同志サファロフ追放への抗議

多数派の同志たちへの手紙

G・ジノヴィエフ/訳 西島栄

【解題】中央委員会多数派は、大会前の時期を見計らって反対派のメンバーを次々と国外の大使や公使などの任務に任命して体よく反対派の主要指導者を国外に追放した。反対派はこうした策略が反対派に対する弾圧行動の一環であるとして厳しく批判する抗議の声明を中央委員会に送った。この抗議に対して、中央委員会多数派は、反対派の8月8日の声明を持ち出して、反対派は中央委員会の決定に従うと言っておきながら、さっそくその決定に従うことを拒否していると非難した。本稿は、こうした論理に対して全面的な反論を試みたものである。執筆はジノヴィエフだが、この抗議文そのものは、主語が「われわれ」となっているように、反対派として出されたものと思われる。(右の写真はサファロフ)

 Г. Зиновьев. Письмо. 27 августа, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.4, 《Терра−Терра》, 1990.


   親愛なる同志諸君!

 同志サファロフ(1)のコンスタンチノープルへの追放に関するわれわれの手紙に対する諸君の回答は、かつてレーニンが執拗に警告してきた体制、われわれが闘っているし今後も闘うだろう体制の新たな現われである。

 同志サファロフをコンスタンチノープルに追放すること自体許されないことだが、彼の場合には、ツァーリを殺害した人物として白衛派に知られていることでいっそう事態が困難なものとなっている。この点をわれわれが指摘したところ、諸君は言うに事欠いて「共産党員にふさわしからぬ恥ずべき臆病さ」と述べている。これ以上でたらめな粗野さは想像するのも困難である! いったいいつから、まったく無意味に危険に晒される同志の生命に配慮することが「臆病さ」になったのか!? われわれは、党の利益によって正当化されないような、他人を犠牲にしての勇気がボリシェヴィキ的勇気であるとまったく思わない。スターリンとモロトフは多くの同志たちを――これらの同志たちが第15回大会前に精力的に、まさにボリシェヴィキにふさわしい形で、中央委員会書記局の非ボリシェヴィキ的政策を暴露するだろうということを知った上で――追放しているが、このような振る舞いが勇気あふれる行為だとも思わない。

 諸君は、外国にいるわが国の代表者たちの中で、諸君の言葉によれば同じ危険にさらされてきたし、さらされている人々の短いリストを作成している。諸君はその中に、ツァーリ殺害に関与した同志ウフィムツェフ(2)の名を挙げているが、彼は「ロシア白衛派の中心地」に置かれている。同志ピャタコフはエスエル裁判の議長だった。同じ同志サファロフは北京に派遣されていたが、その地は、諸君の言葉によれば、「武装したロシア白衛派の君主主義者に事欠かない」地域であった。注目すべきことに、この短いリストを作成した際(同志カーメネフなどの名前を挙げることでこのリストを補足することもできよう)、諸君はまさに、実務的理由にもとづいてではなく純粋に分派的理由にもとづいて国外に送られた3人の反対派メンバーの名前を挙げている。われわれがあれこれの反対派メンバーの国外追放に反対しなかったかのように言うのは間違っている。たとえば、実務上の理由という外観さえなしに同志ピャタコフがカナダに送られたとき、トロツキーはこのことについて同志オルジョニキッゼに手紙を書いている。ジノヴィエフはこのことについて中央統制委員会の会議で発言している。最後に、過去にわれわれが必ずしも、反対派メンバーに対する行政的制裁のシステム、この発展しつつあり強化しつつあるシステムに常に十分な反撃を行なってきたわけではないという非難を甘んじて受け入れよう。しかし、今後は、このような非難にいかなる根拠も与えるつもりはない。

 実務的性格に対するわれわれの非難に関して、すなわち、同志サファロフの追放には実務上の正当性の影さえないことをわれわれが指摘したことに関して、諸君は、「中央委員会のすべての決定に従う用意があることを声明した反対派の8月8日の声明の翌日には、中央委員会の決定に従うことを拒否している」と言ってわれわれを非難する以外のいかなる理屈も持ち出すこともできなかった。あたかもわれわれが8月8日の声明によって、官僚主義的恣意や分派的制裁に、とりわけ大会前の時期に反対派メンバーを国外に派遣したり追放したりするやり方に唯々諾々と従うことを義務づけられたかのような諸君の主張を、われわれは断固として拒否する。諸君は、レーニンがこの種の行動についてどのような言葉で呼んでいたかを知っているはずである。ボリシェヴィキが中央委員会の決定に従うとは、従順に小役人的に服従することといかなる共通性もない。合同総会の決定を破った者がいるとすれば、それは諸君である。同志スターリンは総会の席上、「休戦」について語った。もしこの発言が何らかの意味を持っているのだとすれば、中央委員会は、反対派の声明を考慮に入れて、自分たちの方から党内体制を改善するための何らかの措置をとってしかるべきだった。何よりも、反対派に対する最も言語道断な迫害行為――それは大会前だけに二重に許しがたい――をやめさせるための措置をとるべきであった。この問題については8月8日の声明の後半部分で論じられている。この後半部分は前半部分と切り離されたが、さすがに拒絶されることはなく、政治局と中央統制委員会幹部会に送付された。サファロフを追放することは、諸君が全戦線で開始しつつある大会前の組織的攻勢の一つの現われであり、レーニンが粗野で不実であると非難したまさにあの方法を適用することに他ならない。

 われわれはなお全面的に8月8日の声明の基盤にとどまりつづける。しかし、われわれの側の最良の意図も、スターリン式の政治が続いているかぎり無駄であることがわかった。サファロフの追放に対するわれわれの抗議――それはまだその効力を全面的に保持している――は、党内における健全な体制のための闘争の構成部分である。そしてこのような健全な体制のみが、われわれにとってかくも必要な統一と革命的規律を保証しうるのである。

G・ジノヴィエフ

1927年8月27日

『トロツキー・アルヒーフ』第4巻所収

新規、本邦初訳

  訳注

(1)サファロフ、ゲオルギー(1891-1942)……本名、ゲオルギー・イワノヴィチ・エゴーロフ。1908年以来のボリシェヴィキ。長年フランスに亡命し、10月革命後、コミンテルンで「東方」問題の責任者になる。1920〜21年には労働者反対派。1923年の左翼反対派の最初の闘争においては、ジノヴィエフ派の一員として『プラウダ』に反対派を誹謗する多くの論文を発表。1925年にレニングラード反対派。1926年、合同反対派に合流。1927年に除名された後、スターリンに屈服し、コミンテルンの仕事に復帰。1932年、スミルノフとともに反対派ブロックに。1934年に逮捕され、1935年に反対派から決別。1936年のモスクワ裁判ではジノヴィエフに不利な証言をする。

(2)ウフィムツェフ、N・I(1888-1938)……1906年、入党。赤軍のコミッサール。その後、経済局、とりわけウィーンの貿易代表部で働く。1927年、反対派メンバーの一員として除名。1929年、屈服。I・N・スミルノフのグループと交わったかどで再逮捕。 

 

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