ドイツ・ボナパルティズム
トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄
【解説】これは、ドイツで成立していたパーペン政府についての社会的・階級的性格づけを行なった論文であり、ボナパルティズムについてのトロツキーの考えを示すものとして重要である。このパーペン政府は、その前のブリューニング政府とその後のナチス独裁とを媒介するボナパルティスト政府であったが、トロツキーはとりわけ、資本主義衰退期のボナパルティズムの特徴をその政府の中に見出している。パーペン政府は1932年12月にシュライヒャー将軍の政府に席を譲り、翌年1月にはヒトラー政府に席を譲る。どちらのボナパルティズム政権も、ただファシズム政権への架け橋でしかなかった。
なお本稿は、英語版から湯川氏が最初に訳し、その訳文を西島が『反対派ブレティン』のロシア語原文にもとづいて入念にチェックし、修正を施したものである。(右上の写真はフォン・パーペン)
Л.Троцкий,Немецкий бонапартизм, Бюллетень Оппозиции, No.32, Декабрь 1932.
国会選挙(1)は、「大統領」政府(2)を新たな決定的な試練にかける。だから、われわれ自身がその社会的・政治的本質を思い起こすのは有益である。マルクス主義の方法が測りしれないほどの優位性を発揮するのは、パーペン(3)=シュライヒャー(4)政府のような具体的で、一見、「思いがけない」現象の分析を通じてである。
かつて、われわれは、「大統領」政府をボナパルティズムの一種であると規定した。この規定を、なじみのない現象についてもなじみのある名前を見出したいという願望がおもわず露呈した結果であるとみなすのは、正しくないだろう。資本主義社会の衰退は、再びボナパルティズム――これは、ファシズムと並び、つながっている――を日程にのせた。以前、われわれはブリューニング(5)政府をボナパルティスト政府であると特徴づけた。過去の出来事を顧みる中でその後、われわれはこの規定をより厳密にして、それを半ボナパルティスト政府または前ボナパルティスト政府であると定義した。
他の共産主義組織や一般に「左翼」諸グループがこの点で何と言ったか? コミンテルンの現指導部から新たな政治的現象についての科学的規定の試みを期待することはもちろん、愚かとまでは言わないが、無邪気というものだろう。スターリニストは単純にパーペンをファシスト陣営の中に放りこむ。もしウェルス(6)とヒトラーが「双生児」であるなら、パーペンのようなくだらない奴はまったく頭を悩ますに値しない人物である。これは、マルクスが俗流的と呼び、彼がわれわれに軽蔑するよう教えたのと同じ政治的文筆業である。実際には、ファシズムは内戦における2大陣営のうちの一方の陣営を表わしている。ヒトラーは、権力に手をかけながら、何よりも街頭を72時間、自分に引き渡すよう要求した。ヒンデンブルク(7)はこれを拒否した。パーペン=シュライヒャーの任務は、国家社会主義者を友好的にしつけ、プロレタリアートを警察のくびきに縛りつけることによって、内戦を回避することである。そもそもそのような体制が可能であるかどうかは、プロレタリアートの相対的弱さによって決定される。
社会主義労働者党(SAP)は、他の問題と同様に、パーペン政府の問題を一般的な言辞でごまかす。ブランドラー派は、問題がブリューニングに関するものであったあいだ、すなわち、ボナパルティズムの潜伏期には、われわれの規定について沈黙を守っていた。しかしながら、ボナパルティズムに関するマルクス主義の特徴づけが、大統領政府に関する理論と実践の中で完全に確認されると、ブランドラー派は自らの批判をひっさげて登場した。利口なふくろうのタールハイマーは、夜更けに飛ぶのだ。
シュトゥットガルトの『アルバイター・トリブーネ』はわれわれに次のように教える。ブルジョアジーの上に軍事・警察機構を引き上げるボナパルティズムは、自分たちの政党に反対しても自分たちの階級の支配を守るために、農民に依拠しなければならず、社会デマゴギーの方法を用いなければならない、と。パーペンは農民に依拠していないし、エセ急進的な綱領を提起していない。したがって、パーペン政府をボナパルティズムであると規定しようとするわれわれの試みは、「まったく的外れ」というわけである。これは辛辣ではあるが、軽率な批判である。
ブランドラー派自身は、パーペン政府をどのように規定しているだろうか? 『アルバイター・トリブーネ』の同じ号で、折りよく「ユンカー的君主制独裁かファシスト独裁かプロレタリア独裁か」と題するブランドラーの報告が掲載されている。この三つの中で、パーペンの体制はユンカー的君主制独裁の体制であるとされている。この規定は、『フォアヴェルツ』や俗流民主主義者一般に最もふさわしいものである。ドイツ・ボナパルティストの称号を持つ者がユンカーに対して何らかの非公式の贈り物をすることは、議論の余地がない。しかし、だからといって、大統領制の本質をユンカー君主制であるとするのは、純粋な自由主義的たわごとである。
自由主義、ボナパルティズム、ファシズムなどの概念は、普遍的な性格を有している。歴史的現象はけっして完全な形で繰り返されることはない。以下のことを証明することは難しくない。ナポレオン3世(8)の政府すら、ナポレオン1世の体制に比べれば、それほど「ボナパルティスト」的ではなかった。その理由は、ナポレオン3世自身が血統的にボナパルトであったかどうかの点に疑問があるからだけではなく、諸階級、とりわけ農民やルンペンプロレタリアートとナポレオン3世との関係がナポレオン1世の場合とけっして同じでないからでもある。さらに、古典的なボナパルティズムは大規模な戦争とその勝利の時代から生じたが、こうしたことを第2帝政はまったく経験しなかった。しかし、われわれがボナパルティズムのすべての特徴の繰り返しを追い求めるかぎり、ボナパルティズムが1回かぎりの繰り返しのきかない現象であること、すなわちボナパルティズム一般が存在せず、単に、かつてコルシカ生まれのボナパルトと呼ばれる一将軍がいた、ということになってしまうだろう。このことは、自由主義にも、歴史上の他のすべての一般的概念にもあてはまる。したがって、アナロジーとしてボナパルティズムについて語るさいは、ボナパルティズムの諸特徴のうちのどれが現在の歴史的諸条件のもとで最もはっきりと表現されているのかを指摘する必要がある。
今日のドイツ・ボナパルティズムは、非常に複雑で、いわば複合的な性格を有している。パーペン政府はファシズムなしにはありえなかっただろう。しかし、ファシズムが政権に就いているわけではない。そして、パーペン政府はファシズムではない。他方、いずれにしても現在の形態のパーペン政府は、ヒンデンブルクなしにはありえない。ヒンデンブルクは、戦争でドイツが最終的に降伏したにもかかわらず、人民大衆の記憶の中ではドイツの偉大な勝利を代表しており、その軍隊を象徴している。大統領へのヒンデンブルクの再選(9)は、「国民投票」のあらゆる特徴を帯びていた。数百万もの(社会民主党と中央党の)労働者と小ブルジョアジーと農民がヒンデンブルクに投票した。彼らはヒンデンブルクの中に何らかの政治綱領を見ていたわけではなく、まず何よりも内戦を回避したいと望み、超越的な調停者として、国民の仲裁判事として彼を担ぎ上げたのである。そして、まさにこの点こそがボナパルティズムの最も重要な機能なのである。すなわち、財産と秩序を守るために、あい闘う両陣営の上に立ち、軍事・警察機構を用いて内戦を抑止ないしその機先を制し、あるいは、その再燃を防ぐ。パーペン政府について語るとき、ヒンデンブルクを忘れることができない。社会民主主義の支持を得られるかどうかはヒンデンブルクにかかっているからである。ドイツ・ボナパルティズムの複合的性格は、ヒンデンブルクへの支持を獲得するデマゴギッシュな活動がそれぞれ独立した2大政党――社会民主党と国家社会主義――によってなされたという事実のうちに表現されていた。両政党がどちらも自分たちの活動の結果に驚いたとしても、そのことはいささかも事態を変えるものではない。
社会民主党は、ファシズムが共産主義の産物であると主張している。このことは、階級闘争の先鋭化がなければ、革命的プロレタリアートが存在しなければ、資本主義システムの危機がなければファシズムの必要性がまったく生まれなていなかっだろうというかぎりにおいて、正しい。ウェルス=ヒルファーディング=オットー・バウアーの卑屈な理論には他のいかなる意味もない。しかり、ファシズムは、プロレタリア革命の脅威に対するブルジョア社会の反動である。しかし、まさにこの脅威が今日ではまだ直接的なものになってはいないので、支配階級はボナパルティスト独裁を通じて内戦なしに何とかやっていこうと試みているのである。
ブランドラー派は、ヒンデンブルク=パーペン=シュライヒャーの政府についてのわれわれの性格づけに反対して、マルクスを引き合いに出し、マルクスの権威がわれわれにとっても重要な意味を持つかもしれないという皮肉な期待を表明している。これほど悲惨な形で墓穴を掘るのは難しい。実は、マルクスとエンゲルスは2人のボナパルトのボナパルティズムについてだけでなく、別の種類のボナパルティズムについても書いていたのである。1864年から、2人は一度ならず繰り返し、ビスマルク(10)の「国家」体制をフランス・ボナパルティズムにたとえた。そして、ビスマルクはえせ急進主義的デマゴークでなかったし、われわれの知るかぎり彼は農民に依拠してもいなかった。それにもかかわらず、マルクスとエンゲルスがそのように見ていた。鉄血宰相は国民投票の結果として権力に昇ったのではなく、正統な世襲の皇帝によって正当に任命された。それでもやはり、マルクスとエンゲルスは正しいのだ。ビスマルクは、有産階級と台頭しつつあるプロレタリアートとの間の対立をボナパルティスト的やり方で利用して、それによって有産階級内部の対立を克服し、国民の上に軍事・警察機構を押し上げた。ビスマルクの政策は、今日のドイツ・ボナパルティズムの「理論家」が参照している伝統そのものである。実際、ビスマルクは、彼流のやり方で、ドイツの統一問題、ドイツの対外的強さの問題を解決した。しかしながら、パーペンはこれまでのところ、ドイツのために国際舞台で「対等の地位」を獲得すると約束しているにすぎない。少なからぬ相違が存在する! だが、われわれは、パーペンのボナパルティズムの度合いがビスマルクのボナパルティズムと同じであることを証明しようとしているのではないのだ。ナポレオン3世もまた、彼の「伯父」のお粗末なパロディでしかなかった。
マルクスを引き合いに出すのは、われわれが見てきたように、明らかに軽率な性格を帯びている。タールハイマーがマルクス主義の弁証法を理解していないのではないか、とわれわれはずっと前から疑っていた。しかし、彼がマルクスとエンゲルスの著作ぐらいは少なくとも知っているものと思い込んでいたことは認めなければならない。この機会にわれわれは自らの誤りを正しておく。
大統領政府に関するわれわれの規定は、ブランドラー派によって退けられたが、まったく予想外のそれなりに非常に大きな「権威をもつ」出典によって見事に確認された。「5日」国会の解散について、重工業界の機関紙たる『ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング』は、8月28日の長い論文の中で、マルクスの著作『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を引用した。何の目的でか? 人民の代表を軍靴で踏みつける大統領の歴史的・政治的権利を支持するためにほかならない。重工業界のこの機関紙は、困ったときには、マルクス主義の毒入りの井戸から水を飲む危険をあえて冒したのであった。この新聞は、フランスの大統領が「国家」の化身としていかにして、なぜ分裂した議会に対して優位を獲得したかを説明する長い章句をこの不朽の名著から引用している。同紙の同じ記事は実にタイミングよく、1890年春にビスマルクがきわめて巧みなクーデター計画をいかに練り上げたかを指摘している。大統領政府の先駆としてのナポレオン3世とビスマルクは、少なくとも8月においては、公式機関紙としての役割を果たしていたベルリンの新聞によって、それらにふさわしい名前で呼ばれていたのである。
マルクスが、ナポレオン体制を最も辛辣な用語で、冒険主義者、いかさま師、ぽん引きの政府であると規定している以上、「パーペンの7月20日」に関して『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を引用することは、たしかに非常に危険である。実際には、『ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング』は政府に対する悪意に満ちた中傷で罰せられてもおかしくはない。この第二義的な事情を別にすれば、歴史的本能によって『ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング』があるべきところに導かれたということは、やはり疑う余地がない。だが残念ながら、タールハイマーの理論的英知については同じことが言えない。
資本主義衰退期のボナパルティズムは、ブルジョア社会台頭期のボナパルティズムとまったく異なる。ドイツ・ボナパルティズムは都市と農村の小ブルジョアジーに直接には依拠していないが、これは偶然的ではない。まさにそれだからこそ、われわれはかつてパーペン政府の弱さについて書いたのだ。この政府は、プロレタリアートとファシストの二つの陣営を中立化させることによってのみ存続することができる。
だが、パーペンの背後には、大地主、金融資本家、将軍がいるではないか、と別の「マルクス主義者」たちが言い返す。有産階級それ自身は巨大な力を代表しているのではないか? この主張は、階級関係をより具体的歴史的形態において理解するよりも一般的な社会学的枠組みにおいて理解する方がはるかにたやすいことをいま一度証明している。そうだ。パーペンのすぐ背後には上層有産階級がいるが、それだけしかいない。まさにそこに、パーペンの弱さがある。
今日の資本主義の諸条件のもとでは、金融資本の代理人でないような政府は一般に不可能である。だが、考えられるあらゆる代理人のうちでも、パーペンの政府は最も安定を欠いている。支配階級が直接に統治できるならば、支配階級は議会主義も社会民主党もファシズムも必要としないだろう。パーペンの政府は金融資本をあまりにもむき出しにはっきりと示しすぎ、プロイセンの長官ブラフトが命じた神聖なるいちじくの葉さえ金融資本には残さない。まさに超政党的「国民」政府が本当は社会の上層部の名においてしか語ることができないのであるから、資本は自身をパーペン政府と同一視されないようによりいっそう注意を払うのである。『ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング』は、国家社会主義党を支持する大衆の中に大統領政府にとっての支えを見出したいと望んでおり、最後通牒的言葉を使ってパーペンにヒトラーとのブロックを、すなわちヒトラーへの屈服を要求する。
大統領制政府の「強さ」を評価するに当たって、われわれは、金融資本がパーペンの背後にいるとしても、そのことは金融資本がパーペンとともに倒れることをけっして意味するものでないという事実を忘れてはならない。金融資本は、ヒンデンブルク=パーペン=シュライヒャーよりもはるかに多くの可能性をもっている。諸矛盾が先鋭化した場合、純然たるファシズムの余地が残っている。諸矛盾が緩和する場合には、「合理的な」議会主義の路線に後退するだろう。金融資本は、プロレタリアートによって追いつめられないかぎりマヌーバーを続けるだろう。パーペン政府はどれだけの期間マヌーバーを続けられるか、それは遠からず明らかになるだろう。
この一文が新聞雑誌に掲載される頃には、新しい国会議員選挙はすでに終わっているだろう。パーペンの「反フランス」政府のボナパルティスト的本質は、よりはっきりと、だが同時にその弱さとともに、不可避的に姿を現わすだろう。そのときが来れば、われわれはこの問題をもう一度取り上げるだろう。
1932年10月30日
『反対派ブレティン』第32号
『トロツキー著作集 1932』下(柘植書房新社)より
訳注
(1)国会選挙……1932年11月6日に行なわれることになる総選挙を指している。7月31日の総選挙でナチスが大勝利をおさめたことを受けて、パーペン政府はヒトラーを政府に引き入れようとしたが、ヒトラーは政権そのものを要求したため、この妥協政策は挫折した。ヒトラーが今度は中央党と連立政府樹立を進めていることを知ったパーペンは、危機感を深めて、9月12日に国会を解散し、11月6日に総選挙が実施された。この総選挙ではナチス党が後退を喫し、共産党が前進した。
(2)「大統領」政府……政府が国会の多数派形成を通じて統治するのではなく、ワイマール憲法の第48条の大統領特権に依拠して、大統領緊急令などを通して統治する形態を指している。
(3)パーペン、フランツ・フォン(1879-1969)……ドイツのブルジョア政治家。プロイセンの土地貴族であるユンカーの代表で、カトリック中央党の指導者。1932年6月1日にヒンデンブルクによってドイツの首相に任命。7月20日にクーデターを強行し、プロイセンのブラウン社会民主党政府を解散させ、自らをプロイセン総督に指名。ドイツ宰相の地位は、1932年12月にシュライヒャー将軍が取って代わられ、1933年1月にヒトラー内閣の副首相になった。戦争中、パーペンはヒトラーに協力しつづける。
(4)シュライヒャー、クルト・フォン(1882-1934)……ドイツの将軍、政治家。パーペン政府の国防大臣をつとめ、1932年12月2日にヒンデンブルクによって首相に指名(ワイマール共和国最後の首相)。翌年1月末に、ヒトラーに取って代わられる。ナチスの「血の粛清」中の1934年6月30日に殺害される。
(5)ブリューニング、ハインリヒ(1885-1970)……ドイツのカトリック中央党の指導者。1930年3月にヒンデンブルク大統領によってドイツの首相に任命。1930年7月から、解任される1932年5月までドイツを統治。ブリューニングは、憲法48条の大統領特権行使を条件に組閣を引き受け、議会の多数派を無視して、繰り返し大統領緊急令(特例法)を発布して政治を行なった。ブリューニング統治時代にナチスは大躍進を遂げ、政治的・経済的危機はいちじるしく深刻化。政治的力関係の右傾化によって、ブリューニングは必要とされなくなり、1932年5月末に辞任。
(6)ウェルス、オットー(1873-1939)……ドイツ社会民主党右派。第1次大戦中は排外主義者。ベルリンの軍事責任者としてドイツ革命を弾圧。1933年まで、ドイツ社会民主党国会議員団の指導者。共産党との反ファシズム統一戦線を拒否し、ファシズムに対する妥協政策をとりつづける。
(7)ヒンデンブルク、パウル・フォン(1847-1934)……ドイツのユンカー出身の軍人。第1次世界大戦中は参謀総長として戦争を指導し、国民的人気を博す。1925年に大統領に。1932年4月に再選。1933年1月にヒトラーを首相に任命。
(8)ナポレオン3世(1808-1873)……ナポレオン1世の甥、フランス皇帝(在1852-70)。クーデターで1852年にフランス皇帝になるが、普仏戦争に敗れて没落。イギリスで死去。
(9)ヒンデンブルクの再選……1932年4月にヒンデンブルクの任期満了に伴い大統領選挙が行なわれ、ヒンデンブルクに加えて、ナチス党はヒトラー、右翼諸政党は、鉄兜団副団長のデュスターベル、共産党はテールマンを立てた。この選挙で、ヒンデンブルクは、中央党や社会民主党などの支持を得て再選された。
(10)ビスマルク、オットー(1815-1898)……ドイツの政治家。1862年にプロイセンの首相となり、強権でもってドイツ統一を推進。1871年から1890年までドイツ帝国の宰相。
トロツキー研究所 | トップページ | 1930年代前期 |