第15回党協議会によせて――覚書

トロツキー/訳 西島栄

【解題】本稿は、秋に予定されていた第15回党協議会に向けてトロツキーが執筆した長文の覚書である。これは、この時期に書かれた未発表の覚書としては最も長文で全面的なものとなっており、内容的にもきわめて重要なものである。とりわけ、道標転換派の首領で右からスターリン分派を支持したウストリャーロフに対する論及は、この時期のトロツキーのテルミドール論を知る上で重要な示唆を与えている。

 しかし、この覚書には、この時点におけるトロツキーの考え方が最も典型的に現わされていると同時に、その弱点もまた明白に現われている。

 細かいいくつかの弱点(イギリスの社会構造の強靭さの過小評価、中国の国民党に対する過大評価、など)は別として、とりわけ重大なのは、書記長としてのスターリンの個人的役割を徹底して過小評価していることである。トロツキーはスターリンを、機構的官僚主義の単なる表現者とみなし、したがってまた「問題は、……スターリンを取り除くことでさえない」とした。実際には、スターリンは、そのような「表現者」としての水準にとどまるものではなく、官僚の上にそびえたち、その恣意的で残虐な独裁権力を振るい、官僚支配の形態を極端に残酷で血塗られたものにしたのである。特定の個人に著しく権力が集中するソ連型の政治システムにおいては、誰が頂点にいるのかは、一般的な社会構造や政治体制に還元しえない独自の、決定的な意味を帯びるのである。

 さらにトロツキーは、スターリンの個人的役割を過小評価しただけでなく、それに代わる対案として提出している体制変革案もまったく不十分である。トロツキーが提案しているのはただ、レーニン時代に存在したような党内体制に戻ることだけである。だが、このレーニン時代にあった(「健全な」)体制からスターリン体制が生まれてきたというのに、どうしてレーニン時代の体制に戻ることが「オルタナティヴ」になりうるのだろうか? 特定の機関、特定の個人に権力が集中するシステムそのものを変革しないかぎり、たとえレーニン時代の「健全な」体制に戻ろうとも、そこから再び何度でもスターリン体制が生じてくるだろう。

 以上のような深刻な弱点にもかかわらず、この覚書は、当時のトロツキーの考えを体系的に示しており、トロツキーの思想を知る上で非常に重要な手がかりを与えてくれている。

 Л.Троцкий, К ПЯТНАДЦАТОЙ ПАРТИЙНОЙ КОНФЕРЕНЦИИ, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.2, 《Терра-Терра》, 1990.


   1、現在の状況とその危険性

   2、政治的二枚舌の体制

   3、中間主義への退行

   4、現実主義、実際主義、些末主義

   5、階級敵の側からの評価

   6、退行の理論的仮装

   7、政治的退行の結果としての政治的水準の低下

   8、反対派との闘争の中でどのような傾向が現われているか

   9、国際問題における中間主義

   10日和見主義の理論的隠れ蓑としての、「安定化」問題の抽象的設定

   11コミンテルンのその他の諸党

   12活路


  

   1、現在の状況とその危険性

 

 1、ソヴィエト建設とソ連共産党内部の諸変化に照らしてみて、国内外情勢にどのような基本的特徴があるのか? それを以下に簡潔に列挙しよう。

 (a)プロレタリアートの一連の敗北の後に世界革命の発展テンポが遅くなっていること。

 (b)戦時共産主義からネップへの移行と、その後におけるネップの一連の追加的な拡大。

 (c)工業の立ち遅れ、商品飢饉、不均衡とその先鋭化。

 (d)農村における階層分化の拡大、クラークの経済的・政治的力の増大。

 (e)新旧の小ブルジョア一般の成長。商業ブルジョアジーと高利貸しブルジョアジーの成長。都市と農村との経済的相互関係におけるそれらの干渉の度合いの増大。

 (f)多数のブルジョア的・インテリゲンツィア的分子が、ソヴィエトおよびその他の機構で大きな役割を果たしつつあること。

 (g)革命前の階級闘争や、ブルジョア・小ブルジョア諸政党との政治闘争に(少なくとも意識的には)参加したことがない何十万もの人々がロシア共産党に入党することで、同党の枠組みが拡大したこと。党のカードルが新しい分子、あるいは他党の出身者、あるいは何年ものあいだ党から離れていて10月革命後に党に舞い戻った「古参ボリシェヴィキ」によって満たされていること。

 (h)レーニンの死。

 2、これらの列挙された諸条件だけでも、どこに危険性があるのかがはっきりとわかる。レーニンは(第11回大会での)演説の中で、党が気がつかぬうちにブルジョア的・小ブルジョア的変質をとげる危険性を直接指摘していた。レーニンは最後の諸論文の中で、国家機構と党機構における官僚主義に対して警告を発していた。そして、農民的な視野の狭さに支配されることから免れるための保証として、工業という鋼鉄の馬に時機を失せず乗り換えるよう主張していた。

 3、国営工業の成長は疑いのないものである。この重要性については言うまでもない。しかし、問題を決するのは、経済のさまざまな諸側面の相互関係であり、そこから生じるところの諸階級の相互関係である。商品飢饉、不均衡のさらなる激化の見通し、クラークと商人の成長、これらは、経済の社会主義的要素の発展テンポの不十分さを実地に暴露している。ここに状況を理解する鍵がある。

 しかるべき発展テンポのもとにある工業だけが、貧農の生産連合体を通じて、次には中農の生産連合体を通じて、農業の集団化にとっての技術的基礎をつくり出すことができる。農村市場の現在の要求さえも満たすことのできないほど――農業の改造は言うまでもなく――工業が立ち遅れている場合、農民の階級分化はきわめて重要な経済的・政治的意義を帯びることになるだろう。階級分化を過小評価すること、それを粉飾すること、一般的な言辞でごまかすことは、ボリシェヴィキの政策の基礎そのものを掘りくずすことを意味する。

 指導的分派は総じて工業と農業との不均衡の存在を否定するか、それを歴史的な不可避性と言ってすますか、あるいは現在遂行している政策さえ続けていれば系統的に緩和されるとあらかじめ宣言するかであった。すでに今年の経験だけでも、これらの内的に矛盾した諸見解を厳しく反駁するものであった。不均衡は拡大した。このことは、農村の階級分化と私的資本の蓄積が近いうちによりいっそう急速なテンポで進行することを意味する。ところが、われわれはすでに過去に蓄積した固定資本を使い果たしかけている。工業がさらに拡大すると、これまでよりもはるかに大きな資本の相対的支出が必要となるだろう。これはこれで、クラーク・商人・私的企業家から国営工業の側へと国民経済の蓄積をこれまでよりもはるかに系統的に断固として移すことを必要とするだろう。上から下までこの方向に向けて国家予算を振り向けなければならない。このような断固として首尾一貫した政策が可能となるのは、全党が、現在すでに十分に進行してしまっている経済的矛盾がいっそう発展することの危険性をはっきりと理解する場合にかぎられる。プロレタリアートと農民のスムイチカを脅かす危険性は、工業の先走りからではなく、そのますますひどくなる立ち遅れから生じているのである。このことと結びついたしかるべき新しい方針を全党が受け取らなければならない。

 自己の経済的地位をしだいに強めていっているクラークと商人と小ブルジョアは総じて、わが国の政策のドアをノックしている。ソヴィエト内の力関係が小ブルジョアジーの利益になる方向で、そして労働者と貧農の損害となる方向で移動していること、このことは疑いようのない事実である。この事実の意味を糊塗すること、すなわちプロレタリアートと貧農の政治的比重を引き下げることは、少なくとも、小ブルジョアジーの自然発生的圧力のもとでプロレタリア独裁を維持し強化するという問題に対して軽率な態度をとることを意味する。

 農業人民委員部、農業協同組合、農業信用の路線に関して言えば、一方では、農村の富裕層の側へと事実上、活動の中心が移っており、他方では、農村の上層に対する意識的な依存という形で政治路線が後退しつつある。農村および経済全体における資本主義的傾向と社会主義的傾向との闘争の問題は、生産力の発展の問題によって押しのけられている。

 こうした経済的過程と政治的傾向は、工業の役割とは無関係に協同組合それ自体があたかも貧農・中農・クラークの各経営を単一の全体に統合して社会主義の道に導くことができるかのように説く新しい理論によって隠蔽されている。ここから、農村のすべての階層に同時に向けられた「豊かになれ」というスローガンが生じる――明らかにクラークが貧農を犠牲にして豊かになっているという状況下においてである。新しいクラーク的・協同組合的理論は、レーニン主義の重大な偽造である。

 国内に蓄積があるもとでの工業の立ち遅れは、プロレタリアートの経済的・政治的比重を引き下げるだけにとどまらず、失業者を増大させ、賃金の上昇を押しとどめる直接的な要因になっている。

 以上のことと関連して、後進的な資本主義におけるような労働者観が生じる。すなわち、前もって労働生産性が上昇しないかぎり賃金を引き上げることができないかのような見方である。実際には、賃金の上昇は、わが国の状況下においては、労働生産性を引き上げるための前提条件なのである。このような唯一正しく、唯一合目的的で、唯一社会主義的な政策は――正しい経済指導がある場合には――完全に実現可能である。

 クラーク(しばしば「農民」を詐称している)に対する態度がますます協調的なものになっていることの代償として、工業の発展が阻害され、労働者にも農民大衆にも打撃となっているだけでなく、労働者階級の広範な層との政治的関係が悪化する事態となっている。

 小ブルジョア的自然発生性と官僚機構の圧力を受けて党の路線がますます退行していっていることは紛れもない事実であり、そのことの理解なしには危機からの出口を見出すことはできないだろう。

ウストリャーロフ

 4、左に攻撃を集中することは、すなわち小ブルジョア的変質の全般的な歴史的危険性を理解しているだけでなく、この変質の徴候の一つ一つを注意深く追い、しかるべきイデオロギー的・政治的・組織的対抗措置を取るよう要求している人々に対して攻撃を集中することは、上で指摘した諸状況下では何を意味するだろうか? 左に攻撃を集中することが意味するのは、こうした状況のもとでは、党自身の内部からの批判と警告の声を抑圧することを通じてまさにこの堕落と変質の過程を直接促進することに他ならない。現在、人々の気づかぬうちにゆっくりと退行の過程が進んでいる。ウストリャーロフ〔右上の写真〕は、この退行をブレーキをかけつつ意識的に坂道を下る過程に変えるよう提案している。左に攻撃を集中し「反対派粉砕」計画がいっそう進行するならば――つまりそのことにウストリャーロフが成功するならば――、それはプロレタリア分子の恐るべき弱体化を意味するだろうし、退行の過程はブレーキなしの破局的な急降下に転じるだろう。もちろん、このような急降下の恩恵を受けるのは、近視眼的に左に攻撃の矛先を向けていた同志たちではなく、階級敵であろう。

  

   2、政治的二枚舌の体制(言葉と実践との「鋏状格差」)

 

 公式の指導グループは、スターリンの機構分派を軸とするブロックである。このブロックには3つの基本的な要素が存在する。第1のものは経営者に顔を向けた路線をとっており、第2は労働組合主義の路線をとり、第3のもの――純粋なアパラーチキ――は一個のブロックのうちにこれらの分子を統合するとともに、反対派によって「経営者」と「労働組合主義者」を抑制しつつ、グループ全体があまりにも急速に右への坂道を転がり落ちるのを防いでいる。

 ブロックに対する組織的指導権は純粋なアパラーチキ分子に属している。彼らは確固たる政治的路線というものを持っておらず、折衷主義でもって代用している。現実的な内容を備えているのは、2つの明確な社会的偏向の代表者たちの政策である。スターリンを頭目とする純粋な折衷主義者たちは、ますます右に行こうとする傾向を持ったブロックのブレーキのような役割を果たしている。こうして全体としては、ウストリャーロフご推薦の「ブレーキをかけつつ坂道を下りる」という構造ができあがっているのである。

 プロレタリア的観点にもとづいてこの政策を批判することは、ただちに、そしてほとんど自動的に、中傷され糾弾される。しかし、しばらくすると、指導的分派は、いわゆる反対派によって言われたことの多くを盛り込んだ決議を挙げるのである。だが実際に行なわれる政策は以前と同じままである。なぜなら、政策の実行者たちは実際にはこの政策に反対の連中であり、彼らはただ、ブロックの機構的指導者たちの圧力に押されて折衷主義的配慮にもとづいてこの決議を採択したにすぎないからである。

 このことは、党体制に関する1923年12月5日の決議にもあてはまる。その後、党体制は決議が採択される以前よりも途方もなく悪化した。このことは、貧農層に関する1925年の10月総会の決議にもあてはまるし、第14回党大会における工業化決議にもあてはまる。同じ運命は、コミンテルンの体制民主化に関する第14回党大会決議をも襲った。同じことは、この数年間におけるさまざまな諸問題にも起こっている。賃金問題、国家予算の構造問題、節約体制の問題、農業協同組合の問題、住宅建設の問題、等々。官僚主義(労働組合や国家機構におけるそれ)との闘争に関するほとんど反対派的な決定を採択すればするほど、それだけますます官僚主義は過酷なものになっていく。公式の諸決定と――工業や農村や党に関する――実際の政策とのあいだには、明白でますます大きくなる裂け目が開いており、それは一種の政治的「鋏状格差」なのである。

 決議は反対派に対する闘争の道具となっている。より正確に言えば、反対派を武装解除するための手段となっており、この意味で、党のプロレタリア的構成に対する言葉上の貢納物なのである。その一方、実際の政策は小ブルジョア的自然発生性と官僚主義的機構への現実の貢納物である。この政治的「鋏状格差」の開き具合によって、堕落の程度も変わる。そして、この開き具合によって、スターリンの締めつけの程度も変わるのである。政治的実践は決議を反映する程度が小さければ小さいほど、あるいは党の社会的構成と党の伝統を反映する程度が小さければ小さいほど、それだけますますこの政策を正常な党的手段によって遂行する可能性が小さくなり、書記任命制と抑圧の必要性は増大するのである。

 こうした二枚舌の体制は、搾取階級が支配している社会においてのみ必要不可欠な政治的道具となる。政治的「鋏状格差」がとりわけ途方もなく繁栄しているのは、いわゆる[ブルジョア]民主主義においてである。一方では普遍的な平等、他方では一握りの搾取者集団による抑圧。プロレタリアートの独裁体制においては、この独裁がいかに過酷なものであろうとも、正しい政策はただ、ありのままを公然と語ることにもとづいてしかありえないし、そうでなければならない。わが国において政治的「鋏状格差」が存在しているという事実それ自体が、党にとって本来無縁な軌道に逸脱していることの確かな徴候なのである。スターリニスト分派において特に大きな比重を持っているのは、無原則性をシステムにまで高めることに関しては専門家とでも言うべき連中である。言葉と行動を一致させるための闘争は、ロマン主義として非難されている。現実的な政策と呼ばれているのは、一方では、反対派のスローガンを言葉の上だけでなぞりつつ、他方では、クラーク的・労働組合主義的偏向に系統的に譲歩することなのである。

※  ※  ※

 党内におけるクラーク的偏向を許容することは、実際においては、党を、さまざまな階級的諸利害を代表する政治的諸分派のブロックに変えることを意味する。プロレタリアート独裁に対する脅威が右から押し寄せてきている時に、左に攻撃の矛先を向けることは、本当の意味で党の統一を脅かすことを意味する。

 それと同時にそうした偏向の一つ一つは、現在指導的地位にいる分派の統一をも脅かしている。指導的ブロックの労働組合主義分子は、数ヵ月遅いか早いかの違いはあるだろうが、いずれクラークの圧力を感じることになるだろう。個々の問題をめぐっては、労働組合主義的偏向の代表者とクラーク的偏向の代表者とのあいだの不一致は、現在でも党の上層で露わとなっている。このような不一致はますます多くなり、それは党の背後で分派的手段によって解決されることになるだろう。しかしながら、指導的分派の統一性の外観を長期にわたって維持することはできない。階級的利害の論理は、機構的外交術やスターリン的折衷主義よりも強力である。いかに労働組合が官僚主義によって圧迫されていようとも、それがクラーク的・ブルジョア的自然発生性に対する組織的対抗物でなくなることなどありえない。

  

   3、中間主義への退行

 

 中間主義とは、ボリシェヴィズム(革命的マルクス主義)とメンシェヴィズムとの中間にある潮流である。中間主義は本質的に不安定で過渡的な状態である。革命的高揚の時代には、中間主義はしばしば革命的プロレタリア政党への架け橋となる。引き潮の時代には、中間主義はたいていの場合、革命的立場からの退却の架け橋となる。

 プロレタリア路線からの退行は、わが国の状況下においては、日和見主義の二つの変種への移行を意味する。メンシェヴィズムとエスエル主義である。スターリンの中間主義は途中の小駅にすぎない。住民の圧倒的多数が農民であるという状況下においては、こうした退行は必然的にナロードニキ的色合いを帯びるようになり、それは基本的に農村の階層分化に目を閉じ、クラークに甘い態度を取り、社会主義への前進に向けた真の保障である工業の推進的役割を曖昧にし、プロレタリア前衛を党内の指導的役割から追い出すことを意味する。

 一方における都市と農村のプロレタリア、他方におけるクラーク、この両者のあいだに多くの過渡的な諸段階がある国では、退行は、お決まりの言葉やスローガンや引用によって隠蔽されながら、長い期間のうちにほとんど気がつかぬうちに進行してしまう。しかし、この過程が今後とも抑制や反撃なしにそのまま進行するならば、ある一定の段階で量は質に転化するだろう。すなわち、権力の階級間移動という意味での直接的な政治的転換が生じるに違いない。その一方で、スターリン的中間主義は右翼偏向を擁護し隠蔽し、党の意識をなだめ眠らせている――クラークに関して、商人に関して、工業の立ち遅れに関して、一国社会主義の確実性に関して。ボリシェヴィキの伝統的な定式を隠れ蓑にして行動している中間主義との闘争は、プロレタリアートの手中に権力を保持するための闘争なのである。

  

   4、現実主義、実際主義、些末主義

 

 ボリシェヴィズムは、「経済主義者」、メンシェヴィキ、改良主義者、中間主義者、日和見主義者などのエセ「現実主義」との闘争の中から生まれてきた。まさにそれゆえ、ボリシェヴィズムはその全歴史を通じて、ユートピア主義、ロマン主義、主観主義などという非難を受け続けたのである。ボリシェヴィズムは常に、国内問題においても国際問題においても、当面する課題を根本的な階級的傾向と結びつけていた。まさにこの点にこそ、レーニンの革命的現実主義があるのであり、それは無思想な実際主義とは何の共通性もないし、ましてやその日暮しの無原則な折衷主義とは何の関係もない。

 ボリシェヴィキ路線からの退行は、ますます頻繁かつ本格的に、「現実」政治への配慮や、「足元の確かな基盤」を持つ必要性なるものによって隠蔽されるようになっている。これと並んで、国際革命を展望することに対するあからさまな軽蔑の雰囲気が蔓延しつつある。「足元の確かな基盤」を求めることはますます、最小抵抗線にそって進むことへと進んでいる。適応の政策はますます、革命的改造の政策を凌駕しつつある。小ブルジョアジーへの適応、クラークへの、官僚への、イギリスの労働組合主義者への、俗物的世論への、小市民的な結婚観と家族観への適応は、クラークとその子孫は社会主義建設の必要不可欠の要素であるという新しい哲学の隠れ蓑のもとで、全速力で進行中である。「ロマン主義」に対する嘲笑は、「亡命家気質」に対する歪んだ冷笑によって補完されている。わが党のきわめて大きな優位性は、その指導層の中に、何年もの長期にわたる亡命の中で国際的労働運動に実地に精通することができただけでなく、それと不可分に結びつき、革命的国際主義を血肉化することができた多くの元「亡命家」を含んでいるという事実にある。ボリシェヴィズムは、国際革命の党であり、そうでないことはありえない。「亡命家」的分子がその価値ある酵母でないわけがない。反対に、民族的偏狭さや「一国社会主義」などの泥沼への転落は、革命的「ロマン主義」や「亡命家気質」に対する敵意を呼び起こさないわけにはいかないのである。

  

   5、階級敵の側の評価

 

 大きな意義を持っているのは、われわれの意見の相違に関する階級敵の側からの評価である。この点で、党内における現在の反対派攻撃キャンペーンに対するブルジョア系およびメンシェヴィキ系の新聞雑誌の反応は、相互に一致している点で実に教訓的である。いかなるものに対しても責任を負おうとしないパウル・レヴィ(1)のような政治的手品師を例外とすれば、すべての「堅固な」メンシェヴィキ的・ブルジョア的メディアは一致して、反対派に対する攻撃、政治局からのジノヴィエフの追放、等々を、わが国の内部で「正常な」体制が近づきつつあることの徴候であるとみなしている。裕福な農民に顔を向けた路線は、ブルジョア・メディアによって、スターリン・グループの進歩性の基本要素として取り上げられている。主として小ブルジョア的・改良主義的タイプのある新聞は、スターリン・グループが、今後さらに賢明な措置を取ることを通じて、新しい激動なしにロシアを国際「文化」へと全面的に参加させることができるだろうとの希望を表明している。主として大資本家向けの別の出版物は、スターリン・グループの政策がロシアを新しい体制に転換させる準備をしているとみなしているが、その体制の実現のためには別のグループ、別の指導者が必要であるとしている。しかしすべてのブルジョア・メディアは全体として、反対派に対するスターリン・グループの勝利のみが、ソヴィエト連邦を資本主義的進歩の道に転換させる保証だとみなしているのである。

 言うまでもなく、ブルジョア・メディアはわれわれにとって誤りのない(「裏返しの」)鏡ではない。敵の評価を利用する前に、なぜ彼らがある特定の場合にこのような評価を与え、別の評価を与えないのかを熟慮しておかなければならない。とはいえ、すべての国のあらゆる毛色のブルジョア・メディアが、今回の場合は完全に一致しているという事実を漫然と放置するわけにはいかないだろう。外国のメディアは、ほとんど例外なく、反対派について、ブハーリンやスレプコフ(2)等が画き出しているような歪んだ性格規定にもとづいて判断している。しかし、スターリン分派については、われわれの敵は、この分派が自分自身について語っていることにもとづいて判断している。敵のこうした判断が意味しているのは、支配分派の政策のうちには、万国の大小ブルジョアジーの希望を煽るような諸特徴があるということである。この事実を自分の党から隠すことはできても、この事実から逃れることはできない。

  

   6、退行の理論的仮装(「トロツキズム」との闘争という見せかけのもとに行なわれる、レーニン主義に対するスターリン分派の闘争)

 

 1、小ブルジョアジーの成長、ソヴィエトと協同組合に対する小ブルジョアジーの政治的圧力の増大、わが党の一部の分子の堕落、党のイデオロギーの変質、プロレタリア路線からの退行、以上の過程は――ある時期までは――ゆっくりと進行し、それゆえほとんど目につかないものだった。最初の時期、党の伝統の優位性が全面的に保持されていた。しかし、それもある時期までだった。事実の圧力はイデオロギー的仮装よりも強力である。たとえ偉大な伝統にもとづいていてもである。

 2、反対派に対するイデオロギー闘争は(そもそもここでイデオロギー闘争について語ることができるとすればだが)、「トロツキズム」との闘争という隠れ蓑のもとで遂行された。そのさい「トロツキズム」の理解は日々変化する。新しい経済的・政治的現象の階級的分析に代えて、適当に抜き取られた引用文からシパルガルカ[宣伝煽動用の手引書、指令書のこと]がつくり出される。それは、完全に中世的なスコラ哲学の方法にもとづいている。

 現在の反対派を構成している各部分が、それぞれの道を通じて、そして相互闘争を通じてさえ、完全に同一の結論に至ったという事実は、反対派の「無原則性」を示す証拠として利用されている。この証明を容易にするために、反対派がすべての基本問題に関する自分たちの見解をはっきりと明らかにしている文書が党とインターナショナルから隠されている。党員たちは、反対派に反対する決議を全会一致で採択するよう上から要求され、反対派の声明を読もうとしただけで党から除名されている。党は、クルプスカヤやジノヴィエフやカーメネフやその他数百人もの、20年以上の党歴を持つボリシェヴィキが突然レーニン主義から転向したというような話を信じるよう強要されている。このような非難は必然的に、事実を考慮に入れ議論を論証する必要性から解放することになる。

 3、目につかない政治的退行は、まさにそれが目立たないものであるためには、イデオロギー的な仮装を必要とする。慣れ親しんだ古い用語・言葉・概念が、それらの概念が創出された状況とはまったく正反対の状況に適用されている。過去の「トロツキズム」は調停主義と中間主義を特徴とするものであったが、現在では――歴史の残酷な皮肉のせいで――「トロツキズム」は、ボリシェヴィキ的立場から中間主義への退行に反対する革命的批判を指すものとして使われている。これがイデオロギー的な仮装にすぎないことを理解することは、正しい党路線に向けた最初の一歩である。

 4、最も粗悪なイデオロギー的仮装は、「一国社会主義」という完全に堕落しきった理論のうちにはっきりと示されている。レーニンの言うように、現在の革命時代は帝国主義から生じており、資本主義の「成熟」「未成熟」は一国的規模ではなく世界的規模で考えなければならない。まさにこうした状況の中から、相対的に後進的な国でプロレタリアの独裁が生まれえたのである。この独裁の運命は、全世界の、とりわけヨーロッパとアジアの経済的・政治的発展の歩みと不可分に結びついている。一国社会主義論は、これとは対照的に、プロレタリアートがいったん権力を獲得したならば、そのことによって全世界の経済的・政治的発展から離脱しうるかのようにみなしている。ロシアにおける社会主義の発展は、世界革命の歩みとは無関係に「保証されている」と説明される。この理論は――最初から最後まで――マルクス主義に真っ向から反するものであり、帝国主義と革命の時代の性格規定に関するレーニンの教えに真っ向から反するものである。しかし、歴史の辛らつな皮肉のせいで、レーニン主義の粗悪な修正が、ここでは「トロツキズム」に対する批判という外観のもとに遂行されているのである。

 途方もなく馬鹿げているのは、スターリンの新奇な理論を認めないことは懐疑主義を意味する、社会主義建設に対する不確信を意味するといったような主張である。しかし、スターリン理論に対する断固たる否認と糾弾が意味するのは、わが国における社会主義建設を持ち出すことで国際プロレタリア革命に対する不確信をごまかしてはならないということだけである。

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 5、プロレタリアートと農民の相互関係の問題においては、明白な政治的転換と並んで(農業協同組合に対する農業人民委員部のスミルノフ(3)とカミンスキー(4)の提案、同志カリーニンとペトロフスキー(5)の選挙規程、「豊かになれ」というブハーリンのスローガン、等々)、この間、レーニン主義の同じぐらい粗悪な理論的修正がなされている。工業の立ち遅れのもとで農業の商品化が全般的に進んでいるにもかかわらず、ナロードニキのひそみに完全にならって、農民の階級分化が傾向的に過小評価され、まったくゼロに見積もられてさえいる。特別の統計学派が育成され、そのあらゆる技術は現実を明らかにすることに向けられているのではなく、その反対に農村の階層分化の過程を隠蔽することに向けられている(同志ヤコブレフ(6)、等)。プロレタリアートと農民との同盟はますますもって、2つの歴史的に「対等の」階級間の同盟として解釈されるようになり、社会主義への発展を等しく保証する――一方は工業を通じて、他方は協同組合を通じて――ものとみなされるようになった。プロレタリアートの政治的に指導的な役割は、工業の経済的な推進的役割と同様に、後景に退けられた。プロレタリアート独裁という概念そのものがないがしろにされた。無条件に必要なものとされたプロレタリアートと農民との結合は、プロレタリアートと世界革命との結合――それなしにプロレタリアートはやっていくことはできないはずなのに――に対立させられた。一国における社会主義の完全な建設――これこそまさに世界革命なしにやっていくことを意味している。こうした粗悪で誤った諸概念にもとづいて若い世代が教育されている。若い世代は、階級闘争の学校を通過しておらず、エスエルを白衛派としてしか知らず、プロレタリアートと農民との「対等な」同盟にもとづく社会主義建設を唱導していた民族的・ロシア的「社会主義」派としてのエスエルを知らない世代である。党の新しい世代は、レーニン主義の度外れた修正にもとづいて教育され、この修正は「トロツキズム」に対する闘争という外観のもとに彼らに授けられているのである。

※   ※   ※

 6、同じ過程は、党内体制の諸問題にも見ることができる。最近の評価において決定的な意義を有している問題は、レーニン死後の党は、レーニンのもとで享受していたような、討議と批判の自由や選挙制などを維持しているのか、である。維持されていると答える者は嘘をついている。その一方で、現在党生活の真に恐るべき官僚主義化を押しすすめている諸方法に対する批判は、党を分派の総計に変えるものであり、ボリシェヴィキ党をマクドナルドの党に似させる試みであると宣告されている。党生活のレーニン的基礎に対する闘争は、支配分派によって、「トロツキズム」に対する闘争という仮面のもとで遂行されている

 同じ過程は、コミンテルンの各党の内部体制にも見ることができる(7)。左派グループと右派グループの最も能動的な分子を切除し粉砕しようとするあらゆる試みは、そしてこれらの分子を、指導部による「任命」によって選ばれた偶然的分子に置きかえようとする試みは、不可避的に党の不安定な官僚主義的運営という危険性を自己のうちに胚胎している。右派グループが左派グループと同様に、党の内部に独立した根と伝統を有していること、大衆運動と結びつき、学習する能力を有しているという事実を飛び越えることはできない。しかし現在、各党指導部は一時的な組織的連合体になっており、指導部が自らを右派と左派に対置するかぎりにおいて、モスクワの支援を確保することができるのである。

  

   7、政治的退行の結果としての政治的水準の低下

 

 理論的仮装によって隠蔽された政治的退行は、情勢のマルクス主義的分析を不可能にしている。その結果、ますます党の理論的水準の低下が見られるようになっている。これは個人の問題ではなく、路線の問題である。現在「理論」に与えられている課題は、分析したり総括したり予見したりすることではなく、慣れ親しんだ定式によって、退行の政策を後から正当化することである。ここから、党機関紙誌の度外れた官僚化が生じている。注文に応じて文献を書き散らす大規模な学派が形成されている(スレプコフ、ステツキー(8)、ステン(9)、等々、等々)。彼らは一様に、政治的詭弁の目的に利用できるかぎりでマルクス主義を用いる。党の出版活動に対する最高指導権はブロイドのような人間に委ねられている。統計上の諸指標が公式の政策に矛盾している場合には――たとえば、統計が農民の階級分化の急速な進展を(穀物と馬用飼料のバランス)明らかにしていたり、ソヴィエトへの小ブルジョアジーとクラークの圧力を示しているような場合――、統計に対する行政的暴力が加えられる。プロレタリア路線からの退行は不可避的に党の理論的武装解除をもたらすのである。

 異論の持ち主に対する公式の論争はますます粗暴なものとなっており――その論調の点ではなく、その内容の点で――、ますます不誠実なものとなっている。論争となっている諸問題の理論的・政治的本質は脇に置かれてしまっている。課題はもっぱら、反対派の名誉を失墜させ、反対派と他の何らかのかつて糾弾されたことのある潮流とのあいだに外的で偶然的な人脈的ないし時系列的な結びつきを確立することに向けられている。この目的は俗悪な詭弁と状況証拠によって達成される。引用を歪曲したり、適当に抜き取られた言葉の断片を使うシステムは、ブハーリンとその一派によって開発されたものである。たとえば、1924年初頭に書かれ2年半も党に知られていなかったメドヴェージェフ10)の手紙がアルヒーフから引っ張り出され、俗悪で非良心的な曲解と当てこすりという手段によって反対派に投げつけられた。それは、反対派が擁護していた見解と正反対の見解を反対派になすりつけるためである。同じような策略はオソフスキー11)の論文に関しても用いられた。この論文はその時まで誰にも知られていなかったものであり、オソフスキーは、この論文が印刷に付されるより前に党から除名されることになった。このような無原則な論争のやり方は、恐るべき思想的退廃、お役所主義、偽善をもたらすことになる。

 パンフレットや論文を出版するには、その中に反対派やその個々の代表者に対する何らかの当てこすりや誹謗のフレーズが入っているだけで十分なのである。こうした方法は、著者を他のいっさいに対する責任から解放してしまう。党出版物におけるこうしたシステムのおかげで、理論的には的外れで、政治的には無内容な「作品」が何千何百と出版されている。これらの作品は、党にとっては無難なものなのである。なぜならそれは反対派に敵対するものだからである(たとえば、同志カガノヴィチやウグラーノフ12)やクヴィリンク13)、その他おびただしい数の、現在の路線のより小物の代表者たちの論文・演説・パンフレットを見よ)。

 革命政治は、現在と過去を評価するだけでなく、将来を遠く見通すものでなければならない。反対に、日和見主義の政治はその日暮らしの政治であり、事実上、理論的一般化というものを拒否する。視野の広さや理論的な正確さは、ボリシェヴィズムの革命路線と不可分に結びついている。この路線からの退行は不可避的に、マルクス主義的な問題設定に対する敵意を呼び起こす。退行はごまかしを必要とする。分析はスコラ哲学に取って代わられる。まさにそれゆえ、ブハーリンのスコラ的資質は現在、これほどまでに異常な発展を遂げ、政治的に適用されているのである。しかし、彼によって育てられた注文生産者の「学派」が全面的にその真価を発揮する時には、ブハーリンも後景に押しやられるかもしれない。

  

   8、反対派との闘争の中でどのような傾向が現われているか

 

 上で特徴づけたような諸条件のもとにある政権党において、退行、革命的精神の弛緩、俗物主義への転落、官僚や小ブルジョアジーとの癒着、さらにはあからさまな出世主義といった現象が必然的に現われることに、ほんのわずかでも疑問を持つことができるだろうか? こうした不可避的な傾向はどれほどの規模と程度にまで発展しているのか、それはどれぐらい広範な影響力を獲得しているのか? この最重要問題を検証することは、党内に存在する体制のせいで不可能になっている。しかし、検証なしでも明白なのは、官僚主義的体制が退行傾向を強化していることである。なぜならば、多くの、そしてますます増大しつつある党内の(実際には党と無縁の)俗物たち――どんな問題に対しても上に向かって「まったくその通り」と答える連中――が、不可侵性と保護を享受しているのに対して、批判したり抵抗したり回答を求めたりする革命分子が迫害され除名されているからである。

 レーニン時代には、党内粛清の最も重要な課題の一つは、革命党としてのボリシェヴィキにではなく政権党としてのボリシェヴィキに入党した分子を党から追い出すことであるとみなされていた。労働者反対派は、かつては誤った潮流として党によって非難されたが、しかしそれでも、度しがたい官僚や異質な分子や出世主義者を党から一掃する事業に積極的に参加していた。現在では、党の粛清はほとんどもっぱら反対派に向けられている。いわゆる「鉄の規律」の主唱者となっているのは、かつて一度も革命闘争に参加したことがないか、あるいは最も困難な年月に党を見捨てて、革命後に強力な政権党としての党に入党ないし復党したような連中ばかりである。彼らは、ことの本質上、党内の保守的傾向を代表している。これはいわばその階級的内容とは無関係の「秩序」派である。わが国の社会主義建設と世界革命との結びつきであるとか、党の階級的性格の歪曲とか、貧農との離反、等々といった問題設定は、「体制」と「秩序」を侵害するものとして彼らの逆鱗に触れる。この種の保守的な小ブルジョアたち、すなわち、何らかの大きな危険が迫るやいなや、あるいは近い将来にヨーロッパの歴史に革命的な転換が起こるやいなや、絶望的なまでの混乱に陥るだろう連中、こうした連中が現在、反対派との闘争における極端派の代表者として登場しているのである。

 党機構が過酷なものになればなるほど、それが分派的なものになればなるほど、主要な党員大衆はますます無定型で脆弱になり、党内における堕落と退廃の過程はますます容易に、ますます目につかない形で進むだろう。党内における階級路線とその政策の国際主義的性格を擁護している反対派は、党のプロレタリア的中核にとっての、真に革命的な分子にとっての、青年党員の最良の分子にとっての、つまりは、党が、現在におけるような国家を管理運営する機械ではなく、社会主義建設と国際革命の道具であると考えるすべての人々にとっての、引力の中心である。

 スターリン分派が反対派に対して開始した凶暴な闘争は、それが成功を収める場合には不可避的に次のことを意味するだろう。保守的・俗物的分子の比重の増大と、そして、党そのものの有力で重要な部分における小ブルジョア的変質過程の加速化である。

  

   9、国際問題における中間主義

 

 1、中間主義は、資本主義社会という条件下で、すなわち先鋭な階級闘争が行なわれている中で生じた。ソヴィエトという条件下では、すなわちプロレタリアート独裁のもとで社会主義が建設されつつあるという状況下では、中間主義は不可避的に新しい形態をとり、まさにこの新奇さゆえに人を惑わすものとなっている。しかし、わが国の中間主義の本性は、それが国際舞台に登場せざるをえなくなるやいなや明らかとなる。コミンテルンの諸問題に関して、スターリン・グループは次のような特徴を有している。

 (a)ますますプロレタリア革命の展望を脇に押しやろうとしていること。ここから、資本主義の安定化に対する過大評価が生じる。

 (b)わが国の国内政策を国際革命への依存関係から解放しようとすること。ここから、一国社会主義という反レーニン主義的理論が生じる。

 (c)ますます物事の客観的歩みに身を委ねる立場へと移動していること。ここから、『ラボーチェエ・デーロ』14)流の「段階」論にそっくりの「階段」理論が生じ、意識的・革命的要因たる党の過少評価が生まれる。

 (d)ますます、インターナショナルの正真正銘の右派分子あるいは単なる無思想な分子に接近しつつあること。そしてその一方で、極左分子のみならず、自立した革命分子全般に対する容赦のない迫害がなされていること。

 (e)組織的外交術でもって政策を置きかえる傾向が存在すること。そのために、中間主義に対する批判が緩和され、正真正銘の右派分子に対する組織的措置が必要な場合でさえ、彼らが従順であるかぎり、そうした措置が拒否されていること。

※   ※   ※

 2、完全に明白で議論の余地のない形で、しかも短期間のうちに、中間主義的見解への退行がはっきりと現われたのは、英露委員会の問題においてであった。これは偶然ではない。国内問題で、たとえば、経済的過程の発展が相対的に緩慢に生じている問題でスターリン・グループの政治的立場が検証に付されるのは、必然的に西欧での階級闘争の過程で検証に付されるよりも時間がかかる。とりわけ、この数ヵ月間におけるイギリスでの階級闘争の展開は先鋭な形態をとった。

 英露委員会問題での中間主義政策に対するボリシェヴィキ的批判は、「トロツキズム」としてではなく、「召還主義」として非難された。すでに述べたように、スターリン的退行にきわめて特徴的なことは、防衛策として過去の定式を利用し、この定式の生きた概念をスコラ主義的なシパルガルカに変えてしまうことである。

 召還主義の本質とは何だったのか? それは、革命運動の退潮という状況下で、プロレタリアートの代表者を反革命の議会もどきの機関から引き上げることを要求した点にある。問題となっていたのは、裏切り的な指導者との自発的なブロックではなく、発展の道程によって参加することを余儀なくされた代議機関への参加であった。このことだけでもすでに、このアナロジーのまったくスコラ的な性格は明らかである。第3国会と第4国会の時期に事例を求めるならば、ボリシェヴィキの代議士が帝国議会に参加することを余儀なくされたことに見出すべきではなく、ボリシェヴィキ議員団とメンシェヴィキ議員団との自発的なブロックに見出すべきだろう。このブロックは、メンシェヴィズムが公然たる解党主義に、ストルイピン的労働者党に転じるまで続いた。このとき、レーニンは、ボリシェヴィキ議員団とメンシェヴィキ議員団との分裂を要求し、それを達成した。調停主義者と中間主義者はこの分裂に激怒し、問題となっているのは「指導者」のブロックではなく、あれこれの指導者の背後にいる「大衆」であることを示そうとした。それにもかかわらずレーニンは正しかった。公然と6月3日体制の合法野党と化した勢力との連帯の外観を維持することによっては革命政策を遂行することはできないからである。まったく同じく、現在も、巨大な試練の中で鉱山所有者と保守党政府の直接間接の手先であることを自己暴露した自由主義的労働者政治との連帯の影を維持することによってはイギリス・プロレタリアートの中で革命政策を遂行することはできないのである。

 3、アムステルダム・インターナショナルの問題でも、中間主義政策は、インターナショナルの解体に行きつきかねないような途方もない混乱をもたらした。

 英露委員会の維持を正当化するために持ちだされたすべての論拠は、アムステルダム・インターナショナルへの加入を正当化するのに、倍する力で適用されうるし、適用されなければならない。イギリス総評議会が飛び越すことのできない歴史的「一階梯」であるなら(スターリン)、アムステルダムははるかにそのような階梯であろう。なぜなら、全体は一般にその諸部分よりも大きいからである(イギリス総評議会はアムステルダム・インターナショナルに加入している)。組合上層部との政治的決裂が労働組合からの脱退を労働者に呼びかけることを意味するならば(ブハーリンの理論)、アムステルダム・インターナショナルにわれわれが加入していないことは、まったく同じように、全世界の労働者に向かって、組合に加入しないよう、あるいは組合から脱退するよう訴えることを意味するのは明白であろう。

 ところが、中央委員会の通達(1926年1月14日付『プラウダ』)の中では次のように言われている――「ソ連共産党(ボ)中央委員会は、アムステルダム・インターナショナルへのソ連邦の労働組合の加入が提案されているかのような反革命的うわさを断固として否認する」。それ自体としてはいかなる誤解の余地もないこのきっぱりとした声明は、しかしながら、新しい問題の解明を必要とする。アムステルダム・インターナショナルは歴史的に与えられた組合組織であり、したがって歴史的な「一階梯」であるのに、どうしてその組織に加入してはならないのか?

 このことの説明は、次のことからしてなおさら必要なものとなる。(a)わが国の労働組合のほとんどすべての規約から、昨年、プロフィンテルンへの言及が削除され、その代わりに、国際労働組合連合への帰属が挿入された。ところが周知のように、コミンテルンを除けば、現在存在する労働者の国際的な連合組織はアムステルダム・インターナショナルしかないのである。(b)党内の一連の著名な幹部活動家が同じ1925年にアムステルダムへの加入に賛成意見を述べていた。ある者は条件つきで(同志トムスキー)、別の者は無条件かつ断固とした調子で(政治局員候補である同志カガノヴィチ)。

 ※原注 「われわれは、広範な労働者大衆の中で地盤を固めなければならない。われわれはアムステルダムの中に、アムステルダム系労働組合に入っていかなければならない。一部の者は、つねに日和見主義者に反対して闘ってきたわれわれボリシェヴィキがどうしてアムステルダムの中で彼らといっしょに座ることができるのかと疑問に思うかもしれない。いかに理解できないとしても、実際にはこれはごく普通のやり方である。広範な労働者大衆はかなりの程度アムステルダム・インターナショナルにしたがっている。それゆえわれわれは、大衆のいるところに向かわなければならないのである。われわれボリシェヴィキは、攻勢に出ている資本との闘争という基盤に立ってアムステルダムといっしょに活動することによって、われわれの周囲に他の諸国の労働組合を、何よりもイギリスの労働組合を結集させることができるだろうと希望している…」(L・M・カガノヴィチ『第14回党協議会の当面する課題』、52頁)。

 さらにいっそう事態を複雑にしているのは、イギリス労働組合の代表者たちとのパリやベルリンでの交渉の結果の問題である。どんなものであれわれわれといっしょに実際の闘争に参加することを断固拒否している総評議会は、しかしながら、組合運動の統一に関する決議に再び署名をしたのである。英露委員会そのものを維持することと同じく、この決議の唯一の現実的意味は、全ソ労働組合評議会がアムステルダム・インターナショナルに加入するための架け橋として役に立つということとしてしか理解できない。ところが、こうした見方は「反革命的中傷」として非難されているのである。

 中間主義は、以上見たように、世界の労働者運動の最重要問題の一つにおいて、支離滅裂さ、矛盾、混乱を意味しているのである。

※   ※   ※

 コミンテルンのその他のすべての諸問題に関しても、スターリン・グループの政策は、本質的に同じぐらい中間主義的な性格を有している。

 4、ポーランドにおいては、軍事クーデターの時期――それはイギリスのゼネストと時を同じくしていたが――、ポーランド共産党の中央委員会は惨めな追随主義的政策をとり、共産党を小ブルジョア的・愛国主義的自然発生性の構成部分に変えてしまった。かくも責任重大な時期に、これ以上に俗悪な日和見主義的誤りを想像することもできない。ところが、ポーランド党中央委員会に対する批判がわが国の新聞雑誌で行なわれたが、一時的なものでしかなかった。最も危機的な瞬間にケレンスキー主義の道へと党を導いたポーランド党中央委員会の頭からは頭髪一つ落ちなかった。それと同時に、左派は活動から排除され、中傷され、ドイツでは党から除名された。

 5、イギリス共産党は疑いもなく、労働党の中間主義者と労働組合主義を批判する点で、断固たる姿勢にはなはだしく欠けていた。イギリス党の指導者たちがゼネストの裏切りに関するインターナショナルの決議があまりにも厳しすぎるとみなして、大きな圧力を受けて初めてそれを印刷した事実を指摘すれば十分だろう。全ソ労働組合評議会の訴えをイギリスの党は誤りとみなした。スターリン・グループは、イギリス共産党のこうした弱点――それがもし時機を失せず克服されなければ、将来、イギリス・プロレタリアートを最大級の困難に導くだろう――をできるだけ率直かつきっぱりと指摘するどころか、イギリス党中央委員会の受動性と不決断という欠陥を隠蔽し、この欠陥を指摘する者たちをあからさまに迫害している。

 6、国民党に対する指導グループの立場も完全に日和見主義的な性格を有している。中国における民族民主主義運動がますます階級的線に沿って分解しつつある現在、そして、若い中国プロレタリアートが、何百万もの労働者を巻き込むストライキという手段によって闘争の舞台に登場している現在、また、労働組合組織が何万・何十万の労働者を包含しつつある現在、中国共産党はもはや、国民党を構成するプロパガンダ・グループにとどまることはできない。それは、民族解放運動におけるプロレタリアートのヘゲモニーのために闘う独立した階級的プロレタリア政党になるという課題を自らの前に立てなければならない。共産党の独立性は、国民党へのその組織的加入を排除するが、もちろん、国民党との長期的な政治的ブロックを排除するものではない。ところが、スターリン・グループは、共産党と国民党とのあいだに組織的な境界線を引くという問題そのものを「極左主義」「降伏主義」「解党主義」と非難し、また、その他の罵詈雑言を浴びせかけることで、中国共産党の課題に対する誤った追随主義的な態度をとっていること、解放闘争において共産党が本来担いうる役割を切り縮めていることを、覆い隠しているのである。

※   ※   ※

 7、世界革命運動の諸問題におけるスターリン・グループの中間主義への退行は、絶え間なく進行している。ソ連共産党内の反対派に対する機構の闘争の激化はますますこの退行の過程を強めている。そしてソ連共産党の党内闘争における原則的路線は、不可避的にコミンテルンの諸党にも反映する。外国の諸党における反対派支持者に対する闘争は、スターリン・グループをますます右へと押しやるだろう。そしてそのことによって、世界の労働者運動の諸問題におけるその中間主義的・日和見主義的路線を暴露することになるだろう。

  

   10、日和見主義の理論的隠れ蓑としての「安定化」問題の抽象的設定

 

 戦後のヨーロッパはどうなっているだろうか? 経済では、生産の不規則で発作的な収縮と拡張が見られ、全体として、個々の分野での技術的成果にもかかわらず、戦前に到達した水準よりも低落している。政治においては、左右への、政治情勢の同じくらい激しい動揺が見られる。

 

  安定化とは何か? 戦前と戦後のヨーロッパ

 本当に安定していて生命力があると呼ぶことができるのは、生産全体を系統的に拡張し、勤労大衆の状況を――少なくともその上層を――多少なりとも改善するのに十分なほど生産力を発展させることのできる資本主義体制のみである。このような状況はヨーロッパのどの国にも存在しない。ある国における、あるいはある工業部門における一時的な状況改善は、別の国ないし別の工業部門における状況悪化をもたらす。

 このような条件下において、われわれは「安定化」をどのように理解するべきだろうか?

 (a)戦争が存在しないこと、少なくともヨーロッパ大陸規模の戦争が存在しないこと。

 (b)革命が存在しないこと、公然たる内戦としての革命が存在しないこと。

 (c)各国間に多少なりとも「正常な」経済関係が、とりわけ商業取引関係が確立されていること。

 (d)多少なりとも通貨が安定していること。

 戦前にはヨーロッパはどうなっていたか?

 経済では、「正常な」景気循環を通じて、生産力の強力な上昇が存在した。政治では、重要性において2次的な動揺を通じて、社会民主主義が成長し、自由主義が弱体化していった。

 言いかえれば、経済的・政治的諸矛盾が先鋭化していく着実な過程、その意味で、プロレタリア革命の前提条件が系統的に準備されていく過程、である。

 

  安定化とパーセル主義体制

 たとえば、現在のイギリスに関して安定化は何を意味するだろうか? 生産力の発展か? 経済状況の改善か? 将来の見通しの改善か? 労働者大衆の相対的な満足と安定か? いやけっして。イギリス資本主義のいわゆる安定化のいっさいは、イギリス共産党が脆弱なもとで、あらゆる色合いと潮流を含む旧来の労働者組織の保守的力に依存している。イギリスの経済的・社会的諸関係においては革命は完全に成熟している。問題は純粋に政治的である。安定化の基本的土台は労働党と労働組合の上層部である。これはイギリスにおいては、基本的に、分業の原理にもとづいて建設された単一の全体を構成している。労働者大衆の置かれた状況はゼネストと炭鉱ストによって暴露されたが、そうした中で、資本主義の安定化メカニズムの中で主要な位置を占めているのはマクドナルドやトーマス15)ではなく、ピュー16)やパーセル17)やその仲間たちなのである。彼らが着手し、トーマスが仕上げる。パーセルなしではトーマスは宙ぶらりんになり、トーマスがそうなればボールドウィン18)もそうなる。偽りの、外交的で、仮装された、パーセル的な「左翼もどき」は、聖職者ともボリシェヴィキとも――時に順番に、時に同時に――友好関係を結び、いつでも退却の準備をしているだけでなく、裏切りの準備もしている。これこそ、現在、イギリスにおける革命の基本的なブレーキとなっている。安定化とはパーセル主義体制のことである。このことを理解しないことは、政治情勢全体の鍵を持たないことを意味する。ここから明らかなのは、パーセルとの政治的ブロックを正当化するために安定化の存在を持ち出すことが、いかに理論的に無意味で、いかに実践的に日和見主義的なことであるか、ということである。イギリスの客観的な経済的安定性は根底から破壊されている。政治的安定性を覆すためには、パーセル主義体制を粉砕しなければならない。このような状況下で最大級の犯罪で恥辱であるものは、労働者大衆の面前でたとえわずかなりともパーセルとの連帯関係を維持することである。

  

   11、コミンテルンのその他の諸党19

 

  ドイツ共産党の課題

 ドイツ党の安定化にとって必要なのは、党内の2つの基本グループ[右派と左派]の思想的・政治的接近と相互浸透であり、これらのグループのみが党の正しい政策としかるべき党指導部を保証することができる。

 しかしもちろんのこと、右派ないし左派が、この統一体の中に現在の姿のままで完全に入っていくことができるということを意味するものではない。一定の淘汰は不可避である。これまでの自己の政策の一面性について理解することができず、より正確でより総合的な共産主義政策にもとづいた党指導の必要性を認識できない分子は入れないだろう。また、コミンテルンを手で追い払い、ソ連邦をブルジョア国家とみなし、プロレタリアートはこの国家に対する反対派にならなければならないなどと宣言するような「左派」分子も入れないだろう。このことはもちろんのこと、コミンテルンやソ連邦を激しく拒否する個々の活動家を自動的に除かなければならない、ということを意味するものではない。ソ連共産党内の諸事件と結びついて先鋭な党内闘争が行なわれている状況下では、このような行きすぎが生じるのは不可避である。しかし、ドイツ共産党内部における勢力の再編は、言うまでもなく、コミンテルンの枠内で、そして党の厳格な連続性の内部でなされなければならない。

 党の現在のより高度な発展水準にもとづいて右派と左派が接近・融合することは、けっして、「テールマン派」指導部の切断や排除を自己の課題とするものではない。なぜなら、そんなことをすれば、現在テールマンが左派に対して適用しているのと同じ誤った方法をこのグループに適用することになるだけだからである。

 

  フランス共産党の課題

 戦後における大規模な大衆闘争の経験がより少ないその他の諸国に関しては、共産党内部の再編はあまりはっきりとした性格をもっていないが、それでも、全体として党の発展過程の同じ矛盾を反映している。この発展過程は、あれこれの方向にずれたり、種々の偶然性や外的な圧力や個人的要素等々が混じりあったりしている。

 とはいえ、フランスにとっても、いわゆる右派グループと左派グループを排除することによって正確で安定した党指導を保証しようというのは、やはりまったく不可能である。粗悪な分派的政策は、組織的圧力の方法によってこの2つのグループを両方とも反対派の立場に押しとどめることに向けられているが、これはきわめて有害であり、断固として糾弾されなければならない。他方では、フランスにおける階級闘争の発展によって提起された諸課題にもとづいて接近・融合する必要性をはっきりと理解しようとしない反対派およびそのメンバーは誰であれ、不可避的に、今後の発展によって脇に投げ捨てられるだろう。革命政策は昨日という日にではなく明日という日に足並みを揃えなければならない。

 

  コミンテルン諸党の再編の必然性

 以上述べたことはけっして、右派ないし左派のグループが、現在のままの状態で、公式の中央部とは対照的に合法則的で正しい路線をすでに表現している、というように解釈されてはならない。疑いもなく、一部の右派グループの中には社会民主主義的潮流が存在するし、左派の中には少なからず「小児病」分子がいる。同じく、公式の指導カードルの大部分が無定見な官僚であると考えるのも正しくない。実際には、コミンテルンとソヴィエト連邦の運命に対する責任感ゆえに、しばしば多くの真の革命家たちは――ますます怒りを募らせながらも――支配的な官僚体制の基盤上にとどまっているのである。しかしながら、以上述べたことから出てくる結論は、コミンテルン内部で、全面的な論争にもとづいて、とりわけソ連共産党の諸問題をめぐる論争を通じて、抜本的な再編成が生じるのは不可避であり、必要であるということである。この道を通じてはじめて、コミンテルン諸党は、ソ連共産党の現在の体制の主要な源泉である機械的な官僚的専横から解放されるのである。

 コミンテルンのすべての生きた活動的分子がこの喫緊の課題を――途方もなく時代遅れとなった現在の諸グループとは独立に――速やかに、広範に、断固として提起すればするほど、ますます混乱少なくこの課題を解決することができるのである。

  

   12、活路

 

 国内政治および国際政治における諸問題はいずれも不可避的に、党内体制の問題にわれわれを導く。経済・賃金・税金その他の諸問題における階級路線からの逸脱は、言うまでもなく、きわめて重大な危険性を有している。しかしこの危険性は、党の手足を縛りつけているスターリン体制のせいで党の指導的上層部の路線を矯正する正常な方法が不可能になっていることで、何十倍も増している。

 コミンテルンにも同じ危険性が存在する。コミンテルンのより民主主義的で集団的な指導の必要性に関する第14回党大会の決議は、実際には、その正反対物に転化した。コミンテルンの問題に関する最も重要な決定が純分派的な方法で提起され、スターリンによって秘密に派遣された密使によって実行された。コミンテルンの体制を変えることは、国際革命運動にとって死活にかかわる問題になっている。この変革が達成される道は2つある。ソ連共産党の体制の変革と手に手を取って進むか、コミンテルン内でのソ連共産党の指導的役割に対する闘争の中で進むか、である。言うまでもなく、最初の道の実現に向けて全力が傾注されなければならない。ソ連共産党の体制を変革するための闘争は、コミンテルンの体制を健全化するための闘争であり、コミンテルン内におけるわが党の思想的な指導的役割を保持するための闘争なのである。

 第14回党大会中およびその後において、党体制の問題は、「スターリンは書記長の地位にとどまるべきかどうか」という形をとって先鋭化した。このような問題設定は主として、レーニンのいわゆる「遺書」と結びついていた。レーニンは、党の健全な発展のために時機を失せずスターリンを書記長のポストから取り除くよう提案していた。レーニンの動機は、スターリンがあまりにも粗暴で、不実で、権力を濫用しかねないということであった。現在、ウラジーミル・イリイチの助言が、深遠な政治的・心理的洞察にもとづいたものであったことを疑うことができようか? スターリンの力はその10分の9までが彼の個人的力ではなく、機構の力であり、彼はそれをあたかも「遺産」を相続するように受け取った。なぜならスターリンは、レーニンがまだ健在であったときに――かなりの程度レーニンの意志に反していたとはいえ――書記長になったからである。レーニン存命中の機構は、スターリンが書記長であったにもかかわらず、政治局の政策を、すなわちレーニンの路線を遂行していた。レーニン死後、スターリンを頭目とする機構は独立した力に転化した。スターリンの役割は、党内における分派的・官僚的原理の最も合法則的な表現者となることである。しかし、まさにそれゆえ、今や、スターリンは書記長であるべきかあるべきでないのかということに問題を還元することはけっしてできないのである。まったく明らかなのは、たとえ中央委員会が明日にでもスターリンを(「彼の個人的要請にもとづいて」)書記長の地位から解任してルズタークやモロトフなどをその地位に就けたとしても、あるいはそもそも書記長というポストを廃止したとしても、ことの本質上、現在の全般的な状況が続くかぎり、このことはいささかも党内体制を変えるものではないということである。

 現在の中央委員会は中央統制委員会と同じく、純粋に分派的な手段によって一面的に選出されている。同じ分派的方法を通じて上から県・地方・州レベルの書記が選出され、これらの書記が郡や区レベルの書記を選んでいる。さらにこれらの書記はおのおの、県委員会・地方委員会・郡委員会・区委員会のしかるべき面々を選び出している。大会や協議会への代議員を選出する際も、事実上、書記がその候補リストを作成しており、しかもしばしば、県委員会ないし中央委員会は反対派の代表者の選出を「甘受しない」という警告つきなのである。党運営における民主主義的中央集権制は分派的・官僚的中央集権制に取って代わられ、後者はとてつもない完成形態にまで至っている。機構は党の喉を締め上げて、言葉を話せないようにしているだけでなく、息をすることさえできないようにしている。機構の要諦はスターリン分派によって掌握されており、この分派は自らを「代替不可能」な存在とみなしている。彼らは、自分たちに加えられるいかなる批判も、まず第1段階では、党の統一を脅かす犯罪だと非難し、第2段階では国家犯罪だと非難する。こうした状況下で、スターリンが、党内に組織された党内党である自己の分派を、書記長として率いているのか、政治局員として率いているのか、あるいは他の何らかの資格で率いているのかは、まったくどうでもよいことである。

 スターリンの分派的独裁権力は党にとってあまりにも高くつくものとなっている。この体制は、反撃に合わないかぎり、不可避的に党を新しいますます悲劇的となる激動にさらすだろう。問題は、スターリンの名誉を失墜させることではないし、スターリンを取り除くことでさえない。すなわち、スターリン的方法を彼自身に適用することではない。そうではなく、問題は正常なレーニン的党内体制を復活させることであり、スターリン分派もこの体制のうちに溶解させなければならない。党に機構を指導する権利を復活させなければならない。そうすることが可能となるのはただ、良心的に準備され民主主義的に選出された党大会を通じてのみである。そしてこの大会は、中央委員会およびその他の党機関の構成を、100万党員の真の思想と気分に合致したものとするだろう。

エリ・トロツキー

1926年9月

『トロツキー・アルヒーフ』第2巻所収

新規、本邦初訳

   訳注

(1)レヴィ、パウル(1883-1930)……ドイツの革命家。ローザ・ルクセンブルクの弟子で、ローザ・ルクセンブルク亡き後、ドイツ共産党の指導者の一人。1921年におけるドイツ共産党の一揆主義的決起に反対して、除名。1922年にドイツ社会民主党に入党。1930年に自殺。

(2)スレプコフ、アレクサンドル・ニコラエヴィチ(1891-1937)……ブハーリニストの代表的な若手理論家。1917年にコムソモールの指導者。ラトビアで地下活動をしていて逮捕され、1918年に釈放。ブハーリンに取り立てられ、『コムソモールスカヤ・プラウダ』の初代編集長。1925年、ブハーリンの下で『プラウダ』の編集に従事。1920年代半ばには反トロツキズム運動に従事。1920年代終わり、ブハーリニストとして弾圧され、1930年に除名。1933年にリューチン事件に連座して逮捕。1937年に銃殺。1959年に名誉回復。

(3)スミルノフ、アレクサンドル・ペトロヴィチ(1878-1938)……1896年にペテルブルクの「労働者階級解放同盟」に参加。農業問題の活動家。1907〜17年、ロシア社会民主労働党中央委員候補。1917年10月から、内務人民委員の幹部会員。1922年から党中央委員。1923年から農業人民委員部の副議長、農民インターナショナルの書記長。1930年からヴェセンハの幹部会員。1934年に除名、1937年に逮捕、1938年に銃殺。1956年に名誉回復。

(4)カミンスキー、グリゴリー・ナウモヴィチ(1895-1938)……1913年からボリシェヴィキ。1917〜20年、トゥーラ地方で党活動、国家活動に従事。1923〜29年、全ロシア農業協同組合同盟の中央委員会の副議長。1925年からロシア共産党中央委員会候補。1930年から党モスクワ委員会書記。1937年に逮捕され、1938年に銃殺。1955年に名誉回復。

(5)ペトロフスキー、グリゴリー・イワノヴィチ(1878-1958)……古参ボリシェヴィキ。1897年から「労働者階級解放同盟」に参加。1912年に第4国会議員に選出され、ボリシェヴィキ議員団の一員。同年、中央委員会に補充。1918年、ソヴィエト側の講和代表団の1人。1919〜1938年、全ウクライナ中央執行委員会議長。1921年から党中央委員、1922年から、中央統制委員。1926年に政治局員候補。

(6)ヤコブレフ、ヤーコフ(1896-1938)……1913年にボリシェヴィキ党に入党、1918年にはウクライナの右派の主要な代弁者であり、後には反対派に反対してスターリンの熱烈な支持者となった。1930年代初頭の農業集団化の際に農業人民委員として、強制集団化を指導。大粛清期の1937年に逮捕され、1938年に獄死。

(7)この一文は原文にないが、この一文がないと続く文章の意味がまったく通じないので、何らかの脱落ないしケアレスミスとみなして補っておいた。

(8)ステツキー、アレクセイ・イワノヴィチ(1896-1938)……ブハーリニスト。1915年からボリシェヴィキ。レーニン死後、ブハーリンの緊密な協力者となり、ステンらとともにブハーリン学派の若手理論家の一人となる。1924〜27年、中央統制委員。1925年から『コムソモール・プラウダ』の編集長。1927年に党中央委員。ブハーリンの失脚後にスターリニストに。1938年に逮捕され、銃殺。1956年に名誉回復。

(9)ステン、ヤン・エルネストヴィチ(1899-1937)……哲学者、マルクス主義理論家。1917年にボリシェヴィキ入党。1921年に赤色教授学院を卒業。マルクス・エンゲルス研究所の副代表。1932年に除名。1935年に逮捕され、1937年に獄中で処刑。

10)メドヴェージェフ、セルゲイ・パヴロヴィチ(1885-1937)……1900年から活動家。金属労働組合の指導者。1921年に労働者反対派の指導者。1924年にバクーの同志たちに宛てた手紙は、1926年に合同反対派に対する攻撃材料として用いられる。1937年に粛清される。

11)オソフスキー、ヤ(1893-?)……1917〜18年、ドイツ独立社会民主党のメンバー。1918年、ボリシェヴィキ。経済学者となる。党内異論派の一人。農民の剰余を吸い上げるために工業価格の引き上げを要求するとともに、他政党の合法化を主張した。1926年8月に除名。

12)ウグラーノフ、ニコライ(1886-1940)……古参ボリシェヴィキ。1907年からの党員。1921年に中央委員。1923年、モスクワ党組織の書記として反対派狩りに辣腕を振るう。その後も反トロツキスト運動の先頭に立ち、出世。1928年にブハーリンの右翼反対派を支持。1930年に、右翼反対派として、中央委員会から追放され降伏。1932年にリューチン事件に連座させられ、もう一度降伏。最終的に、粛清のなかで姿を消す。

13)クヴィリンク、エマヌエル・ヨノヴィチ(1888-1937)……スターリニスト、経済学者、1912年からのボリシェヴィキ。1913年にボリシェヴィキ議員団の書記。1917年、ロシア共産党エカテリノスラフ委員会のメンバーとして革命に参加。1922〜34年、党中央委員。1918〜19年、1923〜25年、ウクライナ共産党中央委員会書記。1925〜27年、最高国民経済会議(ヴェセンハ)の副議長。1927〜30年、ゴスプランの副議長。1937年に逮捕され、銃殺。1956年に名誉回復。

14)『ラボーチェエ・デーロ』……1899年から1902年までジュネーブで発行されていた経済主義的傾向をもった初期の社会民主主義新聞。「在外ロシア社会民主主義連盟」の機関紙。

15)トーマス、ジェームズ(1874-1949)……イギリスの労働組合運動家、労働党政治家。鉄道労働組合出身で、1911年に全国鉄道ストライキを指導。1918〜31年、全国鉄道産業従業員組合書記長。1920年、労働連合会議議長。1910〜36年、労働党の下院議員。1924年、第1次労働党内閣で植民地相。1931年、マクドナルドともに自由・保守両党との挙国一致内閣に入閣し、労働党を除名。1930〜35年、自治領相。

16)ピュー、アーサー(1870-1955)……イギリスの労働組合指導者。イギリスの1926年のゼネスト時におけるイギリス労働組合総評議会の議長。

17)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

18)ボールドウィン、スタンリー(1867-1947)……イギリスの保守党政治家。1908〜37年、下院議員。1921〜22年、商務大臣。1922〜23年、大蔵大臣。1923〜24年、1924〜29年、1935〜37年と首相。

19)この中見出しは原文にはないが、内容から判断して入れておいた。以下の「ドイツ共産党の課題」「フランス共産党の課題」などの小見出しも訳者の独自の判断で入れた。

 

 

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1920年代後期