中国反対派(『われわれの話』派)への返信

トロツキー/訳 西島栄

【解題】この手紙は、トロツキーが中国の反対派グループの一つ「われわれの話」派に宛てたものである。この時期、中国の反対派は四つに分裂しており、トロツキーはこれらの反対派のそれぞれと手紙で原則問題を論じて政治的教育を行なうとともに、グループ間の相互理解と統一のために努力していた。なおこの時点では、トロツキーはまだ、中国共産党の創始者で元総書記である陳独秀の政治的立場についての知識を得ていなかった。

Л.Троцкий, Ответ тов.Троцкого китанским оппозиционерам, Бюллетень Оппозиции, No.9, 1929.


 親愛なる同志たち!

 12月20日に、諸君の11月15日付けの手紙を受け取った。上海からコンスタンチノープルに到着するまでに35日もかかっている。私の返事がそちらに届くまでに、少なくとも同じくらいの日数がかかることをお許しねがいたい。それについてはどうすることもできない。航空便も無線も、今のところ反対派には利用できないのである。

 あなた方の手紙で最も重要な点は、あなた方が中国反対派の政綱を公表することを知らせてきていることである。あなた方はそれをただちに、少なくとも一つのヨーロッパ言語に翻訳すべきである。国際左翼反対派全体が、このきわめて重要な文書を知ることができるようにするべきである。私はあなた方の政綱を心待ちにしている。

 手紙の中であなた方は、政綱に関係する二つの質問を提示している。憲法制定議会とアジア合衆国の問題である。第2の問題はまったく新しいものなので、この問題については、特別な論文を書くまで回答を延期しなければならない。憲法制定議会の問題については簡単にお答えする。

 弱体化し非合法に追いやられた中国共産党の政治的任務は、ブルジョア軍事独裁に対抗して、労働者だけでなく、都市および農村の広範な貧困階層を動員することである。現在の状況のもとでこの目的に役立つ最も単純で自然なスローガンこそが、憲法制定議会である。民主主義革命のその他のスローガン(土地を貧農に、8時間労働制、中国の独立、中国を構成する諸民族の自決権)と結びつけて、このスローガンのもとで倦むことのないアジテーションが展開されなければならない。

 このアジテーションは、少なくともプロレタリアートの最先進層に次のことを理解させるようなプロパガンダによって補われる必要がある。すなわち、憲法制定議会に至る道は、軍閥どもに対する蜂起と人民大衆による権力獲得を通じてのみ可能になるということである。

 労働者と農民の勝利した革命から生じる政府だけが、被搾取・被抑圧人民の大多数を指導するプロレタリアート独裁の政府になりえる。しかし、理論的・宣伝的な論文や演説の中で倦まずたゆまず展開しなければならない全般的な革命的展望と、今ただちに軍事独裁体制に反対して大衆を動員し組織するための当面する政治的スローガンとの違いをはっきりと理解しなければならない。このような中心的政治スローガンこそ憲法制定議会のスローガンである。

 この問題は、国外で何人かの中国人同志と外国人同志によって作成された中国反対派政綱の草案の中で簡潔に取り上げられている。私の若い友人、N[劉仁静]がこの草案をあなた方に送付した。あなた方と同志Nとの間に意見の相違があるのかどうか、二つの異なったグループでいることを正当化する根拠があるのかどうかを、あなた方の政綱を直接読んで判断することができるよう、なおさらあなた方の政綱を待ち遠しく思っている。事実と資料についてきちんと通じるようになるまでは、私は、この重要問題について自分の判断を明らかにするのを差し控えるべきだと思っているからである。

 あなた方の報告によると、中国のスターリニストは広東の街頭で反対派メンバーを射ち殺したとのこと(1)。この事実がどんなに途方もないことであろうと、私はありうることだと思う。レーニンは「遺書」の中で、スターリンには人格的に権力を濫用する傾向がある、すなわち暴力に傾倒しがちであると非難している。スターリンはその後、この特徴を、ソ連共産党の官僚機構の中で途方もなく発展させ、コミンテルンにまで持ち込んだ。もちろん、プロレタリアートの独裁は、力の行使なしには考えられないし、それはプロレタリアートの一部に対してさえ行使される場合もある。しかしながら、労働者国家においては、その暴力がなぜどのように何のために行使されるのかということに対して、労働者民主主義がその油断のない統制力を発揮することが必要である。この問題はブルジョア諸国ではまったく異なった形で提起される。そこでは、革命政党は労働者階級の少数派であり、多数派を獲得するために闘争しなければならない。このような状況のもとで、イデオロギー的反対者に、すなわち背後から攻撃を加えてくるストライキ破りや挑発者やファシストではなく、単なるイデオロギー的反対者(誠実な社会民主党労働者を含む)に暴力を振るうことは、途方もない犯罪であり、狂気の沙汰である。それは必然的に革命党自身にしっぺ返しをもたらすだろう。

 10月革命までの15年間、ボリシェヴィキは、ナロードニキとメンシェヴィキに対して激烈な闘争を繰り広げてきたが、その中で、身体的暴力を行使することなど一度として問題になったことはなかった。個人的テロに関しては、われわれマルクス主義者は、ロシア帝政の暴吏に対するテロであっても拒否してきた。それにもかかわらず、最近、各国共産党は、というよりもその党官僚たちは、ますます頻繁に、論敵に対して、とりわけ左翼反対派に対して、会議の妨害をはじめとする機械的抑圧の方法に訴えるようになっている。多くの官僚は、これこそが真のボリシェヴィズムであると心から信じている。彼らは、資本主義国家に対する自らの無力さのはらいせに、他のプロレタリア組織に復讐しており、こうして、ブルジョア警察をわれわれの間の仲裁者にしてしまっているのである。

 このような無力さと暴力の結合によって生み出されている堕落は、想像を絶するものである。若者はますます、拳がより有効な論拠であると考える習慣を身につけている。これによって、政治的シニシズムがますます培われており、それは何にもまして、ファシスト陣営に移行する人々を準備しているのである。スターリニズムの野蛮で不実な方法に対する容赦のない闘争が遂行されなければならない。機関紙上でも集会の場でもこうした方法を糾弾し、労働者のあいだに、この種のエセ革命家に対する憎悪と軽蔑の念を培わなければならない。これらのエセ革命家たちは、人々の頭脳に訴える代わりに、頭蓋骨を殴りつけているのである。

※  ※  ※

 陳独秀グループに関していえば、革命期にこのグループが従っていた政策について私はよく知っている。それは、スターリン=ブハーリン=マルトゥイノフの政策、すなわち本質的に右翼メンシェヴィズムの政策であった。しかしながら、同志Nが私に書いてきたところでは、陳独秀は、革命の経験にもとづいて、かなりの程度われわれの立場に近づいているようである。もちろん、これは歓迎しうるのみである。しかしながら、あなた方の手紙では、同志Nの情報をきっぱりと否定している。それどころかあなた方は、陳独秀が、日和見主義と冒険主義の混合物であるスターリンの政策と手を切っていないとさえ主張している。しかし、今のところ私は、陳独秀グループの綱領的宣言を一つも読んでおらず、それゆえこの問題について自分の意見を述べることはできない。

 次の諸問題に明確な回答を行なう場合のみ、中国問題に関する原則的意見の一致を考えることができる。

 まず革命の第1期に関して。

 1、中国革命の反帝国主義的性格は、中国の「民族」ブルジョアジーに革命の指導者としての役割を付与するものであったのか(スターリン=ブハーリン)。

 2、「4民ブロック」、すなわち大ブルジョアジー、小ブルジョアジー、農民、プロレタリアートのブロックというスローガン(スターリン=ブハーリン)は、たとえ一時であれ、正しかったのか?

 3、共産党を国民党に入党させたこと、国民党をコミンテルンに加盟させたこと(ソ連共産党の政治局決議)は、許されうるものだったのか?

 4、北伐の利益のために、農民の土地革命を抑制したこと(ソ連共産党政治局名の電報による指令)は、許されることだったのか?

 5、労働者と農民の広範な運動が展開されていた時期に、すなわち1925〜1927年の時期に、ソヴィエトのスローガンを拒否したこと(スターリン=ブハーリン)は、許されることだったのか?

 6、「労働者・農民」政党というスターリニストのスローガン、すなわちロシア・ナロードニキの古いスローガンは、たとえ一時的であれ、中国に合致したものだったのか?

 次に革命の第2期に関して。

 7、労働者と農民の運動が左右の国民党によって粉砕されたことは「より高度な段階への革命の移行である」とするコミンテルンの決議(スターリン=ブハーリン)は正しかったのか?

 8、こうした状況のもとで、コミンテルンによって発せられた武装蜂起のスローガンは正しかったのか?

 9、労働者と農民の政治的退潮期に賀龍と葉挺によって開始され、コミンテルンによって承認されたパルチザン戦争の戦術は正しかったのか?

 10、コミンテルンの代理人によって広東蜂起が組織されたことは正しかったのか?

 過去全般に関して。

 11、1924〜27年の、中国問題をめぐる反対派に対するコミンテルンの闘争は、トロツキズムに対するレーニン主義の闘争だったのか、それとも反対にボリシェヴィズムに対するメンシェヴィズムの闘争だったのか?

 12、1927〜28年の、反対派に対するコミンテルンの闘争は、「解党主義」に対するボリシェヴィズムの闘争だったのか、それとも反対に、ボリシェヴィズムに対する冒険主義の闘争だったのか?

 将来に関して。

 13、反革命の勝利という現在の状況のもとで、中国の人民大衆を民主主義的スローガン、とりわけ憲法制定議会のスローガンにもとづいて動員することは、反対派の考えているように必要なことなのか、それともコミンテルンが決定したように、ソヴィエトのスローガンを抽象的に宣伝することに限定されるべきなのか?

 14、「労農民主独裁」というスローガンは、コミンテルンが考えているように、今なお革命的な内容を持っているのか、それとも反対に、国民党の仮装された定式として一掃し、中国における労働者と農民の同盟の勝利はプロレタリアートの独裁を導くしかないと説明しなければならないのか?

 15、一国社会主義の理論は、中国に適用可能なものなのか、それとも反対に、中国革命は、世界革命という鎖の不可分の環としてのみその目標を達成することができるのか?

 これらが、私見によれば、中国左翼反対派の政綱が答えなければならない主要な諸問題である。これらの問題はインターナショナル全体にとってきわめて大きな重要性を持っている。中国の現在の反動期は、歴史において常に生じてきたように、理論的深化の時期にならなければならない。現在、若い中国人革命家を特徴づけているものは、問題を全体として理解し研究し把握しようとする情熱である。イデオロギー的基礎を欠いたコミンテルン官僚は、マルクス主義的思考を窒息させている。しかし、官僚との闘争において、プロレタリアートの革命的前衛が、その隊列の中から、インターナショナル全体に貢献することのできる卓越したマルクス主義者を輩出することを私は信じて疑いない。

   反対派としての挨拶をこめて

L・D・トロツキー

プリンキポ、1929年12月22日

『反対派ブレティン』第9号

『トロツキー研究』第39号より

 訳注

(1)反対派メンバーの李肅は1928年に東江においてスターリニストに殺された。

  

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