フランス共産党の諸問題

コミンテルン第4回大会報告

トロツキー/訳 湯川順夫・志田昇・西島栄

《解説》フランス社会党は、1919〜20年の革命的高揚の中で大きく左傾化し、その高揚の雰囲気の中で1920年12月のトゥール大会で第3インターナショナルへの加盟と共産党への転換を圧倒的多数で採択した。レオン・ブルムとロンゲを中心とする右派は党多数派から分裂して、別個に社会党を結成した。ドイツの党に次ぐヨーロッパ最大の社会民主主義政党が党ごと共産党に転換したことは、共産党に多くの政治的優位性を与えた一方で、新しい共産党の内部に多くの改良主義的、議会主義的、連合主義的、セクト主義的要素を大量に持ち込んだ。レーニン、ジノヴィエフ、トロツキー、ブハーリンらを筆頭とするコミンテルン指導部は、フランス共産党のこうした内的体質との絶え間ない闘争を通じてフランス共産党の成長と発展を勝ちとることを系統的に追求した。とりわけ、コミンテルン内でフランス問題の責任者となったトロツキーは、コミンテルンの指導から事実上排除される1923年まで、最も中心的にこの指導を行なってきた。本稿は、そうした指導の頂点とも言える1922年末のコミンテルン第4回大会におけるフランス共産党問題の報告である。トロツキーはその後、コミンテルンの指導から排除されるので、実質的にこの大会報告が事実上、最後の指導的報告であるといえる。(右上の写真はフランス共産党の初期の指導者フロッサール)

 トロツキーは、コミンテルンの指導性とフランス共産党の自主性との内的緊張、党全体を革命的に刷新させる必要性と党内民主主義の自立的過程との内的緊張を十分に踏まえたうえで、この指導を遂行した。フランス共産党に対するトロツキーの対応の歴史は、各国党の自立性とその党内民主主義を尊重しつつ、この指導を貫徹させる一個の見本を示している。

 Л.Троцкий, Вопрос о Ф.К.П. на конгрессе Коминтерна, Коммунистическое движение во Франции. Москобский Рабочий, 1923.


 われわれはこれから、きわめて重要かつ困難な問題、すなわち、わがフランス党の問題を議題として取り上げる。

 

  1、フランス党の危機

 フランス共産党は重大な危機に見舞われている。そして、党のこの危機は、奇妙なことにフランス・ブルジョアジーおよびその国家の危機と同じ時期に生じている。

 私は「奇妙なことに」と述べたが、それは、概して、革命党の発展にとって有利な情勢を作り出すのが、まさにブルジョアジーの危機であるからである。一般にブルジョア社会の危機から栄養を摂るのは革命党である。以上の2つの危機の同時進行から私は次のように結論づけることができる。すなわち、フランス党は、ブルジョア社会の危機を十分利用するのに必要な、資本主義社会に対する自らの組織と行動における絶対的自由をまだ獲得していない、と。今後ますますこのことは、より詳しく深い形で明らかになるだろう。

 だが、誰もがその存在を否定しないこの危機は、どの点にあるのだろうか?

 入党の波が止まり、後退さえしていることが指摘されている。われわれの新聞、とりわけ『ユマニテ』の発行部数が落ちている。組織の内部生活は空洞化し停滞している。

 これこそ、最も驚くべき、それと同時に最も明白で議論の余地のない、危機の徴候である。他の徴候も存在する。それは、党内に確立された分派体制である。分派闘争、激しく時として純個人的な論争、ここにはやはり、党組織内における疑う余地なく深刻な危機の現われの1つがある。

 外に現われた以上の徴候のすべてが、フランス党の発展の評価にとって同じ重要性をもっているわけではない。

 われわれの党への入党が止まったことが一時的なものにすぎず、それが次の事実を表現するものに他ならないのであれば、すなわち、わが党がその発展の第1段階に、その考え方や見解からしてわれわれに無縁な分子を引き入れたが、今や党の共産主義的な統一と団結を高め確立するにつれて、これらの分子を取り除きつつあるという事実を表現するものに他ならないのであれば、入党の停止は大きな危険ではない。新聞の発行部数の後退すら危機ではない。それは政治情勢の変化によって引き起こされた一時的な現象であろう。

 議論の余地がないのは以下のことである(そしてこうしたことは、われわれのさまざまな党の歴史において見られた)。すなわち、党の歴史的な発展ラインが完全な直線ではなく、不可避的に干満があり、上げ潮の時期には党は大衆を引き寄せて外部に向けた広範な行動を発展させなければならないが、他方、引き潮の時期には、党は自省し、自己の組織を発展させ、その思想を明確にし、来るべき闘いに備えなければならないということである。

 党の危機においてより重大なことは分派の存在と分派間の争いである。これらの分派はどこから生じているのか。分派の形成に責任があるのは誰か。

 この問いに対してはむしろ記述的な回答を与えることができる。われわれはこの回答をフランス党の出版物の中に十分頻繁に見出している。ここで、諸君もよく知っている同志、フロッサール(1)の書いたものを引用しよう。彼は7月16日付『ユマニテ』に「これで終わりではない」と題する論文を書いた。そこから次の文章だけを引用しよう。

 「われわれは何というビザンチン主義者、何と重箱の隅をつつく連中、何と哀れな論争屋なのか! そして、われわれの書いたものを読んでくれる真の英雄たる読者にどう申し開きをすればいいのか」。

 これはかなりひどい状況描写である。だが、以上の文章では、党内情勢について表面的な説明しか見出せない。どうしてわれわれがビザンチン主義者で、哀れな論争屋なのか?…その原因は何か? ここに答を必要とする1つの問いがある。一部の人々は、個人的であると同時に社会的なこの論争がいったいどこから、どちらの側から来ているのか問うている。

 同志フロッサールと同じ潮流に属している同志たちが、しばしば、これらの論争と分派体制の首謀者は左派であると指摘している。だが、この分派体制は、分派に属している同志たち自身によってもかなり頻繁に非難されており、この体制が完全に人為的であり、何らかの原則にもとづくものではなく、政治的目的に対応していないとみなされている。9月に『ユマニテ』に掲載されたダニエル・ルヌー(2)の論文をここで読ませていただきたい。

 「わが友デュレが言ったように、この点では誰もそれに異議を唱えていないのだが、真剣で正しい分類が確定するのは、行動の中で、そして行動によってだけである」。

 したがって、一方で分派が執拗な闘争を相互に交えているが、他方で2つの分派の代表たちは、これらのグループが人為的に作られたものであり、党内の諸潮流の正しい分類を確定できるのは行動、すなわち将来の行動によってだけであると主張していることになる。

 私はこの分析が正しいとは思わない。

 まずもって、これらの分派のイデオロギー的、政治的意義を否定している同志たちがどうして党の主要な3つの分派のうちの1つに属するようなことになったのかを、自問しなければならない。次に、この議論――それによれば、行動そのものが完全に正しい枠組みでわれわれをグループ分けするまで待つしかない――が正しいものであるかを自問しなければならない。

 もし革命的行動、すなわち、労働者階級による権力奪取の闘争が問題になっているのなら、われわれは分裂派〔フランス社会党が共産党に転換することを決定した1920年のトゥール大会で少数派となって、党から分裂して別個に社会党を結成したグループのこと〕から分離することによって間違いを犯したことになる、なぜなら、分裂派は、それが外部からの意志によって押しつけられた分裂であって、党の内的必要からなされた分裂ではなかったと主張しているからである。

 だが、党生活の全体は1つの鎖を形成する一連の行動でなければならず、この鎖は最も重要な行動に、すなわちプロレタリアートによる権力奪取につながらなければならない。もし形成されたグループが決定的なものではないと言うのであれば、われわれはそれに同意するし、そのような主張の正当性に異論を唱えることはないだろう。

 傾向による違いは常に存在するだろうし、決定的な革命的行動のときにすべての分派の構成員の圧倒的多数が同じ基盤の上に結集するだろうと私は思う。これはその通りである。にもかかわらず、現在互いに争っている諸潮流が人為的なものにすぎないと主張することは、フランス党に関してはまったく間違いである。この党は、諸潮流によって構成されており、諸潮流の枠外に存在しているわけではない。したがって、それらが存在し、争っているには重要な理由があるはずである。

 グループ分けは行動の過程ではじめて形成されると言われている。だが、インターナショナルもまたこの1年半の間、まさに行動を通じてフランス党内で再編成を達成しようと努力してきた。しかもその際、インターナショナルは、同じ目的に通じる2つの道を提案してきた。それは、労働組合内の活動とそれを通じた行動と、統一戦線を通じた行動である。

 何らかの行動を指導するためには、それについての多少なりとも正確な構想が必要であり、党の多数派の合意に依拠しなければならない。だが、行動を通じた党の再編が提案されたときはいつでも、この行動に対する直接的な障害が存在してきた。フランス党は、フランスで最も重要で最も大きな――減少しつつあるとはいえ――組織[労働組合]の中での党の系統的で組織的な活動も、また統一戦線のスローガンによる行動も認めようとしなかった。

 今では次のことはごく当たり前の真実になっている。すなわち、われわれが少なくとも労働者階級の圧倒的多数の信頼をかちとっていない国、プロレタリアートが労働組合や政党の中で異なる諸分派に分裂している国、これらの分派の構成員が労働組合内でも党内でも労働者階級のわずかな部分しか占めていない国――こうした諸条件の国では、統一戦線のスローガンを通じて以外には、共同行動を通じて以外には、行動を発展させることができないということである。もしわれわれが、こうした行動の可能性――人為的に考え出されたものでなく、必要から生じたもの――を拒否するならば、われわれは行動そのものを拒否することになる。そしてそれでいて、党内に諸潮流が存在することに苦情を言うのであれば、それは許しがたい諸矛盾を蓄積させるだけである。

 同志諸君、ご存知のように、ここ数年間、インターナショナルとフランス党――すなわち、この問題に関して中央派とルヌー派という2つの潮流を代表する多数派――とのあいだに、私はこの表現を用いなければならないのだが、不断の闘争が存在してきた。

 わがフランス党は統一戦線の必要性を説得されてきたし、昨日、諸君がフランス問題の検討のために選出した委員会で同志ジノヴィエフは、フランスでこの重要な問題をめぐってインターナショナルに反対するために利用されてきた主張、すなわち、まるでインターナショナルがフランス党に対して、統一戦線という見せかけのもとに階級協調とミルラン主義を押しつけたかのような議論に注意を促した。フランス党における行動を発展させるための強力な手段である問題をめぐる誤解がこれほど極端なところにまで行き着いているのである。

 現在、この議論をすばやく横取りしているのがフランスのブルジョア新聞である。これは論争の成り行きで犯された誤りに対する当然の罰である。この場合の罪とは、敵が間違った定式に飛びつき、それにより狭い形式を与え、政治的市場に売り出すことである。『ル・タン』には次のような一節が見られる。

 「これだけ屈辱的な従順さでもモスクワの怒りを和らげることができるとはまだ言えない。なぜなら、インターナショナルの政策の本質やその建前を理解することは誰にでもできる芸当ではないからである。というのは、インターナショナルの政策は、ソヴィエト政府のそのときどきの利益に沿って、またこの政府が共産主義の完全な破産を何とかして隠蔽するために対処しなければならない諸状況にしたがって、際限なく変化するからである」。

 これは『ル・タン』が作り上げた定式ではない。彼らは、わが党の特定の潮流の代表たちから借りてきて、それにより狭い表現を与え、党全体に投げつけたのである。

 数日前、フロッサールは――彼もまた統一戦線に反対して闘ってきた――、統一戦線の原則にしたがって、改良主義者に共同行動の提案を行なった。

 分裂派の回答の中でわれわれは、誰にもよく知られている用語を見出す。これは、わが党の出版物ですでにおなじみになっているものであり、今や敵の武器となっているものである。だが、それよりも問題なのは、フランス党が1年以上も事態を傍観し、分裂派自身が続一戦線の思想を横取りするのを許したことである。フランス共産党はもはやプロレタリアートにとってこの定式の堆進者ではなく、分裂派がすでにこの分野でわれわれと張り合っている。『ル・ポピュレール』の中で労働組合運動の統一再建に関する諸論文を読むだけで十分である。

 このように、分派体制は、外部の意志の影響のもとに作り出された人為的で偶然のものではない。それは、行動――あるいは行動の欠如――の産物である諸潮流にもとづいている。そして行動の欠如もまた、フランス党内において偶然ではないのである。

 では論争(3)に関して、その責任が誰にあるのかと尋ねられれば、私は、それは左派ではなく、残念ながらインターナショナル自身であると答えるだろう。フランスの同志たちは、行動を実施することができなかった。なぜなら、この行動の前提を受け入れたくなかったからである。それゆえ、論争を通じて行動に対するイデオロギー的障害を破壊しなければならなかった。インターナショナルが論争のイニシアティブを自ら取ったのはまさにこのためである。

 この2年間にわれわれがフランス党に対して追求してきた路線を検証するために、私は1年半前の1921年6月にフランス問題に関するコミンテルン拡大執行委員会において自分が行なった発言を調べてみた。われわれがいぜんとして同じ場所を歩いているという事実に驚いたことを私は告白しなければならない。

 この発言のいくつかの箇所を引用しておこう。

 「われわれの出版物とわれわれの演説によって共産党とブルジョア社会全体とのあいだに掘られるべき溝が見えない。このような溝は見えてこない。『ユマニテ』を支持している労働者に関して言えば、彼らは結局のところこう言っている、『で、諸君はいったい何をしようというんだ? どうして諸君は共産主義について語らないんだ? 共産主義の代わりにわれわれが目にしているのは、少し色がついているだけで、基本的にはロンゲ派と同じぼんやりとした影だけである』」(4)

 私はさらに付け加えている。

 「次の事実を考慮しきちんと評価しなければならない。すなわち、サンディカリストに対する党の立場が、私見によればまったく間違っているという事実である」(5)

 さらに私はこう述べている。

 「われわれはフランス共産党に対し、友好的に、だが精力的に語る。われわれは諸君に対し、情勢が有利かどうかを理解することなく革命的行動を提起するよう要求したりしない。しかし、われわれは諸君に対し、諸君の思想、諸君の感覚、諸君の振舞い全体における諸君の古い習慣を断ち切ること、資本主義社会およびその機関とのこれまでの諸君の結びつきを、形式的にではなく実質的に断ち切るよう要求する」(6)

 以上の言葉は、つい最近フランスのフリーメーソンに関する討論のときになされたものであるかのようだ。さらにもう一箇所だけ引用しよう。

 「われわれは諸君に、諸君の革命的意志を諸君の出版物に、諸君の議会活動に、労働組合に、いたるところに表現するよう要求する。それは、最終的に、パリのバリケードのうちに最も高度な形で表現するためである」(7)

 われわれはこのような形でコミンテルン執行委員会に問題を提起したのである。私の意見は、この面では完全に満場一致であった執行委員会の声にすぎない。それから1年半が過ぎた。われわれは、過去を表わしていた保守主義の精神に反対して、未来の精神である革命的精神のために闘ってきた。われわれの闘争が成果なく終わったなどとと言うことはできない。いくつかのことが党内で変わった。現在の危機はたしかに重苦しいものだが、党の保守主義に致命的な打撃を与えている。

 もちろん、もし党がこの危機を克服するのに必要な力を見出せなければ、危機はフランス・プロレタリアートの革命の発展全体に後退を引き起こす可能性がある。だが、フランス党の前に開かれている可能性を悲観的に評価する根拠はない。私はもう一度言う。危機は、一方では論争の結果であり、他方では、保守主義に反対するインターナショナルの側の闘争の結果である。そして、この危機の重大さ、その病的な性格は、保守主義がいぜんとして非常に強力であり、あまりにも強力すぎるという事実から生じている。

 トゥール大会後も、共産主義的行動の新しい習慣と態度に席を譲ることを望まない多くの古い習慣がわれわれの中に残っている。これこそ、分派体制が生まれた理由である。それは過去に対する将来の闘争、あるいは進路を捜し求めている両者の中間の状態に他ならない。

 多くの党外的要因が党自身のより急速な発展を妨げているということがしばしば指摘されている。フランスの伝統やフランス労働者の個人主義が語られている。だが、闘う党になることを望む党は、もっぱら歴史家の観点に、すなわち、党内闘争の局外に立ち、将来の進歩を妨げている諸要因を指摘するにとどまる観点に立っていてはならない。

 同志ヴァイヤン=クチュリエ(8)のすばらしい議論を借りることにする。彼は次のように言っている。

 「諸君は、労働者に個人主義がすっかり染み込んでいて、それが革命党の組織化を妨げていると主張している。だが、戦争中、資本主義社会はフランスの個人主義の前に立ち止まっただろうか。社会愛国主義者たちにとってこの個人主義は障害になっただろうか。否である。彼らは警察や軍隊の力、とりわけ世論の力を通じて、フランス労働者のこの個人主義に強力な圧力をかけ、労働者を塹壕の中に連れて行き、労働者は4年半もの間、その中にとどまった。ブルジョアジーの利益が問題になっている場合には、この個人主義を克服することができた。プロレタリアート自身の利益のために個人主義を克服する必要がある場合には、それは本当にまったく克服不可能なものなのだろうか?」。

 いや克服不可能ではない。そのような議論[個人主義は克服不可能という議論]は退けなければならない。たしかに、フランス労働者の中には――主としてフランスの歴史のせいで――おそらく他の国の労働者より発達した個人主義の特徴が存在する。だが同時に勇敢さも存在している。労働者が真にその自己犠牲のすべてを発揮しうるような行動の展望を労働者の前に切り開くことによって、この勇敢さに訴えかけることができなければならない。そして、フランスの労働者が、闘争がそれを求めるときには自らの物質的利益のみならず自らの生命をも犠牲にすることができることがわかるだろう。

 しかしながら、勇敢さに訴えることができなければならない。そして、私は、共産党員が「どうしようもない。労働者はあまりにも個人主義的だ」と言うの聞くと、この説明が党またはその特定の分派に対する不信――あるいはある種の不信の傾向――を生み出しえるだけであって、党の無力さを証明しているにすぎない、と語ることにしている。

 

   2、労働組合問題

 われわれはこの大会の際に労働運動について大いに語ってきたし、それに対する中央派とルヌー派からの障害にも遭遇してきた。この障害はパリ大会の議事録にも見られる。

 諸君のために、労働組合代表団の一員であったわがジャコブ同志(9)のいくつかの表現を引用しよう。パリ大会での彼の演説はきわめて特徴的で重要であり、好意的に言ったとしても、完全に間違っている、危険なほど間違っている。

 ジャコブ同志は党員であると同時に労働組合組織の著名な活動家でもある。彼は労働運動における党の役割についてこう言っている。

 「党は労働組合の行動を妨げてはならない。とりわけ、中央委員会の決議の一部はこの行動を阻害しかねない。マヌイリスキー10)は、ル・アーブルのストライキの事情にうとい。フロッサールとレペスは、共産党がストライキにおいて自らの責務を果たさなかったと言っている。だが、われわれは、党にはそこでなすべきことは何もなかったのだと言う…」。

 これはきわめて危険な見解である。もしかしたら、それは勢いあまった誇張表現にすぎないと言えるかもしれない。そうしておこう! だが、それでもやはりそれはフランス党の精神状態をきわめて特徴的に示している。何といってもこの発言をしているのは党員なのである。党に友好的なサンディカリスト――モンムッソー11)型の、あるいはモナット12)型の――ではなく、党員自身が、「君たちにはル・アーブルのストライキのような事件においてなすべきことは何もない」と党に向かって言っているのである。

 諸君も知っているように、このル・アーブルのストライキに介入したのは、ブルジョア急進派の政治家でありル・アーブル市長であるメイエであり、故シーグフリッド議員である。同時に介入したのポアンカレ氏13)の銃である。これが政治でないとしたら、何が政治だというのか? このストライキに政党として介入しなかったのは、共産党だけである。もちろん、共産党はストライキ参加者のために多くのことをした。党は募金を通じて多額の資金を集めた。多くの記事が書かれた。だが、以上すべてのことは、助言を与えることはできても労働組合の行動に損害を与えてはならない組織としての行動でしかない。なすべきことは、労働者に自らの政治的相貌を示し、次のように言うことであった。「われわれは諸君を支援するためにここにやって来た。われわれに要求があれば何でも言ってほしい。われわれにはそれを行なう用意がある」と。にもかかわらず、同志ジャコブは、党にはル・アーブルのストライキでなすべきことは何もなかったと言うのだ。

 ここに来ている同志から教えてもらったのだが、次のように言った現地の労働組合員がいたという。「政府の面前でわれわれの評判を落とさないでくれ。政府は、『君たちは共産党のためにストライキを行なっているのだ。きっとモスクワに命令されているのだ』と言うだろう」と。それで、党はすばやく姿を消したというわけである。

 ストライキ中に、大衆および現地の代表者たちの最も遅れた見地にさえ党が譲歩するような状況がありうることを私は理解している。だがそうした場合には、『ユマニテ』で次のように書くべきであっただろう。「われわれはル・アーブルのストライキの指導者たちに支援を申し出た。指導者たちはわれわれにこう答えた。『われわれにはメイエやシーグフリッドとの結びつきがある。われわれの評判を傷つけるようなことをしないでくれ! 』と。それで、われわれは介入していないが、彼らにこう言おう。『用心したまえ! 諸君が関係を持っているのはブルジョア政治家である。彼らは諸君を裏切るだろう。真剣な闘争の瞬間に諸君を見捨てない政党はたった1つしかない。それは共産党である』と」。

 もし諸君がル・アーブルのストライキの最初の日々から、あるいはそれが発展している間に、このように言っていたとすれば、8月28日の悲劇的事件と労働者虐殺の後に、諸君の権威は著しく高まっていただろう。なぜなら諸君は事態の進展を予測したことが明らかになるからである。

 しかし、そうならなかった。われわれは譲歩した。同志フロッサールは「この分野で党にできることは何もない」と言った。そして、これが労働組合の中で活動する共産党員なのである。「党がそこでなすべきことは何もない」のである。

 これは非常に悲しむべき、非常に危険な状況である。なぜなら、そこからは同志エルネスト・ラフォン14)までの距離はわずか一歩しかないからである。この同志は、パリ大会で行なった発言では「ラ・ガーディア主義」から着想を得ていた。ラ・ガーディア主義とは何か? これはもはや労働組合主義でさえなく、労働組合主義のイデオロギー的屑と政治的策謀の混合物である。エルネスト・ラフォンは言う。「労働組合は第2義的なものであり、私はこのような第2義的のもののために創られたわけではない」と。ラ・ガーディア15)は偉大な哲学者だった。彼は現在、資本家団体の雇われ人である。こうして党は、革命が党外で達成されなければならないという哲学にもとづくことによって、まったく日和見主義的で改良主義的で非革命的な路線を継続することになる。エルネスト・ラフォンは、まったく幸せな定式を見出す。曰く、「われわれ弁護士が労働組合に何の関係があるというのか」と。

 そして、弁護士でもラ・ガーディア主義者でもなく、立派な共産党員であり、立派な労働組合員である同志ジャコブは、「そのとおり、党がそこですべきことは何もない」と言うのである。このような一致はきわめて危険である。

 私は、友人であるモナットと、同志ルーゾン16)やシャンブラン17)などが署名した宣言の中にもある程度同じ見解を見つけた。

 党員ではないモナットが「われわれは革命的サンディカリストである。すなわち、われわれはプロレタリアートの解放のための闘争における決定的な役割を労働組合に付与する」と言うのは理解できる。これは、パリ大会後に同志ロスメル編集の『階級闘争』誌に掲載された最近の宣言である。

 党外にいる――しかし党外にとどまり続けるのは間違っている――モナットの側のこのような主張を私は理解できるが、党に所属すると同時に統一労働総同盟(CGTU)の執行委員会のメンバーでもあるルーゾンや、シャンブラン、クラヴェル、S・オルリアンジュの主張は理解できない。

 「われわれは革命的解放闘争における決定的な役割を労働組合に付与する」とは何を意味するのか? どのような組合か。フランスにはさまざまな組合があることをわれわれは知っている。それはジュオー派の組合のことか。明らかにそうではあるまい。われわれの同志モンムッソーの組合か。おそらくそうだろう。だが、われわれはこれら2つの組合が統一されて合同に達することを望んでいる。現在、CGTUの書記長はモンムッソーであるが、ごく最近までは、ベナールやヴェルディエなどの「協約」の起草者たちに掌握されていたCGTU運営委員会がCGTUの先頭に立っていた。

 プロレタリアートが革命に向かい、それを成し遂げることができるのは彼らの指導下においてであろうか? 労働者階級の指導的役割が労働組合に帰すことになると諸君は本当に信じているのか? 改良主義者や混乱屋、あるいは党規律を守らず自分の党の綱領に従おうとしない共産党員によって率いられた労働組合がこの世で最良の労働者組織になると思っているのか、それともわれわれが提起している共産主義の綱領を支持する労働組合がそうなると思っているのか? 諸君はサンディカリズムからその革命的・イデオロギー的内容を取り除いてから、サンディカリズムの定式を繰り返し、「労働組合、それは何よりも重要なものだ」と言うのである。

 もちろん、完全に組織的かつ意識的で革命闘争の利益を擁護する教義に従う労働者階級の最良の分子によって率いられている労働組合が存在しているとすれば、それは大いに結構なことである。だが、そのような組合は存在しない。とりわけフランスではそうである。それはこれから作り出さなければならない。どのようなやり方でか? 党に所属していない同志たちと党員との協力を通じて労働者階級の最良の分子を組織し、彼らに共産主義イデオロギーを普及し、すべての労働者組織の中にそれを浸透させることによって、である。

 諸君は、党外にいる、革命的でない、最も反動的な偏見を抱いている労働者、たとえばカトリック労働者が労働組合に加入することを認めている。諸君はそうせざるをえない。なぜなら、もし労働組合の内部に、共産党員か、何らかの偏見のためにまだ党に属していないサンディカリストしかいないとすれば、もし労働組合がそうした勢力しか有していないとすれば、労働組合はいかなる価値も持たないだろうからである。というのも、そうなればそれは党の第2版になってしまうからである。

 だが、これほど悪いことはないだろう。なぜなら、党はより均質的なものでなければならない、あるいは少なくとも、党規律に従わない共産党員や、いかなる党にも属さず党を恐れているサンディカリスト――しかし実際には、彼らは政党なしには自分の思想と方法を分析することもできないのだが――が加入している労働組合よりも均質なものでなければならないからである。

 もし労働組合がそのような性格しか持たないとすれば、それは政党の改悪版となるであろう。

 労働組合の意義は、その多数派がまだ党の影響下に置かれていない人々によって構成されている、あるいは構成されるべきだという点にある。しかし、周知のように、労働組合の中にはさまざまな層が、すなわち、完全に意識的な層、偏見の名残をとどめている意識的層、完全な革命的意識に到達しようと努めている層が存在する。

 その場合に、誰が指導権を握るべきだろうか?

 われわれは「協約」の意義を忘れてはならない。それは、すべてのフランス人労働者にとって、最も遅れた最も未成熟な労働者にとってさえ目に見える模範となるに違いない。労働組合の分野での党の脆弱さのせいで、アナーキスト分子やアナーキスト的傾向のある人々が運動の指導権を握るために秘密「協約」を作成したというこの事実を説明しなければならない。労働組合は、その構成員の中から、思想的指導の必要性を感じている最良の分子を選び出す。こうした思想は自然に生まれるものでも、天から降ってくるものでもない。これらの思想には一貫性が存在しなければならず、理論的に根拠づけられ、実践によって検証され分析され批判されなければならない。そして、この活動全体が党によって遂行されなければならない。

 今日、われわれに対してなされる主要な反論は、われわれが労働組合を党に従属させているというものである。

 しかり、われわれは労働者階級の意識を革命的イデオロギーに従わせたいと思っている。われわれはそれを目指している。われわれが労働者自身の自由な意志にもとづかない外部からの圧力を用いているとか、党が、数量的に党よりも強力な労働組合、あるいは少なくともそうであるにちがいない労働組合に対する圧力手段を持っているとなどと言うのは、ナンセンスなことである。党と労働組合が労働者階級を自らの意志に従わせたいと望んでいると常に繰り返してきたのは、すべての国の反動勢力のみである。

 フランスやドイツやアメリカなどの至るところに存在する、最も反動的で、最も陰険なメディアを取り上げよう。それらには常に同じ主張が見出せる。すなわち、あたかも労働組合が、労働者階級の意に反してあれこれの行動を強制し、彼らの意思を束縛し、自らの策謀を通じて労働者階級を組合に従属させているかのように主張している。

 諸君はこれについてどう答えるか? 諸君は次のように言うだろう。「いや、われわれは労働者階級に奉仕し、組合の内部で信頼を勝ち取りたいと思っている。労働者階級の先進部分が労働組合に入る。広範な大衆は闘争の中で組合を支え、しだいに組合に加入してくるのだ」。

 党に関しても同じことが言えるのではないだろうか? われわれは組合員の信頼を勝ち取りたいと思っいる。あらゆる行動に、とりわけ困難な行動に、最も忠実な参加者として登場し、これらの行動を鼓舞推進することが、われわれの権利であり義務ではなかろうか? 最も責任ある最も危険な部署に就き、共産党員が常に至るところで革命闘争の最も自己犠牲的な勢力であることを示すことがわれわれの権利であり義務ではないだろうか?

 これこそがわれわれの権利であり義務ではなかろうか?

 この問題については『共産主義ブレティン』の最新号か1つ前の号の、したがってパリ大会の後に発表された同志スティフ18)の論文を読むべきである。フランスではインターナショナルを批判する特殊なやり方が広まっている。インターナショナルには恭しくお辞儀しながら、左派に対しては足蹴にする。左派がインターナショナルの綱領を正しく実行している諸問題においてはとりわけそうするのである。スティフはこう言っている。「この決議(これはロスメル19)の決議で、私はすばらしい決議だと思っている―引用者)は、共産党が『労働者階級の願望を最もよく表現し、その解放を保証する最もすぐれた能力を持っている』と主張している。中央委員会の多数派は当然にもこの決議を退けた」。

 労働者階級の利益を最もよく擁護すると自負している党の中央委員会が、このような主張を「当然にも」退けなければならないとは。そして、わが党の機関紙にこう書いているのは、中央委員会のメンバーなのである。この中央委員は、わが党が労働者階級のために最もよく活動する能力をもっているかのように考えるという大きな罪を犯したとして左派を非難しているのだ!

 これはまったく理解できない。もしわれわれが機関紙上で中央委員によるこのような非難をそのまま許しておいて、労働者階級の信頼を勝ち取ることができるだろうか? 何週間もこのことを黙認することができるだろうか? 労働者階級の信頼を勝ち取ることを望む生きた党は、ただちにこの論文の筆者に対して共産主義のABCを教えることから始めなければならないだろう。

 しかも、これは最初ではないのだ。これは、われわれが手紙や討論や電報で指摘してきた一連の出来事の一部にすぎない。

 

   3、ル・アーブル事件の教訓

 その結果が、ル・アーブルのストライキであり、とりわけ8月28日の虐殺後のル・アーブルのストライキの最終段階に宣言された抗議ゼネストである。

 われわれはみなこの事件をよく知っている。ル・アーブルのストライキは110日間続いた。最後は虐殺で終わった。4人の労働者が殺され、数人が負傷した。さてここで、私はフランス労働運動史に残るであろういくつかの文書を引用したい。それは『ユマニテ』の記事の切り抜きで、CGTUとセーヌ県労働組合連合のアピールである。このアピールは月曜日に『ユマニテ』に掲載された。その中では労働者階級に対して虐殺が知らされ、続いてこう書かれている。「火曜日に24時間のゼネスト」。何と翌日にだ! そして「建設労働者連合は、今後に期待して本日のゼネストを宣言する」と付け加えている。月曜日にだ!

 同志ジャコブは、ル・アーブルのストライキで党は「なすべきことが何もなかった」と述べている。これは経済問題だ、経済的観点から4人の労働者が殺害され、数人が負傷した、これは純然たる労働組合問題だ。こうした問題に取り組むための経済的機関が存在する。それは何よりも建設労働者連合である。すなわち、「今後に期待して」、より正確に言えば、現実の行動に期待することなく、それをサボタージュして、ストライキに着手し、ゼネストを宣言した組合組織である、というわけだ。

 CGTUは何をしているか? それはおとなしく建設労働者連合に追随している。アナーキストに遅れをとりたくなかったからである。すなわち、アナーキストたちの方が他の連中よりも優れた革命家だという印象を与えたくなかったし、「われわれはゼネストを宣言しているのに、CGTUのサンディカリストと半共産主義者たちはわれわれの偉大な行動をサボタージュしている」とアナーキストたちに言われたくなかったからである。しかし実際には、これは別に行動などというものではなかった。この時点で問題になっていたのは単に、ゼネストのスローガンを宣言することにすぎなかった。

 CGTUはこの誤りにおとなしく追随しているが、党は何をしているのか? 党はおとなしくCGTUに追随している。こうして、誤りが誤りを生む。誰がこれを始めたのか。それは何人かの若いアナーキストたちであるが、おそらく彼らはそれほど大きな罪を犯していない。彼らは自分たちの組織の中央本部に出向いて、「何かをしなければならない」と言ったのだ。そうすると、「もちろんそうだ、何かをしなければならない。よしゼネストを宣言しよう」と答える1人の同志がそこにいたわけである。

 そして、CGTUが追随した。党も追随した。党は、ル・アーブルのストライキでは「なすべきことが何もなかった」し、ル・アーブルの全労働者とブルジョア大企業との交渉において単なる傍観的証言者にとどまったにもかかわらず、この時になってCGTUに追随するために介入したのである。

 その結果どうなったか? 壊滅である。完全な大失敗である。どうしてか? これはあらかじめ決まっていたこと、運命づけられていたことである。私が諸君に引用した切り抜きは、月曜日から火曜日までに、フランスの労働者階級をゼネストに決起させるよう主張している。これは可能だったのか?

 わがロシアのように、党が電信網や無線局を掌握し、党が強力で、労働組合と完全に協調しており、わが党に敵対する政党も労働組合も存在しない国でさえ、このようなことは不可能である。たとえば、われわれは第4回世界大会を記念するデモを組織したが、そうするためには、労働者に対して第4回大会とは何であるのかについて説明しなければならなかった。11月7日に諸君の前を行進していった兵士たちには、はっきりとした熱狂が存在していた。諸君もおそらくそれに気づいたであろう。それはどこから生まれたのか? 彼らの中には、地理についてあまりよく知らず、フランスで起こっている出来事、そもそもロシアの国外で起こっていることを知らない若い農民たちがいる。こうした兵士に、第4回世界大会が何であるのかを説明しなければならなかった。しかも、われわれは兵士たちに何を要求したのか? それは、単に外国代表の前を行進し、代表たちに自分たちの連帯の敬礼をすることだけであった。

 フランス労働者階級にゼネストを要求した諸君は、この労働者階級に対して、単に「人殺しの政府」という諸君の定式だけでなく、ル・アーブルで起こっている事態を説明しなければならなかったのだ。

 フランスでは、この定式は他の国に比べてはるかに説得力がある。人々はこのことについてよく知っている。それゆえ必要だったのは、個々の男女労働者に、農業労働者に、男女農民に、ル・アーブルで起こっている事態を説明することであった。連中は、戦争中に150万人を殺した後、4人の労働者を殺害した。可能ならば、殺された労働者の写真を見せ、彼らの子供の肖像を掲げなければならなかった。諸君はただちにこれらの問題や労働者の生活を知っている通信員を、派遣しなければならなかった。すなわち、殺された労働者の家族に近づき、その苦難を共有し、労働者階級にそのいっさいの恐怖を語ることができる同志を派遣しなければならなかった。

 ただちにパリでも全国でも、CGTUと協力しつつ、数千の最良の共産党員と革命的サンディカリストを動員し、パリのすべての街角だけでなく、全国の都市と農村にも、至るところにこれらの活動家を派遣して強力なプロパガンダを展開しなければならなかった。同時に、起こった事態を労働者階級に知らせ、「われわれはこの犯罪に抗議しないわけにはいかない」と語りかけるために、交渉の模様やアピールの載ったビラを200万、300万、400万部と出す必要があった。

 だが、そのためにわずか24時間のうちにゼネストを遂行しなければならなかったのだろうか? いやそうではあるまい。必要なのは、強力な宣伝によって、すなわち起こったことを説明することを通して労働者階級全体を動かすことであった。必要だったのは、労働者階級に説明し、簡潔に語ることだった。これこそが第1の条件であった。

 どうしてそうしなかったのか? 労働者階級の怒りの感情が3日、4日、5日も続かないことを恐れたのだ。これは、労働者階級に対するわが革命的サンディカリズムとわが共産主義の官僚的不信である! (拍手)

 必要だったのは、労働者階級に事実を語り、説明することであった。ところが、パ・ド・カレー県の労働者たちは炭坑に降りてから、その後ではじめてストライキを宣言しなければならないことを知った。もちろん、行動はすでに麻痺していて、信用は失墜した。これは、行動に対する信用を失墜させる最良のやり方だったのではないかとさえ私には思われる。

 こうして、われわれは分裂派、改良主義者、ジュオー主義者を――永遠にではないにせよ――救ったのだ。なぜか? それはまったく簡単だ、同志諸君。ブルジョアジーは、フランスで4人を殺害することによって、分裂派や改良主義派の友人をきわめて困難な状況に陥らせた。改良によって、国民連合の考えによって、労働者階級の状態を改善するためのブルジョア的会議へのジュオーの参加によって、まだ労働者をだますことができた。だが、ル・アーブルの虐殺はわれわれの敵にとってほとんど致命的な打撃であった。

 何をなすべきであったか? 『ユマニテ』の各号で1、2週間つづけて、改良主義的CGTや分裂派に対して次のような問題を突きつけなければならなった。「諸君は、今、何を提案するのか。問題になっているのはプロレタリアートの独裁ではない。われわれはプロレタリアート独裁の確固たる支持者であるが、われわれは諸君にそんなことを提案してはいない。だが、諸君は、4人を殺害したばかりのブルジョアジーに反対する、ブルジョア政府に反対する、ポアンカレに反対する行動を提案するのか」。

 この問題は、党および労働組合の宣伝担当者、煽動担当者と労働組合が毎日、フランスのすべての交差点、すべての街頭で男女労働者が1人でもいるすべての村で繰り返さなければならない。そしてこれを1、2週間継続させなければならない。これは実際、労働者階級の運動において大きな画期となっただろう。そうなる代わりにいっさいが水泡を帰してしまった。即時ストライキという血迷ったアピールを出したのだ。火曜日のゼネストを月曜日に発表するなどということはしてはならなかった。というのも、分裂派や改良主義者がこれを絶好の口実として、次のように言って事態を回避することができるからである。「われわれはこのような危険な試みには参加しない」と。

 そしてゼネストの失敗があらかじめ明らかであったので、彼らはストライキの犠牲者のために、1日分の賃金をカンパすることを決定した。それですらあまりうまくいかなかった。だが、すべての人はこの犯罪的受動性を忘れてしまった。労働者階級の関心は完全にゼネストの破綻に向けられていたからである。

 その後『ル・タン』はこう書いている。「ゼネストの失敗は将来に向けた有望な兆候である」。その通りである。そして、『ユマニテ』はこう書いている。「ブルジョアジーは労働者階級の前代未聞の受動性を利用しようとしている」。

 これは恐るべき敗北であったにもかかわらず、翌日、これはやはり大きな成功であったと言われた。この立場を維持するのは困難であったので、こう追記された。「ブルジョアジーは労働者階級の前代未聞の受動性を利用しようとしている」。常に責任を労働者階級に転嫁するのだ。労働者がCGTUや党にしたがわないと、失敗の責任が労働者階級に負わせられる。労働者階級はこのようなやり方には我慢ならない。労働者階級は、自分たちの指導者に対してその誤りを分析するよう提起し、闘争の経験から何ごとかを学ばなければならない。まさにそうすべき時ではないか、同志諸君。

 この不幸な抗議ストライキは、フランスにおける以前のもっと重大な事件の繰り返しにすぎない。それは1920年5月1日の運動(政府に弾圧された鉄道ストのこと)である。党はその時まだ共産党としては存在していなかった。分裂は労働組合ではまだ起こっていなかった。だが、政治の分野や組合の分野で行動していた諸勢力は今と同じであった。左派分子は行動に対する準備ができていなかった。右派はその裏切りによって左派勢力の信用を失墜させ粉砕するためにあらゆることを行なった。彼らは成功をおさめた。1920年5月1日という日付が戦後フランスの歴史においてどのような重要性をもっているかを、諸君は知っている! 労働者階級の革命的高揚はたちまち撃退された。ブルジョア体制の安定性はたちまち高まった。このゼネストが敗北した後、状況が一変した。

 この実物教育から2、3年が経って、ル・アーブルの虐殺に対する大きな抗議という形をとってこのストライキが繰り返された。当然、その結果は、労働者階級の幻滅と受動性であり、この不可避的な結果として改良主義とジュオー型のサンディカリズムが強化された。

 なぜか? 党が時機を失せず助言を与えることができなかったからであり、情勢を分析せず、それに関する自らの見解を語らなかったからであり、また、党外にとどまり党との組織的結びつきも望んでもいなかった同志モンムッソーに対して、共同行動の計画を作成するよう提案しなかったからである。彼にこう言うべきだった。「諸君はゼネストを明日開始することを提案しているが、それはまったく不可能だ。諸君はゼネストの信用を失墜させ、プロレタリアートの階級闘争にとって不利な状況を作り出すだけである」。私は、われわれの友人モンムッソーが次のように答えるものと確信している。「私は諸君と話し合いを行なうことに同意する。それでも、私の組織は自立した組織なので、自らにふさわしく正しいと思われる決定を下すだろう」と。だが、情勢を分析し意見を交換するために同じテーブルに着くべきでなかったか? 

 CGTUが建設労働者連合に従う以外のことをしなかっただけになおさらそうであった。結果は見ての通りである。1920年5月1日の後、数ヵ月間を、いや数年間を失った。そして時間は階級闘争にとって第一義的な重要性を持っている。ブルジョアジーは時間を無駄にしない。それに対してわれわれはこの2年間を無駄にした。だが、この間に大いに時間をかせいだと確信している同志たちがまだ存在する。

 

   4、フランス党とインターナショナル

 パリ大会で同志フロッサールは、「時間をかせぐ」というこの定式を用いて、インターナショナルと党の関係を特徴づけた。

 すでにトゥール大会の時にすでに書記であり、したがって、わが党を代表する最も資格のある人物たるこの党書記長は、こうして、「危機」と題する『ユマニテ』の報告にしたがって、自らの考えを表明した。

 「危機の原因は何か。この2年来、私はインターナショナルへの忠誠とわが党の利益との間で引き裂かれてきた。私にとって永続的な葛藤、義務の危機がつくり出されている。私の中にさまざまな態度が存在している。それは自分に確信がないからである」(長く続く拍手)。

 こうして、党を代表するうえで最も権威ある同志が「私はインターナショナルへの忠誠と自分の党への忠誠とのあいだで引き裂かれている。この2つの忠誠心は一致せず相互に矛盾している。もし諸君の中で私の中に動揺がある、2つの異なる態度があると言うなら、それはこの内的な絶えざる対立の結果である」と述べたときに、みんなが拍手をし、『ユマニテ』の報告によれば、その拍手は長く続いたという。

 ついでこの同志はこう続ける。

 「インターナショナルのいくつかの決定を前にして、私は時間を稼ぎたかったのだ。わが党の背骨を折る結果になるぐらいなら、そうする方がいいと思ったのである」。

 つまり、共産主義インターナショナルとフランス共産党とのあいだの論争を内的葛藤として経験した党書記長は、自分の党の背骨を折らないために、何よりも時間をかせごうとしたというわけである。これは十分に深刻である。私はこの引用箇所を読み直すたびに、その思いもよらぬ内容に改めてショックを受ける。

 2年間もインターナショナルに属しておいて、「インターナショナルによって採択された諸決議が党の背骨を折りかねない」などと宣言することが、どうして可能なのか? もしそうだとしたら、どうしてインターナショナルと関係を維持しているのか? 理解できない、まったく理解できない。

 私が『ユマニテ』のその号を受け取り、はじめてその記事を読んだとき、「これはインターナショナルと決裂する準備である」と思った。われわれは同志フロッサールをよく知っている。彼は一時的な感情の爆発に駆られるような人間ではない。彼は冷静な思考の持ち主であり、彼が、何気ない会話の中ではなく、書記長として自分の党の大会で、インターナショナルが自分の党に有害な決議を採択したために2年間、時間をかせぐだけしかしなかったと言ったとすれば、これがインターナショナルと決裂する準備として以外にどう理解することができるのか?

 彼の発言に先立つ諸事実を考慮すると、この件はさらにいっそう深刻なものになる。それは、フロッサールがすでに署名し、党大会に提案された、いわゆるフロッサール=スヴァーリン動議の中で次のような一節があることである。

 「旧党の社会民主主義的精神が生き残っていて、共産主義インターナショナルの決議の価値を理解していないという事実が若い共産党の強化と発展を妨げているということは、経験に照らすならば、認めなければならない」。

 パリ大会の直前にこの動議の中で、インターナショナルの決議に対する無理解がフランス党の利益を損なってきたと言われているのである。

 ここで問題にされている決議は、統一戦線と労働運動内での活動に関する決議である。この動議に署名した人こそフロッサールであり、モスクワの決議、すなわちインターナショナルの決議が自分の党の背骨を折りかねないと彼が演壇で宣言したとき、彼の署名のインクはまだ乾いていなかった!

 もし誰かがこのことを理解できるというのなら、この態度をわれわれに説明してくれるようお願いする。われわれは、同志フロッサールの雄弁な口からの説明を聞きたかった。われわれは彼を招待し、手紙と電報を通じて、さらには国際執行委員会の決定を通じてさえ繰り返し招聘してきた。残念なことに、われわれの試みは成功しなかった。しかし、われわれには矛盾だらけで不明確に思えるこの態度について説明が得られるなら、われわれとしては非常にうれしいのだが。

 インターナショナルとフランス党(少なくとも中央委員会とその書記長)との関係の概要を明らかにするために、執行委員会の側がどのようにしてフランス共産党の背骨を折りかねなかったかを諸君に示すために、われわれが送った手紙、電報、決議のリストを読み上げることをお許しいただきたい。これは非常に無味乾燥でほとんど面白味がないものである。これはかなり長いリストである。私が今から紹介するのは私信ではない。私の名前でフランスの同志たちに送った――もっとも常に執行委員会の承認とその全面的な同意を得ているのだが――手紙の写しについては、大委員会のメンバーにすでに配布してある。したがって、私がここで挙げるのはまったく公式の文書だけである。

 1921年6月。拡大執行委員会の会議が開催され、そこで私は発言をした。諸君にはすでにそのいくつかの重要な箇所を引用しておいた。

 1921年7月。出版物の統制と労働組合内での活動と第3インターナショナル加盟委員会の解散に関する(第3回大会後の)執行委員会の3つの決議が採択された。

 これらの決議を取り上げてみよう。これらのどれが党を脅かしたのか? もしかして出版物の統制に関する決議か? すなわち、党員の権威に隠れて純個人的目的を追求し党の信用を失墜せしめたファーブルとブリゾン20)に関する決議か? だが、人民大衆に毒素を撒き散らしているブルジョア新聞に寄稿しながら、同時に党内の最も重要なポストを保持し続けるというこうした流儀に、終止符を打つべきときではなかったのか? この決議は、私見によれば、フランス党の背骨を折る危険性などまったくなく、フランス党にいる一部の出世主義的ジャーナリストの背骨だけを折るものである。この決議はしかも実施されなかった。もう1つの決議である労働組合内での活動に関しては、すでにわれわれの議論の概要についてお話しした。

 実際には、3つの決議のうち1つだけしか実施されなかった。それは他ならぬ第3インターナショナル加盟委員会の解散に関する決議である。

 もしわれわれが間違いを犯したとすれば(そしてわれわれは一度ならず間違いを犯してきた)、それは、われわれがとりわけこの時にフランス党を指導していた同志たちの忠誠心を信用しすぎたことであると思う。

 1921年7月26日。コミンテルン執行委員会からフランス共産党中央委員会への親書21)は、党の議会活動、党とインターナショナルとの関係、『ユマニテ』の議会報告に関する友好的批判と一連の助言を含んでいる。同志マルト・ビゴー22)はこの点について委員会の中でわれわれの批判の正当性を支持する発言を行なった。さらに、サンディカリストとの関係、労働組合内での活動、中央委員会の再編に関する問題も論じている。中央委員会政治局と呼ばれる「恐るべき寡頭制」を創設するようわれわれが文書で提案したのは、これが初めてであった。それ以外に、党の構造、『ユマニテ』の不十分さ、出版物の統制についても論じられている。最後にフロッサールとカシャン23)をモスクワに招聘している。

 1921年10月1日。党に対してフロッサールをモスクワに派遣するよう要請した電報。

 1921年12月15日。マルセーユ大会へのコミンテルン執行委員会の公開状24)は、党の指導性の弱さ、規律、労働運動における党の政策、出版物の統制、『ジュルナル・デュ・ププル』紙の右派潮流に関する批判と助言を含んでいる。これは初めてではない。なぜなら、それはすでに、第3回大会開催中のフランス代表団との話し合いのときに始まっていたからである。1921年7月に出版物の統制に関する決議が採択され、このとき初めてファーブルの問題が提起された。そして2度目に25)この問題を論じたのが、この1921年12月15日の公開状である。もちろん、われわれはファーブルの意義を「誇張」していたわけではなかったが、今や党によって拒否されたすべての分子が『ジュルナル・デュ・ププル』紙のもとに結集していた。これはひとつの腫瘍を形成したが、今回は、パリ近郊の市長26)の、後に有名になった仲間たちの協力のもとに党外で形成された腫瘍である。

 この同じ公開状はさらに、工場への党の浸透、中央委員会に労働者を入れること、インターナショナルの活動に対する党の無関心について論じている。

 1921年12月19日。このときの中央委員会への親書は次の諸問題に関する批判と助言を含んでいる。『ジュルナル・デュ・ププル』紙への寛大さについて(これは3度目である)。執行委員会の決定の不履行、ブリゾンと『ラ・ヴァーグ』に対する寛大さ、インターナショナルに対する党の関係、党の幹部会または政治局について。

 諸君はなぜ私がそれらに対する回答を引合いに出さないのか疑問に思うかもしれないが、それは回答がなかったからである。彼らはまったく返事を出さなかったのだ。

 1922年1月9日。マルセーユ大会での辞任問題27)に関する決議。党の代表をモスクワに招聘する電報。

 この1922年1月9日から新しい一連の通信が始まる。

 1922年1月13日。党の危機をめぐってフランス代表団のモスクワ招聘を再度促す電報。

 1922年1月23日。フロッサールとカシャンを2月の拡大執行員会総会に招聘し、その総会でフランス問題を議題にのせることを通知する電報。

 1922年1月24日。あくまでもフロッサールとカシャンの来訪を求め、もし欠席したなら否定的な印象を与えてしまうだろうという点を強調した電報。

 1922年1月27日。再びフロッサールの来訪を要請し、「欠席すれば執行委員会全体に最悪の印象を与えることになろう」とし、フロッサールが間に合うように、拡大執行委員会総会を数日間延期することを通知した電報。

 われわれがフランス問題をインターナショナルと加盟各党の代表たちによる討議に付す準備をしていたこの数日間、われわれは、毎晩、毎朝、電話で尋ね合ったものだ。

 「ジノヴィエフ、君は彼が来ると思うか」。

 「わからんね。じゃあトロツキー、君は彼が来ると思うか」。

 「いやいや、私にもまったくわらない」。

 われわれは待った。電報を打ったが、なしのつぶてだった。もしわれわれがかの地の友人たちと協議するためにただちにパリに赴くことができたのなら、われわれはみな真っ先に列車に飛び乗ったことだろう(拍手)。だが、フランス党の困難な諸問題を解決するためには、討論し、分析することが必要である。そして、われわれは一貫して諸君とこれらの問題について討論するために、党を最もよく代表する指導者たちを招待しようと努力している。だから、われわれはこれらの5通の電報を送って、フランス問題を解決するためにインターナショナルのもとに来るようフランス党の指導者を招いたのである。

 同時期。ベルリンで、ラデックがカシャンに、モスクワ行きを決心させるために話し合いをしていた。

 1922年2月。フランス党の危機に関する拡大執行委員会決議28)は、以下の論点を含んでいる。日和見主義、左翼連合、小ブルジョア平和主義、労働組合運動に対する受動的無能力、党指導部の不十分さ、連合主義に対する批判。また中央派の代表者は以下の点について約束をした。ファーブル29)を除名すること(この問題が提起されるのは4度目)、マルセーユ大会で辞任した指導的同志たちの権利を回復すること、マルセーユ大会で採択された労働組合テーゼを実施すること。

 1922年4月。フランス党の全国評議会。

 1922年5月9日。執行委員会によるファーブルの除名(この問題が提起されたのは5度目で、そのさい規約第9条30)が適用された)。

 1922年5月12日。次の問題に関する批判と助言を含む中央委員会への親書31)。党の立場の不明確さ。右派の影響力の増大。ファーブル事件における受動性(これは6回目である)。最も差し迫った問題に関する『ユマニテ』の沈黙。アナーキストやサンディカリストに対する惰性的態度。統一戦線戦術に対する敵意。共産主義インターナショナルの活動をサボタージュしようとする『ユマニテ』と『アンテルナシオナル』のキャンペーン。共産主義インターナショナルの決定に対する党の不服従。モスクワでフランスのさまざまな代表団が採択した諸決議を実行する意志の欠如。以上の点を批判した上で、共産主義インターナショナルの側からこれまでさまざまな和解的試みが行なわれたことに注意を喚起し、党とインターナショナルとの関係を今後、明確にすることを求めている。

 同時期。6月の第2回拡大執行委員会総会への出席を求めるフロッサール宛て電報。

 1922年6月。第2回拡大執行委員会総会。次のことに関する決議32)。

  党の構造

  内部規律

  セーヌ県連合

  労働組合問題

  統一戦線

  左翼連合

  党の出版物

  党の分派

  ダニエル・ルヌーに対する批判

  ファーブル事件(7回目)

  次の党大会

  中央委員会が宣言を出す必要性。

 1922年7月。党にヴェルフェイユ33)、マユー34)、ラフォンの除名を求める3通の電報。

 1922年7月。次の諸問題に関するセーヌ県連合への手紙35)。

  連合制と中央集権制

  国際規約第9条

  ファーブル事件(8回目)

  規律。

 1922年9月。これまでの手紙で挙げられていたすべての問題を取り上げたフランス共産党第2回大会へのメッセージ36)。

 1922年10月6日。以下の諸問題に関するパリ大会への補足的メッセージ37)。

  加盟21ヵ条を新たに投票にかけること

  ヴェルフェイユの除名。

 ヴェルフェイユ除名というセーヌ県連合の決定を承認する国際執行員会の決議。

 1922年11月。フロッサールとカシャンに第4回世界大会への出席を要請する何通かの電報。

 ここに挙げた手紙、電報、提案、助言の無味乾燥なリストは、ここ1年半以来、われわれが送ったものであるが、ほとんど何の反応も回答もないままに終わっている。この年月こそ、わがフッサール同志が時間をかせぐと主張していた期間である。われわれは、この時期が、当時の党活動に責任のある指導的同志たちの実践的・政治的無気力さゆえに完全に失われた時期としてフランス党史に刻みつけられるだろうと宣言する。

 今になって、私が列挙した諸提案の中に、党にとって有害な、それどころか破滅的になりうるものさえあったのだと言うのか? あれほど容易で必要であったファーブルの除名問題で、また出版物の体制や政治局、そしてとりわけ労働組合活動や統一戦線戦術の問題で時間をかせぐことが、どうして必要であったのか?

インターナショナルのメンバーでも誤りを犯しうるということに誰も異議を唱えていない。だが、これらの勧告、提案、決議においてインターナショナルが誤りを犯しただろうか? どの点で犯したのか? インターナショナルの勧告と指示を無視することによって、フランス党によいことをしたのだということを、これによって時間を失ったのではなく時間を稼いだのだということを、証明していただこう。

 党の書記長自身が、「党の背骨を折り」かねなかったインターナショナルに対して時間をかせいだと宣言しているぐらいなのだから、公式の党宣伝担当者が同じことを語り同じことをする――ただしはるかに単純なやり方でだが――ことになるのは明白である。それで、同志オクレールが青年に対して、共産主義インターナショナルの決定がほら話――これは彼の表現である――にもとづいていると語ったのである。

 われわわれがフロッサールに、オクレールを宣伝担当者にしたのが正しかったのかどうかを尋ねたとき、彼は「一時的なものだ」と答えた。それは本当だった。だが、パリ大会後、この同志は同じポストにとどまった。そして、われわれがフランスの中央派の同志たちに反対意見を提出すると、彼らはこう言う、「諸君は誇張している」。われわれはファーブルについて「誇張している」。オクレールについて「誇張している」、 統一戦線と労働組合活動に関する提案について「誇張して」おり、出版物の問題において「誇張している」し、常に「誇張している」と。

 われわれが、ファーブルやオクレールの行動のたぐい、ブルジョア新聞への寄稿のたぐいに見られる反共産主義的精神のいっさいの表われに反対したのは当然である。これらの事実のいずれも、それぞれ検討すれば、党の深部に深い根をもっている。これらの事実を取るに足りないものとするのは間違っている。これらは、活動家の目をごまかすことのできないはっきりとした徴候である。これ以上、反共産主義の徴候が必要だろうか。インターナショナルの決議がフランス党の背骨を折りかねないとフロッサールが言い、さらにオクレールがそれに輪をかけて、これらの決議が「ほら話」にもとづいたものであると言うとすれば、正しい情報を知らされていない党の末端でどのような話が広まっているかを想像するのは難しくない。

 われわれには、同志ルイ・セリエ38)――党から除名されたアンリ・セリエ39)と混同してはならない――からもたらされたそれに関するきわめて正確な証言がある。ルイ・セリエは一時期モスクワでフランス党を代表していた。フランスに戻った彼は、党の書記次長というきわめて重要なポストに就くよう提起された。この事実は、この同志がフランス党において大きな尊敬を勝ちえていることを物語っている。モスクワでの彼と知り合いになったわれわれもまたルイ・セリエ同志についてのこの評価に同意する。

 1922年8月27日の『ユマニテ』で、彼は「まずくだらないおとぎ話を片づけよう」と題する論文を発表した。この論文の中で彼は次のように述べている。

 「われわれの間には確かに非常にずるがしこい同志たちがいる。これらの同志たちは胸に手をあて、ロシア革命に対する自らの忠誠が今なお全面的なものであり続けていると宣誓することから始める。だが…、その後に、一連の脅迫的でもったいぶった愚かしい『だが』と『もし…ならば』が続く。『だが、もしモスクワが党を金で雇われた提灯持ちの小セクトにしたいと望むなら』、『もしモスクワが党からあらゆる種類の独立性を取り除いて党内にギロチンを常備することを望むなら』などなど、と続く」。

 さらにこう述べている。

 「多数派の同志たち、中央派の同志たちが、モスクワについて今引用した不実きわまりない主張を語ることによって同志たちをだまそうとしているのに、われわれがこの事実について声を大にして語らないとすれば、われわれは自らの最も初歩的な責務を怠ることになろう。モスクワは、第3インターナショナルが第2インターナショナルのように破産することをまったく望んでいない」。

 これを書いたのはルイ・セリエである。モスクワは金で雇われた提灯持ちの小セクトを創設したいとは思っていないことを、中央派の同志たちに対して、声を大にして語らなければならない、と。そう言っているのは中央派の同志である。

 ルイ・セリエはこの問題を次のように報告している。「もしモスクワが党からあらゆる種類の独立性を取り除くことを望むなら」と。そしてわれわれはフランス問題大委員会で次のような趣旨の発言を聞いた。時にインターナショナルの介入によって党の自尊心が脅かされている、と。ここにはわれわれにとってまったく無縁で理解できない感情、心理、気分が存在する。

 今年の2月、ここでロシア問題に関する委員会が開かれた。この委員会の議長はマルセル・カシャン同志だったと思う。それは、わがロシア党内の病いに取り組むものであった。この委員会は残念ながらパリで活動したわけではなかった。なぜなら、われわれはまだパリで大会を開催することができないからである。いずれはそうなるだろう。委員会の開催地はモスクワであった。外国の同志たちによって構成されていたこの委員会は、われわれの党にとってかなりつらい問題について裁定を下さなければならなかった。なぜなら、それはボリシェヴィキ党の中央委員会に反対する労働者反対派の問題を扱っていたからである。

 ジノヴィエフ、私、その他の何人かの同志たちは、委員会に召喚された。われわれは自らの見解を提示した。最上級の裁定機関としてインターナショナルという国際機関が存在していることでわれわれには安心感があったし、わが党の権威に対する侮辱や軽視を感じたものは誰もいなかった。反対に、われわれは、共産主義インターナショナルの助けを借りて重要な問題を解決できることで非常に嬉しかったのである。

 この委員会の介入はわが党にとってすばらしい成果をもたらした。労働者反対派はこの最上級の介入の後に存在しなくなったからである。

 そもそも党の自尊心とはどの点にあるのか。党の利益、これが最高の法であり、われわれはみなこの最高の法に従わなければならない。党と各党員の自尊心が存在するのはこの点である(拍手)。

 私はこの点を強く主張する。なぜなら、パリ大会では、党の自尊心という亡霊が徘徊していたからである。諸君はみなパリ大会で作り出された状況を知っている。大会数ヵ月前、われわれは、中央派と左派という2つの最も強力な分派による反右派のブロックを形成するよう提案した。そのさい、そのブロックは、ルヌー=ドンディコル派に対しいわば待機的な立場をとらざるをえなかった。

 この計画の核心はどこにあったか。それは非常に単純なものだった。分派闘争はコミンテルン執行委員会によって予測されていた。われわれは何度も同志ルイ・セリエに繰り返した。中央派が自らの保守的な態度を維持するならば、[左派の]分派の結成は、受動性の泥沼に陥ることを防ぐための、党にとって必然的で有益な反応として不可避になるだろう、と。

 この不可避的な過程が進行すると同時に、党外活動を展開する可能性を党に提供する必要性があった。ルヌー=デュレの分派はこの時期に統一戦線に対して最も激しく反対していた。当時、この分派と協力する可能性は存在していなかった。この分派の中には議会主義に反対し、分裂派や改良派との議会的連合に反対する優れた労働者分子――これらの労働者分子は純然たる革命家であるが正しい情報を与えられていない――がいることを執行委員会は認識していた。それゆえわれわれは、この潮流を批判しながらも、この潮流に対して待機的な態度をとった。

 同時に、われわれは、左派によって犯されたあれこれの誤りにもかかわらず、保守主義と受動性に反対して党の先進的傾向を代表していたのが左派であるという事実をけっして無視しなかった。

 他方、われわれは、党の基盤さえ脅かす中央派の誤りにもかかわらず、中央派のこともけっして無視しなかった。この派は、明日ないしあさってには全般的な革命的行動の綱領に結集するであろう多くの優れた労働者分子をその中に含んでいる。したがって、われわれは、中央派と左派の2つの最も強力なグループのブロックを提案したのである。それは、党の指導理念を正確に定式化し、党を指導するための中央諸機関を確立することをもっぱらの課題とするパリ大会の仕事を容易にするためであった。分派闘争は党を袋小路に導きつつあった。完全ではありえないが来年に向けて多少とも適切な問題解決をもたらすブロックを提案する必要があったのである。

 このブロックは、右派にその切っ先を向けるとともに、左派によって準備された決議――共産主義的精神の横溢する決議――にもとづかなければならない。このブロックをめぐる話し合いは、モスクワで中央派の代表者である同志ルイ・セリエ、リュシ・レシアーグ38)、フロッサールとわれわれとのあいだで開始された。

 われわれは一貫して革命的基礎にもとづいてこのブロックを実現することを主張してきた。このブロックは、この右派の問題を政治的次元で全面的かつ最終的に解決するために、右派に精力的に反対しなければならなかった。こうした条件があるならば、われわれは積極的に行動を展開することができたであろうし、党は第4回大会の場に、はるかに規律ある、行動準備の整った党として登場することができたであろう。

 われわれは何度となくこう繰り返してきた、「もし中央派が抵抗し保守的・反動的諸分子に引きずられ、受動性におちいって時間かせぎをするなら、中央派は分解に向かい、その分解は党全体にとって最も厳しい危機を引き起こすだろう」と。

 中央機関形成のためにパリで行なわれた話し合いについてはここでは言わないでおこう。諸分派は困難に直面し、話し合いは成果をもたらさなかった。相争う2つの分派の間で話し合いが行なわれるとき、組織問題が常にネックになる。双方に誤解があり、双方から行き過ぎた要求が出された。そうしたことは避けられない。だが、結局、話し合いは決裂に至った。それは、左派の行き過ぎた要求――この点はわれわれも認めている――をめぐってではなく、執行委員会の代表が出した、対等な代表権に関するまったく限定的な提案をめぐって、決裂が起こったのである。

 中央派は話し合いを打ち切ることを選んだ。同派は、大会までの一時的な対等性であっても、それを拒否した。そして、この問題について10月17日に大演説を行なったのが同志ケールである。彼は次のように問題を提起した。「それは、フランス党自身に、自らを指導する人物を指名する自由があるのかどうかという問題である」。この引用は、10月18日の『ユマニテ』の報告(17日の会議に関するもの)にもとづいている。

 話し合いが中央派のイニシアティブで決裂したばかりのときに、インターナショナルの提案をまだ知らなかった地方の代議員に対してこう言われたのである、「それは、フランス党自身が自らを指導する人物を指名する自由があるかどうかの問題だ」と。

 これは何を意味するか? 中央機関の構成をめぐって左派と話し合いをしていた他ならぬ中央派が、この話し合いが目的を達成することができないと判断した中央派が、執行委員会の介入を不当で危険であるとみなした中央派が、「中央機関の構成をめぐって他の分派と合意しない」と言う代わりに、話し合いに関する偽りのうわさを広め、「フランス党自身に指導者を選ぶ自由があるかどうかを知るべきだ」と宣言するのである。

 これは、一方において左派を糾弾するものであり、他方においてフランス党から、自己を管理する自由と権利および党の権威を奪おうとしているとしてインターナショナルの代表を糾弾するものである。これは、まったく不当な非難であり、民族主義的で反国際主義的な傾向の点できわめて危険である。

 同じ非難が、中央派の代表者によって形成された新しい中央委員会が署名したアピールでも繰り返されている。パリ大会直後に出されたこのアピールは次のように述べている。「第4回世界大会は、党の情勢を検討するだろう。党内には紛争が起こっており、これは主として次のような問題の解明に帰着する。すなわち、党が全幅の信頼を置き、党の指導機関内で党を代表する人物、こうした人物を選出する権利を党大会から奪うことができるのかどうか、という問題である」。

 同志諸君、あれこれの活動分野における各国の党の行動方針を定式化し、組織的性格を持った助言を与え、党の諸潮流の動きを追うことが問題になっているときに、各国の党に、自己を管理する自由があるのかどうか、あるいは自らの権利を奪われる脅威に直面していないかどうかを自問する権利があるのだろうか。

 だが、自らを管理する党の権利とはどの点にあるのか。その権利とは、このフランス党の場合、両者あわせれば党の圧倒的多数を構成している2大分派が、相互の合意にもとづいて、共同の名簿を作成し、中央機関の構成を定め、この名簿を大会に提出して次のように言うことである。「これがわれわれの提案しているものだ、これが諸君に受け入れるよう提起しているものだ。なぜなら、この提案こそが、党の解体の脅威を作り出している現在の状況から抜け出す最良の活路だからである」。

 ところが、このような形で問題は提起されなかった。左派およびインターナショナルの代表との話し合いを行なった後、すなわち、フランス党の自尊心と独立を脅かしているとされている機関や人物との話し合いの後に、喧燥と興奮状態に満ちた大会の後に、中央委員会の署名したアピールが、「世界大会はこの問題に取り組まなければならない。各国の党大会が自ら中央委員会を選出する権利をもつかどうかを明らかにしなければならない」と宣言したのである。

 だが、これは議論の余地のない権利だ。そして、われわれはこの権利が行使されているのを目にしている。だが、われわれが同時に目にしているのは、この同じ同志たちが、正常な中央委員会をつくることによって自らの独立性を完全に実現し発揮することを党大会(彼らのせいで混乱に陥った)にあえて――私はこう表現するのが適当だと思うが――提案しなかったことである。これらの同志たちは、臨時の中央委員会の設置を提案した。なぜか。これらの同志たち自身が大会の独立性を麻痺させたからであり、それを麻痺させることで生じたフランス党の状況のせいで、5分の2の票数で中央委員会を選出するよう大会に提案することができなかったからである。この後では、中央派のせいで断ち切られた糸を再びつなぐためには、もはや国際大会に訴えるしか残っていなかった。

 

   5、ジョレス問題

 同志諸君、私はすでに諸君に、パリ大会の経過をここで諸君に明らかにすることができない、と述べた。しかしながら、諸君に知らせる必要がある考えるひとつの事件があった。それは、同志クララ・ツェトキン41)によって大委員会によって報告された事件である。それは、きわめてつらい事件であった。なぜなら、それはジャン・ジョレス42)の名前と結びついているからである。パリ大会の情景をここで繰り返すためではなく、重大な原則的問題をはっきりさせるためだけに、これについて少し述べる必要があると思う。

 紛争処理委員会によってある決議が出された。同委員会では、私が聞いたところによれば、左派の若い同志が書記をしていた。この決議はアンリ・セリエを除名するよう提案するものだった――これは完全に機の熟した問題であった――、その際、アンリ・セリエがジョレス的伝統にもとづいた民主主義観を有しているということが指摘された。

 たとえ間接的であっても、除名決議でジョレスに言及する必要がなかったことはすべての人が認めるところである。この不手際は、大会だけでなく、大会後も、党の新聞で重大な政治的事件へとエスカレートした。

 決議は大急ぎで起草され、そこから原則的問題がつくり出された。すなわち、「君はジョレスに賛成か、反対か」という問題である。問題はこのように立てられた。これはジョレスの思い出にも党自身にも有益であったとは思われない。

 われわれはみな、ジョレスのことは、個人的でないとして、少なくともその政治的活動を通して知っている。われわれは誰もがその偉大で巨大な歴史的人物を知っている。彼はその個人的見解を超えた存在であり、人類を代表する人物の1人として歴史に残るだろう。そして、われわれは、どの革命党も、どの被抑圧人民も、どの被抑圧階級も、そして何よりも被抑圧人民・階級の前衛たる共産主義インターナショナルが、ジョレスのことを、その思い出、その人となりを誇ることができると現在も将来も言えるだろう。ジョレスはわれわれの共同の資産であり、それはすべての革命党、すべての被抑圧人民・階級に属すべきものである。

 だが、ジョレスは、一定の時期に、一定の国で、一定の党で、この党の一定の潮流の中で一定の役割を果たした。これがジョレスのもう1つの側面である。

 戦前のフランスには、2つの潮流が社会党内に存在した。[一方の指導者がジョレスで]もう一方の潮流の精神的・政治的指導者はジュール・ゲード43)であった。彼自身もまたフランス労働者階級と国際労働者階級の歴史上の偉大なすぐれた人物であった。ジョレスとゲードとの間には大きな闘争があり、この闘争において正しかったのはジョレスに反対したゲードだった。われわれはこのことをけっして忘れてはならない。

 われわれは、ジョレスの伝統から手を切ったと言われる。その通りだ。だが、だからといって、われわれがジョレスの人格や思い出と分裂派や改良主義者の汚れた手とを混同しているということではない。それは、われわれの政策に大きな転換が生じたということでしかない。われわれは、フランス労働運動におけるジョレス的伝統と呼ばれるものの遺物や偏見と闘争するだろう。

 まるで共産主義者がジョレスの民主的社会主義の伝統を真に持ち出すことができるかのように、この事件を原則の闘争にエスカレートさせることは、フランス労働者階級のためにはならない。ジョレスの著作『フランス大革命史』や『新しい軍隊』、それに彼の演説などを読み直すと、人はこの偉大な知性、偉大な信念に魅力を感じないわけにはいかないが、同時に第2インターナショナルを崩壊させた大きな弱点にも気づかないわけにはいかない。われわれは、第2インターナショナル、最も天才的な形でジョレスによって代表されているこの第2インターナショナルの弱点と偏見の擁護者ではない。われわれはこれらの偏見の擁護者ではない。反対に、われわれはこの伝統に対して闘っている。われわれはそれと闘い、それを共産主義イデオロギーに置きかえなければならない。

 同志諸君、諸君が任命した大委員会は、長時間にわたる、時として激烈な討論を経て、組織問題と政治決議案の起草に取り組む小委員会を創設した。諸君は文書でわれわれの提案を受け取っている。われわれはその起草にあたって2つの点を考慮した。

 1、フランス共産党の指導的主要分派である中央派によって犯された誤りと政治的失策を非難しなければならない。ルヌー=デュレ=ドンディコル派によって犯された誤りを強調しなければならない。

 2、左派によって犯された誤りがいかなるものであれ、フランス労働者階級の生活と闘争にとって最も重要な問題においてインターナショナルとその思想と要求を正しく代表しているのは左派であるという点を認めなければならない。

 以上がわれわれの政治決議の中で明らかにされたことである。

 党の中央機関の組織と構成についてのわれわれの提案に関しては、われわれはさまざまな潮流間の力関係を評価し、党の現状に中央機関の構成を適応させようとした。当然、われわれがいつも行なっているのはこのようなやり方ではない。われわれは比例代表制の原理をきっぱり退ける。なぜなら、この原理は党を諸潮流の連合にする危険を常に生み出すからである。これは、独立した潮流を作りたいと考えている全グループへの励ましとなる。これは、党とその活動に致命的な影響を与える体制である。だがわれわれは、これまでの諸事件によってつくり出された状況のもとに置かれている――この点については、諸君にわれわれの政策を理解してもらうために十分述べたものと思う。

 したがってわれわれは、こうした特定の状況の中で党の当該の中央委員会とその他の中央機関について、比例代表制を求めた。この提案を起草した小委員会は、ツェトキン、ボルディーガ44)、コラロフ45)、アンベール・ドロー、片山潜46)、マヌイルスキー、トロツキーの同志たちによって構成されていた。

 われわれは、長時間の討論を経た上で起草したこの案を大委員会に提出し、この委員会は政治的・組織的性格をもったすべての提案を満場一致で採択した。われわれは大会に対して、同じ手続きを踏まえて、この採択された決議に満場一致で同意するよう求めたい。

 

   6、フリーメーソン

 大委員会の討論のさい、新しい問題が提起された。それはフリーメーソンの問題である。これは、今まで、党生活の中で浮上したことはなかった。それをめぐる論争的論文はまったく存在せず、共産党内でもさらに革命的労働組合内でも改良主義的労働組合内でも、同時にフリーメーソンにも所属しているかなりの同志たちがいるということが新聞ではけっして言及されることはなかった。この事実が委員会の知るところとなったとき、委員会では少なからぬ驚きが走った。なぜなら、外国の同志たちは誰1人として、トゥール大会から2年も経って、フランス共産党内部に共産主義インターナショナルの世界大会でその性格をあらためて規定する必要もないような組織に所属している同志たちがまだ残っていることなど想像することもできなかったからである。

 私は、大会の機関紙である『ボリシェヴィキ』の論文ではじめてこの問題を取り上げた。この論文を書くために、私はフリーメーソンに反対するとっくに忘れていた埃にまみれた自分の議論を記憶の中から探し出さなければならなかった。私はフリーメーソンについては現存する勢力としては完全に忘れていた。

※編者注 「共産主義と…フリーメーソン」(1922年11月25日)の論文のこと。

 こうした議論を繰り返すことによって諸君を退屈させるつもりはない。フランスでは、まったく月並みな指導者とまったく貧弱な新聞しか持っていない自由主義ぶったブルジョアジーが、その思想と傾向と綱領におけるその反動的な野心と渇望、その不実を覆い隠すために、秘密機関を、とりわけフリーメーソンを利用しているというのが実相である。フリーメーソンはブルジョアジーの機関の1つ、その道具の1つである。

 1年半前、われわれはフランス党にこう言った、「われわれの出版物とわれわれの演説によって共産党とブルジョア社会全体とのあいだに掘られるべき溝が見えない」と。

 われわれは現在、この溝が存在してないだけでなく、両者の間に少し仮装され少し隠蔽された架け橋が部分的に建設されているのを目にしている。この橋はフリーメーソンや「人権市民連盟」などに至る橋である。この橋を通じて、一方における人権市民連盟やフリーメーソンと、他方における党の諸機関――機関紙編集部、中央委員会、連合委員会――との結びつきが形成されている。

 たしかに、フランスの同志たちは、プロレタリアートの階級闘争を通じてこの堕落した社会を粉砕する必要性について語り書いている。そしてこの闘争が、ブルジョア社会から無条件に独立した党によって指導されたプロレタリアートによってなされなければならないことも言われ、書かれている。だがこれらの全面的な革命家たちは…、フリーメーソンの集会所でブルジョア諸階級を代表する年長の兄弟たちと抱擁するのだ!

 このような心理とこのような行動様式はまったく理解不能である。何人かの同志たちはこう言っている、「そうだ、諸君と同様にわれわれは、どの共産党員もすべての力を党に捧げ、その力を他の活動、他の事業、他の機関に提供してはならない」と。しかし問題はそこにはない。ある共産党員が音楽家で、コンサートや劇場に頻繁に出かけているとしても、われわれは彼に対してそれを犠牲にすることを要求することはできない。そうすることができるのは、緊迫した情勢がそれを命じる場合のみである。もし彼が家庭の父親で、自分の生活の一部を子供たちのために犠牲にすることを望むならば、明らかにわれわれは、彼から多くのことを要求することができるが、彼が自分の子供の面倒を見ることをやめるよう要求することはできない。だが、ここで問題になっているのはこういうことではない。共産主義者がその関心や生活の全体を2つの異なった仕事のあいだに振り分けることが問題になっているのではない。否だ!

 もし諸君がこの問題を労働者階級の前に提起するならば、労働者階級はなぜインターナショナルがそのことに関心をもつのかをまったく理解できないだろう。指摘しなければならないのは、革命的精神とフリーメーソン的小ブルジョアジーの精神とが完全かつ無条件的かつ絶対的に両立不可能であることである。フリーメーソン、これは大ブルジョアジーの道具である!(拍手)

 残念ながら、この問題はトゥール大会の直後には提起されなかった。それがわれわれの委員会に提起されたのは、もっぱら分派闘争の結果であった。委員会がこれらの事実を知ったとき、重大な意味をもつ事実としてただちにその活動の議事日程に入れた。

 すると、われわれに対して「諸君は誇張している」と言われる。またしても古い歴史の繰り返しである。これはファーブル事件の再来である。ファーブルは不滅である。共産主義インターナショナルによってたとえ一度は抹殺されたとしても、彼は、別の仮面をつけて、秘密のフリーメーソンの仮面さえつけて、たえず甦るのである。

 われわれはいつも言われる、「諸君は誇張している」と。しかし反対に、われわれは今回、この党の中で何かを現実的にただちに変えるための梃子になりうる問題に直面していると思う。

 われわれの前には重大な問題がいくつもある。労働組合問題、統一戦線問題。労働者運動が発展するのはこの基礎の上においてである。フランス党の議会主義的伝統は、その上層部に、すなわち議員、ジャーナリスト、弁護士、インテリゲンツィアに結晶化されてきたのであり、それは、一定の範囲内で国家の中の国家を形成している。

 日和見主義の精神がとりわけ支配的なのはインテリ分子のあいだである。なぜなら、彼らの頭脳は、これまで経験してきた過去のさまざまな諸状況に関するぼんやりとした記憶で曇ってしまっているからである。

 ここで必要なのは何らかのショック療法である。まさにこの上層でこそショック療法が効果てきめんのものになるだろう。それは、党にとってそうであるばかりではなく(これが1番重要なのだが)、これらの指導層――いくぶん伝統的であまりに保守的な心理を持ち、未来を見つめる代わりにいつも過去を見つめている――のあいだにも間違いなく存在している価値ある分子にとってもそうである。

 しかり、これは大規模なショック療法とならなければならない。ここで治療の対象となっているのは労働者階級の恒常的路線ではなく、もっぱら党の上層の同志たちの態度、習慣、個人的気質である。

 多くの党専従がフリーメーソンの集会所に頻繁に出入りしている。疑いもなく、彼らは、われわれの中にいるときには自分たちがフリーメーソンであることを隠しているのと違って、そこでは共産党員であることを隠してはいない。だが、いずれにせよ、彼らは自分たちの共産主義をブルジョアの兄弟たちの要求に適合させ、非常に敏感な神経を持ったかくもデリケートなこの団体の習慣に適合させている。詩人のメーテルリンクはかつて、天上の世界に舞うことでわれわれは自分自身でなくなってしまうと言ったことがある。それとまったく同じく、人は同じような世界に出入りするとき、急進派の政策の中で磨きをかけられたこれらの兄弟の洗練された趣味に自らの見解を適合させるとき、最後にはもはや革命家としての共産党員は自らの本当の特徴を見出せなくなってしまう。

 まさにそれゆえわれわれは、この問題が党の指導層にとって巨大な重要性を有していると考えるのである。言うまでもなく、中央委員会は、われわれが遂行するよう提案したこの任務を遂行するやいなや、フランスでは、公式世論の10分の9が自分たちに反対するという事態に直面するだろう。すでにある程度の革命的楽しみをもって次のことを予測することができる。すなわち、これらの反動的、カトリック的、フリーメーソン的、レオン・ドーデ的タイプの諸グループ、エリオの友人たちの世界が、自分たちのあらゆる新聞を使って、インターナショナルとフランス共産党に対する攻撃に乗り出すだろう。もし諸君が言い訳をして事態を緩和しようとするならば、もし諸君が、フリーメーソンそれ自体としては全面的に非難すべきものではないが、党とフリーメーソンとのあいだに心を2分することはできない、党はすべての気持ちを党に引き渡すことを要求するのだと言うならば、諸君は、中央委員会の同志たちは苦境に陥ることになるだろう。逆に、党は力一杯テーブルを叩き、こう宣言しなければならない。「その通り、われわれは、優れた同志たちが嘆かわしい無気力のせいでフリーメーソンに所属するのを黙認するという誤りを犯した。だが、この誤りを認めたからには、われわれは、革命を回避するためのこの機関に反対する容赦ない闘争を布告する。人権連盟とフリーメーソンはフランス・プロレタリアートの代表者たちの意識を眠らせるブルジョア的機関である。われわれは、こうした方法に対して容赦のない闘争を宣言する。なぜなら、これらの機関はブルジョアジーの武器庫に置かれている秘密の狡猾な武器となっているからである」。

 もし中央委員会が容赦なく精力的にこの闘争に着手するならば、当然、レオン・ブルムの同盟者たる分裂派はそれに反対して立ち上がるだろう。カトリックはフリーメーソンを擁護するだろう。フリーメーソンは、カトリック教会のひそみにならって、共産主義者を破門するだろう。あらゆる色合いのブルジョアジーはこぞって党に反対して立ち上がるだろうが、共産党は、このいっさいの策動的徒党、ブルジョア社会のこの欺瞞に断固として反対しつづけ、彼らに対し、プロレタリアートの至上の利益を擁護する革命的ブロックを対置するだろう。そして、もし諸君がこの効果てきめんのショック療法をほどこすならば、1ヶ月後、2ヶ月後、あるいは3ヶ月後に、フランス党は、自分が第4回世界大会に陥っていた状況とはかなり異なる状況にいるのを目にすることになるだろうと私は確信している。

 人々はモスクワの「命令」に反対だと叫ぶだろう。再び意見の自由を訴えるだろうが、今回それはフリーメーソンの意見の自由である。またしても思想の自由と批判の自由を要求するだろう。だが、思想の自由と言論の自由を支持して論争を行なっているこれらの同志たちは、共産党カードル内で意見の相違が不可避的に起こると想定しているのだろうか。いやそうではあるまい。だが、彼らは、平和主義者、フリーメーソン、カトリックの神聖なる教えの布教家、改良主義者、アナーキスト、サンディカリストに対し、自分たちの隊列の中に居場所を与えたいと望んでいる。これが、彼らが思想の自由という言葉で理解しているところのものである。

 これらの人々――ほとんど常にインテリゲンツィアだが――は、労働者階級から完全に切り離された職業に就いており、ブルジョア世界の中で自分たちの時間の10分の9までを費やしている。その心理は彼らが週の6日間を過ごすこの世界の影響に屈している。彼らは日曜日に党に戻って来るが、党の原則を忘れてしまっていて、それに対する批判や疑問から改めて始めなければならない。彼らは「われわれのために意見の自由を要求する」と言う。それで、党に反対する新しい決議を書く。その後、彼らは自分たちの世界に戻り、再び仕事を始める。こうした人々はアマチュアであり、ディレッタントであり、その中には多くの出世主義者が含まれている。

 彼らは取り除かなければならない。党がポストや権限のための開かれた扉にすぎないこれらの分子から党を解放しなければならない。

 だからこそ、われわれは次のような厳格な方針を受け入れるよう提案しているのである。すなわち、党が選出するポストの10分の9までが労働者によって占められること、それらの労働者は党の専従になった労働者でさえなく、まだ工場と田畑で働いている労働者であるということである。

 彼らが労働者階級を今日までだましてきたこと、さまざまな政党が労働者階級を跳躍台として、出世の階段を上がる手段として利用してきたことを、労働者階級に示さなければならないし、わが党が議会活動を党の革命的活動の一部にすぎないものとみなしていることを示さなければならない。ここでも活動の主体は労働者階級である。議会に送り出すべきは、最も純粋で最も有能な代表者たち、党を最も明確に表現している労働者たちである。言うまでもなく、彼らを補完するために、一定の学識を持った献身的で信頼できる同志たちを議会に送らなければならない。だが、国会、県議会、市町村議会などにおけるわれわれの会派の圧倒的多数は、労働者大衆で占められなければならず、フランスにおいて支配的な慣行、習慣、見解からするならば、とりわけフランスにおいてはそうである。

 

   7、機関紙

 党の機関紙をジャーナリストの才能が発揮される場とみなすような発想ときっぱり縁を切らなければならない。ジャーナリストが才能をもっていることは大いに結構なことだが、機関紙は闘争手段に他ならないし、あれこれの個人の特定の考えではなく、できるだけ自立的で集団的で、労働者階級を指導する思想を反映しなければならない。

 この観点からすると、『ル・ポピュレール』は議会的党の伝統を端的に代表している。私の手元には編集部の注記の付いた社説がある。その編集長は「以下のことを指摘することを私は自らの義務とみなすが、新聞の指導的論説に対する責任を負っているのは、その筆者のみである」と書いている。

 これが彼らのいつもの慣行である。新聞の論説に対する責任を負っているのはその筆者だけである。労働者はその働いて得たお金をこの新聞のために犠牲にするよう呼びかけられているのだが、その新聞たるや、社会主義的であると自称しながら、それと同時に、「社説に対する責任を負っているのはその筆者のみである」ということを一般的ルールとして宣言しているのである。

 われわれの場合には、新聞の論文に責任を負っているのは党である。ジャーナリストは党の一員として行動し、無署名で記事を書く。ジャーナリストの紳士諸君が――私もこの階層に多少属しているのだが――、これが自分の個人的自尊心を傷つけるものだと言うとすれば、われわれはこう答えよう。労働者階級の精神、政策、闘争の最も忠実な――できるだけ非個人的な――手段として役立つことこそが共産党員ジャーナリストの最高の名誉なのだ、と。

 

   8、農民問題と植民地問題

 私はさらに2つの問題を論じなければならない。まず第1は、農民の間でのわれわれの活動の問題である。

 この問題はパリ大会で他のすべての原則的問題よりも速やかに処理された。これを提案したのは同志ジュール・ブランであり、彼は次のように述べた。農民からの手紙は、農民には特有の革命的本能が存在していることを物語っており、それを確認するならば農民にあまりにも性急に「小ブルジョア的」という形容詞が適用されていることに抗議することができる、と。さらにこう述べている。農民が「小ブルジョア的」であるとして扱われているパンフレットを広めるのは党の宣伝を損なうものである、と。

 同じ異論は同志ルノー・ジャン46)によってなされた。私は農民の中でのわれわれの活動について若干述べる必要があると思う。

 「小ブルジョア的」という用語はけっして侮辱的なものではない。それは科学的表現である。生産者が自らの生産手段の所有者であるという事実、すなわちまだ完全に自らの生産手段を奪われておらず、まだ賃金労働者でもないという事実にもとづいている。これが、「小ブルジョア的」という用語の意味するものである。

 科学的な講義の場ではなく、宣伝的な演説の中で、農民が私の話をさえぎって、「私は小ブルジョアなのか?」と質問するとしよう。私は彼に屈辱を与えないような――そうであってほしいと私は思うが――説明を彼にするだろう。多くの農民は自分をプロレタリアートから区別している。プロレタリアは何も持っていないのに対して、農民は生産手段の所有者であるからである。ここから、プロレタリアートの場合と違って、農民の個人主義的イデオロギーが生じるのである。

 この用語は、われわれが農民の本来の性質について自分自身をあざむかないようにするためにも、労働者を誤らせるのを防ぐためにも、正当かつ必要である。だが、2つの階級の間に存在する生活様式と見解の相違は、農民の間でのわれわれの活動をけっして妨げるものではない。

 もう1つの問題は植民地問題である。ここでアルジェリアのシディ・ベル・アベ支部の決議が引用されたかどうか知らない。共産主義者であると自称するグループのこの決議は、小さなグループによって採択されたものであったとしても、まったく恥ずべきものである。決議はこう述べている。

 「植民地に関して支部はモスクワのテーゼとは全面的に意見を異にする。……現地の共産主義者連合だけが現地の共産党員の活動の戦術を決める権利がある。アルジェリア共産主義者連合は、アルジェリアで出されるアピールに責任を負っているので、その趣旨と内容に同意できないアピールをアルジェリアで公開することを認めることはできない」。

 これは、インターナショナルが党の内部問題に全面的に介入すべきではないと言っているようなものである。この植民地支部は、自分たちの党およびインターナショナルに反対し、「とんでもない。問題が現地住民に関わるときには、それはわれわれだけの領域だ」と言っているのである。

 決議はさらに言う。

 「アルジェリアのムスリム大衆の勝利せる反乱――それは本国のプロレタリア大衆の勝利せる反乱に先立つであろう――は、必然的に封建的体制に類似した体制の復活をもたらすだろうが、これは共産主義者の行動の目的とはなりえない」。
※原注 この演説の中では、シディ・ベル・アベ支部のエセ・マルクス主義的議論を十分反駁する機会がなかった。彼らは、フランス・ブルジョアジーの専制支配に対する現地住民の反乱が勝利した場合には、必然的に野蛮状態に陥るだろうと言って、われわれを脅している。こうした議論は戦前の右派社会民主主義者の議論を拝借したものである。たしかに、この後者の言い分には一定の正当性があったことを認めなければならないだろう。なぜなら、資本主義は当時まだ上昇線をたどっていたからである。だがヨーロッパ資本主義が完全な衰退状況にある現在では、ヨーロッパ資本主義の中に植民地の発展にとって進歩的な要因を見出すことは、歴史科学の最も単純な真理を拒否することを意味する。

 実際に植民地を「野蛮状態」から抜け出させることができるのは、すなわち、植民地が陥っている後進性から抜け出させることができるのは、社会主義だけである。それは、資本主義に代わってその影響力を植民地に広げつつある。

 本国の資本主義支配を弱めつつあるすべての植民地解放運動は進歩的である。なぜなら、それはプロレタリアートの革命的事業を容易にしているからである。

 恣意的に選ばれた瞬間に植民地の反乱を呼びかけることができないことは明らかである。こうした運動が勝利するには、一定の諸条件が必要である。他方、戦略の問題としては、つねに好都合な時期としかるべき方法を選択しなければならない。しかし、このことは現在問題になっている定式、すなわち、われわれ本国の高等人種がいっさいを変革するまで植民地奴隷は奴隷のままである、なぜなら、諸君が教養あるブルジョアジーの庇護から解放されたならば、諸君は必然的にその本性たる野蛮状態に落ち込むことになるからだ、という定式とはいかなる関係もない。

 ここに問題がある。彼らは反乱を、とりわけ植民地における現地住民の勝利せる反乱を認めることができないのだ。というのは、現地住民がフランス・ブルジョアジーの圧制から自らを解放するという愚行を行なうならば、封建的体制に戻ることになるからであり、アルジェリアのフランス人共産党員は、革命的反乱の後で不幸な現地住民がフランス・ブルジョアジーの圧制から自己を解放して再び封建体制に陥るのを許すことができないからだ。

 われわれとしては、奴隷所有者の精神に蝕まれたこのような同志たち、ポアンカレが資本主義文明の恩恵をアルジェリアに維持することを望んでいるこれらの同志たちがわれわれの隊列の中にとどまっているのを、一分一秒たりとも我慢することはできない。このようなグループの代理人は実際にはポアンカレその人である。なぜなら彼は、自らの圧制を通じて、哀れな現地住民を封建体制と野蛮状態から救い出すことによって、彼らの願望を実現してやっているからである。

 実践における裏切りはいつも独立性、自治、行動の自由という仮面で覆い隠されている。彼らはインターナショナルの介入、さらにはフランス党自身の介入にさえたえず抗議する。確かに、フランス党には変革すべき多くのことがある。党が論文の中で「論文の責任を負うのはその筆者だけだ」と宣言するのを見て分裂派が党のそうした状況を喜んでいるのを、われわれはすでに目にしている。彼らは、「共産党の分解はわれわれにとっての絶好の好機を生み出している。今や自己防衛するときではなく、攻勢に移るべきときである」云々と言っている。

 

   9、行動へ

 分裂派は自分たちの党が大いに繁栄するだろうと予言している。この予言は実現されないだろう。反対に、われわれは速記録を恐れることなく、あらかじめ次のように言うことができる。すなわち、諸政党が現在のままであるとすると、すなわち、労働者階級の前に、それぞれの信奉者を従えた2つの勢力――それぞれが階層的な官僚制度をともなった2つの教会――しか存在しない状態のままであるとすると、それは数年間や数10年間続くことがありうるが、共産党の中で根本的な変化が生じ、この党が他党とまったく異なる党になるなら、そして労働者がその中に政党以上のものを、プロレタリア革命の推進者を見ることができるようになるなら、その瞬間から、分裂派は舞台から一掃され、CGTの改良主義者とともにもはや存在しなくなる、と。完全な確信をもって言うが、CGTUは自分たちの力だけで改良主義的CGTを滅ぼすことはできないだろう。そうではなく、労働者階級のすべての良質な分子を結集した強力で真に革命的な党のみが、政治的・労働組合的改良主義を粉砕することができるのである。諸君にもすぐにそのことがわかるだろう。

 フリーメーソンや人権連盟に対する闘争において、最初の数週間は、うまくいかないこともあるだろうし、分裂派に移行する脱党者も生まれるだろう。分裂派がまず最初に得点をかせぐだろうが、確信をもって言うが、彼らは共産党からこぼれた屑や排泄物しか得られないだろう(拍手!)。

 この過程を促進し偉大な革命的行動を開始するために、厳しい作戦を精力的に推進する必要がある。われわれは、フランス委員会の名において行動綱領を諸君に提案する。これは、左派によって委員会に提出され、非本質的な修正を施されて満場一致で採択されたものである。

 基本的に言って、現在、党の広範な革命的行動を展開することは可能である。だがそのためには、そうした行動を妨げている諸要素を党から一掃しなければならない。労働者の直接的な諸要求を提起することがあたかも、フランスにおいて新しい改良主義を生み出しかねないかのように言うのは誤っている。ブルジョア社会が衰退しつつある現代においては、直接的諸要求は真の革命運動の鍵となる。この運動の出発点になりうるのは、工場委員会であり、その際に必要なスローガンは統一戦線である。それは、行動と成功にとっての最大限の可能性を開く。その他のスローガンとして、とりわけフランスで大いに必要なものとして、われわれは労働者政府のスローガンを提起する。

 この問題をめぐる論争はもうやめるべきである。なぜならこの問題をめぐって展開された論争は、ただでさえ十分動揺している労働者の意識をさらに動揺させることにしかならないからである。

 ブルム=フロッサール政府という発想は象徴的な意義しか持っていない。労働者政府の形成にとっては、議会内の数合わせだけでは不十分である。実際、分裂派と共産党員が議会の多数派を獲得するためには、全労働者階級が分裂派と共産党員に投票する必要があるし、そのためには、分裂派が労働者階級に対して左翼連合に投票するよう呼びかけるのではなく、逆に分裂派が左翼連合から離脱して、ブルジョアジーと手を切らなければならない。したがって、まず何よりも、フランスの労働者階級に対して、ブルジョアジーと完全に決裂する必要性があることを示さなければならない。

 ル・アーブルのストライキとそこでの労働者の虐殺を例にとれば、われわれは労働者に対し、労働者政府のもとであればこのような虐殺は起こらないだろうと言うだろう。議会におけるわれわれの代表は、労働者階級がポアンカレ政府や左翼連合を許すことができず、労働者階級を代表し、労働者によって構成される政府だけを許すことができると言わなければならない。

 われわれ共産党員は、革命運動によって樹立される労働者政府を全力で目指す。だが、もし同様の政府を議会的手段で樹立できると労働者が信じているとすれば、われわれは彼らにこう言う。「やってみたまえ。だが、そうするためには、真っ先にかつ無条件に左翼連合やブルジョア的数合わせと手を切って、労働者の連合を形成しなければならない。諸君がブルジョアジーときっぱり手を切りつつも、議会的手段をまだ信じているとすれば、われわれは諸君に、『われわれはこの方法を信じていないが、諸君がブルジョアジーと手を切るかぎり、われわれは諸君の行動を支持する』と言う。また、『労働者階級の党であると自称する諸政党の連合政府は可能なのか』と訊かれたなら、私はこう答えるだろう。『もちろんだ。だが、それは、議会的数合わせにもとづいてではなく、議会を含むプロレタリアートのあらゆる闘争領域を包含する大規模な運動にもとづいてのみ可能である』と」。

 大切なことは、労働者による労働者のための労働者政府を樹立することは可能であるという単純きわまりない思想を、運動を通じて労働者階級に根づかせることである。

 もし諸君がわれわれに、「分裂派がわれわれを裏切らないと確信できるのか」と尋ねるならば、私は「いやけっして確信などしていない」と答えるだろう。だからこそ、たとえわれわれが彼らとともに革命的労働者政府を樹立できたとしても、われわれの最悪の敵に対するのと同じ注意や同じ警戒心で彼らを監視しなければならない。そして彼らが裏切った瞬間に、彼らを政府から追い出さなければならない。ちょうど、われわれが樹立したロシアの労働者政府の中で農民を代表していたエスエル左派を追い出したように。われわれは彼らを政府から追放し、労働者階級の手に全面的に政府を保持することを余儀なくされた。

 労働者政府のスローガンはまず何よりもわが党の絶対的な独立性を意味する。この独立性はすみやかに勝ち取られなければならない。

 フランスにおいて中央派は、来る数週間のうちにフランス共産党内部でこの精力的取り組みに責任を負わなければならない。委員会の中で私はフランスの同志たちについて手厳しい説明を行なったが、それについては、私の報告の中である程度触れられているので、ここではもうこれ以上繰り返さないでおこう。フロッサールの演説ははっきりと危険性の存在を指摘している。私はそれを引用し、解釈した。中央派のなすべきことは、この危険性を防止し、それを完全に一掃することである。私には分裂の理由は見出せない。逆に、情勢は共産党にとってきわめて有利である。われわれの目の前で国民連合が崩壊し、建て直しは絶対に不可能である。左翼連合も困難な状況にある。フランスの未来は、したがってまた全人類の未来は、わが党の手に握られていると思う。この壮大で偉大な展望に鼓舞されて、中央派がその責務を最後まで果たし、次期大会には、統一された均質で真に革命的な党、フランス・プロレタリアートの革命の勝利の瞬間まで自らの任務に忠実な党が見られることをわれわれは確信している(長く続く拍手)。

1922年12月1日

『フランスにおける共産主義運動』所収

『トロツキー研究』第38号より

 訳注

(1)フロッサール、ルイ・オスカール(1889-1946)……フランスの社会主義者、ジャーナリスト、一時期、フランス共産党の指導者。1905年、フランス社会党に入党。第1次大戦中は平和主義派、中央派。1918年、党書記長に。1920年、マルセル・カシャンとともにコミンテルン第2回大会に参加。帰国後、フランス社会党のコミンテルン加入を訴え、多数派とともにフランス共産党を結成し、その書記長に。統一戦線戦術をめぐってコミンテルン(とくにトロツキー)と対立。1922年末に党と決別し、その後、社会党に復党し、国会議員に。後に、社会主義そのものと決別し、ブルジョア政権のもとで大臣に。第2次大戦中はペタン政府に奉仕。

(2)ルヌー、ダニエル(1880-1958)……フランス共産党指導者。1914年にフランス社会党の『ユマニテ』編集委員。大戦後は中央派からコミンテルン支持者に。192012月のフランス共産党創設大会で指導委員に。『アンテルナショナル(インターナショナル)』を編集。1921年には統一戦線をめぐってコミンテルンと対立し、第1回コミンテルン拡大執行委員会総会で、自らの立場を擁護。1935年にモントリーユの市長に。1945年にフランス共産党中央委員に再選。最後までスターリニスト。

(3)原文は「政策(ポリティカ)」だが、文脈上、「論争(ポレミカ)」の誤植であると判断した。

(4)「左翼連合に対する党の戦術」、本誌、31頁。

(5)同前。

(6)同前、35頁。ただし、この引用文は一部、元の文章と異なっている。

(7)同前、35〜36頁。

(8)ヴァイヤン=クチュリエ、ポール(1892-1937)……フランス共産党の幹部、弁護士、ジャーナリスト。プロテスタントのブルジョア家族に生まれ、戦争を憎んで社会主義者に。1916年にフランス社会党に入党。1919年にパリ選出の議員に。党内で第3インターナショナルを支持し、1920年のトゥール大会でフランス共産党創設に参加し指導委員に。1921年にコミンテルン第3回世界大会に参加。1926年に『ユマニテ』編集長に。1931〜33年にコミンテルンの仕事の一環として極東を訪問。その後、共産党員ジャーナリストとして中国やスペインを旅行。

(9)ジャコブ、アンリ(1896-?)……フランスの労働運動家、元フランス共産党員。労働運動を通じてフランス共産党に参加。中央派。1922年10月のパリ大会で中央委員に。同年末のコミンテルン第4回大会に参加。党の労働運動部門を担当。1920年代半ば、トロツキー、ジノヴィエフの合同反対派の問題に関し留保的立場をとり、中央委員を解任。1929年に離党。ドイツの占領期にファシストのドリオに協力し、解放後、告発される。

10)マヌイリスキー、ドミートリー(1883-1959)……ウクライナ出身の革命家、古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1903年以来のボリシェヴィキ。1905年革命に積極的に参加。逮捕され、流刑されるも、途中で脱走。1907〜12年、フランスに亡命。1912〜13年、非合法活動のためロシアに戻る。その後再びフランスに亡命。第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年にロシアに帰還し、メジライオンツィに。その後、ボリシェヴィキに。1918年、ウクライナ・ソヴィエトの農業人民委員。1922年からコミンテルンの仕事に従事。1928年から43年までコミンテルンの書記。1931年から39年まではコミンテルンの唯一の書記。「第三期」政策を積極的に推進。スターリンの死後に失脚。キエフで死去。

11)モンムッソー、ガストン(1883-1960)……フランスの労働運動家、スターリニスト。1920年の鉄道ストライキを指導。1925年にサンディカリストからフランス共産党へ。フランス共産党の労働官僚となり、CGTU(統一労働総同盟)、後にCGT(労働総同盟)を指導。

12)モナット、ピエール(1881-1960)……フランスの労働組合運動家でサンディカリスト左派。1909年に『労働者の生活』を創刊。第1次大戦中は反戦の立場を堅持。1923年にフランス共産党に入党したが、1年後に離党。1924年に『プロレタリア革命』グループを旗揚げ。1926年に「サンディカリスト連盟」を創設。

13)ポアンカレ、レイモン(1860-1934)……フランスのブルジョア政治家。1912〜13年にフランスの首相兼外相として軍拡を推進し、三国協商を強化。1913年にフランスの大統領。第1次大戦中は超党派的「神聖連合」を組織。1922〜24年に再び首相。1923年にドイツのルール地方を占領。1924年辞職。1926年に「国民連合」の首相兼蔵相。

14)ラフォン、エルネスト(18791946)……フランスの社会主義者、弁護士、議員、元フランス共産党員。第1次大戦中は社会愛国主義者。1920年に一時期ソヴィエト・ロシアに滞在し、そこで「左傾化」。トゥール大会で多数派につき、フランス共産党に参加。コミンテルン第4回大会後に除名され、後にフランス社会党に復帰。1935年にラヴァル政府の大臣。

15)ラ・ガーディア、フィオレロ・ヘンリ(18821947)……アメリカの弁護士、政治家。1917年から共和党の下院議員。組合活動を保証する「ノリス=ラ・ガーディア法」の起草者。1933〜45年、ニューヨーク市長。市政機構の改革、都市計画・公共福祉政策を推進。

16)ラフォン、エルネスト(18791946)……フランスの社会主義者、弁護士、議員、元フランス共産党員。第1次大戦中は社会愛国主義者。1920年に一時期ソヴィエト・ロシアに滞在し、そこで「左傾化」。トゥール大会で多数派につき、フランス共産党に参加。コミンテルン第4回大会後に除名され、後にフランス社会党に復帰。1935年にラヴァル政府の大臣。

17)シャンブラン、モーリス(1901-1966)……フランスのサンディカリスト左派。1924年にフランス共産党を離党してモナット派に。

18)スティフ……元フランス共産党指導者の1人。アンドレ・モリゼと協力して、フランス共産党内の日和見主義派に属した。

19)ロスメル、アルフレッド(1877-1964)……フランスの革命家。もともとアナーキストで後にサンディカリスト。トロツキーがフランス滞在中、ともに反戦活動に従事。フランス共産党の創始者の一人。1924年に反対派の活動を理由に除名され、1930年まで左翼反対派の積極的メンバー。その後トロツキーと離反するが、1936年に個人的友情が復活。『レオン・トロツキー』『レーニン下のモスクワ』など。

20)ブリゾン、ピエール(1878-1923)……フランス社会党の代議士、元教師。第1次世界大戦中は平和主義派で、後に国際主義派になり、キンタール会議に参加。フランス共産党に参加したが、急速に右傾化して、共産党から分裂して、右派の新聞『ラ・ヴァーグ』を創刊し、コミンテルンと攻撃。

21)「コミンテルン執行委員会からフランス共産党中央委員会への通信」、『コミンテルン最初の5ヵ年』下、現代思潮社、60〜68頁。『コミンテルン最初の5ヵ年』ではこの手紙の日付は「6月25日」になっている。

22)ビゴー、マルト(1878〜?)……フランスの女性社会主義者、労働組合運動家、初期のフランス共産党幹部。最初、セーヌ県の教員、社会党員。1916年に永続的平和を求める国際女性委員フランス支部の書記に。ツィンメルワルト少数派のセーヌ県連合に会計副主任。1920年、社会党内「再建派」潮流の指導者の1人。1921年、共産党中央委員、女性書記。1922年には再選されなかったが、1923年には再選される。その後、モナットとロスメルと行動を共にする。1927年、サンディカリスト同盟委員会のメンバー、1929年に『ラ・ヴェリテ』編集委員。その後、このグループを離れ、『プロレタリア革命』派とともに活動。

23)カシャン、マルセル(1869-1958)……社会党出身のフランス共産党指導者。『ユマニテ』の編集者。第1次大戦中は社会愛国主義派。1918年に中央派に。コミンテルン第2回大会でフロッサールとともにフランス社会党を代表。1920年12月のトゥール大会でフランス社会党のコミンテルン加入を訴える。フランス共産党内では中央派。その後、忠実なスターリニストとなり、死ぬまでその立場を堅持した。

24)「フランス共産党のマルセーユ大会への手紙」、同前、69〜76頁。『コミンテルン最初の5ヵ年』では日付は記載されていない。

25)原文では「3度目」とあるが、文脈から明らかに「2度目」の誤植である。

26)スティフとともに党内日和見主義派を指導していたアンドレ・モリゼのこと。『レーニンとトロツキーのもとで』の著者であるモリゼは、当時、パリ近郊の一都市の市長を勤めていた。

27)マルセーユ大会で、左派の指導者であったスヴァーリンが中央派の画策で中央委員に選ばれなかったことに抗議して、左派の中央委員4名が中央委員を辞任した事件を指している。

28)「フランス問題に関するコミンテルン拡大執行委員会総会の決議」、『コミンテルン最初の5ヵ年』下、144〜147頁。

29)ファーブル、アンリ(1877-?)……コミンテルンに対する闘争と党内での腐敗を理由にフランス共産党を除名された党員。『ジュルマール・デュ・ピュープル』を編集し、その新聞を利用して反共産主義宣伝を行なった。

30)コミンテルンの規約第9条は、以下のように規定している。「執行委員会は、大会から大会までのあいだ共産主義インターナショナルの全活動を指導し、……共産主義インターナショナルの所属するすべての党と組織に対し、全体を拘束する指針を与える。共産主義インターナショナル執行委員会は、加盟諸党に対し、国際的規律に違反したグループや個人を排除することを要求する権利、また世界大会の諸決定に違反した党を共産主義インターナショナルから排除する権利を持つ。その党は世界大会に上訴する権利を持つ」(『コミンテルン資料集』第1巻、大月書店、221頁)。

31)「コミンテルン執行委員会からフランス共産党中央委員会への手紙」、『コミンテルン最初の5ヵ年』下、162〜172頁。

32)「コミンテルン拡大執行委員会総会の決議」、同前、186〜196頁。

33)ヴェルフェイユ、ラウル(1887-?)……ジャーナリスト、元フランス共産党員。1920年のトゥール大会では分離派とともに党を離れたが、その後フランス共産党に入党。1921年のマルセーユ大会で中央委員に。ファーブルの新聞『ジュルナール・デュ・ピュープル(人民新聞)』に協力。1922年10月のパリ大会で除名。その後、反共主義者に。

34)マユー、フランソワ(1882〜?)……フランスの社会主義者、労働運動活動家、教員、元フランス共産党員。1907年に労働総同盟に加盟。妻のマリー・マユーとともに戦争中、CGT少数派として重要な役割を果たす。1918年から21年までブーシュ・デュ・ローヌ県のCGTの書記。トゥール大会後、共産党員に。1922年に除名。1929年にCGTUからも追放。

35)「コミンテルン執行委員会のセーヌ県連合への手紙」、同前、202〜209頁。

36)「フランス共産党大会への手紙」、同前、210〜233頁。

37)「フランス共産党パリ大会へのメッセージ」、同前、234〜235頁。

38)セリエ、ルイ(1885-?)……フランスの共産党指導者。1909年からフランス社会党の活動家。1914年にパリの市会議員。1920年のトゥール大会において多数派がコミンテルンに加盟したとき、フランス共産党の指導委員会に選出。1922年2月の第1回拡大執行委員会総会、6月の第2回拡大執行委員会総会にフランス代表団メンバーとして出席。中央派の立場を代表。1923年1月に党書記長。同年7月にコミンテルン執行委員になり、その後、フランス共産党書記長の後任にセマールが就任。1929年に除名された6人の地方自治体議員の一人。その後、反対派共産主義者から右派に転向。1940年のナチス占領以降、ペタン政権を支持。

39)セリエ、アンリ(18831943)……フランスの社会主義者、労働運動家。シュレンヌ市の社会党員市長。1920年のトゥール大会後にフランス共産党へ。党内では右派を指導。パリ大会でジョレス問題を提起。1923年にフロッサールとともに離党し、社会主義共産党を結成。その後フランス社会党に復党。1936年にブルム政権で保健大臣。

40)レシアーグ、リュシ(1879-1962)……フランスの女性社会主義者、元フランス共産党幹部、その後反共主義者に。1914年以前はフランス社会党で活動し、第1次大戦中に平和主義敵反対派に移行。1920年12月のトゥール大会におけるフランス共産党創設のさい、党の中央委員(フランス語では指導委員)に選出。1922年5月から11月までフランス共産党の代表としてモスクワに滞在。1922年6月の第2回コミンテルン拡大執行委員会総会に参加し、コミンテルン執行委員会の常任幹部会員に。1924年のコミンテルン第5回大会に参加。1928年にフランス共産党と断絶。その後、反共主義の立場から評論活動に専念する。

41)ツェトキン、クララ(1857-1933)……ドイツの共産主義者、女性解放運動家。ロシアの革命家、オシップ・ツェトキンと出会ってマルクス主義者に。チューリヒ、パリでエンゲルスやリープクネヒトらと交流。1889年、第2インターナショナルの創立大会に参加。1991年にドイツに帰国し、社会民主党の女性運動誌『平等』を創刊。1907年、第2インターナショナル国際女性書記局責任者となる。第1次対戦中はローザ・ルクセンブルクとともに党内左派に属し、レーニンと協力してツィンメルワルト運動などを展開。スパルタクス団、独立社会民主党を経て、1919年にドイツ共産党に。初代の中央委員会の一員。1921年、コミンテルン執行委員。1933年、ナチスの権力掌握後にソ連に亡命。

42)ジョレス、ジャン(1859-1914)……フランス社会党の指導者、改良主義派としてゲード派と対立。1904年に党機関紙『ユマニテ』を創刊。1905年にゲード派とともに統一社会党を結成。反戦平和を主張し、第1次世界大戦勃発直後に右翼によって暗殺された。『フランス大革命史』(全8巻)など。

43)ゲード、ジュール(1845-1922)……フランスの社会主義者。ラファルグとともに、フランスのマルクス主義派の代表。フランス社会党では議会主義のジョレス派と対立し、左派を形成。第1次大戦中は排外主義に転落。無任所大臣として政府に入閣して、対独戦争を遂行した。

44)ボルディーガ、アマデオ(1889-1970)……イタリアの共産主義者、イタリア共産党の初期の指導者。1910年にイタリア社会党に入党し、議会闘争反対の立場を確立。第1次大戦中は反戦派を率いて社会党内の左派を支持。1918年に『イル・ソヴィエト』を創刊。その反議会主義的立場はレーニンの『共産主義内の左翼小児病』で批判される。1921年1月のリヴォルノ大会で共産党の創設を指導し、初代書記長に。1921年12月のフランス共産党マルセーユ大会でコミンテルンを代表して出席。コミンテルン内では統一戦線戦術に反対し、1922年6月のコミンテルン第2回執行委員会総会ではイタリア代表団を率いて参加。同年末のコミンテルン第4回世界大会で演説。1923年にコミンテルン執行委員会の常任幹部会員に。イタリア共産党内でグラムシが主導権を握ると、左派を率いて党内闘争を行なう。1926年1月のリヨン大会でグラムシ=トリアッティ派に敗北。1926年2〜3月の第6回コミンテルン拡大執行委員会総会で主流派を激しく攻撃。1926年末に逮捕投獄され、その後流刑。1930年にトロツキズムのかどで除名。戦後、イタリア共産党からもトロツキストからも独立した独自の党派「国際主義共産主義者」を組織。

45)コラロフ、ヴァシリー(1877-1950)……ブルガリアの革命家。1897年、ブルガリア社会民主党に。極左の「テスニャキ派」を指導。ブルガリア共産党の創立メンバー。1922〜43年にコミンテルンの執行委員で、1928〜39年には農民インターナショナル(クレスティンテルン)の議長。第2次世界大戦後は、ブルガリア政府の首脳となる。

46)片山潜(1859-1933)……日本の革命家、日本共産党の創設者。1844年に渡米し、苦労しながら大学を修める。1896年帰国。在米中キリスト教徒となり,社会問題に関心を抱く。1897年、労働組合期成会結成に参加。機関誌「労働世界」の主筆として労働組合の組織と指導に当たる。1901年、社会民主党創立の発起人。日露戦争時,第2インターナショナル大会の副議長として反戦演説し、プレハーノフと壇上で握手。1906年、日本社会党に参加、幸徳らの直接行動論に反対する。1911年、東京市電ストライキの指導者として逮捕投獄。出獄後、1914年に再度渡米。1917年初頭、アメリカに亡命してきたトロツキーらロシアの革命家と親しく交流し、いっしょにアメリカ社会党の左派として活動。ロシア10月革命の影響で共産主義者に。1921年、ソ連に入国し、極東勤労者大会名誉議長、コミンテルン執行委員に。1922年、日本共産党の結成と活動を援助。1920年代半ば以降の党内論争ではスターリンの側につく。1933年に死亡し、遺骨はクレムリンの赤い壁に埋葬された。

 

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