テルミドールと反ユダヤ主義

 トロツキー/訳 西島栄

【解説】この論文は、スターリン支配下のソ連において反ユダヤ主義が蔓延し、トロツキスト狩りに悪用されている事実を明らかにし、テルミドール的堕落と反ユダヤ主義との深い結びつきを暴露している。

 帝政ロシアは世界で最も反ユダヤ主義が強い国であり、繰り返し「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大量虐殺が起こっていた。ヒトラーによるジェノサイドが発生するまで、帝政ロシアは、間違いなく、ユダヤ人が、その民族的出自だけの理由で最も大量に殺された国であった。ユダヤ人であったトロツキーは、その自伝において、この民族性が自分の生涯に置いて独立した役割を持ったことはないと断言しながらも、実際には、その人生のさまざまな転機において、トロツキーはユダヤ人としての出自を考慮しなければならなかった。革命後、内務人民委員のポストを辞退したときの最大の理由は、ユダヤ人であることだった。内戦においては、白軍は、赤軍の長がユダヤ人であることを最大限利用して、遅れたロシア農民を煽動し、赤軍に対立させた。1920〜21年にソヴィエト共和国が、創設以来最大の危機に瀕したとき、トロツキーにとりわけ攻撃が集中したのも、そのユダヤ人としての出自があずかっていた。さらに、レーニンが晩年に、トロツキーに自分の後継者になるよう勧めたときも、トロツキーは自分がユダヤ人であることを理由に断わっている。そして、反対派としての闘いに立ちあがったときも、スターリニストによって、ユダヤ人に対する差別意識を利用されている。

 だが、ユダヤ人という出自は、けっしてトロツキーにとってマイナスの意味しか持たなかったわけではない。それは、トロツキーがドイツ・ファシズムに対する最も鋭い警戒心を抱かせるのに役立っている。またトロツキーは、世界中がまだヒトラーによるユダヤ人虐殺についてまだまったく予想していなかった時点で、ユダヤ人大虐殺が近い将来に起きることを予言したが、この政治的予言において、彼の民族的出自が一定の貢献をしていることは十分ありえる。

Л.Троцкий, Термидор и антисемитизм, Престпление Сталина, Мос., 1994.


 最近のモスクワ裁判に関して、私はその声明の一つで、スターリンが反対派との闘争の中で国内の反ユダヤ主義的傾向を利用していることを指摘した。この点に関して私は多くの手紙と質問を受け取った。その大多数は――ありていに言うと――非常に無邪気なものである。「ソヴィエト連邦を反ユダヤ主義だと非難するとはいったいどういうことだ?」、「ソ連が反ユダヤ主義の国なら、残る国はいったいどうなるのか?」。こういったものが手紙の支配的な論調である。このような異義と当惑が出されるのは、彼らが、ファシストの反ユダヤ主義に対して、いつも10月革命によるユダヤ人の解放を対置しているからであり、今や、自分たちの手から救命浮輪が奪われたように感じているからである。このような判断方法は、俗流的で非弁証法的な思考を持った人々に典型的なものである。彼らは変わることのない抽象の世界に住んでいる。彼らは自分たちにとって都合のいいことだけを認識する。ヒトラーのドイツは反ユダヤ主義の絶対主義王国であり、反対に、ソ連は民族的調和の国である。生きた矛盾、変化、ある状態から別の状態への移行、つまり一言で言えば、現実の歴史的過程は彼らの怠惰な注意からするりと逃れているのである。

 さすがにまだ忘れてはいないと思うが、帝政ロシアにおいて反ユダヤ主義は、農民、都市小ブルジョアジー、インテリゲンツィア、労働者階級の最も遅れた部分に十分広くゆきわたっていた。「母なる」ロシアは、周期的に起こるユダヤ人ポグロムで知られていただけではなく、当時においてはかなり大部数の反ユダヤ主義的出版物が多数出回っていたことでも知られていた。10月革命は根本的にユダヤ人の無権利状態を廃絶した。しかしながら、このことは、一撃で反ユダヤ主義が一掃されたことをけっして意味しない。宗教に対する長期にわたる粘り強い闘争にもかかわらず、今日なお、数千のキリスト教会、イスラム教会、ユダヤ教会は、祈りにくる人々でいっぱいである。同じことは民族的偏見の領域においても言える。立法行為だけで人々が変わるわけではない。彼らの思考、感覚、見解は、伝統、生活の物質的諸条件、文化水準、等々に依拠している。ソヴィエト体制ができてからまだ20年も経っていない。住民の中の年長者はツァーリズムのもとで生まれ育ったのである。残る若年者も年長者から多くを受け継いでいる。こうした一般的な歴史的条件一つとってみても、見識のある人なら、10月革命の模範的な立法にもかかわらず、後進的な大衆の中になお民族主義的・排外主義的偏見が、とりわけ反ユダヤ主義が強力な力を持っていることを理解しないわけにはいかないだろう。

 しかし、それだけではない。ソヴィエト体制は、実際には、一連の新しい現象を生活に持ち込んだ。それは、民衆の貧困と低い文化性のもとでは、反ユダヤ主義的気分を新たに呼び起こす可能性のあるものであり、実際呼び起こしている。ユダヤ人は典型的に都市住民である。ウクライナや白ロシアでは、さらには大ロシアにおいてさえ、ユダヤ人は都市住民のかなりのパーセンテージを占めていた。ソヴィエト体制は、世界の他のどの体制にも見られないほど多くの役人を必要とした。役人は、都市住民のなかの比較的文化性の高い部分から徴集された。当然のことながら、ユダヤ人は、官僚の中に、とりわけ中下級官僚の中に、不釣り合いに大きな割合を占めた。もちろん、この事実に目をつぶって、すべての民族の平等と友愛という一般的な美辞麗句でお茶を濁すことはできる。しかし、ダチョウの政治[自己欺瞞の政治のこと]はわれわれを一歩たりとも前に進めはしない。官僚に対する農民と労働者の反感はソヴィエト社会の基本的事実である。専制的体制、あらゆる批判に対する迫害、生きた思考の圧殺、そして最後に、でっちあげ裁判、これらは、こうした事実の反映にすぎない。したがって、官僚に対する反感が反ユダヤ主義のニュアンスを帯びることになると、アプリオリに判断することさえ可能である。とりわけ、ユダヤ人官僚が住民のかなりの部分を締め、大多数の農村住民に対して目立った地位にあるような場合には、そうだ。

 1923年、私はウクライナのボリシェヴィキ党協議会において、役人は地元の庶民の言葉で話し書かなければならない、と提起した()。この提案に関していかに皮肉な物言いをされたことか。とりわけ、ロシア語で話したり書いたりしてウクライナ語を学びたがらないユダヤ人インテリゲンツィアからそのような物言いをされたものだ! この点に関しては、状況はかなり改善されたことを認めなければならない。しかし、官僚の民族的構成はほとんど変わっていないし、また、それよりもずっと重要なことには、住民と官僚との間の対立はこの10〜12年間に著しく増大した。すべての真面目で誠実な観察者、とりわけ勤労大衆のもとで長期間生活することになった人々は、きっぱりと、反ユダヤ主義――しかも、古いそれだけでなく、新しい、「ソヴィエト」的なそれ――の存在を証言している。

 ソヴィエトの役人は、道徳的に、自分が四方を囲まれた収容所にいるように感じている。彼らは、全力を尽くしてこの孤立状態から飛び出そうと悪戦苦闘している。スターリンの政策の少なくとも50%はこうした悪戦苦闘によって指示されたものである。すなわち、(1)エセ社会主義的デマゴギー(「すでに社会主義は実現された」、「スターリンは人民に幸福な生活を与えたし、与えているし、今後も与えるだろう」、等々)、(2)官僚の周囲に新しい貴族制の広範な層を作り出すための政治的・経済的諸手段(スタハーノフ主義者、軍役職者、受勲者、新しい「上流階級」、等に対するべらぼうに高い賃金)、(3)住民の遅れた層の民族主義的感情と偏見に対する迎合。

 ウクライナの役人は、自身が生粋のウクライナ人の場合には、いざというときになると必ず次のように強調しようとする。すなわち、自分はムジークと農民にとって兄弟であり、けっして外国人ではないし、ましてやユダヤ人ではない、と。このような態度には、もちろん――悲しいかな!――「社会主義」のかけらもないし、初歩的な民主主義のかけらすらない。そこにあるのはただ、自らの特権に怯え、それゆえ完全にモラルを失っている特権官僚が、今やソヴィエト社会の最も反社会主義的で最も反民主主義的な層になっているという事実である。彼ら官僚は、その保身のための闘争において、最も頑迷牢固な偏見と最も暗い本能を利用している。スターリンがモスクワで、「トロツキスト」による労働者毒殺の裁判を開いているとしたら、ウクライナや中央アジアのどこかの僻地において官僚がどれほど醜悪な手段に訴えることができるか、想像することは困難ではない。

 たとえもっぱら公式の出版物に依拠したとしても、ソヴィエトの社会状況を注意深く観察するなら、時おり国のあちこちで恐るべき官僚主義の腫瘍が口をぱっくり開いているのを知ることができる。収賄、買収、公金の不正流用、適応できなかった人々の自殺、婦女暴行、等々。これらの腫瘍はいずれも、われわれに、官僚主義的階層の垂直断面図を示している。時おりモスクワ官僚は見せしめの裁判をすることを余儀なくされる。これらの裁判においてはいずれも必然的に、ユダヤ人が被告のかなりの部分を占める。その理由の一つは、すでに述べたように、官僚のかなりの部分がユダヤ人であり、その烙印によって目立つ存在であったことである。もう一つの理由は、中央および地方の官僚の指導的中核部分が、その素早い保身本能によって、勤労大衆の憎悪をユダヤ人にそらせようとするからである。この事実は、ソ連では、スターリン体制がその基本的特徴を顕わにしはじめた10年も前からすでに、すべての批判的観察者に知られていた。

 反対派との闘争は、支配的上層にとって死活にかかわるものだった。綱領、原則、大衆との結びつき、これらすべては、新しい支配階層の保身への配慮によって投げ捨てられた。これらの連中は、自分の特権と権力を守るためなら、何事の前にも立ち止まらない。最近、私の下の息子セルゲイ・セドフ()が労働者を大量毒殺する準備をしたかどで告発されたというニュースが世界をかけめぐった。まともな人間なら誰もがこう言うだろう。このような告発をすることのできる人間は道徳的にとことん堕落しているにちがいない、と。この場合、この告発者が大衆の反ユダヤ主義的偏見を利用しようとすることを一瞬でも疑うことができるだろうか? まさに私の息子のケースにおいて、道徳的堕落と反ユダヤ主義的偏見という二つの腫瘍は一個に結びついており、この事件についてはやや詳しく述べる価値があるだろう。

 私の息子たちは、生まれたときから母方の姓(セドフ)を名乗っている。彼らには他のいかなる姓もなかった。学校にいるときも、大学にいるときも、その後の生活においても、である。私に関して言えば、34年間、トロツキーという姓を名乗っている。ソヴィエト時代、誰も私のことを父方の姓(ブロンシュテイン)で呼んだことは一度としてないし、それは、スターリンがジュガシヴィリという姓で呼ばれたことがないのと同じである。息子たちが姓を変えなくてすむよう、私は「市民権」的必要のために妻の姓を取得した(ソヴィエトの法律はこうしたことを全面的に認めていた)。しかしながら、私の息子セルゲイ・セドフが労働者謀殺を準備したというまったくありえない罪で告発されたあとで、ゲ・ペ・ウはソヴィエトと外国の新聞に対し、私の息子の「真の」(!)姓は「セドフ」ではなく、「ブロンシュテイン」であると発表した。もしこの犯罪偽造者たちが、被告と私との関係を強調したかったとしたら、トロツキーという姓で呼んだはずである。なぜなら、「ブロンシュテイン」という姓は政治的には何も意味しないからである。しかし、彼らには別の目的があった。すなわち、私のユダヤ人的出自と息子の半ユダヤ人出自を強調することである。私がこの事件をやや詳しく述べたのは、この事件がきわめて重要な意味を持っており、けっして例外的なものではないからである。反対派に対する闘争はすべて、この種のエピソードで満ちている。

 スターリンがジノヴィエフおよびカーメネフとともに「トロイカ」を構成していた1923年から1926年までの間、反ユダヤ主義の合唱はまだ慎重で隠蔽された性格を持っていた。特別に訓練されたアジテーター(スターリンは当時すでに自分の同盟者に対する闘争を密かにはじめていた)は、トロツキーの追随者は「小都市」出身のプチブルであると――民族を特定することなく――言い触らした。実際にはこれは正しくない。反対派の中のユダヤ人の割合は、党や官僚の中の割合よりもけっして高くはなかった。1923〜25年の反対派の主要な顔触れを挙げるだけで十分だろう。イ・エヌ・スミルノフ()、セレブリャーコフ()、ラコフスキー()、ピャタコフ()、プレオブラジェンスキー()、クレスチンスキー()、ムラロフ()、ベロボロドフ(10)、ムラチコフスキ(11)、ヴェ・ヤコブレヴァ(12)、サプローノフ(13)、ヴェ・エム・スミルノフ(14)、イシチェンコ(15)。全員が生粋のロシア系である(16)。当時ラデック(17)は、半シンパにすぎなかった。しかし、収賄者をはじめとする犯罪者の裁判の場合と同様、反対派を党から除名するときも、官僚は、偶然的ないし2次的な役割しか果たしていないユダヤ人の名前をこれ見よがしに前面に押し出した。1925年にすでに、このことは党内では完全に公然と語られ、反対派はこうした状況のうちに、支配層の堕落のまごうことなく徴候を見て取っていた。

 ジノヴィエフとカーメネフが反対派に移行すると、状況は一気に悪化した。今や、反対派の指導者は3人の「不満を持ったユダヤ人インテリゲンツィア」であると労働者に言い触らすことができるようになった。スターリンの指令にもとづいて、モスクワのウグラーノフ(18)とレニングラードのキーロフ(19)はこの方針を、系統的かつほとんど完全に大っぴらに遂行した。「旧」路線と「新」路線との違いをよりわかりやすく労働者に示すために、ユダヤ人は、たとえまったく無私に総路線に献身している場合であっても、党とソヴィエトの責任ある地位から一掃された。農村だけでなく、モスクワの工場でも、反対派に対する攻撃は、1926年にすでに、しばしばはっきりとした反ユダヤ主義的性格を帯びていた。多くのアジテーターはあからさまにこう言った。「ユダヤの連中が騒いでいるんだ」。私のもとには、反対派に対する闘争において反ユダヤ主義的手法が使われたことを厳しく批判した手紙が何百と寄せられた。

 政治局の会議において、私はブハーリンに次のようなメモを渡した。「君が知らないはずはない、モスクワでさえ反対派との闘争において黒百人組的デマゴギー(反ユダヤ主義、等)の方法が用いられていることを」。ブハーリンは同じ紙片にあいまいな答えを書いて寄こした。「個々の場合には、もちろんありうる」。私は再び書いた。「私が言っているのは個々の事例のことではなく、モスクワの大企業で党書記によって系統的に行なわれているアジテーションのことだ。調査のために、たとえば『スコロホート』工場(私は他の例もたくさん知っている)に私といっしょに出かけることに同意するか」。ブハーリンは答えた。「わかった、行ってもいい」…。しかしながら、彼に約束を守らせようとしたが無駄だった。スターリンが厳重にそうするのを禁じたのである。

 党からの反対派の除名と逮捕と流刑とが準備されていた数ヵ月間(1927年前半)、反ユダヤ主義的アジテーションは、完全に野放図な性格を帯びていた。「反対派を倒せ」というスローガンは、しばしばかつてのスローガン「ユダヤを倒せ、ロシアを救え」とオーバーラップしていた。事態はますます悪化し、スターリンがわざわざ次のような声明を出さざるをえないまでになっていた。「われわれが、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフと闘うのは、彼らがユダヤ人だからではなく、彼らが反対派だからである」。政治的に思考する能力のあるすべての人々にとって、この声明が意識的に2重の意味を持っていることはまったく明らかだった。すなわち、反ユダヤ主義の「行きすぎ」を戒めつつ、同時に、完全に意図的に反ユダヤ主義を煽っていたのである。「忘れるな、反対派の指導者はユダヤ人なのだ」と。これが、すべてのソヴィエトの新聞に印刷されたスターリンの声明の意味だった。

 反対派が弾圧に抗してより公然かつ断固とした闘争に向かったとき、スターリンはピャタコフとプレオブラジェンスキーに意味深長な「冗談」を言った。「諸君は今や斧をもって中央委員会と闘っている。そこに諸君の『正教徒的(20)仕事が示されている。トロツキーは斧を持たずにこっそりと活動している」。ピャタコフとプレオブラジェンスキーはこの会話について非常に憤激した調子で私に伝えた。私に対して反対派の「正教徒的」中核を対置する試みを、スターリンは何十回となくやったものだ。

 ドイツの有名な急進派ジャーナリストで、『アクツィオン(行動)』の前編集長フランツ・プフェムフェルト(21)は、現在亡命の身であるが、1936年8月25日に私に次のような手紙を書いてきた。

「たぶん覚えていると思いますが、私はすでに数年前に『アクチオン』で、スターリンの多くの行動は彼の反ユダヤ主義的傾向によっても説明できるということを指摘しました。この恐るべき裁判においてスターリンが、タス通信を通じて、ジノヴィエフとカーメネフの名前さえ本名に『訂正』したという事実は、シュトライヒャー(22)的精神をもった真の暴挙を示しています。スターリンはこれによって、すべての反ユダヤ主義的無頼漢たちにゴーサインを出したのです」。

 実際、ジノヴィエフとカーメネフという名前は、ラドムィスリスキー[ジノヴィエフの本名]とローゼンフェリト[カーメネフの本名]という名前よりもはるかによく知られている。犠牲者の「本名」をわざわざ出すことに、反ユダヤ主義的気分に訴えるということ以外のいったいどんな動機がスターリンにあったというのか? このような操作――だがそこにはいかなる司法上の理由もない――は、われわれが先ほど見た、私の息子の姓に関して行なわれたのと同じである。しかし、疑いもなく最も驚くべきなのは、私によって国外から送られたという4人の「テロリスト」なるものがみなユダヤ人であるにもかかわらず、同時に…反ユダヤ主義のゲシュタポの手先だとされていることである! 私はこの不幸な4人のうち誰一人として見たことも聞いたこともないから、ゲ・ペ・ウが意識的に彼らをその民族的特徴で選び出したことは明らかである。だが、ゲ・ペ・ウは自分自身の思いつきで行動しているのではない!

 またしても。このような手法が、スターリンの個人的責任がまったく明白な最上層部において採用されているとしたら、下部において、工場やとりわけコルホーズにおいて、何が行なわれているかを想像することは難しくない。そしてそうでないわけがあろうか? ボリシェヴィキの古い世代の肉体的根絶は、考える能力のあるすべての人にとって、テルミドール反動の議論の余地なき現れであり、しかもその最も完成された段階である。だが歴史上、革命的高揚の後の反動が反ユダヤ主義を含む野放図な排外主義的熱情をともなわなかった例はいまだ存在しないのである。

 一部の「ソ連邦の友」の意見によれば、現在の官僚のかなりの部分によって反ユダヤ主義的傾向が利用されているという指摘は、スターリンに対する闘争のための悪辣なでっちあげだそうである。官僚の職業的「友」と議論するのは困難である。これらの人々は、テルミドール反動をも否定している。彼らはモスクワ裁判をも信用している。太陽の黒点のように明白なものを見ないという特別の目的をもってソ連に派遣される「友」もいる。官僚の指が彼らに示すものだけを見ることで特別手当てをもらう「友」も少なくない。しかし、苦い真実よりも――プーシキン(23)の言葉で言うなら――「われわれを高揚させる嘘」の方を選ぶ労働者、革命家、社会主義者、民主主義者の、何と哀れなことか。健全な革命的楽観主義はいかなる幻想も必要としない。現実は、ただありのままに受け取らなければならない。その反動的で野蛮な側面を克服するのに必要な力は現実そのもののうちに見出さなければならない。これこそわれわれがマルクス主義から学んだことである。

 一部の賢者は、あたかも私が突然に「ユダヤ人問題」を発見し、ユダヤ人のために何か特別の…ゲットーを作り出そうとしているかのように言って、私を非難する。私はただ同情を込めて肩をすくめるだけである。私はその全生涯を通じてユダヤ人社会の外部で暮らした。私は常にロシアの労働者運動の中で活動してきた。私の母語はロシア語である。残念なことに、ユダヤ人の言語を読むことを学ぶ機会さえなかった。ユダヤ人問題は、したがって、私の関心の中心に座ったことは一度もなかった。しかし、このことは、実際に存在しているし解決を必要としているユダヤ人問題に対して私が無関心でいることができるということを意味するものではない。

 「ソ連邦の友」たちは、ビロビジャン(24)が組織されたことで大いに満足している。その州がまともな原則にもとづいて建設されたのかどうか、そこにどのような体制があるのかについて、ここで詳しく述べない(ビロビジャンは官僚主義的専制のあらゆる悪徳をそれ自身のうちに反映させないわけにはいかないだろうが)。しかし、進歩的な思想を持った人なら、ソ連が、自分をユダヤ人と考え、他人に対して主としてユダヤ人の言語を話し、同胞とまとまって暮らしたいと思う自国市民に特別の領土を保証することに反対しないだろう。これはゲットーか否か? ソヴィエト民主主義の体制があるもとでは、そして、完全に自発的な移住である場合には、ゲットーなどまったく問題になりえないだろう。

 しかし、ユダヤ人問題は、ユダヤ人の移住の条件そのものからして、国際的な性格を有している。世界社会主義連邦は、自分自身の文化の舞台として独自の自治共和国を持ちたいと思うユダヤ人のために「ビロビジャン」をつくるべきだ、とわれわれが言うことは正当だろうか? 確実に予想できるのは、社会主義的民主主義は強制的同化の方法を採用しはしないということである。だが、独立したユダヤ人共和国の国境が2、3世代のうちに、他の多くの民族地域と同じく消えてなくなることも、大いにありうる。この問題について熟慮する時間もその気も私にはない。われわれの子孫は、何をなすべきかよりよく知っていることだろう。私が考慮するのは歴史的過渡期である。この過渡期においては、ユダヤ人問題はそれ自体としてなおそのあらゆる先鋭さを保持しているし、労働者国家の世界連邦によるしかるべき措置を必要とするだろう。ユダヤ人問題の解決方法は、腐朽しつつある資本主義のもとではユートピア的・反動的性格を有しているが(シオニズム)、社会主義連邦の体制のもとでは正常で健全なものになりうるだろう。私の言いたいことはこれだけである。マルクス主義者なら、いや首尾一貫した民主主義者でさえ、はたしてこのことに反対することなどできるだろうか?

1937年2月22日

『スターリンの犯罪』所収

『トロツキー研究』第30号より

  訳注

(1)1923年4月5日に行なわれた演説「ロシア共産党第12回大会の課題」を指している。

(2)セドフ、セルゲイ(1908-1937)……トロツキーの次男。成人してからは政治から一歩身を引き、技師としての道を歩む。父親のトロツキーが国外追放された後もロシアに残る。1935年にでっち上げの罪で逮捕され流刑。1937年に銃殺、1988年に名誉回復。

(3)スミルノフ、イワン・ニキチッチ(1881-1936)……工場労働者出身の古参ボリシェヴィキ。1899年入党。第1次世界大戦まで何度か逮捕。1916年、前線に。内戦時は政治委員(コミッサール)として活躍。「シベリアのレーニン」と呼ばれる。1920年から党中央委員。郵便電信人民委員。1923年から左翼反対派。1927年、除名。スフミに流刑。1929年に屈服し、「トロツキズムとの決裂」を表明。1930年に党に復帰。1929〜32年までトラストの管理機構に勤務。1931年、ベルリンで、トロツキーの息子レフ・セドフと会い、反対派ブロックを結成。1933年1月、逮捕され、2月に再度除名。1936年の第1次モスクワ裁判の被告。同年、銃殺。1988年に名誉回復。

(4)セレブリャーコフ、レオニード(1888/90-1937)……古参ボリシェヴィキ。1905年からの党員。1912年、プラハ大会の代議員。10月革命後、赤軍政治指導本部で活動。内戦中は、南部戦線の革命軍事会議メンバー。1919〜21年、党中央委員、組織局メンバー。1920〜21年、中央委員会書記。1922年、交通人民委員代理。左翼反対派の活発な活動家。1927年の第15回党大会で除名。1929年に屈服。1936年に逮捕。第2次モスクワ裁判の被告。1937年に銃殺。

(5)ラコフスキー、フリスチャン(1873-1941)……ブルガリア=ルーマニア出身のロシアの革命家、外交官、左翼反対派の指導者。1889年から社会民主主義運動に従事。ブルガリア、ルーマニア、ロシアなど多くの国で活動。1917年にボリシェヴィキに入党。1918〜1923年、ウクライナの人民委員会議長。1919年から党中央委員。1923年からの左翼反対派。ロンドンおよびパリの駐在大使を歴任。1927年の第15回大会で多くの反対派とともに除名。1928年に流刑。流刑地でなお反対派活動を継続するが、1934年にスターリンに屈服。1938年の第3次モスクワ裁判の被告。死後名誉回復。

(6)ピャタコフ、グリゴリー(ユーリー)(1890-1937)……元アナーキスト、古参ボリシェヴィキ。1910年以来の党員。1914年に亡命。民族問題などでブハーリンを支持して、レーニンと対立。1917年、キエフ・ソヴィエト議長。1918年、左翼共産主義者。1924年以降、左翼反対派。1927年、第15回党大会で除名。1928年に屈服。1930年、重工業人民委員代理。1937年の第2次モスクワ裁判の被告として銃殺。

(7)プレオブラジェンスキー、エフゲニー(1886-1937)……古参ボリシェヴィキ、経済理論家、トロツキスト。1903年からボリシェヴィキ。1909〜11年、流刑。1920〜21年、ボリシェヴィキ中央委員会の書記。1923年以来の左翼反対派。1920年代半ば、社会主義的本源的蓄積論を展開して、ブハーリンと論争。左翼反対派として1927年に党から除名。スターリンの極左的な工業化路線を知って、スターリニストに屈服。1929年に再入党を認められ、1933年に再び除名。大粛清期、自白を拒否し、裁判なしで銃殺。『ネップから社会主義へ』『新しい経済学』『資本主義の衰退』など。

(8)クレスチンスキー、ニコライ(1883-1938)……古参ボリシェヴィキ、法律家。1903年以来の党員。1918〜21年、財務人民委員。1921年からベルリン駐在大使。1917〜21年、党中央委員。1919〜21年、中央委員会書記。合同反対派のメンバー。1927年、第15回党大会で除名。その後屈服。1938年、第3次モスクワ裁判の被告として銃殺。

(9)ムラロフ、ニコライ(1877-1937)……1903年以来の古参ボリシェヴィキ。10月革命後、モスクワ軍管区司令官。内戦中は、各戦線の軍事革命会議で活躍。左翼反対派の指導者の一人として1928年に逮捕・流刑。1937年に第2次モスクワ裁判の被告の一人として銃殺。

10)ベロボロドフ、アレクサンドル(1891-1938)……古参ボリシェヴィキ。1907年から党員。1918年、ウラル州ソヴィエトの執行委員会議長。ニコライ2世一家銃殺を執行した一人。1919年、党中央委員。1920年、北カフカースの政治委員。1921〜23年、内務人民委員代理。1923〜27年、内務人民委員。合同反対派に参加。1927年の第15回党大会で除名。その後、スターリンに屈服。大粛清期に銃殺。

11)ムラチコフスキー、セルゲイ(1883-1936)……古参ボリシェヴィキ、ポーランド人。1905年以来の党員。10月革命および内戦で活躍。1923年以来の左翼反対派。1927年の第15回大会で除名。1928年に流刑。1929年に屈服。1933年に再び流刑。第1次モスクワ裁判の被告として銃殺。

12)ヤコブレヴァ、V・N(1884-1941)……古参ボリシェヴィキ。1904年からの党員。1917年から最高国民経済会議(ベセンハ)で活動。1918年に左翼共産主義派。1920〜22年、モスクワ委員会の書記。1923年から左翼反対派。1929年に屈服。1929〜37年、財務人民委員部で活動。第3次モスクワ裁判の被告。強制収容所で死亡。

13)サプローノフ、ティモフェイ・ウラジミロヴィチ(1887-1939)……労働者出身の古参ボリシェヴィキ。1911年以来の党員。10月革命後にモスクワ・ソヴィエト議長。ブレスト講和時は左翼共産主義派。1919年、ハリコフ革命委員会議長、全ロシア中央執行委員。ジェノヴァ会議のロシア代表団メンバー。1920年、民主主義的中央集権派を結成して、その指導者となる。1923年、左翼反対派として党多数派と闘争。1926年、スミルノフらとともに独自の分派を結成。1927年、第15回党大会で除名。その後屈服。1932年に再度除名。1939年に獄死。

14)スミルノフ、ウラジーミル・ミハイロヴィチ1887-1937)……古参ボリシェヴィキ、経済学者。1907年以来の党員。1918年、左翼共産主義者としてブレスト講和に反対。1920年、民主主義的中央集権派。1926年に合同反対派に。1927年に合同反対派から分裂し、サプローノフらとともに「15人グループ」による独自の政綱(「レーニンの旗のもとに」)を提出。1927年12月の第15回党大会で除名。流刑され、1937年に銃殺。1989年に名誉回復。

15)イシチェンコ、アレクサンドル(生没年不明)……1917年にボリシェヴィキに。労働組合分野で活動。1920年代半ばに左翼反対派に。1927年の第15回党大会で除名。その後流刑。1928年(別の資料では1929年)に屈服。粛清期に死亡。

16)ここでのトロツキーの発言はやや不正確。ラコフスキーはブルガリア=ルーマニアの出身であり、ムラチコフスキはポーランド系。

17)ラデック、カール(1885-1939)……1904年からポーランド・リトアニア社会民主党、1908年からドイツ社会民主党左派、1917年にボリシェヴィキ。1923年から左翼反対派。流刑地でスターリンに屈服し、1937年に第2次モスクワ裁判被告。獄死。

18)ウグラーノフ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ(1886-1937)……古参ボリシェヴィキ。1905年革命に参加し、1907年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェヴィキ。1921年にペテルブルク県委員会書記。すぐにジノヴィエフと衝突し、ウグラーノフは1922年にニジニノヴィゴロト県委員会書記に配転。1921〜22年、党中央委員候補。1923〜30年、党中央委員。1924年にモスクワ県委員会書記に着任して、反対派狩りに辣腕を振るう。その後も反トロツキスト運動の先頭に立ち、出世。1924年8月に中央委員会組織局員および書記局員に。1926年に政治局員候補。1928年にブハーリンの右翼反対派を支持。1930年に、右翼反対派として、中央委員会から追放され降伏。1932年にリューチン事件に連座させられ、逮捕、除名され、もう一度降伏。1936年に再び逮捕され、1937年に銃殺。1989年に名誉回復。

19)キーロフ、セルゲイ・ミロノヴィチ(1886-1934)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1904年以来の党員。1921年に中央委員会候補。1923年から党中央委員。1926年、レニングラードに乗り込み、レニングラード県委員会第一書記としてジノヴィエフ派を駆逐。1926年に政治局員候補。1930年から政治局員。1934年12月に、ジノヴィエフ主義者を名乗る青年によってクレムリンで暗殺され、この事件はその後の大粛清時代の幕開けを告げた。

20)「正教徒的」……「正教徒的」とはロシア正教徒である真正のロシア人を指す形容句で、ここでは、ピャタコフやプレオブラジェンスキーが、トロツキーやジノヴィエフらユダヤ人と違うことを強調しようとしている。

21)プフェムフェルト、フランツ(1879-1954)……ドイツの革命家。1911年から1932年まで『ディ・アクツィオン』(行動)の編集者で、ドイツ表現主義の最も重要な出版者の一人。スパルタクス団、つづいてKAPDで活動し、1926年に第2次スパルタクス団を創設した。第2次スパルタクス団は1927年に解散した。彼の妻アレクサンドラ・ラムは、『わが生涯』をはじめとするトロツキーの著作をドイツ語に翻訳している。彼らは2人ともトロツキーの友人であったが、政治的な仲間ではなかった。

22)シュトライヒャー、ユリウス(1885-1946)……ドイツのファシスト。ナチス党のフランケン大管区指導者で、反ユダヤ主義を激しく煽り立てた。

23)プーシキン、アレクサンドル(1799-1837)……ロシアの詩人・作家。ロシアの専制政治を批判し、革命運動に共感を示した。1917年の「自由」、18年の「農村」で専制政治を批判して、ペテルブルクを追放。1923〜31年に自伝的物語史『エフゲニー・オネーギン』を執筆。デカブリストの友人。晩年は歴史小説に関心を示し、『プガチョフの反乱』『スペードの女王』『大尉の娘』などを執筆。ロシア近代文学の父。

24)ビロビジャン……シベリア東部のハバロフスク地方にあるユダヤ人自治州。

 

トロツキー研究所

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1930年代後期