カザフスタンにおける

政策の民族的要素

――ソコーリニコフへの手紙

トロツキー/訳 西島栄

【解題】この文書は、1920年代半ばにロシア国内の民族問題について論じたわずかな文書の一つである。手紙の宛先はソコーリニコフであるが、ソコーリニコフはその後しばらくして合同反対派から離脱する。冒頭で「トルケスタンとのアナロジー」について語られているのは、ソコーリニコフが1920年にトルケスタンに派遣されて、ロシア排外主義の調査を行なったことがあるからである。

 また同文書で「ヨーロッパ共産主義者」と呼ばれているのは、ロシアのウラル以西の部分、すなわちヨーロッパ・ロシアの共産主義者のことを指している。

 この文章は、カザフスタンの現地の2人の民族共産主義者との対話から得た情報をまとめ、自分の感想を簡単に記したものだが、その中から、当時における辺境地域における状況をある程度理解することができる。

 Л.Троцкий, НАЦИОНАЛЬНЫЕ МОМЕНТЫ ПОЛИТИКИ В КАЗАХСТАНЕ, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.


    同志ソコーリニコフへ

  グリゴリー・ヤコヴレヴィチ[ソコーリニコフ]!

 2人のカザフスタン共産党員と会話した結果である覚書を送ります。カザフスタンの情勢にあなたが通じているかどうか、私は知りません。いずれにせよ、トルケスタンとのアナロジーから一定の結論を引き出すことができるでしょう。

 

 カザフスタンの諸問題に関する会話の中で、同地の同志たちは次のような観点を提起している。

 1、辺境地域は立ち遅れている。その地域の発展テンポは、モスクワからこれ以上立ち遅れるのではなく、モスクワにますます接近するものでなければならない。したがって、ここでは、発展テンポという一般的問題の独自の屈折した現われが見られるわけである。

 2、ソ連の後進地域における資本投資は、すぐに実を結ぶことを約束するものではない。ここから、このような投資に対する中央機関の消極的な――時には積極的な場合さえあるが――抵抗が生じる。

 3、ロシア社会主義共和国連邦の指導機関へのカザフスタンの参加は、「まったく実感のわかないものである」。どうやら、独立した共和国に向けた傾向が存在するようだ。

 4、中央の移住政策に対する不満。カザフスタンの大衆は土地革命によってソヴィエト権力に惹きつけられた。カザフスタンの土地に対する「侵害」はただちに不安を引き起こす。「われわれは移住政策に反対ではないが、何よりも地元住民の土地要求は満たされなければならない」。

 5、「われわれがカザフスタンの土地問題やその他の利益に関わる問題を提起すると、次のような答えが返ってくる。君たちが望んでいるのは、ツァーリの政策に対する恨みを晴らすことなのか、と。彼らは、われわれ共産主義者が国家全体の観点から問題にアプローチすることができるとはほとんど信じていないのである」。

 6、政府機関では、辺境におけるすべての経済的・文化的諸問題を古い伝統にもとづいて決定しようとする旧専門家の観点が蔓延している。

 7、民族共産主義者が台頭してきているが、中央から派遣されてきた指導者たちが道を譲ろうとしない。「彼らは、われわれがまだ十分成長していないとみなしている」。

 8、ヨーロッパ共産主義者とカザフ共産主義者とのあいだには壁がある。両者はまったく分離して生活している。いっしょにチェスさえしない。

 9、ヨーロッパ共産主義者は、中央と共通の政策を実行している。彼らのあいだには、原則のレベルではいかなる論争もいかなる衝突もない。それは彼らの「無関心」によって説明できる。

 10、反対に少数民族(1)は沸き立っている。少数民族の中にはいくつかのグループが存在する。これらの民族グループは、中央から派遣された指導者たちによって支持され、育成されさえしている。いかなる目的でか? 「まず第一に自らの支配を強化するためである。第二に、内的な対立によって、中央の政策と結びついた諸問題から注意を逸らすことである」。

 11、カザフ共産主義者のあいだには、3つのグループが存在する。第1は、ゴロシチェキン()を中心としたグループである。これはいつでもどこでも、上から与えられた指令にしたがう人々である。第2は「左派」で、同じくゴロシチェキンを支持しているが、私の知るかぎり、多少なりとも独立している。第3は「右派」であり、私の対話相手が属しているグループである。もっとも、「左派」の代表者は時おり「右派」に鞍替えする。

 12、どの点に意見の相違があるのか。「われわれは、貧農の敵対者で、ベイ[中央アジアの大地主]のパトロンだと非難されている。しかしわれわれには、ベイに反対する何らかの合理的な措置がはっきりと明確に提起されるならば、いつでもそれを遂行する用意がある」。

 13、ゴロシチェキンはある演説の中で次のように述べた。「カザフスタンは小10月革命を経なければならない」。これは何を意味するのか。彼は説明していない。いかなる具体的な措置も提案していない。カザフスタンの国内政策においては、われわれはいかなる原則的な意見の相違も見出していないし、単なる実践的な意見の相違さえ見出していない。このような意見の相違はすべて、ロシア社会主義共和国連邦との関係という問題を隠蔽するために人為的につくり出されたものである。

 14、私の対話相手の2人目は次のように述べた――「問題の核心は、ゴロシチェキン・グループがアウル[カザフの村落]とロシア農村に対してそれぞれ異なった態度をとっていることにある。ゴロシチェキンの意見によれば、ロシアのクラークは十分に弱体で貶められているが、ベイにはほとんど手をつけられていない。それゆえアウルでは10月革命を経なければならないのだ」。言いかえれば、ゴロシチェキンはロシア農村では国内平和が必要だが、アウルでは国内戦争が必要であるとみなしているのである。

 15、官僚主義はわれわれを窒息させている。この官僚主義は、ヨーロッパ共産主義者とカザフ共産主義者とのあいだにそびえ立っている壁のせいで、なおいっそう不快な形態をとるようになっている。恐怖、偽善、密告が大きな役割を果たしている。

※   ※   ※

 以上の状況規定には多くの曖昧な点がある。言うまでもなくとりわけ重要な指摘は、ロシア農村とアウルに関するものである。そこでは事態はどうなっているか? 「右派」はクラーク的偏向を犯しているという非難を浴びているようである。これは正しいか? おそらくこういうことではないだろうか。一部の行政官たちは、一般にクラーク的偏向の存在を否定することによって、それだけいっそう容易に後進地域においてその種の偏向を発見し、そうすることによって自らの左翼的評判を取り返し、自らの行政的仕事を容易なものにしているのではなかろうか。

 ウラジーミル・イリイチは、ロシアの共産主義者は辺境地域では援助者でなければならないと語った。だが、これらの援助者のうちの一部は、自分が「援助している」相手に文句を言わせないようにしている。

 総じて、社会状況そのものの分化の過程が弱いために、共産主義者内部での思想的グループ編成は不可避的に流動的で不安定な性格のものにならざるをえない。それだけ容易に「右派」や「左派」をでっち上げることができる。しかしながら、中央の官僚主義に対する闘争過程において、地方で民族的・ブルジョア的イデオロギーが形成される可能性はけっして排除されていない。

 より後進的な民族の中の若い有能な少数民族出身者が、階級闘争により身近に接することができるよう国外に派遣されるのは、いいことだろう。わが国の中では、たちまち国家的・行政官的心情を身につけることになるからである。

1927年3月11日

エリ・トロツキー

『トロツキー・アルヒーフ』第2巻所収

新規、本邦初訳

   訳注

(1)少数民族……辺境地域のさまざまな比較的大きな単位の民族地域の中に生活している少数民族を指している。帝政ロシアは、辺境地域の諸民族を分割統治するために、これらの少数民族を利用し、主流民族と対立させ、その民族地域が全体として反帝政で団結できないように仕向けた。スターリニストも同じような政策をとった。

(2)ゴロシチェキン、フィリップ・イサエヴィチ(1876-1941)……1903年以来の古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1905年革命に参加し、1906年にペトログラード委員会メンバー、1909年のモスクワ委員会メンバー。1912年のプラハ協議会で中央委員およびロシア・ビューロー委員に。1913年に逮捕され、1917年の2月革命で釈放。1918年、ブレスト講和に反対。内戦中は「軍事反対派」に属する。1924年からカザフスタン地方委員会の書記。1924年に中央委員候補。1927〜34年、中央委員。強制集団化時代に、カザフスタンの農業集団化を強行し、大量の犠牲者を出す。1939年に逮捕、1941年に銃殺、1961年に名誉回復。 

 

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