ブハーリンへの3通の手紙

 トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

ニコライ・ブハーリン

【解説】この手紙は、1926年初頭にブハーリンに宛てた3通の手紙である。トロツキーはこれらの手紙を通して、何とかブハーリンをスターリンから引き離して、共産主義者としての良心に目覚めさせようと最後の努力を行なったが、この努力は実らなかった。ブハーリンは、スターリンのバックアップで得た権力の幻想に酔い、反対派狩りに血道をあげることになる。しかし、反対派が一掃されるやいなや、ブハーリンはスターリンにとって邪魔な存在となり、右翼反対派として追及されることになる。

 最初の手紙では、トロツキーはとりわけレニングラードの新反対派の問題を取り上げ、レニングラードにおける党体制の問題は、党全体の問題ではないのかと提起するとともに、レニングラード党の問題性は以前から周知のことであったのに、レニングラードが反対派に移行するまでなぜまったく問題にされなかったのか、と問い質している。

 第2の手紙では、党内で蔓延しつつある反ユダヤ主義の問題を取り上げ、反ユダヤ主義が反対派攻撃に使われているというおぞましい事態に警告を発し、いっしょにそれを確認しようではないかと訴えている。

 最後の第3の手紙は、ごく短いものであるが、ブハーリンとの最後の対話の機会を求めている。ブハーリンは結局この訴えにも耳を貸さず、スターリンのハンマーであり続けた。

 Л.Троцкий, ТРИ ПИСЬМА ТРОЦКОГО БУХАРИНУ, Портреты революционеров, Сос. Фельштинский, 1991.


  第1の手紙

  第2の手紙

  第3の手紙


   1、第1の手紙

 

 親愛なるニコライ・イワノヴィッチ!

 あなたの手紙に感謝します。あなたの手紙は党内生活の最も先鋭な問題について――長い中断を経て――意見交換する機会を与えくれたからです。しかも、運命の意思と党大会の意思によって、あなたと私は同じ政治局で働いているのですから、問題をこのように同志的に解明しようとする誠実な試みは、いずれにしても、何ら害悪をもたらすものではないでしょう。

 カーメネフは会議の場であなたを非難しました。あなたが以前には「反対派」(明らかにカーメネフは1923〜24年の反対派のことを指しています)に対する極端な機構的圧力に反対していたのに、今ではレニングラードに対する最も厳しい措置を支持しているではないか、という非難です。私はその時こう独り言を言いました、「彼は味をしめたのだ」と。あなたは私のこの言葉に食ってかかり、こう書いています。「あなたは私が味をしめたのだと考えているようですが、この『味』は私を頭のてっぺんからつま先まで震え上がらせます」。私はけっして、この偶然的な発言によって、あなたが機構による極端な抑圧的手段に喜びを感じていると言いたかったのではありません。私の考えはむしろ、あなたがそうした手法に順応し、慣れ親しみ、機構の指導的分子の外部に及ぼすそうした政策の衝撃と影響に気づかなくなってしまったということなのです。

 あなたは手紙の中で、私が「民主主義の形式的な考慮ゆえに」現実の状況を見ようとしていないのだと非難しています。しかしあなた自身は「現実の状況」をどのように見ているのでしょうか。あなたはこう書いています。

 「(1)レニングラードの『機構』は骨の髄まで塗り固められています。上層は日常生活にいたるまで固く結束していて、8年間何の交替もなく権力にとどまってきました。(2)下士官層は見事に選び抜かれています。彼ら(上層)の考えを変えることは不可能です――それはユートピアです。(3)彼らが投機的に持ち出している主な問題は、産業労働者の経済的特権(融資、工場など)が奪い取られてしまうというものですが、これは不誠実きわまりないデマゴギーです」。

 ここから、あなたは、「上からの抵抗を粉砕しながら、下から人々を獲得する必要がある」との結論を導き出しています。

 あなたと論争したり過去を思い起こさせるためではけっしてなく――それは何にもなりません――、問題の本質に迫るために、やはりこう言わなければなりません。あなたは、党機構と党員大衆とを対置する最も先鋭で明確な定式をつくり出してしまったのだと。あなたの解釈は次のとおりです。上層には、固く結束した、あるいは、あなたが言ったよう強固に「塗り固められた」グループが存在し、下部には見事に選び抜かれた下士官層がおり、そして、この党機構はデマゴギーによって欺かれ、腐敗させられており、労働者大衆がこの機構に追随している、というわけです。もちろん、あなたは私的な手紙では論文でよりも強い調子で自分の考えを表現しているのかもしれません。しかし、その点を斟的したとしても、その構図は破滅的なものです。すべての思慮深い党員は自問することでしょう。ジノヴィエフ派と中央委員会多数派との間に衝突が生じなかったとしたら、レニングラードの上層指導部は、過去8年間かけて確立してきたこの体制を9年目、10年目にも維持し続けたのだろうか、と。

 「現実の状況」はけっしてあなたが見ている点にあるのではなく、以下の点にあります。レニングラードの体制の許しがたい性格が暴露されたのは、モスクワの上層部との間で衝突を引き起こしたためであって、レニングラード組織の下部が抗議したり、不満を表明したりなどしたからでない、ということです。このことがあなたの目に映っていないというのでしょうか? レニングラードが、すなわち、プロレタリアートの最も文化的な中心地が、強固に「塗り固められた」上層部と、「日常生活にいたるまで固く結束している」選び抜かれた下士官層によって支配されているとすれば、党組織はどうしてこのことに気づかなかったのでしょうか? レニングラード組織には、抗議の声を上げ――たとえその抗議が中央委員会から何の反応も得なかったとしてもです――、組織の多数派を自分たちの側に獲得しようとする活力とエネルギーに満ちた良心的な党員が本当にまったくいないのでしょうか? 何といっても、問題になっているのはチタやヘルソンではないのですから(もちろん、これらの地でもまた、ボリシェヴィキ的党組織が何年も何年も上層部による横暴を許しはしないだろうと期待することができるし、期待すべきですが)。問題になっているのはレニングラードです。そこには、疑いもなく、わが党の最もプロレタリア的で最も熟練した前衛が集中しています。「現実の状況」はまさにここにあるのであって、それ以外のところにはないことを、あなたは本当にわかっていないのでしょうか? そして、この状況をしかるべく熟慮するならば、次のような結論に到達するはずです。すなわち、レニングラードはけっして特別の世界ではない、レニングラードは、党全体に固有の否定的特徴をより先鋭でより醜悪な形で表現しているにすぎないのだ、と。これは明白ではないでしょうか?

 あなたは、あたかも私が「民主主義の形式的な把握ゆえに」レニングラードの実情を見ることができないように考えています。しかしそれは誤っています。私は一度も民主主義が「神聖」であるなどと宣言したことはありません。私のかつての友人の一人[ブハーリンのこと]がそうであったように。

 おそらくあなたは、2年以上前に私の自宅で行なわれた政治局会議で、レニングラードの党員大衆は他のどの地域よりも抑圧されていると私が語ったことを覚えているでしょう。私がこの表現(それが非常に強い調子のものであったことを認めます)を使ったのは、ちょうどあなたが私信の中で「不誠実なデマゴギー」という言葉を使ったように、きわめて狭い集団の内部においてでした(たしかに、このことは、レニングラードの党機構による党員大衆の抑圧という私の発言が会議や新聞を通じて広められることを妨げはしませんでしたが。しかし、これは特殊な事柄であって――私はそう期待しますが――前例にはなりません)。つまり、私は現実の状況を見ていたということです。しかも、一部の同志たちと違って、1年半前、2年前、いや3年前にそれを見ていたのです。当時、この会議のさい、私は、レニングラードでは、事態が非常に悪化するわずか5分前には万事うまくいっているように見えた(100%の賛成)と言いました。これは、極度に機構的な体制のもとではじめて可能なものです。どうして私が現実の状況を見ていなかったかのように言えるのでしょうか? たしかに、私はレニングラードと国の他の地域とが、浸透不可能な壁によって切り離されているとはみなしていませんでした。「病んだレニングラード」と「健全な地方」という理論は、かつてケレンスキー時代に大いにもてはやされたものですが、私の理論ではありません。私は、レニングラードの党体制には党全体に固有の機構的官僚主義の特徴が最も極端な形で表現されているのだと言ったし、今もそう言います。しかし、つけ加えておかなければならないのは、(1923年秋からの)この2年半で、機構的・官僚的傾向はレニングラードだけでなく全党にわたって著しく増大したということです。

 ちょっと次の事実について考えてみてください。モスクワとレニングラード、この2つの主要なプロレタリア的中心地が、自分たちの県党協議会[県レベルでの党大会のこと]で互いに相手を批判する決議を、同時に、しかも満場一致で(考えてみてください、満場一致ですよ!)採択したという事実です。そして、さらに考えてほしいのは、機関紙誌に代表されるわが党の公式見解がこの真に衝撃的な事実についてまったく報じていないことです。

 こんなことがどうして起こりえたのでしょうか? ここにはいったいどのような社会的動向が隠されているのでしょうか? レーニンの党において、諸潮流のこのような極端に深刻な衝突が存在しているというのに、それらの社会的、すなわち階級的性格を定義しようとする試みが何らなされなかったというのは、考えられないことです。私が問題にしているのは、ソコーリニコフやカーメネフやジノヴィエフの「気分」についではなく、それなくしてソヴィエト連邦も存在しなかったであろう2つの主要なプロレタリア的中心地が「満場一致で」相互に対立しあっているという事実についてです。いかにして? なぜ? どのような形で? このような根本的で「満場一致の」対立を可能にするような、いったいどんな特別の(?)社会的(?)条件がレニングラードとモスクワにあるというのでしょうか? 誰も、それを探求したり、それについて問い質したりしていません。ではそれはいったい何によって説明されるのでしょうか? すべての人が密かに語っているように、単にこういうことにすぎません。レニングラードとモスクワの百パーセントの対立は機構のなせる業なのだと。ニコライ・イワノヴィッチ、まさにこれこそが「現実の真の状況」なのです。そして、私はこのことにとてつもない不安を感じています。どうかこのことをよく考えていただきたい!!

 あなたは、レニングラードの上層部が「日常生活を通じて」結束しているとほのめかし、私が「形式主義」に陥ってがゆえにその点を見ていないと考えています。ところで、ほんの数日前、1人の同志が偶然にも、私が彼と2年以上も前に交わした会話を思い出させてくれました。そのとき私はおおよそ次のような見方を展開しました。レニングラードの体制の極度に機構的な性格からして、そして支配的上層の機構的な傲慢さからして、組織の上層における特別の「相互保証」システムの発展は不可避であり、それはそれで、党機構と国家機構における不安定分子にきわめて否定的な結果を同じぐらい不可避的にもたらすだろう、と。そのとき私は、軍や経済やその他の部門の高官のために党機構を通じて特別な種類の「保険」を提供することが極度に危険であるとみなしていたのです。県委員会の書記に対する「忠誠」と引き換えに、高官たちは自分たちの活動分野で、全国規模の命令や指令に違反する権利を獲得しました。「日常生活」の分野では彼らは、県委員会の書記に忠実であるかぎり、この分野での自分たちの「欠損」を勘定に入れなくてすむとの確信を抱いて生活しています。さらに彼らは、倫理上ないし職務上の性格を持った異議を唱えようとする者は誰であろうと反対派の一員であるとみなされ、それに伴うあらゆる結果を負わされることに疑いを抱いていません。したがって、あなたが、「民主主義の形式的な把握ゆえに」私が現実の状況に、とりわけ「日常生活」上の現実に気づいていないなどと考えるのは大きな間違いなのです。私は、ジノヴィエフと中央委員会多数派とが衝突するのを待つまでもなく、この実に芳しくない現実とそれがさらに発展する危険な傾向とをきちんと見ていたのです。

 しかしながら、「日常生活」の分野においてさえ、レニングラードだけが特異なのではありません。昨年、一方ではチタの事件が、他方ではヘルソンの事件がありました[それぞれ地方で起きた現地の党幹部の乱脈事件]。言うまでもなく、チタとヘルソンでの醜悪きわまりない事態がまさしくその極端さゆえに例外であることを、私もあなたもよく理解しています。しかしこの例外的事例は徴候的なものです。チタの上層部において、下部から独立した特別な閉鎖的な相互保証体制が存在していなかったならば、チタでの事態は起こりえたでしょうか? あなたはヘルソン事件に関するシュリフテル調査委員会の報告書を読まれましたか? この文書は、ヘルソンの一部の職員たちの特徴を明らかにしているだけではなく、党体制全体の一定の側面をも明らかにしている点できわめて教訓的なものです。「現地のすべての共産党員は、幹部職員の犯罪を知っていたのに、なぜ長い間――おそらく2、3年間――沈黙を守り続けたのか」、この問いに対してシュリフテルは、次のような答えを受け取りました。「そんなことを口に出したらどうなることか。自分の地位を失い、農村に送られてしまう、云々」。もちろん、私は自分の記憶にもとづいて引用していますが、趣旨はまさにこういったものでした。そして、シュリフテルはこれについて次のように叫んでいます。「何ということか! これまで、反対派の連中だけが、自分たちの持っている意見のせいで、その地位を解任され、農村に送られるかのように?!)語ってきた。だが、今や、われわれは党員から、解任や農村への追放や党からの除名などを恐れて指導的同志たちの犯罪行為に抗議しないなどと聞かされるのだ」。ここでもまた記憶にもとづいて引用しています。率直に言わなければなりませんが、シュリフテルの慨嘆の叫び(会議におけるそれではなく中央委員会への報告におけるそれ)は、彼がへルソン事件の調査を行なったという事実に優るとも劣らず私を驚かせました。言うまでもなく、機構的テロルの体制は、いわゆる思想的偏向(現実の、ないし捏造されたそれ)にとどまることができず、あらゆるところに、とりわけ組織の生活と活動に不可避的に拡大していきます。下部の共産党員が、書記局や県委員会や地方委員会や郡委員会などの書記たちの意見と異なるかあるいはその恐れのあるいかなる意見をも表明することを恐れているとすれば、この同じ下部共産党員は、幹部職員による許しがたい、そして犯罪的でさえある行為に反対して声を上げることをなおいっそう恐れることでしょう。一方と他方は密接に結びついています。とりわけ、モラル的に堕落した役員たちが、自分の地位や権力や影響力を守るために、そうした「堕落」を指摘するあらゆる試みを昨今はやりの「偏向」に仕立て上げようとしているのですから、なおさらです。こうした現象のうちに、官僚主義の最もひどい現われを見出すことができます。

 現在あなたは、レニングラードの体制を糾弾していますが、そのさい、同地の機構支配の程度を誇張しています。すなわち、まるで上部と下部との間にいかなる思想的結びつきもないかのように描き出しています。この点で、あなたは、かつてレニングラードに政治的・組織的に追従していたとき――これはそれほど昔のことではありません――に陥っていた誤りとまさに正反対の誤りに陥っているのです。こうした誤りにもとづいてあなたは、毒をもって毒を制しようとしており、レニングラードの「アパラーチキ」に対する闘争において機構をいっそうきつく締めあげようとしています。1923年12月5日の決議(1)で、あなたと私は共同で、党機構内の官僚主義的傾向がそれへの反動として不可避的に分派主義を生み出すと書きました。この時以来、われわれは、分派的グループ形成に対する機構的闘争が機構内の官僚主義的傾向を深刻化させたにすぎないことを確信するに足る十分な事例を目にしてきました。以前の「反対派」に対する純粋に機構的で、いかなる組織的・イデオロギー的手段の使用もためらわない闘争は、あらゆる決定が党組織によって満場一致でしか採択されなくなるという事態をもたらしました。あなた自身、『プラウダ』で一度ならずこの満場一致を賞賛し、ジノヴィエフのひそみにならって、それがあたかも思想的団結の産物であるかのように言ってきました。しかし、その後、レニングラードが「満場一致で」モスクワに反対していることが明らかになると、今度はあなたはこれを、強固に塗り固められたレニングラードの機構の犯罪的デマゴギーの産物であると宣言しているのです。いえ、問題はより深刻なものです。あなたが前にしているのは、機構的原理の法則的弁証法なのです。満場一致の賛成が突如としてその反対物に転回します。今や、あなたは、新しい反対派に対して旧来とまったく同じステレオタイプの方法を用いて闘争を開始しています。党の指導的上層部における思想的な幅はなおいっそう狭くなり、思想的権威は不可避的に下落していきます。このことから機構的体制をいっそう強化しようとの要求が生じてきます。あなたもまたこの要求に飲み込まれてしまいました。1、2年前、あなたはカーメネフの言葉によればそうしたものに「異論を唱え」ました。ところが今では、あなたはそのイニシアチブを――そのさい、あなた自身の言葉によれば「頭のてっぺんからつま先まで震え」ながらも――取っているのです。こう言ってよければ、今のあなたは、この2、3年間における党体制の官僚化の度合いを測るかなり敏感で正確な測定器になっています。

 私は、一部の同志たち――おそらくあなたもその一員です――が最近まで次のような計画を実施してきたことを知っています。この計画とは、党細胞の労働者に工場や職場や地方レベルの問題で批判する機会を与えると同時に、党の上層部分から生まれるあらゆる「反対派」を断固として弾圧することです。このようにして、機構的体制が全体として維持され、より広範な基盤を獲得するだろうと想定されていました。ところが、この試みはまったく成功しませんでした。機構的体制の方法と手法は不可避的に上から下へと広がっていきます。中央委員会に対するいかなる批判も、いや中央委員会内部における批判でさえすべて無条件に権力のための分派闘争であるとみなされ、そこから生じるあらゆる結果を伴うとすれば、レニングラード委員会もまた、自らの全権を謳歌しうる領域で批判してくるすべての者に対して同じ政策を不可避的にとることになるでしょう。レニングラード委員会の下には地区委員会や郡委員会があります。さらにその下には党細胞や党グループがあります。しかし組織の規模は基本的傾向を変えるものではありません。ある工場党細胞の党員にとって、細胞書記の支持を得ている赤色工場長を批判することは、ちょうど中央委員や郡委員会書記や大会代議員にとって中央委員会を批判することと同じです。死活に関わる諸問題をめぐるあらゆる批判は常に誰かの痛いところをつくものであり、それゆえいつもそうした批判は「偏向」や「内紛」、あるいはもっと簡単に「個人的な中傷」といった範疇に放り込まれます。まさにそれゆえ、党内民主主義や労働組合民主主義に関するすべての決議は、次のような文言で始まっているのです。「しかし、あらゆる決議や決定、与えられた指令にもかかわらず、現場では、云々」と。ところが実際には、現場では、上層でなされていることがなされているにすぎないのです。レニングラードの機構的体制に機構的圧力を加えることによって、あなたは、レニングラードによりひどい機構的体制をつくり上げることに行き着くことでしょう。

 このことは一瞬たりとも疑いをえません。他の地域よりもレニングラードで締めつけがより強かったのは何といっても偶然ではありません。党細胞が分散していて非文化的である農村県では、書記機構の役割は、客観的条件からしてもすでに、きわめて大きなものにならざるをえないでしょう。そして、このことは不可避的で――もちろん度を越さない範囲でですが――進歩的な事実とみなさざるをえません。ところが、政治的・文化的に高い水準を持った労働者のいるレニングラードでは事情が違います。そこでは、機構的体制は、一方でねじをよりいっそうきつく締めることによって、他方ではデマゴギーを用いることによってのみ持ちこたえることができます。レニングラードの党員大衆が、いやむしろ全党が事態を理解するようになる前に、機構でもって機構を粉砕することによって、あなたは、自分が批判しているデマゴギーとそっくりの対抗的デマゴギーを用いてこの仕事を遂行せざるをえなくなっているのです。

 私は、あなたが手紙で提起した問題だけを取り上げました。しかし、党内体制の問題を通してより大きな社会問題が浮かび上がってきます。とはいえ、それでなくても長くなりすぎているこの手紙でそうした問題を詳細に論じることはできませんし、いずれにせよそのための時間もありません。けれども、以上の若干の記述から私の言わんとする点を理解してくれるものと思っています。

 1923年に反対派が(地方の機構の支援なしに、それどころかその抵抗に抗して)モスクワに登場した時、中央と地方の機構は、「こうべを垂れろ! お前たちは農民のことがわかっていない」というスローガンのもとに、モスクワの脳天に棍棒を振り下ろしました。現在あなたは、同じ機構的手段によってレニングラード組織に棍棒を振り下ろし、こう叫んでいるのです。「黙れ! お前たちは中農のことがわかっていない」と。こうすることによって、あなたは、プロレタリア独裁の2つの主要な中心地の最良のプロレタリア分子の意識にテロルを加え、自分の意見を(それが正しかろうと間違っていようと)声に出して表現する習慣をなくし、さらには、革命と社会主義の全般的な諸問題に関する自分の不安を口に出すことさえはばからせているのです。ところが、農村では、ブルジョア民主主義分子が疑いもなく強力で強固なものになりつつあります。どうしてあなたは、ここから生じてきているいっさいの危険性を見ようとしないのですか?

 もう一度言いますが、私はわが党と革命の今後の運命に関する巨大な問題の一つの側面だけを取り上げているにすぎません。あなたの手紙が以上のような考えを表明する機会を私に与えてくれたという点で、私は個人的に大いに感謝しています。何のために私はこんなに長い手紙を書いたのでしょうか? 何の目的で? それは、あなたもわかっているように、何らかの激動も新たな論争も権力闘争もなしに、そして「トロイカ[3人組]」も「チェトベルカ[4人組]」も「デビャトゥカ[9人組]」もなしに、最上層、すなわち政治局から始まって、すべての党組織による正常で活発な活動を通じて、現在の党体制からより健全な党体制へ移行することが可能だし、必要であり、不可欠であると考えているからです。ニコライ・イワノヴィチ、これこそ私がこの長い手紙を書いた理由なのです。私は喜んでこうした話し合いを続けたいと思っていますし、それは――そう希望したいものですが――政治局と中央委員会での真の集団的活動を妨げるものではなく、それどころか部分的にはそれを容易にするものです。そして、この集団的活動なしには、より下級のすべての党組織での集団的活動も不可能でしょう。言うまでもないことですが、この手紙はいささかも党の公式文書ではありません。これはあなたの手紙に答えた私の純粋な私信です。それがタイプで打たれているのは、速記者の同志に口述筆記させたからです。この同志の無条件の党派性と堅忍不抜さに関してはいかなる疑いもありません。

 それではまた!

 あなたのエリ・トロツキー

1926年1月9日

   

  2、第2の手紙

 

  ニコライ・イワノヴィッチ

 この手紙は(いつもの習慣に反して)手書きで書いています。言いたいことをいちいち速記者に書き取らせるのは、気がひけますので。

 あなたはもちろん、モスクワではウグラーノフ(2)の路線にそって、私に対してありとあらゆる種類の策謀やあてこすりを伴った半ば非公然の闘争が展開されているのを知っていることでしょう。ここでは、その内容についていちいち特徴づけることはやめておきます。

 あらゆる策謀――それはわれわれの組織にまったくふさわしくなくそれを堕落させるものです――によって、私は労働者集会で話すことを許されていません。同時に、私が「ブルジョアジーのために」講義しているのに、労働者の前で演説するのを嫌がっているという噂が労働者細胞を通じて組織的に広められています。

 今やこうした土壌からどのようなものが育ってきているか(それもまたけっして偶然ではありません)、そのことに目を向けてください。労働者党員からの一通の手紙を逐語的に引用しましょう。

 「われわれの細胞で次のような質問が出されました。なぜトロツキーは有料の講演だけをするのか、これらの講演への入場料は非常に高く、労働者には払うことはできない、したがって、ブルジョアだけが出席している、と。細胞書記は口頭で、あなたがこれらの講演から自分のために一定の割合の報酬を受けとっていると説明しました。あなたはどの論文や記事においても報酬を受け取っており、あなたが大家族を抱えていて、生活費が足りないのだと。政治局員たるものが本当に記事を売らなければいけないのでしょうか」。

 こんなことはどうでもいいことではないかとあなたは言うかもしれません。いえ、不幸なことに、それはどうでもいいことではありません。私はちょっと調べてみました。最初、この細胞の何人かの党員は、中央統制委員会(または中央委員会)に手紙を書こうと考えましたが、その後、「工場から追い出されるかもしれない。だが、われわれにも家族がいる」と考えて断念したそうです。このように、労働者党員にあってさえ、政治局員に対する最も醜悪な中傷を確かめようとしたら、党員として党の手続きに従っていたとしても、工場を追い出されるかもしれないとの危惧があったのです。そして、あなたもおわかりでしょうが、もしその党員が私にこのことについて尋ねれば、私も、そんなことは起こらないだろうなどと心の底から言うことはできないでしょう。

 同細胞の書記はまたこうも言ったそうです――そしてこれもけっして偶然ではありません――「政治局にいるユダヤ野郎がぶつぶつ言っている」。そして、ここでもまた、あえてこのことを報告しようとする者は誰もいませんでした。まさに公然と定式化されている例の同じ理由からです。すなわち、工場から追い出されるかもしれないからなのです。

 もう一つ。私が上で引用した手紙の筆者はユダヤ人労働者です。彼もまた、「レーニン主義反対の煽動を行なっているユダヤ野郎」という表現についてあえて報告しようとはしませんでした。彼の動機はこうでした。「他の人々(非ユダヤ人)が沈黙しているというのに、私からは言い出しにくい…」。そして、この労働者――私が自分の演説や記事をブルジョアジーに売っているというのは本当かどうかを尋ねた労働者――は今やいつ何時工場を追い出されるかもしれないと考えているのです。これは事実です。そして私も、そんなことは起こらないと確信できないのも事実です。すぐには起こらないとしても、1ヵ月後にはわかりません。口実は何とでもなります。そして、細胞の全党員が「これまでもそうだったし、これからもそうだろう」(3)ということを知っていて、首をすくめているのです。

 言いかえれば、共産党員たるものが、黒百人組的煽動について、追い出されるのが黒百人組ではなく自分たちの方であると考えて、党機関に報告することを恐れているのです。

 そんなのは誇張だ、とあなたは言うでしょう 私もそうであってほしいと思っています。ですから一つ提案があります。その細胞にいっしょに出向いて点検しようではありませんか。あなたと私――2人の政治局員――が協力すれば、次の点を冷静かつ良心的に確かめるのにまったく十分でしょう。わが党内で、モスクワで、労働者細胞で、醜悪な中傷であるばかりでなく反ユダヤ主義的でもあるプロパガンダが罰せられることなく流布されているというのは、本当なのかどうか、そんなことがありうるのかどうか、また誠実な労働者が、家族ともども街頭に放り出されることを恐れて、愚かな中傷を正したり、確認したり、反駁しようとすることさえできないでいるというのは本当なのかどうか、です。

 もちろん、あなたは私の手紙を「しかるべき機関」に送付することもできます。しかし、それは悪循環を閉じることを意味するだけでしょう。

 私はあなたがそうしないだろうと思ってるし、だからこそこの手紙を書いているのです。

あなたのトロツキー

1926年3月4日

  

  3、第3の手紙

 

  ニコライ・イワノヴィチ

 政治局の昨日の会議から、政治局が締めつけをいっそう強める路線を――そこから生じる党にとってのあらゆる結果をも含めて――最終的に決定したことが完全にはっきりとしました。それでもやはり、私はあなたと話し合いの場を持つ努力を断念したくありません。とりわけ、あなた自身が、現在生じている情勢について討論することを提案しているのですからなおさらです。今日、私は1日中(夜の7時まで)あなたの電話を待っています。7時から中央利権委員会の会議があります。

エリ・トロツキー

1926年3月19日

『革命家群像』所収

『ニューズ・レター』第37・38合併号より

  訳注

(1)1923年12月5日の決議……『トロツキー研究』第40号に収録。

(2)ウグラーノフ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ(1886-1937)……古参ボリシェヴィキ。1905年革命に参加し、1907年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェヴィキ。1921年にペテルブルク県委員会書記。すぐにジノヴィエフと衝突し、ウグラーノフは1922年にニジニノヴィゴロト県委員会書記に配転。1921〜22年、党中央委員候補。1923〜30年、党中央委員。1924年にモスクワ県委員会書記に着任して、反対派狩りに辣腕を振るう。その後も反トロツキスト運動の先頭に立ち、出世。1924年8月に中央委員会組織局員および書記局員に。1926年に政治局員候補。1928年にブハーリンの右翼反対派を支持。1930年に、右翼反対派として、中央委員会から追放され降伏。1932年にリューチン事件に連座させられ、逮捕、除名され、もう一度降伏。1936年に再び逮捕され、1937年に銃殺。1989年に名誉回復。

(3)「これまでもそうだったし、これからもそうだろう」……1912年に起きたレナ河金鉱労働者銃殺事件をめぐって、帝政ロシアの警察庁長官が国会質問に答えて述べた有名な言葉。 

 

トロツキー研究所

トップページ

1920年代後期