イタリア革命の諸問題

イタリアの新反対派の同志たちへの回答

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この手紙は、イタリア共産党の新反対派からトロツキーに宛てられた手紙に回答したものである。イタリア共産党の新反対派は、ピエトロ・トレッソ、アルフォンソ・レオネッティ、パオロ・ラヴァッツォーリの「3人組」を中心に結成された反対派で、当時のコミンテルンとトリアッティ指導部の極左路線に反対して闘った。この「3人組」はいずれも、グラムシの近しい弟子で、党を除名された後も、グラムシへの愛情を失わなかった。そしてイタリア共産党の極左時代には、グラムシ自身が党指導部によって誹謗され、「死んだ犬」として扱われる中、グラムシの革命的名誉を守るためにしばしば論陣を張った。トロツキーはこの手紙の中で、グラムシとトリアッティが起草したリヨン・テーゼにおける「労働者農民委員会にもとづいた共和議会」というスローガンを批判しつつも、現在の反動の局面においては、「憲法制定議会」というスローガンが重要な役割を果たしうることを指摘している。獄中のグラムシは、まったく別個に、同じ考えを、面会に来た党の代表者に対して語っている。

 なお、読者の便宜を考えて、適当に中見出しを入れている。

Л.Троцкий, Ответ товарищам из итальянской оппозиции, Вюллетень Оппозиции, No.15/16, 1930.9-10.


  親愛なる同志のみなさん!

 あなた方の5月5日付けの手紙を受け取りました。イタリア共産主義全般および特殊にはその内部におけるさまざまな諸潮流に関するあなた方の研究に感謝します。それは私にとって非常に有用であり、きわめて価値あるものでした。残念なのは、あなた方の多方面にわたる研究が通常の手紙の形式をとっていることです。多少の変更と縮小をほどこすなら、『階級闘争』紙に十分掲載することができると思います。

 あなた方の叙述から出てくる一般的な政治的結論から話を始めることを許してもらえるのなら、将来におけるわれわれの相互協力は完全に可能であり、大いに望ましいことであるというのが、私の得た結論です。われわれの誰も、人生のあらゆる事件に役立つようなあらかじめ確立された政治的定式など持っていないし、持つことなどできません。しかし、あなた方が必要な政治的定式を探し求めるために用いている方法は、正しいものであると私は考えます。

 あなた方は一連の重大問題に関して私の意見を求めています。しかし、それらのいくつかに答える前に、非常に重要な留保条件を述べておかなければなりません。私はこれまでイタリアの政治生活に密接に接してきたわけではありません。なぜなら、イタリアにはほんの短期間滞在したことがあるだけで、イタリア語の理解は非常に貧しく、コミンテルンで仕事をしていたころも、イタリアでの諸事件を本格的に研究する機会はありませんでした。あなた方自身がこのことをよくご承知のはずです。さもなくば、未解決のさまざまな問題に関して私に事情を説明するために、あなた方が非常に大きな労をとられている事実を、説明することができません。もう一度あなた方に感謝します。

 以上述べたことから、必然的に私の回答が、少なくともそのかなりの部分は、まったく仮説的な性格の域を出ないものであるということになります。以下に述べる考察を最終的なものであるとみなすことはけっしてできません。あれこれの問題を考察するにあたって、私が時と場所に関するきわめて重要な具体的状況を看過することも、大いにありうるところです。したがって、あなた方からの異論や補足的ないし修正的情報が必要になります。われわれの方法が共通しているのですから――私はそうであることを願っています――、このようなやり方を通じて最も確実に正しい結論へと到達することができるのです。

 

   「労農委員会に立脚した共和議会」というスローガン

 1、あなた方が指摘されているように、私はかつて、イタリア共産党指導部の定式化した「労働者・農民委員会に立脚した共和議会」というスローガンを批判しました。おっしゃるように、この定式は純粋にエピソード的な価値しか持っておらず、現在それは放棄されています。それにもかかわらず、この定式が誤りである、あるいは少なくとも政治的スローガンとしてあいまいであると私がみなす理由について、改めてここで話したいと思います。

 「共和議会」は疑いもなくブルジョア国家の一制度です。しかしながら、「労働者・農民委員会」とは何でしょうか。明らかにそれは、労農ソヴィエトのある種の相当物です。それは言い方の問題です。しかし、労働者と農民の階級機関――それにソヴィエトという名称を与えようが、委員会という名称を与えようが――はつねにブルジョア国家に対する闘争機関であり、ある時点で蜂起の機関となり、勝利後にはプロレタリア独裁の機関に転化するべきものです。いったいいかなる状況のもとで、共和議会、すなわちブルジョア国家の最高機関がプロレタリア国家機関の「基礎」になりうるというのでしょうか?

 あなた方に指摘しておきたいのは、1917年の10月革命以前に、ジノヴィエフとカーメネフが、蜂起に反対したときに憲法制定議会の召集を待つよう主張したことです。彼らは、憲法制定議会と労農ソヴィエトとの融合によって「複合国家」をつくり出すよう主張したのです。1919年に、今度はヒルファディングがワイマール憲法の中にソヴィエトを書き込むよう主張しました。ジノヴィエフおよびカーメネフと同様、ヒルファディングはこれを「複合国家」と呼びました。新しいタイプの小ブルジョアであるヒルファディングは、まさに歴史の決定的な転換期に、憲法的秩序にもとづいてブルジョア独裁とプロレタリア独裁とを結婚させることによって第3のタイプの国家を「複合」しようとしたのです。

 先に示したイタリアのスローガンは、私にはこの小ブルジョア的傾向の一変種であるように思われます。もしかしたら、私は当時この定式をこのようには理解していなかったかもしれません。しかし、当時すでに、このスローガンは致命的な誤解に導くような欠陥を有していました。

 ついでに、ここで、1924年にエピゴーネンたちによってつくり出された真に恥知らずな混乱を払いのけておきたいと思います。彼らは、レーニンの書いたもののうちに、憲法制定議会とソヴィエトとを結合させるような事態になるだろうという一文を見出しました。同じような趣旨の文章は、私の書いたものの中にも見出せるでしょう。しかし、この場合に問題になっていたのはいったい何でしょうか?

 この時われわれは、ソヴィエトの形態にあるプロレタリアートの手中に権力を移行させるべき蜂起の問題を提起していたのです。憲法制定議会をどうするのかという問題に対して、われわれはこう答えました。「そうだな。おそらくわれわれはそれをソヴィエトと結びつけるだろう」。われわれはこう言うことで、憲法制定議会がソヴィエト権力のもとで召集され、その中でソヴィエト派が多数を占めるという事態を想定していたのです。実際にはそうはならなかったので、ソヴィエトは憲法制定議会を解散させました。言いかえれば、問題になっていたのは、憲法制定議会とソヴィエトを同一の階級の機関に転化することができるかどうかであって、ブルジョア的憲法制定議会とプロレタリア的ソヴィエトとを「複合」させることではまったくありませんでした。一方の場合(レーニン)は、労働者国家を形成すること、その構造、その技術が問題になっていたのに対し、他方の場合(ジノヴィエフ、カーメネフ、ヒルファディン)は、権力奪取のためのプロレタリアートの蜂起を避ける目的で、二つの敵対する階級国家の憲政的複合体が問題になっていたのです。

 

    反ファシスト革命の性格

 2、われわれが先ほど検討した問題(共和議会)は、あなた方が手紙の中で分析しているもう一つの問題、すなわち反ファシズムの革命がどのような社会的性格を帯びるかという問題と密接に結びついています。

 あなた方はイタリアにおけるブルジョア革命の可能性を否定しています。それはまったく正しい。歴史はそれほど多くの頁を逆戻りさせることはできません。それらの頁はそれぞれ十年分に相当します。イタリア共産党中央委員会は以前すでに、来る革命がブルジョア革命でもなければプロレタリア革命でもなく「人民」革命であると宣言することによって、この問題を回避しようとしました。これは、ロシアのナロードニキが今世紀の初頭に言っていたことの単純な繰り返しです。彼らはその時、反ツァーリズムの革命がどのような性格を帯びることになるかを問うていたのです。そして、今なおコミンテルンは、中国とインドに関して、今日同じ回答を与えています。これはまったくのところ、オットー・バウアーを初めとする連中の社会民主主義理論のエセ革命的変種です。それによれば、国家は諸階級の上に立つのであって、すなわちブルジョア的でもなければ、プロレタリア的でもない、というわけです。この理論は、プロレタリアートにとっても革命にとっても致命的に有害です。中国においては、この理論はプロレタリアートをブルジョア反革命の格好の餌食にしてしまいました。

 歴史におけるすべての偉大な革命は、すべての人民を巻き込むという意味で、すぐれて人民的です。フランス大革命と10月革命は言葉の完全な意味で人民的でした。にもかかわらず、前者は、私的所有を確立したがゆえにブルジョア革命であり、後者は、私的所有を廃止したがゆえにプロレタリア革命でした。

 絶望的なまでに時代遅れの小ブルジョア革命家だけが今なお、ブルジョア的でもなければプロレタリア的でもなく「人民的」(すなわち小ブルジョア的)な革命なるものを夢想することができるのです。

 しかし、現在の帝国主義の時代においては、小ブルジョアジーは革命を指導することができないだけでなく、その中で独立した役割を果たすことさえできません。したがって、「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」という定式は今や、中間的革命と中間的国家(つまりイタリアでも後進的インドでも生じようのない革命と国家)という小ブルジョア的概念を理論的におおい隠すものでしかないのです。プロレタリアートと農民の民主主義独裁という問題に関し、明確ではっきりとした立場をとらない革命家は、誤りにつぐ誤りを犯す運命にあります。反ファシスト革命というイタリア問題に関して言えば、他の何にもまして、世界共産主義という根本問題と、すなわちいわゆる永続革命の理論と、密接に結びついています。

 

    イタリアにおける「過渡期」の問題

 3、以上述べたことに関連して論じなければならないのは、イタリアにおけるいわゆる「過渡的」時期の問題です。まず何よりもはっきりさせておかなければならない問題は、何から何への過渡なのか、です。ブルジョア(人民?)革命からプロレタリア革命への過渡期と、ファシスト独裁からプロレタリア独裁への過渡期とは、別ものです。

 第1の概念にしたがうならば、ブルジョア革命の問題がまず最初に提起され、その次に、その中でのプロレタリアートの役割の問題が提起されることになります。その後で初めて、プロレタリア革命に向けた過渡期の問題が提起されることになります。第2の概念にしたがうならば、問題になるのは、プロレタリア革命のさまざまな諸段階全体を構成する、一連の闘争、激動、状況変化、部分的転換です。これらの諸段階はいくつもあることでしょう。しかし、それらの諸段階のうちにはけっして、ブルジョア革命も、その神秘的な雑種である「人民」革命も存在しないでしょう。

 このことは、イタリアが一定の期間再び議会制国家になったり、あるいは「民主共和国」になることはありえない、ということを意味するのでしょうか? 私が考えるところでは――おそらくあなた方と完全に意見が一致すると思いますが――、こうした結果は排除されていません。しかし、その場合でも、それはブルジョア革命の結果ではなく、未成熟で中途半端なプロレタリア革命が流産した結果なのです。深刻な革命的危機や大衆的闘争が勃発したにもかかわらず、その中でプロレタリア前衛が権力をとることができない場合、ブルジョアジーは「民主主義的」基盤にもとづいてその支配を再確立するでしょう。

 たとえば、現在のドイツ共和国はブルジョア革命の結果であると言えるでしょうか? このような主張はばかげています。1918〜19年のドイツで起こったのはプロレタリア革命でした。それは指導部の欠如のために、欺かれ、裏切られ、粉砕されました。それにもかかわらず、ブルジョア革命は、プロレタリア革命のこの粉砕の結果として生まれた状況に自らを適応させることを余儀なくされ、議会制的「民主」共和国の形態をとらざるをえませんでした。これと似た――もちろん、ある程度までですが――結果はイタリアにおいて排除されているでしょうか。いいえ、けっして排除されていません。ファシズムの勝利自体、1920年のプロレタリア革命が最後まで遂行されなかったことの結果として生じたのです。新しいプロレタリア革命だけがファシズムを転覆することができます。またしてもプロレタリア革命が勝利できないとしたら(共産党の弱さのゆえか、社会民主党やフリーメーソンやカトリックの策略と裏切りのゆえか)、ブルジョア反革命は、ブルジョア支配のファシスト的形態の崩壊の上に「中間的」国家の建設を余儀なくされるでしょうが、その国家は議会制的で、民主主義的国家以外の何ものでもありえないでしょう。

 実際のところ、反ファシスト中央評議会の目的は何でしょうか? プロレタリアートおよび一般にすべての被抑圧大衆の蜂起によってファシスト国家が没落するのを見越して、この中央評議会はこの運動を抑え、麻痺させ、その裏をかく準備しています。そうすることで、再生した反革命の勝利を、民主主義的ブルジョア革命の勝利だと詐称するためです。生きた社会的諸力のこの弁証法を一瞬たりとも見逃すならば、絶望的に混乱し、道を誤ることになるでしょう。この点に関して、私とあなた方との間にはいかなる意見の相違もないものと、思います。

 

   民主主義のスローガンと憲法制定議会

 4、しかし、以上のことは、われわれ共産主義者があらゆる民主主義的スローガン、あらゆる過渡的ないし準備的スローガン一般をあらかじめ拒否し、自らを厳密にプロレタリアート独裁に限定するべきだ、ということを意味するでしょうか? これは、不毛で、教条主義的なセクト主義を露呈するものでしかないしょう。ファシスト体制からプロレタリア独裁へと移行するのに、革命的ひとっとびで十分であるなどと、われわれは一瞬たりとも考えません。民主主義的要求を含む過渡的諸要求をともなった過渡的時期がありうることを、われわれはけっして否定しません。しかし、まさにこの過渡的スローガンはつねにプロレタリア独裁に向けた出発点であり、これにもとづいて、共産主義前衛は、労働者階級の全体を獲得し、労働者階級は自己の周囲に国内のすべての被抑圧大衆を結集しなければならないのです。

 その際、私は憲法制定議会の可能性をも排除しません。それは、一定の状況のもとでは、事態の進行によって、より正確に言えば、被抑圧大衆の革命的目覚めの過程によって押しつけられるでしょう。たしかに、より大きな歴史的尺度からすれば、すなわち、一時期全体にわたる展望から見れば、イタリアの運命は疑いもなく次の二者択一に還元されるでしょう。ファシズムか共産主義か、です。しかし、この二者択一が国内の被抑圧諸階級の意識の中にすでに浸透していると主張することは、幻想にふけることであり、脆弱なイタリア共産党がこれから決定的に直面することになる巨大な課題がすでに解決されているとみなすことを意味します。たとえば、次の数ヵ月の間に――一方では経済恐慌の影響のもと、他方ではスペインからくる革命的影響のもと――革命的危機が勃発するなれば、勤労大衆は(農民だけでなく労働者も)間違いなく、経済的諸要求とともに民主主義的諸要求(集会・結社、出版、団結の自由、議会への民主主義的代表権と複数政党制など)を提起するでしょう。共産党はこれらの諸要求を拒否するべきでしょうか。断じて否です。それどころか、これらの要求に最も大胆で最も断固たる性格を与えなければなりません。なぜなら、プロレタリア独裁を人民大衆に押しつけることはできないからです。それを実現することができるのは、大衆のあらゆる過渡的諸要求・諸課題・諸必要のための闘争を、大衆の先頭に立って遂行することによってのみです。

 ここで想起されるべきなのは、ボリシェヴィキが権力を獲得したのはけっして、プロレタリア独裁の抽象的スローガンによってではない、という事実です。われわれは、他のどの諸政党よりもはるかにきっぱりと大胆に憲法制定議会のための闘争を行ないました。われわれは農民に言いました。「諸君は土地の均等配分を要求している。われわれの綱領はそれよりもはるか先を行っている。しかし、われわれ以外の誰も、土地の均等使用を達成するうえで諸君を助けようとはしないだろう。だからこそ、諸君は労働者を支持しなければならないのだ」。戦争に関してはわれわれは人民大衆に次のように述べました。「われわれ共産主義者の課題は、すべての抑圧者に対して戦争を行なうことである。しかし、諸君はそれを遂行するほどまでは準備できていない。諸君は帝国主義戦争から逃れたいと思っている。われわれボリシェヴィキ以外の誰も、この課題を達成する上で諸君を助けはしないだろう」。

 ここで私は、イタリアにおける過渡期の中心的スローガンが1930年の現時点において正確にはいかなるものであるべきかという問題をまったく扱ってはいません。しかるべきスローガンを提起し、それを時機を失せず正確に修正するためには、イタリアの内部生活についてはるかによく知悉していなければなりませんし、イタリアの勤労大衆とはるかに身近に接していなければなりません。しかし、それは今の私にはかなわぬことです。この点で必要なのは、正しい方法に加えて、大衆の声に耳を傾けることです。ここで私が示したかったのは単に、ファシズムに対する、一般的にはブルジョア社会に対する、共産主義者の闘争に占める過渡的要求の全般的な位置だけです。

 

   イタリア社会民主主義のスローガン

 5、しかしながら、あれこれの民主主義的スローガンを提起しつつ、民主主義的ペテンのあらゆる形態に対し非和解的に反対しなければなりません。

 「勤労者の民主共和国」というイタリアの社会民主主義のスローガンは、この小ブル的ペテンの一例です。勤労者の共和国は、プロレタリア階級国家でしかありえません。民主共和国はカムフラージュされたブルジョア国家です。この二つの組合せは、社会民主主義の下部活動家(労働者と農民)が持つ小ブルジョア的幻想でしかなく、社会民主主義指導者(トゥラティやモディリアーニといった連中)の恥知らずな嘘でしかありません。

 ここでもう一度言っておきますが、私は「労働者・農民委員会にもとづいた共和議会」というスローガンに反対だったし、今でもそうですが、その理由はまさに、この定式は「勤労者の民主共和国」という社会民主主義者のスローガンと接近しているからであり、したがって、社会民主主義に反対する闘争を著しく困難にするからです。

 

    ファシズムと社会民主主義

 6、イタリア共産党の公式指導部によってなされている言明によれば、社会民主主義はもはや政治的にはイタリアに存在していないそうですが、このような主張は、これからようやく大きな課題に直面するときに出来合いの解決策を探し求めたがる楽観主義的官僚による、慰めの理論以外の何ものでもありません。ファシズムは社会民主主義を清算するのではなく、反対にそれを温存するのです。大衆の目には、社会民主主義者はこの体制に対する責任を負っておらず、むしろ部分的にはこの体制の犠牲者と映ります。このことは、新しい支持を彼らに与え、古い支持を強めます。そして、やがては、社会民主主義はマッティオッティの血から政治的通貨をせしめるでしょう。ちょうど、かつてローマ人がキリストの血からそうしたように。

 したがって、革命的危機の初期段階においては、指導権が主として社会民主主義者の手中に集中されるような事態も排除されているわけではないのです。広範な大衆がただちに運動に引き込まれ、共産党が正しい方針を遂行するならば、短期間のうちに社会民主主義は無に帰することでしょう。しかし、これは、これから遂行しなければならない課題であり、すでに遂行された課題ではありません。この問題を飛び越すことはできません。それは解決されなければならないのです。

 ちなみに、この点で指摘したいのは、ジノヴィエフが、そして後にはマヌィルスキーとクーシネンが何度となく、ドイツ社会民主党は基本的にはもはや存在していないと断言したことです。1925年にコミンテルンは、軽率なロゾフスキーによって書かれた、フランス共産党に対する宣言の中で、フランス社会党が完全に舞台から退場したと述べました。左翼反対派はつねに、このような軽率な判断に最もきっぱりと反対の声を上げてきました。イタリアの社会民主主義が、ドイツ社会民主主義が1918年に果たしたような役割をもはや果たしえないという考えをイタリアのプロレタリア前衛に吹き込むことができるのは、まったくの愚か者か裏切り者だけがです。

 次のような反論もあるかもしれません。すなわち、イタリアの社会民主主義は、すでに一度、1920年にイタリア・プロレタリアートを欺き裏切ったので、もはやそのような裏切り行為を繰り返すことはできない、と。これは幻想であり、自己欺瞞です! プロレタリアートはその歴史の中で何度となく裏切られてきました。最初は自由主義によって、その次には社会民主主義によって。さらには、1920年からすでにまる10年がたっており、ファシズムの勝利から数えても、まる8年がたったことを忘れることはできません。1920〜22年に10歳か12歳で、ファシストの活動を目撃した子供たちは、今では、労働者と農民の新しい世代を構成しています。彼らは、これから最も献身的にファシズムと闘争するでしょうが、政治的経験を欠いています。共産主義者が広範な大衆と接触することができるのは革命期においてのみであり、最良の場合には、数ヵ月のうちに社会民主主義を暴露し、彼らの影響力を一掃することができるでしょう。しかしながら、繰り返しますが、ファシズムは社会民主主義を清算するのではなく、反対にそれを温存するのです。

 

   イタリアの反対派党員の任務

 今は以上の問題について詳しく述べることはできません。あなた方によって送られた広範な印刷文献を受け取ったところであり、それらにまだ十分目を通していません。これまで書いたすべてのことは、もっぱらあなた方の手紙にもとづいています。したがって、すでに述べたように、私は自分の言ったことを必要に応じて変更する権利を留保しておきます。

 最後に、重要な事実問題について一言述べたいと思います。それに関しては、われわれの間に二つの異なった意見など存在しようもありません。左翼反対派は共産党のポストから意識的に退いたり、自ら党をやめることができるでしょうか、あるいはそうするべきでしょうか。この点に関してはいかなる議論の余地もありません。ごくまれな例外を除いては――そしてそれは誤りだったのですが――、われわれのうちの誰もそんなことをしたことはありません。

 しかし、現在の状況において、イタリアの同志たちがどの程度ないしどのようにして、党の内部であれこれのポストを保持することができるのかに関して、私には定かではありません。したがって、この点に関して何か具体的なことを言うことはできません。ただし、言うまでもないことですが、除名を避けるために党ないし大衆の前で誤った立場や曖昧な立場をとるようなことだけは、われわれのうちの誰も認めないでしょう。

 あなた方と握手をします。

1930年5月14日

『反対派ブレティン』第15/16号

『トロツキー研究』第27号より

 

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