一国社会主義と党体制

中央委員会・中央統制委員会8月合同総会における第2の演説

トロツキー/訳 西島栄

【解題】この演説は、トロツキーとジノヴィエフの中央委員会からの除名が提案された中央委員会・中央統制委員会8月合同総会でのトロツキーの第2の演説である。この演説の中でトロツキーはとりわけ、一国社会主義の問題を改めて全面的に取り上げ、レーニンがさまざまな場面で言った「社会主義の成功」や「社会主義の建設」などの本当の意味を詳しく明らかにしている。

 同時に、この8月総会においてスターリンをはじめとする主流派は、トロツキーが中央統制委員会の議長オルジョニキッゼに宛てた書簡を持ち出して、それを反対派の蜂起主義の証拠だとした。トロツキーのこの演説の中で、この文書が、モスクワ委員会の宣伝扇動部が出したシパルガルカ〔もともとはカンニングペーパーや他人が書いた演説原稿のことを指しているが、ここでは紋切調で書かれた宣伝扇動用のハンドブックのことを意味しており、決まり文句の寄せ集めであることを揶揄している〕を批判した論文「これはどこに導くか」のことであることが明らかにされている。スターリンは、トロツキーが同論文の中で第1次大戦末期にフランスのクレマンソー・グループが取った行動を引き合いに出したことをあげつらい、反対派が戦争の危機に乗じてクーデターでもって権力をとろうとしているのだとして、反対派に対する憎悪を煽った。スターリンが引用した部分は、『トロツキー研究』第42/43号に収録してある。

 なお、各小見出しは訳者が内容に即して適当につけたものである。

 Л.Троцкий, Речь на заседании Объединенного пленума, 6 августа, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.4, 《Терра−Терра》, 1990.


   一国社会主義の理論

 トロツキー ここで昨日、同志スターリンは、反対派がトロツキズムの旗のもとに立っていると述べた(1)。同志スターリンはトロツキズムの第一の主要な特徴として、一国における社会主義の完全な建設という理論を拒否していることを挙げた。この問題は、同志諸君、私の観点からすれば解決されていない。次の時期においてもまだ解決されないだろうと思う。あれこれのすでになされている決定を引用することは、たとえこの引用が正確なものだったとしても、ただこれらの決定を、明らかに誤ったものとして見直す必要があるということを意味するだけであろう。実際には、この問題はこれまで、独立の問題として検討されたことは一度もなかったし、この問題に関して何らかの十分な決定が採択されたことはなかった。

 会場からの声 昨日君に突きつけられた問題に答えるんだろうな。

 トロツキー ところが、まさにこの問題でこそ、問題に対するわれわれのアプローチを、マルクス主義的ないしレーニン主義的なアプローチに対比されるものとしてのトロツキスト的なアプローチとして提示する試みがいかに不真面目なものであるかがはっきりと暴露されているのだ。(叫び声)私が理解するところでは、問題にされているのは一個の政治的潮流である。これは何よりもその政治的路線にもとづいて非難されている。その路線とは、いわゆる「トロツキズム」であり、レーニン主義とは矛盾するものだとされている。したがって、まさにこの基本的な批判の線に沿って、この中央委員会と中央統制委員会の合同総会の場で今からしかるべき説明をしようと思う。

 同志諸君、この主たる非難は根本的に誤っていると私は主張する。何といっても次の事実を消し去るわけにはいかない。1924年の時点で、つまりウラジーミル・イリイチがすでに死んだ後の時期になってもスターリンが、一国だけでは社会主義の完全な建設が、すなわち社会主義社会の実現が不可能であるとまったくはっきりと明確に自己の見解を定式化していたことである。つまりレーニン死後も、わずか2年前には、スターリンは、一国での社会主義の完全な建設の可能性に関して「トロツキスト」的見解を展開していたわけである。

 カガノヴィッチ(2) 自分のことを語れよ。

 会場からの声 もうそのことは議論ずみだ。

 トロツキー 次のように言うことができるかもしれない。スターリンは間違えて、その後訂正したのだと。しかし、このような問題で、このような間違いを犯すことなどありうるだろうか? レーニンがすでに1915年の時点で、一国における社会主義の完全な建設が可能であるという理論を提出していたというのが正しいとすれば(実際には根本的に間違っているが)、そしてその後、彼がただこの観点を裏づけ発展させることしかしていなかったというのが正しいとすれば(実際には根本的に間違っているが)、お尋ねするが、スターリンがどうしてこのような重大な問題で、レーニン存命中も、レーニンの死後も、1924年の引用文に示されたような見解を抱くことができたのか? つまり、この根本問題でスターリンはずっとトロツキストであり、1924年の後になってはじめてトロツキストであることをやめたということになる。

アンティポフ

 アンティポフ〔右の写真〕(3) 自分に突きつけられた問題に答えろ。議題の第4項〔「トロツキーとジノヴィエフの党規律違反について」を指す〕について答えろ。議論をそらすな。

 カガノヴィッチ 1915年の論争について話せ。

 トロツキー もし同志スターリンが、1925年以前にも一国における社会主義の完全な建設について語っていたことを証明するただの一つの引用文でも挙げることができれば、実に結構なことである。だがそんなものはない! ではブハーリンはどうか? ここに3つの引用文がある。1つは1917年のもので、残り2つは1919年と21年のものである。そして3つとも、次のことを証明している。すなわち、われわれ反対派が現在、この最重要問題で、レーニン存命中のみならず、わずか2年ないし2年半前には、つまりレーニン死後も全党的なものであった見解を展開しているという事実である。ブハーリンは〔1917年の文章で〕ロシアのプロレタリアートについて語り、それが権力に、社会主義に進みつつあることを語りつつ、次のように述べている。ロシアで「最重要なものとなっている」この課題は、しかしながら、「国境の枠内では」解決不可能である。ここではロシアの労働者階級は克服できない壁にぶつかるのであって、「この壁はただ国際労働者階級の破城槌によってのみ打ち砕くことができる」(ブハーリン「ロシアにおける階級闘争と革命」、モスクワ委員会と組織委員会による発行、1917年、3〜4頁)。

 1919年、ブハーリンはさらに次のように述べていた。「〔ロシアにおける〕生産力の上昇期は、いくつかの大国におけるプロレタリアートの勝利とともに始まる」(ブハーリン、『共産主義インターナショナル』第5号、1919年9月、614頁)。社会主義の完全な建設どころか、生産力の上昇さえも、ブハーリンによれば、いくつかの大国におけるプロレタリアートの勝利とともにはじめて始まりうるのである。このことから、世界革命をあらゆる手段を講じて発展させる必要があるという結論が出てくる。

 叫び声 本質的な問題について話せ。

 トロツキー さらに、ブハーリンは、「インターナショナルは……」

 叫び声 まったく許しがたい。本質的な問題について話せ。どうして君は直接の問題に答えようとしないのか?(会場内騒然)(議長「静粛に」)

 トロツキー ブハーリンこう言っている――「さまざまな国のプロレタリアートの相互支援を実現しており、この経済的およびその他の形態の支援なしには、プロレタリアートは新社会を建設することはできない(できない!)」(『共産主義インターナショナル』第8号、1921年5月、94頁)。私は、同志スターリンがここでまさに、われわれが今検討している今日の議題の一つとして述べた主張に対し直接答えているのだ。この主張によれば、反対派は何よりも一国社会主義の問題においてレーニン主義から逸脱して、いわゆる「トロツキズム」に走ったとされている。

 さらに指摘しておくと、1921年に採択され今日も維持されているコムソモールの綱領には、現在トロツキズムとして非難されている立場がはっきりと定式化されている。

 叫び声 本質的な問題について話せ。告発に答える勇気がないのか?

 トロツキー お尋ねするが同志諸君、ブハーリンは1917年、19年、21年にこの問題でトロツキストだったのか? いや、彼はこの問題では他の多くの問題よりもマルクス、エンゲルス、レーニンに近かったのだ。ではコムソモールの綱領はどうか? たしかに同志シャツキンはかなり無邪気に、この綱領の作成の責任を自分に引き受けようとしている。

 シャツキン 私がそれを書いた。

 スクルイプニク(4)  シャツキンを巻き添えにするつもりか。

 トロツキー つまり、シャツキンは、自分の頭で考えて1921年に、これまでのすべてのマルクス主義の伝統は間違いであるという考えに至り、このような結論を引き出し、しかも、かかるトロツキスト的異端説をコムソモールの綱領の中にまぎれ込ませることができた、ということになる。(騒然)

シヴェルニク

 シヴェルニク〔左の写真〕(5) 自分に突きつけられている告発に答える方が先だろう。

 トロツキー ブハーリンもスターリンもこのことに気づいていなかったというわけだ。(「いいかげんにしろ」の怒号)最も基本的で原則的な告発に答えてから、次の告発に移る。スターリンもブハーリンもこのことに、つまり、コムソモールの綱領に、社会主義の建設を世界革命と結びつける項目、すなわちわれわれ反対派が現在定式化しているのとまったく同じ形で定式化された項目が存在することに気づかなかったわけである。多くのことに気づいたレーニンでさえも、どうやらこのことに気づかなかったようだ。(騒然)

ペトロフスキー

 ペトロフスキー〔右の写真〕(6) 議長同志、発言者に議論されている議題から離れないようにさせるべきだ。

 ヴォロシーロフ その通り!

 カガノヴィッチ 君は、1915年にレーニンと論争したのか否か?

 叫び声 1915年の君の論文について話せ。

 トロツキー 邪魔だてしないのであれば、1915年のレーニンの論文についても後でお話しよう。そうなればスターリンの誤りが最も明白なものでになるだろう。

 さて、誰一人として、この根本問題で、すなわち社会主義建設と世界革命との結びつきに関する問題で、すでに何年も前から存在しているコムソモールの綱領にトロツキスト的異端説が含まれていたことに気づかなかった。

 叫び声 誰が君の誤りを正したのだ? レーニンじゃないのか?

 トロツキー 繰り返そう、ブハーリンの種々の発言は偶然か?(騒然。議長がベルを鳴らす)コムソモールの綱領は偶然か? 偶然だったのか? この問題でマルクスとエンゲルスが書いてきたいっさいのことが払いのけられている。この問題でレーニンが述べたいっさいのことが払いのけられている。スターリンによって歪められた1915年のたった一つの引用文を除いては。同志スターリンはまさに今日の議題の第4項に関連してこの引用文を持ち出しているのだが、私は今この項目を理由にして話を遮られている。だが、この引用文については一言述べておかなければならない。

 会場からの声 テルミドールやクレマンソーや別党の問題について答えるべきだ。君に突きつけられているこれらすべての告発に答えろ。

 叫び声 告発に答える勇気がないんだろ!

 会場からの声 その引用文についてはもうたくさんだ!

 トロツキー 指摘させていただくが、まさに同志スターリンは、まさに今日の議題に関連して、反対派が、一国社会主義建設の問題に関してレーニン主義から逸脱したと語り、これこそがわれわれの原罪であると語り、まさにそれが「トロツキズム」であるとしているのである。議長同志がまさにこの問題で同志スターリンを制止しなかったのだから、私としては、この根本問題に関して必要な説明をすることを許可するよう議長に求めたい。(騒然、声「ふざけるな! もうたくさんだ!」)。戦争と講和に関するテーゼの中で……

 ルイコフ(議長) 同志ジノヴィエフが、討議されている議題から離れた演説を行なったこと(会場からの声「その通り!」)に対して本合同総会の参加者からすでに多くの苦情を受け取っている。それゆえ、その後の演説者に、同志ジノヴィエフが論じた問題について発言を行なう機会を与えざるをえなかった。だが、今日のうちに議題の第4項目を終わらせようと思えば、遅かれ早かれこの項目の討議に本格的に取り組まざるをえなくなるだろうと思われる。(会場からの声「その通り!」)それゆえ、これらの要求〔議論を第4項目に絞るべきという要求〕はまったく正当なものであるように思われる。つまり、今後は、同志オルジョニキッゼの報告――ジノヴィエフとトロツキーの両名を中央委員会の構成メンバーから除名するという提案――と関連した問題の討議について論じるべきだということである。(会場からの声「その通り!」)

 トロツキー 同志諸君、残るすべての演説者が、自分に与えられた時間の範囲内で、議題の第4項目と結びついている(彼らの意見では)すべての問題を論じることができるのならば、私は、まさにこの問題で中央委員会・中央統制委員会の合同総会の前で告発されている本人であるのだから、いずれにせよ、この問題を論じる権利を拒否されないはずである。同志オルジョニキッゼは――誰のそのことで彼を非難していないが――報告の中で、意見の相違の対象となっているあらゆる問題、あるいはほとんどすべての問題に触れた。

 会場からの声 違う、そんなことは全然ない!

 タリベルク 問題の本質を論じろ。

 トロツキー その中には、ソヴィエト経済における不作と豊作の役割に関する私の評価をめぐる問題も含まれていた。同志諸君、そうやって、私に発言させないことも諸君の権利である。だが私は、自分に与えられた45分の範囲内で、私に向けられた告発の中で、自分が語る必要があるとみなしたものについてだけ語ることができるはずである。もし議長同志がそれは間違いだと考えるのならば、もちろん私から発言する機会を奪って、そのまま総会としての評決を下すことも可能である。しかし、私が発言台に立っているかぎり、議題の第4項目に関して私が合同総会にとって重要で本質的とみなした論点についてのみ語ることができるはずである。

 会場からの声 もう何十回も語った。

 会場からの声 君が分派を解散させたのかどうかについて言えよ。これこそ語るべきことだろ。

 会場からの声 われわれが聞きたいのはそれだ。

 ルイコフ 私はたぶん本総会の参加者全員の気持ちを代弁していると思うが、総会が同志トロツキーから聞きたいのは、今日の議題に上っている問題についての意見であろう。(会場からの声「その通り!」)一国における社会主義建設の問題は党大会でも党協議会でも討議されたし、何度も決議され確認された。(会場からの声「その通り!」)いずれにせよ、誰もこの問題を本総会の議題にしていない。

 ヴォロシーロフ この問題をめぐって語る必要があるのは、それを実現するのが諸君なのかそれともそうでないのかということだ……。

 トロツキー 同志議長の言っていることが、私が今後、自分の見解について展開して、全般的な原則的考慮から必要な結論を引き出すことができるという趣旨であると理解するならば、私がここで述べたことは、その趣旨に完全に合致している。(笑い、騒然)

 会場からの声 議題と一致していないぞ。

 会場からの声 詭弁を弄するな!

 カガノヴィッチ 問題の本質について語れ。

 トロツキー 私に向けられたさまざまな告発との関連で本総会にとって私が本質的であるとみなすことについて語る権利が私にはないと言いたいのなら(騒然)、総会が私の言うことを聞く必要がないとみなしているのなら、総会は私の発言権を奪うことができる。私はそれに従うだろう。それは総会の権利である。

 カガノヴィッチ 君は45分を与えられた。あれこれ余計なことを言わず、本質的なことを述べよ。

 トロツキー 何が本質的なことなのか、その評価にこそまさに全核心があるのだ。もし意見の相違がなかったなら、いっさいは非常に単純だったろう。しかし何が本質的なことなのかの評価に関して、私は同志カガノヴィッチと大いに意見が異なるのだ。このことは、彼が自分の見解を展開することを妨げない。私も自分の意見を展開しよう。

 会場からの声 本質的なことを語れ(笑い)。

 トロツキー この問題の本質に関して私の意見が同志カガノヴィッチと異なるのは、たとえばアムステルダム・インターナショナルの問題に関して意見が異なるのと同じである。しかし、私には自分の見解を陳述する権利がある。

 戦争と講和に関するテーゼ(1918年1月7日)の中でレーニンは、「ロシアにおいて社会主義が成功するためには、少なくとも数ヵ月間の中間期間が必要である」(第15巻、64頁)(7)と語っている。彼がこう述べたとき、それが実際に意味していたことは何だろうか? 彼はそこにどのような経済的・社会的内容を込めていたのだろうか? 

 ヴォロシーロフ それをすべて送付して印刷させればよい。(騒然)

 トロツキー 1918年初頭の論文「『左翼的』な児戯と小ブルジョア性について」の中で、ウラジーミル・イリイチはこう書いている。

 「もし、およそ半年後に、わが国に国家資本主義が打ち立てられるとしたら、それは大成功であり、1年後にわが国で社会主義が完全に確立され無敵のものとなる最も確実な保証となるだろう」(第18巻第2分冊、87頁)(8)

 ウラジーミル・イリイチはネップに移行してから、この引用を一度ならず持ち出している。彼はコミンテルンの第4回大会においてこの引用を持ち出して、次のように付け加えている――「これは、われわれが今よりもいささか愚かだったとはいえ、このような問題を検討することができないほど愚かではなかった当時において、言われたことである」(9)。まったく明らかなのは…(会場からの声「君に与えられた時間を見直さざるをえなくなる」)…、「われわれは今よりもいささか愚かだった」という皮肉なコメントが、あまりの短期間のうちに、すなわち「1年後にわが国で社会主義が完全に確立され無敵のものとなる」という部分に向けたものだということである。(騒然)

ルズターク

 ルズターク〔左の写真〕10 それは中央統制委員会の決議と何の関係もない。

 トロツキー しかし、どうしてレーニンは、社会主義の「完全な確立」にこれほど短い期間を想定したのだろうか?(騒然) この言葉に彼はどのような物質的・生産的内容を込めていたのだろうか? 他方で、皮肉を和らげるレーニンの言葉、すなわち、「このような問題を検討することができないほど愚かではなかった」というのはどういう意味なのだろうか? まったく明らかに、社会主義の完全な確立という言葉でレーニンは、1年のうちに社会主義社会を完全に確立することを言っていたのではなく…。(騒然)

 ルズターク これはもう演説ではなく、トロツキーの著作集の朗読だ。

 トロツキー …また階級の消滅や、1年のうちに都市と農村との矛盾を克服することを言っていたのではなく、何よりもそして主として、勝利したプロレタリアートの手中で工場活動を復活させることを言っていたのである。ここにすべての核心がある。(騒然)社会主義の確立に関するレーニンの問題設定を理解するためには、さまざまな状況下で言われた個々のコメントを抜き出して恣意的に再解釈するようなことをしてはならない。これらのコメントはその時々の理由にもとづいているし、何よりも種々の実践的目的に奉仕するものであった。レーニンの思想をその歴史的発展の中で取り上げなければならない。そうするなら、レーニンが、たとえば1915年に、すなわち10月革命の2年少し前に、社会主義の完全な建設について語ったことの意味も、レーニンの思想の発展を追い、1年間で社会主義を完全建設するというレーニンの思想が、10月革命後に、すなわちすでに綱領ではなく生きた経験の理論的規定が問題になっていたときに語られたことを理解する場合のみ、正しくかつ完全に明確に明らかとなるのである。

 1915年にレーニンは次のように書いている。

 「経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である。ここからして、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である、という結論が出てくる。この国の勝利したプロレタリアートは、資本家を収奪し、自国に社会主義的生産を組織したのち、他の資本主義世界に対して立ち上がり、他の国々の被抑圧階級を自分の方にひきつけ、それらの国内で資本家に対する蜂起を引き起こし、必要な場合には、武力に訴えてでも搾取階級とその国家と闘争するだろう」(『レーニン全集』第13巻、133ページ。『ソツィアール・デモクラート』1915年8月23日付)11)。

 すでに十分よく知られているこの言葉には、革命は全世界同時とはいかないまでも全ヨーロッパ同時に起こるにちがいないとみなしていた革命家との論争が含まれているだけでなく、将来の「左翼」共産主義者との論争も含まれている。まず第1にレーニンは、革命は個々の国で起こることができるし起こるにちがいないと述べている。どのような国でか? その国内の状況が革命に熟している国々においてである。第2に彼はある種の警告を与えている。ただちに全資本主義世界に対して革命戦争を宣言するには権力をとるだけでは不十分であり…(騒然)

 会場からの声 第4項目について語れ、くだらない長話はもうやめろ。

 トロツキー …そのためには何よりも時間を稼ぎ(「息つぎ」)、「自国に社会主義的生産を組織」しなければならない。そうしてはじめて、他の諸国の被抑圧階級を立ち上がらせることによって、資本主義世界に対する積極的な闘争を遂行することができる、と(騒然)。ここには、2年半後に、レーニンが革命戦争の「左翼」的支持者と論争したときにはるかに具体的かつ全面的に展開したのと同じ思想が語られていることは、明らかではなかろうか? 革命戦争を遂行するためには権力を獲得するだけでは不十分であり、国民の存続を保証するために、つまりは戦争を遂行する可能性そのものを保証するために、プロレタリアートの手中に生産を組織しなければならない。(騒然)そのためには、「少なくとも数ヵ月」は必要である…。したがって、1915年の引用文において、レーニンは、社会主義社会の完全な建設について語っていたのではなく、国営生産の初歩的な組織化のことを語っていたのである。それは、その後の1918年1月における講和に関するテーゼの場合とまったく同じである。このテーゼの中でレーニンは、社会主義について語りながら、労働者階級の手中に工場が移行したのちの生産活動の復興、新しい基盤での生産の連続性の復活のことを念頭に置いていたのである。少なくとも、戦争を遂行する軍隊を養うためには、社会主義共和国を防衛するためには、国際革命を広げるためには、そうした復興が必要不可欠だったのである。1915年の時点ではまだレーニンのことを理解できなかったというのはありうることである。しかし、彼がすでに自分の古い思想を言葉と実践によって徹底的に説明したあとの今になってまだ彼を理解できないというのはどういうことか!

 1917年から23年までの時期に一国社会主義の「理論」に対立するレーニンの発言を何十となく引用することができるだろう。そのいずれもスターリンによって説明されていないし反駁されていない。これらすべてに、1915年の誤って理解されたたった一つの引用文を対置するとは、お笑い種ではないか!

 一国における社会主義の完全な建設の問題はまさに現在、迫り来る戦争の危険性との関係で例外的に重要な意義を帯びるようになっており、われわれの目の前できわめて具体的かつ生きた形態をとっている。私はたまたま、ある一人の労働者通信員と出会った。諸君も知っているように、印刷用の記事を書くのではなく、編集部に情報を伝えるためだけの労働者通信員がいる。戦争の危険性の問題が鋭く提起されたモスクワ党協議会が開催された後の今年の2月末、私は、公表を最初から目的としていない通信員の取材ノートを読んだ。そこには、労働者同志の真に注目に値する会話が記録されていた。

 会場からの声 それが第4項目と関係があるのか?

 カガノヴィッチ いんちきだ。

 ルズターク いつ議題に話が移るんだ?

 シヴェルニク 第4項目の話をしろよ。

 トロツキー 舞台は国営の製菓工場「赤い十月」である。

 25歳ぐらいの女性労働者――「私たちは闘いたくはないが、いったん戦争が私たちに押しつけられたら、私たちの国を防衛しなければならない」。

 40歳ぐらいの男性労働者――「実に立派な言葉だ。だがどうしてお前さんはそんなところに座っているんだ? イギリスの事件に介入してカンパを送るようお前さんに求めた者はいなかったのか? 自分にも責任があるだろ。もしお前さんがそうしないのなら、本当は平和を望んでいないんだよ」。

 25歳ぐらいの女性労働者――「イギリスのプロレタリアートを支援することで、彼らは私たちに恩をあだで返すようなことはしないだろうし、危機の瞬間には、イギリス資本主義が私たちに対して虎視眈々と狙っている血まみれの戦争を防ぐことにもなるのよ」。

 50歳ぐらいの男性労働者……(笑い)(騒然)

 ゲラシモフ 役立たずの情報はもういい。

 会場からの声 70歳の老人は何も言わなかったのか?

 トロツキー 50歳ぐらいの男性労働者――「平和に暮らして自国で社会主義を建設するほうがいいのではないか? 共産党の人々はあらゆる街路や交差点に、われわれは一国で社会主義を建設しきることができるというスローガンを書きつけている。もしそうだとすれば、イギリスの鉱夫に何千ルーブルも送ったりして、どうして他の国々のことに鼻を突っ込むのか?」。

 40歳ぐらいの男性労働者……(騒然、笑い)

 ルズターク これこそトロツキーの綱領だ。

 シヴェルニク どうして40歳に限定するのか?

 トロツキー 40歳ぐらいの男性労働者――「社会主義は一国だけで建設することができるし、建設しなければならない。もし彼ら自身が闘いたいというのなら、闘わせておこう。われわれは闘いたくないが」云々。

 このきわめて雄弁な発表用ではない通信は、一国社会主義の理論が労働者に一つの展望を与えていることを示している。だがこの展望は偽りの展望である。それは国際的過程全体を取り上げておらず、まさにそれゆえそこから生じる結論は偽りなのである。それは、われわれの社会主義建設と国際革命の運命との切っても切れない生きた直接的な結びつきに対するわれわれの理解を弱めてしまう。そしてこのことによって非革命的で平和主義的な結論へと導かれる。その種の結論は今しがた私が読んだ通信の中に示されている。この理論がそのまま定着していくなら、共産主義インターナショナルにとってきわめて否定的な意味を持つことになるだろう。

 まさにそれゆえ、この新しい理論を、出来合いのシパルガルカにもとづいてではなく…

 ルズターク 君自身がシパルガルカを読んでいるんだ。

 トロツキー …誠実で公然たる本格的な討論を通じて審議する機会が党に保障されなければならないのである。問題は第15回大会前に時宜を失せず提起されなければならない。唐突な形ではなく、全面的に思想的に準備された形で検証され審議されなければならない。そのためには、資料集を時宜を失せず出版し、『ボリシェヴィーク』誌か、あるいは大会前の別の専門の討論誌で時宜を失せず討論を開始しなければならない。それと同時に反対派の演説や論文を別個の論文集としてか、あるいは中央委員会多数派の代表者たちの演説や論文といっしょに発表する機会が与えられなければならない。

 ステパーノフ で、第4項目は?

 ウハーノフ チェーホフからの一節でも朗読したほうがいいんじゃないのか。

 

  いわゆる「トロツキズム」の党概念について

 トロツキー 同志ヤロスラフスキーは、党内関係の問題、中央委員会と党との関係を含むこの問題に関して…(会場からの声「貴君がその一員である党についてどう考えているんだ?」)…反対派は「トロツキズム」の見地に立っているとされている。だが、このトロツキズムとはいったい何なのか? 同志ヤロスラフスキーは、キエフの活動家の前で行なった報告の中でわれわれに対する非難を具体化し、次のような事実を持ち出した。同志ムラロフ12)と同志ハリトノフ13)がソヴィエト大会の党グループ会議の場で同志カリーニン14)と同志クイブイシェフ15)のテーゼに対する反対派の修正案を提出するところまで反対派活動をエスカレートさせた、と。もちろん、この修正案を非難するのは同志ヤロスラフスキーの権利である。しかしそれだけではない。彼はこの提出という事実そのものを分派主義であり、トロツキズムであると呼んでいる。彼の言葉を逐語的に引用しよう。

 「中央委員会総会が中央委員会の路線をすでに承認した後に、どうしてソヴィエト大会の党グループがこの問題を討議しなければならないのか? ソヴィエト大会のグループは総会よりも上なのか? 中央委員会総会で合意を得られなかったら大会グループに訴えることができるというのが、トロツキスト的な党概念なのである」。

 同志諸君、もしこれがトロツキズムと解釈されるのなら、はっきり言っておくが、各党員が党員としての最も合法的な権利を行使しようとするあらゆる試みがトロツキズムの概念に入ってしまうことになるだろう。とりわけ、ソヴィエト大会のグループに訴えることに関して言えば、もしこれをしたのが中央委員だとすれば、中央委員の責任として追求することはまだ可能かもしれない。しかし、問題になっているのは中央委員ではない。ちょうどこの問題に関して私の手元には例外的な重要性を持った証拠がある。ソヴィエト大会のグループに訴えることはつねに党の権利や党の伝統や党の規約に反する行為なのだろうか? それはトロツキズムなのだろうか?

 会場からの声 同志トロツキー、もうやめてくれ。お願いだから本質的な問題に移ってくれ。

 トロツキー 同志レーニンは外国貿易の独占問題に関して中央委員会と意見が分かれたとき、1922年12月12日付に中央委員ではないフルムキン16)とストモニャコフ17)に手紙を書いている。

 「私はトロツキーに手紙を書き、両者の意見が一致していることを確認するとともに、私の病気ゆえに、総会で私の立場を擁護してくれるようお願いした。……今日か明日にでも手紙を書き、中央委員会総会でこの問題の本質に関する自らの見解をあなた方にも送りたいと思う。いずれにせよ、この問題の原則的意義が非常に高いので、私としては、もし総会で合意が得られなかった場合には、問題を大会に移さなければならなくなるだろう。それまでは、現在の意見の相違点について、次のソヴィエト大会の共産党グループに対して自分の意見を述べるつもりである」18)。

 12月13日にウラジーミル・イリイチは私に次のような手紙を書いてきた。

 「われわれのあいだには最大限の意見の一致があると私には思われる。ゴスプランの問題は、いま提起されている形では、ゴスプランに命令権が必要かどうかという論争を生じさせる余地はないと思う」19)。

 モロトフ ゴスプランについてだ。トロツキズムのことではなく、ゴスプランのことだ。

 トロツキー いや、外国貿易の独占の問題だ。ゴスプランの問題は後景に退いている。この外国貿易独占の問題は、資本主義諸国に包囲された後進的社会主義国におけるレーニン主義の要石の一つである。まさにそれゆえ、ウラジーミル・イリイチは党グループに訴えようとしたのである。彼はこう書いている。

 「この問題でわれわれが敗北した場合には、この問題を大会に移さなければならないと考えている。そのためには、次のソヴィエト大会の党グループの前で、われわれの異論を手短に明らかにすることが必要である。できるなら私がそれを書くが、あなたがそうしてくれるなら、非常にありがたい」20)。

 さらにウラジーミル・イリイチは12月15日にこう書いている。

 「もし(中央委員会総会で)否決される危険性があるのなら、私は、党大会の後で否決されるよりは、党大会の前に否決されて今すぐソヴィエト大会の党グループに訴える方がはるかに有利だと確信する」21)。

 ウラジーミル・イリイチは同じ12月15日に次のように書いている――「案に相違してわれわれの決議案が通過しなかったら、ソヴィエト大会の党グループに訴えて、問題を党大会に移すことを声明しよう」22)。

 さらに次のように述べている。

 「この問題が今回の総会で却下されたら(そういうことは私は予期しないし、もちろん、あなたは、われわれの共同の名で全力を上げてこれに抗議する必要があるが)、その時には私は、やはりソヴィエト大会の党グループに訴え、問題を党大会へ移すよう要求することが必要だと考える。なぜならこれ以上の動揺は許されないからである」23)。

 最後に、12月21日、総会がジノヴィエフのイニシアチブで、以前の誤った決議を変更したとき、ウラジーミル・イリイチはこう書いてきた――「同志トロツキー、一発も撃たずにマヌーバーの動きだけで陣地をとるのに成功したようだ。私は立ち止まらずに攻撃を続けることを提案する…」24)。

 ウラジーミル・イリイチはここで誰に対して攻撃を続けるよう提案したのだろうか?

 会場からの声 トロツキーにだ!

 トロツキー いや中央委員会にだ――「そしてそのために、外国貿易の強化と貿易活動の改善に向けた諸措置を党大会で持ち出すことを提案する。このことをソヴィエト大会の党グループで公表すること。あなたがこれに反対せず、党グループで報告することを断らないと思う」25)。どうやってこれを「トロツキズム」だとみなすことができるのか!

 

   クレマンソー・テーゼと蜂起主義

 トロツキー 同志諸君、私はここで、『社会主義通報』の論文について「嘘」を語ったとして非難された。中国革命の問題をめぐる基本的な意見の相違に関して『社会主義通報』がどちらの側を支持しているかに関して嘘をついたと。

 会場からの声 その話はもう聞いたぞ。

 トロツキー この点に関して、1頁半を超えない程度の個人問題関係の文書声明を書き送った。それをここで読み上げるよう求めたが拒否された。議長同志は、この声明文書を議事録に、速記録に入れると言明した。

 同志諸君、現在、われわれを分裂させている先鋭な諸問題との関連で、モスクワ宣伝扇動部のシパルガルカを批判した私の論文「これはどこに導くか」を利用する試みがなされた。このシパルガルカは……

 会場からの声 君自身が自分のシパルガルカを読んでいるんだ。

 タリベルク 君がシパルガルカを読んでいるんだよ。

 トロツキー ……オゲペウの印刷局で5000部印刷された。私の論文が、われわれの蜂起主義的傾意図を示す恐るべき証拠だとして持ち出す試みがなされている。

 反対派は、第1次大戦中のフランスのクレマンソー・グループのひそみにならって、別の防衛政策のために闘おうとしているとされている。そしてこれが左翼エスエル的蜂起主義であると。しかしこれはまったくつじつまが合っていない。

 会場からの声 非常によく合っているよ。

 トロツキー 左翼エスエルの蜂起について言うなら、わざわざクレマンソーを持ち出す必要はない。クレマンソーの政策を反対派攻撃に使いたいのなら、左翼エスエルの蜂起を持ち出す必要はない。反対派は、クレマンソー・グループのように権力を自己の手に握ろうとしている、と言われている。だが反対派は、そしてこのことを中央委員会からも、党からもいっさい隠していないのだが、指導部から反対派を追い出したことは党の利益を害するものだと考えている。いかなる真面目な思想的潮流も、このような見地に立たないわけにはいかない。われわれは、反対派を指導部から取り除いたことは、とりわけ昨今、中国革命の路線にきわめて重大な影響を及ぼしたとみなしている。

 会場からの声 もう中央委員会には戻れないぞ。

 トロツキー われわれは、この同じ原則的性格を持った誤謬が、まさに戦争の際にソ連を防衛する事業にとりわけ有害な影響を及ぼすと考えている。それゆえわれわれは、戦争のときこそ、より柔軟でよりまっとうでより健全な党体制を維持する、いやより正確に言えば復活させる必要があると考えている。このような体制とは、適時の批判、時宜を失せぬ警告、時宜を失せぬ政策転換を可能とするものである。どうしてここから蜂起主義なるものが出てくるのか? 私が、自分の考えを例証するためにフランスにおけるブルジョア政党の政治史の分野から拝借してきた歴史的事例に立ち返るならば、クレマンソーの野党がまさに権力に到達したのは、蜂起を通じてでもなければ、同国のブルジョア的合法性の破壊を通じてでもなく、他ならぬブルジョア的・資本主義的な合法手段を通じて、フランスの議会制度を通じてであった。フランス議会の構成さえ不変のままであった。再選挙はなかった。戦争の経験を通じて、フランス・ブルジョアジーは、その右派分子を筆頭に次のような結論に至ったのである。クレマンソーやタルデュー26)らの内閣の方が、ペンルヴェ27)=ブリアン28)内閣よりも戦時におけるブルジョアジーの利益を擁護することができる、と。いったいこの歴史的事例のどこが蜂起主義の思想を示しているというのか?

 わが国に議会制度のメカニズムが存在しないと言って異論を唱えることもできるし、われわれもみなそのことは認めるだろう。しかり、幸いなことにそのような機構は存在しない。しかし、わが国には党のメカニズムが存在する。党は、平時においてと同様、戦時においても、すべての党機関に対する統制力を保持しなければならない。党は、通常の問題であれ例外的な問題であれ、すべての基本問題を大会にもとづいて決定しなければならない。党が、反対派を指導部から取り除くことは誤りであるという結論に到達する可能性は十分あるし、党がこの誤りを修正することも可能である。

 タリベルク まるで弁護士の弁論だな。

 トロツキー 党が、2つの大会の間の時期になされたことを修正することは可能なのか不可能なのか? 党が来たる大会において、わが国の防衛のために、わが国の経済のために、中国革命とコミンテルン全体のために、党指導部がレーニンがその遺書で書いたような原則にもとづいて組織されなければならないという決定を下すことは、可能なのか不可能なのか? いったいどちらなのか? 私は可能だと考える。反対派全体もそう考えていると思う。ここには、いわゆる蜂起主義のかけらも存在しないだけでなく、別党政策や分裂政策といった非難を呼び起こす余地などまったく存在しない。

 蜂起主義に関してここで実に曖昧な形で投げつけられた非難を強化するために、非常に特異で奇妙な画策がなされており、その画策は、私が軍事問題に関して中央委員会政治局に提出した覚書〔8月1日のトロツキーの演説「戦争の危険性と防衛政策」を参照のこと〕を利用している。

チュバリ

 チュバリ〔右の写真〕29 なんてもって回った言い方だ。

 トロツキー この種の覚書は革命後の10年間に、中央委員によっても、また中央委員でない者によっても、あるいは個々の軍事活動家や軍事活動家のグループによっても、何十回となく提出されてきたものである。軍事力の編成上のあれこれの誤った政策や軍事政策全般における誤りに注意を促すために党員が中央委員会に手紙を送る行為が反党的なものであるなどと、いままで誰も考えたことはなかった。

 チュバリ かつて一度もヤロスラブリ駅でのデモンストレーションなどなかった。

 トロツキー 第8回党大会において、すでにここで語られたように、軍事反対派の固く結束したグループは、軍事建設の分野で中央集権的なプロレタリア軍事路線に反対して地方分散主義とパルチザン主義を主張した。だが、当時、このような行為を反党的傾向とみなした者は誰もいなかった。ちなみに同志ヴォロシーロフは、あたかも私がこの問題のせいであえて第8回党大会に出席しなかったかのように述べた。私としてはこの点に関して、個人的問題ながら、政治局の決定からの正確な引用を添えて声明文を送付しておいた。大会が迫っていたにもかかわらず、政治局は、東部戦線でのわが軍の失敗――ウーファ近郊からの退却――をかんがみて私を前線に送ることを決定したのである。残念ながら、この声明文は発表されなかった。同志議長は、この声明文を議事録に入れることを約束した。

ベーロフ

 さて、軍事文書に話を戻そう。1924年初め、ヴァーク(旧陸軍大学校)で、中央委員会向けの報告文書が起草された。それは、同志ドゥイベンコ30)、フェディコ、ウリツキー31)、ベーロフ〔左の写真〕32などの諸同志の参加にもとづいて作成された軍事建設問題の文書である。同志カハニャンなどを通じて、この文書に対する軍事活動家の署名が集められ、中央委員会に提出された。たしかに、その際、そうすることにいかなる特別の危険性もない、なぜならその文書はすでに何人かの中央委員に知られているからだと耳打ちされた。文書は手から手へかなり広範囲に流布された。この文書は、私が政治局に提出した覚書で扱われていたのと同じ軍事活動上の困難が取り扱われていたが、別の観点から扱われたものだった。この声明に署名したすべての者たちは無害な存在としてそのまま放置されただけでなく、一部の最も積極的にこの行動に参加した者たちは、この覚書を提出した直後に大幅な昇進を果たしている。

 したがって私は、中央委員会のメンバーとして、ここで名前を挙げた数人の軍事活動家たちとの話し合いにもとづいて起草された報告文書を提出する権利があったと考えるものである。だが私が文書を提出したとき、まったく奇妙な叫び声、非難、そして脅迫さえも起こった。最後の頁がまだ書き終わっていなかったので、声明の提出が1時間半延期された。このことを理由に、総会の全機構が動き出し、同志ウンシュリヒト33)が中央委員会総会の正式の決定をもってクレムリンの廊下に現われた。これはいったい何のために必要だったのか? 「軍事的陰謀」という言葉さえ聞かれた。ある中央委員が中央委員会に1通の覚書を提出したというだけで、軍事的陰謀とは! しかも、提出する際に、軍事活動の個々の諸側面をめぐって相談した若干名の、絶対に信用の置ける党員の名前をはっきりと挙げておいたというのに。この騒動はいったい何のためなのか? その目的は誰もが理解している。これは、反対派の蜂起主義なる非難を明日にでもでっち上げるための材料をいつでも準備しておけるように組織されたものである。言うまでもなく、このようなやり方でもって党内関係をいささかも緩和することなどできるはずもないし、党内生活のためのより正常な条件をつくり出すこともできはしない。この正常な条件こそ、他のどの党員、他のどの中央委員や中央統制委員にも優るとも劣らず、われわれが自分たちの擁護する思想のために目指しているものに他ならない。

 

   共産党員の銃殺問題

 トロツキー ここで言っておくが、いかにわれわれの意見の相違が大きいものであっても、いかにそれが先鋭なものであっても、先鋭な党内問題を論議する際に、党員に対して「あいつは共産党員を銃殺した」などと非難することは、共産党員同士の関係ではかつてなかったことであり、必然的に、極端に激しい反応を引き起こすし、他の状況のもとでは許されないほど声を荒げる事態をもたらす〔トロツキーがこの総会でのヴォロシーロフの発言中に自分の席から大声を上げたことを指している〕。中央統制委員会幹部会の会議において、同志ヤロスラフスキーがあえてこのような発言を行なったとき、同志オルジョニキッゼはただちに彼を制した。

 会場からの声 中央統制委員会の書記局の会議だ。

 トロツキー そうその通り、書記局の会議だった。そして、言うまでもなく、同志オルジョニキッゼが彼を制したので、私は、ここで示さざるをえなくなったような激しい大声を控えることができた。そして、もちろんのこと、そのような反応は指導的機関の、あるいは一般に党機関の枠内ではまったく許されないものである。

 ヤロスラフスキー 君は共産党員を黒百人組と呼んだ。

 トロツキー だが、不幸なことに、同志ヴォロシーロフの演説では制する者が誰もいなかった。ヴォロシーロフの発言――それはどんな党員でも自分の名誉を守るためには放置しておくことのできないものであり、私もまたそうすることはできなかった――に関して、私は文書での声明を提出したが、残念ながら公表されなかった。この声明文書の中で、とっくに諸君全員にとって明白であったにちがいないことを確認した。すなわち、私の指導のもとで、私の直接の命令のもとで銃殺された者はいずれも脱走兵や裏切り者、白衛派であって、共産党員〔共産主義者〕が銃殺されたことはけっしてないことである。共産党員を銃殺したのはわれわれの階級敵である白衛派である。脱走兵や裏切り者の中に共産党員が含まれていたとしたら、もちろんこのような人物は脱走兵として銃殺されたのである。

 ラドチェンコ バカーエフやザルツキーについてはどうか?

 トロツキー 私に5〜10分与えてくれるなら、同志バカーエフと同志ザルツキーに関するすべての文書を公表しよう。私がザルツキーとバカーエフの銃殺を命じたというのは本当ではない。この問題は当時、私の要求にもとづいて中央委員会の中で調査された。事態は次のようなものであった。革命軍事会議が、中央委員会の支持のもと、次のような命令を出した。自分の家族が敵側の支配地域にいる指揮官を戦闘地域に配置しないように、また一般に重要なポストに就けないようにするために、どのコミッサールも、同じ部隊に属する指揮官の家族がどこにいるかを把握しなければならない、と。そうしないと、この指揮官は家族のもとに行こうとして、われわれを裏切り、前線を崩壊させるとともに、何千、何百人もの赤軍兵士と指揮官を破滅に追いやるかもしれないからである。命令は、すべてのコミッサールに対しこの任務を遵守する義務を厳格な言葉で求めていた。東部戦線の一師団で指揮官グループの裏切りのために動揺が広がり、その方面全体に深刻な影響を及ぼしたとき、私は南部戦線にいた。電報で裏切りを知った私は、同志スミルガと同志ラシェヴィチに電報を送り、これらの裏切った指揮官グループの家族をただちに捕らえて人質とし、その当時の法律にもとづいて、情報提供者や共犯者になりそうな人物を銃殺するよう要請した。だが、家族に関しては所在が不明であるとの返信が来た。どういう人物がコミッサールであるのか知らなかった私は――当時にあっては、非常に信頼の置けないコミッサールがしばしばいた。この時期、コミッサール層の支柱がはなはだ不安定な時期だったのだ――、命令に反して指揮官層の家族の居場所を把握していないコミッサールを裁判にかけて銃殺する必要があると述べた電報を打った。これは銃殺を命じる命令ではなく、当時にあってはよく用いられていた強い圧力をかける手法であった。私の手元には、ウラジーミル・イリイチによるその種の電報が何十とあるし、お望みとあらば今ここで読んでもよい。

 会場からの声 必要ない。

 トロツキー ラシェヴィチとスミルガは次のように返答してきた。われわれのところにいるコミッサールは、これこれこのような人物であり、すばらしい同志だ、彼らの責任はわれわれにあり、もし気に入らないということであれば、われわれを解任してもらいたい、と。これに対して私は文字通り次のように答えた。

 「同志諸君、冗談はやめてくれたまえ。諸君は最良のコミッサールだ。これ以上はないぐらいに。ただ私が言いたかったのは、敵の陣営に寝返りかねないような指揮官の家族を何十倍、何百倍も入念に見張っておかなければならないということだ」。

 同志バカーエフと同志ザルツキーは、諸君もご存知のように銃殺されなかった。私とこれらのコミッサールのあいだに、スミルガやラシェヴィチのような同志が立っていたおかげである。そして私も、先のような電報を送りつつも、どうせ何もなされないだろうと確信していた。当時にあってはそれは軍事的圧力をかけるよくあるやり方だったのだ。以上のことについて、中央委員会は私から事情聴取して知っていた。

 私はすでに中央統制委員会に、ウラジーミル・イリイチが私にくれた空白のメモ用紙を提示した。このメモ用紙はまさに、私が共産党員を銃殺したとの噂が政治局にまで届いたときに私に手渡されたものである。同志ザルツキーと同志バカーエフの問題は、基本的に誤解にもとづくものである。だが、連隊コミッサールのパンテレーエフは実際にカザン近郊で銃殺された。当地のコミッサールと指揮官たちは、われわれが包囲されていたときに、戦線を放棄して、汽船を奪い、ニジニ・ノヴゴロトに逃げようとしたのだ。われわれは彼らを捕まえて裁判にかけ、銃殺に処した。この事件のことについては当時すでに政治局に報告済みである。政治局はわれわれの処置を正しいとものとみなした。その後、トロツキーが共産党員を銃殺したとの話がレーニンの耳に入ったとき、レーニンは私に、彼自身の発意で、最大限の信頼を示す例の空白のメモ用紙を渡してくれたのである。このメモ用紙を私はレーニン研究所に提供した。この空白のメモ用紙の下の方には、次のような言葉が書かれていた(諸君は中央統制委員会の速記録で確認することができる)。

 「同志諸君、私は同志トロツキーの命令の厳格な性質を知りつつ、同志トロツキーによって発せられた命令が正しく、合目的的で、われわれの事業にとって必要であることを確信するがゆえに、しかも絶対的なまでに確信するがゆえに、私はこの命令を全面的に支持するものである。V・ウリヤーノフ(レーニン)」34)。

 私が彼にこれは何のためのものですかと尋ねると、ウラジーミル・イリイチはこう述べた。「これは、今回のような噂がまた復活してきたときのためのものだ。この空白部分には、状況によって必要となったどんな決定でも君は書き込むことができる」。私はあえてこのメモ用紙を利用することはしなかった。それは、歴史的文書として私の手元に保存され、その後、レーニン研究所に引き渡された。このメモ用紙は、当時しばしばあった意見対立にもかかわらず、ウラジーミル・イリイチが、私が彼の信頼を悪用するような人物ではないこと、内戦という最も緊迫した状況にあっても、自分の権力を濫用して革命の事業や個々の同志を傷つけるようなことをしない人物であるとみなしていたことを物語っている。

 この問題と結びついて……

 カガノヴィチ ヤロスラヴリ駅のことについて言えよ。

 会場からの声 クレマンソーやテルミドールのこともだ。

 

   正常な党内体制のために

 トロツキー その問題にはすぐに移る。同志オルジョニキッゼはここで、10月16日の声明を引用した。この声明の基本思想は、分派活動を拒否するということである。われわれのこの10月16日の声明は真摯なものだったのだろうか? 同志諸君、われわれのところには、中央委員会の反対派党員が全力を尽くしてこの義務を遂行したことを示す十分な情報が存在する…(騒然)

 会場からの声 おいおい!

 会場からの声 全力を尽くして分派活動を遂行したんだろ!

 会場からの声 ふざけるな!

 会場からの声 いったいどういう意味でだ?

 トロツキー 反対派党員たちに対して、こそこそせず、隅でひそひそ話をしたりせず、党から隠れず、公然と党の正規の組織の中で自らの見解を述べるよう指示したという意味でだ。たしかに、どの潮流も自己の支持者に対して全体として責任を負っている。もちろん、個々人ではなく、全体としてだ。しかしながら、次のことも確かだ。党体制が、党内での批判がどのような形態を帯びるかに対しても責任を負っているということだ。(会場からの声「何とまあ!」)

 同志オルジョニキッゼが定式化した条件についてだが、私は、同志ジノヴィエフがここで述べたことにおおむね同意する。もちろん、この条件をあれこれの同志が中央委員会に残るための条件とみなすことは誤りであろう。言うまでもなく問題の本質はそんなところにはない。近いうちに党大会が開催される。その大会では、2年間もの中断の後にようやくにして、他の諸問題とともに、党中央委員会の構成の問題も解決される。こうした状況のもとでは、あれこれの人物が中央委員会から除名されるかされないかは、党内関係がどちらの方向に向けて変化していくかを示す外的な徴候にすぎず、それ以上のものではない。(会場からの声「これはこれは!」)。まさにわれわれが党内で擁護している見解を防衛するためであり…(会場からの声「駅で防衛しろ!」)、そしてこの防衛をわれわれは、党が現実の事件と思想闘争の経験にもとづいて諸見解を検証することであると理解している。あらゆる先鋭な論争とそれがもたらすあらゆる諸結果を伴った現在の党内闘争は、偶然的なものではない。それは、ヤロスラヴリ駅で中央委員を送りだすという事件をもたらした。誰もこれを正常なこととみなしていない。しかし、『プラウダ』が何ヵ月にもわたって一部の中央委員をあたかも社会主義共和国の敵であるかのように扱うという事態もけっして正常なこととみなすことはできないはずである。どちらも不正常であり、どちらも相互に結びついている。一方を他方から引き離したり切り離すことはできない。どんなに最良の意図にもとづいていたとしても、党内でより正常な体制、より健全な体制がつくり出されないかぎり、それは不可能だろう。

 会場からの声 どのような体制か?

 トロツキー われわれは声明する。深刻で原則的な意見の相違にもかかわらず、第15回大会前に、そして第15回大会を通じて、党内関係が改善するよう、なしうるすべてのことを行なうだろうと。

 会場からの声 永遠に議論するつもりか。

 トロツキー そして、中央委員会が、反対派メンバーの力を、軍事関係であれ非軍事関係であれ、どんな仕事にでもより容易に利用することができるよう、なしうるすべてのことをしよう。この反対派メンバーが、たまたま反対派に紛れ込んできた偶然的分子ではないかぎり(反対派の中にもそういう人物はいる)、どの反対派メンバーも誠心誠意、自分に与えられた仕事を遂行するだろう。

 会場からの声 単なる見せかけだ!

 会場からの声 もう演説をやめろ!

 会場からの声 トムスキーにしゃべらせろ!

 議長 では同志トムスキー、発言をどうぞ(拍手)。

1927年8月6日

『トロツキー・アルヒーフ』第4巻所収

新規、本邦初訳

  訳注

(1)スターリン「8月5日の演説」、邦訳『スターリン全集』第10巻、大月書店、88頁。この報告の中でスターリンは、一国社会主義の問題を蒸し返して、反対派を非難している。

(2)カガノヴィチ、ラザーリ・モイセーヴィッチ(1893-1991)………ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ。1911年にボリシェヴィキに入党。1924年、中央委員。1930〜52年、政治局員。スターリンの旧友で、政府と党のなかのさまざまなポストを歴任し、粛清の立役者の一人。1950年代にフルシチョフがソ連邦の指導権を握ったときに「反党」分子として、1956年にいっさいの役職から解任された。

(3)アンティポフ、ニコライ・キリロヴィッチ(1894-1938)……1912年からの党員。1917年に党ペテルブルク委員会メンバー。1923〜24年、モスクワ委員会書記。1924〜37年、党中央委員。1928〜31年、電信郵便人民委員。1931〜34年、中央統制委員会幹部会メンバー。1937年、すべての役職から解任され、党も除名され、逮捕。1938年に銃殺。1956年に名誉回復。

(4)スクルイプニク、ニコライ・アレクセーエヴィチ(1872-1933)……ウクライナの革命家。1897年からロシア社会民主労働党員。1903年以来の古参ボリシェヴィキ。ウクライナの民族問題に通じており、ウクライナのロシア化政策に反対した。1933年に党主流派からの偏向キャンペーンを苦に自殺。

(5)シヴェルニク、ニコライ・ミハイロヴィチ(1888-1970)……労働者出身の古参ボリシェヴィキ、労働組合活動家、スターリニスト。1905年からボリシェヴィキ。1926〜27年、中央委員会書記局員および組織局員、1930〜46年、中央委員会組織局員。1946年、死去したカリーニンに代わってソヴィエト最高幹部会議長に。

(6)ペトロフスキー、グリゴリー・イワノヴィチ(1878-1958)……古参ボリシェヴィキ。1897年から「労働者階級解放同盟」に参加。1912年に第4国会議員に選出され、ボリシェヴィキ議員団の一員。同年、中央委員会に補充。1918年、ソヴィエト側の講和代表団の一人。1919〜1938年、全ウクライナ中央執行委員会議長。1921年から党中央委員、1922年から、中央統制委員。1926年に政治局員候補。

(7)レーニン「不幸な講和の問題の歴史によせて――併合主義的単独講和の即時締結の問題についてのテーゼ」、邦訳『レーニン全集』第26巻、大月書店、453頁。レーニンはこの文章に続けてこう述べている――「すなわち、そのあいだに、社会主義政府が、まず自国内でブルジョアジーに打ち勝ち、広く深い大衆的な組織活動に乗り出すために、まったく自由に行動すべき期間が必要であるという結論が、右の事情からまったくはっきりと出てくる」。

(8)レーニン「『左翼的』な児戯と小ブルジョア性について」、邦訳『レーニン全集』第27巻、337頁。

(9)レーニン「ロシア革命の5ヵ年と世界革命の展望」、邦訳『レーニン全集』第33巻、435頁。

10)ルズターク、ヤン・エルネストヴィチ(1887-1938)……ラトヴィア出身の古参ボリシェヴィキでスターリニスト。1906年から革命運動に参加。1909年に逮捕され15年の懲役刑を宣告される。2月革命後に釈放され、10月革命に参加。1920年から中央委員、1923年から書記局員。労働組合運動および各種の経済機関で活動。1924〜30年、運輸人民委員。1926年7月にジノヴィエフに代わって政治局員に。1937年にトハチェフスキー事件に連座して逮捕、1938年に銃殺。1956年に名誉回復。

11)レーニン「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」、邦訳『レーニン全集』第21巻、311頁。

12)ムラロフ、ニコライ(1877-1937)……ロシアの革命家、1903年以来の古参ボリシェヴィキ。10月革命後、モスクワ軍管区司令官。内戦中は、各戦線の軍事革命会議で活躍。左翼反対派の指導者の一人として1928年に逮捕・流刑。1937年に第2次モスクワ裁判の被告の一人として銃殺。

13)ハリトノフ、M・M(1887-1948)……1905年からボリシェヴィキ。労働組合論争ではトロツキー派。1922〜1925年、ウラル・ビューロー、ペルミ県委員会、サラトフ県委員会の書記を歴任。

14)カリーニン、ミハイル(1875-1946)……ロシアの革命家、労働者出身の古参ボリシェヴィキ。1896年にロシア社会民主労働党に入党。数回の逮捕・投獄を経験。1919年に死亡したスヴェルドロフに代わってソヴィエト中央執行委員会議長に選ばれ、死ぬまでソ連の形式上の元首の地位にとどまる。

15)クイブイシェフ、ヴァレリアン(1888-1935)……ロシアの革命家、1904年以来のボリシェヴィキ。軍医学校の元学生。10月革命後に積極的に参加。1918年、左翼共産主義派。内戦期は赤軍政治委員。1922年以降、中央委員、中央統制委員幹部会書記。1923年、中央統制委員会議長、人民委員会議副議長。1926年に最高国民経済会議の議長。このポストに就いてから、スターリニストの経済政策の主要な代弁者としての役割を果たす。1930年、ゴスプラン議長。献身的なスターリニストだったが、1935年に、トロツキズムの非難を浴び、謎の死を遂げる。死後にこの非難は取り消され、多くの都市が彼の名前にちなんで名称を変更した。

16)フルムキン、エヌ・イ(1878-1938)……別名ゲルマノフ。1890年代から社会民主主義運動に参加、古参ボリシェヴィキ。1917年の2月革命後はクラスノヤルスクおよびオムスクで党県委員。1920年、シベリア革命委員会副議長。1922年以降、財務人民委員部参与、外国貿易人民委員部代理、財務人民委員代理などを歴任。

17)ストモニャコフ、ベ・エス(1882-1941)……古参ボリシェヴィキ。1902年にロシア社会民主労働党に入党。1920〜25年、ベルリン駐在外国貿易人民委員部全権代表。

18)この手紙は邦訳『レーニン全集』には収録されていない。『知られざるレーニン文書 1891-1922』、ロスペン、1999年、577〜578頁。

19)レーニン「エリ・デ・トロツキーへ」、邦訳『レーニン全集』第45巻、783〜784頁。

20)同前、784頁。

21)レーニン「エリ・デ・トロツキーへ」、同前、788頁。

22)レーニン「エリ・デ・トロツキーへ」、同前、787頁。

23)同前。

24)レーニン「エリ・デ・トロツキーへ」、同前、790頁。

25)同前。

26)タルデュー、アンドレ(1876-1945)……フランスのブルジョア右派政治家。1914年、下院議員。対独強硬論を主張。1919年、ベルサイユ条約の起草に参加。1926年より閣僚を歴任。1929〜30、1932年に首相。中央共和党創立。

27)ペンルヴェ、ポール(1863-1933)……フランスの政治家。フランス科学アカデミー会員。ドレフュス事件でドレフュスを擁護。1917年と25年に首相を経験。

28)ブリアン、アリスティッド(18621932)……フランスのブルジョア政治家、弁護士。もともとフランス社会党の活動家で、1901年に社会党の書記長。1902年に下院議員。1904年に『ユマニテ』創刊に協力。1906年に文相。統一社会党から独立社会党に移る。しだいに保守化し、1910年の鉄道労働者のゼネストを弾圧。第1次大戦後、首相を10回、外相を11回つとめ、平和外交路線を推進。

29)チュバリ、ヴラス・ヤコヴレヴィチ(1891-1939)……ウクライナの農民出身で技師、古参ボリシェヴィキ。1907年に入党。1918〜23年、ヴェセンハの幹部会員。1920〜22年、ウクライナ経済会議の議長。1921年から中央委員。1926年から政治局員候補、1935年から政治局員。1923〜34年、ウクライナ人民委員部議長。1938年に逮捕、39年に銃殺。1955年に名誉回復。

30)ドゥイベンコ、パーヴェル・エフィモヴィチ(1889-1938)……ソ連の軍事活動家、赤軍幹部。1912年からのボリシェヴィキ。2月革命後、バルティック艦隊中央委員会議長。1917〜18年、海軍人民委員。その後、各軍管区の司令官を歴任。1938年に他の赤軍幹部とともに銃殺。1956年に名誉回復。

31)ウリツキー、セメン・ペトロヴィチ(1895-1938)……ソ連の軍事活動家。モイセイ・ウリツキーの甥。1912年に入党、ボリシェヴィキ。1915年に召集されてロシア軍に入隊。1917年にオデッサの赤衛軍メンバーとして活躍。内戦中は赤軍第2軍の旅団長。1922〜24年、ドイツで非合法活動に従事。その後、軍事関係のポストを歴任。1937年に逮捕され、他の赤軍幹部とともに陰謀の罪で死刑を宣告され、1938年に銃殺。1956年に名誉回復。

32)ベーロフ、イワン・パンフィロヴィチ(1893-1938)……ソ連の軍事活動家、赤軍幹部。1917年に左翼エスエルに入党。革命および内戦中は、タシケントやトルケスタンで軍事活動に従事。その後、各軍管区の司令官等を歴任。1938年に逮捕され、他の赤軍幹部とともに銃殺。

33)ウンシュリフト、ヨシフ・スタニスラヴォヴィチ(1879-1938)……ポーランド出身の革命家、軍事活動家。1900年来のロシア社会民主労働党員。1906年以降ボリシェヴィキ。反動期には何度も逮捕される。1917年、ペトログラード革命軍事委員会のメンバー。1925年、中央委員候補。1925〜1830年、革命軍事会議副議長。1920年代には反トロツキー闘争に積極的に加わるが、1937年に逮捕され、1938年に他の赤軍幹部とともに処刑。1956年に名誉回復。

34)このメモ用紙は、1991年にロシアで出版された『レーニンの知られざる文書』(ロスパン社、モスクワ)の中に収録されている。 

 

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1920年代後期