『日常生活の諸問題』日本語版の未完序文

 トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、『日常生活の諸問題』の日本語版に伏す予定であったトロツキーの序文の一部である。

 『日常生活の諸問題』は戦前、3度にわたって日本語に翻訳されている。最初は、1925年7月に出版された『ロシア革命家の生活論』(西村二郎訳、事業の日本社)で、次に同年12月に出版された『無産者文化論』(武藤直治訳、聚芳閣)、最後は1927年9月に出版された『転換期の文化』(丘逸作訳、中外文化協会)である。この未完成の序文が書かれた日付は1925年8月13日なので、時期からして、1925年12月に出版された『無産者文化論』がこの序文の対象としていた日本語訳であったのではないかと推測される。しかし、この序文は結局完成されることはなく、日本語訳に掲載されることもなかった。序文が未完成に終わった理由は不明であるが、もしこの序文が完成していたら、トロツキーが日本社会について歴史的・総合的に論じたものとして、非常に貴重な論文になったことだろう。

 Л.Троцкий, Незаконченное предисловие, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том., 《Терра-Терра》, 1990.


 私の著作『日常生活の諸問題』が日本語で世に出るという知らせを聞いて、大いに嬉しく思います。言うまでもなく、この著作は必ずしもすべての点で日本の読者に合うものではありません。社会的諸条件の相違は非常に大きいものがあります。私が書いた著作は、わが国の革命後の社会における諸要因と諸要求の圧力下にある日常生活を対象としています。しかもそのさい、私は日常生活の大きな諸問題ばかりでなく、小さな諸問題をも詳しく論じました。私の小冊子で論じられた問題の多くは、おそらく、日本の読者にとってあまり興味深いものではないでしょうし、あれこれの人物や事物は見知らぬものでもありましょう。しかしながら、私は、この著作において見出される、諸問題への全般的なアプローチの仕方が日本の諸条件にもある程度あてはまるのではないかと期待しています。

 古い封建社会においては、日常生活の諸問題は問題としては存在していませんでした。封建制の社会的および日常生活的な諸条件は、何世紀にもわたる時間をかけて形成されたものです。日本にとってこの歴史時代は、将軍たちの封建的軍事的帝国の時期にあたり、これはおよそ1000年近くも続きました。もちろん、この時期においても、日本の社会構成だけでなく、個人と家族の領域にも多くの変化が見られました。しかし、これらの変化は個々の世代にとっては目につかないほど緩慢に生じ、生活の諸形態は、ちょうどミツバチの巣の構造が蜂の世代から世代へと伝えられるのと同じような厳格さで各世代に引き継がれていったのです。こうした状況のもとでは、個人としての個人はまだ存在していません。それは完全に各身分の伝統やしきたりや掟に結びつけられています。このような社会的環境はきわめて保守的なものであり、それゆえあらゆる外的な影響に対して敵対的です。堅牢で一枚岩的で保守的な日本は、19世紀の後半にいたるまで、アメリカとヨーロッパの諸思想と諸関係が闖入してくるのを防いできました。

 1868年は日本にとって大きな転換の年となりました。この政治的危機はちょうど、ヨーロッパとアメリカにおける転換の時期と一致していました。アメリカ合衆国では奴隷制の廃絶をめぐって南北戦争(1861〜1865年)が勃発し、ロシアでは1861年に農奴制が廃止され、イタリアでは民族統一にむけた戦いが繰り広げられていたのです。こうして日本の大転換は、日本を新しいブルジョア的な諸関係と諸思想の世界へと導きいれました。日本の社会生活は、古い封建的諸関係と新しいブルジョア的諸関係との妥協の線にそって進みました。この妥協は経済的諸関係のうちに、国家制度のうちに、とりわけ日常生活の分野に見ることができます。資本主義的諸関係の発展は古い封建的な身分関係を破壊し、人間の個性を覚醒させました。この覚醒は、さまざまな階級においてさまざまな形で起こりました。しかし、総じて、ある程度まで、ブルジョア社会のどの階級においても諸個人は伝統の覆いを脱ぎ去ろうとし、独立した目的と課題を自らの前に立てようとしました。旧来の日常生活を批判し、それをより新しくより理性的な原理の上に再建しようとする志向が、資本主義社会の基礎の上で発展していったのです。しかし、資本主義はこうした志向を生み出しましたが、それを本当に実現することはできません。……

1925年8月13日

『トロツキー・アルヒーフ』第1巻(テラ社)所収

新規、本邦初訳

 

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