歴史の客観性とは何か

『ロシア革命史』に対するいくつかの批判への回答

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本論文は、トロツキーの主著である『ロシア革命史』に対する批判に答えたものである。トロツキーの叙述が「客観的でない」とする批判に対し、トロツキーは「歴史の客観性」という概念の持つ意味について明らかにしている。トロツキーは、物質的諸関係のみを記述するやり方も、当事者の意識や行動にのみ焦点を当てる方法も拒否し、大衆的な意識と気分の変化を媒介とした両者の弁証法的な相互関係を基軸に『ロシア革命史』を叙述している。そうした叙述方法が大きな成功を収めていることは、『ロシア革命史』を読んだすべての読者によって確認されるだろう。

Л.Троцкий, Что такое историческая объективность?, Бюллетень Оппозиции, No.35, Июль 1933.


 すべての人間は食物を消化し、自分の血に酸素を送り込んでいる。だが、すべての人が、消化と血液循環に関する学術論文を書くわけではない。しかし、社会科学の場合は、そうはみなされていない。すべての人間が、市場社会の中で、一般に歴史的過程の中で生活している以上、経済ととりわけ歴史哲学のテーマに取り組むには、常識がありさえすれば十分だとみなされている。歴史に関する著作に求められるのは、たいていの場合、「客観性」のみである。この大げさな名前が常識的な言語において意味していることは、実際には、科学的客観性とは何の共通性もない。

 俗物たちは――自分が時間的にも空間的にも闘争舞台から隔てられている場合にはとりわけそうなのだが――、自分があい闘う両陣営を超越していると思い込んでいる。だがそれは、どちらの陣営のことも理解していないというただそれだけのことなのである。彼は自分自身を万物の標準的尺度とみなすことにすっかり慣れているので、歴史の諸力の働きに対する己れの無知無理解を、最高度の公正さであると本気で取り違えている。こうした基準にもとづいて、あまりにも多くの歴史書が――その資料的価値のいかんにかかわらず――書かれているのである。先鋭な舌鋒をにぶらせたり、光と影を均等に配分したり、融和的な道徳的説教を垂れたり、筆者の政治的共感を慎重に隠蔽したりして、いとも簡単に歴史書は「客観的である」という高い評価を得ることになる。

 研究の対象が、革命のように常識では理解できない現象である場合には、歴史的「客観性」なるものは、次のような永久不変の結論をあらかじめ用意する。動乱の原因は、保守派があまりにも保守的すぎ、革命派があまりにも革命的すぎたという事実にある。内乱と呼ばれる歴史上の行き過ぎは、私的所有者がより寛大になり、貧民がより穏健になれば、将来回避することができる、と。こうした傾向をもった本は、高ぶった神経によく効く。世界的危機の時代にあっては、とりわけそうだ。

 サロン的な俗物の「客観性」ではなく、科学を追求したければ、実際には、歴史的事件の社会的諸条件――それがいかに神経にとって受け入れがたいものであろうと――を解明することが必要である。歴史は、資料と道徳的処方箋のごみ捨て場ではない。歴史は、生理学に劣らず客観的な科学である。それが必要とするのは、偽善的な「公正さ」ではなく、科学的方法である。人は、歴史科学の方法として、弁証法的唯物論を受け入れることも拒否することもできる。しかし、それを考慮に入れておかなければならない。科学的客観性は、方法そのもののうちに位置づけることができるし、そうしなければならない。もし筆者がその方法を正しく適用しなかったというのであれば、まさにどの点でそうであるのかを指摘しなければならない。

 私は、『ロシア革命史』を自らの政治的共感にもとづいてではなく、社会の物質的基礎にもとづいて書こうと試みた。私は、革命を、過去の全体によって条件づけられた諸階級の直接的な権力闘争の過程として取り上げた。私にとって関心の中心にあったのは、自分たちの闘争の熱病的なテンポに影響されて進行する諸階級の意識の変化であった。私は、政党や政治家たちを、何よりも大衆的な変化と衝突という光に照らして考察した。その際、この国の社会構造に条件づけられた四つの平行する過程が、叙述全体の背景を形成している。すなわち、2月から10月に至るまでのプロレタリアートの意識の発展、軍隊内の気分の変化、農民の憤激の増大、被抑圧諸民族の覚醒と反乱である。筆者は、均衡から投げ出された大衆の意識の弁証法を明らかにすることこそ、筆者にとって、この革命のすべての諸事件を解く最も身近で直接的な鍵を提供することを意味した。

 文学作品が「真に迫るもの」になったり、芸術的なものになったりするのは、主役たちの相互関係が、筆者の恣意にしたがってではなく、登場人物の性格や情況に根ざした傾向にもとづいて展開されていく場合である。科学的知識は、芸術的知識とは大いに異なる。だが、両者には、叙述がその対象に依存していることによって規定された共通の特徴も存在する。諸事実が、実生活におけるようにそれ自身の内的論理にしたがって生きている一つの全体的過程へと結合するとき、歴史的叙述は科学となる。

 ロシアの基本的諸階級について正しく記述されているだろうか? これらの階級は、自分たちの党や政治家を通して自分たちに特有の言葉を語っているだろうか? 諸事件は――無理やりではなく、必然的なものとして――その社会的源泉に、すなわち、歴史の生きた諸勢力の闘争に還元されているだろうか? 革命の一般的概念は生きた諸事実と矛盾していないだろうか? 多くの批評家が、まさにこのような真に客観的な、したがって科学的な基準の観点から私の著作を取り上げてくれたことを、私は感謝の念をもって認めなければならない。それらの批判的論評には正しいものも、誤ったものもあるが、その大多数は有益なものである。

 しかしながら、私の著作には「客観性」が足りないと思っている評論家が、歴史に関する決定論の問題を完全に避けて通っているという事実は偶然ではない。彼らは基本的に、あたかも問題になっているのが科学的研究ではなく、素行を採点するクラスの成績簿であるかのように、政敵に対する著者の「不公平さ」について不満をこぼしているのだ。ある批評家は、ツァーリ君主制のために憤り、別の批評家はリベラル派のために憤り、第3の批評家は協調主義派のために憤っている。こうした批評家たちの同情は、1917年当時、実際の現実そのものから承認も寛容も受けなかったがゆえに、これらの人々は、運命の与える打撃からの避難所をしばしばロマンチック文学の中に求めるように、歴史の物語から慰めを得たいと思っているのである。だが、誰かを慰めるという目的は筆者にはおよそ縁遠いものであった。拙著の希望は、歴史的過程そのものが下す評決を解明することだけであった。ついでに言っておくと、これらの憤っている人々自身は、あれから15、6年もの歳月があったにもかかわらず、自分たちの身に起きたことの原因を説明しようとはけっしてしなかった。白系亡命者たちは、その名に値する歴史書をただの一冊も書かなかった。こうした人々は、自分たちの災難の原因を今でも、「ドイツの金」や大衆の無知さやボリシェヴィキの犯罪的な陰謀の中に見出そうとしている。私は、客観性の必要を疑間の余地のないものと信じているのだが、歴史の記述が、これらの人々の破産の不可避性や彼らに未来への何らかの希望がないことを説得的に明らかにすればするほど、客観性の伝道者――むろん、そうであろう――の主観的憤激は必然的にますます激しくなるに違いない。

 政治的不満を抱えたこれらの批評家の中のより慎重な人々は、『ロシア革命史』の著者があえて論争を挑み皮肉を多用していることに泣き言をとなえ、それによって、自分たちの不満の根源をしばしば覆い隠している。どうやら、論争や皮肉は科学の殿堂にはふさわしくないようである。だが、革命それ自体が、大衆行動へと転化する論争なのである。また、歴史の過程においてはまた、皮肉も不足することはない。、革命期には皮肉は何百万馬力の力を得る。参加した人々の演説や決議や手紙は、彼らのその後の回想と同じく、必然的に論争的性格を帯びる。利害と思想をめぐる激しい闘争のこのカオスのいっさいを、「黄金の中庸」という方法で「和解」させようとすることほど安易なことはないし、またそれほど不毛なこともない。筆者は、あらゆる見解やスローガン、公約、要求を批判的に(あるいは、もしそう言いたければ、論争的に)選択と整理を行なうことによって、社会闘争の歩みにおけるその真の比重を明らかにしようとした。私は、個々人の問題を社会的問題に、特殊を一般に還元し、主体的なものを客観的なものに照らし合わせた。われわれにとって、これこそまさに、科学としての歴史を構成するものである。

 スターリンのために個人的に憤激しているまったく特殊な批評家グループが存在する。彼らにとって、この問題の外部にそもそも歴史は存在しないのである。これらの人々は、自分をロシア革命の「友」とみなしている。実際には、彼らはソヴィエト官僚の弁護人にすぎない。この二つは同じことではない。大衆の能動性が弱まるにつれて、官僚は強力になる。官僚の力は、革命に対する反動を表現している。たしかに、この反動は、10月革命によって据えられた土台の上で発展しているが、しかしそれでもやはりそれは反動である。ソヴィエト官僚の弁護人はつねに、10月革命に対する反動の弁護人にである。彼らがが無意識のうちにその役割を演じているからといって、事態はいささかも変わりはしない。

 豊かになった商店主がよりふさわしい新たな家系を自分で創造するのと同じように、革命の中から成長してきた官僚層もまた、自分自身の歴史をつくり出した。何百台もの輸転機がそのために使われている。だが、その量は、その科学的質を埋め合わせはしない。たとえ、それらがソヴィエト権力の最も真摯な友を喜ばせるためであったとしても、そのような歴史的伝説を手つかずのままにしておくことはできない。こうした伝説は、おそらく官僚の自尊心を大いにくすぐるものではあろうが、残念ながら事実や資料とは矛盾している。

 ここでは一つの例だけを挙げておこう。私はこの例が十分に問題を解明してくれているように思われる。私の著作では、1924年以降につくられたお伽話を反駁するために多くのページが割かれている。その話とは、私がソヴィエト大会後の時期まで武装蜂起を延期させようと試みたのに対して、レーニンが、中央委員会多数派に立脚して、ソヴィエト大会前夜に蜂起を実行させることに成功した、というものである。私は、多くの――主として間接的な――証言を引証することによって、以下のことを示そうと試みた(そして、私は、議論の余地を残さない形で立証したと思っている)。すなわち、当時レーニンは、非合法状態にあったことで闘争の舞台から引き離されていたために、ソヴィエト大会から完全に切り雛された形であまりにも性急に蜂起を開始しようとしていたこと、他方、私は、中央委員会の多数派に立脚して、蜂起をできるだけソヴィエト大会に近づけ、この蜂起にソヴィエト大会の権威を与えようとしていたこと、である。この意見の相違は、そのあらゆる重要性にもかかわらず、純粋に実践的で一時的な性格のものであった。後になって、レーニンは自分が間違っていたことをあっさり認めた。

 『ロシア革命史』に取り組んでいたとき、私は、レーニンの50歳の誕生日を祝う1920年4月23日のモスクワでの記念集会の演説集を手元にもっていなかった。この著作には文字通り次のような文章がある。

「われわれは中央委員会で、ソヴィエトの強化の路線を進め、ソヴィエト大会を召集し、蜂起を開始し、ソヴィエト大会を国家権力の機関であると宣言する、ことを決定した。その当時身を隠していたイリイチは、それに同意せず、……民主主義会議を解散し逮捕しなければならない、と(9月中旬に――トロツキー)書いた。われわれは、事態がそんなに単純でないことを理解していた。……われわれの進路に横たわるすべての穴や谷間がわれわれにはよりよく見えた。イリイチのあらゆる要求にもかかわらず、われわれは、ソヴィエト強化の路線をいっそう押し進め、10月25日の蜂起に至ったのである。イリイチは、ほほ笑みながら、いたずらっぽくわれわれを見て言った。『そうだ、君たちは正しかった』。」(『V・I・ウリヤーノフ・レーニン生誕50周年』、1920年、27〜28頁)

 以上の引用は、他ならぬスターリンが行なった演説からとったものである。それは、私が10月25日の革命におけるレーニンの役割を「小さく」見せようとしているなどという悪意に満ちた中傷をスターリンが流しはじめる5年前のことであった。私の記述を完全に確認しているこの引用文(たしかに、表現はより粗野だが)が、もし 1年前に私の手元にあれば、間接的でより権威の劣る証言を引証する必要はなかっただろう。しかし、他方で私は、すべての人に忘れ去られたこの小さな本――劣悪な紙で劣悪な印刷がなされている(1920年は苛酷な年だった!)この小冊子が、こんな後になって私の手に入ったことに満足している。こうして、同書は、個人的性格を帯びた論争上の問題の分野においても、私の叙述の「客観性」(もっと簡単に言えば、事実関係における正確さ)を証し立てる追加的な――しかもきわめてはっきりとした――証拠を与えている。

 ここであえてはっきりと断言しておきたいのだが、これまでのところ、私の叙述のうちに事実関係の正確さ――すなわち、歴史に関する叙述のみならず、他のあらゆる叙述においても必要な第一の戒律――を破壊する箇所を発見した人は誰一人としていない。個々の部分的な誤りはありうることである。だが傾向的な歪曲は、断じてない。もし私の記述に対する直接ないし間接の反論となったり、その根拠を薄弱なものにするような文書をモスクワのアルヒーフでただの一つでも見つけることができたとすれば、とっくの昔にそれはあらゆる言語に翻訳されて、出版されていたことだろう。むしろ、逆の定理を引き出すことも難しくはない。公式の伝説にとってわずかでも危険ないっさいの文書が注意深く隠されたままとなっている。自らを10月革命の友と称しているスターリン官僚制の弁護人たちが、論拠の不十分さを過剰な熱意で代替しなければならないのは、驚くにあたらない。しかし、この種の批判はいささかも私の科学的良心を不安にしはしない。伝説は崩壊し、事実だけが残るであろう。

プリンキポ、1933年4月1日

『反対派ブレティン』第35号

『トロツキー研究』第35号より

 

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