中央委員会総会(1月総会)への手紙

 トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、1923年末に繰り広げられた「文献論争」を受けて、トロツキーが自ら軍事人民委員と革命軍事会議議長の辞任を表明した1月総会宛ての手紙である。この手紙の中でトロツキーは、「文献論争」で向けられた多くの誹謗中傷のいくつかに反論しているが、全体としてのトーンは抑制的で防衛的である。この1月総会で、フルンゼがトロツキーに代わって軍事人民委員に就任した。トロツキーは3ヵ月後、利権委員会などの経済関係の2級の地位に退いた。

 Л.Троцкий, Пленаму ЦК РКП(б), Известия ЦК КПСС, No.8, 1991.


 尊敬する同志諸君!

 来たる中央委員会総会の議題の第1項目は、トロツキーの「攻勢」に関する地方諸組織の決議の問題を立てている。私は病気のせいで中央委員会総会の活動に参加することができないので、問題の検討を容易にするために、以下のような簡単な説明をしておこうと思う。

 、私に向けられた非難、すなわちあたかも私が、「レーニン主義の修正」やレーニンの役割の「引き下げ」(!)という目的を追求していたかのような非難に対して、原則的かつ事実に即した説得力ある反論を論争の中で提起することは可能であると思っていたし、今もそう思っている。しかしながら、私はこの点に関する説明を断念せざるをえなかった。それは病気のせいだけでなく、現在の論争の状況下では、このテーマに関する私のいかなる発言も、その内容や性格や調子にかかわりなく、論争のさらなる激化のきっかけになるだけであり、論争を一方的なものから両方からの応酬に変え、その論争の性格をいっそう先鋭なものにするだけであるからである。

 現在でも、論争の全過程をふまえたうえで、私は、この論争のあいだ中、不当でまったく途方もない非難が大量に浴びせかけられたにもかかわらず、沈黙を守ったことは党全体の利益からして正しいものであった、と考えている。

 、しかしながら、私が何らかの特殊な路線(「トロツキズム」)をとっていたとか、レーニン主義を修正しようとしたといった非難を受け入れることはけっしてできない。私がボリシェヴィズムに至ったのではなく、ボリシェヴィズムが私の方にやってきたのだという主張が私に帰せられているが、それはまったく途方もないものである。序文の中で私は直接こう述べている(42頁)()。ボリシェヴィズムが革命に向けて準備をなしえたのは、ナロードニキ主義やメンシェヴィズムに対する仮借ない闘争によってだけでなく、「調停主義」、すなわち私が属していた潮流に対する仮借ない闘争によってでもある、と。この8年間というもの、どんな問題であれいわゆる「トロツキズム」という観点から検討したことは一度としてない。「トロツキズム」なるものはとっくの昔に政治的に清算されたと思っていたし、今もそう思っている。わが党の前に提起されたあれこれの問題において私が正しかったこともあれば誤っていたこともあったが、それらの問題を判断する際に、私は常にわが党の全般的な理論的・実践的経験に立脚していた。この間一度として、私のあれこれの思想や発言が「トロツキズム」という特殊な潮流を示すものだというようなことを言った者はいなかった。まったく思いがけないことに、1917年に関する私の著作をめぐる論争の中ではじめてこのような言葉が聞かれるようになったのである。

 、これとの関連で最も大きな政治的意義をもっているのは、農民の過小評価の問題である。完全に過去のものとなっている「永続革命」という定式があたかも、何らかの程度でソヴィエト革命における農民への不注意な態度を生み出しているかのように言う主張を私はきっぱりと拒否する。そもそも10月革命後に「永続革命」の定式に個人的理由で立ち返る機会がたとえあったとしても、それはイストパルト[党史研究所]に、すなわち過去にかかわるものであって、現在の政治的課題を解明するものではない。この問題をめぐって非和解的な矛盾を打ちたてようとする試みは、私見によれば、われわれが共同で遂行してきた革命の8年間の経験の中にいかなる正当な根拠も見出せないし、将来の課題の中にも見出せない。

 同じく私は、西方における革命の歩みが遅延している際のわが国の社会主義建設の運命に対する私の「悲観主義的」態度なるものを持ち出す指摘も拒否する。資本主義による包囲から生じるあらゆる困難にもかかわらず、ソヴィエト独裁の政治的・経済的資源はきわめて大きい。私は、党の委任にもとづいて再三再四この思想を展開しその正当性を主張してきた。とりわけ国際大会の場においてである。そしてこの思想は、歴史的発展の現在の時期にとっても完全に有効であると思う。

 、第13回党大会で決着を見た係争問題に関して、私は中央委員会でも労働国防会議でも、また党とソヴィエトの指導機関の外部ではなおさら、すでに解決済みの問題を直接的であれ間接的であれ提起するような提案をしたことは一度としてない。第13回大会後、経済、ソヴィエト、国際関係のさまざまな新しい課題が生じてきた、あるいはより明確な姿を現わすようになった。これらの問題の解決は特別な困難をともなっている。これらの問題を解決する上で、党中央委員会の活動に何らかの「政綱」を対置するような試みは、私にとってまったく無縁なものだった。政治局や中央委員会総会や労働国防会議や革命軍事会議などの会合に出席していたすべての同志たちにとっては、この私の主張はまったく証明を要しないものである。第13回大会で解決された係争問題は最近の論争で再び提起されたが、それは私の活動と無関係な形で出されているだけでなく、現時点で判断しうるかぎりでは、党の政策の実践的諸問題を無関係な形で出されている。

 、この間の論争において形式的な口実になっているのは私の著作『1917年』の序文であるが、それに関しては何よりも、私があたかもこの著作を中央委員会に隠れて印刷に付したという非難について答えておかなければならない。実際には、この著作は、私の他のすべての著作、および他の中央委員会メンバーの著作、総じてすべての党員の著作とまったく同じ条件にもとづいて印刷された(印刷されたのは私がカフカースで療養している時だった)。もちろん、中央委員会は、党出版物に対するあれこれの規制手続きを確立している。しかし、私はいかなる面でもまたいかなる程度でも、これまで制定された規制手続きに違反していないし、言うまでもなく違反するいかなる理由も存在しない。

 、「10月の教訓」は、これまでも私が何度も語ってきた、とりわけこの1年間に語ってきた思想をさらに発展させたものである。ここでは次の報告と論文だけを挙げておこう。「ヨーロッパ革命への道」(チフリス、1924年4月11日)、「東方における展望と課題」(4月21日)、「西方と東方におけるメーデー」(4月29日)、「新しい転換点」(『コミンテルンの5ヵ年』への序文)、「われわれはどの段階にいるか」(6月21日)、「内乱の諸問題」(7月29日)。

 以上列挙したすべての報告は、1923年秋のドイツ革命の敗北に触発されたものであり、『プラウダ』、『イズベスチヤ』やその他の出版物に掲載された。中央委員の誰も、ましてや政治局全体は、ただの一度もこれらの著作物の誤りを私に指摘しなかった。同じく『プラウダ』編集部も私の報告にいかなる注解もつけなかったし、あれこれの点で不同意であるという指摘をただの一度も私にしていない。

 言うまでもなく、私はドイツの事件と結びつけた10月革命の分析を「政綱」などをみなしていないだけでなく、それを誰であれ「政綱」とみなしうるという考えそのものを認めるわけにはいかない。それは「政綱」ではなかったし、そうではありえない。

 、現在、非難の対象に私の他の著作――その中にはすでに何度も版を重ねたものも入っている――も引き入れられているが、政治局全体だけでなく中央委員の誰1人として、これまで一度も、あれこれの論文や著作がレーニン主義の「修正」として解釈しえるものであると指摘しなかったことを確認しておかなければならない。とりわけ『1905年』という著作がそうである。同書は、ウラジーミル・イリイチが元気であったときに出版され、何度も版を重ね、党出版物によって熱心に推奨され、コミンテルンによって外国語に翻訳されたものだが、今ではレーニン主義の修正という非難の主要な根拠にされている。

 、以上述べたことは、すでに最初に指摘したように、総会が議事日程の最初の項目である問題を解決するのを容易にすることを唯一の目的としている。

 論争の中で何度も繰り返された非難――「特別の立場」を党に押しつけようとしている、規律に従おうとしない、中央委員会によって委任されたあれこれの仕事を拒否している、等々――に関してだが、これらの主張の評価には深入りすることなく、次のような断固とした声明をしておこうと思う。私は、どのようなポストであろうと、あるいはいかなるポストの外部でも、中央委員会によって与えられた任務を何であれ遂行する用意があるし、言うまでもなく党のどんな形の統制のもとでもそれを遂行するつもりである。

 とくに、論証するまでもないことだが、最近の論争の後では、私を革命軍事会議の議長職からできるだけ速やかに解任することが事業の利益にかなっているだろう()

 最後につけ加えておかなければならないが、必要とあらばあれこれの問題に答えたり必要な説明をするために、総会が終わるまではモスクワを離れないつもりである。

               エリ・トロツキー

             1925年1月15日

                  クレムリン

   1925年1月20日付『プラウダ』に掲載

 『ソ連共産党中央委員会通報』1991年8月号所収

『トロツキー研究』第41号より

  訳注

(1)トロツキー「10月の教訓」、『トロツキー研究』第41号、103頁。

(2)トロツキーは同月、軍事革命会議議長と軍事人民委員の職を解かれた。

 

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