われわれの意見の相違

 トロツキー/訳 西島栄

1924年のトロツキー

【解説】1924年にトロツキーが『トロツキー著作集』の第3巻目にあたる『1917年』に特別の長大な序文「10月の教訓」を発表したとき、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの「トロイカ(3人組)」は反トロツキズムの大論争(「文献論争」)を開始した。連日『プラウダ』には「レーニン主義かトロツキズムか」「トロツキズムかボリシェヴィズムか」といった煽動的な題名の大論文が掲載され、党指導部から末端の党機構に至るまでが総動員されて、徹底的にトロツキーを貶め、トロツキズムをレーニン主義ともボリシェヴィズムとも異質な小ブルジョア的、メンシェヴィキ的イデオロギーであるという宣伝がなされた。それはまさにペンによる「魔女狩り」であり、何ヵ月もソ連共産党を支配した。この大論争、というよりも一方的なリンチにおいて、トロツキーは一貫して沈黙を守った。この時期にまたしてもトロツキーの行動を麻痺させた熱病のせいもあったが(これはおそらく心的ストレスによる免疫の低下によって生じたものであろう)、トロツキー自身が何か反論すればさらに大規模な反撃を呼ぶことが確実でもあったからである。

 しかし、トロツキーは一時期は実際に反論をしようとした。それはかなり長文の文章となったが、結局トロツキーはそれを発表することを断念した。実際、この文章の中でトロツキーはこう述べている。

 「この説明文が論争の火に油を注ぐことになると判断した場合には、あるいは、本論文を印刷するかどうかの決定権を持っている同志たちが私にはっきりそう言った場合には、印刷に付すことを断念しようと思う」。

 しかしながら、トロツキーのこの発表されたなかった反論文は、今日から見て、多くの興味深い論点を有している。トロツキーがレーニンと対立していた時期における組織論をめぐる自己評価(それは今日から見れば非常に一面的であるように思える)、レーニンの「プロレタリアートと農民の民主主独裁」論と自らの永続革命論との対比、「複合型の国家」に関する洞察、などである。とりわけ、トロツキーの農民論との関係で興味深いのは、最後の「当面する諸問題」の中でトロツキーが工業化との関連で農民問題について触れている部分である。この中でトロツキーは、工業が先走りしすぎることによる危険性と、工業の立ち遅れによる危険性の二つの危険性を正しく指摘するとともに、次のように述べている。

 「同じく議論の余地がないのは、現段階においては、諸利益の均衡が何よりも農村に損失をもたらす形で破壊されていることであり、経済においても政治においてもこのことに真剣に取り組まなければならない、ということである」。

 このように、1924年11月の時点でもまだトロツキーは、富農の脅威論ではなく、その反対に農村の損失論のほうに立っていたのである。トロツキーがクラーク(富農)の台頭を本当に重視しはじめるのは、ジノヴィエフ=カーメネフ派が1925年に半ばにスターリン派から分離し、クラークの脅威についてやかましく宣伝しはじめて以降のことである。すなわち、あたかもトロツキーが1923年から一貫してクラークの脅威について警告していたかのように言うのは、トロツキーを褒める立場からであれ、トロツキーの農民過小評価論の立場からであれ、はっきりと誤りなのである。

 Л.Троцкий, Наши разногласия, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.1, 《Терра-Терра》, 1990.


  1、この説明文の目的

  2、過去

  3、党の役割

  4、「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」

  5、レーニン主義とブランキズム

  6、「複合型の国家」

  7、当面する諸問題


  

   1、この説明文の目的

 私の著作『1917年』をめぐって現在行なわれている論争(そこでは同書は単なる口実としてのみ役立っており、そのことは論争の流れから明らかである)において、きわめて多くの問題が提起されている。事実をめぐる問題、理論的問題、個人的性格をもった問題などなどである。ここでは、これらの問題のうち、何よりも党の利害に関わると思われるものについて若干解明しておきたいと思う。

 1、私が、「トロツキズム」という秘密の旗のもとでレーニン主義の修正を行なっているというのは本当なのか。

 2、私が、特殊な「トロツキスト」的見解にもとづいて『1917年』の序文[「10月の教訓」]を書き、あまつさえレーニン主義を貶める目的で多くの問題を間違って取り扱ったというのは、本当なのか。

 3、私の序文は「政綱」であり、総じて党内の「右派」を組織することが自分の課題であるとみなしているというのは本当なのか。

 もちろん、問題になっているのは、私が何を言おうとしたかだけではなく、私の発言がどのように理解されたか、でもある。たしかに問題に対して次のようにアプローチすることは可能である。トロツキーは意識的にレーニン主義をトロツキズムに置き換えようとしているわけではない。その点で彼を非難するのは不当である。しかし、トロツキーはレーニン主義を理解していない、あるいはレーニン主義のいくつかの重要な諸側面を理解していない。それゆえ、トロツキーは、そう意図することはなしに、実際においてレーニン主義を歪曲してしまっており、レーニン主義とあいいれないグループのための思想的政綱をつくり出している、と。他方で、次のように仮定ないし前提することも可能である。過去の諸条件、レーニン死後の時期に形成された困難な状況、および、あれこれの個人的事情から一種の偏見がつくられ、それは、ありもしないところに「トロツキズム」を見させ、あるいは――せいぜい――ボリシェヴィズムの共通の基盤の上に不可避的に生じうる思想的なニュアンスの違いがあるにすぎないところに「トロツキズム」を見させる結果になった、と。

 こうした状況のもとで、党に対するこの説明文はいかなる目的を追求しうるだろうか、あるいは追求するべきだろうか?

 なすべきことは、まず第1に、まさに私が言いたかったことが何であるのかを明らかにすることであり、第2に、たとえ最も重要な諸問題に関してだけでも、実際に生じている誤った解釈を取り除くことである。このようにして、少なくとも、誤解や先入観による解釈にもとづく偽りの意見対立を一掃することができるだろう。以上のことをだけでも大いに有益だろう。なぜなら、そうすることによって、あたかも私が――意識的ないし無意識的に――トロツキズムの特殊な路線をレーニン主義に対置しているかのような重大かつ決定的な非難に本当に現実的ないし真面目な根拠があるのかどうかを明らかにする助けとなるだろうからである。誤解や部分的な誤りや先入観による解釈が取り除かれた後でさえ、それでもなお、このような二つの路線が存在することがわかったならば、その時にはもちろんのこと、このような最も重大な事態を粉飾することなどまったく問題になりえない。党は、いかなる努力や厳しい手段をもってしてでも、その革命的方法・政治路線・伝統の統一性を、すなわちレーニン主義の統一性を保障しなければならない。その場合には、「抑圧」の手段でさえ用いないと誓うのは正しくないだろう。一部の同志は、そのように誓いながら、同時に、私を、特殊な非ボリシェヴィキ的路線を遂行していると非難しているのだが。しかしながら、私は――論争がきわめて深刻な地点にまで至っているにもかかわらず、また、私の著書と私の立場に対する確定的な評価が党に対して提出されているにもかかわらず――このような結果になるとは一瞬たりとも信じていない。

 この説明文の課題は、「トロツキズム」の亡霊[妖怪]を党にとっての危険物として持ち出す根拠などないことを示すことである。言うまでもなく、この間「トロツキズム」について、そしてそれに反対して書いている同志たちが提出しているおびただしい量の論拠、資料、引用、ほのめかしのすべてを取り上げることはしない。このようなことをすることは目的にかなっていないだろうし、またそもそも不可能なことである。「トロツキズム」の最も明白な現われと非難された(したがって現在のカンパニア全体を正当化する論拠になっている)、私の序文の結論について説明することから始めるほうが、問題の本質にとっても読者にとっても、都合がいいだろう。最も論争の的となっている諸問題を通じて示そうと思うのは、私の10月革命解釈がレーニン主義の方法によって導かれていただけでなく、同じ問題に関するレーニンのまったく正確かつ具体的な評価および結論と完全に一致しているということである。

 しかしながら、このような説明だけにとどまることはできない。「トロツキズム」という非難は、最近の私の発言や演説や論文にのみもとづいているかぎり、それ自体あまりにも説得力に乏しいからである。この非難に何らかの重みと意義を持たせるために、私の政治的過去全体、したがってボリシェヴィキに入党する以前の私の革命活動が議論の中に引き入れられることになった。そこで、この問題に関しても説明しておく必要があるように思う。以上が本論文の基本的な中身である。

 この説明文が論争の火に油を注ぐことになると判断した場合には、あるいは、本論文を印刷するかどうかの決定権を持っている同志たちが私にはっきりそう言った場合には、印刷に付すことを断念しようと思う――レーニン主義の清算という非難を受けつづけることがいかにつらいことであろうとも。私は自分にこう言いきかせるだろう。党内生活がもっと落ち着いたものになり、たとえ後からでも偽りの非難に反論することができるようになる時が来るのを待とう、と。しかし、公然たる説明――すなわち私に向けられた基本的な非難に対する回答――を行なうことは、現在、党内の雰囲気を悪化させるのではなく、反対に、問題をその本来のレベルに戻すことによって、雰囲気を緩和することになると思う。

 実際のところそうだ。もし本当に、党内にレーニン主義の路線に対立するトロツキズムの路線なるものが存在するとしたら、それは、異なった階級的諸潮流間の萌芽的な闘争が問題になっているということになるだろう。そうだとすれば、いかなる説明も役立たない。プロレタリア党は、異質分子を除くことによって自己を保つことができる。しかし、実際にはトロツキズムなど存在せず、トロツキズムの亡霊だけしか存在しないとすれば、すなわち一方では、それは革命前の過去の投影であり、他方ではレーニンの死後に生まれた猜疑心の継続にすぎないとすれば、そして、トロツキズムの亡霊が実際には、チヘイゼ宛てのトロツキーの手紙(1)のようなものをアルヒーフから引っ張り出してこないかぎり復活させることができないとすれば、その時には、公然たる説明文は役に立つだろうし、古い偏見を取り除き、亡霊を消し去り、党の雰囲気を浄化することができるだろう。これこそ、本論文の目的である。

  

   2、過去

 すでに述べたように、『1917年』の序文は論争の中で私の全活動と結びつけられ、「トロツキズム」を表現するものとして解釈され、党の教義および党活動の方法として、レーニン主義に取って代わろうとしているとみなされている。

チヘイゼ

 このような問題設定のせいで、党の注意が、かなりの程度、現在および未来から過去に移されることになったのも無理はない。古い文書、古い論争の引用等々を持ち出すことが党内で大流行している。このような文書類のうち、とりわけ、私が当時の社会民主党(メンシェヴィキ)議員であったチヘイゼ[左の写真]に宛てた1913年4月1日付の手紙が、すなわちほとんど12年前の手紙が印刷に付されている。この手紙は、すべての党員に重苦しい印象を与えないわけにはいかなかった。とりわけ、亡命の条件下における戦前の分派闘争の経験を経ていない党員たちにはそうであった。それゆえ、これらの党員にとっては、手紙はまったく思いがけないものだった。

 この手紙が書かれたのは、分派闘争が途方もなく先鋭化したときだった。この手紙が書かれた事情についてここで詳しく論じることには何の意味もない。この手紙の執筆という事実そのものが可能になった基本的理由について指摘しておけば十分であろう。この基本的理由は、私が当時メンシェヴィキに対して、レーニンがとっていた立場と大きく異なる立場をとっていたことにある。私は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキを一個の党のうちに統一するための闘争が必要だとみなしていた。それに対してレーニンは、プロレタリアートに対するブルジョアジーの影響の主たる源泉を党から一掃するために、メンシェヴィキとの分裂をいっそう深めることが必要であるとみなしていた。その後かなりたってから、私は次のように書いた。自分の誤りは、ボリシェヴィズムとメンシェヴィズムとのあいだのきわめて原則的な深淵を理解していなかったこと、まさにそれゆえ、レーニンの組織的・政治的闘争――メンシェヴィズムに対する闘争のみならず、私自身が擁護していた調停主義的路線に対する闘争も――の意味を理解していなかったことにある、と。

 長年のあいだ私をボリシェヴィズムから引き離し、多くの場合ボリシェヴィズムに対して敵対的に対立させた深刻な意見の相違は、まさにメンシェヴィキ派に対する態度のうちに最もはっきりと示されている。私は、革命の発展とプロレタリア大衆の圧力が結局のところ両分派を同一の道に立たせるだろうという根本的に誤った展望から出発していた。それゆえ、分裂は革命勢力を無意味に解体させるものであると考えた。そして、分裂において積極的な役割を果たしたのがボリシェヴィキであったため――それはレーニンが、仮借のない線引き(思想的のみならず組織的なそれ)という道によってのみ、プロレタリア党の革命的性格を保障することができるとみなしたからなのだが(そしてその後の歴史全体がこの政策の正しさを完全に裏づけた)――、私は、多くの先鋭な転換点のたびに「調停主義」的立場をとり、ボリシェヴィズムと敵対的に衝突することになった。メンシェヴィズムに対するレーニンの闘争は、しばしば「トロツキズム」と呼ばれた「調停主義」に対する闘争によって必然的に補完された。

 レーニンの著作集を読んだ同志たちはみな、このことを知っている。それゆえ、ここで何らかの「隠蔽」について語るのは滑稽なことである。もちろん、ロシアの「調停主義」――それはその基本的特徴の点で国際的な「中央主義[中間主義]」の潮流に類似していた――に対するレーニンの批判の原則的正しさとその偉大な歴史的先見の明に対して、今さら異論を唱えることなど、まったく思いもよらないことである。このことはすべての党員にとってあまりにも明白かつ議論の余地のないことであり、それゆえ、この分野で論争をするという考えそのものが――この分野で党によってなされ、書かれ、摂取され、検証され、裏づけられた今となっては――まったくナンセンスなことであろう。

 すでに述べたように、「全般的な線引き」や分裂と闘ってきた私は、それによって、レーニンがわれわれの今日の党を準備しつくり上げ教育してきた思想的・組織的方法と何度も先鋭に衝突することになった。当時は、「レーニン主義」という言葉そのものがボリシェヴィキ派には存在しなかった。しかり、レーニンはそういうものを許さなかった。レーニンが病気になってはじめて、とりわけレーニンが死んではじめて、党は、いわばレーニンの生涯[生命]というものがいかに偉大で巨大な創造物であったかにたちまち心を奪われ、レーニン主義という言葉を一般に使うようになったのである。この言葉は、言うまでもなく、マルクス主義に対置されるものではなく、レーニンの指導のもとで世界マルクス主義の学校を理論的かつ実践的に豊かにしたあらゆる新しいものを含んでいる。革命前の時代を取り上げるならば、「レーニン主義」という言葉は、ボリシェヴィズムの敵によって、ボリシェヴィズムの政策の中で最も否定的で有害であると彼らがみなした諸要素を特徴づけるために用いられた。私もその一員であった「調停派」にとっては、それは、ボリシェヴィズムの最も否定的な諸特徴、すなわち分裂主義、分派主義的闘争、組織的線引き、等々を意味するものであった。まさにこの意味で、当時の最も先鋭な論争の時期に、「レーニン主義」という言葉が私によって用いられたのである。

 いま、経験もなく事情にも通じていない党員に、「君はトロツキーがレーニン主義について何と言っていたか知っているか」と尋ね、次に、レーニン主義に対する分派的攻撃を行なっている過去の諸論文や手紙を読み聞かせるならば、それは強烈な印象を与えることだろう。しかし、これは正しいやり方だろうか? それは、相手の無知につけ込むことである。現在、これらの引用文は、他の党員の耳にそう聞こえるのと同じぐらい私の耳にも異様に聞こえる。だがそれは、過去の歴史、すなわちボリシェヴィズムと調停主義との闘争の歴史からしか理解することはできない。この闘争において、歴史的正当性と勝利は完全にボリシェヴィズムの側にあった。さらに、レーニンの活動の歴史全体は、彼を理解すること――政治家としてだけでなく、一個の人間的個性としても――が、彼の歴史観、彼の目的、彼の闘争方法を理解することによってのみ可能になることを物語っている。レーニン主義ぬきでレーニンを評価することはできない。レーニンを中途半端に評価することもできない。彼の政治的個性は、あらゆる中途半端さを排除している。彼はその方法によって、すべての人に対し、彼と足並みをそろえるか、さもなくば彼と闘うことを余儀なくさせている。それゆえ、明らかに、革命の基本的諸問題における中途半端さを意味する調停主義にとってレーニンという個性そのものが異質で、多くの点で理解しがたいものであった。当時正しいと思っていた目的――すなわち、労働者運動の見せかけの「統一」の名において社会民主党のすべての分派を統一させること――のために闘うことによって、私は、何度となくこの途上でレーニンという政治的個性と衝突することになった。

 革命家が党建設の基本的課題とその活動方法に対する正しい態度を確立しないかぎり、労働者運動に対する正しく確固たる首尾一貫した参加は問題になりえない。教義、スローガン、戦術、党の組織活動、これらのあいだの正しい相互関係なしには、革命的、マルクス主義的、ボリシェヴィキ的政策もありえない。まさにこのような考えにもとづいてレーニンは、私がその調停主義ゆえにプロレタリア運動の基本的中核たるボリシェヴィズムと対立しているかぎり、私の革命的思想や命題は「空文句」にすぎないと、何度となく先鋭で論争的な調子で語ったのであった。レーニンは正しかったか? 無条件にそうだ。

 ボリシェヴィキ党なしに10月革命は成し遂げられなかっただろうし、強化されもしなかっただろう。したがって、真に革命的な活動とはただ、この党を形成し強化することに役立つ活動だけであった。他のいかなる革命活動もこの大道からそれるものであり、その確実さも成功の保障も備えていなかったし、しばしば、当時の主要な革命活動にとって有害なものになった。この意味で、レーニンが、メンシェヴィズムを覆い隠す調停主義的立場は、そのことによってしばしば革命的スローガンや展望等々を空文句に変えてしまっていると言ったのは、正しかったのである。中間主義に対するレーニンのこの根本的な評価はまったく議論の余地のないものである。この点に関してボリシェヴィキ党内で論争を開始することなど途方もないことである。いずれにせよ、私はこのような議論をするいかなる理由もないと考えている。

 私にとってこの問題での転換が始まったのは帝国主義戦争の勃発以降であった。私が1907年以降何度となく展開してきた評価に一致して、ヨーロッパ戦争が革命情勢をつくり出すことは間違いなかった。しかし、予想に反して、この革命情勢は社会民主党の完全な裏切りをもたらした。私はしだいに、党と階級との、革命的行動とプロレタリア組織との相互関係に関する自分の評価を見直していった。国際メンシェヴィズムの社会愛国主義的裏切りを目の当たりにして、一歩一歩、メンシェヴィズムに対する思想的闘争のみならず(私は以前からこの闘争の必要性については認めていた。ただし、十分に首尾一貫していなかったが)、メンシェヴィズムとの容赦のない組織的分裂が必要であるという結論に到達していった。この再評価は一気に起きたわけではない。大戦中の私の論文や演説の中には、首尾一貫しない点や逆戻りしている点も見出せるだろう。レーニンが、私の中間主義のあらゆる現われをあえて強調したり、場合によっては意図的に誇張しさえして批判したことはまったく正しかった。しかし、大戦中の時期を全体として取り上げるならば、戦争勃発以来の社会主義の恐るべき堕落が私にとって――例外なくあらゆる問題において――中間主義からボリシェヴィズムへの転換点になったことは明らかである。そして、私が階級と党との、理論と実践との、政策と組織との相互関係のより正しい、すなわちボリシェヴィズム的な理解を確立していくにつれて、ブルジョア社会に対する私の全般的な革命的アプローチも自然とより生き生きとした、より現実主義的な内容で満たされるようになった。祖国防衛主義との生死をかけた闘争の無条件的な必要性が私にとって明らかなものになった瞬間から、レーニンの立場の本来の姿が見えるようになってきた。かつて「分裂主義的」「組織解体的」等々と思われたものが、プロレタリア党の革命的独立性のための有益できわめて先見の明のある闘争として立ち現われてきた。レーニンの政治的方法や組織的手法のみならず、彼のすべての政治的・人間的個性もまた新しい光を浴びて私の前に立ち現れた。レーニンを理解し受け入れることは、ボリシェヴィキになることによってのみ可能であった。

 独自の潮流としての「トロツキズム」が私にとって問題になったことなど一度もない。あれこれの問題を「トロツキズム」という特殊な観点から見ることなど、頭に浮かんだことも一度もない。あたかも、私がレーニン主義をトロツキズムに取り代えるために、あるいはすりかえるために入党したというのは、真実ではないし、まったく途方もない主張である。私がボリシェヴィキに入党したのはボリシェヴィキとしてである。レーニンは、メジライオンツィとボリシェヴィキとの合同について私と話し合った際、私の同意見者のうち誰が中央委員会に入るべきだと考えているか教えてほしいと尋ねてきた。そのとき私は、この問題は自分にとっては政治的に存在しない、なぜなら私をボリシェヴィキから引き離すような意見の相違はもう何もないからである、と答えた。

 もちろん、私がかつてメンシェヴィズムについて正しい評価をしていなかったと非難することもできるだろう。これは、私が1903年時点でボリシェヴィキにならなかったことを非難するものである。しかしながら、誰も恣意的に自分の発展経路を選べるわけではない。私は長く複雑な道を通じてボリシェヴィキに至った。この道において、私は革命とプロレタリアートの利益以外の利益を持ってはいなかった。私は、レーニン主義が不当に労働者階級を分裂させていると確信していた時にレーニン主義と闘った。何年にもわたる経験から自分の誤りが理解できたとき、私はレーニン主義へと向かった。己れの発展のこの錯綜とした道に対する政治的責任は、言うまでもなく私自身にある。

 しかしながら、1917年5月にアメリカから帰ってきてボリシェヴィキ党の指揮下に入ったとき、私の過去全体は、完全かつ全面的にわが党の中央委員会と古くからのすべての党員に知られていた。この過去の中にはたしかに政治的誤りも含まれていたが、私の革命的誠実さを汚すような、どんなわずかな汚点もなかった。私は他の多くの同志たちより遅くレーニン主義にたどり着いたかもしれないが、それでも、レーニンの最も近しい戦友として7月事件に参加し、10月革命、内戦、そしてソヴィエト時代のその他の活動に参加するに十分なだけ早かった。かつて、私がボリシェヴィズムにたどり着いた道は他の者よりもそれほど悪いものではなかったという意見を言ったとき(このとき私は激しく非難された)、私が念頭に置いていたのはインテリゲンツィアの個人的道のことであって、プロレタリア党の集団的道のことではない。私が言いたかったのはただ、あえて自分自身に判決を下すとすれば、私のたどってきた道は私を確固としてそして永遠にボリシェヴィズムに導いたということである。

フランツ・メーリング

 ただ自分の考えを説明するために、一つの歴史的実例を取り上げよう。ドイツの著名なマルクス主義者であるフランツ・メーリング[左の写真]は、晩年になってから、しかも大きな闘争を経てからマルクスとエンゲルスにたどり着いた。しかも、メーリングは、最初、社会民主党に接近し、後にそこから離れ、その後になって決然と社会民主党に参加した。古い文書保管所を見れば、マルクスとエンゲルスに対するメーリングの激しい攻撃文書や、メーリングに関するエンゲルスの容赦のない評価を見つけ出すことができるだろう。後年、党内闘争において、メーリングは一度ならず自分の過去について取りざたされている。それにもかかわらず、メーリングはマルクス主義に確固として向かい、最後までそこにとどまり、そしてドイツ共産党の創始者として死んだのである。

 同志カーメネフは、私の立場の誤りを明らかにしたレーニンのすべての引用文を、きわめて入念にかき集めている。同志カーメネフは、長い年月のあいだに行なわれたレーニンの論争的な攻撃を、私に対する最終的な特徴づけであるかのように扱っている。しかしながら、このような特徴づけが不完全なものであることを読者は知るべきである。さもないと、私の以前の(1914年以前および1917年以前)革命的活動にはもっぱら誤りだけしかないのか、それとも、その中には、私をボリシェヴィズムに接近させ、そこへ方向づけ、そこにたどり着かせた側面もあったのか、この問いに対して読者はまったく答えを見出せないだろう。この問いに対する答えなしには、その後、私が党活動に参加したことの意味についてまったく説明されないままであろう。それに加えて、カーメネフの特徴づけは必然的に、別の問いかけを、すなわち純粋に事実関係にかかわる問いかけを惹起する。同志カーメネフがかき集めた事柄は、はたしてレーニンに言ったことないし書いたことのすべてなのか? レーニンには、革命期の経験にもとづいた他の発言はないのか? 現在、1924年末にもなって、革命前の時期の評価だけを党に知らせて、現在の共同の活動と闘争から生じる評価について何も語らないというのは、はたして正しいこと、良心的なことなのか? これこそ、真面目なすべての党員の脳裏に必然的に浮かぶ問いかけである。この問題に関する古い引用文は回答にならない。それは、傾向性と偏見が事態を支配しているという結論を生むだけである。

  

   3、党の役割

 私の現在のあれこれの見解や論文を「トロツキズム」として提示し、その目的でそれらを私の過去の誤りと結びつけるためには、多くのものを、とりわけ1917年を無視しなければならない。そしてそのためには、私が1917年の事件を理解していないこと、レーニンの4月テーゼを無条件に支持したのは誤解によるものであること、革命の過程における党の役割を理解していなかったこと、それに先立つ党の歴史全体の意義を無視していること等々、等々を後知恵的に証明しなければならない。1917年の事件に即してそのようなことを証明することはまったく不可能である。なぜなら、この事件への参加に関して、当時もその後も、何らかの特殊な路線を追求していると非難しうるどんなわずかな根拠も見出せないからである。それゆえ、トロツキズムという非難は、当時の事件やそれへの私の参加に照準を合わせているのではなく、この事件の教訓について明らかにした私の論文に照準を合わせている。まさにそのため、「トロツキズム」という非難にとっては、私が1917年の事件においてレーニン主義を歪めたのかどうか、レーニン主義に非和解的に対立する別の特殊な潮流をレーニン主義に対置したのかどうか、この問題は巨大な、いわば決定的な意義を有している。したがって、「10月の教訓」を「トロツキズム」と非難することは、党内における「トロツキスト的」危険性という全概念構築物の基本的な結節点になっている。ところが――そしてここに問題の核心があるのだが――、これらすべての人為的な概念構築物を一点に結合している結節点は偽りの結節点なのである。その結節点にまともに触れればそれで十分である――それは粉々に砕け散るだろう。途方もない言いがかりと、それに輪をかけた偏見とが結びつきでもしないかぎり、「10月の教訓」を、レーニン主義を慎重かつ良心的に適用したものではなく、レーニン主義からの偏向であるなどと解釈することはできないだろう。このことについて、議論になっている主要な論点に即してこれから示そうと思う。

 とりわけ驚かされるのは――そのあまりに途方もない嘘ゆえにだが――、私が10月革命の記述において党を無視しているという主張である。ところが、私の序文の中心思想およびその課題は、全面的にプロレタリア革命における党の決定的な役割を明らかにすることにあった。「プロレタリア革命の基本的の武器は党である」(14頁)(2)。私はこの思想を一連の国々におけるプロレタリア革命の敗北の経験に照らして例証している。われわれの誤りは――何度でも言うが――、戦争の結果としてヨーロッパ・プロレタリアートが勝利するだろうと時期尚早に期待していたかぎりにおいて、まさに、われわれがプロレタリア革命にとっての党の意義をまだ不十分にしか評価していなかったという点にあった。ドイツ労働者は1918年にも1919年にも勝利することができなかったが、それは勝利のための基本的な武器が、すなわちボリシェヴィキ党が存在しなかったからである。序文の中でとりわけ強調しているのは、ブルジョアジーが権力獲得の際に階級としての多くの優位性を利用することができるのに対し、プロレタリアートにとってのこの種の優位性の代わりになりうるのは革命党しかないということである。

 ドイツ革命の敗北以来、私が繰り返し強調し十倍もの執拗さでもって展開してきた思想がそもそもあるとすれば、それはまさに、最も有利な革命的状況があっても、勝利を保証しうる真の革命党によって指導されないかぎりプロレタリアートは勝利しえない、という思想である。これは、チフリスでの私の報告「ヨーロッパ革命への道」(1924年4月11日)でも、別の報告「東方における展望と課題」(1924年4月21日)、「西方と東方におけるメーデー」(1924年4月29日)、「新しい転換」(『コミンテルンの5ヵ年』への序文)、「われわれはどの段階にいるのか」(1924年6月21日)等々、等々においても、基本的な思想になっている。たとえば、先にあげたチフリス演説の中で、私はドイツ革命の敗北の原因を分析してこう述べている。

 「それではなぜ、ドイツではいまだに革命は勝利していないのだろうか? 答えはただ一つしかありえないと思う。ドイツにはボリシェヴィキ党が存在せず、彼らのところには、われわれが10月革命の時に持っていたような指導者がいなかったということである。……足りなかったのは、わが党が有しているような断固たる意志を備えた党である。同志諸君、これが中心問題であり、この経験からすべてのヨーロッパ諸党は学ばなければならない。そして、われわれもまた、10月革命においてプロレタリアートに勝利を保障し、そして10月革命後に一連の勝利を保障したわが党の性格、意義、本質をよりはっきりと、より深く理解し評価しなければならない」(『西方と東方』、11頁)。

 ※原注 L・トロツキー『西方と東方』、モスクワ、1924年を参照せよ。

 繰り返すが、これが、とりわけ昨年におけるドイツの敗北以来、プロレタリア革命の諸問題に関係する私のすべての報告と論文を貫く基本的かつ指導的な思想である。この点を証明する引用文を何十と挙げることができるだろう。この主要な思想、すべての歴史的経験、とりわけこの10年間の経験から得られたこの主要な結論を、「10月の教訓」を書いているときに突然忘れ去り、抹殺し、歪曲したなどと考えることは許されるだろうか? いや、そんなことは考えられないし、実際にそんなことはなかった。そんなことは、ひと欠けらもなかった。反対に、私の序文全体は、チフリス報告で展開した次のような核心の上に立脚している。「われわれは、10月革命においてプロレタリアートに勝利を保障し、そして10月革命後に一連の勝利を保障したわが党の性格、意義、本質をよりはっきりと、より深く理解し評価しなければならない」。

 言うまでもなく、この思想をここで改めて証明することはしない。なぜなら、私は、この10月の「教訓」を、すでに証明済み、検証済みのもの、議論の余地や疑問の余地のないものであるとみなしているからである。そして、党とその指導の決定的役割という思想こそ、私の序文の核心をなしている。それを証明するには、核心部分を太字で強調しつつ序文全体を引用しなければならない。残念ながら、それは不可能である。そこで残された手段としては、興味ある読者諸氏に、鉛筆を手にして、前述の観点から序文を何度も読んでもらうようお願いするしかない。とりわけ次の頁は特別注意深く読んでいただきたい。12、13、14、41、43、46頁、「再びプロレタリア革命におけるソヴィエトと党について」の章(37頁)。

 ここでは一つの例に限定せざるをえない。序文の最終章で、最近わが党の新聞紙上で展開されている思想、すなわちイギリスの革命が「共産党の門を通じてではなく、労働組合の門を通じて」起こりうるかのような考えを厳しく批判している。その論拠として序文の中で私はこう述べている。

 「党なしに、党と無関係に、党を飛び越えて、あるいは、党の代用品を通じては、プロレタリア革命は勝利することはできない。これが最近10年間の主要な教訓である。たしかにイギリスの労働組合はプロレタリア革命の強力なテコにはなりうる。たとえば、一定の条件のもとで、一定の時期、労働組合が労働者ソヴィエトの代わりをつとめることさえあるかもしれない。しかしながら、労働組合がこのような役割を果たしうるのは、共産党と無関係にではなく、ましてや共産党に対抗してではなく、ただ労働組合における共産党の影響力が決定的となるという状況下においてのみである。われわれは、プロレタリア革命における党の役割と意義に関してこの結論に達するのにきわめて高い代償を払ってきたし、その代償は、それをそう軽々しく否定したり弱めたりするにはあまりに高価なものである」(39頁)(3)

 ところが、私は、まさにこの思想を否定したとか弱めたといって非難されているのである! これまで述べてきたことからして、この一つの引用文だけで十分、「トロツキズム」の名において私に帰せられている傾向なるものが、私の序文の精神にも文章にもまったく矛盾しているだけでなく、私のプロレタリア革命概念の全体にも矛盾していることを示すことができるだろう。この観点から見れば、私が革命におけるわが党のペトログラード委員会の役割を忘れたとか、意識的に沈黙しているかのような主張は、まったく馬鹿げた言いがかりであることがわかる。私の序文は、個々の党機関や党組織の役割について叙述したものではないし、事件の一般的な叙述を目的としたものでもなく、プロレタリア革命における党の全般的役割を解明しようとするものであった。私は諸事実を逐語的に記述するようなことはせず、それらは全体としてすでに知られているという前提に立っていた。一般情勢のみならず、党の指導的役割をも前提にしていたが、その際もちろんのこと、党として念頭に置いていたのは生きた現実の諸組織であった。記述の流れからして自明と思われることについて、私は無視したわけでも沈黙していたわけでもない。いかなるこじつけも、いかなる詭弁も、次の事実を否定することはできないだろう。私に対して投げつけられた中心的な非難――党の意義の引き下げ――が、根本的に偽りであり、私が実際に語り証明していることと途方もなく矛盾しているという事実である。

 同じぐらい誤った主張は、党の評価においてあたかも私が、党大衆から党の「上層」、指導者に注意をそらしているかのような主張である。この点に関しては、どこかの誰かは「英雄」と「群衆」の理論についておしゃべりをしていた。しかし、事の核心は、プロレタリア革命の過程における党の全般的意義を確定したうえで、しかも、これ以上は不可能なほど厳格に確定したうえで、革命期における中央指導部の役割という、特殊で部分的だが特別の重要性を帯びた問題を提起したことにある。ここにはもちろん、いわゆる「指導者」の問題も含まれる。10月におけるレーニンの仕事を特徴づけることによって、私は、あらゆる動揺に対抗する彼の力の源泉が、決定的な瞬間につねに「党員大衆」に立脚することのできる彼の能力にあることを2度にわたって指摘した。もし私が革命の全問題を、あるいは党による指導の問題だけであっても、それを「指導者」の問題に還元しているとすれば、これは根本的にマルクス主義に矛盾している。しかし、プロレタリア革命における党の役割というマルクス主義的規定にもとづいて、党の指導的中枢と党全体と労働者大衆との相互関係という特殊だが革命にとってきわめて重要な問題を提起するとき、このような問題設定は完全に法則的であり、昨年のドイツの敗北の後だけになおさら重要である。ただし、この点について後で論じることにする。

 しかし、党は権力の獲得にとってだけでなく、権力の維持、社会主義建設、国際的な駆け引きにとっても必要であると私に語る者がいる。私がこのことに気づいていないとでも言うのだろうか? しかしながら問題は、ヨーロッパの諸党の前には、権力の獲得がこれからなすべき巨大な課題としてそびえ立っているという点にある。これらの諸党はこのことに集中し、そこにすべての努力を傾けなければならない。権力を獲得した後に、新しい困難が現われる。ここであらかじめ確信をもって言えることは、武装闘争の勝利から「有機的な」仕事への移行は、必然的に緩慢なテンポを伴うが、それは不可避的に新しい危機をすべての党に、あるいはほとんどすべての党に引き起こすだろう。それは、不満をもった左翼の孤立化という危機である。これはもちろん、国が異なればその規模もさまざまでありうる。しかし、この危険性と困難は次の段階である。しかし共産主義はこの問題にうまく対処することだろう、ということである。必要なのはまず権力を取ることである。

 同じく明らかに不当で、牽強付会なこじつけであるのは、10月の教訓に関する記述の中でわが党の過去、すなわち戦争前と革命前の歴史が無視されているかのようにいう非難である。しかしすでに述べたように、私の記述の全体の流れは、最も有利な革命情勢があったとしても、それに先立つ準備期においてプロレタリアートの前衛が真に革命的な、つまりボリシェヴィキ的な党のうちに統一されていないかぎり、プロレタリアートはその有利な情勢を成功裏に利用することができない、ということに帰着する。これこそ10月の主要な教訓である。他のいっさいはこの教訓に従属する。

 党というものは、その時々の必要性に応じて即興的につくることはできないし、武装蜂起に合わせてでっち上げるわけにはいかない。このことは、戦後のヨーロッパ・プロレタリアートの経験によってあまりにも有無を言わせぬ形で暴露された。この一事だけでも、たとえ私が10月革命前の党の歴史について直接的には一言も語っていないとしても、この10月革命前の時期におけるわが党の全歴史の意義が全面的に規定されている。しかし、実際には私は、10月期および10月後における党の役割を準備した党の発展の諸条件についてきわめて具体的かつ正確に語っているのである。この点に関して序文の42頁ではこう言われている。

 「歴史は、わが党に絶大な革命的優位性を保障した。ツァーリズムに対する英雄的闘争の伝統、地下活動の諸条件と結びついた革命的自己犠牲の鍛錬と習慣、人類全体の革命的経験の広範な理論的摂取、メンシェヴイズムとの闘争、ナロードニズムとの闘争、調停主義との闘争、1905年革命の偉大な経験、反革命の数年間においてこの経験を理論的に解明し血肉化したこと、1905年の革命的教訓の観点から国際労働運動の諸問題にアプローチしたこと――これらが合わさって、わが党に、比類のない不屈の精神、最上の理論的洞察力、議論の余地のない革命的行動力をもたらした」(4)

 いったいどこに、党の「無視」や10月革命前の準備の「無視」があるというのか? 序文における思考の全体としての流れが、プロレタリア革命にとって党の準備と鍛錬が持つ決定的な意義を解明することに向けられているだけでなく、現在の党を形づくったその発展諸条件が、きわめて正確かつ具体的に、そして――簡潔であるとはいえ――ほとんど余すところのない形で特徴づけられている。言うまでもなく、序文の中で党史の全体が記述されているわけではない。なぜなら、著作[『1917年』]のテーマは党の歴史ではなく、10月革命の歴史、すなわち党史の限定された一時期だからである。しかし、党に「絶大な革命的優位性」を保障した、党の発展諸条件のこうした特徴づけに対していったいいかなる反論が可能なのか私にはわからない。

 しかし、まだこれですべてではない。私がかつて擁護した潮流に対するボリシェヴィズムの闘争について「沈黙している」という非難がなされているが、これに対しては、またしても、同書のテーマは1917年以前の歴史ではなく、革命前の調停主義に対する闘争でもなく、10月革命そのものだということによって、まったく正当に反論することができるだろう。しかし、実はこの論拠さえ必要ではない。なぜなら、わが党に「比類のない不屈の精神、最上の理論的洞察力、議論の余地のない革命的行動力」を保証した諸条件について列挙したとき、メンシェヴィズムやナロードニズムとの闘争だけでなく、調停主義との闘争にも言及しているからである。

 革命前の歴史の中から現出してきたボリシェヴィズムは、「トロツキズム」によってその本質を変化させる必要があった、という思想を示唆するものは、私の文章のどこにもない。反対に、私の文書の中で直接言われているのは、トロツキズムの名称で知られていた潮流に対する闘争はボリシェヴィズム形成の必要な構成部分であったということである。言いかえれば、私が実際に言っていることは、私になすりつけられているものと正反対なのである。党の役割を引き下げたとか、10月前の時期における党の比類なき準備活動の意義と重要性を無視したとか、そういった言い分が崩壊するならば、トロツキズムの復活した危険性という概念構築物は、その主要な土台を失ってしまうだろう。そして実際、そのような引き下げも、そのような無視も、私にはまったくかけらもない。私の主要な思想、すなわちそれを機軸として他のいっさいのものが回転するような中心思想は、すでに述べたことだが、ここでも再び繰り返しておく。「われわれは、10月革命においてプロレタリアートに勝利を保障し、そして10月革命後に一連の勝利を保障したわが党の性格、意義、本質をよりはっきりと、より深く理解し評価しなければならない」(『西方と東方』、11頁)。これこそレーニン主義の思想である。私はそれを他のものに置き換えたり、薄めたりはしない。私はそれを擁護し実行する。

  

   4、「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」

カーメネフ

 党の役割に関する「トロツキスト的」概念がいかなるものであったかをわれわれは見てきた。しかし、レーニン主義に対する私の批判なるものは、まだ他の道をたどって、しかも2重の道をたどって導き出されている。まず第1に、私が、蜂起に反対した同志カーメネフ[右の写真]や他の同志たちの「10月」における立場を特徴づけた際、レーニンの当時の対立者を批判すると見せかけて実はレーニンその人と闘っている、というのである。私によるレーニン主義批判の第2の方法は、10月におけるレーニンの「誤り」について直接に記述し、あたかも私がこの誤りを訂正したかのように書いていることだ、というのである。これらの問題については慎重に論じる必要がある。

 同志カーメネフとレーニンとのあいだに生じた、10月における意見の相違の本質はどの点にあったのか? それは、同志カーメネフが、プロレタリアートと農民の民主主義独裁というスローガンのもとにブルジョア革命の完成という立場をとったのに対し、レーニンが、すでにブルジョア革命が展開されていたことにもとづいて、農村の下層を自らに従えるプロレタリアートの社会主義的独裁を準備し、それを呼びかけていた点にあった。これが10月期における二つの潮流の本質である。レーニンは最も断固としてカーメネフ的な立場に反対し、プロレタリアートと農民の民主主義独裁という定式を、古くさくなったものとして退けた。「必要なのは、古い定式にではなくて新しい現実に歩調を合わせることだ」。レーニンは問う、「この現実は、『ブルジョア民主主義革命はまだ終了していない』という同志カーメネフの古いボリシェヴィキ的定式におさまるだろうか?」と。そしてこう答える、「いやおさまらない。この定式はもう古くさくなってしまっている。それは何の役にも立ちはしない。それは死んでいる。それを復活させようと努力しても無駄であろう」(5)

 これはレーニンが、ただ単にプロレタリアートと農民の民主主義独裁という定式を「放棄した」ことを意味するのだろうか? いやけっしてそうではない。私はこのような放棄についていっさい言っていない。反対に、はっきりこう述べている(17頁)(6)。レーニンは、労働解放団に始まるロシア社会民主主義の紋切り的な西欧的伝統とは対照的に、ロシア史とロシア革命の独自性を、プロレタリアートと農民の民主主義独裁という定式によって政治的に表現したのだ、と。しかもこの定式は彼にとって、他のすべての政治的・戦術的定式と同じく、徹底的に動的で、実践的で、したがってまた具体的かつ条件的な性格をもっている。それはドグマではなく、行動の指針である。私は序文の中で、1917年革命の条件下でプロレタリアートと農民の民主主義独裁は実現したのかと問い、しっかりとレーニンに依拠しつつこう答えている。それは、労働者・兵士ソヴィエトの半権力として、しかも完全な権力になることを欲していない半権力として実現された、と。レーニンは自分の定式を、このきわめて変形され屈折した現実に即して理解した。彼は、当時の歴史的状況下にあっては、古い定式はこのような中途半端な実現以上には進まないだろうということを確信するに至った。権力獲得の反対者たちが、必要なのは民主主義革命の「完成」であるとみなしていたのに対し、レーニンはこう答えた。「2月」の線に沿って達成可能なことはすべてすでに達成され、実現された。古い定式はすでに使い果たされた。現実の発展から行動のための新しい定式を引き出さなければならない、と。レーニンは反対者たちをこう非難した。「民主主義独裁」なるものが、2月革命の状況下で実現された姿形をしていることに気づいていないのだと。4月はじめからすでに、レーニンは、倦まずたゆまずこう説明していた。

 「『プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁』についてのみ語る者は、実生活から立ち遅れ、それゆえに実践的にはプロレタリアートの階級闘争に反対して小ブルジョアジーの立場に移った者であり、このような連中は、革命前『ボリシェヴィキ』骨董品倉庫に、『古参ボリシェヴィキ』保管所に収容しなければならない」(レーニン全集、第14巻第1分冊、29頁)(7)

 古くさくなった定式を革命の要求に対置する反対者たちは、まさにそれによって「小ブルジョア的革命性に屈服している」のだとレーニンは飽きることなく繰り返した。これがレーニン的な問題の立て方である。そしてまさしく私はこのように記述している。10月革命のこの最も根本的な問題における私とレーニンとの――同志カーメネフとのではなく――連帯が、どうしてレーニン主義の修正だというのか? どうして10月に関するレーニン主義の概念が、レーニンと原則的に対立したカーメネフを包含し、レーニンと一致していた私を排除するというのか? ここではレーニン主義という言葉そのものがあまりにも伸縮自在でご都合主義的なものになってしまっている。

 10月におけるレーニン主義と反レーニン主義とのこのようなまったく驚くべき根拠薄弱な対置をもっともらしいものに見せようとして、次のように事態が描かれている。すなわち、私がカーメネフやその他の人々の誤りの根源を彼らのボリシェヴィキ的首尾一貫性に見出しているというのである。つまり、「見たまえ、これらの連中はレーニンの定式の道を行き着くところまで行き、ついに小ブルジョア的革命性の地平にたどり着いたのだ」と言っているというわけである。しかし、10月におけるレーニンの反対者たちの誤りが、レーニンの定式を「首尾一貫して」適用したところにある、などということは私はまったく言っていない。否、彼らの誤りは、彼らがレーニンの定式に対してレーニン流にアプローチしなかったこと、現実のうちにこの定式の独自の矛盾を認識しなかったこと、1905年の定式の過渡的・段階的性格を理解しなかったことにあるのであり、さらに、彼らが、レーニンの言葉を借りれば、丸暗記した定式を現実の分析に対置したこと、言いかえれば、彼らがレーニンの定式をレーニン流に理解しなかったことにあるのである。このことはレーニン自身が確認していることであり、彼はこの誤りを徹底した分析に付した。

 カーメネフやその他の人々に対する私の(より正確にはレーニンの)批判をレーニン主義に対する批判に変えてしまうという同じ目的のために、1924年の序文ではなく、私の1909年の論文(8)から引用がなされている。この論文の中で私は、プロレタリアートと農民の民主主義独裁という定式はある段階ではその反革命的特徴を暴露する恐れがあると述べている。たしかに私は、1909年に、ローザ・ルクセンブルクの雑誌でこのように書いた。この論文は私の著作『1905年』に収められている。この著作は1917年以降、ロシア語でも外国語でも何度も再版され、どの側からのものであれ、いかなる抗議も反論も受けなかった。なぜなら、誰もが、この論文を当時書かれた時代的状況の中で読むべきことを理解していたからである。いずれにせよ、1909年の論争的論文の一節を1924年の序文に勝手に付加してはならない。

 1909年の論文に関しては、完全な正当性をもってこう言うことができるだろう。それを書いたとき、自分が論争対象とした定式がレーニンにとって自足的なものではなく、段階的で準備的な性格をもっていたことを理解していなかった、と。このような批判なら正しいだろうし、それなら受け入れられる。しかし、よりにもよって同志カーメネフやその他の人々は――レーニンに反して――、この動的な定式をドグマに変えてしまい、発展する革命の要求にこのドグマを対置した。まさにレーニンは、彼らのこうした態度が革命の必然的な発展を妨げているのだと説明した。私はただ、レーニンの批判と評価を要約的に、かつきわめて温和な調子で繰り返しただけである。だが、このことからいったいどのようにして、レーニン主義の修正なる傾向を引き出すことができるのか?

 歴史によってとっくに清算された「トロツキズム」にあくまでもこだわろうとする人々は、この問題に関してはせいぜい次のように言いうるだけであろう。トロツキーは序文の中で、民主主義革命から社会主義革命への移行に関するレーニンの立場との一致を表明しているが、その際トロツキーは、永続革命という自分の古い定式を拒否するとはまったく言っていない。ここから、トロツキーは、1917年革命の経験にもとづいて、自分の古い定式をレーニンの精神で解釈しているのだという結論が導き出される、と。これは、この問題に関して引き出しうる唯一の結論であろう。ただし、それは、序文にもとづいてではなく――なぜなら序文では、永続革命の問題そのものが、すでに歴史によって清算されたものとして、そもそも提出されていないからである――、序文を、さまざまな政治的発展段階を反映している私の以前の諸論文と比較することによってのみ可能となる結論である。そしてこのような結論は、ある程度まで正しいだろう。いわゆる永続革命という定式の中で私にとって基本的であったのは、ロシアにおける革命は、ブルジョア革命として始まるが、不可避的に社会主義的独裁によって完成されるという確信にあった。すでに指摘したように、戦術上の中間主義的傾向がボリシェヴィズムから私を引き離し、それに対立させたとすれば、ロシア革命は権力をプロレタリアートに引き渡すだろうという根本的な政治的確信は私をメンシェヴィキに対立させ、多くの諸段階を通じてボリシェヴィズムの陣営へと導いていったのである。しかしながら、これは、われわれが取り組んでいる問題にとって傍論に属する事柄である。いずれにせよ、あたかもレーニンないしボリシェヴィキ党が自分自身の革命論の誤りを確信して「私の」革命論に移行したかのような意見を私に帰させようとする試みを、まったく笑止千万なものとして拒否する。

パルヴス

 しかしながら、前もって認めざるをえないが、20年にもおよぶ期間のさまざまな時期に書かれた引用文を無節操に利用し、これらの引用文を恣意的に組み合わせ、とりわけそもそも一度も言ったことのないような意見を私に押しつけるならば、トロツキズムによるレーニン主義の置き換えなる結論を、その気になればでっち上げることは可能であろう。周知のように、この討論で最も頻繁に聞かされたのは、「ツァーリではなく労働者政府を」という定式である。この間、10人は下らない論文執筆者が(そして数え切れない演説者たちが!)、この政治的に誤った定式を私のものだとしている。しかしながら、言っておかなければならないが、「ツァーリではなく労働者政府を!」という表題をもった有名な宣伝ビラを1905年の夏に執筆したのは、当時国外にいたパルヴス[左上の写真]である(9)。同じ時期、私は非合法にペテルブルクに潜入していて、彼とは何の連絡も取っていなかった。この宣伝ビラはパルヴスの個人的署名入りで国外の出版社から出された。ロシアにいる誰もこのビラを国内で再版しなかった。私はただの一度も、パルヴスのこの簡潔にすぎる定式に対する責任を引き受けたことはない。ちょうどこの時期、私は多くの宣伝ビラを執筆し、その中の比較的重要なものはバクーのボリシェヴィキ秘密印刷所で印刷された(1905年夏)。これらの宣伝ビラの一つは特別に農民に向けられたものである(10)。私が当時書いた宣伝ビラ――その大多数は今や発掘されている――の中のどれにも、革命の民主主義的局面の「飛び越し」を主張しているものはない。それらはいずれも、憲法制定議会と農地革命のスローガンを提起している。

 私を攻撃する諸論文にはこの種の、あるいは同類の誤りが数え切れないほど存在する。しかし、これらの誤りの一つ一つについて論じる必要はない。なぜなら、本来の問題は、私個人がその政治的発展のさまざまな段階で革命の展望と課題をどのように定式化したかにあるのではなく、1924年という現在において、10月革命の歩みと内的に結びついた基本的な戦術上の諸問題をレーニン主義的に正しく分析したかどうかにあるからである。

 誰もこの分野での私の誤りを指摘していない。私は実践的にレーニンと足並みをそろえて10月革命を実行したのと同じく、10月革命の理論的解明においても全面的にレーニン主義の基盤に立っていたのだ。

スハーノフ
 ※原注 批判者の1人は、あろうことか、私が10月革命を…スハーノフ流に評価していると宣言し、それに対照させる形で、スハーノフ[左の写真]の著作に関するレーニンの有名な論文(11)を引き合いに出している。まさに、トロツキズム対レーニン主義というわけだ! だが尊敬すべきこの筆者は、指で宙を撃っている[「まったく的はずれなことをする」の意]のである。1923年2月5日、つまりわれわれがレーニンの批評を知るかなり前、私は『プラウダ』編集部に宛てて手紙を書き、その中でなかんずく、スハーノフの著作を次のように特徴づけている。「この数日、最近出されたスハーノフの『革命記』数巻のうちの1巻をざっと読んだ。この本に対しては、壊滅的な批判を加える必要があるように思われる。インテリゲンツィア的うぬぼれの、これ以上俗悪な戯画を想像することは難しい…。まずもって、彼(スハーノフ)は、ケレンスキーに這いつくばり、ツェレテリとダンを左から支えつつ、存在しうるかぎり最も高潔な生き方を彼らに説教し、そのついでに、ボリシェヴィキに対して正しい革命行動のあり方を説教している。高潔なるスハーノフは、レーニンが7月事件後に姿を隠したことをひどく悲しんだ。彼、スハーノフならそんな真似はけっしてしなかっただろう、というわけだ」…云々。その後『プラウダ』には、私の手紙の趣旨に沿った批評が掲載され、私の手紙の一節すら用いられていた。読者はこのことから、いかに私が「スハーノフ流に」革命を評価する傾向にあったかを見て取ることができるだろう!

  

   5、レーニン主義とブランキズム

 さて次にわれわれは、その意図において最も度はずれたものであると同時に、その根拠の面からして最もナンセンスな非難を検討しよう。私が、なんと、レーニンを「ブランキスト」(!!!)として描き出し、自分を、レーニン的ブランキズムから革命を救い出した者として描いている、というものである。完全に論争で我を失った者だけがこのような非難を加えることができる。

 しかし、このまったく驚くべき「ブランキズム」云々の話に何か根拠らしきものがあるのだろうか? 

 9月、民主主義会議の時期に、レーニンは、潜伏先のフィンランドから中央委員会に宛てて、民主主義会議の開催されているアレクサンドル劇場を包囲し、指導者を逮捕し、ペトロパブロフスカヤ要塞を占領する等々の提案をした。ペトログラード・ソヴィエトの名において9月の時点ではまだこのような計画を実行に移すことは不可能だった。なぜなら、ソヴィエトの諸組織はまだ本格的にボリシェヴィキ化しておらず、このような計画に用いることはできなかったからである。軍事革命委員会はまだ存在していなかった。レーニンの9月提案に関して私の序文は次のように述べている。「こうした問題設定は、蜂起の準備と遂行が党の手によって、党の名においてなされるべきであり、しかる後にソヴィエト大会を通じてその勝利が公的に承認されるべきである、という前提に立っていた」(12)。いったいぜんたい、ここからどうして、私がレーニンの9月提案をブランキズム(!!!)だとみなしたという結論が出てくるのか? この場合のブランキズムとはいったい何のことなのかまったく理解できない。ブランキズムとは、権力を労働者階級にもとづいてではなく、革命的少数派によって獲得する志向として理解されなければならない。しかし、1917年9〜10月の情勢の全核心は、わが党の側に勤労者の多数派がついていて、この多数派の数が明らかに日々増大していたという点にあった。したがって問題は、多数派の支持を得ていたわが党の中央委員会が武装蜂起を自ら組織し、権力を獲得し、ソヴィエト大会を召集し、こうして、すでに成し遂げられた革命を承認することである。この提案に関してブランキズムを云々することは、基本的な政治的諸概念の意味を途方もなく歪めることである。

 蜂起は一つの技術である。したがって、蜂起の課題を解決する方法はいくつかありうる。あるものはより効果的であり、別のものはより効果が薄いであろう。レーニンの9月提案は疑いもなく、敵側の不意を打ち、相手側の忠実な部隊を集結させて反撃に投入する可能性を奪うことができるという点で利点を持っている。9月提案の不都合な点は、それがある程度まで敵の不意を打つだけでなく、労働者と守備隊の一部の不意をも打ち、その隊列の中にためらいを生み、それによってわれわれの攻撃を弱める可能性があったことである。問題は重要ではあるが、純粋に実践的なものであって、ブランキズムとマルクス主義とのあいだの原則的対立に関係する要素はまったくない。中央委員会は周知のように、レーニンの9月提案を受け入れず、私はこの問題では他のすべてのメンバーと同じ投票を行なった。ここで問題になったのは発展の道筋全体を決定することでもなければ、ブランキズム(!!!)とマルクス主義との対立でもなく、蜂起の政治的前提条件が揃っている状況下で、その蜂起のまったく実践的な、かなりの程度技術的な諸条件の具体的な評価である。

 この意味で、私は、レーニンがピーテルの情勢の純実践的諸条件を「地下から」評価せざるをえなかったのだと指摘したのである。この言葉はまったく思いがけない抗議に出くわした。しかし私はここでも、この問題に関してウラジーミル・イリイチ自身が語り書いた言葉を繰り返しただけである。コミンテルンの第3回大会の開会中、レーニンは、その前日にハンガリーの一部の同志たちの度外れた「左翼的」立場を手厳しくたたいたことへの「慰撫」として、次のように書いた。「私は、亡命地にいたとき、一度ならず極度に『左翼的』立場をとったことがある。1917年8月には、再び亡命の身になり、わが党の中央委員会に対して、度外れて『左翼的』な計画を提案した。幸いなことに、この計画は拒否された。まったく当然のことだが、亡命家はしばしば『あまりにも左に行きすぎる』」(13)。見られるように、ウラジーミル・イリイチは、自分自身の計画をあまりにも左翼的なものとみなして、その「左翼主義」を、当時自分が亡命者的な状況下で判断せざるをえなかったことで説明している。したがって、ここでも私はレーニン自身の評価を叙述していただけなのである。

 ※原注 この引用文には小さなミスがある。ここで言われている計画が書かれたのは、8月ではなく、9月である。

 それにもかかわらず、中央委員会によって拒否されたこの計画は、事件の歩みに肯定的な影響を与えた。レーニンは、過度の慎重さや用心深さ、総じてブレーキをかける傾向がふんだんにあることを知っていた。それゆえ、彼は、個々の指導的な党活動家や活動家全体に対し、最も差し迫った実践的課題としての武装蜂起に正面から向き合わせるよう全力を挙げた。レーニンの9月の手紙は、ブランキズム(!!!)とはいかなる共通点もない。それは、党に対する彼の系統的な働きかけの一部であり、蜂起の問題により具体的に、より断固として、より大胆に取り組ませることを目的とした合理的なものだったのである。

 これと密接に結びついて、10月革命に関する他の本質的なエピソードがある。それはケレンスキーがペトログラード守備隊を移動させようとしたことである。このエピソードについて詳しく論じるのは、この点についてすでに述べたことに何か新しいことをつけ加えるためではなく、このエピソードの記述が同志カーメネフによって、ここで私が自分の「正しい」政策をレーニンの「誤った」(ブランキ主義的)政策に対置しているのだと解釈されているからである。この点に関してなされた真に嫌悪すべき結論とほのめかしのすべてを再現するつもりはない。私は序文の該当部分を読み直してみた。もちろん、私になすりつけられた非難を示唆するようなものがそこにはないことを、最初から確信していた。しかし私は序文の中にそれ以上のものを発見した。そこには、ペトログラード守備隊問題と結びついた私の「特殊な」戦略的計画に関して、何らかの誤った解釈を行なうあらゆる可能性を排除する箇所が存在した。序文ではこう書かれている。

 「われわれボリシェヴィキは、ペトログラード・ソヴィエトにおいて権力を握ったあとも、2重権力の方法を継続し深めたにすぎない。われわれは、守備隊の移動という命令を自らの手で修正した。このことによって、ペトログラード守備隊の事実上の蜂起を合法的な2重権力の伝統と手法によって覆い隠した。それだけでなく、煽動の中で権力の問題を第2回ソヴィエト大会に形式上一致させることによって、われわれは、すでに形成されていた2重権力の伝統を発展深化させ、全ロシア的規模におけるボリシェヴィキの蜂起のためにソヴィエト合法性の枠組みを利用したのである」(30頁)(14)

 このように、記述そのものが、個人の名においてではなく、党の名においてなされている(「われわれボリシェヴィキ」)。さらに、守備隊を中心とする闘争の発展がけっして誰かの計画から生じたものではなく、われわれがエスエルとメンシェヴィキから受け継いだ2重権力体制から生じたものであるとされている。ケレンスキーは守備隊を移動させることを望んだ。これは、これまでの慣行によって、ソヴィエトの兵士部会の同意なしにできないことだった。司令部は兵士部会の幹部会に相談したが、そこではすでにボリシェヴィキがしっかりと陣取っていたため、衝突が起こった。この衝突はその後独自の発展過程を経て、10月革命にとってあれほどまで重要な結果をはらむことになった。したがって、守備隊のエピソードは、序文において、事件の実際の歩みと完全に合致した形で記述されているわけである。

 しかしこれはまだすべてではない。まるで、同志カーメネフのような誤った解釈をどんなものであれ排除するために意識的に書かれたかのように、私はさらに序文の中でこう述べられている。「われわれの『計略』は100パーセント成功した。それは、内乱を回避することを望む利口ぶった戦略家の編み出した人為的な思いつきであったからではなく、協調主義体制の解体から、その途方もない矛盾から自然に導き出されたものだったからである(31頁)(15)。したがって、ここで「計略」という言葉が引用符でくくられていることそれ自体が、それが何らかの主観的な計略なのではなく、2重権力から生じた客観的な発展諸関係の結果であることを示している。序文は、ここには「利口ぶった戦略家の編み出した思いつき」はないと直截に述べている。したがって、事件の記述が党の名において、つまりソヴィエトにおけるその代表者の名においてなされているだけでなく、ここで問題になっているのが個人的な思いつきでも個人的な策略でもないことがはっきりと明確に説明されている。いったいどんな根拠があって、私が自分の政策を賛美しレーニンの政策を貶めたなどと主張することができるのか? まったく何の根拠もない。言うまでもなく、フィンランドに潜伏していたレーニンは、守備隊のエピソードが起きた最初の時点からそれを目にすることも知ることもできなかったし、その発展の全段階を追うこともできなかった。もしレーニンが、ペトログラード守備隊の事件の経過をその時点できわめて詳細に、すなわち個人的な観察にもとづいて知ることができたならば、革命の歩みに対する彼の不安は、おそらくより小さなものになっただろうと、想像することは可能である。しかしこのことは、言うまでもなく、彼が実際にかけたような圧力を彼がかけるのを妨げることはなかったろう。彼が、ソヴィエト大会までに権力を獲得することを主張したのは無条件に正しかった。そしてまさにこの彼の圧力のおかげで、権力の獲得が実現されたのである。

  

   6、「複合型の国家」

 10月における意見の相違の中心に位置していたのは、権力獲得のための武装蜂起の問題であった。このレーニン的な問題設定を徹底して理解することなしには、言うまでもなく、10月における意見の相違を理解することはできない。そこで、現在の論争において第一義的役割を果たしている例を通じて次のことを示そうと思う。レーニン主義からの離反を非難している多くの同志たちが、レーニンのことをまともに理解しておらず、権力獲得に関する彼の問題設定をまともに考察していないことである。

ヒルファーディング

 序文の中で、私はことのついでに次のことを指摘した。権力獲得に反対するために「現情勢によせて」(16)という手紙を書いた筆者たちが、1918〜1919年のドイツ革命の一時期、当時独立社会民主党の指導者であったヒルファーディング[右の写真]とほとんど同じ立場をとることを余儀なくされた。ヒルファーディングは、ソヴィエトを民主主義的憲法に書き込むことを提案した。この比較はとりわけ激しい批判にさらされた。その批判点はまず第1に、私がまったく不正確に、そして「不誠実に」さえ、同志カーメネフの立場とヒルファーディングの立場とを結びつけたということである。それと同時に、彼らは、レーニンもソヴィエトと憲法制定議会との結合という趣旨のことを語っていたし、したがって、私は再びレーニン主義を修正している、と証明する。第2に、私は、党がソヴィエト権力のために闘争していたが同時に憲法制定議会も拒否していなかった過渡的時期を理解していないと非難されている。最後に、私自身が、ソヴィエト権力のためのアジテーションをする中で、憲法制定議会の召集について語っていたことが暴露されている。しかしながら、主要な非難は、他のすべての場合と同様、私がレーニンの立場をヒルファーディングの立場に結びつけたということ、すなわちレーニン主義の修正、レーニン主義の矮小化、である。これが本当かどうか見てみよう。この最も重要なエピソードの解明は、1917年における意見の相違の問題に明確な光を投げかけるものである。

 たしかに、党はソヴィエト権力のために闘いながら、それと同時に憲法制定議会の召集のために闘っていた。アジテーションで当時最も人気を博したスローガンは、ソヴィエトによる権力の獲得なしには憲法制定議会は召集されないだろう、だが召集されたなら、それは反革命の道具になるだろう、というものだった。レーニンと党によってまさに次のように問題は立てられた。憲法制定議会に至る道は臨時政府と予備議会を通っているのではなく、プロレタリアートと貧農の独裁を通っている。憲法制定議会は、予備議会の拡大版としてではなく、労農国家の構成部分として実現される、と。ここに問題の核心があった。権力獲得の反対者たちは、蜂起というレーニンの道に、憲法制定議会への希望を対置した。彼らは次のことを証明しようとした(「現情勢によせて」参照)。ブルジョアジーは憲法制定議会の召集を「あえて妨害しない」だろうし、不正選挙を行ないうる状況にもないだろう、と。さらにこう証明しようとした。わが党は憲法制定議会で有力野党になるだろうし、たとえば3分の1の議席を獲得するだろう、と。これは彼らを次のような展望に導いた。

 「実生活(?)に深く根を下ろしたソヴィエトを根絶することは不可能である。……憲法制定議会でさえ、その革命的(?)活動においてはソヴィエトに依拠することしかできない。憲法制定議会とソヴィエト――これこそ、われわれのめざす複合型の国家制度である」(17)

 このように、複合型の国家は、臨時政府と予備議会とそれらによる憲法制定議会の召集を通じて、権力をブルジョア諸階級の手中に残すことにもとづいていたのである。われわれは憲法制定議会で野党としての役割を果たすと同時に、ソヴィエトの与党でありつづける、というわけである。言いかえれば、ここで示されている展望は2重権力の継続である。だが、このような2重権力は、職業的階級協調主義者であるメンシェヴィキとエスエルのもとで一定期間可能であったが、ソヴィエト内でボリシェヴィキが多数派で憲法制定議会では少数派であるという状況下では絶対に不可能であった。

 言うまでもなく、レーニンの立場はこのようなものとはまったく似ても似つかなかった。彼が言ったのは、まず最初に権力をとること、次に憲法制定議会を召集すること、そして必要とあらば、それをソヴィエトと結合すること、である。レーニンの立場は、「現情勢によせて」の筆者たちの立場とどの点で異なっていたか? 革命の根本問題、すなわち権力の問題においてである。レーニンにあっては、憲法制定議会もソヴィエトも同じ階級の――ないし無産階級(プロレタリアートと貧農)の同盟の――機関であった。憲法制定議会とソヴィエトとの結合問題は、レーニンにとって、組織的・技術的性格をもっていた。しかし、彼の反対者にあっては、ソヴィエトはある階級(プロレタリアートと貧農)の機関であり、憲法制定議会は有産階級の機関でありつづけた。このような複合型を目指す路線を堅持することが可能なのは、無権力のソヴィエトが「ブルジョアジーのこめかみにピストルを突きつける」ことができるとか、ブルジョアジーは自分の政策をソヴィエトと「結合する」だろうといった空想的な希望にもとづく場合のみである。まさにこの点にこそヒルファーディングの立場との類似性があったのである。ヒルファーディングは、その最も左傾化した時期に、プロレタリアートの独裁に反対しつつ、ソヴィエトを憲法に書き込むことを提案した。彼にとって、ソヴィエトは、有産階級に対する圧力をかける手段、すなわち、発砲されることのないピストルだった!

 これでもなお明白ではないとでも? とすれば、われわれ全員にとって最も権威のある証言者・解釈者に頼るとしよう。レーニンその人にである。もし私の批判者たちが最初から慎重にこれをやっていたら、彼らは大量の引用文を読者に提供することもなかったろう。[レーニン全集]第14巻を開くと、「同志への手紙」(10月16〜17日)という文献が見出せる。そこには真に注目すべき一節が含まれている。

 「この点では、悲しむべきわが悲観論者たちは言い抜けることはけっしてできない。蜂起を拒否することは、権力をソヴィエトに移すことを拒否することであり、また、憲法制定議会の召集を『約束した』善良なブルジョアジーにいっさいの希望と期待を『移す』ことである。
 ソヴィエトの手に権力がある場合に憲法制定議会の召集が保障され、その成功が保障されるのだということを理解することに何か困難があるだろうか? ボリシェヴィキはこのことを何度も言ってきたし、誰一人、一度たりともそれに反駁しようとはしなかった。そういう『複合型』は誰もが認めていたが、『複合型』という一片の言葉に隠れて、ソヴィエトへの権力の引渡しの拒否をこっそり持ち込むこと、われわれのスローガンを公然と拒否するするのを恐れて、密かに持ち込むこと、これはいったい何なのか? このようなことを特徴づける議会的表現を見つけ出すことができるのか? 
 わが悲観論者に対して巧みな返答がなされた。『それは弾丸の込めていないピストルなのか?』と。もしそうだとすれば、それはリーベルダン[リーベルとダンの一派]の立場に直接移行することである。この連中はソヴィエトは『ピストル』だと千度も宣言し、人民を千度も欺いてきた。なぜなら、彼らの支配下のソヴィエトは無だったからである。
 だがもし『弾丸を込めた』ピストルであるとすれば、これこそ蜂起を技術的に準備することである。なぜなら、弾丸を手に入れなければならないし、ピストルに弾丸を込めなければならないし、そして弾丸だけでは足りないからである。
 リーベルダンらの仲間入りをして、『すべての権力をソヴィエトへ』というスローガンを公然と拒否するか、それとも蜂起を決行するか、どちらかである。中間はない」(第14巻第2分冊、271〜276頁)(18)

 この驚くべき文章を読むと、まるでレーニンが現在の論争の中で発言しているかのように思える。誰かによるこれ以上の説明を待つまでもなく、レーニン自身がこう宣言している、複合型の国家というスローガンに隠れて、彼レーニンの擁護する立場とまったく正反対の政治的思想が「こっそり持ち込まれている」、と。だが私が序文で、2重権力にもとづいた「複合型国家」のレーニン的特徴づけをきわめて穏健な形で繰り返したとき、批判者たちは、私がレーニン主義の旗に隠れて……「トロツキズム」をこっそり持ち込んでいると言い放ったのである。これはまったく驚くべきことではなかろうか? ここには、党内における「トロツキズム」の危険性なるものをでっち上げる全メカニズムが現われているのではなかろうか? 「トロツキズム」(古い、戦前的な意味でのそれ)を、本質的に和解できない諸潮流と和解しようとする試みと理解するならば、権力の獲得なき「複合型の国家」は、まさに先に指摘した意味での「トロツキズム」として解釈することに、完全な理論的正当性があるだろう。私はけっしてこの意味での「トロツキズム」を実行しはしなかったし、今ごろになって、レーニンに対立してそれを擁護しようとも思わない。

 これでようやく問題が明確になったと思うし、そう希望したい。いずれにせよ、私の能力ではこれ以上明確にすることはできない。レーニンを擁護するのに、レーニン自身が行なう以上に明確に行なうことは不可能であろう。しかし、コムソモール員でさえ私の誤りを理解したということでもって私を攻撃する人がいる。残念ながら、コムソモール員は、一部の古参同志たちに追随することによって、10月革命の根本問題、すなわち権力問題に関するレーニンの立場をまともに読んでもいなければ理解してもいないということを暴露したにすぎない。

 「複合型」に関するレーニンの引用は十分われわれの論争に決着をつけているが、この引用は10月半ば、つまり、蜂起の10日前に書かれたものである。しかしレーニンはその後もこの問題に立ち返っている。容赦のない理論的明快さをもって、レーニンは、1917年12月26日に、つまり、先ほど引用した「同志への手紙」の約2ヶ月半後に、この問題における革命的マルクス主義の立場を定式化している。10月蜂起はすでにはるか後方にあり、権力はソヴィエトの手中にあった。そして、レーニンは、どうしてもそうする必要がないかぎり、とっくに過去のものとなった意見の相違を人為的に蒸し返すような人間ではなかったが、それにもかかわらず、12月26日に、つまり憲法制定議会召集の前に、係争問題に立ち返る必要があるとみなした。憲法制定議会に関する彼のテーゼにはこの点に関して次のような文章が見られる。

 「憲法制定議会の問題を、階級闘争や内乱を考慮せずに、形式的・法律的な側面から、普通のブルジョア民主主義の枠内で考察しようとする試みは、直接的なものであれ間接的なものであれ、プロレタリアートの全事業に対する裏切りであり、ブルジョアジーの見地に移ることである。10月蜂起とプロレタリアート独裁の任務を評価することのできなかったボリシェヴィキの一部指導層が陥っているこのような誤りを犯さないよう、すべての者に警告することは、革命的社会民主主義派の無条件の義務である」(第15巻、53頁)(19)

 レーニンは、見られるように、まさに「複合」型の国家をめぐる論争において暴露された誤りを犯さぬよう、すべての者に警告することを無条件的な義務をとみなしている。彼は、蜂起勝利の2ヵ月半後に、きわめて厳しい調子の警告を発する必要があるとみなした。しかしながら、この警告の意味は、一部の同志たちによって半ば忘れ去られ、半ば曲解された。ところが、国際的規模では――したがってわれわれにとっても――この警告は今日においてもその効力を完全に保持している。何といっても、他のすべての共産党はまだこれから[ブルジョア]民主主義国家の実際の転覆という段階を通過しなければならないからである。この課題は巨大な困難をともなう。古い民主主義国においては、この困難はわが国よりも千倍も大きい。公式的にはすべての共産主義者は形式民主主義の「否定」の立場に立っている。しかし、これはまだ問題を決定するものではない。最も重要なことが残されている。それは、国民的習慣に深く浸透している民主主義を革命的に転覆すること、実践の上で転覆することである。

 ブルジョア民主主義的世論の圧力は、この途上において最も強力な抵抗力となるだろう。このことをあらかじめ理解し評価しなければならない。この抵抗は不可避的に、共産党自身の内部にも浸透し、その内部にしかるべきグループの発生を引き起こすだろう。前もって明らかなのは、ブルジョア民主主義との「協調主義」の、最も広範でごく普通の典型的な形態は、まさに権力獲得と蜂起を回避する「複合型の国家」論であろう。これは、すべての状況から、すべての伝統から、すべての階級的相互関係から自然に生じてくる。まさにそれゆえ、この不可避的な危険性に対して「すべての者に警告すること」が必要なのであり、この危険性は、それほど鍛えられていない党にとっては致命的なものになるだろう。まさにそれゆえヨーロッパの同志たちに言っておく必要がある。「見たまえ、ロシアのわが党にあっても、われわれの傑出した党にあっても、民主主義の幻想は、独自の屈折をともなっていたとはいえ、決定的な瞬間にすぐれた革命家たちの意識をもとらえた。諸君にあっては、この危険性ははるかに大きい。それに対する準備をしたまえ。10月の経験を研究したまえ。それを徹底した革命的具体性の中で考察したまえ。それを血肉化したまえ!」。このような警告を行なうことは、レーニン主義を別のものに置き換えることではない。それは、誠実かつ真にレーニン主義に貢献することである。

 同志ジノヴィエフはこう尋ねている。10月革命前および10月革命中、権力獲得に反対した反対派は右派的グループないし右派的潮流ないし右翼なのか、と。この問題に関して――問題と呼べるようなものではないが――同志ジノヴィエフは否定的に答えている。彼の回答は純粋に形式主義的である。ボリシェヴィキ党は一枚岩なので、10月においてそこに右派が存在したはずがない、と。しかし、まったく明らかなことだが、ボリシェヴィキ党は、右派的潮流がけっして生じえないという意味で一枚岩なのではなく、常にうまくそれに対処してきたという意味でそうなのである。時にはそれを[外科的に]切除し、時にはそれを[内科的に]散らして処理した。10月期に起きたのはこの後者の方であった。この点では論争の余地がないように思われる。転換の機が熟したときに、党内にこの転換に反対する反対派が現われたが、それは左からの反対派ではなく、右からの反対派であった。マルクス主義者たるわれわれは、反対派を心理学的に特徴づけること――「動揺」「狐疑逡巡」「断固たる姿勢の欠如」等々――にとどまることはできない。何といっても、この動揺は政治的なものであって、他の何らかの性格をもつものではなかったからである。何といっても、この動揺は、権力のためのプロレタリアートの闘争に対置されていたからである。何といってもこの抵抗は理論的に根拠づけられ、政治的スローガンのもとに実行されていたからである。とすれば、決定的な瞬間にプロレタリアートによる権力獲得に反対した党内反対派を、どうして政治的に特徴づけないですますことができようか。そして、このような政治的評価を自制する必要がどこにあるというのか。そんなことはまったく理解できない。もちろん、問題を心理学的および人格的に立てることも可能である。たとえば、あれこれの同志が、権力獲得に反対したグループを構成したのは、偶然的なものかそうではないのかと。だが私はこの問題にかかわるつもりはまったくない。なぜなら、それは党の発展における諸潮流の評価という地平には位置していないからである。ある同志においては反対が数ヵ月続き、別の同志では数週間続いたという事実は、単に個人的な、経歴上の意義しか持っておらず、その立場そのものの政治的評価に影響を及ぼすものではない。

 反対派の立場は、ブルジョア社会の頭上に死活にかかわる危険性が迫ってきた瞬間に、ブルジョア世論が党に及ぼした圧力を反映したものである。レーニンは反対派の代表者たちを次のように言って非難した。彼らは、ブルジョアジーに関しては楽観主義を、プロレタリアートの革命的力と能力に関しては「悲観主義」を「宿命的に」示している、と(第14巻第2分冊、276頁)(20)。この時期におけるレーニンの手紙、論文、演説を何度も読み返えさなければならない。そうすれば、当時の反対派を、権力獲得に先立つ時期におけるプロレタリア党に対するブルジョアジーの圧力を反映した右派であるとする特徴づけが、それらの文献を貫く赤い糸として現われることを、誰もが難なく確信することができるだろう。しかもこの特徴づけは、右翼反対派との先鋭な直接的闘争の時期にのみ限定されるものではなく、かなり後になってもレーニンによって繰り返されている。たとえば、1918年2月末に、すなわち10月革命の4ヵ月後、左翼共産主義者との「激烈な」闘争の時期、レーニンは、10月期の反対派を「10月の日和見主義者」と呼んでいる(21)。もちろん、このような評価に噛みつくことは可能である。一枚岩的なボリシェヴィキ党の内部に日和見主義者など発生しうるわけがあろうか、と。このような形式的な論拠は、もちろんのこと、問題が政治的評価にかかわるかぎり、まったく無意味である。そして、レーニンによってなされたのは政治的評価なのであり、レーニンはそれを理論的に根拠づけ、それは党内で広く認められるにいたったのである。どうして今さらそれを疑問に付すことができるのか、私にはわからない。

 10月の反対派を正しく政治的に評価することはなぜ重要なのか? それは国際的意義を有しているからである。それはただ、将来になってから完全な意義をもつようになる。ここで、われわれの10月の主要な教訓の一つを詳しく検討しよう。それは今や、ドイツの10月の否定的な教訓の後では、新しい巨大な意義を帯びるようになった。どのプロレタリア革命においても、この教訓にぶつかることになるだろう。

 プロレタリア革命の直面する多くの困難の中には、一つのまったく確定的で、具体的で、特殊な困難がある。それは、党による革命的指導の課題から生じる。事態が先鋭な転換点に至るとき、レーニンが繰り返したように、最も革命的な党であっても事態に立ち遅れ、闘争の昨日のスローガンと方法を新しい闘争課題、新しい要求に対置する危険性がある。そしてプロレタリアートの武装蜂起の必要性を生じせしめるような転換以上に先鋭な転換は、一般にありえない。ここでは、党の指導、党の政策全般と、階級の行動とのあいだに食い違いが生じる。「通常の」状況下では、すなわち、政治生活が比較的緩慢に動いているときには、少々の食い違いがあっても、たしかに損害をこうむるかもしれないが、破局には至らない。だが、先鋭な革命的危機の時期には、食い違いを取り除き、いわば、砲火のもとで戦線を整えるには、時間が不足している。革命的危機が最高度に先鋭化する時期には、その本質そのものからして、嵐のように事態が進行する。革命指導部と革命の客観的課題との食い違い(指導部のぶれ、動揺、待機…)は、しばしば、数週間で、場合によっては数日で、破局をもたらし、何年にもわたって準備された活動の成果が失われる。

 言うまでもなく、指導部と党(階級、情勢全体)との食い違いが正反対の性格を持つ場合もありうる。すなわち、指導部が革命の発展を追い越し、妊娠5ヵ月を妊娠9ヵ月とみなすことである。このような食い違いの最も明白な事例は1921年3月のドイツに見ることができる。このとき、党内で「左翼小児病」が極端な形で現われた。その結果が一揆主義(革命的冒険主義)であった。この危険性は将来においても十分現実的なものである。それゆえコミンテルン第3回大会の教訓は今も完全に有効である。

 他方、昨年のドイツの経験は、それとは反対の危険性の過酷な実物教育であった。情勢は成熟していたのに、指導部が立ち遅れたのである。指導部が情勢に足並みをそろえることに成功しなければ、情勢は変化する。大衆は後退し、力関係はたちまち悪化する。昨年のドイツの敗北においては、もちろん、多くのドイツ的独自性があったが、同時に共通の危険性を示すきわめて典型的な特徴も見られた。それは革命的指導部の危機と呼ぶことができる。プロレタリア党の下部党員は、ブルジョア民主主義の世論の影響を受ける度合いがはるかに少ないが、党の上層と中間層の一部の分子は、決定的瞬間に不可避的に、多かれ少なかれ、物質的・思想的テロに屈服する。このような危険性を一振りでなくすことはできない。もちろんのこと、あらゆる場合にこのような危険性に対抗しうる万能の斧など存在しない。しかし、この危険性と闘争する最初の一歩は、その源泉と本質を理解することである。「10月」期における各国共産党の右派グループの発生(ないし発展)は、一方では巨大な客観的困難と危険性の反映であるとともに、他方では、ブルジョア世論のすさまじい圧力の反映でもある。ここに、右派グループの本質と意味がある。まさにそれゆえ、各国共産党内に動揺や揺れが、まさにそれらが最も危険である瞬間に不可避的に生じるのである。われわれのところでは、この動揺や軋轢は最小限のものにとどまった。だからこそ、10月革命を実現することができたのである。正反対の極に位置していたのがドイツ共産党である。そこでは、革命情勢が見逃され、また、党内危機があまりにも先鋭なものになったため、党の指導機構全体が全面的に入れ替えられる事態にまでになった。他のすべての共産党における各々の「10月」は、間違いなく、この両極のあいだに位置することになるだろう。不可避的に生じる革命指導部の危機を最小限のものに引き下げること、これこそ各国共産党とコミンテルン全体にとっての最重要の課題である。これが可能になるのは、われわれの10月の経験を理解することによってのみであり、わが党内における10月の反対派の政治的内容を理解することによってのみである。

  

   7、当面する諸問題

 過去の評価と教訓から当面する諸問題に移るために、私にとってまったく思いがけない非難、部分的であるがきわめて明確で先鋭な非難から始めようと思う。

 批判者の1人は、何と、私が[レーニンに関する]回想録(22)の中で赤色テロの「責任(?!?)」をレーニンに押しつけているという非難をするに至っている。そもそもこのような考えはいったい何を意味するのか? これは明らかに、革命闘争の武器としてのテロに対する自らの責任を免除しようとする何らかの要求があるということを前提している。このような要求がいったいどこから来ているのか? われわれには政治的にも心理的にも理解できない。たしかに、革命や宮廷クーデターや陰謀などを通じて権力に到達したブルジョア政府は、自分が権力に至った諸状況を忘却のヴェールで覆いたいという要求を常に感じている。自らの「非合法の」過去を粉飾し偽造すること、自分たちが用いた血ぬられた暴力の思い出を過去からかき消してしまうこと、これは――ブルジョアジーが暴力的手段で権力に就きながら、いったん安定し強化され、自己のうちに必要な保守的習慣を培った後には――ブルジョア政府の仕事の不可欠の一部を構成している。しかし、いかにしてなぜ、このような要求がプロレタリア革命家の中に生じるというのだろうか? われわれはすでに国家として7年以上存続している。われわれは、イギリスの最も保守的な政府とさえ外交関係を結んでいるし、貴族の称号を持った大使も受け入れている。しかしわれわれは、わが党を権力に導いた方法を、そして10月の経験として世界革命運動の揺るぎない武器庫に入っている方法を一瞬たりとも拒否しない。革命を救うために革命的暴力に訴えざるをえなかったあのときと同じく、今日においてもわれわれには、自分たちが行使してきた革命的暴力の方法を拒否したり、それについて沈黙したりするいかなる根拠もない。

モスクワ最大の闇市場スハレフカ

 しかり、われわれは貴族の称号を持った大使を受け入れているし、資本主義的な私的取引も認めている。この取引にもとづいて、スハレフカ(23)的な世論が復活している[右の写真はスハレフカ闇市場]。ロシア全土のスハレフカ派はやむをえずソヴィエト権力に従属しているが、それはもちろん、超「不法」で「野蛮な」方法で権力に到達したソヴィエト政府が真に「文明的で」「立派な」民主主義としての体裁を、つまりは保守的なブルジョア権力の体裁をとり、実際にそうなることを夢想している。こうした状況になれば、わが国の発展途上のブルジョアジーのみならず、国際ブルジョアジーも、われわれ自身が過去についてもはや思い起こさなくなると確信して、ソヴィエト権力の「不法な」出自を喜んで許すことだろう。しかし、われわれは一片たりとも自らの階級的本質を変えるつもりはないし、ブルジョア世論に対する革命的軽蔑を不可侵のまま保持するつもりなのだから、われわれには、自らの過去を否認したり、赤色テロに対する自らの責任を「振り払おう」という欲求などまったくありえない。この責任をレーニンに押しつけたいという願望などまったく無価値な発想である。いったい誰がこの責任を彼に「押しつける」ことができるというのか? そんなことをせずとも、すでに彼は引き受けている。10月に対する責任を、革命に対する責任を、赤色テロに対する責任を、内戦に対する責任を――これらすべての責任を、彼は労働者階級と歴史の前で引き受けているし、「永遠に」引き受け続けるだろう。

 それともここで問題にされているのは、何らかの「過剰」や「行きすぎ」なのだろうか? しかし、いったいいいつどこで、「過剰」や「行きすぎ」のない革命があったろうか? いったい何度レーニンは、4月、6月、7月の行きすぎに恐れをなした俗物に対してこの単純な思想を説明したことか! 何であれ、赤色テロに対する責任をレーニンから棄却することはできない。何であれ、誰であれ、だ。たいそう親切な「擁護者」にさえ無理である。赤色テロは革命の必要不可欠な武器であった。それなしには革命は滅びていただろう。革命はこれまで何度となく、労働者大衆の穏健さ、断固たる姿勢の欠如、お人好しのせいで滅びてきた。わが党でさえ、それに先立って鍛え抜かれてきたにもかかわらず、お人好しと革命的楽天さをもった分子を多数かかえていた。革命が直面する途方もない困難、その内的および外的な危険性を、レーニンほど前もって考え抜いていた者はいない。有産階級に対する制裁なしには、歴史上最も激しいテロ的措置なしには、四方を敵から包囲された中でプロレタリア権力を確立することがけっしてできないことを、革命前にレーニンほどはっきりと理解していた者はいない。レーニンは、まさにこのことの理解、そしてそこから生じる張りつめた闘争意志を、少しずつ最も身近な同志たちに注入し、彼らを通じて、そして彼らとともに、党全体と勤労大衆に注入していった。回想録で述べたのは、まさにこのことである。レーニンは、革命の最初の時期、あらゆる所でいい加減さ、楽天性、過度の自信が充満していたときに、迫りくる巨大な危険性と困難を正面に見すえ、革命の性格をより峻厳なものにつくり変え赤色テロの剣によって武装させることによってのみ、革命を救い出すことができるということを、あらゆる機会を通じて同僚たちに教えていった。まさに私が回想録で述べているのは、レーニンの偉大な洞察力、偉大な精神力、革命的非妥協性、その偉大な人間的個性である。私の言葉の中に他の何かを見出そうとすること、テロの責任をレーニンに「押しつける」願望をそこに見出すこと、これは、政治的愚劣さと心理的俗悪さの産物でしかない。

 批判者たちのように安直に毒々しい疑惑を投げつけるるもりならば、こう言うことができるだろう。「ネップ主義」的傾向を見出すべきは私に対してではなく、赤色テロを否定するという考えそのものが頭に浮かぶような人々に対してである、と。スハレフカ派の悪党どもの誰かがこのような非難を真面目に信じて、そこに何らかの希望を見出したとすれば、これは、非難者たちが、スハレフカ派にとって都合のいいトロツキズムの亡霊をでっち上げたということを意味するだけであるって、けっして、このような亡霊とあい通じる何かが私の中にあるということを意味するものではない。

※   ※   ※

 スハレフカ派をもとにした論拠――国内的なものであれ、亡命者的なものであれ――は、総じて、最大限の慎重さをもって扱うべきである。もちろん、あらゆるタイプの敵は、われわれのあいだのどんな意見の相違も、どんな論争も喜ぶし、あらゆる裂け目を広げようとする。しかし、彼らの評価からあれこれの結論を引き出すためには、次のことを検証しなければならない。まず第1に、彼らが自分たちの語っていることをちゃんと理解しているかどうか。なぜなら、知的な敵の真面目で事実に即した確固たる評価だけが徴候的な意義を持ちうるからである。第2に、彼らが、もっぱらわれわれの意見の相違を拡大し論争の火に油を注ぐために、意識的に歪んだ評価をでっち上げていないかどうか。これはとりわけ、亡命者の新聞雑誌に関係している。これらのメディアは何らかの直接的な政治的課題を有していない。なぜなら大衆的な読者などそもそも存在しないからである。これらの新聞雑誌は、主として、自分たちの判断がソヴィエトのメディアに反響を及ぼすことを企図している。

 一つだけ例を挙げよう。それは雄弁な例のように思われる。わが党の新聞は、メンシェヴィキの『社会主義通報』[メンシェヴィキ主流派の亡命新聞]が昨年の論争の時期、「反対派」ないしその個々の分子に大きな期待をかけた、と報道した。私はこの報道の真偽を確かめていないが、ブルジョアジーの民主主義化にすべての希望をかけているダン一派のような慧眼な現実主義者が、今やボリシェヴィキ党のメンシェヴィキ化に期待をかけるようになったということは、大いにありうることである。しかしながら、まったく偶然に右派メンシェヴィキの機関誌『ザリャー』の第7号を開いたら、St・イワノヴィチの論文が、ボリシェヴィキ党の変質に対するダン一派の希望に対して次のように批判しているのを発見した。

 「もしかしたら彼ら(ダン一派)は、この反対派に関して、他のすべての者が知らないことを何か知っているのかもしれない。しかしもし他のすべての者が知っていることしか知らないのであれば、ロシア共産党の反対派の中にこそ独裁に対する最もユートピア的な支持者が、その最も頑強な護教主義者がいることを知らないはずがない。彼らの影響力は、最近の反ネップ的政策やその他の左翼的狂乱の爆発にも見ることができる。これらの『10月』護教主義者の中から、[ダン一派の]政綱の言葉で言えば、『その地位のおかげで、独裁の民主主義的清算を準備する仕事に大きな役割を果たすことのできる……ような分子』が登場してくるなどとどうして言えるのか? 政綱は、以上のことが『成長し階級意識を獲得しつつある労働者運動の圧力のもとで』成し遂げられると述べている。しかし、これはまったく恣意的な仮説であり、しかも、それは政綱の以前にすでに実生活によって反駁されている。まさに長期にわたる嵐のようなストライキの波、しかもしばしば政治的要求をともなったストライキの圧力のもとで、ロシア共産党の反対派は、独裁の強化を、ブルジョアの血を、そして新路線を要求したのである。実生活が示したように、反対派は、独裁の最も札つきのデマゴーグとして際立っているというのに、[ダン一派の]政綱はここに民主主義の要素を見出しているのである。政綱とここまで食い違うとは実生活とは何と不合理なことだろう!」(197頁)。

 わが党の内部問題を論じている拙稿の中で、白衛派メンシェヴィキの悪党の論文からこのような引用をするのは、当然ながら嫌悪感なしにできることではない。この引用文から何らかの政治的結論を引き出そうなどとは毛頭思わない。だが一つだけ言えるとしたら、それは、「亡命者の反応や評価にはもっと慎重であれ! ヨーロッパのブルジョア出版物の判断を安直に引っ張り出すことにはもっと慎重であれ!」ということである。敵の意見を学ぶことは常に有益である。しかし、批判的にそうするべきであり、敵をその実態よりも慧眼な存在であるかのようにみなすべきではない。ブルジョアジーが、われわれの活動の主要な内容を構成している諸問題をまったく理解できないのに当てずっぽうに判断しているということを忘れてはならない。世界の資本主義メディアは、ソヴィエト体制の存続しているあいだずっと、レーニンがロシアを民族的・保守的軌道に引き込もうとしているのに、「左翼」――ブハーリンやジノヴィエフや本論文の筆者などの名前が挙げられていた――が妨げているのだと何度も公言したものだった。これが、プロレタリア独裁の課題に対するブルジョア的思考の愚鈍さ以外の何かを示したものだと言うことができるだろうか? だが、次のような行動はけっしてとってはならない。最初にわれわれ自身の偏った人為的な非難によって、希望に飢えているブルジョア出版物を誤解に導き、その後で、それらの出版物に現われたわれわれ自身の言葉の歪んだ表現を、説得力あるブルジョア的評価であるかのように持ち出すことである。こうして、われわれは、われわれ自身がつくり出した亡霊を現実のものと思い込むのだ!

※   ※   ※

 古い引用文の組み合わせにもとづいた「トロツキズム」の亡霊に何らかの現実性(今日性)を付与するために、批判者たち、とりわけ同志ジノヴィエフは、当面する国内政策の問題を――たしかにきわめて一般的で曖昧な形ではあるが――提起している。この問題に関するいかなる論争も私は提起していない。同志ジノヴィエフはこの問題に関するいかなる具体的な争点も提起していない。私の序文は、この問題をめぐる議論を開始するいかなる論拠も与えていない。私は序文のどの部分でも第13回大会の諸決議に異論を唱えていないし、あらゆる活動の中でそれらの決議を厳格に実行している。しかし、いずれにせよ、私の序文は、ドイツ革命の敗北という地平で解釈されているのではなく、昨年の論争の地平で解釈されている。これとの関連で、序文は、私の「路線」全般の問題を持ち出す口実にされている。

 同志ジノヴィエフは、彼の意見によれば党の路線に反するトロツキーの路線を特徴づけているという一連の論点を提起している。

 まず私が国家における党の指導的役割を弱めようとしていると言われている。私にはこの非難の意味がまったく理解できない。この一般的問題にできるだけ具体的に接近するために、中央委員会の最近の一連の決議を取り上げよう。これは、再び、しかもきわめて厳格な形で、ソヴィエト権力の地方機関を党機関によって代行させることに反対している。この決議は党の役割を弱めるものだろうか? いや、この決議を正しく実行することは、ただ党の役割を強化し強めるだけである。言うまでもなく、この枠内ではただ実践的な意見の相違があるだけである。しかしながら、このような純粋に実践的な意見の相違に関しても、同志ジノヴィエフは、何らかの新しい実例を提出していない。なぜなら、われわれの実践活動にそのようなものはないからである。

 私が党を、イギリス労働党のような、分派とグループの総和に変えようとしているという非難も、同じくまったく理解しがたい。この主張がいかに戯画的なものであるかは、それ自身がおのずから語っている。10月の教訓に関する私の理解が正しいのか正しくないのかは別にして、いずれにせよ、10月革命に関する私の著作を分派的グループ化の道具とみなすことはまったく不可能である。私はこのような目的は立てなかったし、立てようもない。そもそも、支配党である大衆政党の内部に、何らかの歴史解釈にもとづいて「グループ」を形成することができると考えること自体がナンセンスだ!

 「スペッツ[専門家の蔑称]」や財政やゴスプラン等々の問題についても論じるつもりはない。なぜなら、今回、それらに関する論争材料などまったくないし、どの批判者も、この問題を改めて提起する新たな論拠を何ら提示していないからである。

 最後に、私による「農民の過小評価」なる問題が残っている。これは、根本的なもので、私の種々の誤り――その真偽は別にして――の源泉であるとされている。私としては過去については語りたくない。なぜならそれは出口のない泥沼に導くものだからである。ブレスト・リトフスクでの私の誤りについても論じるつもりはない。これは、農民の「無視」から生じたものではなく(むしろ、農民の立場から私は革命戦争に賛成しなかったのである)、ドイツでより急速に革命運動が発展するだろうとの希望から生じたものである。しかし現在と未来に関しては、この基本的非難――無定形なものだが、執拗に繰り返されている非難――について詳しく論じる必要があると考える。

クーシネン
 ※原注 しかし、クーシネン[右の写真]によるブレスト・リトフスクの歴史のまったく醜悪な歪曲については議論しないわけにはいかない。彼にあっては事態は次のようになっている。トロツキーは党からの指令をたずさえてブレスト・リトフスクにおもむいた。その指令は、ドイツから最後通牒が示された場合は条約に調印するというものであった。ところが、トロツキーは勝手にこの指令を破って、調印することを拒否した、と。この嘘はまったく度外れたものである。私がブレスト・リトフスクにおもむいたときにたずさえていた唯一の指令は、できるだけ交渉を長引かせ、最後通牒が突きつけられたときには、交渉を中断してモスクワに引き返し、中央委員会の決定に参加せよ、というものだった。ただちに講和条約に調印するという指令を与えるよう提案したのは同志ジノヴィエフだけだった。しかし、この提案は、レーニンを含む他のすべての者の反対投票によって否決された。他の者はみな、言うまでもなく、これ以上の交渉引き延ばしが条約の条件を悪化させるだろうという点で同意見だったが、このマイナスは煽動上のプラスによってそれ以上に償われるだろうとみなしていた。それでは、私はブレスト・リトフスクでどのように行動したか? 事態が最後通牒にまで至ったとき、私は交渉の中断について協定し、モスクワに帰還し、中央委員会で問題が決定された。私個人ではなく、中央委員会の多数派が調印しないという措置を決定をしたのである。これが、全ロシア党協議会の多数派の決定である。私は、党のまったく明確な決定をたずさえてブレスト・リトフスクでの最後の交渉におもむいた。条約には調印しなかった。このことは、中央委員会の速記録によって難なく確認することができる。クーシネンは、ブレスト・リトフスクの論争をいちじるしく歪めている。もっとも、ここには悪意などなく、単なる無知と無理解があるにすぎないということにしておこう。

 まずもって、あたかも「永続革命」という定式が私にとって何らかの物神崇拝物であるとか、そこからすべての政治的結論――とりわけ農民にかかわるそれ――を引き出している信仰の象徴であるかのような、戯画的思想を拒否しなければならない。このような描き方には一片の真理もない。私が永続革命について書いたのは、革命的諸事件の将来の発展過程を明らかにするためであった。その後、多くの年月が流れ、革命そのものが起こり、ソヴィエト国家の経験がきわめて豊富に展開された。農民に対する現在の私の態度が、わが党の集団的経験と私の個人的経験によって規定されているのではなく、何年も前にロシア革命の発展に関して私がどのように想像していたかという理論的回想によって決定されているなどと、真面目に考えることができるだろうか? 何といってもその間に、帝国主義戦争があり、ケレンスキー主義、土地委員会、農民大会があり、右翼エスエルに対する闘争があり、それらからわれわれは何事かを学んだ。スモーリヌィでの絶え間ない兵士代表会議の時期、われわれは武装した農民に対する影響力を獲得するために闘った。ブレスト・リトフスク講和のエピソードでは、古参ボリシェヴィキに指導されていた党のかなりの部分は、「永続革命」とは何の関係もなかったにもかかわらず、革命戦争をあてにした。この誤りから全党は多くのことを学んだ。赤軍建設の時期には、一連の経験と試みを通じて、労働者と農民との軍事的同盟関係をつくり出した。穀物徴発の時期には、深刻な階級的衝突が生じた…。その後、党は中農に顔を向ける政策を採用し、この路線はしだいに党の方向性のきわめて大きな変化をもたらした。言うまでもなく、原則的基盤は変わらなかったが。さらにその後、穀物取引の自由化とネップへと移行した。この移行には、そこから生じるあらゆる結果をともなった。

 いったい全体、われわれがみな多くのものを摂取したこれらすべての巨大な歴史的経験を秤の一方の皿に放り込み、他方の皿に、いつでもどこでもどんな条件でも常に私を農民の過小評価に導くとされている永続革命の古い定式を放り込む、などということが可能だろうか? そんなことはありえないし、まったく非現実的である。私は、永続革命の定式に対するこのような神学的態度をきっぱりと拒否する。この定式そのものは、革命のとっくに過ぎ去った段階を表現しているにすぎない。これが引っ張り出され、振り回されたのは、そうしないと、今日における「農民の過小評価」を根拠づけることができず、「トロツキズム」の亡霊をでっち上げることが困難だったからにすぎない。

 労農監督部に関する論文の中で、レーニンは、ある一定の状況下においては党分裂の源泉になる基本的な政治的危険性は、二つの基本的階級であるプロレタリアートと農民とのあいだの分裂であり、両階級の協力は10月の獲得物を維持し発展させるために無条件に必要なものであると書いている。二つの基本的階級の利益の観点からこの危険性にアプローチするならば、次のように言わざるをえない。労働者と農民の物質的利益をある程度均衡させることによってしか、ソヴィエト国家の政治的安定性を確保することはできない。この均衡を支配党は、絶えず変化する条件の中で確立せざるをえない。なぜなら、国の経済水準は変化するし、この2人の組合員のそれぞれが共同事業に出資する金額が変化するし、私的資本が両者から盗み出す分量も変化し、これらの同盟者のそれぞれが共同事業から受け取る分け前も変化するからである。こうした具体的な諸条件における農民の真の過小評価ないし、農民に対する真の不注意とは何であろうか? それは、この2人の同盟者のうちの指導的部分であるプロレタリアートが、党を通じてできるだけ急速に自らの基盤である工業を確保しようとして、あるいは文化水準を引き上げようとして、あまりにも大きい重荷を農民に課してしまうことである。これは政治的分裂をもたらすだろうし、その場合のイニシアチブは農民の側がとることになるであろう。このような拙速で視野の狭い傾向が現われたとき、われわれは一度ならずそれを共産主義的なものではなく、同業組合的、労働組合主義的な傾向と特徴づけた。国民経済全体におけるプロレタリアートの現在の取り分の問題――この問題はもちろんきわめて重大であるが――は、社会主義建設の前提条件であるプロレタリアート独裁を維持する問題に優先させることはできない。このことについては、われわれはみな同意しているはずである。そして、それは何も昨日今日の話ではない。

 しかし、われわれ全員にとって、まったく明らかなことはもう一つある。それは、分裂という同じ歴史的危険性が正反対の極からもわれわれに迫ってくる可能性があることである。同盟を維持するためにあまりにも大きな犠牲をプロレタリアートの側が払わなければならないような状況になったときには、そして、自らの政治的独裁を維持するためと称してあまりにも大きな階級的自己犠牲を労働者階級が長年にわたって払わなければならないという結論に至ったならば、反対の極からソヴィエト国家が掘りくずされることになるだろう。

 プロレタリアートと農民との分裂をもたらす同じ歴史的危険性のこうした二つの極について語っているのは、もちろん、そうした危険性が現実的で目の前に迫っているとみなしているからではない。われわれの誰もそんなことは考えていない。われわれは、今日の政策決定においてより正しい方向性を定めるために、これらの危険性を歴史的展望の中で取り上げている。まったく議論の余地がないのは、この政策は機動的なもの[状況に応じて弾力的に対処すること]でしかありえない、ということである。すなわち、川底を注意深く調べ、ありうる浅瀬を避け、左右の両岸を慎重に測って進むことが必要だということである。同じく議論の余地がないのは、現段階においては、諸利益の均衡が何よりも農村に損失をもたらす形で破壊されていることであり、経済においても政治においてもこのことに真剣に取り組まなければならない、ということである。

 以上述べた全般的な考察は何よりも、工業の発展とその発展テンポの問題にかかわっている。

 ソヴィエト国家が労働者と農民の同盟にもとづいて維持されているとすれば、プロレタリアートの社会主義的独裁は国営工業と国営輸送にもとづいて維持されている。社会主義独裁なきソヴィエト国家は、「魂」なき身体のようなものである。それは不可避的にブルジョア的変質をこうむるだろう。社会主義的独裁の基礎としての工業は、しかしながら、農業に依存している。しかし、この依存は相互的である。農業もまた工業に依存している。これら二つの構成部分のうち、より能動的な(前進的、推進的)原理は工業である。ソヴィエト権力が農村に行使することのできる最も強力な働きかけの手段は、工業と輸送である。働きかけの他の手段は、それ自体非常に重要なものだが、それでもやはり2次的、3次的なものである。国営工業の役割の正しい発展なしには、農村に対するその組織的働きかけの強化なしには、他のすべての措置は結局のところ無力なものになってしまうだろう。

 工業の発展テンポ――その加速は、都市にとっても農村にとっても利益になる――は、言うまでもなく、われわれの善意に依存しているものではない。ここでは客観的な限界が存在する。農業の水準、工業自身の設備の水準、手持ちの運転資金、国の文化水準、等々。これらの限界を人為的に飛び越えようとすれば、もちろんのこと、手痛いしっぺ返しを受けるだろうし、一方ではプロレタリアートに、他方では農民に打撃を与えるだろう。しかしそれにけっして優るとも劣らぬ危険性は、工業が国の経済発展から立ち遅れることである。これは、不可避的に、商品飢饉と小売価格の高騰という現象をもたらし、それはそれで不可避的に私的資本を富ませるだろう。したがって、社会主義的蓄積と工業発展のテンポは、別方向からも制限されている。すなわち、一定の上限によってだけでなく、一定の下限によっても制限されている。この下限は、内部からは私的資本との競争によって、外部からは世界資本の圧力によって直接的に規定されている。

 わが国の発展全体から出てくる危険性は、二面的な性格を有している。工業はあまりにも前に先走りすることはできない。なぜなら、その場合、そのための国民経済的基盤がないからである。しかし、同じぐらい危険なことが残されている。工業のどんな遅滞も、どんな怠慢も、工業と競争している私的資本の成長、農村におけるクラークの成長、農村に対するクラークの経済的・政治的影響力の増大を意味するだろう。工業の立ち遅れは、力関係を都市から農村に移動させ、農村内部では、貧農から新しいソヴィエト・タイプのクラークに移動させるだろう。重心のこうした移動はプロレタリアートを弱め、その後、労農同盟の維持の名のもとに、プロレタリアートに対し、さらなる経済的・政治的譲歩を余儀なくさせるだろう。しかし、まったく明らかなことだが、この道をそのまま進んでいけば、プロレタリアート独裁からその社会主義的内容が抜き取られてしまうだろう。

 このように、プロレタリアートが何千万もの小商品生産者にもとづいて社会主義建設を遂行しているというわが国の経済発展の過渡的段階から生じるすべての困難と危険性は、全体としても、個別的に見ても、すでに述べたように、つねに一面的な性格ではなく、二面的な性格を有している。工業のあまりに急速な発展テンポを追い求めることも危険であるし、その発展のあまりに緩慢なテンポも危険である。

 以上の考察は、まったく議論の余地のないものであると思われる。あるいは、それがあまりにも一般的であると非難することはできるかもしれない。しかし、はるかに一般的で漠然としていて、しかもはなはだしく一面的なのは、農民の過小評価なる非難である。農民それ自体を独立に「評価」するのではなく、諸階級の動的な均衡という枠内で評価しなければならない。プロレタリアートと農民の利益を調和させるうえで、どこまで進んでよくて、どこで止まらなければならないかを語ってくれるような出来合いの数学的定式など、この世には存在しない。つねに能動的な機動策を通じて、状況にあった方向性を定め、手探りで進まなければならない。このような機動策は、わが党にあっては、けっして無原則的なジグザグ行動の性格をもつものではなかったし、今後もそうではない(メンシェヴィキや無政府主義者はそのように描き出しているのだが)。われわれの機動作戦は、経済においても政治においても、労働者と農民の同盟にもとづいて、プロレタリア独裁を保障し、したがってまたさらなる社会主義建設の可能性を確保する一連の措置へと帰着する。これこそわれわれにとっての最高の基準である。

 「農民の過小評価」という執拗かつ誤った一面的非難は、不可避的に別の懸念を生み出すがゆえになおさら有害である。その懸念とは――無論まったく根拠のないものだが――、あたかもそうした非難が、社会主義的独裁から農民・労働者民主主義の側への路線転換を理論的に準備するものではないかというものである。もちろん、これはナンセンスだ! わが党は、機動作戦の自由を完全に保持しつつも、社会関係の社会主義的改造という綱領によって上から下まで一致団結している。これこそ、われわれがみな心を一つにして最後まで遂行することを義務づけられたレーニンの主要な遺訓である。そしてわれわれはそれを遂行するだろう!

L・トロツキー

1924年11月

『トロツキー・アルヒーフ』第1巻所収

『トロツキー研究』第41号より

  訳注

(1)チヘイゼ宛てのトロツキーの手紙……『トロツキー研究』第38号に訳出。

(2)トロツキー「10月の教訓」、『トロツキー研究』第41号、41頁。

(3)同前、101頁。

(4)同前、103頁。

(5)同前、49頁。

(6)同前、44〜45頁。

(7)レーニン「戦術に関する手紙」、邦訳『レーニン全集』第24巻、28頁。

(8)トロツキー「われわれの意見の相違――1905年、反動、革命の展望」、『わが第一革命』、現代思潮社、所収。

(9)パルヴス「ツァーリではなく労働者政府を」、『ニューズ・レター』第13号、所収。

(10)トロツキー「農民たち、われわれの言葉を諸君に!」、前掲『わが第一革命』所収。

(11)レーニン「わが革命について(エス・エヌ・スハーノフの著作について)」、邦訳『レーニン全集』第33巻。

(12)前掲「10月の教訓」、『トロツキー研究』第41号、84頁。

(13)レーニン「コミンテルン第3回大会の戦術委員会の会議参加者たちへ」、邦訳『レーニン全集』第45巻、222頁。

(14)前掲「10月の教訓」、『トロツキー研究』第41号、88頁。

(15)同前、88〜89頁。

(16)ジノヴィエフ、カーメネフ「現情勢によせて」、トロツキー『ロシア革命――「10月」からブレスと講和まで』、つげ書房新社。

(17)同前、197頁。

(18)レーニン「同志への手紙」、邦訳『レーニン全集』第26巻、199〜200頁。

(19)レーニン「憲法制定議会についてのテーゼ」、同前、391〜392頁。

(20)前掲「同志への手紙」、同前、200〜201頁。

(21)レーニン「革命的空文句について」、邦訳『レーニン全集』第27巻、11頁。

(22)トロツキー『レーニンについて』、モスクワ、1924年。邦訳はトロツキー『レーニン』(河出書房新社および読売新聞社)

(23)スハレフカ……モスクワにある最大級の闇市場の俗称で、ここでは、市場化の徹底によるソヴィエト権力の変質を望んでいるブルジョア反革命の潮流を象徴させている。

 

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