スペイン革命と

それをおびやかす危険

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、1931年4月の共和革命の実現を踏まえて、スペインの共産主義者の基本方針を明らかにした綱領的論文である。

 1929年に起こった世界恐慌のあおりを受けて金融危機に陥ったスペインのプリモ・デ・リベラ政権は翌年にあっという間に崩壊し、アルフォンソ13世によって任命されたベレンゲル将軍の半軍事独裁政権に道を譲った。しかしこの政権はきわめて不安定で、プリモ・デ・リベラ政権の崩壊によって活発に活動を展開した反体制派の諸政党や労働運動の圧力にさらされた。1930年12月、共和派の将校がクーデターを起こすが、これはベレンゲル政権によって鎮圧され、実行者は処刑された。しかし、このクーデター鎮圧直後に全国で展開された大規模な大衆運動は政権の安定を許さず、アルフォンソ国王は新政権と選挙を約束することを余儀なくされ、ベレンゲルは辞任、臨時の文民政府が成立した。

 国会選挙で右派政党が多数派をとることができないと考えたアルフォンソは、4月12日に地方自治体選挙の実施でお茶を濁した。この選挙において、主要な大都市圏で社会党と共和党が多数を占めたが、地方を支配するカシケ制度のおかげで王党派の右派政党が全体としては多数を占めた。しかし、マドリードの街頭に大群衆が集まって君主制反対を唱えたため、アルフォンソは退位を宣言することを余儀なくされた。4月14日に共和制が宣言され、新政権が成立した。これが4月革命である。首相には、プリモ・デ・リベラのクーデター以前のアルフォンソ政権の大臣であったサモラ(左の写真)が就き、その他多くの重要なポストをブルジョア中間派の政党(進歩党、急進党)出身者が占めた。この内閣には、左翼共和党のマニュエル・アサーニャ(後の首相)、社会党のラルゴ・カバリェーロも入閣した。

 トロツキーはこうした情勢展開を踏まえて、現在の共和派政府に対して明確な反対の姿勢を貫き、この政権が民主主義革命の諸課題を達成しえないこと、したがって共産主義者が民主主義的スローガンの掲げて闘うことの重要性を主張した。とりわけ国会の問題に焦点をあて、共産党が積極的に国会選挙に参加して、この国会を革命発展のてこにすることを呼びかけた。

 またトロツキーはこの論文の中で、革命のテンポの問題についてかなりの量を割いている。トロツキーは、スペイン革命の発展テンポがロシア革命よりもはるかに緩慢なものになること、したがって現在は少数派の共産党でも正しい政策さえあれば決戦までに十分な組織的・政治的準備をすることができることを主張している。現実の歴史はトロツキーのこの予測がきわめて正しかったことを明らかにしている。スペインにおいてプロレタリア革命が日程にのぼったのは、このときから5年後の1936年のことであり、人民戦線政権の成立とそれに対するフランコ将軍の反乱を待たなければならなかった。

 この論文の最初の邦訳は現代思潮社版『スペイン革命と人民戦線』に所収のものだが、それはフランス語版からの重訳であり、多くの重大な誤訳が散見される。今回は、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文にもとづいて訳し直されている。

Л.Троцкий, Испанская революция и угрожающие ей опасности, Бюллетень Оппозиции, No.21/22,Май-Июнь 1931.


   スペインの事態に対するコミンテルンの指導

 スペイン革命は成長している。闘争の過程でその内的な力も成長している。しかし、それと同時に危険も成長している。われわれが言っているのは、支配階級とその政治的奉公人(社会党と共和党)を発生源とする危険ではない。これらの連中は公然の敵であり、彼らに対してなすべき課題は完全に明白である。そうではなくて、内的な危険が存在するのである。

 スペインの労働者は、10月革命によって誕生したソ連を信頼を込めて見ている。こうした気分は、共産主義者にとって貴重な資本である。ソヴィエト連邦の防衛はすべての革命的労働者の義務である。しかし、10月革命に対する労働者の信頼を、10月革命の教訓と精神に真っ向から反するような戦術を押しつけるために悪用することを許してならない。

 はっきりと言わなければならない。このことはスペインと全世界のプロレタリア前衛が理解できるように語らねばならない。すなわち、現在のコミンテルン指導部の側からの直接的な危険性がスペインにおけるプロレタリア革命をおびやかしている、と。どんな革命でも、最も有望な革命でさえ、崩壊することがありうる。このことは、1923年のドイツ革命の経験によって、そしてさらにはっきりと1925〜27年の中国革命の経験によって証明されている。この両者の場合、革命崩壊の直接的な原因は誤った指導にあった。今やスペインの番である。コミンテルンの指導者たちは、自分たちの誤謬から何も学ばなかった。それどころではない。過去の誤りを隠蔽するために、彼らはそれを正当化し、いっそう発展させざるをえなくなっている。事態が彼らにかかっているかぎり、スペイン革命は中国革命の二の舞になるだろう。

 2年ものあいだ、先進的労働者は、コミンテルンを弱体化させ士気阻喪させた「第三期」という忌まわしい理論によって混乱させられてきた。コミンテルン指導部はついに中止の合図を打ち鳴らした。しかし、それはいつか? まさに世界恐慌が状況の転換をもたらし、革命的攻勢の最初の前提条件をつくり出したそのときである。その間、スペインの内的過程はコミンテルンに知られないままであった。マヌイリスキーは宣言した――そしてこのマヌイリスキーは今もコミンテルンを指導しているのだ!――、スペインの事態はまったく注意に値しない、と。

 [1931年の]4月革命(1)の前に書かれたスペイン革命に関する論文(2)の中で、われわれは次のような趣旨のことを書いた。ブルジョアジーがさまざまな傾向の共和主義をもてあそびながらも、最後の瞬間まで王政との同盟関係を維持するのに全力を尽くすだろう、と。「たしかに、有産階級が自分を救うために王政を犠牲にせざるをえないような事態の組み合わせ(たとえばドイツ!)もありえないわけではない。しかし、マドリードの王政が、たとえ目の下が隈だらけになろうとも、プロレタリアート独裁の時まで持ちこたえることは、まったくありうることである」。この一節はスターリン主義者に――もちろん事件後にだが――われわれの予測が誤っていたと言う根拠を与えた。自分では何も予測しない人間が他人に対してマルクス主義的予測ではなく、何日に事件が発生するのか、その事件がどのような形態をとるのか、といった神がかり的予言を要求するのである。それは無知で迷信的な病人が医学的奇跡を要求するのと同じである。マルクス主義的予測の課題は、発展の一般的方向性を正しく理解し、その「思いがけない」展開に対する準備をするのを助けることである。

※原注 これに一番熱心だったのはアメリカのスターリニストである。こうしたことのために雇われた野放図な官僚たちが、どれほど徹底して俗悪かつ愚劣なことを言うことができるか、想像するのも難しい。

 スペインのブルジョアジーが王政と決別する決意をしたという事実は、同じくらい重要な二つの理由から説明される。大衆の怒りが激烈な高まりを見せたことは、国民に嫌悪されていたアルフォンソ(3)をスケープゴートにすることをブルジョアジーに余儀なくさせた。しかし、ブルジョアジーが重大なリスクを伴うこのようなマヌーバーをやってのけることができたのは、大衆が共和党と社会党を信頼していたからであり、4月革命に際して共産党の側からの危険性を無視することができたからである。したがって、スペインで実現した歴史的パターンは、一方では人民大衆の力によって、他方ではコミンテルンの弱さによって実現したのである。まずもってこの事実を確認することから始めなければならない。戦術の基本的規則はこうだ――強くなることを欲するなら、自分の力の過大評価から始めることなかれ。

 しかし、このような規則はエピゴーネン派の官僚たちにとっては存在しない。事件の直前までマヌイリスキーは何も重大なことは起らないと予言していたのに、革命の翌日には、ラテン系諸国に関する誤った情報の提供者であるとっておきの人物ペリ(4)は、いかにスペインのプロレタリアートがほとんどみな共産党を支持しているか、いかにスペインの農民がソヴィエトを創設しているかという電報を次から次へとモスクワに送りつづけた。『プラウダ』は、このようなたわごとを掲載するとともに、「トロツキスト」がサモラ(5)政府に追随しているという新たなたわごとを追加した……サモラ政府が左派共産主義者[左翼反対派]を投獄したし今も投獄しつづけているというのにである。5月14日、ようやく『プラウダ』は「燃えるスペイン」という綱領的論説を掲載したが、それは、スペイン革命の言葉に翻訳されたエピゴーネン的迷妄と誤謬のかたまりである。

 

   国会(コルテス)をどうするべきか

 『プラウダ』論文は、抽象的なプロパガンダだけでは十分でない、という明々白々な真理から議論を始めている。「共産党は大衆に対して、いま何をなすべきかを語らなければならない」。では、この点について『プラウダ』自身は何を提案しているだろうか? 「反動勢力の武装解除、プロレタリアートの武装、工場委員会の選挙、直接行動による1日7時間労働の実現、等々のために」労働者を結集することである、と。「等々」――と言われている。上に列挙されたスローガンは、いかなる内的連関も示されていないし、大衆運動の発展から生じる首尾一貫性もないが、それでも議論の余地のないものである。しかし、驚くべきことは、『プラウダ』の指導的論説が国会(コルテス)の選挙に一言も触れていないことである。あたかも、この政治的事件がスペイン国民の生活史に存在しなかったかのごとくであり、あるいは、まるで労働者がそれとは何の関係もないかのようである。この沈黙は何を意味するのだろうか?

 一見したところ、共和革命は周知のように地方自治体選挙によって実行されたかのようである。言うまでもなく、この革命にはより深い原因があり、われわれはそれについては、ベレンゲル(6)内閣が崩壊するずっと前に書いておいた。しかし、君主制打倒の「議会的」形態は、完全にブルジョア共和派と小ブルジョア民主派の利益になった。スペインでは非常に多くの労働者が今日でも、社会生活の基本的諸問題を投票用紙によって解決することができると考えている。このような幻想を一掃できるのは経験だけである。しかし、われわれは経験を手助けするすべを知らなければならない。いかにしてか? 国会に背中を向けることによってか、それとも逆に選挙に参加することによってなのか? まさにこの問いに答えなければならない。

 上に挙げた論説の他にも、『プラウダ』紙は、スペイン革命の内的諸力のマルクス主義的分析にしてボリシェヴィキ的な戦略規定と称する「理論的」論文を掲載している(5月7日付および10日付『プラウダ』)。この論文も国会について、選挙をボイコットすべきか参加すべきかについて一言も触れていない。『プラウダ』は、この革命を民主主義革命と呼んでいるにもかかわらず、総じて政治的民主主義のスローガンと課題について完全に沈黙している。このだんまり戦術は何を意味しているのだろうか? 選挙に参加することもできるし、ボイコットすることもできる。しかし、それを無視することはできない。

 ベレンゲルの国会に対しては、ボイコット戦術は完全に正しかった。あらかじめ明らかだったのは、アルフォンソが一時的に軍事独裁によって返り咲くか、それとも、運動がベレンゲルをその国会ともどもを乗りこえてしまうかのどちらかだ、ということである。こうした状況のもとでは、共産主義者は、国会のボイコット闘争のイニシアチブを取らなければならなかった。まさにこれこそ、われわれが、用いることのできるささやかな手段によって訴えたことだった

※原注 左翼反対派は日刊新聞を持っていない。日刊紙の論文の内容となるような思想を、われわれは私信の中で展開せざるをえない。本書の付録として、日付順にそうした論文書簡の抜粋を掲げておく(7)

 スペイン共産党が、このテーマを論じた短い宣伝ビラでも国内で配布することによって、時機を失せず断固としてボイコットを主張していたとしたら、ベレンゲル政府の崩壊にによって共産党の権威は著しく増大していただろう。「この人たちには物事を予見する能力があるぞ」と先進的労働者は考えただろう。残念なことにスペイン共産党は、コミンテルンの間違った指導のせいで状況を理解することができず、選挙に参加するつもりであった。しかも、またしても確信なしにである。事態は共産党の思惑を飛び越え、革命の最初の勝利はほとんど共産党の影響力を強めることにはならなかった

 現在、憲法制定議会の召集はサモラ政府にかかっている。この議会の召集が第2革命で妨げられると考える根拠はあるだろうか? いや、いかなる根拠もない。大衆の強力な運動はまったく可能ではあるが、綱領も党も指導もないのだから、この運動は第2革命にまで至ることはありえない。現在ボイコットのスローガンは、自己孤立化のスローガンを意味するであろう。積極的に選挙に参加しなければならない。

 

   改良主義者の議会的クレティン病と

     アナーキストの反議会的クレティン病

 議会的クレティン病は不快な病気ではあるが、反議会的クレティン病もこれよりさしてましなわけではない。このことは何よりも、スペインのアナルコ・サンディカリストの運命にはっきりと見てることができる。革命は真正面から政治的諸問題を突きつけるが、その際、それらの政治的諸問題は一定の段階においては議会的形態をとる。労働者階級の注目が国会に集まることは不可避だし、アナルコ・サンディカリストもこっそりと社会党や共和党に投票するだろう。どの国にもましてスペインでは、アナーキストの反議会的形而上学と闘争することなしには議会的幻想と闘争することはできないのである。

 私は、一連の論文や書簡の中で、スペイン革命の今後の発展にとって民主主義的スローガンがいかに巨大な意義を持っているかを証明してきた。失業者支援、1日7時間労働、農地改革、民族自治など。これらの重大で根本的な諸問題は、アナルコ・サンディカリストも含めて、圧倒的多数のスペイン労働者の意識の中では、何らかの形で明日の国会と結びついている。ベレンゲル時代には、革命的憲法制定議会のために、アルフォンソの施しものである国会をボイコットする必要があった。アジテーションにおいて、最初から選挙権の問題を第一義的なものの一つとして提起しなければならなかった。そうだ、選挙権という散文的な問題がである! ソヴィエト民主主義は言うまでもなく、ブルジョア民主主義よりはるかに高度である。だが、ソヴィエトは天から降ってくるものではない。それは、こちらからのぼっていかなければならない。

 世の中には、こう言っては何だが、18歳以上のすべての男女による平等・直接・秘密の普通選挙に対して傲慢な軽蔑的態度をとるマルクス主義者がいる。しかし、もしスペイン共産党が時機を失せずこのスローガンを掲げ、演説や論文やパンフレットやビラなどでそれを擁護していたら、巨大な人気を獲得していたことであろう。それはまさに、スペインの人民大衆が国会の創造的力を過大評価する傾向にあるからであり、目覚めた労働者や革命的農民がみな選挙への参加を望んでいるからである。われわれは一瞬たりとも大衆の幻想を共有することなしに、この幻想の中にある進歩的な要素を徹底して利用しなければならない。そうしないとすれば、われわれは革命家ではなく、軽蔑すべき衒学者であろう。ところで、選挙権年齢の引き下げだけでも何十万人もの男女労働者、男女農民の生き生きとした関心をとらえることができる。どの部分の関心をか? 若い能動的な人々の関心をである。そしてこれらの人々こそが、第2革命を遂行する使命を持つのである。この若い世代を、年長の労働者に依拠しようとしている社会党に対立させることは、共産主義前衛にとってまったく初歩的で議論の余地のない課題である。

 さらに。サモラ政府は国会を通じて2院制の憲法を制定しようとしている。王政を転覆したばかりの革命的大衆は、平等と正義に対する、まだ漠然としているとはいえ熱烈な志向に満たされており、それゆえ、共産党が、人民の背に「貴族院」という重荷を負わせようとするブルジョアジーの計画に反対するアジテーションを行なうならば、それに熱烈に呼応するだろう。こうした部分的問題も、アジテーションにおいては巨大な役割を果たすし、それは社会党を苦境に陥れ、社会党と共和党とのあいだに溝を掘り、したがってプロレタリアートの敵をたとえ一時的であれ分裂させ、そして――これは千倍も重要なことだが――労働者大衆と社会党とのあいだに溝を掘ることができるのである。

 『プラウダ』の提起している1日7時間労働という要求はまったく正しく、きわめて重要かつ切実なものである。しかし、政治状況や民主主義の革命的課題を無視して、この要求を抽象的に持ち出すことができるだろうか? 『プラウダ』は、1日7時間労働や工場委員会や労働者の武装についてのみ語り、「政治」を無視し、どの論文でも国会選挙には一言も触れていない。こうして『プラウダ』は、アナルコ・サンディカリズムに完全に接近し、彼らを養いその正体を隠蔽してやっているのである。だがその一方で、青年労働者はブルジョア立法によって資本主義的搾取のために十分成長しているとみなされながら、共和党と社会党によって選挙権を奪われており、あるいは貴族院という重荷を負わされようとしており、彼らはこのような欺瞞に反対する闘争の中で、明日にもアナーキストに背を向け、ライフル銃を取ろうとするだろう。大衆を深く捉えている現実の生きた政治的過程を無視して労働者の武装というスローガンを掲げることは、自らを大衆から孤立させ、大衆を武器から遠ざけてしまうことを意味する。

 民族自決権というスローガンは、現在スペインで例外的な重要性を帯びている。しかし、このスローガンも今日、民主主義の地平上に位置している。われわれにとって問題になっているのはもちろん、カタロニヤ人やバスク人にスペインからの分離を呼びかけることではなく、彼らがそれを欲するかぎりにおいてそうした可能性を彼らに提供するために闘争することである。だが、彼らがそれを望んでいるかどうかをどのようにして判断するのか? 非常に簡単である。当該地域において平等・直接・秘密の普通選挙による人民投票をすればよい。今のところ、それ以外に方法はない。その後は、他のすべての問題と同じく民族問題も、プロレタリア独裁の機関であるソヴィエトによって決定されるだろう。

 だが、われわれは好きなときに労働者にソヴィエトを押しつけることはできない。われわれにできるのは、労働者をソヴィエトに導くことだけである。ましてや、われわれには、プロレタリアートが後になってようやく創設するソヴィエトを全人民に押しつけることはできない。しかしながら、今日の問題に対しては解答を与える必要がある。5月、カタロニアの地方自治機関は、地方の臨時憲法作成のために代表を選出するよう要請された。この臨時憲法は、カタロニアとスペイン全体との関係を決定するためのものであった。いつものように大資本に隷属している小ブルジョア民主主義が、非民主的選挙によってカタロニア人民の運命を決定しようとしている事実に対して、カタロニアの労働者が無関心でいられようか? 民族自決のスローガンは、それを補完し具体化する政治的民主主義のスローガンなしには空虚な定式でしかない。いやもっと悪いことには、人々の目をごまかす欺瞞になる。

 一定の期間、スペイン革命のあらゆる問題は何らかの形で議会制というプリズムを通して屈折するだろう。農民は固唾をのんで農業問題に対する国会の解答を待つだろう。現在の状況下で、共産党の農業綱領が国会の演壇から展開されるならば、それがどれほど大きな意義を持つことになるか、このことを理解するのは難しくない。だがそのためには二つの条件が必要である。農業綱領を持つことと、国会の議席を手に入れることである。国会が土地問題を解決しないのは、われわれには明らかである。必要なのは農民大衆の戦闘的なイニシアチブである。しかし大衆がこうしたイニシアチブを取るためには、綱領と指導部が必要である。国会の演壇は、共産主義者にとって、大衆との結びつきのために必要である。そしてこの結びつきから生じる行動は、国会を乗り越えるだろう。ここにこそ議会制度に対する革命的・弁証法的政策の真髄がある。

 では、この問題について、またしてもコミンテルン指導部が沈黙している事実をどう説明したらいいのだろうか? 理由はただ一つ。指導部が過去の虜となっているからである。スターリニストは中国において、憲法制定議会のスローガンをあまりにも騒々しく非難しすぎた。第6回大会は、植民地諸国における政治的民主主義のスローガンを「日和見主義」であると公式に糾弾した。中国やインドよりもはるかに先進的な国であるスペインの実例は、第6回大会決議の完全な破産を暴露している。しかし、スターリニストは手足を縛られている。議会のボイコットを訴える勇気もない彼らは、ただ沈黙しているのである。革命は滅びよ、指導者の無謬性の評判万歳! というわけだ

※原注 イタリアのグループ「プロメテオ」(ポルディガ派)は、どの国、どの民族に関しても革命的民主主義のスローガンを全般的に拒否している。このセクト的教条主義は、事実上スターリニストの立場と一致しており、ボリシェヴィキ・レーニン主義者の立場とは何の共通性もない。国際左翼反対派は、このような幼稚な極左主義に対する責任をいささかも引き受けてはならない。スペインの最近の経験はまさに、イタリアにおいて政治的民主主義のスローガンがファシスト独裁体制の崩壊の過程で疑いもなくきわめて大きな役割を果たすであろうことを示唆している。「プロメテオ」の綱領をもってイタリアやスペインの革命に突入することは、両手を後ろ手に縛って水泳をするようなものである。このような泳ぎ手は必ず溺れ死ぬことになろう。

 

   スペインにおける革命の前途はいかなるものか?

 頭を混乱させるために特別に書かれたかのような、先に引用した理論的論文の中で、『プラウダ』は、スペイン革命の階級的性格を規定しようと試みたのち、文字通り次のように書いている。「しかしながら(!)、以上のいっさいにもかかわらず(!)、現段階でスペイン革命を社会主義革命と特徴づけるのは誤りである」(5月10日付『プラウダ』)。同論文の分析全体を判断するには、この一節を読むだけで十分である。スペイン革命を現段階で社会主義革命と特徴づけることができると思いこむような人が――狂人扱いされることなく――この世にいるのかと読者は想像するであろう。いったいどこから『プラウダ』は、このような「線引き」をする必要があるとの考えをとってきたのか? しかも、「しかしながら、以上のいっさいにもかかわらず……誤りである」という持って回った言い方で。これは、エピゴーネンたちが、ブルジョア民主主義革命の社会主義革命への「成長転化」というレーニンの言葉に不幸にも出くわしたからに他ならない。レーニンを理解せず、ロシア革命の経験を忘れ、あるいは歪曲した彼らは、この「成長転化」という概念を最も重大な日和見主義的誤謬の基礎とみなした。問題になっているのは――ただちに言っておくが――アカデミックな細部の議論ではまったくなく、プロレタリア革命にとって生死にかかわる事柄である。

 エピゴーネンたちが、国民党の独裁が労働者・農民の独裁に「成長転化」し、それがプロレタリアートの社会主義的独裁に転化すると期待していたのも、それほど以前の話ではない。その際、彼らは――このテーマに関してはスターリンが特別の深みをもって展開していたのだが――革命の一方の翼では少しずつ「右派分子」が脱落し、他方の翼では「左派分子」が強化されると考えていた。そしてこの点に「成長転化」の有機的過程があるはずだった。不幸なことに、スターリン=マルトゥイノフのすばらしい理論は、完全にマルクスの階級理論の蹂躙にもとづいていた。社会体制の性格は、したがってまたあらゆる革命の性格は、権力を手中にしている階級の性格によって規定される。ある階級から他の階級への権力の移動は、革命的変革によってのみ起こりうるのであって、けっして有機的な「成長転化」によって起るものではない。この基本的真理は、エピゴーネンたちによって、はじめは中国で、今はスペインで踏みにじられている。そしてわれわれは、『プラウダ』の学識ある賢者たちが、円形の検査鏡を頭にはめ、サモラの脇に体温計をはさんで、「成長転化」の過程がスペイン革命をすでに社会主義的段階に移行させたと認めることができるかどうかを診断するのである。そしてこの賢者たちは――彼らの賢さを正当に評価するとしよう――はこう結論する、いやまだできない、と。

 『プラウダ』は、かくも貴重な社会学的博識を披露した後で、今度は予測と指導の分野に足を踏み入れる。「スペインにおいては、社会主義革命は今日の直接的課題となりえない。当面の課題(!)は地主とブルジョアジーに反対する労農革命である」(『プラウダ』5月10日付)。社会主義革命がスペインでは「直接的課題」でないということは、議論の余地がない。しかし、プロレタリアートによる権力獲得を目的とする武装蜂起はスペインでは「今日の直接的課題でない」と言う方がいいし、いっそう正確であろう。なぜか? なぜなら細分されたプロレタリア前衛はまだ背後に労働者階級をしたがえていないし、労働者階級はまだ農村の被抑圧大衆をしたがえていないからである。こうした状況のもとでは、権力獲得のための闘争は冒険主義になるだろう。しかし、その場合、「当面の課題は、地主とブルジョアジーに反対する労農革命である」という補足的文章は何を意味するのだろうか? つまり、現在のブルジョア共和制とプロレタリアートの独裁とのあいだに「労農革命」という特別の中間的革命が存在するのだろうか? しかも、社会主義革命とは異なるこの「労農革命」という特別の中間的革命が、スペインにおける「当面の課題」だというのか? ということは、新しい革命を今日の行動日程にのせるべきなのか? それは武装蜂起によるのか、それとも別の手段によるのか? 「地主とブルジョアジーに反対する」労農革命は、いかなる点でプロレタリア革命と異なるのか? 階級的諸勢力のいかなる組み合わせがその基礎になるのか? 第2革命とは異なる第1革命を指導するのはどの党なのか? この二つの革命において、綱領と方法はどのように異なるのか? こうした疑問に対する解答を探しても無駄である。「成長転化」という言葉によって思想の曖昧さと混乱をごまかしているだけである。彼らの但し書きのあらゆる矛盾にもかかわらず、これらの連中は、ブルジョア革命が一連の有機的諸段階を通じて社会主義革命に進化することを夢見ているのである。そして、この諸段階は、国民党、「民主主義独裁」、「労農革命」、「人民革命」などいろいろな匿名で呼ばれている。しかも、この過程の中で、決定的な契機、すなわちある階級が別の階級から権力を奪取するという契機がいつの間にか消失してしまっているのである。

 

   永続革命の問題

 言うまでもなく、プロレタリア革命は同時に農民革命でもある。しかし、プロレタリア革命なき農民革命は、現代の条件においては不可能である。われわれが10月革命後のプロレタリア政府を「労農政府」と呼んだように、われわれの目的は労農共和国を建設することだ、と農民に言うことはまったく正当である。しかし、この場合、われわれは労農革命をプロレタリア革命に対置しているのではなく、その反対に、両者を同一視しているのである。これこそが唯一正しい問題提起の仕方である。

 ここでわれわれは再びいわゆる「永続革命」の問題の核心に踏み込むことになる。エピゴーネンたちは、この理論との闘争の中で、階級的見地と完全に決裂するまでに至った。中国における「四民ブロック」の経験後、彼らはたしかにより慎重になった。しかし、これによって彼らはますます混乱の度合いを深める一方で、今では全力を尽くして他の者を混乱させている。

 しかしながら、幸いなことに、この問題は、現実の諸事件によって、昔の文献に対する赤色教授たちの衒学的操作の領域から引き離された。問題になっているのは歴史的回想やあれこれの引用文の選択ではなく、すべての人の眼前で展開している新しい壮大な歴史的経験である。ここでは二つの見解が革命闘争の戦場で対決している。現実の事件が審判を下すだろう。その決定から逃れることはできない。スペインの共産主義者は、「トロツキズム」に対する闘争と結びついた諸問題の本質を手遅れになることなく理解しなければ、理論的に非武装の状態でスペイン革命の基本的諸問題の前に立たされることになるだろう。

 

   革命の「成長転化」とは何か

 たしかに、レーニンは1905年に「プロレタリアートと農民のブルジョア民主主義独裁」という仮説的定式を提起した。そもそも、プロレタリアートによる権力獲得に先立つ、独立した民主主義的農地革命を期待しうる国があったとすれば、それはたしかにロシアであった。この国では農業問題が国民の全生活を支配し、農民の革命的運動が何十年も続き、古い伝統と大衆に対する広範な影響力を持った独自の革命的農民政党が存在したからである。ところが、そのロシアにおいてさえ、ブルジョア革命とプロレタリア革命とのあいだに中間的革命が起こる余地はなかった。1917年4月、レーニンは、依然として1905年におけるボリシェヴィキ党の古い定式にしがみついていたスターリン、カーメネフらに向かって何度となくこう繰り返した。ミリュコーフ=ツェレテリ=チェルノフの独裁以外に「民主主義独裁」は存在しないし、今後も存在しないだろう。民主主義独裁は、本質そのものからして、プロレタリアートに対するブルジョアジーの独裁である。このような「民主主義独裁」に代わりうるのはプロレタリアートの独裁だけである。中間的、中庸的定式を提起する者は、哀れな幻想家かホラ吹きである、と。これこそが2月革命と10月革命の生きた経験からレーニンの引き出した結論である。われわれは、この経験とこの結論に全面的にもとづいている。

 ではレーニンにとって、社会主義革命への民主主義革命の「成長転化」とは何を意味するのか? エピゴーネンや赤色教授的ほら吹きたちの想像しているものとはまったく違ったものである。実際には、プロレタリアートの独裁は社会主義革命の概念とけっして機械的に一致するものでない。労働者階級による権力獲得は、一定の国民的環境の中で、一定の時期に、そして一定の課題を解決するために起こる。後進的諸国民にとっては、直接的課題は民主主義的性格の課題である。すなわち、中国の場合のように、帝国主義的隷従からの全民族の解放と農地革命、あるいはロシアの場合のように、農地革命と被抑圧諸民族の解放である。組み合わせこそ違うが、現在のスペインにも同じものが見出される。

 レーニンは、1917年10月にロシアのプロレタリアートが権力を握ったのは、何よりもブルジョア民主主義革命の執行者としてであったとさえ述べている。勝利したプロレタリアートは、最初に民主主義的課題の解決に着手し、ただ徐々にのみ、その支配の論理にもとづいて、社会主義的課題に移行していった。プロレタリアートは権力獲得から12年もたってはじめて農業の集団化に本格的に着手したのである。これこそレーニンの言う民主主義革命の社会主義革命への成長転化なのである。

 ブルジョア権力が労農権力に成長転化したり、その後にプロレタリア権力に成長転化するのではない。そうではなく、ある階級の権力は、他の階級の権力に「成長転化」するのではなく、武器を手にして奪取されるのである。しかし、労働者階級が権力を獲得した後は、プロレタリア体制の民主主義的課題は、不可避的に社会主義的課題に成長転化する。民主主義から社会主義への進化的で有機的な移行は、ただプロレタリアートの独裁のもとでのみ起こりうる。これがレーニンの中心観念であった。エピゴーネンたちはいっさいを歪め、混乱させ、変質させ、今や彼らの偽造物でもって国際プロレタリアートの意識を毒している。

 

   二つの可能性――日和見主義と冒険主義

 もう一度繰り返すが、問題になっているのはアカデミックな細部の議論ではなく、プロレタリアートの革命的戦略にとって生死の問題である。現在スペインで「労農革命」が日程にのぼっているかのように言うのは誤りである。そもそも現在の時点でスペインで新しい革命、すなわち権力獲得のための直接的な闘争が日程にのぼっているかのように考えること自体が誤りである。そうではなく、現在日程にのぼっているのは、大衆を共和主義的幻想から解放し、社会党に対する信頼から解き放ち、彼らの革命的結集のために闘争することである。第2革命は起こるだろうが、これは、貧農を背後にしたがえたプロレタリアートの革命になるであろう。ブルジョア体制とプロレタリアート独裁とのあいだには、何か特別の「労農革命」なるものの入る余地はない。このような革命をあてにして、それに政策を適応させることは、プロレタリアートを国民党化すること、すなわち革命を破滅させることを意味する。

 『プラウダ』の混乱しきった定式化は、すでに中国でとことんまで追求された二つの道、すなわち日和見主義の道と冒険主義の道を再び切り開きつつある。今のところ『プラウダ』はまだスペイン革命を労農革命だと「特徴づける」にいたっていないが、明日には、サモラ=蒋介石に代わって「忠実な汪精衛(8)」、たとえば左派のレルー(9)が登場した場合に、そのような事態にならないと誰が断言できようか。そのときには、マルトゥイノフ=クーシネン一派のような賢い診断医たちは、これこそが労農共和国であり、「これこれのかぎりで支持する」(1917年3月のスターリンの言葉)とか「全面的に支持する」(1925〜27年における国民党に対する同じスターリンの立場)必要があると言い出すのではなかろうか。

 しかし、今日の中間主義者の気分により合致した冒険主義的可能性も存在する。『プラウダ』の社説は、スペインの大衆が「その攻撃の矛先を政府にも向けはじめている」と述べている。しかしながら、スペイン共産党は政府打倒のスローガンを今日の課題として掲げうるだろうか。『プラウダ』は、すでに耳にしたように、その学識ある論文の中で、直接的な課題は労農革命を行なうことだと宣言している。この「段階」を成長転化の意味でではなく、権力の打倒の意味で解釈するなら、冒険主義のパターンが全面的に開かれる。弱体な共産党は、かつて1927年12月に広東で自党に言ったように(あるいはそうするように命じられたように)、マドリードでも自党にこう言うかもしれない。「プロレタリア独裁のためには、もちろんのこと、わが党はまだ成熟していない。しかし、いま問題になっているのは中間的段階、すなわち労農独裁なのだから、党の力が弱くても何とか蜂起を組織することができる。そうすればあとは何とかなるだろう…」。実際、スペイン革命の1年目を取り逃がすという犯罪行為が明らかになった後に、時間を失った責任を負っている連中は、自らの「執行」機関を激しく鞭打って、彼らを広東型の悲劇的冒険に追い立てる可能性を予測することは困難ではない。

 

   「7月事件」の展望

 この危険はどの程度現実的なものだろうか? それは完全に現実的である。この危険は、革命そのものの内的な諸条件に根ざすものであり、だからこそ、指導者のごまかしと混乱はとりわけ有害なのである。スペインの現在の状況には、1917年にペトログラードで起こったあの戦闘と多少なりとも似た新たな大衆的爆発が起こる可能性が内在している。この戦闘は「7月事件」という名称で歴史に入っている。この戦闘の結果が革命の崩壊に至らなかったのは、ひとえにボリシェヴィキ党の戦術が正しさのおかげである。スペインにとって焼けつくほど切実なこの問題については、詳しく論じる必要がある。

 フランス大革命にはじまるすべての古い革命のうちに、「7月事件」の原型を見出すことができる。その結果はさまざまであるが、一般に不利なものに、しばしば破局的なものになっている。この種の段階はブルジョア革命のメカニズムのうちに内在している。なぜなら、革命の成功のために最も犠牲を払い、革命に最も大きな期待をかけた階級が、革命から最もわずかしか得ることができないからである。

 この過程の法則性はまったく明白である。有産階級は革命によって権力を握ると、これで革命の使命はすべて達成されたと考え、それ以降は何よりも反動勢力に対して自らの穏健さを証明することに関心を示す。「革命的」ブルジョアジーは、打倒された階級の好意を獲得するための諸措置によって人民大衆の怒りを買う。大衆の幻滅はきわめて急速に、しかもその前衛の熱情が冷めて革命闘争から手を引くよりもずっと前に起こる。先進層は、新たな攻撃によって、前回は十分断固として行なえなかったことを完遂することができる、あるいはそれを補完することができるように思えてくる。このことから、準備もなく、綱領もなく、予備力に対する考慮もなく、結果に対する配慮もなく、新しい革命に対する突撃が生じるのである。他方では、権力の座についたブルジョアジーは、いわばこの下からの闇雲の攻撃を待ちうけ、それを人民と最終的に手を切る機会にしようとする。以上が補足的な半革命の社会的・心理的基礎であり、それが歴史上一度ならず、反革命の勝利の出発点となってきたものである。

 1848年、フランスの「7月事件」は6月に発生し、1917年のペトログラードよりもはるかに大規模で悲劇的な様相を帯びた。パリ・プロレタリアートのいわゆる「6月事件」は2月革命から抗しがたい力によって生まれたものである。2月に銃を手にとって闘ったパリ労働者は、すばらしい綱領とみじめな現実との矛盾に反応しないわけにはいかなかった。この耐えがたい対照性が彼らの胃袋と良心を日々傷つけていたからである。計画も綱領も指導部もなかった1848年の6月事件は、プロレタリアートの強力で不可避的な反射行動に似ていた。蜂起した労働者は容赦なく弾圧された。こうして民主主義者たちはボナパルティスムへの道を掃き清めたのである。

 1870年の9月革命とパリ・コミューンの巨大な爆発との関係は、1848年の2月革命と6月事件との関係と同じであった。1871年におけるパリ・プロレタリアートの3月蜂起には戦略的計算の要素がほとんどなかった。それは、状況の悲劇的組み合わせから生じたものであり、フランス・ブルジョアジーが仕掛けた多くの挑発の一つがそれを補完した。フランス・ブルジョアジーは、恐怖によって悪意に拍車がかかっている場合には、そうした挑発を実に巧みに考え出すのである。パリ・コミューンにおいて、ブルジョア革命のまやかしに対するプロレタリアートの反射的決起行動は、はじめてプロレタリア革命の水準にまで高まった。だがそれは高まったとたんに崩壊した。

 現在、スペインにおける無血で平和的で名誉ある革命(この一連の形容詞はいつも繰り返される)は、われわれの眼前でそれ自身の「7月事件」(フランスの暦によるなら「6月事件」、ロシアの暦によるなら「7月事件」)を準備しつつある。マドリード政府は、しばしばロシア語から訳された決まり文句を乱発して、失業と農民の土地不足に対処する広範な措置を約束しているが、社会の古い腫瘍のどれ一つにもあえて手を触れようとしない。連立政府内の社会党は、共和党が革命の課題をサボタージュするのを助けている。スペイン国内で最も工業化され最も革命的な地方であるカタロニアの首脳は、被抑圧民族も被抑圧階級もない社会という千年王国を説教しているが、それと同時に、人民が実際に過去の最も忌むべき束縛から自らを解放しようとするのを助けるためには、あえて指一本動かさないだろう。マシア(10)はマドリード政府の背後に隠れ、マドリード政府は憲法制定議会の背後に隠れている。あたかも実生活がこの議会を待って立ち止まっているかのように! そして、あたかも将来の国会が、いっさいを以前のままにとどめておくことを主要な目的としている社会党=共和党ブロックの拡大された再現にすぎないことがあらかじめ明らかでないかのように!

 労働者と農民の怒りが熱病のように高まるのを予測することは難しくない。大衆の革命的歩みと新しい支配階級の政策との矛盾――これこそが非和解的な衝突の原因であり、この衝突は、今後の発展過程で、第1革命、つまり4月革命を崩壊させるか、それとも第2革命をもたらすかのどちらかだろう。

 もしボリシェヴィキ党がペトログラードの7月運動を「時期尚早」と評価することに固執し、大衆に背を向けていたとしたら、この半蜂起は不可避的にアナーキストや冒険主義者や、大衆の憤怒を偶然表現するにすぎない連中の分散したばらばらの指導のもとに陥り、不毛な痙攣の中で血の海に沈んだことだろう。しかし、反対に、党が状況を全体として判断することを放棄して運動の先頭に飛び出し、成り行きのまま決戦の道を進んでいたとしたら、蜂起は疑いもなく大規模なものに発展し、労働者と兵士はボリシェヴィキ党の指導のもと7月にペトログラードで一時的に権力を獲得することができただろうが、しかしその後、革命の崩壊を準備するだけに終わっただろう。ボリシェヴィキ党の正しい指導のみが、二つのパターンの破滅的危険――1848年6月事件型の危険と1871年のパリ・コミューン型の危険――を避けることができたのである。1917年7月に大衆と党がこうむった打撃は非常に重大なものだった。しかし、それは決定的な打撃ではなかった。何十人という犠牲者が出たが、何万人ではなかった。労働者階級は、首を切り落とされることも、大量出血することもなく試練をくぐり抜けた。労働者階級は、その戦闘的カードルをほぼ完全に維持していた。これらのカードルは多くのことを学び、10月にプロレタリアートを勝利に導いたのである。

 まさにこの「7月事件」の観点から見て、スペインが当面している革命だとされている「中間的」、中庸的革命というフィクションの恐るべき危険性が明らかになるのである。

 

   大衆獲得のための闘争と労働者フンタ

 左翼反対派の義務は、ブルジョア革命ともプロレタリア革命とも異なる特殊な「労農革命」という定式の正体を容赦なく暴露し、これをプロレタリア前衛の意識の中で永遠に恥辱にまみれさせることである。スペインの共産主義者よ、それを信じるなかれ! それは幻想であり欺瞞である。これは明日には諸君の首にかかる首吊り縄になる悪魔のトリックである。スペインの先進的労働者よそれを信じるな! ロシア革命の教訓とエピゴーネンの敗北の教訓を熟考せよ。諸君の前に開かれているのは、プロレタリアート独裁のための闘争という展望である。この課題のために、諸君は自らの周囲に労働者階級をかたく団結させ、この階級に助けられて何百万もの貧農を立ち上がらせなければならない。これは巨人のような仕事である。スペインの共産主義者である諸君らはみな、計りしれないほど大きな革命的責任を負っている。自分の弱さに目を閉じたり、幻想に惑わされたりしてはならない。革命は言葉を信じない。革命はいっさいを検証に付す、しかも血の検証に。ブルジョアジーの支配を覆えすものは、プロレタリアートの独裁でしかありえない。諸君の今の力で達成しうるより「簡単で」より「経済的な」いかなる「中間的」革命も存在しないし、今後も存在しないだろうし、存在することもありえない。歴史は諸君のために、いかなる過渡的独裁も、2等席の独裁も、割引きされた独裁も創り出しはしない。こうした独裁について語る者は諸君をだましているのだ。プロレタリア独裁に向けて準備せよ、真剣に、倦まずたゆまず準備せよ!

 しかし、スペイン共産主義者の直接的課題は、権力獲得のための闘争ではなく、大衆獲得のための闘争である。しかもこの闘争は当面する時期、ブルジョア共和国の基礎の上で、そして最大限に民主主義的スローガンのもとで展開されることになろう。何よりも労働者フンタ(ソヴィエト)の創設は疑いもなく今日の直接的課題である。しかし、フンタを民主主義的スローガンに対立させるのはナンセンスである。教会の特権や修道士団・修道院の専横に対する闘争――純粋に民主主義的な闘争――は、5月に大衆的爆発を引き起こした。これは労働者代表を選出する絶好の条件をつくり出したが、残念ながらその機会は取り逃がされてしまった。

 現段階ではフンタはプロレタリア統一戦線の組織形態である――ストライキのため、イエズス会追放のため、国会選挙への参加のため、兵士との結びつきを確立するため、農民運動を支援するためのそれである。プロレタリアートの基本的中核部分を包含するフンタを通じてのみ、共産主義者はプロレタリアート内で自らのヘゲモニーを確保することができ、したがって革命におけるヘゲモニーを確保することができる。労働者階級に対する共産主義者の影響が増大する度合いに応じてのみ、フンタは権力獲得のための闘争の機関となるであろう。今後のある段階において――それがいつ訪れるかはまだわからないが――プロレタリアートの権力機構となったフンタは、ブルジョアジーの民主主義的諸制度と衝突することになろう。この時はじめて、ブルジョア民主主義の最後の鐘が響き渡るのである。

 大衆は、闘争に引きこまれる場合にはいつでも、党や分派やセクトの上に立って労働者全体を統一行動に結集することのできる権威ある組織の必要性を痛感するし、痛感しないわけにはいかない。選挙で選ばれる労働者フンタはまさにこのような形態でなければならない。しかるべき機会をとらえてこのスローガンを大衆に提起しなければならない。そして、このような機会は、現在では一歩ごとに訪れるだろう。しかし、プロレタリアート独裁の機構としてのソヴィエトのスローガンを現在の現実の闘争と対立させるとすれば、それは、ソヴィエトのスローガンを超歴史的な聖物、超革命的なイコンに転化することを意味するだろう。個々の信者はそうしたイコンにひれ伏すかもしれないが、革命的大衆はけっしてそれに従わないであろう。

 

   スペイン革命のテンポの問題

 だが、まだ正しい戦術を適用する時間はまだ残されているだろうか? 手遅れではないのか? すべての時期は取り逃がされたのではないのか?

 革命の発展テンポを正しく定めることは、戦略の基本的路線を定めるうえではないにせよ、戦術を定めるうえで巨大な重要性を有している。正しい戦術がなければ、最良の戦略的路線も破滅に至るかもしれない。もちろん、テンポを長期にわたってあらかじめ予測することは不可能である。テンポの検証は、闘争の過程の中で、多くのさまざまな現象を手がかりに行なうべきである。さらに、事態の進行過程で、テンポが急激に変化することもありうる。しかし、それでも、一定の展望を念頭に置いておくことは必要であり、経験にもとづいて必要な修正を加えていかなければならない。

 フランス大革命は、その絶頂であるジャコバン独裁に至るのに3年以上の月日を要した。ロシア革命は8ヶ月でボリシェヴィキ独裁に到達した。ここにはテンポの巨大な差が見られる。もしフランスにおける事態の進展がより急速なものだったとしたら、ジャコバン党は、革命前にはまだ党としては存在していなかったのだから、そもそも形成されずに終わっただろう。他方、ジャコバン党が革命前にすでに独自の勢力となっていたなら、事態はおそらくもっと急速に進行しただろう。これがテンポを決定する要因の一つである。しかし、これよりも決定的な要因はおそらく他に存在する。

 1917年のロシア革命には1905年革命が先行した。レーニンはこの革命を[1917年革命の]総稽古と呼んだ。第2革命および第3革命のあらゆる要素はあらかじめ準備されていたため、闘争に参加した諸勢力は、あたかも踏みかためられた道を進むかのごとくであった。こうして、絶頂へと至る革命の上昇が極端に加速されたのである。

 しかし、1917年において革命のテンポを決定した要因はやはり戦争であったと考えなければならない。土地問題もそれだけでは数ヶ月、いや場合によっては数年間も解決が長引いたかもしれない。しかし、塹壕の中の死という問題がこれ以上長引かせることを許さなかった。兵士たちは「俺が死んだら、土地が手に入ってもしょうがない」と言ったものだ。1200万の兵士大衆の圧力が革命を極端に加速した要因だった。戦争がなければ、1905年の「総稽古」やボリシェヴィキ党が存在したとしても、革命の前ボリシェヴィキ的助走段階は、8ヶ月どころか、おそらくは1年、2年、ないしそれ以上続いていたかもしれない。

 以上のような一般的考察は、スペインにおける事態の発展テンポの可能性を見定めるうえで、疑いのない意義を有している。スペインの現在の世代は革命を知らず、過去に「総稽古」を行なってもいない。共産党はきわめて脆弱なまま事件に参加した。スペインは戦争をしていない。スペイン農民は、兵営や塹壕に何百万人も詰め込まれているわけではないし、銃で殺される直接の危険性におびやかされているわけでもない。こうした状況全体からして、事態の発展がより緩慢なものになると予想しなければならないし、したがってまた、党が権力獲得に向けて準備を整える期間がより長期にわたるだろうと期待することができる。

 しかし、反対の方向に作用する諸要因も存在しており、革命の敗北をもたらす早まった決戦の企てを引き起こすかもしれない。すなわち、強力な共産党が存在しないことで運動における自然発生的要素の比重が高まっていること。アナルコ・サンディカリズムの伝統が同じ方向に働いていること。さらに、コミンテルンの誤った指導が冒険主義の爆発に扉を開きつつあること、である。

 このような歴史的アナロジーから引き出される結論は明らかである。すなわち、スペインの状況(近い過去に革命を経験した伝統がなく、強力な共産党がなく、戦争もない)からして、プロレタリアート独裁の通常分娩がロシアよりも相当長期にわたる可能性がきわめて高いが、その代わり革命の流産の危険性も著しく増大する、ということである。

 スペインの共産主義が弱体なのは誤った公式政策の結果であるが、この弱体さはそれはそれで、誤った指令からきわめて危険な結論を引き出す可能性を著しく高めている。弱い者は自分の弱さを直視することを嫌悪し、立ち遅れることを恐れ、神経過敏になり、先手を打とうとする。とりわけスペイン共産党は国会を恐れるかもしれない。

 ロシアでは、憲法制定議会はブルジョアジーによって召集が延期され、決定的なクライマックスの後にようやく召集され、あっさりと解散させられた。スペインの憲法制定議会は、革命のより早い発展段階で召集されるだろう。共産党は、そこに議席を獲得したとしても、取るに足りない少数派にすぎないだろう。このことから次のような考えにいたるのは、それほど難しくはない。人民大衆の何らかの自然発生的攻勢を利用して、できるだけ早急に国会を転覆しなければならない、という考えである。このような冒険は、権力の問題を解決しないだけではなく、反対に革命をはるか後方に後退させ、間違いなく背骨まで折ってしまうだろう。プロレタリアートがブルジョアジーの手から権力を奪い取ることができるのは、労働者の多数派が熱烈にこの目標に向けて行動するときのみであり、そして、被抑圧人民の多数派がプロレタリアートに対する信頼を持つようになった時のみである。

 革命における議会制度に関してだけは、スペインの同志たちはロシアの経験よりもフランス大革命の方を参考にするべきだろう。ジャコバン党独裁に先立って三つの議会が存在した。これは大衆がジャコバン党独裁にまで高まっていくまでの三つの段階に対応している。マドリードの共和党や社会党のように、国会が革命に終止符を打つだろうと考えるのは、愚かなことである。そうではなく、実際には国会は革命の発展に新たな刺激を与え、それと同時に革命に対してもっと規則正しい発展を保障するものである。以上のような展望は、事態の歩みを正しく見定めるうえで、また神経質な反応や冒険主義に対抗するうえで、はなはだ重要なものである。

 言うまでもなく、このことは、共産主義者が革命にブレーキをかけるべきだということを意味するものではない。ましてや、共産主義者が都市と農村における運動や行動から距離をとるべきだという意味ではない。このような政策は、革命的大衆の信頼を得ることがまだようやくこれからの課題である党を破滅に導くだろう。ボリシェヴィキ党が7月事件のときに大衆を破局から救うことができたのはただ、ボリシェヴィキが労働者と兵士のあらゆる闘争の先頭に立ってきたからであった。

 もし、客観的状況とブルジョアジーの悪意によって、プロレタリアートが不利な条件のもとで決戦に突入することを余儀なくされたとしたら、言うまでもなく共産主義者は闘争の第一線に立つであろう。革命党は、脇に退いて道徳的教訓を垂れ、労働者を指導もなくブルジョアジーの銃剣の前に立たせるぐらいなら、むしろ自らの階級とともに粉砕される方をいつでも選ぶであろう。戦闘の中で粉砕された党は、大衆の心の中に深く根を下ろすことができ、遅かれ早かれ復讐に立ち上がることができる。しかし、危機の瞬間に自らの階級から飛び離れた党は永遠に復活することはない。しかしながら、スペインの共産主義者はけっしてこのような悲劇的ジレンマの前には立たされていない。逆に、次のように考える十分な理由があると言えよう。すなわち、政権に就いた社会党の恥ずべき政策とアナルコ・サンディカリストの惨めな茫然自失状態がますます労働者を共産主義の側に押しやり、党には――正しい政策をとるかぎりにおいて――プロレタリアートの勝利を準備しそれを実現する十分な時間がある、と。

 

   共産主義者の隊列の統一のために!

 スターリニスト官僚の最も悪らつな犯罪の一つは、スペイン共産主義の数少ない隊列の中に系統的に分裂を持ちこんだことである。この分裂は、スペイン革命の諸事件から生じたものではなく、自己保存のために闘うスターリニスト官僚の指示から生じたものである。革命は常にプロレタリアートの中に左翼への強力な引力をつくり出す。

 1917年のロシアでは、ボリシェヴィキに近いあらゆる潮流・グループが、以前にはボリシェヴィキ党と闘ったグループでさえ、ボリシェヴィキに合流した。党は急速に成長しただけでなく、嵐のような激しい党内生活を経験するようになった。4月から10月にかけて、さらにその後の内戦の数年間、ボリシェヴィキ党内の諸潮流・諸グループ間の闘争は、しばしば途方もない先鋭さに至った。しかし分裂は起らなかった。ただ一人の除名さえ起こらなかった。大衆の強力な圧力が党を団結させたからである。党内闘争は党を教育し、党に対してその進むべき道を明らかにした。この闘争において、すべての党員は党の政策の正しさと指導部の革命的安定性に対する深い確信を身につけた。指導部が必要な時期に全党を闘争に立ち上がらせることができたのは、ひとえに経験と思想闘争の中で獲得された下部ボリシェヴィキ党員のこのような確信によるものであった。そして党の政策の正しさに対する党自身の深い確信のみが、労働者大衆に党に対する信頼を喚起することができるのである。

 外部から押しつけられた人為的グループ再編、自由で誠実な思想闘争の不在、友人を敵と偽ること、共産主義者の隊列に分裂の種をまく伝説の捏造――まさにこうしたものが、現在、スペイン共産党を麻痺させている。共産党は、同党を無力化させている官僚主義的万力から脱しなければいけない。共産主義者の隊列を、公然たる誠実な討論にもとづいて結束させなければならない。スペイン共産党の統一大会を準備しなければならない。

 状況を複雑にしているのは、スペインにおいて、公式のスターリニスト官僚組織が少数で弱体であるだけでなく、形式的にはコミンテルンの外部に存在する反対派諸組織――カタロニア連合とマドリードの独立グループ(11)――も明確な行動綱領を持っておらず、いっそう悪いことに、これらの組織のかなりの部分が、ボリシェヴイズムのエピゴーネンの8年間にたっぷりと撒き散らされている偏見のとりことなっていることである。「労農」革命についても、「民主主義独裁」についても、「労農党」についてさえも、カタロニアの反対派は必要な明確さを欠いている。このことは危険性をますます増大させている。共産主義者の隊列の統一を再建するための闘争は、スターリニズムのイデオロギー的腐敗と偽造に対する闘争と結びつかなければならない。

 これは左翼反対派の課題である。しかし、ここでも苦い真実を語らなければならない。すなわち、スペインの左翼反対派はまだほとんどこの問題の解決に着手していないことである。左翼反対派に属するスペインの同志諸君が、今のところ自前の機関紙誌さえ創刊していない状況は、許しがたい時間の損失であり、革命はこの罪をけっして見逃しはしないだろう。われわれの同志たちがどれほど困難な条件下に置かれているかは、われわれも承知している。彼らは、プリモ・デ・リベラ時代にも、ベレンゲル時代にも、サモラ時代にも、絶えず警察の迫害を受けてきた。たとえば同志ラクロワ(12)は、監獄から出るやいなや、すぐにそこに引き戻される。コミンテルンの機構は、革命の指導に関しては無力であるが、迫害と中傷にかけては大いに能動性を発揮する。以上のことはわれわれの仕事を極度に困難にしている。それでもわれわれはやらなければならない。必要なのは、全世界の左翼反対派の力を結集し、雑誌とブレティンを創刊し、青年労働者を組織し、グループを創設し、正しいマルクス主義的政策にもとづいて共産主義者の隊列の統一のために闘争することである。

※原注 現在では、スペイン反対派の理論誌『コムニスモ』がすでに発行されている――編集部。

L・トロツキー

1931年5月28日、カディコイ

『反対派ブレティン』第21/22号

新規

  訳注

(1)4月革命……1931年4月に実施された地方自治体選挙において、大都市圏では共和党と社会党が多数を占めたが、地方を支配するカシケ制度のおかげで得票全体としては右派政党が多数を占めた。しかし、選挙後に起こった全国的な大衆デモに押されて、アルフォンソ13世は退位を表明し、無血のうちに共和革命が実現した。

(2)「スペイン革命に関する論文」……『反対派ブレティン』第19号に掲載された論文「スペイン革命」のこと。

(3)アルフォンソ13世(1886-1941)……スペイン国王。在位は1886〜1931年。1931年の4月革命で王位を追われ、イタリアへ亡命。

(4)ペリ、ガブリエル(1902-1941)……フランス共産党の機関紙『ユマニテ』の外国編集部員。彼はスペインの事件について外電を新聞に送っていたが、その内容が誤りに満ちていたため、スペインの読者の反感を買った。第2次大戦中にナチスによって銃殺される。

(5)サモラ、ニケト・アルカラ(1877-1949)……スペインの保守政治家、大地主。進歩党の党首。1931年4月に成立した第1次共和政権の最初の首相。1931年6月から1936年5月までスペイン共和国大統領。

(6)ベレンゲル・フステ、ダマーソ……スペインの反動的将軍。1930年1月にプリモ・デ・リベラ独裁政権が倒壊した直後に、アルフォンソ13世によって臨時政権の長に任命される。1931年2月に国内世論によって辞任に追い込まれる。

(7)『反対派ブレティン』に掲載された「スペイン革命、日々刻々」のこと。現代思潮社版の『スペイン革命と人民戦線』に訳出されている。

(8)汪精衛(おう・せいえい/Wang Ching-wei)(1884-1944)……本名は汪兆銘。中国の国民党左派指導者。武漢政府の首班。コミンテルンは、蒋介石の1927年4月のクーデター後、この武漢政府をたよりにしたが、汪精衛はこのクーデターからわずか6週間後に労働者弾圧を開始した。1929年から31年まで反蒋運動に従事。対日妥協政策を主張し、抗戦派と対立。1940年、日本の傀儡政権を南京に樹立し、その主席となる。日本の名古屋で病死。

(9)レルー・ガルシア、アレハンドロ(1864-1949)……スペイン急進党の指導者。1933年から1936年まで首相。

(10)マシア・イ・リュサ、フランシスコ(1859-1933)……スペインの軍人・政治家。バルセロナの下層中産階級の党であるカタロニア・エスケラ党の指導者。工兵大佐のときにカタロニア独立運動を行ない、1931〜33年にカタロニア自治共和国の初代大統領に。

(11)マドリードの独立グループ……1931年にスペイン共産党の官僚主義手方法に反対して除名されたグループ。左翼反対派の政綱には賛成しなかったが、反対派との討論には同意した。

(12)ラクロワ、アンリ(1901-1939)……スペインの革命家、左翼反対派。フランシスコ・ガルシア・ラビドのペンネーム。労働者出身で、スペインのビスケー地方の共産党を組織。1925〜27年、ソ連滞在中に左翼反対派に。スペインの左翼反対派の組織がベルギーに亡命していた時期のスペイン左翼反対派の中心的指導者の一人。1930年6月にスペインで逮捕され、王政崩壊後に釈放される。1931年6月の第2回大会および中心的指導者が何度か逮捕されたときに、書記長になる。1932年11月以後、彼はニンと決別し、スペイン左翼反対派に対する批判ではトロツキーが正しいと主張するブレティンを発行。1933年には、「資金の不正流用」を理由にスペイン支部から除名された。その後、社会労働党に加入し、内戦中は部隊を率いる。1939年1月、スターリニストの情報部将校によって元トロツキストと認定されて逮捕されて、フランス国境まであとわずか十数メートルのところで絞首刑にされた。

 

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