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第1次ソヴィエトの崩壊

 第1次ペテルブルク・ソヴィエトを指導したメンバー

(後段、左がトロツキーで、右がクリャチコ

前段、左がソヴィエト初代議長フルスタリョーフ=ノサーリで、右がズルイドネフ)

 「12月3日の夕方、ペテルブルク・ソヴィエトは軍隊に囲まれた。出入口はすべてふさがれた。執行委員会が会議を行なっていた2階桟敷から私は、1階ホールにあふれていた数百人の代議員に向かって叫んだ。

 『抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!』。

 彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。そして、すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場の中で、労働者は武器を使えないようにしはじめた。彼らは、その熟練した手でモーゼル銃をブローニング銃に、ブローニング銃をモーゼル銃にぶつけて破壊した。そこにはもはや10月29日の時のような冗談や軽口はなかった。金属のぶつかりあう音、がちゃがちゃする響き、金属の破壊される時のきしんだ音は、プロレタリアートの歯ぎしりのように聞こえた。プロレタリアートはこの時はじめて、敵を打倒し粉砕するためにはもっと別の何かが、もっと強力で仮借のない努力が必要なのだということを、身にしみて感じたのであった。

 10月ストライキの部分的な勝利は、政治的意義の他に、私にとって測り知れないほどの理論的意義を有していた。ツァーリズムを初めてひざまずかせたのは、自由主義者の反政府運動でもなければ、農民の自然発生的蜂起でもなく、インテリゲンツィアのテロリスト的行動でもなく、労働者のストライキであった。プロレタリアートの革命的ヘゲモニーが、争う余地のない事実として姿を現わした。永続革命の理論は最初の大きな試験に合格したと私はみなした。革命は、プロレタリアートの前にはっきりと権力獲得の展望を切り開いた。まもなくやってきた反動期も、もはやこの立場を私に変えさせることはできなかった。それどころか、このことから私は西方に関する結論も引き出した。ロシアの若いプロレタリアートの力がこれほどのものであるとすれば、先進諸国におけるプロレタリアートの革命的力はいかほどのものであろう?」(『わが生涯』第14章「1905年」より)

 

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