到来するという危険が生じないだろうか、と。

 こうした反対論に対して、われわれは次のように答えることができるだろう。もし共産党が成長することに失敗するならば、もし、プロレタリアートが経験を積むことに失敗するならば、もし彼らがますます徹底した非妥協的な革命的方法で反撃することに失敗するならば、もし彼らが、機会がありしだい、守勢から攻勢に転ずることに失敗するならば、その時には、資本主義発展のメカニズムは、ブルジョア国家の策略の助けもかりて、結局は、その仕事を成しとげるにちがいない。すべての国々は、経済的には野蛮状態に逆戻りするであろう。数千万の人間が胸に絶望をいだき、飢えて死ぬだろう。そして、彼らの骨の上に、ある種の資本主義世界の均衡が回復されるだろう。

 しかし、こうした見通しはまったくの抽象論である。こうした純理論上の資本主義的均衡に向かう途上には、世界市場の混乱、通貨制度の崩壊、軍国主義の支配、戦争の脅威、未来に対する信頼の喪失など数々の巨大な障壁がある。資本主義の自然発生的な力は、こうして山のような障壁にはばまれて出口を探し求めている。だが、まさにこうした同じ資本主義の自然発生的な力が労働者階級を鞭打って彼らを前方に駆りたてるのである。労働者階級の発展は、彼らが退却する時でさえ、やむことはない。なぜなら、彼らは、陣地を失いながらも、経験を蓄え、党を強化するからだ。労働者階級は前進する。彼らは社会発展の諸条件の一つであり、こうした発展の諸要因の一つであり、しかもその最も重要な要因である。なぜなら、彼らは未来を体現しているからである。

 産業発展の基本曲線は上昇する道を探し求めている。こうした運動は循環的変動によって複雑にされている。こうした変動は戦後の状況においては痙攣に似ているからである。もちろん、革命的転覆を引き起こすような主体的条件と客観的条件の結びつきが発展のどの時点でおこるかということは予言できない。また、こうした条件の結びつきが、さし迫った経済復興の過程の中で、その初期に起こるか、終わり近くに起こるか、それとも新しい循環の到来とともに起こるか、ということも予言できない。われわれにとっては、発展のテンポはかなりの程度まで、われわれによって、われわれの党によって、その戦術によって決まるということだけで十分である。最も重要なことは、われわれの隊列を統一し、勝利の攻勢を準備する新しい段階を切り開くことのできる新たな経済的転換を理解することである。革命の党にとっては、事態がどうなっているかを理解することは、それ自体ですでに期間を短縮し、日程を早めるのである。

『プラウダ』第292号

1921年12月25日

『トロツキー研究』第10号より

 

トロツキー研究所

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