エンゲルスの新しい著作

エンゲルスの普仏戦争論

 トロツキー/訳 志田昇・湯川順夫・西島栄

1868年のエンゲルス

【解説】本稿は、普仏戦争当時にイギリスの新聞に連続掲載されたエンゲルスの戦況時評をまとめた著作についての書評的論文である。当時トロツキーはすでに党主流から排除されていたが、なお軍事人民委員であったので、その立場から、エンゲルスの論評から現在学びうる一連の教訓を明らかにしている。エンゲルスは親しい人々から「将軍」というあだ名で呼ばれていたほど軍事問題についての造詣が深く、エンゲルスの普仏戦争論にはそうしたエンゲルスの才能と関心の深さが存分に示されている。

 この論文の中でトロツキーは、後にスターリンの経済的冒険主義を批判したときと同じく、ラプラスの全能の知性の問題を出している。

 「ラプラスは、宇宙で進行している全過程を理解できるような知性があれば未来に起きるすべてのことを確実に予言できるだろうと言った。この主張が「原因のない現象はない」という決定論の原理から出てくることは明らかである。しかし、周知のように、そんなことのできる知性は――個人の知性でも集団の知性でも――存在しない。それだからこそ、最も博識で天才的な人々でさえ未来の予測に関してはよく誤りを犯すのである」。

 またトロツキーはその他にも、革命における軍事問題の独自の重要性、プロレタリア軍事理論に対する批判、エンゲルスの「民族主義」なるものへの反論など、一連の興味深い論点が多く見られる。

Л.Троцкий, Новая книга Ф.Энгельса, Правда, 28 Марта 1924.


  フリードリヒ・エンゲルスの新しい著作、つまり今度はじめてわれわれに入手できるようになった著作は、その主要部分が1870〜71年の普仏戦争を分析した新聞記事から構成されている。これらのエンゲルスの論説は、この戦争の最中に、イギリスの新聞『ペル・メル・ガゼット』に発表された。このことからもすでに明らかなように、読者は、この本を「軍事科学」の概説書や軍事技術理論の体系的叙述のようなものとみなすべきではない。むしろ、エンゲルスの課題は、対立する両陣営の力と手段の全体的評価にもとづき、日々こうした力と手段の使用を追うことによって、読者が軍事作戦の経過を理解することを助け、時には、いわゆる「未来のベール」の向こうをかいま見せたりすることにある。この種の戦況時評が少なくとも本の3分の2を占めている。残りの3分の1は、軍事の個々の側面を論じた論説である。これも普仏戦争と密接に結びついている。たとえば、「プロイセン軍とどう戦うべきか」「プロイセン軍制の原理」「サラゴサ――パリ」「皇帝の弁明」等々がそれである。この種の本をエンゲルスの他の純理論的な著作と同じように読んだり研究したりすることができないことはまったく明らかである。この本に含まれている意見や思想や具体的な事実に関する評価を完全に理解するためには、地図を手に普仏戦争の作戦全体を一歩一歩たどり、同時に軍事史の最新の文献を考慮に入れなければならない。もちろん、この種の学問的批判の仕事は、一般読者の課題にはなりえない。というのは、それには、専門的な軍事的知識と多くの時間とこの問題に対する特別の関心が必要だからである。このような関心は正当化されるだろうか? われわれは、正当化されると思っている。なによりも、この関心は、フリードリヒ・エンゲルス自身が軍事問題と軍事的洞察とを正しく評価していたという点から正当化される。非常に簡潔なエンゲルスのテキストを詳しく検討し、彼の評価や予測を当時の軍事評論家たちによる同時期の評価や予測と比較することは、興味深いことであり、エンゲルスの伝記――彼の伝記は社会主義の歴史の1章をなしている――に対するきわめて貴重な寄与となるだけではなく、マルクス主義と軍事問題との相互関係を解き明かすきわめて鮮明な例解になるであろう。

 マルクス主義についても弁証法についても、エンゲルスはこれらの論説の中では一言も語っていない。このことは、彼が徹頭徹尾ブルジョア的な新聞に――しかも、マルクスの名前がまだあまり知られていなかった時期に――匿名で書いていたことを考えれば、けっして驚くべきことではない。しかし、エンゲルスが一般理論に関する判断を避けたのは、こういった外的な理由からだけではない。たとえ革命的・マルクス主義的な新聞で軍事情勢を説明する機会があったとしても、自分の政治的共感と反感を表現する上では他の新聞よりも大きな自由を利用するだろうが、『ペル・メル・ガゼット』紙上でやったのとほとんど違わないやり方で戦争の経過を分析し評価したであろうことは、疑いえない。エンゲルスは、軍事の領域に何らかの抽象的な学説を外部からもちこんだり、彼によって新たに発見された何らかの戦術的処方を普遍的な規準として提起したりはしなかった。叙述の簡略さにもかかわらず、著者がどれほど注意深く軍事のあらゆる要素――交戦国の領土や人口の大きさから、フランスのトロシュ将軍()の手法と手腕を知るために彼の過去に関する伝記的研究に至るまで――を検討しているか、われわれは知っている。論説の背後には、並はずれた仕事――執筆以前ならびに執筆中の――が感じられる。エンゲルスは、深遠な思想家であっただけでなく、同時にすばらしい著述家でもあったので、読者に素材をそのまま提供したりはしなかった。このことから、エンゲルスの意見や総括の中には大ざっぱであるような印象を与えるものもあるかもしれない。しかし、実際には、そうではない。経験的な素材に対するエンゲルスの批判的作業は、きわめて優れたものである。このことは、エンゲルスの予見の正しさが軍事情勢のその後の展開によって再三にわたって確認されたことからも、すでに明らかだ。わが国の若い軍事理論家がエンゲルスの論説を前述したようなものとして詳細に研究するならば、エンゲルスがどれほど真剣に軍事問題それ自体に取り組んだかがなおいっそう明らかになるであろう。

 しかし、この本を研究するわけではなく、読むだけの読者――軍人の間でさえ、読者の圧倒的多数はこれに属するであろう――にとっても、エンゲルスのこの著作は興味深いものであるが、それは個々の軍事作戦の分析的説明のゆえではなく、戦争の経過の一般的評価や個々の軍事問題に関する判断によってである。こうした判断は、この戦況時評の多くのページに散見されるが、前述したように、部分的には個々の論説でも展開されている。エンゲルスは、客観的な研究者として戦争の問題を取り扱っており、したがって、それを物質世界の複雑な現象として取り扱っている。こうした現象を解明するためには、何よりも、基本的な諸要素を分離して研究し、次にそれらの諸要素の相互関係をさぐることが必要である。数が世界を支配するというピタゴラス学派の古い思想は――神秘主義的解釈においてではなく、現実主義的な解釈において――戦争にこの上なくよくあてはまる。何よりも、歩兵大隊の数が重要である。次に、鉄砲の数、大砲の数である。武器の質と射手の質も、量によって――射程距離や命中率によって――変わる。兵士の士気は、長距離の行進に耐えたり、砲火の中で長時間とどまったりする能力に表現される。しかしながら、先に進めば進むほど、問題はますます複雑になる。装備の質と数は、国の生産力の状態に依存している。軍隊の構成とその指揮官は、社会の構造によって制約される。補給の管理機構は、国家機構全体に依存している。そして、国家機構は支配階級の性質によって規定される。軍隊の士気は、階級間の相互関係に、そして支配階級が戦争の課題を軍隊の主体的な目的とする能力に依存している。指揮官の能力と才能の程度はまたしても、支配階級の歴史的役割に、したがって支配階級がその課題に国の最良の創造的な勢力を集中する能力にかかっている。この能力もまた、支配階級が進歩的な歴史的役割を果たしているのか、それとも存在意義をなくして生存のために闘っているにすぎないのかによって規定される。

 以上われわれは、最も基本的なものを明らかにし、それを図式化してみた。実際には、戦争の種々の側面の相互依存も、それらのすべての側面が社会体制の種々の側面に対してもっている依存関係も、はるかに複雑である。戦場では、結局、以上のことは、兵卒・指揮官・死者・負傷者・捕虜・脱走者の人数や占領地域の面積や戦利品の規模に要約される。しかし、いかにして、この結果を予測することができるだろうか。もし戦闘と戦争の全要素をあらかじめ正確に予測できるならば、戦争そのものもなくなるであろう。なぜならば、だれも事前に負けるとわかっている戦争には行かないだろうからである。しかし、そのような正確な予測は問題にもなりえない。数字で表現されるのは、戦争の最も直接的な物質的要素に限られている。だが、国の経済全体に対する軍隊の物質的諸要素の依存が問題となる場合には、評価は――したがってまた予測も――はるかに複雑なものになるだろう。このことは、いわゆる精神的要因――国内の政治的均衡、軍隊の忍耐力、後方の態度、国家機構の調整作業、指揮官の能力、等々――には、なおさらよくあてはまる。ラプラスは、宇宙で進行している全過程を理解できるような知性があれば未来に起きるすべてのことを確実に予言できるだろうと言った。この主張が「原因のない現象はない」という決定論の原理から出てくることは明らかである。しかし、周知のように、そんなことのできる知性は――個人の知性でも集団の知性でも――存在しない。それだからこそ、最も博識で天才的な人々でさえ未来の予測に関してはよく誤りを犯すのである。とはいえ、過程の諸要素に関する知識が完全であればあるほど、こうした要素を分析し評価し総合する能力が高ければ高いほど、創造的な科学的経験が豊富であればあるほど、視野が広ければ広いほど、正確な予測に近づくということは明白である。

 新聞に戦況時評を書くという、ごくささやかな課題をはたすときにも、エンゲルスはエンゲルスであった。彼は、マルクス・エンゲルスの偉大な社会理論の学校と1848年革命および第1インターナショナルという実践の学校を経た洞察力ある思想を用いて、軍事的な分析・総合を自分の作品の中で行っている。

 エンゲルスは、次のように述べている。

 「相互殺戮のために双方の軍隊が配置できる兵力を比較してみよう。そして、問題を単純化するために、歩兵だけを考慮することにしよう。というのは、まさに歩兵が戦闘の運命を決するからである。騎兵および砲兵の数のわずかな変動や、ミトライユーズ機関砲その他の奇跡の兵器は、あまり重要ではない」(16頁)()

 1870年のフランスとドイツにとっては一般的に正しかったことも、われわれの時代にとっては無条件に正しいわけではない。現在では歩兵大隊の数だけにもとづいて軍事力の相互関係を判断することは、もはや不可能である。たしかに、歩兵は今でも戦闘の主力である。しかし、歩兵にかけられる技術係数の役割が非常に大きくなり、しかも、それは軍隊によってまったくバラバラである。われわれが念頭に置いているのは、1870年にはまだ「奇跡の兵器」であった機関砲だけではない。砲兵の数と意義がいちじるしく大きくなったことだけでなく、同時に新しい手段――軍用自動車と輸送用自動車、飛行機、軍事化学――も念頭に置いている。この「係数」を考慮しなければ、歩兵大隊の数に関する統計は、今日ではまったく非現実的なものになるであろう。

 独自の計算にもとづいて、エンゲルスは次のような結論に到達した。ドイツが有している訓練ずみの歩兵の数は、フランスよりもはるかに多い。そして、ドイツがこの潜在的優位性を利用する前に、ルイ・ナポレオンが敵国に対して機先を制し、決定的一撃を加えでもしない限り、ドイツの優位は、時とともにますます明らかになるであろう。

 このようにして、エンゲルスは、すでに戦略の問題に――すなわち、独立していると同時に、梃子や伝導ベルトの複雑な体系を通じて、政治・経済・文化・行政と関係をもっている、軍事技術の最高の領域に――到達している。戦略に関して、エンゲルスは、必要な現実的限界を初めから設定することが必要だと考えている。彼は次のように述べている。

 「十分に銘記すべきは、これらの戦略計画が完全に所期の成果をおさめるものとあてにすることはできないことである。というのは、何らかの予期せぬ障害が生じる可能性は常にあるからだ。部隊がしかるべき時に、そしてまさに最も必要とされている時に、到着しないこともある。さらに、敵が予想外の策略を使うこともあれば、予想外の安全保障策をとることもある。逆に、場合によっては、味方の部隊の頑固な抵抗や一将軍の適切な判断が、軍隊を敗北の最悪の結果――つまり基地との連絡の喪失――から救うこともある」(24頁)()

 これは、疑う余地がない。こうした現実主義的な戦略観に異論をとなえるのは、故プフュール将軍か彼の遅ればせの崇拝者ぐらいのものであろう。計画の最も基本的なものを考慮すること、しかも状況が許すかぎり全面的に考慮すること。前もって決定できない諸要素があることを考慮に入れること。それぞれの戦況とその予想外の場合に適応できるほど柔軟に命令を定式化すること。戦況が本質的な変化をこうむるたびごとに、計画に必要な変更を加えること、また時には、計画を全面的に立て直すこと――以上がまさに戦争を指揮する真の技術である。もし兵士の必要とする食料や移動能力や所要時間や敵の意図などを前もって計算に入れた完璧な戦略計画を練り上げることができるとすれば、四則計算のできる計算機が常勝将軍になりうるであろう。幸か不幸か、そんなことはない。戦争計画は、けっして絶対的な性格のものではなく、エンゲルスが正当にも指摘しているように、最良の計画が存在しているからといって、勝利が保証されているわけではまったくない。その代わり、計画の挫折は確実に敗北をもたらす。だが、このことを理由に計画一般を拒否する司令官は、銃殺されるか、精神病院に収容されるべきである。

 ナポレオン3世の戦略計画は、いったいどのようなものであったか。われわれがすでに知っているように、ドイツの巨大な潜在的優位性は、訓練された人材の量が優勢なことにある。エンゲルスが指摘しているように、ボナパルトの課題は、迅速で断固たる作戦によって、敵国ドイツがこの優位性から利益を引き出せないようにすることにある。ナポレオン的な伝統がこのような軍事行動を大いに促進したにちがいないと思われる。しかし、あいにく、こうした大胆な戦争計画の実現は、どんな物事でも同じだが、経済管理の正確な仕事に依存している。ところが、堕落した無能な官僚制を有した第3帝政の体制は、軍隊の補給にはまったく向いていない。ここから生じるのは、戦争の最初の時期における軋轢と時間の喪失、全般的なだらしなさ、計画遂行能力の欠如、それらの結果としての戦意喪失である。

 ある箇所でエンゲルスは、軍事作戦の成りゆきに「政治」が介入することでもたらされる有害な影響について、言及している。一見すると、この指摘は、戦争が結局のところ政治の継続に他ならないという考えと対立するように見える。実際には、ここに矛盾はない。戦争は政治の継続だが、独自の手段と方法をもってする継続である。政治が、基本的課題の解決のために、戦争に助けを求めることを余儀なくされているのだから、その同じ政治が副次的な課題のために軍事作戦の展開を妨げることがあってはならない。エンゲルスの意見によると、たとえば、ボナパルトが、一時的成果によって「世論」を味方につけようとして、軍事的見地から見て明らかに非合理的な行動をとったのは、明らかに戦争に対する政治の許しがたい介入であり、政治によって課せられた課題を戦争が独自の手段でもって解決するのを妨げることである。体制を維持するための闘争において、ボナパルトがこのような政治の介入を認めざるをえなかったかぎり、そこには体制に対する明白な自己非難がすでに含まれていた。そして、そのような非難は将来の崩壊を不可避とするに違いなかった。

 この国が戦いに敗北し軍隊が全面的に降伏した後に、ガンペッタ()の指導のもとに自国の軍隊を建設しようと試みたとき、エンゲルスは軍事組織問題に対する驚くべき理解力でこの建設過程を追った。彼は、にわか作りで建設された規律のない若い軍隊の性格を完璧なまでに描いている。エンゲルスは次のように述べている。

 「このような軍隊は、敵と対峙させてもらえないときには、すぐにも裏切りだと叫びかねないが、敵の存在が重大なものであることが明らかになれば、たちまち散を乱して逃走しようとする」(155頁)()と。1917年〜1918年におけるわれわれの最初の部隊や連隊を想起せずにいられようか!

 エンゲルスは、他のすべての条件がそろっている場合、人の寄せ集めを部隊や大隊に変えるときの主要な困難がどこにあるかを非常によく知っている。彼は言う――「訓練中や実戦の中でのにわか作りの人民の軍隊――バーデンの遊撃隊、ブルラン河の北軍部隊、フランスの国民遊撃隊、イギリスの義勇兵――を見た者は誰でも、これらの軍隊のふがいなさと頼りなさの主要原因が軍務に対する将校の無知にあることにすぐ気づいたであろう」(140頁)()

 エンゲルスが軍隊のキャリアに対してこのような注意深い態度をとっていることは、きわめて教訓的である。この偉大な革命家がエセ革命家のあらゆるおしゃべりといかにかけ離れていることか。こうした連中は、国民総動員(une lev e en masse)や(大至急に)武装した国民などについておしゃべりして、当時のフランスで大いに人気を博していた。エンゲルスは、士官と下士官が戦闘部隊においていかに重要であるかを熟知していた。彼は、フランス帝国の正規軍が敗北した後に共和国側にとどまり続けた将校の潜在力を厳密に計算している。彼は、最大限の注意を払って、武装した群衆とは異なるこのような特徴が、ロワール部隊と呼ばれる新しい軍隊の中で生まれて来る過程を追った。こうして、たとえば、彼は、新しい軍隊が、1つの部隊として統一して進軍し、命令に服従するようにと必死になって努めているばかりでなく、「ルイ・ナポレオンの軍隊がまったく忘れていた1つの非常に重要なこと――前哨勤務、奇襲から側面と後方を防備し、敵情をさぐり、敵の分遣隊を奇襲し、情報を収集し、捕虜をとらえる術――を理解した」(169頁)()事実を満足げに認めている。

 このように、エンゲルスはこの新聞の諸論文のいたるところで、理解においては大胆で、方法においては現実主義的で、大小さまざまな物事については洞察力があり、資料の検討においては常にていねいであったように思われる。彼は、フランス国内のライフル銃や滑腔銃の数量を数え、ドイツ軍の大砲を何度も繰り返し調べ、プロシアの騎兵隊の馬の特性を考察しているが、同時にプロシア軍の下士官の質の評価についてもけっして看過していない。パリの包囲と防衛という事態に直面した彼は、その要塞、ドイツとフランスの大砲の威力を調べ、戦闘能力があるとみなせる正規軍が城塞に存在するかどうかを明らかにするという問題を批判的方法を用いて検討している。もし1918年にエンゲルスのこの仕事の成果をわれわれが受け継いでいなかったなら、どれほどの損害を受けていたことだろう。これが、「革命的情熱」や「プロレタリア精神」を規則正しい組織や完璧な規律や巧みな指揮に対置しようとする当時大いにはやっていた偏見を、われわれがより急速により容易に克服する助けになったことは確かである。

 エンゲルスの軍事評論の方法は、たとえば、ドイツ軍が「断固パリへの進軍を開始した」というベルリン発のうわさをもっぱら取り上げている「戦況時評」(13)に、非常にはっきりと表れている。要塞化されたパリの陣地に関する「戦況時評」(16)の論文は、マルクスの熱烈な賞賛を呼び起こした。軍事問題を扱う際のエンゲルスのやり方のすぐれた一例は、パリ占領を扱った「戦況時評」(24)に見られる。エンゲルスは最初の箇所ですぐに次の2つの問題を提起している。「第1点は、パリは外部からのフランス軍の適時の救援をぜんぜん望みえないことである。……第2点は、パリの守備隊は大規模な攻勢をとるには適していないことである」()。彼の分析の残りのすべての諸要素はこの2つの点にもとづいている。大きな関心を呼ぶのは、パルチザン戦争とその適用条件に関するエンゲルスの判断である。これは、われわれにとって将来においてもその重要性を失うことのない問題である。エンゲルスの語調は、「戦況時評」の回を追うごとに確信を深めている。この確信は次のような二重の根拠によって保証されている。すなわち、「本物の」軍人がこれらの問題について書いたものとの比較と、それよりもはるかに有効なもの――現実それ自身――という二重の証拠によってである。

 この偉大な革命家は、ためらうことなく分析からいっさいの抽象を排して、戦争を種々の作戦の具体的な連鎖とみなし、各作戦を現にある力と手段およびそれらの組合せの可能性の観点から検討し、軍事専門家として、すなわち、その職業や資格から戦争の内的諸要因を論じる人物として登場している。エンゲルスの諸論文が時代を代表する軍事評論であるとの名声を得たのは、驚くにあたらない。このため、彼の友人たちの間では、エンゲルスは「将軍」という愛称で呼ばれていた。確かに、彼が軍事問題を扱うときはまさに「将軍」のようであった。おそらく、一部の軍事領域では重要な弱点がなきにしもあらずだろうし、必要な実戦の経験を欠いていただろうが、その代わりに頭脳を使ったのである。そして頭脳というのはどんな将軍でももてるものではない。

 だが、この場合、どこにマルクス主義はあるのかと問われれば、エンゲルスが本領を発揮するのはまさに――ある程度まで――この点であると言うことができよう。真理が常に具体的であるということ、これはマルクス主義の基本的な哲学的前提の1つである。つまり、戦争の諸問題を社会的・政治的カテゴリーに解消することはできないということだ。戦争は戦争であり、この分野で判断を下したいと望むマルクス主義者は、軍事的真理もまた具体的であるという点を念頭におく必要がある。エンゲルスの戦況時評が何よりもまず教えているのはこの点である。しかし、それだけではない。

 もし軍事問題を一般的な政治問題に解消することができないとすれば、軍事問題と一般的政治問題とを分離することもまったく同じように許しがたいことである。すでに述べたように、戦争は特別な手段をもってする政治の継続である。このすぐれて弁証法的な思想は、「スペッツ(専門家)」のクラウゼヴィッツによって定式化された。戦争は政治の継続である。すなわち、「継続」を理解したいと欲する者は、戦争に先行するものを知らなければならない。だが継続と言っても、「別な手段をもってする」継続である。つまり、戦争という「別の手段」をそれ自体として正しく評価することができるためには、政治的方向性を判断するだけでは十分ではないということである。エンゲルスの比類なき最大の優位性は、戦争のすぐれて独自的な性格――その内的な技術、構造、方法、伝統、偏見――を理解しているだけでなく、それと同時に戦争を究極的に規定している政治というものの偉大な達人でもあったという点にある。

 こうした巨大な優位性があるからといって、具体的な軍事上の判断と予測においてエンゲルスが誤りをおかさないですむわけではないことは言うまでもない。アメリカの南北戦争の期間中、エンゲルスは、最初の時期において南部連合が示していた純軍事的優勢を過大評価し、そのために、南部の勝利を信じる傾向があった。1866年のプロイセン・オーストリア戦争の時、ゲルマン世界におけるプロイセンのヘゲモニーを確かなものにしたケーニヒグレーツの決定的会戦の少し前に、エンゲルスはプロイセンの国土防衛軍内の反乱を期待していた。普仏戦争での戦況時評においてさえ、疑いもなく一連の部分的な誤りを見出すことができるだろう。もっとも、エンゲルスの予測全体は、この場合、先に挙げた2つの例に比べると比類なく正しい。きわめて素朴な人々だけが、マルクス、エンゲルス、レーニンの偉大さが彼らのあらゆる判断における機械的な無謬性にあると考えている。そうではなく、この3人も間違いをおかす。だが、最も重要な問題と最も複雑な問題について下した判断に関しては、3人がおかした誤りは他の誰よりも少ない。そして彼らの思想の偉大さが表れているのは、まさにこの点においてである。さらに、こうした誤りの原因を真剣に検討すると、3人の誤りは、あれこれの場合に偶然的ないし必然的に彼らに比べて正しかった人々の意見よりも深遠で有益であることがしばしばである。

 どの階級も必らず独自の戦略と戦術をもっているといった類の抽象概念をエンゲルスはもちろん支持しない。彼は、軍事組織と戦争のあらゆる基礎中の基礎にあるのが生産力の発展水準であって、むき出しの階級意志ではないということを十二分に承知している。もちろん、次のように言うことは可能である。封建時代には独自の戦術が、しかも首尾一貫した一連の戦術すら存在していたし、同様にブルジョア時代にもやはり複数の戦術があった。社会主義おいても、まだ長期にわたって資本主義と共存せざるをえないかぎり、新しい軍事戦術を練り上げていかなければならない、と。こうした一般的定式でなら、それは正しい。なぜなら、資本主義社会の生産力水準は封建社会の生産力水準より高く、社会主義社会の生産力水準もやがては資本主義のそれよりも高くなるだろうから。だが、それ以上のものではない。というのも、そこから、非常に低い水準の生産力しか利用できない、権力の座にあるプロレタリアートが、ただちに新しい戦術を練り上げることができるという結論はけっして出てこないからである。新しい戦術は、原則的に言って、将来の社会主義社会のより高度な生産力の発展の結果としてしか得られないのである。

 かつて、われわれは非常にしばしば、経済的な過程や現象と軍事的なそれとを比較対照してきた。今日でも、あれこれの軍事問題と経済問題とを対比することは、おそらく無益ではないだろう。というのも、われわれはすでに経済の分野で少なからぬ経験を得ているからである。わが国の主要な産業部門は、社会主義経済の条件のもとにある。すなわち、労働者国家に所有され、この国家のために、そしてその指導のもとで機能している。それゆえ、わが国の工業の社会的・法的構造は資本主義と根本的に異なっている。これは、工業の管理運営システムのうちに、管理スタッフの構成、工場の管理運営と労働者との関係のうちに表れている。だが、生産過程それ自身においてはどうなのか? われわれは、資本主義的生産様式と対置されるわれわれ独自の社会主義生産様式を創造しただろうか? われわれはまだその段階にほど遠いところにいる。生産様式は物質的技術と労働者の文化水準と生産水準に依存している。設備の老朽化と企業の不十分な稼働のために、わが国の生産過程は現在、戦前よりもはるかに低い水準にある。この領域では、われわれは何か新しいものを作り出していないだけでなく、先進資本主義諸国で現在用いられている、より高度な労働生産性を保証する方式を、来る数年間のうちに習得することを期待するしかないのである。しかし、もし経済の領域でそう言えるとしたら、軍隊の領域で原則的にそうでないわけがあろうか? 戦術は既存の戦争技術および兵士の軍事的・文化的水準に依存する。もちろん、わが国の軍隊の政治的、社会的・法的構造は、ブルジョア軍隊とは根本的に異なっている。それは、司令部の構成のうちに、司令官と兵士大衆との関係、そしてとりわけわれわれの軍隊に熱意を吹き込んでいる政治的目的のうちに表れている。しかし、だからといって、われわれが現在の水準にもとづいて、すなわち、低い技術的・文化的水準にもとづいて、西洋の最も文明化された野獣どもが到達した技術よりも完全で根本的に新しい技術を作り出すことができるのだという結論はけっして導き出されない。権力を獲得したプロレタリアートの最初の時期――この最初の時期は何年間にも及ぶ――とすでに高い発展段階にある社会主義社会とを――同じエンゲルスが教えているように――混同すべきではない。社会主義的所有にもとづいて生産力が発展すればするほど、わが国の生産過程それ自身は資本主義のもとにあるものとは別の性格を必然的に帯びていくだろう。生産の性格を質的に変革するのに、もはや革命や所有形態の変革等々の必要はなく、ただすでに獲得されている基礎の上に生産力を発展させていきさえすればよい。同じことが軍隊にも言える。労働者と農民との協力にもとづいたソヴィエト国家では、先進的労働者の指導のもと、われわれは必ずや新しい戦術を練り上げるだろう。だが、いつか? われわれの生産力が資本主義のそれを凌駕するか、あるいは少なくともほぼ資本主義の生産力に肩を並べるときである。

 資本主義国と軍事的に衝突した場合、われわれには1つの優位性がある――それはささいなものだが、ありうる敵の死命を制することができるほどの優位性である。その優位性とは、わが国には支配階級と、兵士大衆を構成している階級との間に対立がないということである。わが国は労働者と農民の国家であり、その軍隊は労働者と農民の軍隊である。だが、これは軍事的優位性ではなく、政治的優位性である。この政治的優位性から、軍事的慢心と思い上がりにつながる結論を引き出すとしたら、それはまったく正しくない。反対に、われわれの後進性をよく認識すればするほど、大言壮語を控えれば控えるほど、そしてきちんと先進資本主義国の技術と戦術を学べば学ぶほど、軍事的衝突が起きた時に、ブルジョアジーとその軍隊の兵士大衆との間に、軍事的のみならず革命的な鋭いくさびとして割り込みたいというわれわれの希望はそれだけよりいっそう根拠のあるものとなるだろう。

 ここでマルクスとエンゲルスの「民族主義」というかの有名なチェルノフ()のそれに劣らず有名な発見を思い起こすべきだろうか。本書は、この問題にもまた明白な答を出しており、これまでのわれわれの判断を少しも修正するものではなく、それどころかこの上なくそれを裏づけている。革命の利益こそ、エンゲルスにとっての最高の基準であった。彼は、ボナパルトの帝国に対してドイツの民族的利益を擁護した。なぜなら、当時の具体的な歴史的諸条件の中ではドイツ国家統一の利益は、進歩的な、そして潜在的には革命的な力であったからである。これと同じ方法に導かれてわれわれは現在、帝国主義に対して植民地人民の民族的利益を擁護している。エンゲルスのこの立場は、戦争の最初の時期における諸論説では、非常に慎重な調子で表現されている。だが、どうしてそれ以外でありえよう。エンゲルスが、ルイ・ナポレオンやチェルノフを喜ばせるために、自分がドイツ人であるというただそれだけの理由で、普仏戦争について、自らの歴史的観点と矛盾する評価を下すことなどあり得ない。しかし、戦争の進歩的・歴史的任務が達成され、ドイツの国家的統一が確保され、加えて、フランスの第2帝政が倒れるやいなや、エンゲルスは、――政治的傾向を心情的言葉で表現するならば――自分の「共感」の対象を根本的に転換したのである。なぜか? それ以降に問題となっていたのは、すでにドイツにおけるユンカーのヘゲモニーと、ヨーロッパにおけるプロシア化したドイツのヘゲモニーとを確保することだったからである。こうした状況のもとで、解体されたフランスを防衛することは革命的要因になったし、そうなる可能性があった。ここにおいて、エンゲルスはフランス防衛という立場に全面的に立ったのである。しかし、戦争の前半と同様に後半においても、彼は自分の「共感」が、軍事情勢に対する自らの客観的評価に影響を及ぼすことを許さなかった――少なくともそうしないよう努めた。このどちらの時期においても、彼は戦争の物質的・精神的要因の検討にもとづいて、自分の予測にとり強固な客観的支柱を求めた。

 フランスの首都の要塞化と補強に関する論文の中で、「愛国者」にして「民族主義者」たるエンゲルスが、イギリス、イタリア、オーストリア、スカンジナビア諸国がフランスを支持して干渉する可能性をいかに好意的に検討しているか、このことに注意を向けてみるのも無駄ではないだろう。イギリスの新聞の中で展開されたこの見解は、愛するホーエンツォレルン的祖国に対する戦争に外国列強を引き込もうとする試みにほかならない。これはおそらく封印列車よりも少しは確固たるものだろう!

 軍事問題に対するエンゲルスの関心は、民族的源泉ではなくて、純粋に革命的な源泉をもっていた。『共産党宣言』を書いた成熟した革命家として1848年の事件を経験し、戦闘に参加したエンゲルスは、プロレタリアートによる権力奪取の問題をすぐれて実践的な課題とみなした。この問題の解決にとって、軍隊の問題はけっしてどうでもよい問題ではない。1859年、1864年、1866年、1870〜1871年の民族運動と軍事的諸事件のうちに、エンゲルスは革命的行動の直接的動因を求めた。彼は、新しい戦争が起こるたびにそれを調べ、革命との可能な結びつきを解明し、軍事力によって来たるべき革命を確実なものにしうる道を探求した。ここに示されているのは、エンゲルスが軍隊と戦争の問題に対して、生き生きとして活気があり、けっしてアカデミックではなく、さりとて単に扇動的ではない態度をとっていることである。マルクスにおいても、原則的立場はまったく同じであった。だが、マルクスは特別に軍事問題にかかわるようなことはなかった。この問題に関しては、彼は自分の「第2バイオリン」を全面的に信頼していたのである。

 しかし、第2インターナショナルの時代に、軍事問題に対するこうした革命的関心は、他のすべての問題と同様に、ほぼ全面的に失われてしまった。だが、おそらく日和見主義が最も明白に示されているのは、教養ある社会民主主義者の関心におよそふさわしくない野蛮な諸制度や軍国主義に対する彼らの皮相で傲慢な態度であろう。1914年〜1918年の帝国主義戦争は、軍国主義がありきたりの扇動や議会での演説の対象ではないということを再び思い起こさせた――しかも、まったく無慈悲な形で。戦争は社会主義政党の不意を打ち、軍国主義〔ミリタリズム〕への公式的反対を惨めな屈服的態度に変えてしまった。10月革命が勃発してはじめて、戦争の問題に対する積極的な革命的態度が再確立されただけでなく、軍事〔ミリタミズム〕の切っ先を支配階級に向けることができたのである。そして世界革命がこの課題を最後までやり遂げるだろう。

1924年3月19日

『プラウダ』1924年3月28日号

『トロツキー研究』第15号より

  訳注

(1)トロシュ、ルイ(1815-1896)……フランスの軍人、ナポレオン3世の副官。1854〜56年、クリミア戦争、1859年、イタリア統一戦争に従軍。普仏戦争ではパリ軍事総監。帝政崩壊後、国防政府首相。1871年、国民議会議員。

(2)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第17巻、12頁。

(3)同前、21頁。

(4)ガンペッタ、レオン(1838-1882)……フランスの共和派政治家。1869年に急進共和派として反帝政派を結成し、普仏戦争では徹底抗戦を主張。1870年、臨時国防政府の内相。包囲下のパリを気球で脱出し、南仏で抗戦の組織化に努力。後に保守化。

(5)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第17巻、146頁。

(6)同前、146頁。

(7)同前、175頁

(8)同前、133〜134頁

(9)チェルノフ、ヴィクトル(1873-1952)……ロシアの革命家、エスエルの指導者。第1次大戦中は 左翼中間主義的立場。1917年2月革命後、第1次臨時政府の農相。右翼エスエルの指導者。憲法制定議会の議長。ソヴィエト政権と闘争。チェコ軍団の反乱を扇動。1921年に亡命。

 

トロツキー研究所

トップページ

1920年代中期