シオニズムの解体とその後継者の可能性

 トロツキー/訳 西島栄

テオドール・ヘルツル

【解説】この論文は、ユダヤ人の分離国家をめざすシオニストの大会が開かれたのをふまえて書かれたシオニズム批判の論文である。このシオニズム大会を開催したのは、シオニズムの創始者とも呼ばれているオーストリアのユダヤ人、テオドール・ヘルツル(右の写真)であった。トロツキーはヘルツェルの思想を取り上げ簡単に批判している。

 これは、直接的な主題はシオニズム批判であるが、同時に、ロシア社会民主労働党第2回大会におけるイスクラ派とユダヤ人ブントとの分裂をも念頭においており、シオニズム批判と結びつけてブントをも厳しく批判している。なお、そのブント批判の一部は、『シベリア代議員団の報告』の内容と重なっている。

Л.Троцкий, Разложение сионизма и его возможные премники, Сочинения, Том.4−Политическая хроника, Мос-Лен., 1926.


※原注 最近起きた、ロシアのシオニスト学生がマックス・ノルダウ(1)の命を狙った事件は、秋に行なわれたバーゼル大会で点火されたシオニストの内紛の深刻さを改めて浮きぼりにした。

 最近開かれたシオニストの大会は無力さのデモンストレーションだった。世界の隅々から集まった人々は、大声でこう宣言した。「われわれは一歩も前に進むことができない。われわれは自らを使い果してしまった。われわれの活動方法に対する信頼のすべての貯えを使い果してしまった。そして、前方には何も見えない。スルタン(2)はヘルツル氏(3)を歓待した(もっとも、誰がこれを目撃したのか)。おそらくもう一度歓待することだろう。そして次は?」。

 しかり、次は何か? 答えは見つけなければならなかった。思考方法は現実的な答えを不可能にし、絶望の心理は虚構を耳打ちした。惨めで、相続者のいない虚構を。ヘルツル氏はアフリカで打診してみることを提案した。チェンバレン(4)ないしエドワード7世(5)との関係は――問題になっているのはイギリス領だ――もちろんのことヘルツル氏が引き受けた。彼にとって「自分の」民族の頭越しに世界の公爵たちに請願をするのはこれが初めてではない。それでもこの恥知らずな冒険主義者は、バーゼル大会で嵐のような拍手喝采を受けた。大会において「ユダヤ民族」の代表者たちからは、この胸くそ悪い人物に対する憤激の鞭をふるう手は一つも上がらなかった…。ただシオンのロマン主義者たちのヒステリックなむせび泣きが、会場ホールの中で一定時間鳴り響いただけであった。ヘルツルはパレスチナを約束した――だが、それを与えなかった。

 もっとも、「領袖」はパレスチナを断念してはいない。彼のアフリカ旅行は単に軍事的(より正確には商業的)撹乱工作にすぎない。いったいヘルツル氏は、「純」シオニズムの哀れな騎士たちの非難から身を守るため、どのような「形」で、自分の政治的計画を説明しているのだろうか。大会後、彼は『ヴェルト(世界)』(6)にこう書いている。

 「かりに私が自分の家を欲していて、その家が、他人の手にわたっている自分の父の家だとしても、それでも私は現在の持ち主の慈悲にすっかり身を委ねるつもりはない。私はおそらく、持ち主に直接の提案を行なうだろう(ヘルツル氏はスルタンにもとに出かけた)。しかし、彼がそれに同意せず、強情をはり続けるならば(周知のように、スルタンは、客に対する愛想はよいが、「強情」である)、私はおそらく、しばらく目的を断念すると宣言しさえするだろう。そして、近くの家か、場合によっては何らかの遠い街(アフリカのことをほのめかしている)に避難し、その家について本格的な交渉をするだろう…。そして、次は」――意味ありげに、「領袖」はつけ加え、そして沈黙した。

 見られるように、何と悪魔的で悪賢い計画なのだろうか。遠い街で祖国を買っているようなふりをし、よそでの「本格的な交渉」もどきによってスルタンの警戒心を眠らせ、それから…、それからパレスチナを彼から吐き出させ、それをユダヤ民族に贈呈する。困惑の種はただ一つ、ヘルツル氏の論文がトルコ語に翻訳されスルタンの手にわたったらどうなるのだろうか、ということだけである。何といっても、スルタンとて、「そして次は」という言葉に隠された恐るべき罠を推測することができるだろうから。

 かくのごとく、これ以上に臆面もない「外交的」狡猾さはないだろう。しかし、同じく、これほどまでに粗悪な例え話によってシオニズムの命脈を保とうとする試みも他にないだろう。

 シオニズムはそのごくわずかな中身さえ使い果してしまった。そして、バーゼル大会は、繰り返すが、その破産と無力さのデモンストレーションだった。ヘルツル氏は、まだしばらくの間、あれこれの「祖国」に値段をつけることができるだろう。そして、数十の陰謀家と数百のお人好しはまだ彼の冒険を支えることができるだろう。しかし、運動としてのシオニズムはすでに、将来におけるあらゆる権利の喪失を宣告されている。これは火を見るより明らかだ。

 ブントによって出版された『バーゼルにおける第6回シオニスト大会』という小冊子の筆者もまた同じ結論に達している。「シオニズムの清算が始まった」。まったくその通りだ。しかし、その顧客は誰の手に入るのか? 言いかえれば、シオニズムを養っていた社会的分子はどのように分配されるのか?

「それ(シオニズム)のもとに――と小冊子の筆者は言う――、一定の階層の真の利害が完全に隠されていた。そしてこのような利害が存在するかぎり、運動は、後継者を残すことなく消えてなくなることはない。…新しい敵があらわれ、新しい闘争が起こるだろう」。

 いったい誰がこれの後継者になるのだろうか? もちろん、シオニズムの破産は、同時に、この「党派」を形成していた社会諸階層の混合体を分解するだろう。この場合、われわれにとって関心事であるのは、ブルジョア民主主義のインテリないし半インテリ的代表者から構成されるシオニスト左派の今後の運命である。

 シオニズムに幻滅し、したがって、ユダヤ人居留地と呼ばれるエジプトから陰謀「政治」の力を借りて脱出することへの確信を失い、専制的・警察的弾圧という長靴と衝突し、そして、キシニョフ[モルダヴィアの首都]やゴメリ[ベロルシアの工業都市]のポグロム事件に見られる政府の蛮行から自らを守るために非合法的方法に頼らざるをえなくなった、かつての左派シオニストは、不可避的に革命の隊列に押しやられることだろう。党から分離しているブントの現在の民族的立場は、この過程を容易にしている。ブントの勢力は、たった今引用したばかりの著者が何ゆえかもっぱら「将来の敵」とみなそうとしている人々によって、補充されていくだろう。いったいなぜか? 彼らは友好的な友人にもなりうるからである。そして、一般的に言って、敵が味方になること以上に好都合なことはない。残るは次の問題だけである。はたしてブントは、絶望したシオニストの民主主義的翼を支障なく吸収することができるだろうか? そして、われわれは、この根本問題において肯定的に答えることができないのではないかと心配している。

 これまで一度ならず指摘されてきたのは、ブントにはシオニズムのブルジョア的領域から民族主義的傾向が浸透してきたというものである。しかし、このような主張はナンセンスであると言うことができる。ブントの宣伝家たちはシオニズムの反動的性格を暴露してきたのではなかったか? ブントはこうした潮流と激しい闘争を繰り広げてきたのではなかったか? ブントの名前は、正真正銘のシオニストに憤激の発作を引き起こしたのではなかったか? これらはすべてまったくその通りである。しかし、問題は、シオニズムとのこうした闘争の論理そのものがまさに、ブントの政治的アジテーションのうちに民族主義的中身を注入したということにある。たいていの場合、政治的闘争は同時に政治的競争をともなう。そしてその競争において、敵から多くのものを学ぶことになる。民族的自尊心の雰囲気の中に置かれ、前方には専制政府、背後にはシオニストにはさまれて、ブントは、自分たちこそがユダヤ人大衆の真の利益を代表していると主張せざるをえなかった。こうした見地に立っているブントは、民族的モメントと階級的モメントとの間に正しい関係を確立することができなくなってしまった。1898年以降のわが党の悲劇的運命がブントの特殊な運命に重くのしかかっていた。「ブント」の組織的孤立は、その活動家たちの革命的エネルギーを狭い容器に押し込め、その指導者たちの政治的視野を――おそらくは長期にわたって――容赦なく狭めた。

「当該の社会運動に加わっている個人の数が少なくなればなるほど、普遍的なもの、合法則的なものがますますはっきりしなくなり、偶然的なもの、個人的なものがますますそこで支配的になる」(カウツキー『社会革命』)。

 プロレタリア政党はただ政治的な枠、すなわち国家的な枠によってのみ制限されうる。ただこの場合のみ「普遍的なものと合法則的なもの」、すなわち社会民主主義の諸原理は、運動の基盤に根をおろすことができる。ブントの活動領域は、国家的ではなく民族的な特徴によって性格づけられている。「ブントはユダヤ人プロレタリアートの組織である」。第1回大会までは、こうした状況は政治的な意味ではなく、(広義の)技術的な意味を持っていた。ブントは、住民の大多数がユダヤ人の言語を話す地域で活動するための党組織だった。党の「黙認」のもと――というのは、当時、党はその分散的細分状態ゆえに、あまりにもしばしば壮大なフィクションの役割を演じていたからだが――、「偶然的なもの」あるいは「特殊的なもの」が「一般的なもの」と「合法則的なもの」に対して優勢になった。組織的・技術的な事実が民族的・政治的な「理論」にまで祭り上げられた。

 党の第2回大会に先立って開かれたブントの第5回大会は周知のように、次のような新しいテーゼを提起した。「ブントは、その活動においていかなる地域的枠組みにも制限されないユダヤ人プロレタリアートの社会民主主義組織であり、その唯一の代表者として党に加わる」。特殊的なものと一般的なものとの抗争はブント内部でこのように解決された。かつては、少なくとも意図においては、ブントはユダヤ人プロレタリアートの間での社会民主党の利害の代表者であったが、今では、社会民主党に対するユダヤ人プロレタリアートの利害の代表者となった。それだけではない。「党に属する他の諸組織以外にブントも活動している一定の地域においては、全プロレタリアートの名において行動することができるのは、ブントも参加している場合のみである」とされたのある。こうしていっさいが移動した。階級的観点が民族的観点に従属し、党はブントの統制下に置かれ、普遍的なものが特殊的なものの原理の下に服属した。

 党からのブントの離脱は、この5年間の進化の最新局面でありその結果である。そして、ブントの完全な「公式的」分離という事実は不可避的に、それはそれで、民族主義に向けたブントの今後の発展の出発点となるだろう。われわれが「不可避的に」と言うのは、ブント指導部の善き意志の上に民族的・政治的立場の悪しき意志が重くのしかかってくるからである。この事実の歴史的「意義」がいかなるものであろうと、党からのブントの離脱という事態は、シオニズムにおける致命的危機の時期と軌を一にしている。「一般的なもの」と「合法則的なもの」との統制から解放されたブントは、「特殊なもの」に対して扉を全開した。客観的に見るならば、ブントは今や、革命的社会民主主義の道から革命的民主主義的な民族主義への道へとユダヤ人プロレタリアートを逸脱させるうえでまたとない組織機構になっている。

 もちろん、主観的意識のうえでは、ブント指導者は今なお、社会民主主義的「問題関心」を保持しており、このような逸脱と闘うつもりでいる。しかし、事実の論理は頑迷な思想よりも強力である。今日、ブント指導者が引き出そうとしている結論は、明日には、彼らに取って代る人々によって遂行されるだろう。現在の立場を民族的観点にもとづいて打ち立てることによってブントは、自らの隊列の中に、社会民主主義的伝統によって束縛されていない思想をもった分子がやって来るのを助長している。彼らはやって来て(そして、すでにやって来つつある)、「教条派」とみなされた人々[社会民主主義者のこと]を脇に押しやるだろう。もちろん、ブントは、長期にわたって社会主義的言葉使いを保持するだろう。ちょうど、ポーランド社会党(7)が今日までそれを保持しているように。しかしながら、このことは、彼らが、かくも成功裏にポーランド社会党が果たしている政治的機能を果たすことを、けっして妨げるものではない。いやむしろ、それを可能にするものである。その機能とは、プロレタリアートの階級的利益を、革命的民主主義の民族主義的利益のなかに吸い取ってしまうことである。しかり、ブントの宣伝家は正しい。シオニズムは「後継者を残すことなく消えてなくなることはない」。しかし、リトアニア・ポーランド・ロシア全ユダヤ人労働者同盟[ブントの正式名称]がその後継者とやらになる可能性もあるのである。

『イスクラ』第56号

1904年1月1日

ロシア語版『トロツキー著作集』第4巻『政治的年代録』所収

『トロツキー研究』第30号より

 

  訳注

(1)ノルダウ、マックス(1849-1923)……ハンガリー生まれのドイツの作家で、シオニズム運動の指導者。

(2)スルタン……オスマン帝国(トルコ)の国王の名称。ここでは、第34代スルタンのアブデュル・ハミト2世(1892-1918)(在位1876-1909)のことを指している。アブデュル・ハミト2世は、1876年に憲法を発布したが、1878〜79年の露土戦争の勃発を口実に憲法を停止。以後、30年間、専制政治を行なう。露土戦争で敗れて、バルカンの多くの領土を失う。1908年の青年トルコ党の革命により立憲政治が復活すると、反革命を企てて失敗、1909年に退位。

(3)ヘルツル、テオドール(1860-1904)……オーストリアの政治的ジャーナリストで、シオニズム運動の創始者。ドレフュス事件に衝撃を受け、1896年にユダヤ人国家の建設を主張するパンフレット『ユダヤ人国家』を著わす。1897年にバーゼルにて第1回シオニスト会議を開催。

(4)チェンバレン、ジョゼフ(1836-1914)……イギリスの自由党政治家。1873〜75年、バーミングガム市長、1876年に下院議員。1880年に商務相。1889年より自由統一党の党首。1895〜1903年、連立内閣の植民地相。1906年以降、政界より引退。

(5)エドワード7世(1841-1910)……イギリスの国王(在位1901-1910)。外交政策に手腕を発揮し、英仏協商、英露協商を締結。

(6)『ヴェルト(世界)』……ベルリンで発行されていたシオニストの機関紙。

(7)ポーランド社会党……ポーランド社会主義者の中で民族主義的な立場をもった部分が結成した党で、ローザ・ルクセンブルクと激しく対立した。

 

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