根本問題――権力のための闘争

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、第1次大戦中に『ナーシェ・スローヴォ』に書かれた論文の一つで、ロシアにおける永続革命の展望について論じたものである。この中でトロツキーは、ロシアではプロレタリアートだけが唯一の革命的階級であると述べ、帝国主義の時代には「国民革命」は不可能であるとしている。これは、当時レーニンによって、農民の過小評価であり、直接に社会主義革命をめざす路線であると批判された(「革命の2つの方向について」、邦訳『レーニン全集』第21巻)。しかし、この批判は、民主主義革命の綱領をプロレタリアートによる権力獲得と結びつけるという永続革命論の基本的立場に対する無理解から来ている。しかし他方では、レーニンの批判は、「農民の革命的な力を汲み尽くす」(同前、433頁)ことを強調した点で、積極的な意味をも持っていた。トロツキーのこの論文は、農民の役割を否定していないにしても、プロレタリアートの革命的役割を強調するあまり、「農民の過小評価」という批判を招きかねない表現になっている。実際、トロツキーは後に1928年の『永続革命論』の中で、この論文について次のように回顧している。

 「12年間(1905〜1917年)におよぶ私の革命的文筆活動の中では、エピソード的で一時的な状況が不釣合いに強調されていたり、闘争には不可避的なエピソード的・論争的な誇張が、戦略的路線に反する形で前景に押し出されていたりするような論文もある。たとえば、一つの階層としての農民全体が将来、革命的役割を果たすことに対して疑問を表明し、そのことと結びついて、そしてとりわけ帝国主義戦争の時期には将来のロシア革命を『国民革命』と呼ぶのを拒否した論文もある」。

 ここで言われている「論文」とはまさにこの「権力のための闘争」を指している。

 この論文はロシア革命後の1919年にロシアで再刊された『総括と展望』の付録として、また1922年にロシアで出版された『1905年』の付録として収録された。日本でも、『総括と展望』の英訳版にもとづいて、現代思潮社の『1905年革命・結果と展望』の付録として訳出されている。しかし、その翻訳の出来はあまりよいとは言えない。今回アップした邦訳の底本は、1919年に再刊された『総括と展望』の付録版のほうではなく、直接、『ナーシェ・スローヴォ』から翻訳している。この論文はもともとは、「根本問題」と題された連載論文の第1章にあたっている(第1章の題名が「権力のための闘争」)。だが、この連載論文の続きは結局書かれなかったようである。それゆえ、題名を「根本問題――権力のための闘争」としておいた。

Л.Троцкий, Основные вопросы―Борьба за власть, Наше Слово, No.217, 17 Октября 1915.


 ここに、組織委員会(1)の在外書記局によって発行された『ロシア・プロレタリアートの任務――ロシアの同志たちへの手紙』という綱領的・戦術的リーフレットがある。この文書には、P・アクセリロート(2)、アストロフ(3)、A・マルトゥイノフ(4)、L・マルトフ(5)、S・セムコフスキー(6)らが署名している。……(50行ほど検閲で削除)……

 この「手紙」において、革命の問題が非常に一般的な形で提起されているが、著者たちが戦争によって生み出された状況を特徴づけることから、政治的展望と戦術的結論を展開することへと移るにしたがって、分析の正確さと明確さはしだいに姿を消してゆく。用語そのものが散慢になり、社会的定義が曖昧になる。

 一見したところ、2つの風潮がロシアの表層を支配している。第1は、祖国防衛の風潮(ロマノフ家からプレハーノフに至るまで)であり、第2は、全般的不満の風潮(官僚的フロンド的(7)野党から街頭での騒動の発生に至るまで)である。この2つの広まりつつある支配的風潮が、祖国防衛の事業によって人民の自由が生まれてくるかのような幻想をつくり出している。しかし、こうした風潮こそが、他方では「人民革命」という曖昧な問題設定をも――たとえそれが「祖国防衛」に対置されている場合でさえ――、かなりの程度つくり出しているのである。

 戦争それ自体およびその敗北は、いかなる革命的問題であれ、その解決のためのいかなる革命的勢力もつくり出しはしなかった。われわれにとっては、歴史は、バヴァリア王子へのワルシャワの明け渡しから始まるのではない。革命的矛盾も社会的勢力も、われわれが1905年に初めて本格的に直面したものと同じである。ただし、その後の10年間にかなり大きな変化をこうむった。戦争は、機械のような明確さで体制の客観的な破産を暴露したにすぎない。しかし同時に、それは社会意識に混乱をも持ち込んだのである。そこでは、「万人」が、ヒンデンブルグ(8)に反撃したいという気持に駆られると同時に、6月3日体制を憎悪してもいるかのように見える。しかし「人民戦争」の組織がその最初の一歩からツァーリの警察と衝突し、そのことによって、6月3日派のロシアが現実なのであって、「人民戦争」が虚構なのだということが明らかになったように、「人民革命」に接近しようとするやいなや、その入り口で、プレハーノフの社会主義的警察と衝突するにいたる。彼の背後にケレンスキーやミリュコーフ(9)やグチコフ(10)、それに一般に非革命的あるいは反革命的な民族民主主義者や民族自由主義者等々がいなかったら、プレハーノフの社会主義的警察を、その腰巾着たちともども、虚構とみなすこともできたのだろうが。

 「手紙」はもちろん、国民――それは、革命を通じて、戦争の諸結果と現在の体制から自らを救わなければならない――の階級分化を無視するわけにはいかない。「民族主義者、オクチャブリスト、進歩主義者、カデット党員、産業資本家、そして急進的インテリゲンツィアの一部(!)さえ、国を防衛する上での官僚の無能さを声をそろえて叫び、防衛の事業のために社会勢力を動員することを要求している」…。「手紙」はこのような立場の反革命的性格に関してはまったく正しい結論を引き出している。このような立場は、「実際には祖国防衛とロシアの現在の支配層――官僚、貴族、将軍――との結合」を前提している。「手紙」はまた、「あらゆる色合いのブルジョア愛国主義者」を反革命的立場であると正当に特徴づけている。われわれは、社会愛国主義者の反革命的立場をもそれに付け加えよう。なぜなら、これについては「手紙」は一言も触れていないからである

※原注 この事実は、手紙の筆者たちの党内での立場をきわめて雄弁に特徴づけるものである。国際会議〔ツィンメルワルト会議〕において、穏健分子は、宣言の中で、社会愛国主義者の政策に関する明確な評価を下すことにも、社会愛国主義者に対して全戦線で直接に宣戦布告することにも反対した。こうした中途半端さ――これは、物事をその本来の名前で呼ぶことを恐れ、国際主義者の立場を弱めるものでしかない――は、会議によってきっぱりと拒否された。「同志への手紙」は、ロシアの先進的労働者に顔を向けて、民族防衛の立場に立っている「一部の急進的インテリゲンツィア」について低い声で語りながら、プレハーノフ、『ナーシェ・デーロ』(11)、マニコフ(12)、その他の連中に共通している立場については一言も指摘していない。あたかも、同じ労働者の前に、これらの社会愛国主義者がその解体的で士気阻喪させるプロパガンダをひっさげて登場していないかのようである。

 このことから次のような結論を引き出さなければならない。社会民主党は、最も首尾一貫した革命政党であるだけでなく、わが国で唯一の革命政党であること、そして、それと並んで存在しているのは、単に断固たる革命的方法を採用することができない集団であるというだけでなく、非革命的な諸政党であるということである。言いかえれば、社会民主党とその革命的課題設定は、政治的舞台においては、「全般的不満」の存在にもかかわらず、完全に孤立しているのである。この最初の結論は最も明確に理解しなければならない。

 もちろん、政党は階級そのものではない。政党の立場とそれが依拠している社会階層の利害との間には不一致が起こりうるし、それは後になって深刻な矛盾に転化するかもしれない。政党の行動そのものは、人民大衆の気分に影響されて変化しうる。このことに議論の余地はない。しかし、だからこそ、われわれはなおいっそう、自らの計算において、政党のスローガンや戦術的駆け引きのような不安定で頼りにならない要素から、よりっかりした歴史的諸要因へ、すなわち、国の社会的構造や階級的力関係、発展傾向に上告しなければならないのである。

 しかし「手紙」の筆者たちはこうした諸問題を完全に回避している。1915年のロシアにおける「人民革命」とはいったい何なのか? 筆者たちはただ、それはプロレタリアートと民主主義派によって遂行され「なければならない」と語るだけである。われわれはプロレタリアートとは何であるかは知っている。しかし、「民主主義派」とは何か? それは政党か? 上述されているところからしてそうではない。それでは、それは人民大衆か? では、どのような人民大衆なのか? 明らかにそれは商工業小ブルジョアジー、インテリゲンツィア、農民である。なぜなら、それ以外のものはそもそも問題になりえないからである。

 「軍事的危機と政治的展望」と題した一連の論文の中で、われわれの新聞は、これらの社会勢力がどの程度の革命的意義を持ちうるかに関して一般的な評価を与えておいた。過去の革命の経験にもとづいてわれわれは、この10年間に、1905年当時における力関係にどのように変化が生じたかを検討した。それは、民主主義派(ブルジョア民主主義派)にとって有利に働いたか、あるいは不利に働いたか? これは、革命の展望とプロレタリアートの戦術を判断する上で中心的な歴史的問題である。ロシアにおけるブルジョア民主主義派は、1905年以来、強化されたのか、それともいっそう衰退したのか? わが国ではかつての論争はすべてブルジョア民主主義派の運命の問題をめぐって展開されてきた。そして、この問題に対していまだに答えることができない者は、暗闇の中でさまよっているのである。『ナーシェ・スローヴォ』はこの問題にこう答える。ロシアにおける国民的ブルジョア革命は、ブルジョア民主主義勢力の不在ゆえに不可能である、と。国民革命の時代は過ぎ去った――少なくともヨーロッパにおいては。それは、国民戦争の時代が過ぎ去ったのと同じである。前者と後者との間には深い内的結びつきがある。われわれは帝国主義の時代に生きているが、それは、単に植民地略奪のシステムであるだけではなく、ある一定の国内体制でもある。それは旧体制にブルジョア的国民を対置するのではなく、プロレタリアートをブルジョア的国民に対置する。

 職人や商人のような小ブルジョアジーは、1905年革命においてさえすでに、取るに足りない役割しか演じることができなかった。これらの階層の社会的意義はこの10年間にいっそう下落した。わが国の資本主義は、中間的諸階級を、古くから経済的に発展していた国々よりも、非常に過酷かつ徹底的にとりあつかった。

 インテリゲンツィアは疑いもなく数的に増大し、その経済的役割も増大した。しかし同時に、かつての幻想的な「自立性」さえ完全に失なった。インテリゲンツィアの社会的意義は、資本主義経済やブルジョア世論を組織するその機能によって全面的に決定される。資本主義との物質的結びつきは、彼らに骨の髄まで帝国主義的傾向を浸透させた。すでに引用したように、「手紙」はこう言っている、「急進的インテリゲンツィアの一部さえも……防衛の事業のために社会的諸勢力を動員することを要求している」と。これはまったく間違っている。急進的インテリゲンツィアの一部ではなく、急進的インテリゲンツィアの全部だ。したがって、すべての急進的インテリゲンツィアのみならず、社会主義的インテリゲンツィアのかなりの部分――大部分ではないにしても――が、と言うべきであろう。インテリゲンツィアの性格を粉飾することによって、「民主主義派」の隊列を膨らませてはならない。

 かくして、商工業ブルジョアジーはいっそうその地位を低下させ、インテリゲンツィアは革命的立場を放棄した。したがって、都市の民主主義勢力を革命的要因として言うことはできない。

 残るは農民であるが、われわれの知るかぎり、P・B・アクセリロートも同志マルトフも、農民の独自の革命的役割に大きな期待をかけたことはない。彼らは、この10年間に農民のあいだでの絶え間ない階層分化がこの役割を増大させた、という結論に達したのだろうか? そのような推断はすべての理論的考慮と歴史的経験に明らかに反している。

 とすれば「手紙」はどのような「民主主義派」について語っているのだろうか? そしてどのような意味で人民革命について語っているのだろうか?

 憲法制定議会というスローガンは革命的情勢を前提としている。では、革命的情勢は存在するのか? 存在する。しかし、それは、あたかも、ツァーリズムを清算する能力がありその準備ができているブルジョア民主主義派がついに生まれたことによって決定されているのではまったくない。反対に、もし、この戦争が赤裸々に暴露したものが何かあるとすれば、それはまさにロシアにおける革命的民主主義派の不在である。

 国内の革命的諸問題を帝国主義への道によって解決しようとしたロシアの6月3日派の試みは、明白な破産をこうむった。このことは、6月3日体制に責任を有する、あるいは半ば責任を有する諸政党が、革命への道をとるということを意味するものではない。それは、軍事的破局によって暴露された革命的諸問題が、支配階級をしていっそう帝国主義の道へと駆り立て、そしてまた、わが国の唯一の革命的階級の意義を倍加させた、ということを意味している。

 6月3日派のブロックは深刻に揺さぶられている。その内部には軋轢や闘争が存在する。このことは、オクチャブリストやカデットが革命的な権力問題を自らの前に提起したり、固く団結した貴族と官僚を強襲することに彼らが足を踏み出すということを意味するのではない。それは、革命的強襲に対する体制側の抵抗力が、この間に疑いもなく弱められたということを意味している。

 君主制と官僚はすっかり評判を落とした。しかしこのことは、彼らが闘争なしに権力を手放すということを意味しない。国会の解散と最近の内閣改造は、そんなことはありえないことを何よりもはっきりと示した。しかし、今後ますます増していくばかりであろう官僚的不安定さの政治力学は、社会民主党によるプロレタリアートの革命的動員をいちじるしく容易にするにちがいない。

 都市と農村の下層人民は、時が経つにつれてますます消耗し、欺かれ、不満をおぼえ、怒りを感じるだろう…。だがこのことは、プロレタリアートと並んで、革命的民主主義派の独自の勢力が登場するということを意味するものではない。このような勢力にとっての社会的素地も指導的人員も存在しない。しかし、このことは疑いもなく、下層階級の深刻な不満の雰囲気が労働者階級の革命的強襲を容易にするにちがいないということを意味する。

 プロレタリアートが、ブルジョア民主主義派の登場に期待をかけることが少なければ少ないほど、小ブルジョアジーと農民の受動性と視野の狭さに自らを適合させることが少なければ少ないほど、彼らの闘争が断固とした非妥協的なものになればなるほど、「目的」すなわち権力の獲得へと向かうプロレタリアートの決意が万人にとって明確になればなるほど――プロレタリアートが決定的な瞬間に非プロレタリア的人民大衆を自らの背後に従える可能性はますます大きくなるであろう。

 もちろん、「地主の土地没収」のようなスローガンだけでは何事も達成されない。このことは、はるかに大きな程度で軍隊――国家権力はそれによって存立し、それによって崩壊する――にあてはまる。軍隊の大衆部分は、革命的階級が単に不平を言ったりデモをしたりしているだけではなく、権力のために闘っており、かつそれを獲得する可能性を持っているのだということを確信するに至った場合にのみ、革命的階級の側に引き寄せられるのである。

 ロシアには、戦争と敗北によって先鋭に暴露された客観的な革命的問題――国家権力の問題――が存在する。支配階級のますます進行する解体状況が存在する。都市と農村の大衆の中にはますます増大する不満が存在する。しかし、このような状況を利用しうる革命的要因はプロレタリアートだけである――現在では、1905年よりも比較にならないほど大きな程度でそう言える。

 「手紙」はある一節において、全問題のこの中心的結節点に接近しているように見える。それは、ロシアの社会民主主義的労働者は「6月3日派の君主制を打倒するための全国民的闘争の先頭」に立たなければならない、と述べている。「全国民的」闘争が何を意味しうるかについては、われわれがすでに指摘したところだ。しかし、もし先の一節における「先頭に立つ」という文言が、先進的労働者が闘争の目的と結果を明確に理解することもなしに寛大にも自らの血を流すべきだということを意味するのではなく、労働者が全般的闘争――それは何よりもプロレタリアート自身の闘争である――の政治的指導権を握らなければならないということを意味するのなら、この闘争が勝利したあかつきには、この闘争を指導した階級、すなわち社会民主主義的プロレタリアートヘ権力が移行するにちがいないのは明らかである。

 したがって、問題となっているのは、単に「革命的臨時政府」(それは、歴史の過程がいかなる内容でその中身を満たすのかが不明であるかぎり空虚な形式である)といったものではなく、革命的労働者政府であり、ロシア・プロレタリアートによる権力の獲得である。

 憲法制定議会、共和国、8時間労働制、地主の土地の没収、等々の要求はすべて、戦争の即時停止、民族自決権、ヨーロッパ合衆国、等々の要求とともに、社会民主党の煽動活動において巨大な役割を演じるであろう。しかし、革命は何よりも権力の問題である。すなわち、国家の形態(憲法制定議会、共和国、合衆国)の問題ではなく、権力の社会的内容の問題である。憲法制定議会や地主の土地没収等の要求は、プロレタリアートが権力獲得をめざす闘争の準備を整えているのでなければ、現在の条件下では、その直接的な革命的意義を失なってしまうだろう。なぜなら、もしプロレタリアートが君主制の手から権力を奪い取るのでなければ、他の誰もあえてそうしようとはしないからである。

 革命的過程がいかなるテンポで進むのかは、また別問題である。それは、軍事的・政治的・国内的・国際的な一連の諸要因に依存している。これらの諸要因は、発展を遅らせたり早めたりし、革命の勝利を容易にしたり敗北に導いたりする。しかし、どのような条件のもとでもプロレタリアートは明確に自らの道を直視し、その道を自覚的に進まなければならない。何よりもプロレタリアートは幻想からは解放されていなければならない。そして、プロレタリアートが現在に至るまでの全歴史においてこうむってきた最悪の幻想は常に、他者を信頼することであった。

エヌ・トロツキー

1915年10月17日

『ナーシェ・スローヴォ』第217号

新規

   訳注

(1)組織委員会……メンシェヴィキの指導的中央部。1912年のウィーン協議会(8月ブロック)で結成された。1917年8月にメンシェヴィキの中央委員会が選出されるまで存続。トロツキーは、当初、この組織委員会と関係を持っていたが、その後、断絶した。

(2)アクセリロート、パーヴェル(1850-1928)……メンシェヴィキの指導者。1883年にプレハーノフとともに「労働解放団」を結成、1903年のロシア社会民主労働党分裂後、メンシェヴィキの指導者に。第1次世界大戦中はメンシェヴィキ国際主義派。10月革命後に亡命。

(3)アストロフ……メンシェヴィキ組織委員会の「在外書記局」の一員。

(4)マルトゥイノフ、アレクサンドル(1865-1935)……メンシェヴィキの右派指導者。1884年に「人民の意志」派に参加。1886年に、シベリアに流刑。1890年代に社会民主主義運動に参加。1903年の党分裂で、メンシェヴィキに。1905年革命においては『ナチャーロ』に参加。反動期は解党派。第1次大戦中はマルトフのメンシェヴィキ国際主義派。10月革命に敵対。1922年にメンシェヴィキから離脱。1923年にボリシェヴィキに加わり、スターリニストとなる。

(5)マルトフ、ユーリー(1873-1923)……メンシェヴィキの卓越した指導者。レーニンとともに『イスクラ』を創刊したが、1903年の党分裂の際は、レーニンと対立してメンシェヴィキの指導者となった。第1次大戦中は国際主義派として、トロツキーとともに『ナーシェ・スローヴォ』を編集するが、ツィンメルワルト会議の後にトロツキーと対立し、編集部を辞任。2月革命勃発後ロシアに帰国して、メンシェヴィキ国際主義派の指導者となるが、一貫して少数派であった。10月革命後、ボリシェヴィキ政権と対立するも、白軍に対してはソヴィエト政権の防衛を訴えた。1920年に亡命。亡命先で『社会主義通報』を創刊。ドイツで死去。『社会民主党史』など。

(6)セムコフスキー、S・Yu(1882-?)……メンシェヴィキ、哲学者。本名はブロンシュテイン。第1次大戦中は、メンシェヴィキ国際主義派。10月革命後は、哲学理論家として活躍。主要著作として『弁証法的唯物論と相対性原理』『史的唯物論概論』など。

(7)フロンド党……17世紀に宮廷と枢機卿のマザランに反抗したフランスの貴族集団のこと。

(8)ヒンデンブルク、パウル・フォン(1847-1934)……ドイツのユンカー出身の軍人。第1次世界大戦中は参謀総長として戦争を指導し、国民的人気を博す。1925年に大統領に。1932年4月に再選。1933年1月にヒトラーを首相に任命。

(9)ミリュコーフ、パーヴェル(1859-1943)……ロシアの自由主義政治家、歴史学者。カデット(立憲民主党)の指導者。第3、第4国会議員。2月革命後、臨時政府の外相。10月革命後、白衛派の運動に積極的に参加し、ソヴィエト権力打倒を目指す。1920年に亡命。『第2次ロシア革命史』(全3巻)を出版。

(10)グチコフ、アレクサンドル(1862-1936)……ロシアのブルジョア政治家。大資本家と地主の利害を代表する政党オクチャブリスト(10月17日同盟)の指導者。第3国会の議長。ロシア2月革命で臨時政府の陸海相になり、帝国主義戦争を推進するが、反戦デモの圧力で辞職。10月革命後に亡命。

(11)『ナーシェ・デーロ(われわれの事業)』……1915年にペテルブルクで発行されていた祖国防衛派メンシェヴィキの月刊誌。

(12)マニコフ、I・N(1881-?)……メンシェヴィキ、第4国会議員。第1次世界大戦勃発直後から祖国防衛主義の立場。1915年1月、社会民主党議員団の決定に反して国会で予算に賛成し、除名。

 

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