83人の声明

――ソ連共産党中央委員会へ

トロツキー、ジノヴィエフ、スミルガ、エフドキーモフ他/訳 西島栄

スミルガ

【解題】1926年10月16日の声明以来、反対派の闘争はかなり沈静化し、合法舞台における反対派指導者の演説という形でしか論争は継続していなかった。その間に、スターリニスト派の包囲網はじりじりと反対派を締め上げ、反対派を守勢に追い込んでいた。そうした中で、この党内闘争を一気に再び燃え上がらせ、ついには最終決裂へと事態をもっていく大事件があいついで国外で起きた。(左の画像は合同反対派の指導者の一人、イヴァール(イワン)・スミルガ)

 まず、イギリスでは、スターリン=ブハーリン派が西欧におけるソ連の影響力の拠点にしようとしていた英露委員会が最終的に破綻した。ソ連側委員の熱心な努力にもかかわらず、イギリスの総同盟幹部は英露委員会の利用価値がなくなると判断するや、英露委員会からの離脱を一方的に宣言し、英露委員会は崩壊した。しかし、この事件も地理的にその反対側である東洋で起きた大事件に比べれば、はるかに小規模のものであった。

 中国では、ブルジョア民主主義革命における農民や民族ブルジョアジーとの協力という公式路線の一環として1920年代半ばから国民党への共産党員の集団入党という形での国共合作が追求されていたが、この路線は、1927年4月12日における蒋介石の上海クーデターによって、劇的な形でその破綻を証明した。その数週間前の1927年3月に急速に中国で革命的高揚が起こり、上海労働者は一時的に上海の支配権さえ握るところまでいっていた。しかし、国民党との協力関係を維持することこそが東方におけるソ連の安全確保にとって決定的であると考えていたソ連共産党指導部は、コミンテルンの指令を通じて上海の共産党員たちに武器を下ろさせ、引き続き国民党の指導に従うよう強要した。中国共産党はその指令にしぶしぶ従った。蒋介石はこの機会を逃さず、クーデターを起こして、上海労働者を粉砕し、中国共産党員を虐殺したのである。これは、一時的に沈静化していた反対派の闘争を一気に、そしてかつてなく激しく燃え上がらせるのに十分な大事件だった。

 この83人の声明(『トロツキー研究』では「84人の声明」と表記したが、当初は「83人の声明」と称されていたので、ここでは「83人の声明」と表記しておく。ただしその後「84人の声明」とも呼ばれるようになった)は、こうした背景の中で、再度、党のスターリン=ブハーリン派に対する全面的な闘争を布告するものであった。この声明の中で合同反対派は、中国問題と英露委員会問題における大失敗を、スターリン=ブハーリン派の日和見主義的な一国社会主義路線の犯罪性を示す最たるものであると指摘した。さらに、反対派は、この声明の中では、失業者の問題や官僚主義の問題、農村の階層分化の問題、工業化の問題など、これまで論点としてきた一連の諸問題を再度提起し、これらの問題が解決するどころかいっそう悪化していることを明らかにした。

 この声明はかくして、反対派の除名へとまっすぐ結びつく最終闘争の幕開けとなるのである。

 Л.Троцкий, Г. Зиновьев…, В Центральный Комитет ВКП(б): Заявление 83-х, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР, Том.3, 《Терра−Терра》, 1990.


  同志諸君

 中国革命に対する指導の中でなされた、あるいは容認された重大な誤りは、深刻な敗北をもたらした。この敗北から脱出することができるのはレーニンの道に回帰することによってのみである。中国革命と結びついた諸問題を討議するさいのきわめて不正常な状況は、党内に途方もなく緊迫した状況をつくり出した。『プラウダ』や『ボリシェヴィーク』の紙面で展開されている一方的な「討論」と、反対派の見解に対する意図的な歪曲(たとえば、国民党からの離脱要求を反対派に帰していること(1))は、中央委員会の指導グループが反対派を迫害することによって自らの誤りを覆い隠そうとしていることを物語っている。これらすべては党の注意を誤った方向に向けるものである。

 以上のことにかんがみて、同じく党の諸政策の基本的諸問題における中央委員会の他の誤りをかんがみて、われわれは中央委員会に、この声明を発することがボリシェヴィキ・レーニン主義者の義務であるとみなすものである。

※  ※  ※

 、問題は、われわれが中国で大敗北を喫した事実にあるだけでなく、いかにしてなぜ敗北を喫したのか、ということにある。

 中国でわれわれはすでに強力な労働者階級を有していたにもかかわらず、上海のプロレタリアートが最も困難な状況下で蜂起に立ち上がり都市を占拠したにもかかわらず、また中国プロレタリアートが中国において反乱農民という強力な支持者を有していたにもかかわらず、つまり一言でいえば、「中国の1905年」(レーニン)が勝利するすべての前提条件が存在していたにもかかわらず、実際に起きたのは、中国の労働者がブルジョアジーのために火中の栗を拾うことであった。それは、これまでのところ、1848年革命のときにドイツ労働者が運命づけられた役割と同じ役割を果たすものであった。

 中国労働者(何よりも上海と漢口の労働者)を武装させるために必要なすべての前提条件はそろっていた。それにもかかわらず、上海の英雄的プロレタリアートは非武装のまま置かれており、漢口が「左翼」国民党の支配下にあるにもかかわらず、漢口の労働者の大部分は現在も武装されていない。

蒋介石

 中国における「指導」は、実際次のことに帰すものであった。労働者を武装してはならない、革命的ストライキを組織してはならない、農民を地主に対して徹底的に立ち上がらせてはならない、日刊の共産党新聞を発行してはならない、右翼国民党のブルジョア紳士と「左翼」国民党の小ブルジョア紳士を批判してはならない、蒋介石[左の写真]の軍隊内に共産党の細胞を組織してはならない、ソヴィエトのスローガンを掲げてはならない――それはブルジョアジーを「反発させない」ためであり、小ブルジョアジーを「驚かせない」ためであり、「四民ブロック」政府を狼狽させないためである、と。それに答えて、それへの感謝を込めて、中国「民族」ブルジョアジーは、好機をとらえて、容赦なく中国労働者を銃殺し、今日は日本の帝国主義者の支持を訴えた。明日にはアメリカ帝国主義者の、あさってにはイギリス帝国主義者の支持を求めるだろう。

 全世界の共産党(ソ連共産党の広範な部分を含む)では、中国での敗北のせいで、巨大な士気阻喪が支配している。つい昨日までは、中国の国民党軍は赤色の革命軍であり、蒋介石はその革命的指導者であり、中国は今日明日にでも発展の「非資本主義的」道を進むだろうと断言されていた。だが今日、ボリシェヴィズムの真にレーニン的な路線に対する闘争の中で、次のようなまったく救いがたい諸論文が掲載されている。中国にはまったく工業がなく、鉄道も道路もないとか、中国は封建時代の最初の段階さえまだ通過していないとか、中国人はみな読み書きができないとか、中国ではプロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁の綱領やソヴィエトを提起するのは早すぎる、といった内容である。彼らは誤りを是正する代わりに、それをいっそう深刻なものにしている。

 中国の敗北は近い将来、最も直接的な形でソ連の運命にも反映されるだろう。もし帝国主義諸国が中国を長期にわたって「平定」することに成功したならば、彼らはその次にはわが国に、ソ連に進行するだろう。中国革命の敗北はソ連に対する戦争を途方もなく近づけうる。それにもかかわず、党は中国問題を討議する可能性を奪われている。この問題は今や党にとって、すなわちコミンテルンの第一の党にとって最も重要な問題だというのにである。中国革命の諸問題の原則的討議は禁止された。そして、それと同時に、凶暴な討論が一方的な形で行なわれている。それは、中国革命の指導的中核の誤った路線を隠蔽する目的で反対派を迫害することに向けられている。

 

 、イギリスにおける昨年のゼネストは、イギリス総評議会によって裏切られ売り渡され、敗北を喫した。炭鉱夫のストライキも敗北で終わった。何百万という大衆が左に動いたのにもかかわらず、改良主義者の裏切りと醜悪さがイギリスの大ストライキのときほど完全に暴露されたことがなかったにもかかわらず、イギリス労働運動の組織された革命的翼はきわめてわずかしか利益を獲得しなかった。この基本的原因は、われわれの側からの不決断で首尾一貫しない中途半端な指導にある。ソ連の労働者からイギリスの炭鉱夫に送られた金銭的援助は巨大なものだった。だが、英露委員会の問題における中央委員会の戦術はまったく間違っていた。わが国は、ゼネストと鉱夫ストライキ中の最も危機的な数週間・数ヵ月間に総評議会の裏切り者たちの権威を支え、彼らがその権力を維持するのを助けた。そして、ついにはわが国は、最近のベルリン会議の場で総評議会をイギリス・プロレタリアートの唯一の代表者と認めることによって(それどころかイギリス・プロレタリアートの見解を代表する唯一の存在と認めることによって)、総評議会に屈服し、イギリスの労働運動の内部問題への不干渉をうたう「諸原則」にサインしたのである。

 中国の事件を背景にすると、英露委員会の最近の会議の決定はきわめて不吉な意味を帯びてくる。すべての国際通信を通じてトムスキーやその他の全ソ労働組合中央評議会の代表者たちは、ベルリンでの会議が「心のこもったもの」となり、すべての決議が「全会一致」で決定され、これらの決議は国際プロレタリアートの勝利だ、云々と宣言した。

 こうした偽りと嘘は世界労働運動を新しい敗北に導くだけだろう。

 英露委員会のベルリン協議会では、中国におけるイギリス帝国主義の強盗的役割について一言も語られず、帝国主義軍隊の中国からの撤退要求さえ提起されなかった。中国において中国革命に対する帝国主義者の戦争が開始されたまさにそのときに、英露委員会は犯罪的にも沈黙した。すなわち、イギリス・ブルジョアジーにとって必要なことを行なったのである。

 現在、イギリスにおける労働組合の自由というような問題においてさえイギリス・プロレタリアートの利益を公然と全世界の見ている前で裏切った連中が、明日にはソ連に対する戦争の際に、これらの紳士諸君が1914年に果たしたのと同じ卑劣な裏切り的役割を果たすことを、どうして疑うことができようか。

 中国問題における誤った路線と英露委員会問題における誤った路線とのあいだには、密接な内的結びつきがある。同じ路線が現在コミンテルンの全政策において遂行されている。ドイツでは、ロシアの反対派と連帯したというだけの罪で何百人もの左派プロレタリア党員が除名されている。すべての諸党の右派分子はますます大きな優位性を持つようになっている。最も拙劣な右派的誤り(ドイツ、ポーランド、フランス等々)は何ら罰せられることなく放置されている。それでいて、左からの批判のどんな小さな声も除名を招いている。こうして、ソ連共産党と10月革命の権威は、共産党をレーニン的路線から右に逸脱させるために利用されている。こうしたことのいっさいが合わさって、コミンテルンが戦争に対する闘争をレーニン流に準備し遂行する可能性が奪われている。

 

 、どのマルクス主義者にとっても、中国問題や英露委員会問題での誤った路線が偶然ではなかったということに議論の余地はない。それは国内政策における誤った路線を継続し補完するものである。

 ソヴィエト連邦の経済は全体として復興期を終えた。この期間に、経済建設の分野において重大な成果が達成された。ソヴィエト社会主義共和国連邦の工業や農業において、また国民経済のその他の分野において、われわれは戦前の水準に近づきつつあるか、もしくはすでに追い越した。協同組合の分野においても成果が達成された。これらの成果は、レーニンによって宣言された新経済政策の正しさの最良の証明であり、10月革命の敵に対する最良の回答である。プロレタリア独裁の国は、完全に社会主義建設を行なう能力があることを明らかにし、この分野での最初の成果を示し、このことによって、他国のプロレタリアートとともに全世界における社会主義の最終的な勝利を準備した。

 しかし、この重大な達成物と同時に、復興期の結果として大きな困難が姿を現わしてきた。この困難は、生産力の発展の不十分性、わが国経済の後進性から生じ、広範な党員大衆から隠蔽されていることによっていっそう深刻化している。ソ連邦におけるプロレタリア独裁の実態に対するマルクス主義的な分析の代わりとして党に贈呈されたのは、マルクス主義やレーニン主義といかなる共通性もない誤った小ブルジョア的な「一国社会主義論」である。マルクス主義からのこの深刻な逸脱は、党が、現在進行している経済過程の階級的内容を見るのをいっそう困難にしている。ところが、まさにプロレタリアートにとって不利な方向に向けた階級的移行のうちに、一般大衆の苦境のうちに、われわれが経過しつつある革命の一時期における否定的現象があるのである。

 賃金と失業者の問題はますます先鋭な性格を帯びてきている。

 誤った政策は、クラーク、ネップマン、官僚といったプロレタリア独裁に敵対的な勢力の成長を促進している。これは、わが国にある物質的資源を、必要な規模と方法で工業と国営経済全体のために利用することを不可能にするだろう。国民経済の側から提起されている諸要求(商品飢饉、高価格、失業)と、全体としてのソヴィエト体制の側から提起されている諸要求(国の防衛)から、大工業が立ち遅れているという事実は、ソ連経済における――とりわけ農村における――資本主義的要素の強化をもたらしている。

 賃金の増大はストップし、一部の労働者グループの賃金は低落傾向にある。最近まで労働生産性の上昇に応じて賃金アップが行なわれていたが、今や概して、労働の強化を引きかえにしてしか賃金はアップしなくなっている(同志クイブイシェフの報告にもとづいたソヴィエト大会決議の第2項を見よ)。すなわち、ソ連邦の労働者はこれから、経済成長や技術改良に応じてではなく、ただより多くの労働力支出、より多くの筋力の支出の結果としてしか自己の経済状態を改善することができないのである。このような問題設定がなされたのはこれが初めてである。現時点ですでに労働強度が戦前の水準に全体として到達し、部分的にはそれを越えるようになっているにもかかわらず、である。こうした政策は労働者階級の利益を侵害するものである。

 失業者は、農村からの移住者によって補充されているだけではなく、工業プロレタリアートの基幹部分をも犠牲にして増大している。実際の失業者は記録されている数よりも多い。失業者軍の増大は、労働者階級全体の経済状況を悪化させている。

 労働者の住宅事情は多くの地域で、居住面積の点でも、アパートの利用条件の点でも悪化し続けている。

 未成年労働者向けの優先採用制度と無料の職業訓練制度の縮小は、青年労働者の境遇をいちじるしく悪化させている。

 これらの危険性のいっさいから何が生じてくるかは明白である。なぜならば、労働者階級とわが党との関係は労働者国家の運命にとって決定的だからである。

 工業製品の価格引き下げはほんの少ししか成功していない。反対派は価格引き下げに関する中央委員会2月総会の決議に賛成投票したにもかかわらず、公式のアジテーションはすべて、われわれが価格引き下げを望んでいないかのように言って反対派を非難している。このようなアジテーションは党を誤解に導き、わが国の経済政策の根本問題から党の注意をそらしている。価格引き下げの問題はこれによって一歩も進んでいない。その間に、都市と農村の消費者の不満と焦燥感は増大しているのである。

 農民の階層分化はますます増大するテンポで進んでいる。「豊かになれ」というスローガンによって、社会主義に「同化せよ」というクラークへの訴えによって、中央委員会の指導的中核は、一方では、農民の階層分化の隠蔽とこの階層分化の過小評価に至り、他方では、大規模農民への実践上の依存に行き着いている。10月革命10周年を前にして、300万余りの農業労働者がソヴィエトや協同組合や党細胞の中できわめて小さな役割しか果たしておらず、貧農に対して向けられる注意や援助はますます不十分なものになっている。最近のソヴィエト大会で挙げられた農業決議は、農村における階層分化について、すなわち農村の政治的および経済的発展にとっての基本問題についてまったく何も言っていない。これらすべては、農村におけるわれわれの基盤を弱め、労働者階級と貧農が中農と同盟するのを困難にしている。この同盟は、クラークの搾取者的傾向に対する系統的な闘争の中でのみ発展し強化される。ところがこの傾向の成長と意味がわが党の中で過小評価されているのである。このような政策がもたらす危険性は絶え間なく蓄積されていって、突然に爆発する可能性がある。それにもかかわらず、党やソヴィエトのすべての公式の機構は、左に攻撃の矛先を向け、それによって本物の危険、すなわち右からの階級的危険に対し門戸を全面的に開放しているのである。

 貧農と弱小農民の農家にかかる農業税を50%免除するという提案は攻撃されている。ところが、農村の政治的および経済的状況によってますますこの提案の正しさが実証されつつある。数千万ルーブルは、50億ルーブルの予算から見れば、非常にささやかな意味しか持っていない。それにもかかわらず、弱小の農家からこの額を徴収することは、階層分化の過程を促進し、農村におけるプロレタリア独裁の地位を弱めている。「中農との協定に達することは、けっしてクラークとの闘争を断念することによってではなく、確固として貧農に立脚することによってのみ可能となる(2)」(レーニン)――これこそ、農村におけるわれわれの政策の基本路線でなければならない。

 昨年の9月、われわれは、責任ある地位についている3人の同志たち(同志ルイコフ、スターリン、クイブイシェフ)によるアピールを読んだ。それは、反対派――すなわち、われわれ自身の党の一部であり、その中央委員会の一部――が、農民を「収奪する」ことを欲している、というものであった。そしてこのアピールは、それに代わるものとして、節約体制を通じて非生産的支出を年に3〜4億ルーブル削減することを約束した。実際には、節約体制のための闘争は官僚主義的に歪められており、それは労働者に新たな悩みの種をつけ加えはしたが、何らかの目に見える肯定的な成果はもたらしはしなかった。

 工業の合理化は、偶然的で、不統一で、軽率な性格を帯びている。それは、労働者をますます新たに失業者の列の中へと放り出しつつ、他方では原価の引き下げをもたらしてもいない。

 労働者の境遇を悪化させているこの2年間のすべての決定を破棄し、次のことをしっかりと確認することが必要である。すなわち、労働者階級というこの「基本的な生産力」(マルクス)の境遇を――たとえ最初は緩慢なものであっても――系統的かつ計画的に改善することなしには、現在の状況下で、経済を向上させることも、社会主義を建設することも不可能だ、ということである。

 現在、国内では、最も複雑な階級的からみ合いが存在し、国外では、ソ連邦に対する敵対的攻撃が増大し、国際プロレタリア革命が遅延している。こうしたもとで、経済建設の分野で党の前に立ちはだかっている諸問題を解決するための基本的な条件は、党内民主主義を再生し、党と労働者階級との間の生きた現実の結びつきを強化することである。

 われわれにはレーニン時代と同じく鉄の党規律が必要である。しかし、党内民主主義もわれわれには必要である――レーニン時代と同じく。

 全党は上から下まで、ボリシェヴィキ流に思想的・組織的に固く結束した集合体でなければならない。すなわち、全党員が、公式的で建前上のものではなく、本当の意味で、党および労働者階級と国全体の直面するすべての諸問題の解決に参加するような集合体でなければならない。

 この数年間のうちに確立された党内体制は、プロレタリア革命の指導勢力である党の能動性を途方もなく引き下げた。党の広範な下部大衆がプロレタリア革命の最重要諸問題の決定に自覚的に参加する可能性はとことん切り縮められ、縮小している。

 このことは、党に対する労働者階級の態度にも、労働者階級全体の能動性にも、最も否定的な影響を及ぼさないわけにいかなかったし、及ぼしている。

 党内で成立している体制は、全面的に労働組合にも持ち込まれている。ロシアの労働者階級は、その背後にボリシェヴィキ党とレーニンの指導下に遂行された3つの革命の経験を有しており、その最良の息子たちの血によってソヴィエト国家の土台を打ち固め、その英雄主義と組織性の点で奇跡を発揮してきた。彼らは、その創造性を全面的な形で発揮するあらゆる前提条件を有している。しかし、現在成立している体制は、労働者がそのあらゆる能動性を発揮するのを妨げており、社会主義建設に十分な形で着手することを妨げている。

 プロレタリア独裁はその階級的土台そのものにおいて弱体化している。

 第11回大会において、ウラジーミル・イリイチは党に対して、経済活動における最も重要な課題は正しい人選を行なうことであると述べたが、現在の路線は、この指摘を直接的に否定している。実際に起きているのは、多くの地域で、最も自立的で熟練した党員労働者や創意ある経営担当者が工場から系統的に追放され、彼らの代わりに、社会主義に奉仕するのではなく直属上司に奉仕する分子が大量に登用されている事態である。誤った党体制がますます昂進していることは、こうして、無数の大衆の最も死活にかかわる利益に悪影響を及ぼしているのである。

 

 国際情勢はますます緊迫したものになりつつある。戦争の危険性は増大している。ソ連共産党と国際プロレタリアートの全前衛の中心的課題は現在、戦争を回避すること(あるいは、せめて、できるだけ長期間先送りすること)であり、何としてでも平和の政策を支持し擁護することである。この政策を最後まで遂行しうるのはわが党とソヴィエト権力だけである

 ソ連の大義は国際プロレタリアートの大義である。ソ連の頭上に迫りつつある新しい戦争の危険性を振り払うことは、国際プロレタリアートの最も重要な課題である。しかし、これは、イギリス総評議会の裏切り者たちとブロックを組む道によっては不可能である。戦争を回避するためのいかなる真面目的な闘争も、パーセル(3)やシトリン(4)との同盟によっては不可能である。社会民主党労働者や無党派労働者に接近すること、彼らを反戦闘争に引き込むことは、これらの裏切り的指導者の頭越しに、彼らと闘争する中でのみ可能となる。わが党の中央委員会が、コミンテルンの来たる拡大執行委員会総会において、中国における最近の事件を詳しく、真剣に、偏見なしに、文書にもとづいて検討するよう尽力すること、そして、この仕事にわれわれの観点を擁護する同志たちを参加させることを要求する。それは、執行委員会が中国問題と英露委員会問題を全面的な形で提起し、わが党の機関紙と世界各国の共産党機関紙およびコミンテルン機関紙において、この問題を全面的な形で詳細に討議する(もちろん必要な秘密を保持した上で)ことができるようにするためである。

 ソ連の国際的強化のためには、ソ連内部のプロレタリア的・革命的路線が必要である。賃金の増大の停滞、労働者の住宅事情の悪化、失業者の増大はわれわれを弱めている。貧農に対する誤った政策はわれわれを弱めている。経済政策における誤りはわれわれを弱めている。イギリス労働者と中国革命の敗北はわれわれを弱めている。誤った党内体制はわれわれを弱めている。

ウストリャーロフ

 わが党のすべての党内政策は右傾化の方向をとっている。左に矛先を向けた、反対派に矛先を向けた現在準備されている新たな攻撃がもし実行に移されるなら、これは完全に右派の手を解放するだろう。すなわち、一部はわが党自身にもいる、だが主として党外にいる非プロレタリア的・反プロレタリア的分子の手を解放するだろう。左に対する打撃は必然的に、ウストリャーロフ(5)主義の最終的勝利をもたらすだろう。ウストリャーロフ[右の写真]はネオネップの名のもとに、反対派に対するこのような打撃をとっくに要求している。ウストリャーロフは、ボリシェヴィズムの最も首尾一貫した、最も原則的で断固とした敵である。上役の官僚の言いなりになっている自己満足的な行政官、指令的地位にまで登りつめて大衆を高みから見下している小ブルジョアどもは、自分たちの足元がますます確固たるものになっていると感じ、頭をますます高くもたげている。これらはみなネオネップの諸要素である。彼らの背後に立っているのが、ウストリャーロフ派のスペッツ[ブルジョア専門家の蔑称]であり、その次にはネップマンとクラーク(大規模なムジークという名称を持っている)である。まさにここから真の危険性が迫っているのである。

 国内問題における右傾化は、国際問題ほどは目立たない。なぜなら、国内の諸過程は、イギリスのゼネストや中国の革命に比べてはるかに緩慢に発展するからである。しかし、公式の政策の基本的傾向はどちらにおいても同じであり、それが国内では緩慢に発展すればするほど、それだけ深刻な形で露わになるだろう。

 レーニンは、ソヴィエト国家を、住民の大部分が農民である国の、官僚主義的歪曲をこうむっている労働者国家として規定した。これは1921年初めに言われたものである。レーニンの規定は現在かつてなく生命力を持っている。ネップの時期以降、都市と農村の新ブルジョアジーは本格的な勢力にまで成長した。このような状況下で、反対派に打撃を振り下ろすことは、統一の擁護に関する偽善的な叫び声の下に(「あらゆる分裂の火付け人は誰よりも統一について語る」――とエンゲルスは言った)、わが党の左派プロレタリア的・レーニン的翼を誹謗中傷し破壊すること以外の何ものも意味しない…。このような破壊がなされれば、不可避的かつ急速にソ連共産党の右派を強化し、同じく不可避的にプロレタリアートの利益を他階級の利益に従属させることになるだろう。

 

 、党の統一はわれわれにとって常に必要なものであり、とりわけ現在の状況下においてはそうである。レーニンの学校において、われわれがみな学んだことは、ボリシェヴィキは革命的・プロレタリア的な政治路線にもとづいて統一を達成しなければならないということだった。最も困難な歴史的条件下において、すなわち地下活動の時期、その後の、戦争末期に権力のために闘った1917年の時期、途方もなく困難な状況下でブレスト・リトフスク講和の問題が決定された1918年の時期、そしてその後のレーニン時代の数年間、党はさまざまな係争問題を公然と討議し、見せかけのものではない真の統一に向けた正しい道が見出された。これは、現在よりもはるかに困難な時期にわれわれを救ったのである。

 主要な危険は、意見の相違の真の内容が党と労働者階級から隠されていることにある。係争問題を党の前に提起しようとするあらゆる試みが、党の統一を破壊するものだと説明されている。誤った路線は機械的なやり方で上から押しつけられている。見せかけの統一と公式上の安寧がつくり出されている。だが実際には、それは労働者階級の中で党の陣地の弱体化をもたらしており、階級敵との闘争における労働者階級の陣地の弱体化をもたらしている。党の政治的成長にとっての、党の正しいレーニン的指導にとっての巨大な障害をつくり出しているこのような状況は、何らかの大転換が訪れるやいなや、そして国内外からの深刻な打撃が降りかかってくるやいなや、わが党にとって最も重大な危険性をもたらすだろう。

 われわれはこのような危険性をはっきりと直視している。そして、このことについて中央委員会に警告することが自らの義務であると考えている――それはまさに、国際的にも国内的にもレーニン主義的政策にもとづいて党の隊列の団結を勝ちとるためである。

※  ※  ※

 意見の相違を解決し、階級的路線に立ち戻り、それでいてその際に党の統一をいささかも侵害しないようにするためにはどうすればいいのか?

 それはレーニン時代にやっていたとおりのことをすることである

 われわれは中央委員会が次のことを決定するよう提案する。

 (1)遅くとも第15回党大会の3ヵ月前には中央委員会特別総会を召集すること――その目的は、第15回大会のすべての諸問題を予備的に討議することである。

 (2)この総会は、最大限の統一を最もよく保障し党内闘争を本当の意味で一掃するような全員一致の決定を練り上げるためにあらゆる可能性を追求することを自己の課題としなければならない。

コルシュ

 (3)この総会はまた、コミンテルンに派遣されているソ連共産党代表者たちに次のような任務を与えなければならない。すなわち、除名された同志たちのうち、党への復帰を希望し、かつコミンテルンの基盤に引き続きとどまっている人々を復党させるために、そして兄弟諸党の中で完全な統一をつくり出すために、一連の措置をとるようコミンテルン執行委員会の内部でイニシアチブをとること(言うまでもなく、カッツ(6)やコルシュ(7)[右の写真]のような人々が問題になっているのではない)。

 (4)もしそれでもなおこの中央委員会特別総会の内部で原則的な意見の相違が明らかにされた場合には、大会に先立ってその相違点が定式化され公表されなければならない。各同志たちは党の前で自己の見解を――機関紙上や会議の場において――擁護する可能性が保障されなければならない。これがレーニン時代に常になされていたことである。

 (5)論争は、いたずらに先鋭化させたり誇張したりすることなしに、厳格に同志的で実務的な枠組みの中で遂行されなければならない。

 (6)中央委員会と同じく、地方組織、個々の党員、党員グループもテーゼ案を、たとえば大会の2〜3ヵ月前には、『プラウダ』で(あるいは『プラウダ』の付録で)、また地方の党機関紙に公表されなければならない。

 (7)党出版所もまた、党の前に自己の見解を表明したいと欲している同志たちの小冊子、著作、論集等々を、それらの同志たちが党内の多数派ではなくても時機を失せず出版することを保障しなければならない。

 (8)第15回党大会の全準備作業の主要スローガンは、ソ連共産党の統一を、真のレーニン主義的な統一を、でなければならない。

※  ※  ※

 補遺――われわれの声明は、当然のことながら、署名者を集める必要性から遅れたため、同志ジノヴィエフに対する上からの反対カンパニアが行なわれているときに中央委員会に送付せざるをえなくなった。このカンパニアは、5月9日に無党派の集会で同志ジノヴィエフが演説を行なったという口実にもとづくものである。同志ジノヴィエフの演説を聞いた、あるいはその速記録を読む機会があった同志たちは、一瞬も動揺することなくこの演説に賛成の署名をすることだろう。この演説は、『プラウダ』紙上におけるマルトゥイノフの路線の専横に対して党内に広がっている不安を、抑制の効いた申し分なく党的な形で表明したものである。この演説は、言うまでもなく、同志ジノヴィエフを迫害するための口実として持ち出されたものにすぎない。われわれの声明全体から明らかなように、反対派に対するカンパニアの直接的な準備は、中国革命の最初のあの敗北とともに始まったのである。

 われわれが判断しうるかぎりでは、同志ジノヴィエフに反対するカンパニアの直接的な目的は、大会までに党大会なしに彼を中央委員会から放逐することである。それは、第15回大会の準備期と大会の場において誤った路線に対する直接的な批判の一つを一掃するためである。明日には、中央委員会の他の反対派メンバーに対しても行なわれるだろう。このような手法は党にとって有害な結果になるだけである。

 政治局の圧力のもと、同志ジノヴィエフ――共産主義インターナショナルの指導的人物の1人であり、レーニンの提案によって選ばれた初代議長でもある――が執行委員会への出席を禁じられたが、これは共産主義運動の歴史においてまったく前例のない事実である。まだ執行委員会のメンバーである同志ジノヴィエフのこの締め出しは、世界労働者運動の最重要の問題を討議するときになされたものだが、われわれはこの措置を、思想闘争を行政的処分によって置きかえようとしている人々に政治的勇気が欠如していることの現われであるとしか説明しようがない。この事実は、その政治的意義は別にしても、コミンテルン第5回大会で全会一致で選出された執行委員である同志ジノヴィエフの形式的権利を乱暴に踏みにじるものである。レーニン主義者を追放し誹謗中傷することは、共産主義インターナショナルにとっての統一の道ではない。

 このわれわれの声明がわれわれを分派活動の罪で非難する根拠として用いられる可能性は大いにある。何でもする用意のある官僚たちや、いわゆる「新しい」「若手」グループ[ブハーリン派の若手理論家グループのこと]の「文筆家」は熱心にそうしようとするだろう。しかし、われわれの手紙はとりわけ彼らに対して矛先を向けたものでもある。彼らの一部は、危機の瞬間にプロレタリアートの事業を真っ先に裏切るだろう。この声明を出すことによって、われわれは、ボリシェヴィキ・レーニン主義者のあいだで常に理解されていたところの、革命家としての、党員としての責務を果たしているのである。

※  ※  ※

 われわれは、短期間でこの声明に対する古参ボリシェヴィキの何十という署名を集めた。疑いもなく、現在ソ連の各地や国外に分散している他の古参ボリシェヴィキたちも、この声明のことを知ることができれば署名に参加しただろう。

 われわれは、この文書に記された観点がわが党の大きな部分によって、とりわけ、その労働者部分によって共有されていることを疑わない。労働者の、わが党の党員の真の気分を知っている者は、そこで描かれていることが真実であることを知っている。

アレクサンドロフ、A・H(1917年からボリシェヴィキ党員)

アブラムソン、A・B(1914年から党員)

アリスキー、A・S(1917年から党員)

アルシャフスキー、Z(1915年から)

ベロボロドフ、A・G(1907年から)

ベリャイス、ヤン・ヤノヴィチ(1912年から)

ブジンスカヤ、R・L(1914年から)

ババーハン、N(1917年から)

ヴィスネフスカヤ(1905年から)

ヴォロビヨフ、V(1914年から)

ヴァレンチノフ、G(1915年から)

ヴィレンスキー(シビリャコフ)(1903年から)

ヴヨヴィチ(コミンテルン執行委員、1912年からユーゴスラビア共産党員)

ヴラチェフ、I・YA(1907年からボリシェヴィキ党員)

ヴァシリエフ、Iv(1904年から)

ヴァルジン、Il(1907年から)

ゲルティク、アルテム(1902年から)

ゲルツヴェルグ(1917年3月から)

ゲツセーン、S・M(第5回大会で選出されたコミンテルン執行委員、1916年から党員)

グラリスキー

ゴルドン、ニク(1903年から党員)

エメリヤノフ、N・A(1899年から)

エリコヴィチ、N・A(1917年から)

エフドキーモフ、G・Er(1903年から党員、党中央委員)

エジョフ、P・S(1917年3月から)

ジューク、アレクス・ヴァス(1904年から)

ジノヴィエフ、G・E

ゾーリン、S(1917年5月から)

ザクス=グラドネフ(1906年5月から)

イワノフ、V・I(1915年から)

コスペルスキー、I(1917年3月から)

カッタ、M(1917年から)

クークリン(1903年から)

カナトチコヴァ(1914年から)

コストリツキー、I

コワレンコ、P

コロレフ、A(1916年から党員)

カフタラーゼ(1903年から)

コズロヴァ=パセック(1917年9月から)

レレヴィチ、A・G(1917年から)

ロヴァシェフ、G(1917年から)

リヴィシーツ、B(1915年から)

ラージコ、M(1905年から)

リズディン(1892年から)

ムラロフ、N・I(1903年から)

ミニチェフ(1911年から)

マレタ、V(1916年から)

マリツェフ、B(1917年から)

マテン、G(1917年5月から)

ナウモフ、I・K(1913年から)

ナジモフ、A・E(1917年7月から)

オストロフスカヤ、N(1903年から)

ペテルソン、A(1917年から中央統制委員)

ポズデーエヴァ(1917年から)

プリマコフ、V(1914年から)

ピャタコフ、Yu・L(1910年から党中央委員)

プサルモペヴネフ(1916年から)

ラヴィチ、O・N(1903年から)

ラデック、K(1902年から)

リェーム、M・S

セレブリャコフ、L・P(1905年から)

スミルノフ、Iv・Nik(1899年から)

セルゲーエフ、A・N(1914年から)

ソコロフ、A・A(1914年から)

サファロフ、G(1908年から)

スミルガ、I・T(1907年から党中央委員)

サムソーノフ、M(1903年から)

ソスノフスキー、L(1903年から)

サルキス(1917年から)

サドフスカヤ(1917年9月から)

テル=ヴァガニャン(1912年から)

トゥマノフ(1917年4月から)

トロツキー、L・D

フェドロフ、Gr(1907年から)

フォンベルシュテイン(1917年から)

フォシキン、F・P(1917年から)

ハリトーノフ、M・M(1905年から)

ツァトゥロフ、A・A

シャーロフ、Ya(1904年から)

シュルイギン、A・S(1914年から)

シェプシェレーヴァ、M・I

シュステル、A(1912年から)

ツィブリスキー、Z・S(1904年から)

エリツィン、V(1898年から)

1927年5月25日

『トロツキー・アルヒーフ』第3巻所収

『トロツキー研究』第42/43合併号より

  訳注

(1)トロツキー自身は反対派内部で以前から国民党からの中国共産党の離脱を要求していたが、反対派内部で異論が強く、合同反対派としては要求しなかった。

(2)レーニン「ピチリム・ソローキンの貴重な告白」、邦訳『レーニン全集』第28巻、197頁。

(3)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

(4)シトリン、ウォルター(1887-1983)……イギリスの労働組合指導者。1926年から46年までイギリスの労働組合会議の総書記。イギリス資本主義に対する貢献によって、1935年に騎士に叙せられ、1946年には准男爵に。

(5)ウストリャーロフ、ニコライ(1890-1937)……ロシアの弁護士、経済学者。革命前はカデットで、内戦時はコルチャークと協力し、ソヴィエト権力と敵対。その後、中国に亡命。ネップ導入後、ソ連政府で平和的に資本主義が復活するものと信じて、ネップを支持。『道標転換』誌を編集し、ソ連との協力を訴え、「道標転換派」と呼ばれる。1920年代の党内論争では、スターリン派を支持。1935年、ソ連に戻り、ソヴィエト政府のために活動。1937年に逮捕、粛清。

(6)カッツ、イヴァン……ドイツ共産党の極左派指導者の1人で、ハノーファー・グループの1人。統一戦線戦術に反対し、1926年1月に除名。

(7)コルシュ、カール(1889-1961)……ドイツの革命家。ドイツ共産党極左派指導者。第1次大戦中は国際主義の立場。1919年、独立社会民主党に参加。1920年、ドイツ共産党に入党。1924年から国会議員。1920年代半ば、ドイツ共産党とコミンテルンの右傾化に反対して、左翼反対派結集の中心となり、1926年にはソ連共産党の左翼反対派への支持を表明するも、トロツキーらソ連の左翼反対派はドイツの左翼反対派との関係断絶を表明。コルシュもトロツキー派を優柔不断で中途半端な左派として非難。1926年5月に除名。1928年以降、政治活動から身を引き、哲学研究に専念。ヒトラー勝利後の1933年に亡命。最初デンマーク、ついでイギリス、アメリカに移住。『社会主義と哲学』『カール・マルクス』など。

 

 

 

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