スペイン革命の戦略と戦術

トロツキー/訳 西島栄

【解説】この手紙は、スペイン革命の問題を国際左翼反対派全体および各国支部の中心問題とするために書かれたものであり、おそらくは国債書記局に宛てられたものであろう。トロツキーは手紙の中で、スペイン革命の基本的諸問題を簡潔に要約しており、それをふまえて左翼反対派の各国支部がなすべき課題について具体的に提案している。

 本稿の最初の邦訳は『スペイン革命と人民戦線』(現代思潮社)であるが、今回、英語版の『スペイン革命 1931-39』にしたがって訳し直している。なお、論文のタイトルについてだが、英語版では「革命の性格」となっていたが、手紙の趣旨に沿ってより適切な題名に改めておいた。

L.Trotsky, The Character of the Revolustion, The Spanish Revolution 1931-39, Pathfinder,1973.


 今日、事態の推移は、国際左翼反対派として見解を表明することができるし、そうしなければならない一つの重大な問題を日程にのせた。私はスペイン革命のことを言っているのである。いま問題になっているのは後からの批判などではない。国際左翼反対派にとって、問題は破局を未然に防ぐために事態に積極的に介入することである。

 われわれの勢力はきわめて乏しい。しかし、革命情勢の優位性は、小グループであっても、正しい予測を立て時機を失せず正しいスローガンを掲げるならば、短期間に大きな勢力になりうるという点にある。私は、事態に直接引き入れられるわがスペイン支部のことだけではなく、すべての支部について言っているのだ。なぜなら、スペイン革命が発展すればするほど、それは全世界の労働者の注目を集めることになるからである。政治路線の検証は世界のプロレタリア前衛の眼前で行なわれる。われわれが本当に左翼であるなら、そしてわれわれの真の強みが本当にその正しい革命的概念にあるのならば、この強みを革命情勢の中でとりわけ鮮やかに示さなければならない。そして、われわれが本当に国際主義者であるならば、われわれはこの仕事を国際的規模で行わなければならない。

 二つの根本問題を正面からずばり提出しなければならない。1、スペイン革命の全般的性格およびそこから生じる戦略的路線、2、民主主義的スローガンおよび議会的・革命的可能性の正しい戦術的利用の問題。

 私はスペインに関する最近の論文(1)の中で、これらの問題に関してその本質的な点を全面的に述べようと試みた。そこでここでは、コミンテルンの全戦線にわたって攻勢に転じるべき一般的諸問題について手短に私見を述べるにとどめたい。

 スペインにおいて、すでに完遂された共和革命と来るべきプロレタリア革命とのあいだに中間的な革命、すなわち「民主主義独裁」を伴なういわゆる「労農革命」を期待すべきだろうか? イエスかノーか? いっさいの戦略路線はこの問いに対する回答によって決定される。公式のスペイン共産党はこの根本問題についてはイデオロギー的混乱にどっぷりつかっている。この混乱はエピゴーネンによって蒔かれてきたものであり、それはコミンテルンの綱領の中に表現されている。われわれは今や、生きた諸事実という光に照らして、この中庸的で中間的な革命という虚構のもつあらゆる無内容さ、いっさいのナンセンスを暴露し、それと同時にそれの持ついっさいの恐るべき危険性を日々暴露するチャンスを持っている。

 すべての支部の指導的同志たちは、まさに左翼たるわれわれこそが堅固な科学的基礎の上に立つべきであることを忘れてはならない。さまざまな観念と無思想に戯れたり、ランダウ(2)式のジャーナリスティックな大法螺を吹いたりすることは、プロレタリア革命組織としての本質そのものに反することである。技師が物体の抵抗を調べたり、医師が解剖学や病理学を研究したりするのと同じように、革命の基本的諸問題を研究しなければならない。永続革命の問題は、スペインの事態のおかげで、今や国際左翼反対派の中心的問題になった。

 民主主義的スローガン、選挙の利用、さらには国会の利用といった諸問題は、戦略の一般的問題に従属する革命的戦術の問題である。しかし、戦略的定式がいかに正しくても、それぞれの局面においてこの定式に戦術的解決が与えられなければ無価値である。

 だが以上の観点から見ると、スペインの状況ははなはだまずい。フランスの新聞の特電によれば、カタロニア連合の指導者マウリン(3)は、マドリードでの演説で、自分の組織は選挙には参加しない、なぜなら選挙の「誠意」が信じられないからだと断言したそうである。これが本当だというようなことはありうることだろうか? もし本当だとすれば、それが意味するのは、マウリンがプロレタリアートの諸勢力の動員という見地からではなく、道徳と小ブルジョア的センチメンタリズムの見地から革命的戦術の諸問題にアプローチしているということである。2週間前なら、私は、ブルジョア新聞がたわごとを書いているのだと考えたことだろう。しかし、カタロニア連合の政綱を知った今となっては、このニュースがいかに途方もないものであっても、それがけっしてありえないものではないこと、あらかじめ排除してはならないことを認めないわけにはいかない。

 この分野で、われわれは、自分自身の陣営内で仮借なき闘争を開始しなければならない。他の諸グループと共通の原則的基盤がまったくないときに、これらのグループと書記局の機能や権限や特権に関して言い争ったりすることはまったく馬鹿げた無価値なことである。私が念頭においているのは何よりも「プロメテオ」グループ(4)である。このグループは戦略と戦術のあらゆる根本問題に関して、ボリシェヴィキ・レーニン主義者と意見を異にしている。こうした根本的な意見の相違を、組織問題における騒々しい言い争いや、必らず舞台裏の陰謀に堕落してしまう無原則な「ブロック」などによってもみ消すようなことを、何人にも許してはならない。

 ロシアの経験後、革命における民主主義的スローガンの問題は、中国の闘争の過程で改めて提起された。しかし、ヨーロッパのすべての支部に、この闘争の全段階をつぶさに検討する機会があったわけではなかった。それゆえ、この問題に関する議論は、一部の同志、一部のグループにとっては多少なりともアカデミックな性格を有するものであった。しかし今日では、これらの問題は闘争の、生活の中心そのものになっている。このような重大な歴史的転換期に、手足を縛られたままでいることを許容しうるだろうか? まさに戦争にまで発展する恐れのあった中ソ紛争の時期、ソ連邦と蒋介石のいずれを支持すべきかというような議論の中で自分を見失ってはいけなかったのと同様、今日のスペインの事態を前にして、われわれは、一部のグループのセクト的・半バクーニン的迷信に対し、たとえ間接的であってもその責任を引き受けてはならない。

 私の実践的提案は要約すると次のようになる。

 1、すべての支部はスペイン革命の諸問題を日程にのせなければならない。

 2、われわれの支部の指導部は、問題を深く掘り下げるための、とりわけ公式の諸党の活動とこれらの党がスペイン革命の諸問題をどのように提起しているかを注意深く研究するための資料収集を課題とする特別委員会を創設しなければならない。

 3、スペイン共産主義(あらゆる傾向のそれ)に関する重要な諸文書を、少なくとも抜粋の形ででも、われわれの各国支部すべてに定期的に伝えなければならない。

 4、必要な準備が整ったのち、反対派の各国支部はスペイン革命におけるコミンテルンの政策に攻撃を開始しなければならない。この攻撃には、新聞記事、批判決議、公開状、集会への介入、個人の著作、グループの著作など、さまざまの形態がありうる。しかし、これら形態はいずれも厳格に調整されていなければならない。

 5、各国支部および国際書記局における一定の準備活動に続いて、スペイン革命に関する国際左翼反対派の宣言を起草することがどうしても必要である。この宣言は、できるだけ具体的な形で、そしてスペイン支部との緊密な協力のもとに作成されるべきである。この宣言はできるだけ広範囲に配布されるべきである。

 以上が私の具体的提案である。これを討論にかけるようお願いする。それと同時に、すべての支部で討論が並行して行なわれうるよう、この手紙のコピーを各国支部に送付していただきたい。

1931年6月18日

『スペイン革命 1931-1939』(パスファインダー社)所収

新規

  訳注

(1)「スペイン革命とそれを脅かす危険」のこと。

(2)ランダウ、クルト(1903-1937)……オーストリアの左翼反対派、後にドイツの左翼反対派。1931年に反対派と決別し、独自のグループを結成。後にドイツからフランスに亡命し、さらにスペインに入国してPOUMを支援。1937年にスターリニストに拉致され暗殺される。

(3)マウリン、ホアキン(1897-1973)……スペインの労働運動活動家、CNT指導者、共産主義者。ブハーリンの右翼反対派を支持して1929年にスペイン共産党から追放。カタロニア労農ブロックを組織。1935年、アンドレウ・ニンと協力して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年に内戦が勃発したとき、POUMの国会議員であったマウリンはフランコの軍隊に逮捕され、投獄された。1947年、釈放されると、アメリカに亡命していっさいの政治活動をやめてしまった。

(4)「プロメテオ」グループ……イタリアの左翼共産主義グループで、ボルディガを支持するグループ。1929年にトロツキズムのかどで除名されたメンバーによって結成された。国際左翼反対派は同グループと恒常的な協力関係を打ちたてようと努力したが、統一戦線の問題や民主主義的スローガンの問題をめぐって根本的に意見を異にしたため、それに成功しなかった。

 

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