「緩衝グループ」への手紙

――同志ゴーリマンへ

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解題】本稿は、「緩衝グループ」を自称するゴーリマンからの手紙に対する回答である。この中でトロツキーは、中国における農奴制的・半農奴制的関係が単に過去の封建制の遺物であるだけでなく、新たに形成されたものでもあることを指摘している。本稿は本邦初訳。

 Л.Троцкий, Письмо Гольману. Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.4, 《Терра−Терра》, 1990.


  親愛なる同志

 あなたの手紙を興味深く読みました。あなたは自分を「緩衝グループ」のメンバーであるとしています。あなたの手紙から判断するなら、どうやらそのようです。あなたは多くの質問を出していますが、簡単にお答えしたいと思います。

 1、あなたは一国における社会主義の建設完了の可能性に関する理論的論争を提案しています。しかし、ただちに、われわれの側の論文が発表されないだろうとの懸念を前もって表明し、さらに「良心的な自党批判に対する不寛容のせいで……われわれの党機関誌のほとんどすべての編集部に見られる根深い偏見がいっそう強固なものになっている」とつけ加えています。けれども、わが党の編集部自身が一定の方針にもとづいているのではないでしょうか? 事態はより深刻です。あなたは「不寛容」を政治的にではなく、どこか心理学的に扱っています。路線が誤っているとき、そして、事態の歩みと階級関係の発展そのものがこの誤った路線と深刻に「論争」しているときには、「不寛容」は自己防衛の一形態です。なぜならそれは、革命の根本問題に関する意見の交換をどんなものでも機械的に排除するからです。したがって問題は、編集部でも不寛容でもなく、基本的な政治路線なのです。

 2、あなたは分裂した指導部(すなわち、あなたの書いているところによれば、一方がスターリン、ブハーリン、ルイコフの指導部、他方がジノヴィエフ、トロツキー、カーメネフの指導部)には反対だと述べています。統一した指導部の方が、誤りを避けるより確かな保障になるだろうとあなたは想定しています。私としても、その考えに反対するつもりは毛頭ありませんし、その考えは、私の判断しうるかぎりでは、党指導部の将来のあり方に関するレーニンの勧告に完全に合致しています。意見の相違の深さと先鋭さにもかかわらず、私はレーニンの指導的中枢を構成していた基本グループの復活に寄与する可能性のあるあらゆる措置を全面的に支持するつもりです。しかし、これで問題が尽きるわけではありません。革命党における指導部の人的構成の問題は、指導部の路線の問題によって決定されます。今やわが党には、中央委員会に対する批判が、君主主義者にとっての陛下への侮辱と同じにみなされるような途方もない雰囲気が発展しています。このような雰囲気はボリシェヴィズムとは何ら共通するところはありません。中央委員会は世襲制の機関ではないし、党の終身機関でさえありません。中央委員会は権力機関ですが、党の機関なのです。党は中央委員会を取り替えることができます。そうするためには、党は中央委員会に対して判断を下すことができなければなりません。とりわけ主要な原則問題に関して、そしてとりわけ大会前の期間において、中央委員会を批判することはすべての党員の正当な権利です。この権利を侵害することは、党を、機構に支配された無力で意志をもたない合唱隊に変えてしまうことを意味します。これが将来どのような事態をもたらすかは、階級関係のメカニズムをほんのわずかでも知っている人であれば誰でも理解できることです。

 3、あなたは、「3月から始まった中国問題に関する中央委員会の路線が深刻に誤っており、中国革命の敗北をもたらした」と認めています。あなたがた「緩衝グループ」の立場に見られる決定的な弱点はここにあると思われます。革命とは集中した政治であり、集中した歴史です。革命の検証は集中した検証です。まさにそれゆえ、「中国革命」における路線が単なるエピソード――たとえ大きなそれだとしても――とみなすことはできないのです。中国では、まさに革命が起こっていたし、諸関係が凝縮した大規模な性格を帯びたがゆえに、出発点において何らかの正しい原則的立場をもってすれば、いともたやすく誤りを避けることができたでしょう。一国だけの社会主義が存在しないのと同じく、一国だけの革命的プロレタリア政策は存在しないのです。中国における政策は、ソ連邦内の政策の継続です。ただそれが、中国における事態の嵐のような発展ゆえに、より鮮明な結果をもたらしただけなのです。

 4、あなたは、過去の政策に関して、「国民党に対する調停主義的政策を公然と批判する」必要性について語っています。このような定式は不十分です。問題になっていたのがブルジョア政府たる国民党政府との革命的闘争であるのに、公然たる降伏主義的調停主義(南京)かあるいは仮装された調停主義(漢口)に陥ったわけです。

 5、われわれは、中国経済における封建的諸関係の存在を認めているでしょうか? 封建制は、農業における農奴制的関係にもとづいた社会的・国家的システムです。この意味では、中国の封建制について語ることはできません。たしかに、中国の経済と社会生活における農奴的関係と半農奴的関係は非常に強力です。その一部の起源は封建時代にまでさかのぼります。しかし、一部は新たに形成されたものなのです。すなわち、生産力の発展の停滞、農村における過剰人口、商人資本と高利貸資本の活動などにもとづいて古い形態が復活したものです。しかし、問題を決定するのは、中国において支配的な関係が何であるのか、です。それは、「封建的」関係(つまり、農奴的関係および一般に前資本主義的関係)でしょうか、それとも資本主義的関係でしょうか? まごうことなく後者です。中国経済全体において資本主義的関係が明白に支配的役割を果たしているからこそ、民族革命におけるプロレタリアートのヘゲモニーの展望について語ることができるのです。

 『ボリシェヴィキ』誌に中国経済に関する同志ルビンシュテインの優れた論文が掲載されています。農奴制の残存を前面に押し出そうとする(編集部の?)試みは、論文の趣旨をけっして変えるものではありません。すなわち、中国においては資本主義が支配的であり、農業に対して工業が、農村に対して都市が支配的であるという点です。中国プロレタリアートの生産上の役割は現在すでに非常に大きなものがあります。今後何年も、その役割はただ増大する一方でしょう。そして、その政治的役割は、今回の事態が示したように、実に壮大なものとなるでしょう。しかし、指導部の路線は、革命においてプロレタリアートが実際に指導的役割を獲得することに真っ向から対立するものでした。

 6、あなたは「中央委員会の裏切り政策」や「背信」といった表現が許されるかどうかと尋ねています。その際あなたは、あたかも私がそうした評価を容認しているかのごとく述べています。どのような根拠でそんなことを言うのでしょうか?

 7、あなたは、意見の相違が先鋭化すれば分裂をもたらしかねないとの懸念を表明しています。分裂が非常に大きな不幸だということに全面的に同意します。しかし、意見の相違の先鋭化は、反対派の悪意によるものではなく、事態の進展の結果生じたものです。現在の党体制は、意見の相違を正常な党的手段を通じて解決することを許さないでしょう。むしろ、党体制の不正常な性格は、その誤った政治路線の不可避的な結果なのです。ここに危機の主要な源泉があります。すべての問題を公然と大胆に提起することだけが、党を目覚めさせ、お役所的なシパルガルカ〔宣伝煽動用の手引書・マニュアル〕にのっとってではなく、事柄の本質に即して問題にアプローチすることを可能とします。これこそボリシェヴィズムの革命的基盤にもとづいた統一のために闘う唯一の道です。緩衝派のいかなる悲嘆の声も、機構のいかなる恫喝の声も、統一を守ることはできません。

 8、あなたは「ルート・フィッシャー(1)やマスロウ(2)とイデオロギー的・組織的ブロックを組む合理性がどこにあるのか?」と尋ねています。組織的ブロックについて語ることはまったく誤っています。そうした趣旨のすべての主張は捏造されたものです。けれども、このグループの多くの出版物から私が判断できるかぎりでは、われわれとのイデオロギー的・政治的親和性は疑いもなく存在しています。このグループが多くの誤りを退け、多くのことを学んできていると私は思います。このグループを反革命、変節者などと非難するのは、根本的に誤っていますし、そのような非難は、チェンバレンを「支持」していると反対派を非難するのと本質的に何ら変わりません。

 最後に、あなたの本を送ってくださったことに対してお礼を言わせてください。この本を今すぐに――いずれにしても中央委員会総会前〔8月総会〕に――読むことはできそうにありません。総会が終わった後には何とか、少なくともあなたが指示してくださった章を読むことができるものと思います。

エリ・トロツキー

1927年7月13日

『トロツキー・アルヒーフ』第4巻所収

新規、本邦初訳

   訳注

(1)フィッシャー、ルート(1895-1961)……ドイツの女性革命家、オーストリア共産党の創設者、ドイツ共産党の左派指導者。コミンテルン第4回大会の代議員。1924年からコミンテルン執行委員会メンバー。1924年から1928年までドイツの国会議員。1926年に合同反対派を支持してマスロウ、ウルバーンスとももにドイツ共産党から除名。レーニンブントを結成。後にアメリカに亡命し、ジャーナリストとして活躍。

(2)マスロウ、アルカディ(1891-1941)……ドイツの革命家。1924年以降、ブランドラー派に代わってドイツ共産党を指導したグループ(マスロウ、フィッシャー、ウルバーンス)の一人。当初、ジノヴィエフに追随してトロツキーに反対したが、1926年に合同反対派を支持して除名。1928年にジノヴィエフとともに屈服。しかし、再入党はせずに、フィッシャーやウルバーンスとともにレーニンブントを結成。1930年代初めにトロツキーに近づき、第4インターナショナルの建設に参加するも、しばらく後に離脱した。 

 

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