中央委員および中央統制委員への手紙

――第1の「書簡政綱」

トロツキー/志田昇

【解説】本稿は、1923年の新路線論争の最初の決定的な契機となったトロツキーの10月8日付の有名な手紙(当時、政治局多数派によって「書簡政綱」と呼ばれた)であり、当時の多数派(トロイカ派)の政策に対する系統的な批判を行なっている。トロツキーはそれ以前も、個々の政策に関しては書簡という形で何度か批判を行なっていたが、このような全面的な批判ははじめてのものだった。政治局多数派は、この手紙をトロツキーを中心とした分派活動の徴候とみなし、公然化しない範囲でトロツキーとのあいだで徹底した論争をする決意をした。

 この論争は11月には公然化し、12月には多数派と左翼反対派との激しい論争に発展し、左翼反対派はこの闘争に敗れ、多くの拠点が破壊されるにいたる。この間の経過について詳しくは、『トロツキー研究』第40号の特集解題を参照のこと。

Письмо Л.Д.Троцкого членам ЦК и ЦКК РКП(б): 8 Октября 1923 г., Известия ЦК КПСС, No.5, 1990.


 1923年10月8日

 極秘

 中央委員および中央統制委員へ

 1、ジェルジンスキーの委員会(1)(ストライキ等に関する)による提案の一つは、党内のグループの存在に気づいた党員に対してゲ・ペ・ウおよび中央委員会と中央統制委員会にただちに通報するよう義務づける必要があるとしている。

 党に敵対的な人物が党組織の枠組みを利用している場合にそのことを党組織に報告することは、全党員のまったく初歩的な義務であり、10月革命から6年もたってからそれに関する特別な決議を採択する必要はないのではないだろうか。そのような決議が必要だとすれば、それ自体――他の同じぐらい顕著な徴候と並んで――きわめて不安な徴候である。このような決議が必要であるということは、以下のことを意味している。(a)非合法的な反対派グループ()が党内に形成され、革命を脅かしかねないこと。(b)そのようなグループの存在を知っている同志たちが党組織へ報告しないことを許すような雰囲気が党内に存在していること。この二つの事実はともに第12回党大会後の党内情勢が異常に悪化したことを示している。大会の中央委員会報告では、党の90%が完全に一致団結していることが確認された。実際には、この評価は当時でさえあまりにも楽観主義的に誇張されたものであった。けっして質が悪いとは言えない多くの党員が、第12回党大会の召集に用いられた方法と手法()に大いに不安を感じていた。大会代議員の大多数にも同じ不安が広まっていた。党の圧倒的多数が、国際情勢を考慮し、また、とりわけレーニンの病気を考慮して新しい中央委員会を支えることを固く決意していたことに議論の余地はない。党活動、とりわけ経済分野におけるそれを一致団結して成功させようと願う気持ちが、党の諸グループを解消させ、多くの人々に不満を抑えさせ、このもっともな不安を大会壇上に持ち出すことを控えさせたのである。しかしながら、新しい中央委員会の半年間の活動の中で、第12回党大会の召集に用いられた方法と手法がさらに推し進められ、その結果、公然たる敵意を示す攻撃的なグループが党内に形成されることになった。そして、危険に気がついてはいるが通報しない多数の党員が生じたのである。ここにわれわれは、党内情勢が劇的に悪化しているだけではなく、中央委員会の党からの遊離が進行しているのを見る。

 

 2、党内情勢の極度の悪化は二つの原因によって引き起こされた。(a)根本的に不正常で不健全な党内体制、(b)過酷な経済状況に対する労働者・農民の不満。この状況は、客観的な諸困難からだけでなく、経済政策の顕著で根本的な誤りから生じている。以下で明らかにされるように、この二つの原因は密接に結びついている。

 

 3、第12回党大会はスムイチカ[労農同盟]のスローガンのもとに開催された。工業に関するテーゼの起草者として、私は大会前の中央委員会で次のように指摘した。国有部門の生産原価を削減するために死活にかかわる具体的任務に「党の注意と意志を向ける」こと、これが課題であるにもかかわらず、われわれの経済的課題が第12回党大会でまたしても抽象的・煽動的形式で提起される重大な危険性がある、と。私にできるのは、全中央委員と中央統制委員がこの問題に関する政治局の当時の往復書簡を熟読するよう勧めることだけである。私が証明しようとしていたのは、スムイチカのスローガンを純粋に煽動的に解釈して利用するだけで、その実際の経済的内容(計画経済、工業の厳格な集中、商工業の間接費の厳格な削減)を無視するなら、工業の組織的目標に関する報告そのものが実践的な意義を失うであろうということであった。しかしながら、総会の強い要請にもとづいて、私は工業に関する報告を行なった。私としては、初めて同志レーニンの不在中に選出される新中央委員会の仕事を困難にしたくなかったからである。

 

 4、工業に関する決議はゴスプラン[国家計画委員会]を指導的な計画機関として強化することを要求している。第12回党大会後に中央委員会が、すでに病床に伏していたレーニンの覚書を受け取っていたことはきわめて重要である。その中でレーニンはゴスプランに立法権(より正確に言えば、行政管理権)を与える必要があるという考えを表明していた。しかし実際には、大会後、ゴスプランはさらにいっそう後景に退けられた。個々の課題に関するゴスプランの活動は有益であり必要であるが、第12回党大会で確認されたような経済の計画的調整とは何の共通性もない。計画的な調和性の欠如は、中央の国家経済機関、一般に主要な国家経済機関の活動において最もはなはだしいものになっている。第12回党大会以前にもまして、最も重要な経済問題がしかるべき準備もなく、計画相互の関連も無視されて、政治局によって性急に解決されている。同志ルイコフと同志ピャタコフは、国営工業の経営の責任者であり、同志ルイコフは経済全体の指導に責任を負っているが、その2人は9月19日に中央委員会へ報告書を提出し、その中で慎重に次のように述べている。「政治局のいくつかの決定からして次のような事実に注意を喚起せざるをえない。現在の状況のもとでは、われわれが任されている国営工業の指導はきわめて困難になっていることである」。たしかに、この2人の同志は総会でこの問題について討論をすることは適切ではないと考えて、自分たちの意見書を配布することを断念した。しかし、こうした形式的な事情(意見書の配布の断念)は、経済活動の指導者たちが政治局の経済政策を偶然的で非系統的な決定にもとづくものと特徴づけ、それが経済の計画的指導を「きわめて困難」にしているとした事実をいささかも変えるものではない。この評価は私的な会話においてははるかにきっぱりとしたものになる。経済問題がその内的な連関としかるべき展望をふまえて検討され処理されているような党やソヴィエトの機関は一つも存在しない。完全に正確を期するためにはこう言わねばならない。経済に対する指導は存在していない、カオスは上層部から生じている、と。

 

 5、この手紙の中で、財政、工業、穀物調達、穀物輸出、税金に関するわれわれの政策の具体的な特徴をくわしく述べようとは思わない。そのためには膨大の資料を使って非常にこみいった議論をする必要があるからである。とはいえ、今日の商工業危機の主な原因がわれわれの財政政策の自足的な性格に、すなわち、財政政策が全般的な経済計画に従属していないことにあるということに、現在すでにいかなる疑いもありえない。工業における個々の大きな成果は、国営企業の基本的諸要素が調和していないことによって損なわれている、あるいはそうなる危険性がある。それに加えて――ネップそのものの本質からして――国営商工業のあらゆる失敗は国有資本を犠牲にしての私的資本の成長を意味している。現局面の主たる特徴は、工業製品価格と農産物価格との不均衡の異常な拡大がネップの清算に等しいということである。というのは、ネップの基盤である農民にとって、物が買えないのは商売が法令で禁止されているためか、マッチ2箱が一プード[16・38キログラム]の穀物と同じ値段であるためかはどうでもいいことだからである。私は、工業にとって死活にかかわる問題である集中が一歩ごとに「政治的」(すなわち、地元優先主義的)配慮と衝突し、工業製品の価格に比べてずっとゆっくりしか進んでいない状況について叙述しようとは思わない。しかし、問題の一端に触れることは必要である。しかし一端とはいえ、それは、計画もシステムも正しい党路線も存在しない場合に経済に対する指導がどこまで堕落するかを示すことによって、問題の全体にきわめて鮮やかな光をあてることになるだろう。

 第12回党大会は一部の党組織による商工業広告のとんでもない濫用を暴露した。この濫用の本質は何か? それは、最高度の良心、正確さ、節約、責任感を身につけさせることによって経済機関を指導すべき党組織の一部が、実際には、国家を欺くという最も悪質で浪費的なやり方に訴えてそれらの経済機関を堕落させていることにある。党組織の利益のために工業企業に課税するという単純な方法を用いる代わりに――それは違法ではあるが、少なくとも実際的な意義はあるだろう――、彼らは無意味な広告を強制的に集め、紙や印刷労働などを浪費するという手段に訴えた。その最も醜悪な点は、経営担当者がこうした略奪や堕落にあえて抵抗せず、県委員会書記の指示にしたがって『共産主義者必携』のような出版物の半ページか1ページの広告に唯々諾々と金を払っているということにある。もし、経営担当者が異議を唱えれば、すなわち、党の義務に対する真の理解を示せば、彼はただちに「党の指導」を認めない人間の部類に入れられ、そこから生じるあらゆる結果をこうむることになる。第12回党大会後、若干の個々の事例を別とすれば、この点に関してはいかなる改善もなされなかった。正しい経済活動や責任感とは何かについて何も理解していない者だけが、このような経済「指導」を見て見ぬ振りをしたり、あるいは、こんな現象は大したことではないと考えることができるのである。

 

 6、明らかに、第12回党大会は全党とともに、何よりも経営の方法と成果に関して経営担当者に真の責任感を持たせることに向けて、経済機関に対する党の指導的・統制的影響力を増大させようと努力した。しかしながら、まさにこの分野(創意、節約、責任等々)における成果は取るに足りないものである。そして、大衆の不満は主としておびただしい数の経済機関の浪費的で無統制なやり方によって引き起こされている。こうした経済機関の指導者の基本的活動の全体が相変わらず真の指導と統制を受けずに放置されているだけになおさら、彼らは、党の「指導」なるもの(無意味な広告やその他の「税金」を要求すること)に進んで従うのである。

 

 7、さきの中央委員会総会[9月総会]は、間接費の削減と価格の引き下げに関する非常委員会を設置した。この事実そのものが、われわれの経済活動に欠陥があることの厳然たる証明である。価格のあらゆる要素は適時分析されていたし、生産費と流通費の引き下げに関する第12回党大会の決議は満場一致で採択された。その決定を実行しなければならない機関はよく知られている。それは最高国民経済会議(ヴェセンハ)、ゴスプラン、労働国防会議、そして指導的政治機関たる政治局である。こうした状況のもとで非常委員会を設置することは何を意味するだろうか? できるだけ低い価格で生産することを直接の課題としている常設の諸機関が必要な成果を上げなかったということである。非常委員会にできることは何だろうか? 横から割り込んできて、あれこれの場所で、引き回したり、つついたり、要求を押しつけたり、はては行政的なやり方で単純に命令したりして、あれこれの価格を引き下げることである。しかし、国家機関が政治的圧力によって機械的に価格を引き下げても、たいていの場合は仲買人にもうけさせるだけで、農民市場にはほとんど影響をおよぼさないのは、まったく明らかである。鋏状価格差()を縮小すること、すなわち、真の現実的な経済的スムイチカに接近することは、有機的方法によってのみ可能である。その方法とは、厳格な計画的集中化、間接費の削減の一時的ではなく有機的な実行、経営の方法と結果に対する経営担当者の真の責任制の確立である。価格引き下げのための委員会が設置されたこと自体、計画的で機動的な調整の意義を無視する政策が不可避的に戦時共産主義式の価格統制に逆戻りすることの雄弁にして容赦のない証明である。両者は相互に補完しあっており、経済を健全化させるのではなく掘りくずすのである。

 

 8、はなはだしい価格不均衡は、単一農業税の重荷とあいまって――それが重荷になっているのは、主として現実の経済的諸関係と調和していないからである――、再び農民の激しい不満を引き起こした。この農民の不満は直接的にも間接的にも労働者の気分に反映した。そしてついには、労働者の変化した気分が党の下部をもとらえた。反対派グループが復活し強化された。下部党員の不満は先鋭化した。こうして、[党から労働者を通じて農民にいたるべき連帯の]スムイチカがひっくり返って、農民から労働者を通じて党へと至る[不満の]スムイチカになった。あらかじめそれを予見しなかった者や最近までそれに目を閉じていた者は、たっぷりと実物教育を受けた。スムイチカというアジテーション用の一般的定式は、国営企業の合理化と鋏状価格差の縮小という中心問題を解決しないかぎり、正反対の結果を生み出す。第12回党大会の直前に政治局内で生じた鋭い衝突の本質はこの点にあった。実生活はこの論争に反論の余地のない回答を与えた。経済の諸要因の相互作用をいくらかでも正しく考慮したうえで経済の基本問題に計画的に対処していたならば、この厳しい実物教育――われわれはそれをまだ終えていない――を4分の3とはいわないまでも、少なくとも半分は回避することができたろう。

 

 9、第12回党大会は、新しい中央委員会の重要課題の一つとして、経営担当者を上から下まで注意深く人選するように指示した。しかしながら、活動家の選抜に関して組織局の関心はまったく別の方向に向けられている。指名、更迭、配置転換に際して党員は何よりも、中央委員会の組織局と書記局を通じて――非公然かつ非公式に、だがそれだけになおさら着実に――構築されつつある党内体制の維持に好都合か邪魔かという見地から評価される。第12回党大会では中央委員会の構成メンバーには「独立した」人物が必要だと述べられた(5)。この言葉は今日もはやいかなる注釈もいらない。それ以来、「独立性」という基準は、書記長が県委員会書記を指名する際に、さらには、上から下まで末端の細胞の書記を指名する際にまで貫徹されるようになった。先に述べたような意味で独立していると書記局に認められる同志たちを、党のヒエラルキーに登用するという作業が空前の勢いで繰り広げられた。全党が何百という最も顕著な事実を知ったうえで議論している現在、個々の事例を紹介する必要はない。ウクライナの例()を挙げるにとどめよう。そこでは、この真に組織破壊的な活動の重大な結果がごく近いうちに現われることだろう。

 

 10、戦時共産主義の最も厳しい時期でさえ、党内の指名制は現在の10分の1も広まっていなかった。中央による県委員会書記の指名は現在では普遍的なものになっている。これによって、書記の地位は基本的に地方組織から独立したものになっている。反対や批判や不満が生じると、書記は中央を利用して配置転換に訴える。政治局のある会議で満足げに報告されたことだが、県の合併に際して現地の組織が関心を示す唯一の問題は、誰が統一された県委員会の書記になるかである。中央によって指名され、そのせいでほとんど地方組織から独立している書記たちは、今度は彼ら自身が、県の内部でのさらなる指名と更迭の発生源となる。上から下へとつくられている書記の機構はますます自足的な存在となり、すべての糸を手中に収めつつある。党組織の実際の運営への党員大衆の参加はますます虚構のものになりつつある。過去1年半の間に特殊な書記心理というべきものが形成された。その主たる特徴は、書記は事柄の本質に通じていなくてもありとあらゆる問題を処理する能力を持っているという確信である。ソヴィエト機関のトップだった時には、組織や行政などに関するいかなる資質も発揮しなかった同志が、書記のポストについたとたんに経済や軍事などの問題を高圧的に処理しはじめるのを、われわれは頻繁に目にしている。こうした実践は、責任感を雲散霧消させ破壊するだけにいっそう有害である。

 

 11、第10回党大会は労働者民主主義の旗印のもとに開かれた。労働者民主主義を擁護して当時なされた発言の多くは、私には、誇張であり、かなりの程度デマゴギー的なものに思われた。なぜなら、完全で全面的な労働者民主主義は独裁の体制と両立しないからである。しかし、戦時共産主義期の締めつけが、より広範で生き生きとした党世論に席をゆずらなけれならないのはまったく明らかであった。しかしながら、基本的にはすでに第12回党大会の前に形成され、大会後に決定的に強化され確立された体制は、戦時共産主義の最も厳しい時期と比べてもはるかに労働者民主主義から遠いものだった。党組織の官僚主義化は、書記登用のこうした方法の適用によって前代未聞の発達をとげた。内戦の最も厳しい時期にあってさえ、われわれは、専門家の起用、ゲリラと正規軍、規律等々の諸問題をめぐって、党組織の中で、さらには出版物でさえ論議したというのに、今では、党を実際に揺るがしている諸問題について以前のような公然たる意見交換はまったく存在しない。国家や党の機構に属するきわめて広範な党活動家層がつくり出されたが、彼らは、党員としての自分の意見を表明することを――少なくとも公然と表明することを――まったく放棄する。書記ヒエラルキーこそが党の意見と党の決定をつくり出す機構であるとでも考えているかのように、である。自分の意見を留保するこうした活動家層の指導下に広範な党員大衆層がおり、彼らの前には、あらゆる決定がすでに要請ないし命令の形で下りてくる。党のこの基本的大衆の中には、はなはだ多くの不満が――まったく正当なのものも偶然的な原因によって引き起こされたものも――渦まいている。この不満は、党会議での公然たる意見交換によっても、党の諸組織への大衆の働きかけ(書記の党委員会選出など)によっては解消されず、ひそかに蓄積され、やがて内部の腫瘍と化す。党の公式の機構、すなわち書記機構がほとんど機械的な等質性をもった組織という様相をますます帯びていく一方で、最も先鋭で緊急の諸問題をめぐる検討や議論は公式の党機構を避けて行なわれ、こうして党内に非合法的なグループを発生させる諸条件がつくり出される。

 

 12、第12回党大会で、古参ボリシェヴィキを擁護する路線が公式に採択された。地下活動を経験した古参ボリシェヴィキのカードルが党の革命的酵母であり、党の組織的背骨であることはまったく明白である。党の指導的地位への古参ボリシェヴィキの登用――もちろん、それ以外の必要な資質を備えている場合の話だが――は、あらゆる正常な思想的・党的手段で促進しうるし、促進しなければならない。しかし、現在この登用を進めているやり方――上から下への指名方法――は、危険をはらんでおり、しかもその際、古参ボリシェヴィキも「独立性」という基準を通じて上から二つのグループに分割されているだけになおさら危険である。古参ボリシェヴィズムそれ自体が、全党の目から見て、現在の党内体制のあらゆる特殊性に対して、また経済建設の事業でのあらゆる重大な誤りに対して責任を負っているかのように映っている。わが党の圧倒的多数の党員が、地下活動の鍛練を受けていない若い革命家や他政党の出身者からなっていることを忘れてはならない。自らを古参ボリシェヴィズムと同一視する自足的な書記機構に対して現在高まりつつある不満は――事態が今後もこの方向に沿って進むとしたら――、地下活動を経験したボリシェヴィキが、現在の50万の党の中で思想的ヘゲモニーと組織的指導を保持する上で、きわめて重大な結果をもたらすかもしれない。

 

 13、政治局がウォッカ販売にもとづいて予算を立てようとしたこと(7)、すなわち、労働者国家の歳入を経済建設の成否から独立させようとしたことは、恐るべき徴候であった。経済活動だけでなく党そのものにも最も厳しい打撃を与えかねないこの試みは、中央委員会内外の断固たる抗議によってようやく阻まれた。しかしながら、中央委員会は今でも、将来ウォッカを合法化する考えを放棄していない。党からますます独立しつつある書記組織の自足的性格と、党による集団的な経済建設の成否からできるだけ独立した予算を立てようとする傾向とのあいだには内的な関連があることはまったく疑いない。ウォッカの合法化に反対することをほとんど党に対する犯罪扱いしようとし、この破滅的な計画に関する討議の自由を要求した同志を中央機関紙の編集部から追放したこと()は、最も恥ずべきエピソードの一つとして永久に党史に残るであろう。

 

 14、非系統的な経済的指導だけでなく、先に特徴づけた党内体制も、軍に対して同じくらい重大な影響を与えてきたし、与えている。軍に関する政治局の決定はつねにエピソード的、場当たり的な性格を帯びている。軍建設や軍事的展開の準備といった基本的諸問題は、政治局で一度も検討されたことがない。というのは、ばらばらの多数の問題が山積しているために、政治局は一つの問題でさえ全面的な形で、計画的、系統的に検討することができないからである。経済的衝撃や国際情勢に押されて、政治局は軍についてきわめて短い間隔をおいて正反対の決定を下す。これ以上深入りしないが、次のことだけは指摘しておこう。カーゾンの最後通牒()のさい、政治局では10〜20万人ほど軍を増員するという問題が2度提起され、その提案を退けるのに大変苦労した。私が休暇をとっていた6月には、中央委員会総会は5万ないし10万人ほど軍を削減する案を策定するよう革命軍事会議に委任した。この課題は7月と8月に参謀本部によって真剣に検討された。8月末には、この提案はドイツの事件[ドイツで革命運動が盛り上がったこと]の影響で撤回され、軍の強化案を策定するという任務に改められた。複雑で真剣な検討を必要とするこのような決定がなされるたびに、それに対応して中央から軍管区への一連の提案、指令、要請が出される。こうした一連の指示のために、革命軍事会議がその活動において何も指導理念を持っていないという印象がつくり出される。ある中央委員は――圧力がどこから来ているか知ることができたはずなのに――、革命軍事会議の指令の矛盾した性格に関するこうした結論を、ウクライナ軍管区の軍雑誌で活字にしてもかまわないとさえ考えた(10)

 党の公式機関の庇護のもとに進められている党員の抜擢に関して言うと、それも軍の道徳的団結に同じぐらい重大な打撃を与えている。たとえばウクライナの旧人民委員会議に対して上から強行されたのとまったく同じ活動が、系統的に共和国革命軍事会議に対しても遂行されてきたし、遂行されている。後者の場合、活動のテンポは多少緩慢で、その形態は多少なりとも慎重で偽装されている。しかし、基本的にはここでも他と同じく、軍の指導機関の孤立化に協力する用意のある活動家が優先的に指名されている。軍機関の内部関係に上から分裂が持ち込まれている。あの手この手のあてこすりによって、時にはかなり公然と、革命軍事会議が党に対置されている。だが、党の決定を――大会決議のみならず、政治局のすべての決定まで――、実質的にも形式的にもこれほど厳密に遂行しているソヴィエト機関はほとんど存在しないだろう。しかも、それらの決定が、すでに述べたように、必ずしもそれほど合理的でもなければ一貫してもいないというのに、さらにはそれらの決定を内部で非難したり、討議することさえ認められていないのに、である。1番手っ取り早いのは革命軍事会議そのものを更迭することであろう。しかしながら、今のところそのような手段には踏み切れないため、組織局は軍事分野で、真面目な軍活動家なら誰でも「こんなやり方がいつまで続き、何をもたらすのか」と不安げに自問せざるをえなくなるような組織政策を展開しているのである。

 

 15、軍の戦闘能力の保証は、今では10分の9まで軍事官庁ではなく工業に依存している。経済の全般的な体系性の欠如は、言うまでもなく、軍事関係の工業にも全面的に影響を与えている。ここでも「独立性」という基準で進められた指導者の更迭はきわめて急速に行なわれた。そのため、何倍も精力的に活動をすべき軍需工業が、現在の特別に重大な時期にほとんど3ヵ月間も、真の指導者なしに放置されている。

 工業全般、とりわけ軍需工業に注意を集中する代わりに、この前の総会では、同志スターリンをはじめとする一団の中央委員を革命軍事会議に送りこむことが画策された。この措置の党内的意味は説明するまでもないが、それとは別に、われわれの近隣諸国は、もし新しい革命軍事会議の編成が宣言されたならば、そのこと自体を新たな政策、すなわち攻撃的政策への転換として受けとりかねない。私が断固として抗議したため、総会は以上の措置の即時実施をやっと断念した。総会は新しい革命軍事会議の編成を「動員まで」延期した。しかし、そもそも動員があるとしても、いつ、どんな条件のもとで動員が行なわれ、その時期に党がいったい誰を軍事活動に派遣できるかもまったく不明だというのに、何のためにあらかじめこのような決定を下し、その文書を何十部も配布するのか、これは一見すると不可解なように見える。だが、実際には、一見わかりにくいこの決定は、あらかじめ設定された目的を達成するための間接的な準備手段の一つなのである。このようなやり方は政治局多数派と組織局の実践ではありふれたものである。さらに総会は、「軍需工業を監督するために特別に」1名か2名の中央委員を革命軍事会議にただちに加えることを決定した。だが、軍需工業は革命軍事会議の管轄下にあるのではまったくないし、ほとんど3ヵ月間も指導者が不在のまま放置されているのである。政治局はこの総会決定にもとづいて同志ラシェヴィチと同志ヴォロシーロフを革命軍事会議に送り込んだ。しかも、「軍需工業を監督するために特別に」指名されたはずの同志ヴォロシーロフはロストフにとどまっている。実際にはこの措置も前述したような準備的性格を持っている。だから同志クイブイシェフの語ったことも、理由のないことではないのである。私が、提案されている革命軍事会議の改編の真の動機は、公式に述べられた動機とは何の関係もないという非難を彼に投げつけたとき、同志クイブイシェフは、その矛盾を否定しなかったばかりか――どうして否定しえようか――、はっきりとこう語った。「われわれはあなたと闘う必要があると考えているが、あなたを敵だとは宣言できない。だからこそ、こういう手段に訴えざるをえないのだ」。

 

 16、現在急速に高まりつつある党の危機は、言うまでもなく、弾圧的手段――それが正しいかどうかとは別にしても――によって解決しうるものではない。発展の客観的困難はきわめて大きい。しかし、そうした困難は、根本的に誤った党内体制によって、すなわち、創造的な課題を無視して党内グループの形成に注意を集中すること、党内やソヴィエト内での個々の活動家の重みをまるで考慮せずに活動家を人為的に登用すること、権威ある適切な指導を、すべての人間の受動的な服従をもっぱらあてした形式的指令に置きかえること――こうした体制によって軽減されるのではなく、いっそう増大するのである。経済の発展を掘りくずすことによってこの党内体制は、一部では不満の増大、別の一部では無関心と受動性の発生、さらに別の一部では活動からの事実上の排除、といったことの直接的原因となってきたし、今もなっている。現在の重苦しい党内体制でも、もしそれが経済的成果を保障できるならば、党は一時的には持ちこたえるであろう。しかし、それもない。したがって、この体制は長続きしえないのである。それは変更されなければならない。

 

 17、経済政策における体系性の欠如と党内政策における書記官僚主義は、第12回党大会よりもずっと前からすでに不安を生み出していたが、しかし他方では、おそらく誰も、そうした政策がこれほど急速にその破産を露呈するとは予想していなかったであろう。党は、その指導機関の誤りという重荷を背負いつつ、その歴史においておそらく最も責任重大な時期を迎えようとしている。党の能動性は弱められた。党はきわめて大きな不安を抱きながら経済活動のはなはだしい矛盾とそのすべての結果とを見守っている。党はおそらくさらに大きな不安を抱きながら、党とソヴィエトの指導機関の無力化という犠牲を払って上から人為的に進められている分裂を見守っていることであろう。党は、指名、更迭、配置転換、転任の公式の動機が実際の動機や事業の利益とおよそ一致していないことを知っている。その結果、党は弱体化した。10月革命の6周年に、そして、ドイツ革命の前夜に、政治局はすべての党員が党内の非合法グループについて党機関とゲ・ペ・ウに通報しなければならないとする決議案の審議を余儀なくされている。

 党内のこうした体制と雰囲気が、ドイツ革命という事実そのものから直面しうるしあらゆる情報からみて直面するであろう党の諸課題と両立しえないのはまったく明白である。書記官僚主義に終止符を打たなければならない。党内民主主義は――少なくとも党の硬化と変質に至らない程度には――その本来の地位を取り戻さなければならない。下部党員は、自分が何に不満であるのかを党の枠内で表明できなければならない。そして、党規約にしたがって、そしてより重要なことにはわが党の精神全体にしたがって、党の組織機構をつくり上げる真の可能性を手に入れなければならない。何よりも工業、とりわけ軍需工業における活動の真の必要に応じて党の人材の再配置を行なわなければならない。工業に関する第12回党大会の決定が真に実行されないかぎり、労働者の賃金を多少とも安定した水準で保障し、それを系統的に引き上げることは不可能である。現状からの最も痛みの少ない最短距離の出口は、人為的に維持されている指導体制のもたらすあらゆる結果を現在の指導グループ自身が理解し、党生活をより健全な軌道に戻すことを心から決意することである。そうした決意があるなら、路線転換のための方法と組織形態はたやすく見つかるであろう。党は安心して胸をなでおろすであろう。私が中央委員会に提案しているのは、まさにこの道である。

 

 18、中央委員と中央統制委員は、私が中央委員会の内部で、誤った政策、とりわけ経済政策および党内政策における誤りと断固として闘いながらも、中央委員会内部での闘争をごく狭い範囲の同志――とりわけ、多少とも正しい党路線のもとでなら中央委員会ないし中央統制委員会の中で重要な地位を占めていたはずの人々――の論議にかけることさえ一貫して避けてきたことを知っている。この点では、過去1年半の私の努力がまったく徒労に終わったことを確認しなければならない。そのせいで、党は極度に先鋭な危機に不意を打たれかねない状況に置かれている。そうなったなら、党は、危険を察知していながら公然とそれを指摘しなかったすべての同志を、内容よりも形式を優先したということで非難する権利を持つであろう。

 現在の状況をかんがみて、私は、充分に鍛えられ成熟し自制心のあるすべての党員、したがって党が分派的な痙攣や動揺なしに窮地を脱するのを助けうると私がみなしているすべての党員に対して、現状をありのままに語ることは、今や自分の権利であるだけでなく、義務でもあると考える。

L・トロツキー

1923年10月8日

『ソ連共産党中央委員会通報』1990年、第5号

『トロツキー研究』第40号より

  訳注

(1) 1923年9月18日付の政治局決定で設置された経済情勢と党内情勢を分析するための委員会のこと。ジェルジンスキー、ジノヴィエフ、モロトフ、ルイコフ、スターリン、トムスキーで構成された。

(2)「労働者の真理」や「労働者グループ」などの党内グループのこと。「労働者の真理」は1921年秋に形成された非合法グループで。ネップへの移行に反対するとともに、新しい労働者党の結成を目標に掲げた。「労働者グループ」は1923年夏に結成された非合法グループで、第10回、第一1回党大会における分派禁止決議に反対した。

(3)第12回党大会の多くの代議員が県委員会の書記の推薦で対立候補なしに選出されたことをさす。

(4)工業生産物価格が上昇し、農産物価格が下降していき、両者の価格曲線がハサミのようにしだいに開いていくこと。

(5)スターリンは第12回党大会の組織報告の中で、中央委員会の拡充にあたっては「独立した人々」を選抜する必要があると述べたが(邦訳『スターリン全集』第5巻、226頁)、その意味について「結語」の中でスターリンは次のように述べている。「われわれには中央委員会内に独立した人々が必要である。しかしレーニン主義から独立した人々ではない。いや同志諸君、とんでもない。われわれにとって必要な独立した人々とは……、中央委員会内での闘争の習慣と伝統を身につけていない人々のことである。……中央委員会内部で鍛えられた古い伝統を身につけていない、そういう独立した同志たちこそ、中央委員会を引き締め、中央委員会内部のあらゆる分裂の可能性を未然に防ぐ……人々としてわれわれに必要なのである。私は独立した人々について、こういう意味で語ったのである」(同前、232〜233頁)。

(6)1923年6月のウクライナ党中央委員会総会以降、ウクライナ人民委員会議議長のラコフスキーが更迭されたことをはじめ、ウクライナの多くのソヴィエト機関の幹部活動家が解任・更迭・左遷されたことを指している。ラコフスキーは解任後、大使としてイギリスに派遣され、ていよく国外に追い出された。

(7)1923年6月26〜27日に開催されたロシア共産党中央委員会総会でウォッカの国家専売制の導入が検討されたことを指す。トロツキーは休暇のためこの総会に出席できなかったが、この事実を知ったトロツキーは6月29日付けの政治局への手紙の中で厳しく抗議した(『トロツキー・アルヒーフ:ソ連の共産主義的反対派』第一巻、テラ、81頁)。

(8)1923年7月に、編集長であるブハーリンが不在のときに、編集部員のプレオブラジェンスキーがスターリンによって解任された事件を指している。その解任の理由は、ウォッカ問題について『プラウダ』でいかなる議論も禁じられたにもかかわらず、プレオブラジェンスキーがこの問題に関する自らの異論を表明しようとしたことであった。

(9)イギリスの外相カーゾン卿は、1923年5月8日、ソヴィエト政府に対して強硬な内容を持った覚書を送付してきた。その主な内容は、イギリス帝国に対する敵対行為をしたとしてイランとアフガニスタン駐在のソヴィエト外交官の追放、ソヴィエトの沿岸海域の縮小というものであった。イギリス政府は1921年に結ばれたソ連との貿易条約の廃棄を脅しに用いた。5月11日にソヴィエト政府はこれらの要求を拒絶したが、イギリス側のいくつかの小さな要求を飲んだ。1923年6月、両政府は紛争の終結を宣言した。このカーゾンの最後通牒は、ソヴィエト国内に大きな衝撃を与え、新たな戦争勃発の緊迫感が国中を走った。このときトロツキーは、公開の集会の場で戦争の回避と平和的解決を主張した。

10)ミハイル・フルンゼのことを指していると思われる。フルンゼはウクライナとクリミアの軍司令官で、1921年以降中央委員。

 

トロツキー研究所

トップページ

1920年代中期