スペイン共産主義者の課題

(スペイン左翼反対派機関紙『流れに抗して』編集部への手紙)

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、1930年のリベラ独裁崩壊によってはじまったスペイン革命の問題についてトロツキーが公式にまとまった形で展開した最初のものである。この手紙の宛て先である『流れに抗して(Contrala Corriente)』はベルギーに亡命していたスペイン左翼反対派のメンバーによって創刊された最初の機関紙。

 この手紙の中でトロツキーは、革命的ヘゲモニーを確立するためには民主主義的スローガンに基づく闘争を共産主義者が精力的かつ大胆に取り組むことが必要であると主張している。また、カタロニア人民の、分離権を含めた自決権を保障するために共産主義者が全面的かつ誠実に闘争することを主張している。

 本稿が最初に邦訳されたのは、現代思潮社の『スペイン革命と人民戦線』であるが、それはフランス語からの重訳であるので、今回、『反対派ブレティン』所収のロシア語原文にもとづいて全面的に訳し直されている。

Л.Троцкий, Задачи испанских коммнистов (Письмо Редакции газеты Contra la Corriente, органа левой коммуистической оппозиции в Испании), Бюллетень Оппозиции、No.12/13, Июнь-Июль 1930.


 親愛なる同志諸君! 諸君の機関紙の第1号の発行を心から歓迎する。スペインの共産主義左翼反対派が舞台に登場するのは、例外的に有利な時期であり、同じぐらい責任重大な瞬間である。

 現在スペインで進行している危機的事態はかなり規則的に展開されており、それゆえプロレタリア前衛には、準備のための一定の時間がある。しかし、この時期が長く続くかどうかはわからない。

 プリモ・デ・リベラ()の独裁は、革命によってではなく、内的に使い果たされた結果として倒壊した。これは、言いかえると、第一段階では、問題は旧社会の病気によって解決されたのであって、新社会の革命的力によって解決されたのではないということを意味している。これは偶然ではない。独裁体制は、ブルジョア階級の目から見て、革命的大衆を粉砕する差し迫った必要性によっては正当化されなくなったと同時に、経済、金融、政治、文化の各分野におけるブルジョアジーの必要と矛盾してしまった。しかし、ブルジョアジーは最後の瞬間まで全力を挙げて闘争を回避し、独裁がウジのわいた果実のように腐って落ちるまで放っておいた。

 このことが起こった後、さまざまな階級は、それぞれの政治団体を通じて、人民大衆の前で公然たる立場を取らなければならなくなった。そして、ここでわれわれは一個の逆説的現象を目にする。その保守主義ゆえに軍事独裁と何らまともに闘争しようとしなかったブルジョア諸政党は、今ではこの独裁の全責任を王政になすりつけ、自ら共和主義者と称している。たしかに、独裁がつねに王宮のバルコニーに結びつけられた細い糸で操られていたとか、あるいは、全力を挙げて小ブルジョアジーの行動を麻痺させ都市と農村の労働者を踏みにじっていたブルジョアジーの最も富裕な層からの――時に積極的な、時に消極的な――支持にもとづいていなかったと考えることもできるだろう。

 しかし、その結果はどうだろうか? 労働者や農民、都市の小市民、若手知識人だけでなく、大ブルジョアジーのほとんどすべても共和主義者であるのに、あるいはそう自称しているのに、王政はあいかわらず存在し活動している。プリモ・デ・リベラが王政に糸で操られていたとしたら、これほどまでに「共和主義的」な国の王政とは、いったいどんな糸で操られているのだろうか? 一見したところ、これはまったくの謎のように思える。しかし、秘密はそれほど込み入ったものではない。プリモ・デ・リベラに「我慢してきた」この同じブルジアジーは、実際には、リベラを支持してきたし、現在は君主制をも支持しているのである。彼らはこれを、自分に残された唯一の手段によってやった。すなわち、共和主義者を自称し、そうすることで小ブルジョアジーの心理に取り入り、それによっていっそう確実に小ブルジョアジーをだまし麻痺させることによって、である。

 事態を脇から眺めるならば、この光景は、その深いドラマ性にもかかわらず、喜劇的な要素に事欠かない。王政は「共和主義」ブルジョアジーの背中の上に座っているが、ブルジョアジーは急いで体を起こすつもりはまったくない。ブルジョアジーは貴重な荷を背負ったまま、大騒ぎしている人民大衆の中に分け入り、抗議や要求や罵声に答えて、サーカスの呼び子の声でこう叫ぶのである。「よってらっしゃい、見てらっしゃい、俺の背中に乗っているこの人物を。こいつは俺の不倶戴天の敵だ。こいつの罪を数えあげよう。さあもっとよく見てやってくれ!」、云々。そして、この道化芝居を大いに楽しんだ群集がからかい気味に笑いはじめると、ブルジョアジーはそのときを利用して荷物をもう少し先まで運ぶのである。これを王政に反対する闘争だと呼ぶのなら、王政に賛成の闘争をどう呼べばいいのか?

 プリモ・デ・リベラの独裁から「解放」されたが、その遺産のいっさいの基本的要素は手つかずのまま残されている。学生の積極的行動は、そうした国の置かれている不安定な均衡を解決しようとするブルジョアジー、とりわけ小ブルジョアジーの若い世代の試みである。ブルジョアジーが、ブルジョア社会の危機から生じた課題を解決することを意識的かつ頑強に拒否するとき、そしてプロレタリアートにこの課題の解決を引き受ける準備がまだないとき、しばしば学生が舞台の前面に出てくる。ロシアの第1革命の際、こうした現象は一度ならず見られ、それはつねにわれわれにとって巨大な徴候的意義を有していた。学生の革命的ないし半ば革命的な活動は、ブルジョア社会がきわめて深刻な危機にあることを示唆している。小ブルジョア青年は、大衆の中に爆発的なカが蓄積されていくのを感じて、自分なりにこの袋小路からの活路を見つけ出し、政治的発展を前に押し進めようとしているのである。

 ブルジョアジーは学生運動のことを、共感と警戒心が相半ばする気持ちで見ている。もし青年の精鋭部隊が君主制官僚にいくらか打撃を与えるならば、この「子供たち」が行きすぎないかぎり、とりわけ勤労大衆を立ち上がらせないかぎり、結構なことである。

 スペインの労働者は学生の行動を肩で支えることによって、まったく正しい革命的本能を発揮した。もちろん、彼らは自分自身の旗のもとで、自らのプロレタリア組織の指導のもとでそれをしなければならない。このことを保障するのはスペインの共産主義者の義務であり、そのためには正しい政策が不可欠である。まさにそれゆえ、諸君の機関紙は、すでに述べたように、危機全体の発展におけるきわめて重要で決定的な時期に符合して、もっと正確に言うと、革命的危機が革命に転化する準備期に――そしてあれこれの段階を経て革命に転化しうる時期に――ちょうど創刊されたと言えるのである。

 労働者のストライキ運動、反合理化・反失業闘争は、小ブルジョア大衆が激烈な不満を抱き、体制全体が深刻な危機に直面している状況においては、通常とはまったく異なった、はるかに深刻な意義を持つ。この労働者の闘争は、全国民的危機から生じるいっさいの問題と密接に結びつかなければならない。労働者が学生と並んで行動に立ち上がったという事実は、革命的ヘゲモニーのためのプロレタリア前衛の闘争に向けた――もちろんまだまったく不十分で不確実だが――最初の一歩である。

 この道は、共産主義の側から、民主主義的スローガンのために断固として大胆かつ精力的に闘争することを前提としている。このことを理解しない者は、重大なセクト主義的誤謬を犯すことになろう。革命の現段階において、プロレタリアートが当面の政治的スローガンの領域で他のあらゆる小ブルジョア的「左翼」グループと異なるのは、アナーキストやサンディカリストのように民主主義を否定する点ではなく、小ブルジョアジーの中途半端さを容赦なく暴露しつつも、民主主義的スローガンのために大胆かつ断固として献身的に闘争する点にある。

 民主主義的スローガンを前面に押し出すからといって、プロレタリアートは、スペインが「ブルジョア」革命に向かっていると言おうとするのではない。このように問題を提起するのは、出来合いの定式を詰め込んだ無力な衒学者だけである。ブルジョア革命の時代はスペインではとっくに過ぎ去っている。革命的危機が革命そのものに転化する場合には、それは必然的にブルジョア的限界を乗り越えるだろうし、革命が勝利したあかつきには、権力はプロレタリアートに移行するだろう。しかし、プロレタリアートが革命をこの段階にまで持っていくことができるのは、すなわち最も広範な勤労大衆と被抑圧大衆を自らの周囲に結集して、その指導者となることができるのは、プロレタリアートが今から自らの階級的諸要求と並んで、そしてそれと緊密に結びつけて、あらゆる民主主義的諸要求を全面的かつ徹底的に展開する場合のみである。

 このことは、何よりもまず農民との関係で決定的な意義を持つことになるだろう。農民が、プロレタリアートをアプリオリに信頼してプロレタリア独裁というスローガンをあらかじめ無条件に受け入れる、ということはありえない。膨大な数の被抑圧階級である農民は不可避的に、ある一定の段階で、民主主義的スローガンのうちに、被抑圧者が抑圧者を凌駕する可能性を見出す。農民は不可避的に、政治的民主主義のスローガンと土地所有の急進的な再分配とを結びつける。プロレタリアートは、この二つの要求を献身的に支持することを自らに引き受ける。そのさい、共産主義者は時機を失せず、プロレタリア前衛に対して、いかなる手段を通じてこれらの要求を実現することができるかを説明し、こうして将来のソヴィエト制度の前提条件を据えるのである。

 民族問題においても、プロレタリアートは民主主義的スローガンを徹底させ、さまざまな民族集団の、分離権をも含む自決権を、革命的手段によって支持する用意があると宣言する。

 だが、プロレタリア前衛は、カタロニアの分離を自らのスローガンにするのだろうか? もしそれがカタロニア人民の多数派の意思であることが明らかになるならば、そうするだろう。しかし、この意志はいかにして表現されるのか? 明らかに、自由な国民投票か、カタロニアの代表者会議か、カタロニア人民を代表する有力政党による意思表明か、さもなくばカタロニアの民族蜂起によってである。ついでに言っておくと、このことはまたしても、現在プロレタリアートの側から民主主義的スローガンを放棄することがどんなに反動的な衒学主義であるかを示している。しかしながら、少数民族の意志が示されないうちは、プロレタリアートは分離のスローガンを自らのスローガンにすることはない。今はただ、このスローガンがカタロニア人民の多数派の意志を示すものである場合にはそれを全面的かつ誠実に支持するだろうと、前もって公然と保証するだけである。

 言うまでもなく、カタロニアの労働者がこの問題で決定権を持っているわけではない。現在の危機がスペイン・プロレタリアートの前に広大で大胆な展望を切り開いている現在の状況のもとでは、勢力をばらばらにするのは正しくないという結論に至ったならば――そして、政治的理性はこのような解決策を示唆しているように私には思われるのだが――、カタロニアの労働者は、カタロニアが――しかるべき原理にもとづいて――スペインの構成部分にとどまることを支持するアジテーションを遂行するべきであろう。このような解決策は、断固たる分離主義者でも一時的に受け入れるだろう。なぜなら、革命が勝利をおさめた場合には、カタロニアの自決を達成することは、その他の諸要求と同じく、今よりはるかに容易になるのはまったく明らかだからである。

 共産主義前衛は、人民大衆の真に民主主義的で革命的なあらゆる運動を支持しながら、いわゆる「共和派」ブルジョアジーに対しては容赦のない闘争を遂行し、その不実と裏切りと反動性を暴露し、勤労大衆を従属下に置こうとする彼らの試みに打撃を与える。

 共産主義者は、いかなる条件下においても、自ら政策の手をけっして縛らない。革命期においてこの種の誘惑がいかに大きいかを忘れてはならない。中国革命の悲劇的歴史はこのことをはっきりと証明している。共産主義者は、自らの組織とアジテーションの完全な独立性を非妥協的に守りつつも、革命によって広大な活動領域を与えられる統一戦線政策を最も広範囲に適用する。

 左翼反対派は公式の共産党との統一戦線政策を適用しはじめている。左翼反対派が公式共産党の旗に従っている労働者と敵対関係にあるかのような印象を党官僚がつくり上げるのを許してはならない。それどころか左翼反対派には、共産党労働者のあらゆる革命的行動に参加し、闘争において彼らと行動をともにする用意があるのである。もし官僚が反対派との共闘を拒否するならば、労働者の目から見て、官僚がその責任を負う形にならなければならない。

 スペインの危機がさらに発展することは、数百万の勤労大衆が革命的に覚醒していくことを意味する。彼らが一気に共産主義の旗の下に結集すると考える根拠はまったくない。反対に、彼らがまず最初に小ブルジョア急進主義の党を、すなわち何よりも社会党を強化し、――たとえば1918〜1919年革命の際のドイツ独立社会民主党のように――その左翼を強めるということは、大いにありそうなことである。大衆の広範で実質的な急進化は、まさにこうした点に現われるのであって、けっして「社会ファシズム」の成長のうちに現われるのではない。ファシズムが再び勝利を収めることができるとすれば、しかも今度はより「軍事的」タイプではなく、より「社会的」なタイプとして、まさにムッソリーニ型の「社会ファシズム」として勝利しうるとすれば、それはただ、革命の敗北と裏切られた大衆の幻滅の結果としてのみである。しかし、今日のように事態が順調に発展している場合には、敗北は、共産党指導部の途方もない前代未聞の誤りの結果としてしかありえない。

 階級的力関係の日和見主義的評価と結びついた口先だけの急進主義とセクト主義、ジグザグ政策、官僚主義的指導、一言で言えば、スターリニズムの本質を構成するあらゆるもの、これこそが社会民主主義の立場を強化しているのである。社会民主主義は、ドイツとイタリアの革命の経験がとりわけはっきりと示しているように、究極的にはプロレタリアートの最も危険な敵である。大衆の面前で社会民主主義に対する信用を政治的に失墜させなければならない。しかし、これは、激しい糾弾の言葉だけでは無理である。大衆というものは、自らの集団的経験のみを信用する。革命の準備期において、共産主義の政策と社会民主主義の政策とを事実を通じて比較する可能性を大衆に与えなければならない。

 大衆を獲得するための闘争は間違いなく、共産主義者の側が社会民主主義者との統一戦線を大衆の面前で提起する条件をつくり出す。リープクネヒトは何度となく、独立社会民主党と、とりわけその左翼と協定を結んだ。われわれも、左翼「社会革命党」と直接にブロックを結んだし、10月革命までは、メンシェヴィキ国際主義派と一連の部分的協定を結び、われわれの側から何十回も統一戦線の提案を行なった。このような政策の結果としてわれわれが失ったものは何もなかった。もちろん、問題になっているのは、英露委員会のようなタイプの統一戦線ではない。このとき、スターリニストは、革命的ゼネストが行なわれている最中にストライキ破りとブロックを結んだ。また、言うまでもなく国民党型の統一戦線でもない。このとき、スターリニストは、労農同盟という欺瞞的なスローガンのもと労働者と農民に対するブルジョアジーの独裁を保証したのである。

 以上が、外部から見たかぎりでの展望と課題である。私は以上の考察がいかに具体性を欠いているかをよく心得ている。私がきわめて重要ないくつかの事情を見落としたということは、ありうるだけでなく、確実でさえある。諸君にはよりはっきりとそれが見えることだろう。マルクスの理論とレーニンの革命方法を身につけている諸君は、自ら道を切り開いていくだろう。労働者階級の思考と感情を感じとり、それに明確な政治的表現を与えることができるだろう。この文章の目的はただ、三つのロシア革命の経験によって検証された革命的戦略の原則を一般的な形で確認することだけである。

諸君のL・トロツキー

1930年5月25日

『反対派ブレティン』第12/13

新規

  訳注

(1)プリモ・デ・リベラ、ミゲル(1870-1930)……スペインの軍人、独裁者。1923年、カタロニア軍管区総司令官のときに、国内の不安定化に乗じてクーデターを遂行。軍人から成る執政政府を樹立。1930年、世界恐慌下で財政政策に失敗して失脚。その息子、ホセ・アントニオは、ファシスト政党「フェランヘ党」を結成。

 

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