プロレタリアートの政治的状況の評価

――中央委員へ

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解題】本稿は、「10月16日の声明」以降の「息継ぎ」期に、ロシア・プロレタリアートの政治的状況をめぐって、トロツキーが中央委員に宛てて書いた文書である。ここで論じられた観点は、「革命と反革命に関するテーゼ」と通底するものであり、そのダイジェスト版という様相を呈している。それと同時に、「10月16日の声明」をめぐって対立するに至った「主観主義者」(民主主義的中央集権派などを指している)との相違点についても語られている。

 Л.Троцкий, ЧЛЕНАМ ЦК: Вопрос об оценке политического состояния пролетариата, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.


  中央委員へ

 国内外情勢全体と結びつけてプロレタリアートの政治的状況をどのように評価するべきかという問題が、ソヴィエトの改選問題をめぐる論争の中で提起され、意見の相違を引き起こした。この意見の相違の要点はまだ十分に明確なものとなっていない。私はこの問題を冷静に解明することで少なくとも偽りの意見対立が取り除かれうると思うので、この最高度の重要性をもつ問題について説明しておく必要があると考えるものである。

 1、階級としてのプロレタリアートは常に同一の状態にあるわけではない。それは、たとえほとんど同じ経済的諸条件のもとにあっても、国内的・国際的な性格を持った多くの要因の影響を受けて政治的に変化する。

 2、10年前、わが国のプロレタリアートは現在よりもはるかに低い文化水準にあった。だが、その当時、国内的・国際的諸条件の特殊な絡み合いのおかげで、このプロレタリアートは世界のどの階級も達したことのないような革命的エネルギーを発揮した。この革命的エネルギーが長い年月にわたって、たとえ数十年間であれ維持できるなどと考えるのはナンセンスだろう。ここでは下降と上昇が、時には非常に先鋭で深刻なそれが――情勢全体や世界資本主義の発展の歩みやわが国の社会主義建設のテンポといったことに左右されて――起こるのは、まったく不可避である。

 3、プロレタリアートは、われわれと同じく、ヨーロッパ革命が1917年に直接続いてやって来るだろうと期待した。1923年にはドイツ革命を期待した。1926年には、イギリスの炭鉱ストライキのとき、この事件が革命的発展を遂げるのを期待した。1918〜26年は、ヨーロッパのプロレタリアートにとってまさに大敗北の年月であった。この事実に目を閉じるのは愚かな臆病者にすぎないだろう(ここからいわゆる悲観的な結論を引き出すのもまた同じく愚かなことである)。わが国の労働者階級はこれらの出来事の一つ一つから重大な影響を受けた。その影響は、まず最初に、神経を張り詰めた強い期待という形態をとり、次には深い幻滅という形態をとった。この経験が世界革命の発展に対するわが国のプロレタリアートの態度に新しい要素を(多大な慎重さと自制心を、疲弊した分子には大きな懐疑主義を、未熟な層には完全な不信を)持ち込んだことは明らかなように思われる。

 4、国内における発展の歩みもまた、同じ方向性をもった影響をプロレタリアート全体に与えないではおかなかった。革命の10年目にして、かろうじて戦前の生活水準に到達したところである。当然にも、プロレタリアートははるかに大きな期待を持って革命に参加し、大衆の圧倒的多数は大きな幻想を抱いていた。このことから、そして発展のテンポが遅れている場合にはなおさら、革命に対する一定の幻滅が、すなわち短期間に生活と社会関係を深く変革する革命の能力に対する一定の幻滅が生じることは不可避であった。しかし、この点に関して、プロレタリアートが革命全般に幻滅しているとか、革命に背を向けようとしているなどと言うのは、まったくの愚か者であるか裏切り者であろう。だが、現時点で革命が以前ほど強くプロレタリアートの意志と関心を引きつけていないこと、彼らの意志と関心が他の多くの問題にそらされていること、日常生活の諸問題や、職場内や各地域の必要や要求などが非常に大きな関心を奪っているだけでなく、階級全体の展望や革命全体の展望をも覆い隠してしまっていること、このことを見ないのも愚かなことであろう。

 5、1850年代の初頭、マルクスは、世界情勢全般、とりわけ経済情勢を考慮して、革命の一時的退潮が始まったと結論づけた。マルクスは革命の旗をたたんでしまったわけではなかったが、この退潮に気づこうとしなかった主観主義者と決別した。マルクスは、退潮をその名のとおりに呼ぶことを恐れなかったのである。

 6、1907年、レーニンは革命の一定の退潮が起こったことを確認し、「パン」を求める闘争、第3国会への参加などを呼びかけた。レーニンは、解党主義者たちだけでなく、情勢の変化、労働者階級自身の気分の変化を見ようとしなかった主観主義者たち(召還派や最後通牒派など)とも無慈悲に決別した。

 7、われわれはヨーロッパ資本主義の一定の安定化を認める。われわれは、1923年におけるドイツの敗北以来、ドイツ共産党が大衆の中での影響力を系統的に失いつづけてきたことを確認する。またこの1年間に、フランス、チェコスロバキア、ポーランド、スウェーデン、ノルウェーなどの共産党が弱体化してきたことを確認する。共産党の影響力のこの弱体化において、共産党の犯した政治的誤りが巨大な役割を果たした。しかし、このことの基礎には、1918〜23年の時期以降にプロレタリア大衆のあいだで進行してきたもっと深い過程が横たわっているのである。これは長期間続くだろうか? 現代は大きな転換の時代である。だが、このことは今日進行中の過程に対する評価を変えるものではない。イギリスのストライキは、ヨーロッパの労働者階級が事実上無関心なままにとどまる中で、過ぎ去った。このストライキの敗北は新たな高揚の波を遅延させただけであった。以上が、考慮に入れなければならない諸事実であり、このことから、現時点でのヨーロッパにおけるプロレタリア革命の一定の闘争方法が出て来るのである。

 8、あるいは、これはヨーロッパには多少ともあてはまるが、わが国の情勢にはあてはまらないと言う人がいるかもしれない。だが、それこそ民族的偏狭さであり、しかも最も許しがたい形態のそれであろう。われわれはときとしてわが国の労働者階級を飛び越えてドイツ、イギリス、中国などの事態を見てしまうことがある。この悪い癖は、われわれの新聞が、世界の発展――とくに喜ばしい性格のもの――の断片しかわが国の労働者階級に提供していない点に示されている。わが国の労働者階級は、ドイツ、イギリス、中国の敗北を非常に深刻に受け止めており、労働者の意識に沈殿しているこの不信は単なる空虚な空文句によっては克服することはできない。

 9、同志モロトフの反論――「だが、10年間の党の活動はどこに行ってしまったのか」は徹頭徹尾官僚的である。階級の経験とその結論は、党の諸機関の活動の単なる産物ではない。われわれはみな、階級の生活の中で党がどれほど重要な要因であるかを知っている。だが、それは唯一の要因ではない。党は、世界情勢全体、世界労働者階級の勝利と敗北、わが国の経済発展の緩慢さといったものの働きを無効にすることはできない。党は引き潮の働きを緩和することができるし、そうしなければならない。党は労働者階級の中で進行中のすべての過程を公然と追跡し、これらの過程を前衛に説明し、情勢の新しい変化に向けて前衛を準備することができるし、そうしなければならない。だが、起こりつつある事態に対して目を閉じる政策はわれわれの政策ではない。

 10、同志ブハーリンはレニングラードでの報告の中で、わが党には黒百人組的分子がいると語った。われわれはその人数を誇張するつもりはない。だが、そうした分子と並んで、黒百人組に寛大な態度を取っている分子も存在している。その隣にはさらに、黒百人組に対して積極的な闘争をする気がない層、等々が存在する。これは偶然だろうか? これらの現象は、プロレタリアート自身の内部での階級的能動性と警戒心と注意が弱まっていることと符合しているのではないだろうか? もちろん、党としてのわれわれは、プロレタリアートに正しい方向性を提示して来なかった点で、大きな責任の一端を負っている。われわれはこの到達点から開始しなければならない。だが、いかに始めるべきかは、プロレタリアートがどの程度、警告の声や訴えなどに応えるのか、あるいは応えないのかにかかっている。

 11、プロレタリアートに敵対している、あるいは半ば敵対している階級やグループは、プロレタリアートの圧力の弱まりを感じとっている。この弱まりは、国家機構を通じてだけでなく、経済と日常生活においても現われている。それゆえ、小ブルジョアジーの政治的に活発な層のあいだで自信の高まりが見られるのである。この自信の高まりは、あれこれの圧迫や抑制の試みにもかかわらず、増大しつづけている。プロレタリアートは明らかにこの差し迫る危険性をまだ十分理解していない。これは、かなりの程度われわれの罪でもある。

 12、非プロレタリア諸階級の能動性の成長は不可避的にプロレタリアートを立ち上がらせるだろう。プロレタリアートは防衛のために立ち上がり、多少なりとも有利な条件がある場合には、攻勢に移るだろう。以上が明日の展望である。この展望に向けて自ら準備し、他の人々を準備させなければならない。

 13、以上のことは、現代の主観主義者たちには理解されておらず、彼らは党の官僚主義が唯一の要因であると考えている。他の多くの問題と同様にこの問題でも、主観主義者は見事に官僚たちと一致している。両者の意見の相違はそれほど大きくない。官僚は「プロレタリアートにあっては万事が順調であり、私がそれを表現している」と言い、主観主義者たちは「プロレタリアートにあっては万事が順調であり、官僚が邪魔さえしなければ私がそれを表現するだろう」と言う。どちらも根本的に誤っている。

 14、主観主義者たちは、まさにその全体的路線が誤っているために、昨年10月の事態(1)からまったく無益な結論を引き出す。まさにそれゆえ、われわれは主観主義者と道を分かつのである。われわれの分岐の基礎には、政治的力関係についての異なった評価が、とりわけプロレタリアート自身の自覚の度合いに対する評価について深い意見の相違が存在している。

 15、「以上のことはみなそれなりに真実であるが、それについて話すのは『如才のなさに欠ける』」と言う者がいるかもしれない。だがそのような論拠はまったく誤っている。まさに党とその最も先見の明ある分子を士気阻喪から守るためには、ありのままを語ることが必要である。もちろん、正しく理解されるような形で言わなければならない。すなわち、今日の欠陥を克服するための明日の展望を提供しなければならない。この展望は、客観的要素と主体的要素の両方を含むものでなければならない。だが、今日の情勢の基本的諸要素に目を閉じることは、われわれの政策ではないのである。

エリ・トロツキー

1927年2月21日

『トロツキー・アルヒーフ』第2巻所収

『トロツキー研究』第42・43合併号より

  訳注

(1)「昨年10月の事態」……1926年10月16日にトロツキー、ジノヴィエフら反対派の指導者が休戦の声明を出したことを指している。ロシア共産党内の民主主義的中央集権派(サプローノフやV・M・スミルノフらのグループ)やドイツ共産党内の極左派はこの声明をロシアの反対派指導者の屈服宣言だとみなして攻撃した。

 

 

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