スローガンと意見の相違の分析

 トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、第15回党大会を頂点とするレニングラード反対派(ジノヴィエフ=カーメネフ派)と主流派(スターリン=ブハーリン派)との闘争に対するトロツキーの一連の覚書の一つである。

 この覚書の中でトロツキーは、1923年における主流派(トロイカ派)の経済路線が1925年に二つの分派の相互に対立する路線に分裂するとともに、その両路線にはそれぞれ1923年のときの路線に対する部分的清算が含まれていることを明らかにしている。1923年の主流派の路線の本質は、一方では農業と工業を単純に対立させた上で「農村重視」「農民の過小評価反対」の名のもとに工業の立ち遅れを放置し、他方では「国家資本主義」システムの名のもとに工業の計画的な発展の課題を中心に置かなかったことにあった。

 だが、トロツキーによれば、工業と農業とは単純な対立関係におくべきものではなく、工業を重視すれば農業軽視であり、その逆は逆であるというものではなかった。そうではなく、「問題の本質は農村の階層分化の現水準にあるのではなく、階層分化のテンポにさえあるのでもなく、工業の発展テンポにあるのであり、これのみが農村の経済発展の基本的過程に質的な変化をつくり出すことができるのである。このことからさらに次のことが言える。『農村に顔を向けよ』が意味しているのは何よりも『工業に顔を向けよ』ということだということである」。 

Л.Троцкий, Анализ лозунгов и разногласий, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том., 《Терра-Терра》, 1990.


 階級に関しても政党に関しても、それが自分自身について語っていることや、それがある一時期に提起しているスローガンだけから判断することはできない。このことは政党内部のグループについても完全にあてはまる。スローガンはそれだけで取り上げてはならず、状況の全体と結びつけて、とりわけ当該グループの過去やその伝統と結びつけて、またそのグループの中にどのような人材が選択されているか、等々と結びつけて検討されなければならない。

 しかしこのことは、スローガンがいかなる意味も持たないということではない。それはグループの相貌をすべて規定するわけではないが、その規定の一構成部分である。そこで、基本的スローガンをそれ自体として取り上げて分析し、その次に、現在の政治的状況に照らしてこのスローガンを評価しよう。

 農民の階層分化という問題を先鋭な形で提起していることは、疑いもなく、それが中農の協同組合化を純抽象的に提示することから現実の経済過程へとわれわれを向かわせるという一点からしてもすでに、肯定的な意義を持つ事実である。党の注意を農民の階層分化に集中させることは、農村そのものを社会主義にそのまま移植させる内的な手段はないし、ありえないという事実を理解することを余儀なくさせる。このことからカーメネフの立場の転換が生じた。カーメネフは、ブハーリンに反対して、社会主義とはソヴィエト権力プラス協同組合ではなく、もう少し複雑なものであるとする見地を提出している。すなわち、社会主義とはソヴィエト権力プラス電化プラス協同組合であり、しかも電化というのは工業技術全般の向上として理解されなければならない、と。このような問題設定は、工業の系統的な立ち遅れの原因の一つであった1923年当時の立場と比較すれば、紛れもなく一歩前進である。以上の考えを最後まで持っていくならば、たとえば次のように定式化されなければならないだろう。協同組合化は社会主義的性格を持つことも資本主義的性格を持つこともできる。農村の経済過程をそれ自体として取り上げるならば、協同組合化は疑いもなく資本主義の道に沿って進むだろう。すなわち、クラーク階層の手中の道具となるだろう。新しい技術にもとづく場合のみ、すなわち農業に対する工業の優位性をますます増大させる場合のみ、貧農と中農の協同組合化は社会主義への発展を保障することができる。工業の発展テンポが急速であればあるほど、それだけますます急速に農業に対する優位性を達成することができるだろうし、ますます確実に農民の階層分化の過程を押しとどめ、中農大衆のプロレタリア化を妨げること、等々を期待することができるだろう。

 しかし、カーメネフがブハーリンの農業協同組合的展望に推進原理としての工業を対置していると同時に、ブハーリンは工業そのものの社会的本質の評価問題をめぐってカーメネフに反対し、カーメネフ、ジノヴィエフその他は引き続き工業を国家資本主義システムの構成部分として評価している。このような観点は2、3年前には一般的なものであり、とりわけ1923〜24年の党内論争のときに執拗に主張された。こうした観点の本質は、工業をこのシステムの従属的部分の1つとみなし、農業、財政金融、協同組合、国家規制された私的資本主義的企業、等々が他の諸要素としてこのシステムの中に入るとみなす点にある。国家によって調整され統制された以上の経済過程は国家資本主義のシステムを構成するものとされ、このシステムがいくつかの段階を通じて社会主義に発展するとされている。こうした図式においては、工業の指導的役割は完全に雲散霧消してしまう。計画原理はほとんど完全に財政的・金融的規制によって押しのけられる。そしてこの財政的・金融的規制は、相互に対立しあう2側面とみなされている農業と国営工業を媒介する役割を担うというわけである。まさにこのような図式から、正当にもカーメネフが反対している農業協同組合的社会主義の観念構築物が発生してきたのである。しかし、同じこの図式から、国営工業を基本的な社会主義的梃子としてではなく、国家資本主義の従属的な構成部分と評価する見方も生じているのであり、現在、正当にもブハーリンはこうした見方に反対している。つまりここでは、1923年当時は両者に共通していた立場――この立場こそが一方では、農業に対する工業の立ち遅れをもたらし、他方では、「豊かになれ」というけっして偶然ではないスローガンによって表現されたブハーリンの中農協同組合的図式をもたらしたのだが――の清算が2つの部分に分かれてなされているのである。

 しかし、1923年当時の立場の清算は部分に分けてではなく、全面的な形でなされなければならない。きっぱりと言っておかなければならないが、問題の本質は農村の階層分化の現水準にあるのではなく、階層分化のテンポにさえあるのでもなく、工業の発展テンポにあるのであり、これのみが農村の経済発展の基本的過程に質的な変化をつくり出すことができるのである。このことからさらに次のことが言える。「農村に顔を向けよ」が意味しているのは何よりも「工業に顔を向けよ」ということだということである。さらにまた、計画化は工業と農業とを媒介するものではなく、まず第一にそして主として工業によって実現される国家の全面的な経済的方向設定のことなのである。計画化の機軸は工業の発展計画であるし、そうでなければならない。工業を脇役に追いやるような計画化は不可避的に、些末主義に、あれこれの部分的修正をほどこすだけの立場に、場当たり的な調整の試みに行き着くだろう。このことはゴスプラン(国家計画委員会)にも、労働国防会議(ストー)にもあてはまる。計画化が、市場から立ち遅れた国営工業と農業との半ば受動的な媒介物と化すならば、財務人民委員部は必然的にゴスプランを脇に退けてしまうだろう。なぜなら、財政と金融は、媒介的な調整の手段としてはゴスプランの統計的な手法よりも抜本的で現実的なものだからである。しかし、財政と金融的手段による調整は、ことの本質からして、それ自身のうちにいかなる経済原理も有していないし、経済過程を促すことはできても、社会主義への発展の保障を有していないし、有すことはできない。

 われわれの経済活動の最初の時期、レーニンは経済計画の基礎として電化の考えを提起した。電化は工業原理の最高の表現である。公式的には電化の思想は引き続き指導的思想の一つとみなされている。実際にはそれは、経済発展全般の中でますます相対的に小さな位置を占めるようになっている。電化は経済計画の思想と最も密接な形で結びつけられていた。ここに、社会主義経済が経済を計画化しうるのは工業技術を通じてであるという思想の最初の表現が見られる。ゴスプランと最高国民経済会議(ヴェセンハ)との密接な結びつきなしには、首尾一貫した正しい工業発展計画は持つことはできないだろうし、何よりも工業を通じて実現される現実的で能動的で目的意識的な経済計画化もありえないであろう。なぜなら、農業も輸送も、そしてチェルボネツ[ソ連の通貨]の安定性も工業発展の性格とテンポに依存しているからである。経済という鎖全体において工業は基本的で決定的な環なのである。

エリ・トロツキー

1925年12月14日

『トロツキー・アルヒーフ』第1巻所収

『トロツキー研究』第42/43合併号より

訳注

(1)ソコーリニコフ、グリゴリー(1888-1939)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ、経済理論家。1905年にボリシェヴィキ入党。1905〜17年、亡命。10月革命後、財務人民委員。一時期、ジノヴィエフ派として、合同反対派に合流。1929〜32年、ロンドン駐在大使。1937年の第2次モスクワ裁判の被告となり、10年の禁固刑。

 

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