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『ナチャーロ』の発刊

トロツキーが創刊した『ナチャーロ』

(写真は『ナチャーロ』の第1号、11月13日付)

 「ペテルブルク・ソヴィエトでは、私は、自分の生まれた村にちなんでヤノフスキーと名乗っていた。印刷物にはトロツキーと署名していた。私は3つの新聞で働いていた。パルヴスといっしょに『ルースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)』という小規模な新聞の編集部を掌握し、それを大衆向けの戦闘的機関紙に変えた。同紙の発行部数は、数日のうちに3万部から10万部に拡大した。1ヵ月後には、注文部数は50万部になった。しかし、印刷技術が部数の増大に追いつかなかった。そして結局、この困難からわれわれを救い出してくれたのは、政府による弾圧であった。

 11月13日、われわれはメンシェヴィキと協力して、大規模な政治機関紙『ナチャーロ(出発)』を創刊した。発行部数は、日をおってどころか、時間をおって拡大した。レーニンのいないボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』はぱっとしなかった。それにひきかえ『ナチャーロ』は巨大な成功をおさめた。思うに、それは、この半世紀に現われたいかなる刊行物よりも、その古典的原型たる、1848年におけるマルクスの『新ライン新聞』に似ていた。当時、『ノーヴァヤ・ジーズニ』の編集部にいたカーメネフは、後年、私にこう語っている。鉄道での移動中、彼は各駅の売り子が着いたばかりの新聞を売っているのを眺めていた。ペテルブルクからの列車が到着すると、駅には長蛇の列ができていた。お目当てはもっぱら革命的刊行物であった。

 『ナチャーロ、ナチャーロ、ナチャーロ!』と列の中から声がかかった。『ノーヴァヤ・ジーズニ!』。するとまたもや、『ナチャーロ、ナチャーロ、ナチャーロ!』。

 『当時』、とカーメネフは告白した――『僕はくやしい思いを抱きながらもこう自分に言い聞かせたものだ。なるほど、『ナチャーロ』の連中は、われわれよりも優れた記事を書いているんだ、とね』。

 私は、『ルースカヤ・ガゼータ』と『ナチャーロ』以外に、ペテルブルク・ソヴィエトの公式機関紙『イズベスチヤ(通報)』の社説を書き、さらにまた、多数のアピール、宣言、決議を書いた。最初のソヴィエトが存在していた52日間、ソヴィエト会議、執行委員会、絶え間ない会合、3つの新聞への執筆などで、ぎっしり仕事がつまっていた。この渦の中でいったいどうやって日々を過ごしていたのか、今となっては私自身にもはっきりしない。過去のこととなると、多くのことがわからなくなるものである。なぜなら、記憶から当事者の能動性の要素がすっぽり抜け落ちてしまい、自分自身を横から眺めることになるからである。そして、われわれはこの時期、十分すぎるほど能動的だったのだ。われわれは渦の中をぐるぐる回っていただけでなく、渦そのものをつくり出していた。あらゆることが駆け足で行なわれたが、結果はそれほど悪くはなく、非常にうまくいったことも多々あった。『イズベスチヤ』の名目上の編集長である老民主主義者のD・M・ゲルツェンシュテイン博士は、黒いフロックコートを申し分なく着こなして、時おり編集局に立ち寄り、部屋の中央に立って、愛情のこもったまなざしでわれわれの混沌ぶりを眺めていた。1年後、彼は、自分がいかなる影響力も持っていなかった新聞の革命的狂乱の責任を問われて法廷に立たされるはめになった。老人はわれわれとの関係を否認しなかった。それどころか彼は目に涙を浮かべて、われわれが、最も人気のあった新聞を編集しながら、仕事の合間に、門番が近くのパン屋から紙に包んで持ってきてくれた干からびたピロシキで飢えをしのいでいたことを、法廷で語った。そして老人は、敗北に終わった革命と、亡命仲間と、干からびたピロシキのために、1年の禁固刑を言い渡されたのである…。」(『わが生涯』第14章「1905年」より)

 

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