トロツキーの手紙(10月23日付)に対する

9人の政治局員・同候補の回答

 スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ他/訳 西島栄

【解説】本稿は、1923年の新路線論争の最終盤で、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフをはじめとする党主流派によって出された、トロツキーの手紙(10月23日付)に対する回答である。この回答の中で主流派は、レーニンと対立したトロツキーの過去をことさらに持ち出し、トロツキーが権力的野心のために分派的行動を繰り返し起こしているのだという図式をでっち上げた。相手の主張の成否を事実にもとづいて議論するのではなく、相手側の過去と野心を持ち出して貶めるやり方は、これ以降、主流派による反対派攻撃の基本的なパターンとなった。

 この回答の中で主流派はとりわけ次のように述べている。

 「一言でいえば、同志トロツキーにとって、どんな論拠、どんな機会、どんな政綱も、それがボリシェヴィキ党の土台であるロシア共産党の古参のレーニン的中核部を揺るがすことができさえすれば、善なのである。青年党員を、とりわけ学生党員を党の同じレーニン的中核にけしかけるという同志トロツキーの現在の政策も、結局のところ、このことに帰着する」。

 このような論法はまさに、党内民主主義ととうないとうろんのあらゆる基盤を否定して、論争相手を党内に巣くう異物とみなすものであり、のちに、モスクワ裁判において被告たちを断罪し処刑する論理へと「成長転化」していくのである。

Буарин, Зиновьев, Калинин, Каменв, Молотов, Рудзутак, Рыков, Сталин, Томский, Ответ девяти членов и кандидатв в члены Поитбюро ЦК РКП(б) на письмо Л.Д.Троцкого от 23 Октября 1923 г., Известия ЦК КПСС, No.3, 1991.


 極秘

 中央委員会と中央統制委員会のメンバーと候補へ

 1923年10月24日(1)のトロツキーの手紙に対する政治局員(および候補)の回答

 本声明に署名したる者は、これまで10月24日のトロツキーの手紙に回答してこなかった。それは、われわれが中央委員会と中央統制委員会の合同総会の決議が紛争に終止符を打つだろうと信じていたからである。ところが同志トロツキーとその分派は、この紛争を激化させることに全力を尽くした。同志トロツキーは10月24日の手紙をすべての中央委員と中央統制委員に送付するよう改めて要求してきた(2)。以上のことをかんがみて、われわれは同志トロツキーによるこの文書をも検討することが必要になった。

 

   第1章 分派闘争の武器としての同志トロツキーの手紙

 われわれは長いあいだ困惑してきた。どうして同志トロツキーはこんなに多くの手紙や声明を中央委員会に書いてくるのだろうかと。これらの文書の目的は、最近の事件との関連で初めてわれわれにとって完全に明らかになった。

 同志トロツキーを支持する46人の者たちの手紙と、中央委員会に宛てられた同志トロツキー自身の手紙は、中央委員会と中央統制委員会の合同総会の決議――この両文書および総会決議を中央委員会内にとどめておくという決議――があったにもかかわらず、広範な注目を獲得するにいたった。別に予言者でなくとも、これらの文書がいずれ国外のメンシェヴィキおよび社会革命党の機関紙に掲載されるだろうと予想することができる(3)

 これらの文書を普及しつつ、同志トロツキーの支持者たちは、同志トロツキーと46人の声明に対する政治局の回答が存在することを党に隠し、また今年の10月における中央委員会と中央統制委員会の合同総会が、同志トロツキーの手紙と46人の声明を分派的なものとして非難した決議を102票対2票、棄権10票で採択したことを隠している。同志トロツキーの分派は、こうした方法を用いて青年を誤らせ、部分的にその目的を達成しているのである。

 誰がこの普及に従事しているのか? 同志トロツキーの分派である。なぜ彼らはその普及を必要としたのか? それは、同志トロツキーとの衝突の全体を中央委員会内部にとどめておくことを決めた自分たち自身の決議によって手を縛られている中央委員会多数派に対する不信を掻き立てるためである。

 このような分派的方法は、革命前の統一(メンシェヴィキとの)中央委員会内での分派闘争の方法をわれわれに彷彿とさせる。このような方法は、当時にあっては理解できるものであった。しかし現在わが党は、同志トロツキーとその分派がこのような方法をいつまでも用いることを許すことはできない。

 

   第2章 同志トロツキーの「似非」反レーニン主義路線に関する「伝説」

 同志トロツキーは10月24日の手紙の中で、「中央委員会多数派は、私の(つまりトロツキーの)反レーニン主義路線なる『悪辣な伝説』をでっち上げた」と主張している(4)

 たしかに、われわれは、真の問題は、一方に中央委員会多数派による同志レーニンの政策の継続があり、他方ではその政策に対する同志トロツキーの闘争があると公然と宣言した。さまざまな時期において、同志レーニンの基本路線に対する同志トロツキーの闘争は、さまざまな形態をとってきた。同志トロツキーとその分派の特殊な性質は、レーニン主義に対するその断固たる敵意にある。そしてこれは誰にとっても秘密ではない。

 われわれの意見の相違の本質はどこにあるのか? レーニン的ボリシェヴィズムの基本路線からの同志トロツキー逸脱はどの点にあるのか?

 われわれは、こうした問題に次のように答えたわが中央機関紙に完全に同意する(5)

 「10月革命後、わが党は主に三つの大きな危機を経験した。ブレストの危機、労働組合の危機、そして現在の危機、である。同志トロツキーは、党の発展におけるこのすべての段階において誤りを犯した。『冷静かつ慎重に』『テーマに接近し』、こうした誤りのがどこにあるのかを理解するよう努めなければならない。この根を徹底して探り出してはじめて、必然的に過去から受け継がれるこの逸脱を時機を失せず是正することができるのである」。
 「ブレスト講和。このときの同志トロツキー(および左翼共産主義者)の誤りはどこにあったのか? それは彼らが革命的空文句・図式、素晴らしい机上の計画に熱中したことにある。ブレスト講和の反対者たちはこのような図式を持っていたが、彼らは、レーニンがかくも天才的に見抜いていた厄介な現実を見ることができなかった。そして何よりも、彼らは農民を見ることができなかった。農民は、戦争をすることを欲していなかったし、できなかったし、望んでもいなかった」。
 「労働組合。このときの同志トロツキーとその他の同志たちの基本的誤りはどこにあったのか? またしても同じである。彼らには、労働組合の融合に関する素晴らしい生産主義的図式、粛正計画(『たたき直す』)、『生産民主主義』論があった。だが、しかしこの図式は、その定式の完全な明確さにもかかわらず、空想的であった。なぜか? またしてもこの政治的路線が現実と矛盾していたからである」。
 「ブレストの時期、住民の基本集団である農民は叫んだ、何がなんでも平和を! どんな犠牲を払っても一息をつき、息つぎをしなければならない、と。しかし同志トロツキーと『左翼共産主義者』は革命戦争を唱えるか、『講和でもなく戦争でもない』という役立たずの定式を押しつけた」。
 「労働組合論争の時期、生産力の成長を停滞させていた戦時共産主義の足枷を取りのぞくことを国は必要としていたにもかかわらず、彼らは労働組合の分野でネジを締めようとしていた。したがって、ここで問題になっていたのは、現実に対する無理解であり、何よりも農民の大衆的心理に対する配慮のなさであった。この心理に対する配慮なしには、プロレタリアートはわれわれの国を統治することはできない」。
 「同志トロツキーとの現在の意見の相違にも同じ土台がある。この意見の相違は、同志レーニンが直接中央委員会を指導していた頃からあったし、その後もあった。同志トロツキーは計画的活動の欠如をうるさく非難していた。まさにこうした欠如こそが、同志トロツキーの意見によれば、国全体を『破滅』に追いやるものだというのだ。まさにこの点で、同志トロツキーは執拗かつ系統的に中央委員会全体を非難し続けてきたのである」。
 「言うまでもないことだが、『破滅』なるものは同志トロツキーのたくましい分派的想像力の中にのみ存在する。言うまでもないことだが、中央委員会の誰も、仕事の秩序と計画性を増大させることに反対できる者はいない。しかし、中央委員会は、同志トロツキーがこの問題で途方もない行きすぎをしたとみなしている。中央委員会は、わが国の経済政策の計画は極度に慎重な形で作成されなければならないと考えている。それは、机上の空論ではなく、現実的なものでなければならないし、命令1042号(6)の運命を共有するものではなく、ちゃんと機能するものでなければならない。中央委員会は、同志トロツキーとは反対に、まだ『工業の独裁』について語ることはできないとみなしている。われわれは、レーニンが教えているように、まだ長期にわたって農民の馬に乗っていかなければならず、そのようにしてはじめてわが国の工業を救い、プロレタリアート独裁のための確固たる土台を築くことができるのである」
※原注 同志トロツキーは同志レーニンの宣伝用の論文(7)を持ち出しているが、これは、あたかも同志トロツキーが農民に反対しているという点で同志トロツキーとのあいだに不一致があるかのように言う「地主の嘘」を否定したものであって、これを持ち出すのは牽強付会である。なぜなら問題になっているのは、同志トロツキーがその計画作成にあたって農民を考慮に入れていないこと、同志トロツキーが農民を過小評価しているということにあるからである――回答の筆者。
 「まさにここに現在における意見の相違の根がある。こう自問することができよう。今回の場合も同じ誤りが――新しい形態で――存在するのではないか、と」。
 「もちろん、イエスである。ここでも見られるのは、生きた現実に十分適応させることなく計画だけを肥大化させる傾向である。ここでも根本的に、農民的現実に対する過小評価がある」。
 「これこそ同志トロツキーの基本的な誤りの基礎であり、レーニン主義からの偏向である」。
 「なぜならレーニンはマルクス主義に新しい言葉を持ち込み、彼がはじめて並外れた明確さで『プロレタリア革命』と『農民戦争』の結合、労働者階級と農民との相互関係、両者のブロック、両者の経済的・政治的同盟という問題を立て(理論的に)、それを解決した(実践的に)からである」。
 「レーニン主義からの同志トロツキーのこうした偏向は、同志トロツキーの歴史的過去全体に、革命の歩みに対する彼の独特の見方に起因している」。
 「われわれの現在の討論において、同志トロツキーの最近の論文(8)もそうだが、党内政治の問題で同志トロツキー、サプローノフ、プレオブラジェンスキーの分派が望むと望まざるとにかかわらずいかにレーニン主義から逸脱しているかをはっきりと見て取ることができる」。
 「ボリシェヴィキ党の一般的な組織原則とはいかなるものか? この党、われわれの党はつねにその一枚岩性と統一性においてきわだっている。一方におけるわが党およびその組織的本質と、他方における日和見主義政党とのあいだには、つねにくっきりとした境界線が存在した。わが党は日和見主義との闘争の中で、一枚岩からつくられた政党として建設され、成長してきた。わが党は、諸グループ、諸分派、『諸潮流』間の妥協にもとづく連合体であったことは一度としてないし、そして――私はそう希望しているが――けっしてそうなることはないだろう。メンシェヴィキやエスエル、その他の『軟派』においては、『不寛容で』『石頭の』ボリシェヴィキと反対に、はなはだしい『意見の自由』『グループ形成の自由』『潮流の自由』がある。エスエルの裁判において、被告のエスエル党員がこの自らの『寛容さ』を自慢したのはそれほど以前のことではない。彼らには、直接白軍を支援した派がいたし、『行政的中央部』がいたし、左派がいたし、『中央派』等々がいた。要するに、ノアの箱舟のようにありとあらゆる種類のものがいた。同じことはメンシェヴィキについても言える。しかし、わが党が敵を打ち負かすことができた理由の一つは、まさにわが党が闘士たちの統一された『鉄の部隊』であったからであり、最大限の単一の意志を実現し、それを体現していたからであり、あらゆる意見の違いが単一の流れに注ぎ込むような形で建設され、党が相闘い相互に弱めあう諸分派に分解しなかったからである」。
 「そして、もし現在、同志トロツキーを筆頭にした一連の同志たちがこの組織的伝統から逸脱しているとすれば、彼らはこの点でレーニン主義の組織的伝統から逸脱しているのである。もちろん、この伝統――レーニンの伝統を含むそれ――を嘲笑することもできる。しかし、その場合には、直接に、あからさまにそうするべきだろう。もちろん、どんな伝統も絶対的な永遠性を主張することはできない。しかし、レーニン主義がこの点でどのように『時代遅れ』になったのかを指摘し、説明し、証明しなければならない。われわれは時代遅れになっていないと考えている。なぜなら、わが党は今なお戦闘配置についているからであり、敵に包囲されているからであり、それゆえ、以前と同じぐらい結束し一致団結していなければならないからである」。
 「ボリシェヴィズムはつねに党機構を非常に重んじてきたし、重んじている。だからといって、ボリシェヴィズムは、病的な機構(その官僚主義化を含む)に対する夜盲症をわずらっているわけではない。そんなことは問題になりえない。しかし、ボリシェヴィズム(レーニン主義)はけっして党と機構とを対立させたことはない。ボリシェヴィキ的観点からして、それは初歩的な無知の産物である。なぜなら党は機構なしにはありえないからである。党から機構を取り除いてみたまえ、そうすれば党は分散した群衆に成り果てるだろう。それとは対照的に、たとえばメンシェヴィキはつねにボリシェヴィキの『委員会支配』と『ジャコバン主義』に対し『民主主義的』軽蔑のまなざしを向けていた。機構に対する党員大衆の『自主性』を擁護するという外観のもと、メンシェヴィキは、ボリシェヴィキのプロレタリア的組織性と規律正しさに対して小ブルジョア的『広範な』『労働者政治』の日和見主義的だらしなさを擁護した」。
 「党の病気を反映している機構の病気に対しては、熱烈に闘争することができるし闘争しなければならない。しかし、党と機構とを対立させることは、ここでもレーニン主義から脇にそれることを意味する」。

 外面的には、同志トロツキーが第10回党大会前にとっていた立場と、彼が現在とっている立場とは、根本的に異なっているように見える。民主主義の問題に関して、同志トロツキーはあたかも90度転換したかのようである。しかしながら、第10回党大会以前とその後の同志トロツキーのすべての発言を綿密に検討してみるなら、それらには明らかにそれ自身の内的論理があることがわかる。わが党の第10回大会前、同志トロツキーは、労働組合のレーニン的中核を上からたたき直し党運営の軍事的方法を永続させるという官僚主義的スローガンをもってレーニン主義と闘争した。現在、わが党の第13回大会を前にして、同志トロツキーは今度は、党機構(および党員一般)の同じレーニン的中核を下からたたき直すという原理にもとづく「真の」民主主義というスローガンをもって登場している。ごく最近、第12回党大会と第13回党大会のあいだ、ちょうど同志トロツキーが指摘したように、民族問題をめぐって大きな意見対立が生まれた。そのときも、彼は生じた亀裂を利用しようとした。この時期の同志トロツキーの発言を追った者はみな、同志トロツキーが民族問題に関する意見対立を喜び勇んで「利用」して、民族共産主義者の青年党員を同じボリシェヴィキ・レーニン主義者の基本的中核にけしかけたことを知っている。一言でいえば、同志トロツキーにとって、どんな論拠、どんな機会、どんな政綱も、それがボリシェヴィキ党の土台であるロシア共産党の古参のレーニン的中核部を揺るがすことができさえすれば、善なのである。青年党員を、とりわけ学生党員を党の同じレーニン的中核にけしかけるという同志トロツキーの現在の政策も、結局のところ、このことに帰着する。

 党は、第10回党大会前と現在におけるトロツキーの見解のうちに何らかの全体性と首尾一貫性を見出そうとしたが、それは無駄だった。労働組合の国家化、悪名高い官僚主義的「融合」がネップへの党の移行とつじつまが合っていなかったのと同じく、現在の「真の」民主主義は同志トロツキーが理解するところの工業の「厳格な」集中とつじつまが合っていない。これは熟考され完成された路線などではなく、「意志の衝動」の現われであり、党の中に同志トロツキーの「政策」を中心とした有力なグループを結集することを可能とする何らかの政綱を闇雲に追い求めるものである。

 同志レーニンが病気になるまで、同志レーニンが直接に政治局の活動を指導していた時期、事態はけっして現在よりも正常なものではなかった。政治局は落ち着いて活動することができなかったが、それはもっぱら同志トロツキーが当時、同志レーニンが発病してからますます亢進させるようになったあの同じ分派性と孤立性の要素を帯びていたからである。

 同志トロツキーは当時も今も、政治局の仕事の中に計画的要素がないと不満と不平を訴えていた。しかし、政治局が著しく緊迫しぴりぴりした状況にあったこと、そして今なお部分的にそうであることに責任があるのは誰かといえば、それは同志トロツキーである。何ヶ月ものあいだ、同志トロツキーは政治局の会議に(そして当時、政治局の会議を主宰していたのは同志レーニンである)、分厚い英語の辞書をもって出席し、会議中ほとんどずっとこれみよがしに英語の学習をし、時おり、政治局の仕事の無秩序さをいらいらした調子でやじるためにだけ、この学習を中断するのである。同志トロツキーと、この会議の議長を務めていた同志レーニンおよびその他の政治局員とのあいだで、先鋭な衝突や激しい紛争が起きたことも1度や2度ではない。状況があまりにもぴりぴりしたものになったことを考慮して、同志レーニンはますます頻繁に、あれこれの問題を電話による投票で決定するよう本声明の署名者たちに提案するようになった。これはただ、余計な争いや紛争等々を避けるためであった。

 10月24日の手紙の中で同志トロツキーは、ウクライナの食糧人民委員に同志トロツキーを指名するという同志レーニンの提案を取るに足りないエピソードであるかのように描き出そうとしているが、それは無駄な試みである。これは小さなエピソードではなかった。これは同志レーニンが、同志トロツキーをウクライナに移動させることによって政治局の雰囲気を永遠に健全化しようとする試みであった。政治局内で他のメンバーと歩調をあわせて活動するよう何十回も無駄に説得したあげくに、レーニンは、この絶望的な状況からの抜本的な活路としてこの問題を提起したのである。

 

   第3章 経済問題

 10月24日の手紙の中で同志トロツキーは、いくつかの問題にかかわる「同志レーニンとのかなりの量の往復書簡」(9)を紹介している。この「かなりの量の往復書簡」なるものは同志レーニンの2〜3通の覚書にすぎないようだ。この程度の覚書なら、すべての人民委員のところで何十と見つかるだろう。本声明の署名者たちが、あれこれの問題で同志レーニンが自分たちとの意見の一致を表明している手紙や覚書、あるいは同志レーニンが同志トロツキーと異なった意見を述べている論文や手紙を紹介する必要があるとみなせば、それは一冊のパンフレットより多い量になるだろう。同志トロツキーがわざわざこの「かなりの量の往復書簡」を紹介したのは、彼自身、例外的に同志レーニンが自分と意見が一致した事例をきわめて特殊なことだと考えているからだろう。

 経済活動への参加を同志トロツキーに認める可能性の問題については、同志レーニンは常に断固として否定的であった。まさに彼は、同志トロツキーにはソヴィエト共和国の経済活動を引き受けさせてはならないと考えていた。われわれも同志レーニンと同じ意見であった。同志トロツキーが交通人民委員であったときに彼の発案による悪名高い命令1042号は、紙の上での「計画原理」を過大評価する傾向の顕著な現われであった。共和国の鉄道が同志トロツキーの手に握られているあいだ、鉄道の運命を同志レーニン以上に憂慮していた者は誰もいない。そして、同志トロツキーを鉄道の仕事から移動させるのに、同志レーニン以上に熱心だった者も誰もいない。同志トロツキーが経済活動の代用品として例のモスクワ企業連合を創設することが問題になったときも、何ヶ月も同志レーニンは同志トロツキーのこのささやかな「経済的」代用品にさえ反対し、同志トロツキーが出席しているときにも彼が欠席しているときも何十回となく、同志トロツキーのように経済問題にアプローチすれば経済は崩壊してしまうだろうと詳細に説明した。

 ゴスプランの問題に関しても、同志レーニンは、同志トロツキーの意見に断固として反対であった。1922年5月6日の政治局員宛ての手紙の中で、同志レーニンはこう書いている。

 「ゴスプランに関しては、同志トロツキーは根本的に誤っているだけでなく、自分の論議している事柄についても驚くほど通じていない。ゴスプランはアカデミズムに悩んでいないだけでなく、それとはまったく反対に、あまりにも些細な当面する『雑務』に悩んでいるのである。……
 ……1922年4月23日付の同志トロツキーの第2の文書は、……財務トロイカ(ソコーリニコフと2人の副議長)の創設に関する政治局の決定を、小人民委員会と大人民委員会とのあいだのブレーキだとみなす、ひどく興奮した、だがひどく誤った『批判』を含んでいる。副議長に対するこのような批判の方向性は、どのような計画的国家活動にも、そもそもいかなる組織的な国家活動にも合致していない。
 第2に、この文書は、ゴスプランをアカデミックだと非難しているが、これはこれは根本的に誤っており、真実とは正反対である。……」(10)

 このように同志レーニンは、ゴスプランの役割に対する同志トロツキーの見解を誤りだと評価していたのである。

 このような意見の相違の根底には、わが国における農民と農民経済に対する同志トロツキーの完全な過小評価がある。同志トロツキーは、空虚な抽象としての「全面的な」計画を目指している。彼の「計画」には「ちょっとした」欠陥がある。すなわち、同志トロツキーの悪名高い命令1042号と同じく砂の上に立てられているのである。だが同志レーニンと、その近しい仲間であるわれわれはみな、真の計画は、わが国で農業が果たしている巨大な役割を慎重に考慮に入れる場合にのみ立てることができると考えていたし、今もそう考えている。1923年まで、すなわち財政が健全化するまで、予算の基礎が打ち立てられるまで、機動的な資金が蓄積されるまで、「機動的な」計画的仕事の問題はかなりの程度、空中の楼閣であった。最近になってはじめて、ゴスプランの現実的な役割を高めるための前提条件がつくり出された。そして政治局はただちにしかるべき決定を下したのである。

 同志レーニンは、周知のように、その最後の手紙の一つで、ゴスプランに行政権を付与する問題で同志トロツキーに譲歩することに同意した。しかし、この最近の問題は取るに足りない意義しか持っていない。基本的な点では同志レーニンは、けっしてこの問題で譲歩しなかったし、譲歩しえなかった。それは、同志トロツキーがここでも農民の役割を無視し、再びボリシェヴィズムの基礎から逸脱したし逸脱しているという単純な理由からである。だからこそ、同志トロツキーをゴスプラン議長に指名することが問題になったときに、同志レーニンは1922年12月27日に口述された覚書の中でこの人事に断固として反対したのである。われわれの意見によれば、この事実はまさにこのことによって説明される。すべての者が知っているように、「われわれの政治的指導者の中の特別の人物を、あるいは、最高国民経済会議議長等々をゴスプランの議長に据えるという点では」(11)賛成するべきではないと語ったときに、ウラジーミル・イリイチが念頭に置いていたのはまさに同志トロツキーのことであった。ヴィ・イ[レーニン]の病気中、一部の同志たちは中央委員会内部の関係を改善するために、同志トロツキーを経済ポストに就けることに傾いた。われわれがこの数ヶ月間観察してきたことからして、われわれのうちこのような試みに賛成した者が誤っていて、この問題でも同志レーニンが正しかったという結論に至っている。

 

   第4章 外国貿易の独占

 この問題は、本質的な点では、すでに第12回党大会で解決されている。しかし、同志トロツキーとその分派が執拗にこの問題を蒸し返すので、われわれとしてもこの問題に言及しないわけにはいかない。

 1922年12月、同志レーニンが不在のときに、中央委員会総会は(12)、外国貿易の問題に関して同志レーニンの同意しなかった決定を採択した。問題になっていたのは外国貿易の独占を廃棄するということではまったくなかった。こんなことは中央委員会総会に出席した誰の頭にも浮かばなかった。中央委員会総会はただ、いくつかの絶対に必要な商品の輸入を自由化するために一つないし二つの港を一時的に開いてみるという実験をすることを決めただけである。当時すでに、とりわけクバンの余剰穀物の輸入を促進するためにバツームに対しては許可されていたことだった。この決定を知った同志レーニンはこれに異議を唱え、われわれに対して、この決定を考え直すこと、次の総会(13)で全会一致でそうするよう説得しようとした。この二つの総会のあいだの時期に、同志トロツキーが引用した覚書が書かれた。この時期、同志レーニンは、この問題をめぐって真に深刻な意見の相違が存在しているのだと考えていた。

 それ以来、政治局には外国貿易の問題をめぐっていかなる意見の相違もないし、この分野で中央委員会が採用した路線はきわめて大きな成果を収めている。政治局の中で仕事を計画的に分配するうえで、われわれはあえて同志トロツキーに外国貿易部の監督を委ねたが、同志トロツキーはやはり、政治局から委任されたこの仕事を実現するために何もしなかった。

 

   第5章 民族問題

 ソヴィエト社会主義共和国連邦の創設への移行という最も困難な課題に取り組む中で再び民族問題が起こったときに、わが古参ボリシェヴィキ的中核のあいだで若干の意見対立が、あたかも実際に生じたかのように見えた。この移行と結びついたどの問題に関しても、最初、われわれと同志レーニンとのあいだで、とりわけ同志レーニンと同志スターリンとのあいだで広範な話し合いがなされた。ウラジーミル・イリイチの病気が妨げなければ、われわれが100パーセント協力していけただろうことに、いかなる疑いもない。しかし、まさに同志レーニンとの個人的な会話が、後には手紙での会話も不可能になったために、いくつかの誤解が、とりわけグルジア共産党内での周知の紛争に対する評価をめぐって、生じることになったのである。こうしたことがすべてあいまって同志レーニンの有名な手紙につながった。民族問題に関する決議案(その筆者は同志スターリン)は中央委員会で全会一致で採択された(14)。有名な民族協議会の決議も中央委員会で全会一致で採択された(15)。同志トロツキーはこれらの決議に賛成投票した。第12回大会において、同志トロツキーはいかなる異論も出さなかった。その後、全会一致で採択された決議をめぐって、再び論争が起こり、あたかも原則的な意見対立があるかのように事態が不正確に描き出されるようになった。これはもっぱら分派的動機にもとづくものである。

 まさにこの民族問題でほど同志トロツキーが自分を打ちのめしている問題はない。同志トロツキーとその分派は、彼らの政敵たるわれわれのあいだで、諸問題が何らかのサークル的手法によって決定されたかのように主張しているが、全党はわれわれがどのように民族問題を解決してきたかを目にしている。実際、ロシア共産党の第12回大会において、われわれは、われわれのあいだの意見の色合いを一瞬たりとも全党から隠さなかった。われわれはむろん、同志レーニンの手紙を大会の全参加者の財産とした。本回答書に署名しているわれわれの一部メンバーのあいだでも大会において、かなり先鋭な公然たる論争が闘わされた(16)。第12回大会の決定は完全に同志レーニンの精神にのっとって採択された。これまでのところ、誰1人としてこの決議に論争を挑んだ者はいない。第12回大会後まもなく、政治局は同志スターリンのイニシアチブで民族共産主義者の協議会を召集した。この協議会は、民族問題に関する同志レーニンの見解を、紙の上ではなく現実に実施する上で、巨大な仕事を成し遂げた。グルジア党内部の紛争はとっくの昔に克服された。民族問題をめぐる路線のグルジアでの実施は、完全かつ全面的に保障された。しかし、それにもかかわらず同志トロツキーは今にいたるもこの問題をめぐる紛争を煽りつづけている。サークル主義的精神がいったいどちらの側にあるのか、党に判断してもらおうではないか。

 

   第6章 労農監督部と中央統制委員会の再編に関する同志レーニンの論文

 10月24日の手紙の中で、同志トロツキーは文字通りの伝説をつくり出している。すなわち、同志レーニンの論文が日の目を見たのはもっぱらトロツキーのおかげだという伝説である。まったく見え透いた嘘である。このテーマに関する同志レーニンの最初の論文の宛先は、間違ってか、あるいは意識が散漫になっていたせいで、この時期ちょうどモスクワで開催されていたソヴィエト大会の議長団に向けられていた(17)。この宛先は政治局員の当惑を生んだ。とりわけ、同志クイブイシェフはすでに中央委員会と中央統制委員会の総会の席上で説明したように、同志トロツキーが、同志レーニンの論文を党から隠そうとした罪をクイブイシェフに着せようとしたことは実際には悪辣な伝説である。われわれはこのことをきっぱりと断言しておく。同志レーニンが自分の論文をソヴィエト大会議長団ではなく党中央委員会に宛てていたこと、そしてそれの公表を本当に望んでいることが明らかになるやいなや、もちろんのこと、それを公表することがただちに決定された。その後、数週間後、中央委員会総会で、同志レーニンの計画を実際に実行に移す問題が提起されたとき、党内に二つの中央部(中央委員会と党評議会)をつくるという完全に反レーニン主義的な提案をしたのは他ならぬトロツキーである(18)。そして、中央統制委員会と労農監督部の再編作業が最初の一歩を踏み出したさい、これらの機関がトロツキーの分派的行動を擁護しないことが明らかになるやいなや、この再編作業に対して攻撃を開始した人物こそ、他ならぬトロツキーである。

 

   第7章 対外政策

 われわれは同志トロツキーに対して次のような非難を投げかけた。(1)カーゾンの最後通牒との関連で、政治局を冒険的政策に駆り立てようとし、それはイギリスとの決裂をもたらしかねなかった。(2)ポーランド政府がソ連を承認しようとしないことと関連して、および、ドイツで展開中であった事件と関連して、同志トロツキーはさらにまた政治局を無分別な行動に駆り立てようとし、それは、ドイツで本格的な事件が起こるよりも早くポーランド政府との決裂と軍事的衝突をもたらしかねなかった。

 以上の非難は今なお完全に有効である。同志トロツキーが、イギリス問題に関する彼の提案が政治局によって拒否された後に、カーゾンに送る回答書を作成する政治局の仕事に参加したからといって、事態は何も変わりはしない。ポーランドとの紛争において、政治局は、すでに同志トロツキーによって起草された軍隊に関する命令案を直接差し止めることを余儀なくされた。政治局の一貫した政策は、ポーランド政府がソ連の不承認という姿勢を断念することを余儀なくさせ、自ら困難な状況に落ち込むという事態をもたらした。それは、政治局の命を受けて同志コップ(19)によってポーランド政府に渡された提案も関係している。

 

   第8章 軍における同志トロツキーの仕事

 同志たちは、中央委員会9月総会の期間中に、中央委員会総会が迫り来る戦争の危険性を配慮して革命軍事会議を強化する決定(軍事活動家の熟達した若干名の中央委員を軍事会議メンバーに入れたこと)を下したときに、同志トロツキーがどのような振る舞いをしたかを覚えているはずである。中央委員会総会は特別の使者を同志トロツキーのもとに派遣して、総会の場に戻るよう提案した。それにもかかわらず、同志トロツキーは総会の会合に戻ることを拒否した。

 これによってまたしても、同志トロツキーがこの分野で副次的な動機よりも問題の利益を優先させる立場からほど遠いことが示された。同志トロツキーとの協力を重視し、同志トロツキーが共和国革命軍事会議の議長にとどまるべきであるとする意見に固執していた中央委員会はそれ以来困難な状況に置かれている。中央委員会の手は縛られており、軍事官庁を強化するのに必要だと考えるあらゆる措置を採用することができないでいる。このような状況はいつまでも続くものではない。党の前に軍事問題に対する全責任を負うためには、中央委員会は、軍事官庁の中により正常な諸関係をつくり出さなければならない。

 われわれは断固として主張せざるをえない。同志トロツキーは実際に軍の仕事に不十分な注意しか向けていないと。前線での革命的アジテーションが最重要課題であった時期には同志トロツキーの仕事は有益であったが、細かい地道な仕事が必要になっている現在においては、軍における彼の仕事は不十分なものになっている。どの軍事活動家も軍への補給事業がまったくなっておらず、同志スクリャンスキーを筆頭とする革命軍事会議の現在の中央グループが、実務的で地道で系統的な仕事を満足にしていないことをよく知っている。そして、それとともに中央委員会と中央統制委員会のどのメンバーも知っているように、現在の革命軍事会議を本格的に強化しようとする中央委員会のどんなささやかな試みも同志トロツキーの悪意で迎えられ、ほとんど決裂のための論拠としてみなされている。

 

   第9章 党に対する不信と無知

 同志トロツキーは党の創造的力とその地方組織を信頼していないというわれわれの非難に対して、同志トロツキーは、内戦の困難な数年間にほとんどすべての県委員会と仕事をすることになったと答えている。内戦期における同志トロツキーの功績については、誰も否定しようとは思わない。しかし、赤軍が全体としての党中央委員会によって指導されていたことについても否定することはできない。

 同志トロツキーは、わが党の創造的力を信じていないだけでなく、それについて知ってさえもいない。あるいは、おそらくは信じていないがゆえに、知らないのである。わが党に対するこうした無知は、同志トロツキーを現在の論争において彼が犯している誤りに導いている。彼はいわゆる「機構員(アパラーチキ)」の体制に風穴を開けるよう(少なくとも「厳罰」として党のポストから除くことを)要求している。だがその「機構員」の一部は党の基本的骨格なのである。

 同志トロツキーがその手紙の中で「新路線」について「解説」すればするほど、ますます彼が党について知っておらず、党を、その基本的カードルを信じていないことが明白となる。

 

   第10章 「非分派」派の分派

 同志トロツキーはこれまで、同志トロツキーの行動をまさに分派的政綱を提起し分派をつくろうとしたとして非難した中央委員会および中央統制委員会の合同総会の決定を完全に誤ったものとみなしている。同志トロツキーは10月24日の手紙の中で、一部の政治局員および同候補(同志ブハーリン、同志モロトフなど)の一連の発言、すなわち労働者民主主義に断固として転換することが必要だという趣旨の発言、「彼」(トロツキー)ならもっと慎重に表現したであろうという発言を持ち出している。しかし、これらの引用は全面的に同志トロツキーに対立している。これらの発言は、政治局自身が今年の9月にすでに労働者民主主義への転換が必要だとみなしていたという周知の事実を強調するものであり、同志トロツキーと46人の声明がでっち上げた伝説、すなわち、もっぱら彼らの圧力のもとに政治局が労働者民主主義への転換をしたかのような伝説を反駁するものである。中央委員会と中央統制委員会の合同総会(1923年10月)は、同志トロツキーとその46人の分派を断罪したのは、彼らが(政治局多数派の後を追って)労働者民主主義への回帰を提案したからではなく、彼らが分派的政綱をもって登場し、存在しない「危機」の種をでっち上げ、自分たちの分派の組織化に着手したからである。分派主義のゆえに、すなわち党分裂の危険性を増進させたがゆえに、まさにそのゆえに最近の総会は同志トロツキーとその46人の分派を断罪したのである。

 すでに中央委員会と中央統制委員会の合同総会で明らかになったように、46人と同志トロツキーとのあいだには単純な分業が存在した。最近の総会において同志トロツキーは、46人の手紙に対していかなる態度をとるのかについて頑強に沈黙した。しかし、政治局において同志トロツキーは、46人の手紙に対する責任を全面的に引き受けることを公式に宣言した。この分業は現在も続いている。サプローノフ、ラファイル、プレオブラジェンスキー、スミルノフ等々は、分派として多かれ少なかれ公然と発言している。同志トロツキーは「非分派的」であると自称しているが、先の諸発言を全面的に支持し、これらの分派主義者を「模範的な党員」などと賞賛している。この分業はとっくに知られている。同志トロツキーはかつて長期にわたってさまざまな極端のあいだを動揺したあげく、今やついに民主主義的中央集権派と手を携え、事実上その頭目となっている。

 同志トロツキーの分派は、いまだわが党の歴史で見られなかったような闘争をモスクワ組織内で開始した。それは事実上、分派的中央部をつくり出した。共和国革命軍事会議の一機関である革命軍事会議政治部が分派的中央執行部と化した。彼らは、クレムリンの軍学校生警備隊や参謀本部内の党細胞などの機関に、党中央委員会に対する不信を表明するという提起をたずさえて登場した。このような提起をもって、ゲ・ペ・ウの1500人の党細胞にも打って出た。党が国家を管理運営している状況下で、これが何を意味することになるかは、誰にとっても明らかである。この分派の支持者の1人である同志ラデックは、党中央委員会に対する闘争をコミンテルンの隊列に持ち込むために、可能なことも不可能なことも何でもやった。一言でいえば、党に対する分派闘争が全面的に遂行されたのである。

 10月24日の手紙の中で、同志トロツキーは、党内論争の中に個人攻撃の要素が持ち出されていると嘆いている。しかし、現在モスクワで進行中の討論を見るかぎり、われわれは次のことを確認することができる。現在同志トロツキーの同盟者のイニシアチブによってモスクワで展開されているような、中央委員会と政治局の多数派に向けられた個人的な誹謗、中傷、ゴシップのどんちゃん騒ぎは、他のどこでもかつて見たことがない、と。

 中央委員会と中央統制委員会のメンバーは、事態の実情について幻想を抱いてはならない。こうした「分派的痙攣」に対する全党の最も断固たる反撃のみが、真面目な成果を達成することができる。党の10分の9はすでに同志トロツキーの分派に回答を与えている。あとはただ、この分派が党の圧倒的多数の声に耳を傾けるかどうかを待つだけである。

 中央委員会と中央統制委員会の合同総会は、繰り返すが、同志トロツキーとその46人の分派の行動を、まさに分派主義の罪できっぱりと弾劾した。それとともに、この合同総会――わが党の最も権威ある機関――は、同志トロツキーに対して、人民委員会議、労働国防会議など、同志トロツキーも構成員である国家機関の活動に実際に参加するよう再度提案した。

 政治局の多数派もまた、10月総会後、同志トロツキーと協力するためのより正常な諸関係をつくり出すために、できることは何でもした。われわれは、論争を引き起こしかねない諸問題をより自由な環境の中で徹底して議論できるよう、全政治局員と同志トロツキーとの私的会合を召集するという異例の措置もとった。同志トロツキーとのこうした私的会合をわれわれは2度も持った。どちらもわれわれのイニシアチブによるものである。これらの私的会合において、われわれは、同志トロツキーと折り合いをつけ、彼の偏見を一掃し、仕事のための同志的な状況をつくるために、できることは何でもした。

 しかしながら、これらの努力はいずれも実を結ばなかった。同志トロツキーは、以前と同様、人民委員会議も、労働国防会議もボイコットし続けた。同志トロツキーとの共同活動のための正常な環境をつくり出そうとする政治局多数派の願いに対する歩みよりはまったくなされなかった。反対に、今ではすでに、同志トロツキーとその近しい同意見者たちが合同総会後の全時期を通じて自らの分派を形成するために活動し、モスクワ組織を分派的に分裂させる準備をしてきたことが完全に明らかになっている。

 したがって、同志トロツキーとその近しい同意見者たちの振る舞いは、同志トロツキーの分派的行動に関する合同総会の指摘の正しさを完全に裏づけたわけである。12月28日付の『プラウダ』に掲載された同志トロツキーの論文(20)は、基本的に言って、同志トロツキーが実際に分派を形成したことを自らあからさまに認める中身となっている。経験のある政治家なら誰でも、同志トロツキーの論文の意味するところは明白である。同志トロツキーとその近しい同意見者たちは今やもっと先に進みつつある。彼らは事実上自らの分派を存続させようとしているだけでなく、それを党内で露骨に合法化させようとしている。そのどちらをも党はけっして許さないし、許してはならないとわれわれは考える。

N・ブハーリン

G・ジノヴィエフ

M・カリーニン

L・カーメネフ

V・モロトフ

Ya・ルズターク

A・ルイコフ

I・スターリン

M・トムスキー

1923年12月31日

  訳注

(1)トロツキーの手紙は、書かれた日付は1923年10月23日だが、中央委員会書記局の手に渡ったのは翌日の10月24日であった。

(2)1923年12月17日付のトロツキーのメモ(本号所収)を指している。

(3)1923年10月8日付のトロツキーの手紙は、1924年、ベルリンで発行されていたメンシェヴィキの新聞『社会主義通報』に抜粋が掲載された。

(4)この引用は逐語的なものではなく、要約的なものである。

(5)これは、ブハーリンによって書かれた『プラウダ』編集部論文「分派主義打倒!」(『プラウダ』1923年12月28、29、30日、1924年1月一、4日掲載)を指す。

(6)1920年5月に交通人民委員部を指導していたトロツキーが作成した鉄道車両の修理計画に関する命令のこと。これについては、『新路線』の「計画経済――命令1042号」を参照のこと。

(7)1919年2月15日付けのレーニンの論文「農民の質問に答える」のこと。この中でレーニンは、「中農について私とトロツキーとのあいだには意見の相違はない」と述べている(邦訳『レーニン全集』第36巻、591頁)。

(8)12月8日付『プラウダ』に掲載されたトロツキーの「新路線(党の諸会議への手紙)」を指している。

(9)トロツキー「10月23日付中央委員・中央統制委員および中央委員会総会への手紙」、本誌、109頁。

10)邦訳『レーニン全集』第33巻、366〜368頁。この手紙は実際には5月6日付ではなく、5月5日付。

11)邦訳『レーニン全集』第36巻、703〜704頁。

12)この記述は誤り。外国貿易の独占が問題になった総会は1922年10月6日の総会。

13)1922年12月18日に開催された総会のこと。

14)スターリン原案の民族問題決議案は、トロツキーの手によってレーニンの意向に沿った修正がなされたうえで採択された。

15)1923年6月9〜12日にモスクワで開催された、民族共和国の責任ある活動家を招いた中央委員会協議会のこと。

16)グルジア共産党の反対派(ムディヴァニ派)に擁護的な発言をしたブハーリンと、ムディヴァニ派を大会の場で徹底的にこき下ろしたスターリンとのあいだで、論争が起こったことを指している。ブハーリンの演説については、『トロツキー研究』第2号を見よ。

17)これこそ「見え透いた嘘」であろう。全ソ・ソヴィエト大会が開催されたのは1922年12月30日で、レーニンの手紙が書かれはじめたのは翌年の1月初めであり、書き終わったのは1月23日である。しかもレーニンの手紙には「第12回党大会への提案」という副題がついている。

18)トロツキーが提案したのは「二つの中央部」なるものではなく、中央委員会、中央統制委員会幹部会および労農監督委員を構成メンバーとする中央総括会議を2ヶ月ごとに開くことである。しかしながら、1923年の2月総会において、トロツキーが「二つの中央部」を提案しているという宣伝がなされ、このエピソードはトロツキー攻撃の一手段にされた。

19)コップ、ヴィクトル(1880-1930)……1900年から社会民主主義運動に従事。『イスクラ』派。1903年の分裂の際はどちらにも属さず。その後、労働組合運動に参加。1918年にドイツの監獄から釈放され、ソ連の外交官に。1923年時点で外務人民委員部幹部会員で、ポーランド政府の代表者と交渉に当たっていた。

20)トロツキー「新路線――グループ化と分派の形成」を指している(『新路線』所収)。 

 

トロツキー研究所

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1920年代中期