次の焦点はオーストリアだ

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解説】本稿は、ドイツでのファシズム成立後にオーストリアで進行中であった深刻な政治的危機とオーストリア版ボナパルティズムをきわめて鋭い筆致で分析し、オーストリア社会民主党の果たしている犯罪的役割を暴露した論文である。

 第1次世界大戦でドイツとともに敗北したオーストリア=ハンガリー帝国は、サンジュルマン条約によって解体され、旧来の4分の1の領土に縮小された。敗戦による危機に加えて、領土縮小によって主要な原料産地と市場から切り離されたオーストリアは、深刻な政治的・経済的危機を迎えた。1919年にはハンガリアとバーバリアにソヴィエト政権が成立されるなど、オーストリアの革命的危機は目の前に迫っていた。しかし、この危機が本当の革命に転化するのを妨げたのは、ドイツの場合と同じく、オーストリアの社会民主党であった。オーストリアの社会民主党は、ドイツの場合よりもはるかに強力であり、労働者の中で圧倒的多数であった(オーストリア共産党は極少数派だった)。オーストリア社会民主党が革命へと舵を切れば、それを妨げることのできる力は国内には存在しなかった。しかし、オーストリア社会民主党は、キリスト教社会党と連立政府を形成し、資本主義的秩序を擁護した。

ドルフース

 革命の危機が過ぎ去った1920年に、キリスト教社会党は社会民主党との連立を解消した。社会民主党はお払い箱にされたのである。1920年代にオーストリア経済は回復基調に入ったが、1929年後の世界恐慌によって再び深刻な危機に陥った。とりわけドイツにおけるファシズムの急速な成長は、オーストリアでのファシズムの成長を促し、オーストリアのブルジョア的自立性を脅かした。オーストリアのドルフース政権[右の写真はドルフース]は、外交的には親イタリア路線をとるとともに、国内的にはますますボナパルティスト的性格を強めていった。ドイツにおけるナチス政権成立直後の1933年3月7日、ドルフース政権は、突如、議会の権限を停止し、言論・出版・結社の自由を停止し、共産党を禁止し、ボナパルティスト体制への移行を完了した。

 しかし、この時点でもなお労働者階級の政治戦線はきわめて強力であった。1930年の総選挙でオーストリア社会民主党は72議席を獲得して第一党であり、しかも、労働者の大衆的な武装部隊「防衛団」を有していた。この武装組織は、キリスト教社会党の別働隊である「護国団」から労働者の組織を守るためにしばしば動員されていた。労働者の圧倒的多数を支配するオーストリア社会民主党がこの危機的な情勢においてどのような路線をとるかは、オーストリアの運命にとって決定的な要因であった。トロツキーは、オーストリアの社会民主党労働者に闘争に立ち上がるよう全力を込めて訴えた。しかし、ドイツの場合と同様、社会民主党は、現状維持に汲々とし、ただいたずらに時間を稼ぐ政策をとり続けて、勝利の機会を逃し、事態のイニシアチブをブルジョアジーの側に預けてしまったのである。1934年2月、ドルフース政権によってオーストリア社会民主党と防衛隊が解体された。ファシストと労働者との力の均衡にもとづいていた退行的ボナパルティスト政権は、その決定的な支柱を失い、ファシストの力を一気に強めた。1934年7月にファシストのクーデターが起こり、ドルフースは暗殺された。このクーデターは一時的に鎮圧されたが、1938年3月にナチス・ドイツによってオーストリアはあっという間に併合され、こうしてオーストリア社会民主党とオーストリアのボナパルティすと政権は、ファシズムの勝利への道を掃き清めたのである。

 本稿は最初、「次はオーストリアの番だ」という題名で『トロツキー著作集 1932-33』下(柘植書房)に翻訳されたが、今回アップするにあたって、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文にもとづいて全面的に改訂している。

Л.Троцкий, Австрия на очереди, Бюллетень Оппозиции, No.34, Май 1933.


   オーストリアの「ボナパルティズム」

 オーストリアの情勢はドイツのそれと質的に異なっているわけではない。ただその発展がドイツから立ち遅れているにすぎない。オーストリアの政治生活がドイツにおけるファシスト・クーデターのプレスに押しつぶされてからは、オーストリアの大詰めは日単位ではなく時間単位で接近している。

 現在オーストリアが通過しつつある時期は、ブリューニング=パーペン=シュライヒャー時代のドイツ、ないしヘルト(1)時代のバーヴァリアに似ている。すなわち、プロレタリアートの陣営とファシストの陣営が相互に力を相殺しあっていることによって維持されている半ポナバルチスト的独裁の時期である。オーストリアについても、われわれの考えではボナパルティズムという用語があてはまる(教権主義的ファシズムとか正統主義的ファシズムなどといった、純粋に記述的で何も言ったことにはならない他のあらゆる定義と対比せよ)。この用語は、非和解的な二つの陣営のあいだを遊泳している政府、足もとから失われていく社会的な支えに代えてますます軍事・警察機構を用いざるをえない政府の相貌を非常に明確に特徴づけている※。ボナパルティズムヘの傾斜に示されているのは、民主的憲法の予備条項に隠蔽された軍事・警察的手段によって、合法性との公然たる決別や長期にわたる内乱や血まみれのファシスト独裁を避けようとする有産階級の志向である。

※原注 『アルバイター・ツァイトゥング』自身が「ドルフース(2)のブリュメール19日」という記事を載せてボナパルトの亡霊の眠りを妨げている。だがこの社会民主主義新聞はこれを単なる文学的なおしゃべりとして用いている。そもそもオーストリア・マルクス主義者に政治の階級的分析を求めてもむだである。マルクス主義は彼らにとって過去を説明する場合のみ必要とされる。そして彼らは、実際の政治においては、2流の心理的駆け引きと、いっさいは落ち着くところに落ち着くだろうという希望にもとづいて行動している。

 「超階級的」政府の社会的基盤が、両翼を犠牲にして成長する時代が歴史にはしばしば存在する――こうした時代、ボナパルティズムはその歴史的時期の全体に自らの刻印を捺す。だが今日のオーストリア「ボナパルチズム」は、昨日のドイツのそれと同様、エピソード的な性格をもつにすぎず、民主主義体制とファシズム体制とのあいだの短い幕間を埋めるにすぎない。

 たしかにオーストリアの「ボナパルチスト」はずっと広い議会的基盤をもっており、ファシストもドイツの場合よりずっと弱い。だが、第1に、キリスト教社会党は溶けてなくなりつつあるが、ナチスは急速に成長している。第2に、ナチスの背後にはファシスト・ドイツが控えている。問題を決するのは事態の発展力学である。理論的分析とドイツの最近の経験がともに示しているのは、ウィーンの警察・官僚独裁は長期にわたって持ちこたえることができないことである。事態は急速に大詰めに向かっている。ファシストが権力をとるか労働者が権力をとるか、どちらかしかない。

 

   猶予の可能性

 われわれは舞台裏の事情については知らない。だがオーストリアを包囲、圧迫している諸国の政府があらゆるバネを動かしていることに疑いはありえない。これら諸国政府のうちどれ一つとして、イタリア政府でさえ、オーストリアでファシストの手に権力が移ることに利益を有していない。オーストリア社会民主党の指導者たちが、この状況をすべてのゲームの主要な切り札とみなしていることは明らかである。彼らの目には、旧協商国による金融上その他の圧力は、オーストリア・プロレタリアートの革命的行動にとって代わりうるものに見える。この計算ほど誤っているものはない。国家社会主義に対する戦勝国の敵意は、ドイツで国家社会主義が爆発的な成長を遂げた理由の一つであった。オーストリア社会民主党がフランスや小協商国(3)の政策――その課題は、オーストリアを「独立」の状態に、すなわち孤立と無力の状態にとどめておくことにある――に自らを結びつければ結びつけるほど、それだけますますファシズムは小ブルジョア大衆の目に民族解放の党として映るようになる。この線に沿って進めば、協商諸国の武力介入、すなわち直接的な占領によってしか、ファシズムの権力奪取を防ぐことはできないだろう。だがここでオーストリアの問題がファシスト・ドイツの問題と一つになる。ヒトラーがフランスと一時的に妥協するならば――それを疑う理由は何もない――、フランスもファシスト・オーストリアと妥協するだろう。どちらの場合においても、もちろん、ドイツ・プロレタリアートおよびオーストリア・プロレタリアートの屍の上でその妥協は結ばれる。ファシスト・オーストリアが自らをファシスト・ドイツと隔てている障壁をただちに破壊すると考えることは、「民族的」空文句に過大な意味を付与することであり、自分より強い者に対してしっぽを振るファシズムの才能を過小評価することである。確実に言えることは、あらゆる戦略上の計算のうちで、プロレタリアートにとって最も不幸で恥辱的で破滅的なものは、オーストリア国家をとりまく帝国主義政府の働きかけをあてにすることである。

 オーストリアのすべての政党の伝統的な無気力さや、外的で一時的な原因(フランスや小協商国の圧力、今すぐ事態を最後まで押し進めることに対するヒトラー派の懸念)に影響されて、今回の場合も、大詰めが、腐敗したオーストリア・ボナパルチストの何らかの妥協策によって先に延ばされる結果に終わると仮定したとしても、この種の猶予期間はきわめて不安定で、きわめて短命の性格しか持ちえない。抑制された過程は、その次の数ヶ月間に、場合によっては数週間ののちに、倍する力と10倍のテンポで爆発的に進行するだろう。過程の抑制、現実の粉飾、亀裂のつぎあて、そしてちっぽけな政治的モラトリアム、こうしたことにもとづいて自らの政策を立てることは、プロレタリアートにとっては、今のところまだ脆弱なオーストリア・ファシズムに対して、その強盗的使命を分割払いで実現する可能性を与えることを意味するだろう。

 

   「民主主義のための闘争」

オットー・バウアー

 オットー・バウアー[左の写真]は、ファシスト独裁に対するブルジョア民主主義の「優位性」を空しく説教するだけである。まるで憲法に関して二つの学派が争っているかのように! エンゲルスは適切にも、国家とはつまるところ監獄などの物質的付属物をともなった武装した人々の部隊に他ならないことを指摘した。現在、国家のこの「本質」はオーストリアで完全に暴露されている。この数年間、民主主義の基盤上で展開されてきた政治闘争は、ついに武装した部隊間の衝突に行き着いた。この事実をその名前ではっきりと呼び、そこからすべての必要な実践的結論を引き出さなければならない。

 オーストリア社会民主党はそうする代わりに、「民主主義のための」闘争が行なわれていることをわれわれに認めるよう要求する。まるでここに今日の問題があるかのように! 言うまでもなく、われわれは民主主義の理論的・歴史的評価に関してオーストリア・マルクス主義者にどんなわずかな譲歩もするつもりはない。実際、民主主義がそれを生み出した社会体制を本当に超越しており、ブルジョア社会を社会主義社会につくりかえることが本当にできるのなら、社会民主党が憲法を作り、プロレタリアートが国の決定的な勢力であり、社会民主党がプロレタリアートの中の決定的な勢力であるオーストリアでこそまっさきにそれが実現されたであろう。だが、今日オーストリアが経過している事態が実際に示しているのは、民主主義が資本主義の血肉を分けた子どもであり、それとともに腐敗するということである。オーストリアの危機は民主主義の腐朽の一表現である。民主主義の紳士諸君はわれわれから他のいかなる評価も期待することはできない。

 しかしながら、他方でわれわれは、民主主義をソヴィエト体制に置きかえるためには理論的診断を下すだけではまったく不十分であることをあまりにもよく知っている。問題になっているのは、階級の生きた意識である。ファシズムに対する共同の闘争過程でプロレタリアートの多数派がソヴィエト独裁の必要性を理解するなら、共産主義者を押しとどめるものは何もないだろう。だが、手に入れたあらゆる教訓にもかかわらず、反革命勢力を打ち破った後ですら、労働者の多数派が形式的民主主義の実験を繰り返すことを決断するなら、共産主義者は野党として同じ基盤に立たざるをえないだろう。

 現在はいずれにせよ、オーストリア労働者の圧倒的多数が社会民主党に従っている。このことは、革命的独裁をアクチュアルな任務としては語ることすらできないということを意味する。今日日程にのぼっているのは、ブルジョア民主主義にソヴィエト民主主義を対置することではなく、ファシズムにブルジョア民主主義を対置することである。われわれがオーストリア・マルクス主義者を非難するのは、彼らが民主主義のために闘争しているからではなく、民主主義のために闘争していないからである。

 資本主義がファシズムに頼るのは気まぐれからではなく、袋小路に追い込まれたからである。その国の人民と文化の生死が問題になっているときに、社会民主党が、批判し不平を言い抑制し脅し待機することだけしかできず、社会の運命をその手に握ることができないのなら、国の半分を代表しているこの党はそれ自身が社会的解体の道具となりはて、搾取階級がファシズムに救いを求めることを余儀なくさせるだろう。

 消耗戦略と打倒戦略という古い対比を用いるならば、資本主義にとって打倒戦略しか残されてない現在、あくまでもある状況のもとでのみ適用可能な消耗戦略を適用することは不可能な相談であると言わざるをえない。改良主義戦略が今日消耗させているのは、敵階級ではなく、自分自身の陣営の方である。オットー・バウアー派の政策は必然的にファシストの勝利をもたらす。それはファシストには最小の犠牲と困難を、プロレタリアートには最大の犠牲と不幸を強いるものである。

 

  オ−ストリア・マルクス主義者はプロレタリアートに麻酔をかけている

 イタリアとドイツでの経験にもかかわらず、オーストリア社会民主党は状況を理解していない。生きて息をするために、これらの連中は自分を欺かなければならない。そのためにはプロレタリアートを欺かなければならない。

 バウアーはドイツでの敗北の責任を共産党に負わせている。われわれはドイツのスターリニストの政策を擁護するつもりはいささかもない! だがスターリニストの主たる罪は、社会民主党によってなされたあらゆる犯罪と裏切りにもかかわらず、社会民主党にドイツ・プロレタリアートの主要部分に対する影響力を保持する可能性を与え、降伏という下劣で破滅的な戦術を彼らに押しつけたことにある。本質においてバウアーの政策はウェルス(4)=シュタンプファー(5)の政策と異なるものではない。だが違いもある。バウアーはオーストリアのスターリニストに責任を転嫁することはできない。なぜなら、オースリアのスターリニストは完全に無力な状態に沈んでいるからである。オーストリア社会民主党はオーストリア・プロレタリアートの指導的党であるだけでなく、その人口比からして世界で最も強力な社会民主主義政党である。政治的責任は完全かつ全面的にオーストリア社会民主党にかかっている。それだけになおさら、この党の現在の政策がもたらす結果は破滅的なものになるだろう。

 オーストリア・マルクス主義者は言う――もし自由が奪われようとするのなら、われわれは「最後まで」闘うだろう、と。こうした逃げ口上によって彼らは自らの優柔不断のための時を「かせごう」としている。だが実際には、彼らは防衛を準備するための貴重な時間を失っているのである。敵が自由を奪ってしまった後で闘争することは、それ以前に闘争するよりも100倍も難しい。自由が一掃されるにともなって、軍隊や警察によってプロレタリアートの新聞雑誌やプロレタリアートの各種機関が破壊されるからである。社会民主党が待機し泣きごとを言っているあいだにも、敵は準備し行動している。『フォアヴェルツ』も何十回となく繰り返していた、「われわれに危害を加えようとするなら、ファシストには災いが降りかかるだろう」と。現実の事件が、このようなレトリックの価値がどのようなものかを示した。難攻不落とも言えた諸陣地と強力な諸手段を有している時に闘争能力のないことを示した党は、合法的な領域から完全に追い出されてしまえば、こっぱみじんになるしかない。

 「攻撃されるなら云々」という一見恐ろしげだが実は哀れなそのリフレインによって、オーストリア・マルクス主義者はその真の本音を暴露している。彼らは、いまだに平穏な生活を願っており、神のおぼしめしで、事態が今回も、互いに脅しあったりこぶしを振り回したりする程度以上に進まないことを望んでいるのだ。このことは、プロレタリアートに麻酔をかけて、ファシストによる外科手術を容易にすることを意味する。真のプロレタリア政治家なら、それとは反対に、オーストリア労働者にこう説明する義務がある。階級敵自身が歴史の万力にしめつけられていること、彼らにとってプロレタリアートの組織を破壊する以外に出口のないこと、その時には生死を賭けた闘争が不可避になること、そして革命的戦略と戦術を全面的に駆使してこの闘争に対する準備がなされなければならないこと、である。

 

   ゼネスト

 オットー・バウアーは敵による直接的な攻撃があった場合には労働者はゼネストに訴えるだろうとほのめかしている。だがこれも空虚な脅し文句にすぎない。われわれはドイツでも一度ならず同じ文句を聞いた。ゼネストはチョッキのポケットからとり出してくることはできない。労働者をゼネストに向かわせることはできるだろうが、そのために必要なのは闘争することであって、現実と「かくれんぼ遊び」することではない。闘争への呼びかけを発し、闘争を組織し、闘争のために武装し、闘争の軌道を広げ深めなければならないのであって、合法的な闘争の形態、すなわち武装した敵に命じられる枠組にとどまっていてはならない。そして何よりもまず、党自身に、決死の闘争なしには自分たちが滅亡するという思想を徹底的に浸透させなければならない。

 「公然たる」、したがって決定的な一撃が加えられた後で、中央委員会が実際にゼネストを呼びかけることは、大いにありそうなことである。だがこれは、舞台から降りた後に大衆に空虚な抗議を呼びかけることであり、あるいは無力さを誇示することを意味するだろう。これは、君主にお払い箱にされた後で民主的反対派が人民に税金を払わないよう呼びかけたのと同じである。こうしたことから何かが生じたためしはない。大いにありうるのは、すでに粉砕されてしまった党の遅ればせの絶望的な訴えに労働者がまったく応えないことである。

 だが、ファシストが最後の瞬間にゼネストを呼びかけるだけの時間を社会民主党に与え、労働者がその呼びかけに好意的に応えたと仮定しよう。では次は何か? ゼネストの獲得目標は何か? 何を達成するのか? どのような形で起こるのか? 軍隊や警察による弾圧やファシストによるポグロムに対してどのように自衛するのか? そういう問題にあらかじめ答えることはできないと利口ぶった者は言うだろう。これは、言うべきことを持たず、内心では闘わずにすますことを願っている人間たち、したがってまた軍事的な手段や方法の問題を臆病かつ迷信的に払いのけようとしている人間たちの常套句である。

 ゼネストは革命勢力を動員するものであって、まだ戦争ではない。ゼネストを示威や威嚇の手段として成功裏に用いること、つまり戦闘なしに勢力を動員するにとどめておくことは、厳しく限定された歴史的な条件のもとでのみ可能である。すなわち、重要ではあるが部分的な任務が問題になっている場合や、敵が動揺していて、退却するきっかけを待っているだけの場合、有産階級が譲歩やマヌーバーの余地をまだ十分に持っている場合である。すべての矛盾が最高度の緊張に達し、あらゆる深刻な衝突が権力の問題と内戦の展望を日程にのぼせている現在はそうではない。

 ゼネストが反革命クーデターに対する十分な撃退手段になりうるのは、敵に準備ができておらず、十分な勢力と経験がないときだけである(カップ一揆(6))。だがこの時ですら、冒険主義的な襲撃を撃退したゼネストは基本的に、衝突の前夜に存在していた状況を再現しただけであり、したがって敵に敗北の経験を利用して新たな攻撃をより巧みに準備する機会を与えた。だが敵が強力で経験を積んでいる場合には、ましてや敵が国家機構に頼ったり、ときには国家の善意の「中立的立場」を利用できる場合には、ゼネストは防衛的な目的のためにすらまったく不十分なことがわかる。衝突の基本的な理由が何であれ、現在の状況下では、ゼネストはブルジョア政党と国家機構とファシスト・ギャング団の隊列を固めさせる。そしてこのブルジョアジーの統一戦線において優勢を占めるのは、最も過激で決断力に富んだ分子、すなわちファシストであろう。ゼネストと直面した反革命は、この恐るべき危険性を一撃で粉砕するために、その全勢力を勝負に賭けなければならないだろう。ゼネストが単なるストライキにとどまっているかぎり、こうした状況下では敗北を運命づけられている。勝利をつかむには、ストライキの戦略は革命の戦略にまで成長転化しなければならない。一つの攻撃のたびに倍する反撃を与える断固とした行動の水準にまで高まらなければならない。言いかえれば、現在の状況下ではゼネストは、それだけでは、不毛な民主主義を守るための自足的な手段とはなりえず、二つの陣営間の複合的な闘争の武器の一つとして役立つにすぎない。ストライキは、労働者の武装、ファシスト・ギャング団の武装解除、権力からのボナパルチストの一掃、国家の物質的機構の掌握を伴わなければならないし、それらによって補完されなければならない。

 われわれはもう一度繰り返す。ソヴィエト体制の樹立が共産党による権力奪取なしでは実現されえないのと同様――われわれは、不利な力関係のために、ごく近い将来における権力掌握が完全に排除されていることを認める――、たとえ一時的であっても民主主義が再建されることは、このオーストリアでは、前もって社会民主党が権力をとることなしには考えられない。指導的な労働者政党が闘争を最後まで押し進める準備ができていない場合、ゼネストは状況を先鋭化することによってプロレタリアートの壊滅を早めるだけである。

 オーストリアの俗物たちは、これらの言葉に飛びついて、ただちに「穏健さ」と「慎重さ」を旨とする結論を引き出すだろう。革命的な闘争方法にともなう巨大な「リスク」を自らに引き受けることが、一個の党に許されるだろうか、と。まるでオーストリアのプロレタリアートに選択の自由があるかのように。数百万の労働者がオットー・バウアーにならってスイスの別荘に逃げだすことができるかのように。一つの階級がいかなる危険も犯さずに致命的危険性を回避できるかのように。新たな帝国主義戦争をともなうであろうヨーロッパのファシズム化による犠牲者の数が、過去と未来のあらゆる革命の犠牲者の数を100倍以上うわ回ることがないかのように。

 

   今日、情勢の鍵はオーストリア・プロレタリアートの手にある

 オットー・バウアーは、ドイツの労働者が新聞の発行停止その他にもかかわらず[1933年3月5日の]総選挙で社会民主党に700万票を投じたという事実を、驚きの混じった喜びでもって迎えた。こうした連中は、プロレタリアートの感情や思想が彼らのちっぽけな論文によってつくり出されると思っている。彼らはマルクスやヨーロッパ史を学んだが、プロレタリアートが一定の歴史状況に責任を負った指導部さえもっていれば、力と熱狂と粘り強さと創造性の無尽蔵の源泉となりうることをいささかも理解していない。

 先見の明のある革命的政策が上層部にあれば、ドイツの労働者はとっくの昔にその支配にいたる途上からあらゆる障害物を払いのけていただろうし、しかもその犠牲はファシスト体制のもとで不可避的に生じる犠牲者の数より計り知れないほどはるかに少なかっただろう。このことは今や明らかではないだろうか。オーストリア・プロレタリアートについても同じことを言わなければならない。

 現在、オーストリアでも、もちろんのこと統一戦線政策は義務的である。しかし統一戦線は万能薬ではない。いっさいの問題は、政策の内容、スローガン、大衆行動の方法にある。相互批判の完全な自由という条件のもとで――この条件は揺るがせにできない――共産党員はきわめてささやかな大衆行動のためでも社会民主党と進んで協定を結ぶべきである。だが共産党員自身はその際、発展の歩みによって提起される諸任務をはっきりと理解し、あらゆる段階で政治的目標と改良主義的方法との不一致を暴露しなければならない。

 統一戦線は、社会民主党労働者と共産党労働者の単なる総和ではありえない。なぜなら、この2政党の境界外にも労働組合の境界外にも、カトリックの労働者や未組織の大衆がいるからである。保守主義や惰性や古い反目を引きずっている古い組織形態は、どれ一つとして統一戦線という現在の任務にとって不十分である。本格的な大衆動員は、商業・工業・輸送関係の各企業、職場と工場、失業者、プロレタリアートに隣接した社会階層などを直接代表する選挙された機関を創出することなしには考えられない。言いかえれば、オーストリアの情勢は、労働者ソヴィエト――名称はともかく、その機能を果たすもの――を求めているのである。共産主義者の義務は、闘争の過程の中で粘り強くこのスローガンを提起することである。

 オーストリア国家がドイツから切り離されており、その内的進化の点でドイツから立ち遅れているという事情は――プロレタリア前衛の大胆で勇敢な政策があれば――、ドイツと全ヨーロッパを救う上で決定的な役割を演じることができるだろう。プロレタリア・オーストリアはただちにドイツ・プロレタリアート全体にとってのピエモンテ(7)となるだろう。オーストリア労働者の勝利はドイツ労働者に、現在彼らに欠けているものを与えるだろう。すなわち、物質的な拠点、行動の模範、勝利の希望を。ドイツ・プロレタリアートが行動に立ち上がるやいなや、彼らが、自分たちの敵すべてをひっくるめたよりもはるかに強力であることが明らかになるだろう。議会制民主主義の土俵上では、人間のくずの44パーセントを従えているヒトラーは、現実の力関係の場でよりもずっと立派に見える。オーストリア社会民主党はその背後にほぼ同じだけの得票率をもっている。だが、ナチスが依拠しているのが、国民生活の中で2次的な、そしてかなりの程度寄生的な役割を果たしている社会的腐敗分子であるのに対し、オーストリア社会民主党の背後に控えているのは国民の精華である。オーストリア社会民主党の実際の比重は、全ドイツ・ファシストの比重よりも10倍重い。このことが全面的に明らかになるのは、実際の行動においてだけである。現在、革命的行動のイニシアチブをとることができるのは、オーストリア・プロレタリアートだけである。そのために必要なものは何か? 大胆さ、大胆さ、そしてもう一度大胆さである。オーストリア労働者が失うものは鉄鎖以外には何もない。彼らは自らのイニシアチブによってヨーロッパと全世界を獲得することができる!

1933年3月23日

『反対派ブレティン』第34号

『トロツキー著作集 1932-33』上(柘植書房)より

  訳注

(1)ヘルト、ハインリヒ(1868-1938)……ドイツの保守政治家、カトリック中央党。バヴァリアの首相だったが、1933年3月9日、ナチスの蜂起によって失脚。

(2)ドルフース、エンゲルベルト(1892-1934)……オーストリアの反動政治家。キリスト教社会党員。1931年、農相。1932年、首相。右翼的護国団、農民同盟の支持を受け、ボナパルティスト的統治を行なう。1934年2月にウィーンで労働者が弾圧に反対して起ち上がったときにそれを武力鎮圧。1934年7月、ナチスの蜂起の際に暗殺される。

(3)小協商国……フランス主導で形成された、ルーマニア、チェコスロヴァキア、ユーゴスラビアの同盟のこと。

(4)ウェルス、オットー(1873-1939)……ドイツ社会民主党右派。第1次大戦中は排外主義者。ベルリンの軍事責任者としてドイツ革命を弾圧。1933年まで、ドイツ社会民主党国会議員団の指導者。共産党との反ファシズム統一戦線を拒否し、ファシズムに対する妥協政策をとりつづける。

(5)シュタンプファー、フリードリヒ(1874-1957)……ドイツ社会民主党の指導者。『フォアヴェルツ』の編集長。

(6)カップ一揆……1920年に起きた、反動的将軍であるカップとリュトヴィツによる反動的クーデターのこと。社会民主党政府はこのクーデターに対しゼネストを呼びかけてさっさと逃走したが、ドイツ労働者はこのゼネストの呼びかけに呼応し、カップ軍はたちまち首都で孤立し、崩壊した。

(7)ピエモンテ……イタリア最大の地方自治体。19世紀におけるイタリア統一運動(リソルジメント)発祥の地。

 

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