資本主義の死の苦悶と

第4インターナショナルの任務

(過渡的綱領)

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、第4インターナショナルの初期における最重要文献の一つであり、1938年9月に開催された第4インターナショナル創立国際会議で採択され、「過渡的綱領」という名前で普及した。「過渡的綱領」という発想そのもの――すなわち、労働者人民の当面する切実な要求と終局目標である社会主義革命とを媒介する諸要求の体系――は、若いころからトロツキーの中にあったものであり、そうした発想が永続革命論にも結びついているのだが、ここでは、それを明確に「過渡的綱領」と命名し、体系化し、原理的な解明を試みた。そして、一連の国々において――先進国からファシスト諸国、第三世界諸国およびソ連邦に至るまで――その過渡的綱領の基本的中身を具体的に明らかにしている。

 また、この過渡的綱領においてトロツキーは、『裏切られた革命』である程度示唆されていたとはいえ、よりはっきりとソ連邦における複数政党制の必要性を言明しており、この点でもこの過渡的綱領の歴史的意味は重大である。

 しかし他方では、理論的文献というよりも実践のための煽動文書という性格を持っているため、ここかしこで性急な一般化や断定が見られる。また、深刻な世界恐慌とファシズムの支配と世界戦争前夜という切迫した状況の中で書かれたこともあって、きわめて危機論的色彩が強い。さらに問題を主体、とりわけ革命的指導部の問題に還元する傾向も見られる。

 とはいえ、マルクスとエンゲルスの筆による『共産党宣言』を彷彿とさせるこの文書が、大きな歴史的意義を持ったものであることは間違いない。

 この過渡的綱領はこれまで何度となく日本語に訳されてきたが、それはすべて英語版からの重訳であった。今回初めて、『反対派ブレティン』の第66・67合併号掲載のロシア語原文から翻訳している(右上の写真)。ただし、ロシア語版の方は、国際会議で採択されたものそのものではなく、その前に第4インターナショナル国際書記局に討議のために提出されたものである。したがって、実際に採択されたものと、ごく一部分に相違がある。そのほとんどは枝葉末節なもので、とくに無視して差し支えないと思われるが、いくつか比較的重要な違いのみ訳注で示しておいた。

Л.Троцкий, Агония капитализма и задачи Четвертого Интернационала, Бюллетень Оппозиции, No.66-67, Май-июнь 1938.


 1、社会主義革命の客観的前提条件

 2、プロレタリアートとその指導部

 3、最小限綱領と過渡的綱領

 4、賃金のスライディング・スケールと労働時間のスライディング・スケール

 5、過渡期における労働組合

 6、工場委員会

 7、「商業上の秘密」と産業の労働者統制

 8、個々の資本家グループの収奪

 9、私営銀行の接収と信用制度の国有化

 10、労働者のピケット、防衛隊、労働者民兵、プロレタリアートの武装

 11、労働者と農民の同盟

 12、帝国主義と戦争に対する闘争

 13、労働者と農民の政府

 14、ソヴィエト

 15、後進諸国と過渡的諸要求の綱領

 16、ファシスト諸国における過渡的諸要求の綱領

 17、ソ連邦と過渡期の諸問題

 18、日和見主義反対、無原則な修正主義反対

 19、セクト主義反対

 20、青年への道を見出せ! 女性労働者への道を見出せ!

 21、第4インターナショナルの旗のもとに!


 ※原注 これは第4インターナショナル国際書記局の討議のために提案された行動綱領である。

 

   1、社会主義革命の客観的前提条件

 世界の政治情勢は全体として、何よりもプロレタリアートの指導部の歴史的危機によって特徴づけられる。

 プロレタリア革命のための経済的前提条件は総じて資本主義のもとで可能な最高の成熟段階に達している。人類の生産力は成長を止めている。もはや新しい発明や改良も物質的富の水準を高めることはできない。資本主義全体が社会的危機に陥っているもとでの循環性恐慌は、ますます激しい窮乏と苦しみを大衆に与える。増大する失業はまた国家の財政危機を深め、不安定な通貨制度を掘りくずす。ファシスト体制も民主主義体制も次から次へと新たな破産をこうむっている。

 ブルジョアジー自身、いかなる出口も見い出しえていない。ブルジョアジーがすでに最後の切り札をファシズムに賭けざるをえなかった諸国では、ブルジョアジーはいまや目を閉じたまま経済的・軍事的破局に向かってすべり落ちつつある。歴史的に特権的な諸国、すなわちブルジョアジーがなお一定の期間、これまでの国民的蓄積を犠牲にして民主主義の贅沢を許すことができる諸国(イギリス、フランス、アメカ合衆国、等)では、いっさいの伝統的な資本主義諸政党は意志のマヒに近い困惑状態に陥っている。「ニューディール」は、その初期においてこれ見よがしに示した断固たる姿勢にもかかわらず、ブルジョアジーが莫大な富を蓄積することができた国においてだけ可能な、特殊な形態の困惑にすぎない。いつ終わるとも知れぬ現在の危機は、アメリカ合衆国における「ニューディール」政策が、フランスにおける人民戦線政策と同様、経済的袋小路からのいかなる活路も開きはしないということをすでに明らかにしてしまった。

 国際関係の様相もこれよりましではない。資本主義衰退のますます増大する圧力のもとで、帝国主義的対立は限界に達しており、個々の衝突や局地的な流血の騒乱(エチオピア、スペイン、極東、中部ヨーロッパ…)は不可避的に結びつきあって世界的規模の猛火になるにちがいない。ブルジョアジーは、新しい戦争が自己の支配にとって致命的な危険性を有していることをもちろん承知している。だが、ブルジョアジーは、現在、1914年の前夜よりもはるかに戦争を回避できなくなっている。

 歴史的条件は社会主義のためにいまだ「成熟」していないといった類のいっさいのおしゃべりは、無知かあるいは意識的な欺瞞の産物である。プロレタリア革命のための客観的前提条件は「成熟」しているだけではない。それはいささか腐りはじめている。社会主義革命なしには、それも次の歴史的時期に起こらないとすれば、人類の全文化は破局をこうむるだろう。今やプロレタリアートの出番なのであり、何よりもその革命的前衛の出番なのである。人類の歴史的危機は革命的指導部の危機に還元される。

 

   2、プロレタリアートとその指導部

 ブルジョアジーの経済、国家、政治、およびその国際関係は、社会の前革命的情勢に特徴的な社会的危機によって骨の髄まで侵されている。前革命的情勢を革命的情勢に転化させるうえでの主要な障害は、プロレタリア指導部の日和見主義的性格にある。すなわち、大ブルジョアジーの死の苦悶にもかかわらず、ブルジョアジーに対して抱く彼らの小ブルジョア的臆病さ、大ブルジョアジーとの裏切り的結びつきである。

 すべての国々において、プロレタリアートは深刻な不安にとらわれている。幾百万の大衆は再三再四にわたって革命運動に決起する。たが、その度ごとに、彼らは自らの保守的官僚機構にぶちあたる。

 スペイン・プロレタリアートは、1931年4月以来、権力を自己の手中に収め社会の運命を指導しようと何度も英雄的試みを行なった。しかしながら、彼ら自身の政党(社会党、スターリニスト、アナーキスト、POUM)はそれぞれのやり方でブレーキの役割を果たし、かくしてフランコの勝利を準備した。

 フランスでは、「坐りこみ」ストライキの巨大な波――とくに1936年6月のそれ――は、資本主義制度を転覆する用意がプロレタリアートに完全にできていることを明らかにした。しかしながら、指導的諸組織(社会党、スターリニスト、サンディカリスト)は、人民戦線の名のもとに革命的奔流に枠をはめ、少なくとも一時的に食い止めることに成功した。

 アメリカ合衆国における「坐りこみ」ストライキの空前の波と産別労働組合(CIO)の驚くべき急成長は、歴史によって自らの前に提起された課題の水準にまで高まろうとするアメリカ労働者の本能的努力をまったく議論の余地なく示している。しかしながら、ここでもまた、新しく結成されたCIOを含む指導的諸組織は、大衆の革命的圧力を抑制しマヒさせるためにできることは何でもしている。

 ブルジョア秩序の側へのコミンテルンの完全な移行、全世界における――とりわけスペイン、フランス、アメリカ合衆国などの「民主主義」諸国における――その破廉恥な反革命的役割は、世界プロレタリアートにとってはなはだしい困難をさらにつけ加えた。10月革命の旗のもとに遂行された「人民戦線」の協調主義的政策は、労働者階級を無力な状態に陥らせ、ファシズムのための道をはき清めている。

 一方における「人民戦線」と他方におけるファシズム――これらは、帝国主義にとってプロレタリア革命と闘うための最後の政治的手段である。しかしながら、歴史的見地からするとき、これら二つの手段は擬制にすぎない。資本主義の腐朽は、フランスの自由帽のもとでも、ドイツのかぎ十字のもとでも等しく進行している。ブルジョアジーを打倒する以外、活路を開くことはできない。

 現在、大衆の方向性を規定しているのは、一方では、腐朽しつつある資本主義の客観的諸条件であり、他方では古い労働者諸組織の裏切り的政策である。この二つの要因のうち決定的なのは、もちろん第一のものである。歴史の法則は官僚機構よりも強力である。社会裏切主義者の方法がいかに多様であろうとも――ブルムの「社会」立法から、スターリンのでっちあげ裁判にいたるまで――、彼らはプロレタリアートの革命的意志を打ち破ることにけっして成功しないだろう。歴史の歯車を押し止めようとする彼らの死に物狂いの努力は、時が経つにつれてますます、大衆に対して次のことを証明するだろう。すなわち、人類文化の危機にまでなっているプロレタリア指導部の危機はただ、第4インターナショナルによってのみ解決しうるということを。

 

   3、最小限綱領と過渡的綱領

 当面する時期――煽動、宣伝、組織化の前革命的時期――の戦略的課題は、革命にとっての客観的諸条件の成熟と、プロレタリアートおよびその前衛の未成熟(古い世代の混乱と幻滅、若い世代の未経験)との間にある矛盾を克服することにある。大衆が、その日常的闘争の過程の中で、当面する諸要求と社会主義革命の綱領との間に架け橋を発見するのを助けることが必要である。この架け橋は、今日の諸条件と労働者階級の広範な層の現在の意識から出発して必然的に同一の結論――すなわちプロレタリアートによる権力の獲得――へと導く過渡的諸要求の体系を含まなければならない。

 資本主義が進歩的であった時代に活動した古典的社会民主主義は、その綱領を、相互に独立した二つの部分に分けた。ブルジョア社会の枠内での改良に限定された最小限綱領と、不確定の未来において資本主義を社会主義に置きかえることを約束する最大限綱領とに。最小限綱領と最大限綱領との間にはいかなる架け橋も存在しなかった。事実また、社会民主主義はそのような架け橋を何ら必要としなかった。なぜなら、彼らにとり、社会主義はただ祭日のおしゃべりのための話題にすぎなかったからである。そしてコミンテルンは、よりにもよって資本主義の衰退期に、すなわち総じて系統的な社会改良や大衆の生活水準の向上が問題になりえないときに、ブルジョアジーの左手が何かを与えるたびに、その2倍多くをブルジョアジーの右手が奪い取っているときに(税金、関税、インフレーション、デフレーション、物価の高騰、失業、警察によるストライキ統制、等々)(1)、プロレタリアートの重大な要求は言うまでもなく小ブルジョアジーの進歩的な要求でさえことごとく不可避に資本主義所有とブルジョア国家の限界を越えてしまうときに、社会民主主義の道に従いはじめたのである。

 第4インターナショナルの戦略的課題は、資本主義を改良することではなく、それを打倒することである。その政治目的は、ブルジョアジーを収奪するためにプロレタリアートが権力を獲得することである。しかしながら、この戦略的課題の達成は、いっさいの戦術的諸問題――たとえそれが小さなものや部分的なものであったとしても――に最も慎重な注意を払うことなしには考えられない。プロレタリアートのあらゆる諸部分、そのあらゆる階層、職業、グループを革命運動に引き入れなければならない。現在の時代を画する特徴は、それが革命党を日常のこまごまとした活動から解放するという点にあるのではなく、革命の課題と不可分に結びついた形でこの活動を遂行しうるという点にある。

 第4インターナショナルは、古い「最小限」綱領に含まれている諸要求がたとえ部分的でも生命力を保持しているかぎり、それを放棄しない。第4インターナショナルは労働者の民主主義的諸権利とその社会的獲得物をあくまでも防衛する。しかし、第4インターナショナルはこの日常活動を正しく現実的な展望の枠内で、すなわち革命的展望の枠内で遂行する。大衆の古い部分的な「最小限」要求が衰退した資本主義の破壊的で退廃的な諸傾向と衝突するかぎりにおいて――そして、それは一歩ごとに生起している――、第4インターナショナルは過渡的諸要求の体系を提起する。その本質は、それらの要求の矛先がますます公然かつ決定的な形でブルジョア体制の土台そのものに向けられるという点にある。古い「最小限綱領」は、プロレタリア革命に向けて大衆を系統的に動員することを課題とする過渡的綱領に取って代わられるのである。

 

   4、賃金のスライディング・スケールと

        労働時間のスライディング・スケール

 大衆は、衰退しつつある資本主義の条件のもとでも、その抑圧された日常生活を送っているが、その生活は現在、いつにもまして、貧窮のどん底に投げこまれる危険性に脅かされている。彼らは、パンのひとかけらを防衛せざるをえない。たとえそのパンを増やしたり改善したりすることができなくても、である。全国的、地域的、労働組合的な具体的諸状況からその度ごとに生じる個々の部分的諸要求をここで列挙する必要はないし、そうすることもできない。しかし、資本主義システムのますます増大する不合理性を集約している二つの基本的な経済的災厄たる失業物価高とは、闘争の一般化されたスローガンと方法を要求している。

 軍国主義、恐慌、通貨制度の崩壊をはじめとする資本主義の死の苦悶から生じる災厄の重荷のすべてを勤労大衆に負わせようとする資本家の政策に対して、そしてかなりの程度はその手先たる改良主義者の政策に対しても、第4インターナショナルは非妥協的な戦争を宣言する。第4インターナショナルはすべての人にとっての仕事十分な生活条件を要求する。

 通貨インフレーションも通貨の安定化もプロレタリアートのスローガンになりえない。なぜなら、この二つは同じ1本の棒の両端にすぎないからである。戦争の切迫とともにますます野放図な性格を帯びるであろう物価の高騰に対しては、ただ賃金のスライディング・スケールのスローガンのもとでのみ闘うことができる。これは、団体協約が生活必需品の物価上昇に比例して賃金の自動的上昇を保障することを意味する。

 自分たちが破滅する脅威にさらされているプロレタリアートは、労働者のますます多くの部分が、慢性的失業者に、すなわち、解体しつつある社会の施しもので生きながらえる救恤貧民に落ちぶれることを、おめおめと許すことはできない。労働する権利こそは、搾取の上に成り立つ社会において労働者が持っている唯一重大な権利である。しかしながら今日、この権利は至るところで労働者から奪いとられつつある。「構造」的ならびに「循環」的な失業と闘うスローガンとしては、公共事業のスローガンと並んで、労働時間のスライディング・スケールのスローガンを掲げるべき時である。労働組合をはじめとする大衆組織は、労働者と失業者とを連帯責任の絆でもって結びつけなければならない。現在の総労働は現在のすべての労働者成員の間で分配され、それに応じて週労働時間は決定されるだろう。各労働者の平均賃金は以前の労働時間のときと同一のままである。最低賃金以上を厳格に保障したうえで、賃金は物価の動きにしたがう。現在の破局的な時期において、これ以外のいかなる綱領も受け入れることはできない。

 有産者やその弁護人たちは、こうした要求が「実現不可能である」ことを証明するだろう。より小さな資本家、とりわけ、破産しかけている資本家たちは、そのさい自分たちの帳簿を持ち出すだろう。労働者はそのような論拠や傍証をきっぱりと拒否する。問題になっているのは、相対立する物質的利害の「正常」な衝突なのではない。問題になっているのは、没落と解体と破滅からプロレタリアートを守ることである。問題になっているのは、唯一創造的で進歩的な階級の生死であり、したがってまた人類の未来である。資本主義が自ら生みだした災厄から必然的に生まれてくるこれらの諸要求を満たしえないのであれば、資本主義は滅びさるがよい。「実現可能」か「実現不可能」かは、この場合、力関係の問題であり、それはただ闘争によってのみ決定することができる。その直接的な実践的成功がいかなるものであろうとも、この闘争にもとづいてこそ労働者は、資本主義的奴隷制を清算する必要性を最もよく理解することになるのである。

 

   5、過渡期における労働組合

 部分的および過渡的諸要求のための闘争にとって、今日、労働者はかつてなく大衆組織を、何よりも労働組合を必要としている。フランスならびにアメリカ合衆国における労働組合の強力な発展は、「労働組合の時代は終わった」と教えてきた極左的教条主義者たちの受動性に対する最良の回答である。

 ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、たとえそれが労働者階級の最も控えめな物質的利益や民主主義的権利のための闘争であっても、あらゆる種類の闘争の先頭に立つ。ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、大衆的労働組合に積極的に参加し、組合を強化して、その闘争精神を高めるために努力する。労働組合をブルジョア国家に従属させ、プロレタリアートを「強制的仲裁」をはじめとするあらゆる形態の警察的後見――それがファシスト的なものであろうと、「民主主義」的なものであろうと――に縛りつけようとするいかなる試みに対しても、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は非和解的に闘う。このような活動にもとづいてはじめて、労働組合内部における、スターリニスト官僚を含む改良主義者に対する闘争を成功させることができる。小さな「革命的」組合を党の第2版としてつくったり維持しようとするセクト的な試みは、実際には労働者階級に対する指導権のための闘争を放棄することを意味する。次のような確固たる規則を打ち立てなければならない。すなわち、大衆的労働組合からの敗北主義的な自己隔離は革命への裏切りに等しく、第4インターナショナルの成員たることとは両立しえない、と。

※  ※  ※

 同時に、第4インターナショナルは、労働組合主義者の特徴であり、サンディカリストの特徴でもある、労働組合への物神崇拝を断固として拒否し、否定する。

 (a)労働組合は、全面的な革命的綱領を持ってはいないし、その本来の課題、構成、メンバー募集のあり方からして持ちえない。したがって、労働組合はに取って代わることはできない。第4インターナショナルの支部としての各国の革命党を建設することは、過渡期の中心課題である。

 (b)労働組合は、最も強力な場合でさえ、労働者階級の20〜25パーセント以上を包含していないし、しかも包含しているのは主としてより熟練したより高賃金の労働者層である。労働者階級の最も抑圧された多数派は、労働運動が例外的に高揚した時に、ただエピソード的に闘争に引きこまれるだけである。このような高揚した瞬間には、闘争に足を踏み出しているすべての大衆を包含する特別の組織、すなわち、ストライキ委員会、工場委員会、そしてソヴィエトをつくらなければならない。

 (c)上層プロレタリアートの組織としての労働組合は、スペインのアナルコ・サンディカリスト組合の最新の経験を含むすべての歴史的経験が物語っているように、ブルジョア民主主義の体制と妥協しようとする強力な傾向を内包している。先鋭な階級闘争の時期において、労働組合の指導機関は、大衆運動を無害なものにするためにそれを支配しようとする。単なるストライキの時でさえすでにこのようなことは起こる。とりわけ、ブルジョア的所有の原則を震憾させる大衆的「坐りこみ」ストライキの場合にはそうである。そして、ブルジョアジーの状況が特別に困難なものになる戦争や革命の際には、労働組合の指導者はたいていブルジョア大臣になる。

 したがって、第4インターナショナルの各国支部は、労働組合の機構を刷新するために奮闘するだけでなく、また、危機の瞬間には、旧習墨守の官僚や出世主義者に替えて、新しい戦闘的指導者を大胆かつ断固として押し出すようつねに努めるだけでなく、可能な場合には必ず、ブルジョア社会に対する大衆的闘争の課題によりいっそう適合した独立の戦闘的組織をつくるよう努めるべきである。そして、必要とあらば、労働組合の保守的機構と直接分裂することさえ恐れてはならない。セクト的な虚構のために大衆組織に背を向けることが犯罪的であるとすれば、革命的大衆運動が、あからさまに反動的な、あるいは、偽装した保守的(「進歩的」)官僚集団の統制に服従している事態を受動的に黙認することも、それに劣らず犯罪的である。労働組合は自己目的ではなく、プロレタリア革命への途上における手段の一つにすぎない。

 

   6、工場委員会

 過渡期の労働運動は、計画的で均衡のとれたものではなく、熱病的で爆発的な性格を有している。スローガンは、組織形態と同様、こうした運動の性格に即していなければならない。指導部は、旧習墨守なやり方を絶対に避け、大衆自身のイニシアチブに敏感に反応しなければならない。

 こうしたイニシアチブの最新の現われである坐りこみストライキsit-down strikes)は、「通常の」資本主義体制の限界を越えている。ストライキ参加者の要求が何であれ、工場の一時的占拠は資本主義的所有という偶像に打撃を与える。あらゆる「坐りこみ」ストライキは、工場の支配者は誰か、資本家かそれとも労働者かという問題を実践的に提起する。

 「坐りこみ」ストライキがこの問題をエピソード的に提起するとすれば、工場委員会はこの同じ問題に組織的な表現を与える。企業のすべての労働者と従業員によって選出される工場委員会は、ただちに経営者の意志に対する対抗軸をつくりだす。

 改良主義者が、フォードのようないわゆる「経済的王党派」タイプの古いボスたちを批判して、「民主的な」「よい」搾取者を持ち出すのに対し、われわれは前者と後者の双方に対する闘争の中心軸として工場委員会のスローガンを対置する。

 労働組合官僚は通常、このような委員会の創設に抵抗するだろう。それは彼らが、大衆の動員に向けたあらゆる大胆な一歩に抵抗するのと同じである。しかし、運動の規模が拡大すればするほど、この抵抗を打ち破ることはますます容易になる。すでに「平和時」においてすべての企業労働者が組合員である場合(クローズド・ショップ制)、工場委員会は労働組合の通常の機関と形式的に一致するだろう。だが、それは、その役員を更新し、その機能を拡大するだろう。しかしながら、工場委員会の主要な意義は、労働組合が普通では包含することのできない労働者層のための戦闘的司令部になることである。そして、まさにこの最も抑圧された層から、革命の最も自己犠牲的な部隊が輩出されるのである。

 工場委員会が出現する瞬間から、事実上の2重権力が工場内に打ち立てられる。工場委員会はその本質そのものからして一つの過渡的状態を現わしている。なぜなら、それは資本主義体制とプロレタリア体制という二つの相いれない体制を内に含んでいるからである。工場委員会の原理的意義はまさに、それが直接に革命的時期を切り開かないにしても、ブルジョア体制とプロレタリア体制との間に横たわる前革命的時期を切り開くことにある。工場委員会のプロパガンダは時期尚早でも人為的でもない。このことは、一連の国々に燃えひろがった「坐りこみ」ストライキの波が十分に証明している。このような新しい波は近い将来にも不可避的に起こるであろう。不意を打たれないためには、時機を失することなく工場委員会のためのカンパニアを開始しなければならない。

 

   7、「商業上の秘密」と産業の労働者統制

 競争と自由商業にもとづく自由主義的資本主義は完全に過去のものになってしまった。それに取って代った独占資本主義は、市場の無政府性を緩和しないだけでなく、反対にその無政府性に対してとりわけ痙攣的な性格を与える。経済を「統制」し、産業を国家が「指導」し「計画化」することの必要性は、今日、ファシストから社会民主主義者にいたる現在のほとんどすべてのブルジョア的および小ブルジョア的潮流によって――少なくとも言葉のうえでは――承認されている。ファシストにとって、問題は主として軍事的目的のために人民を「計画」的に略奪することである。社会民主主義者は、無政府の大洋を官僚的「計画」のスプーンで汲みつくそうと奮闘する。技師や教授たちは「テクノラシー」についての論文を書く。民主主義政府は、そのおずおずとした「調整」の経験において、大資本の克服しがたいサボタージュに頭をぶつける。

 搾取者と民主主義的「統制者」との間の実際の関係は、「改良主義者」の紳士諸君がトラストとその工業上・商業上の「秘密」の門前で敬虔な恐れから立ちすくんでしまうという事実によって最もよく示されている。ここで支配しているのは、「不干渉」の原則である。個々の資本家と社会との間の勘定は資本家の秘密のままである。それは社会が関知するところではない、というわけだ。「商業上の秘密」を正当化しているのは、自由主義的資本主義の時代と同じく、やはり「競争」の利益である。だが、実際にはトラスト相互の間に秘密などない。現代における「商業上の秘密」なるものは、社会に対する独占資本の恒常的ペテンでしかない。「経済的王党派」の独裁権を制限しようとする企ては、社会的生産手段の私的所有者が搾取、横奪、詐欺のメカニズムを生産者と消費者から隠しおおせるかぎり、惨めな茶番でありつづけるだろう。「商業上の秘密」の廃止は実際の産業統制へ向かう最初の一歩である。

 労働者には、資本家に劣らず、企業、トラスト、産業の全部門、全体としての国民経済の「秘密」を知る権利がある。何よりも銀行、重工業、集中された運輸部門をガラス張りにしなければならない。

 労働者による統制の直接の課題は、個々の企業からはじめて、社会全体の収入と支出を明らかにすること、国民所得全体に占める個々の資本家ならびに全体としての搾取者の実際の領有割合を確定すること、銀行やトラストの舞台裏の取引や詐欺行為を暴露すること、そして最後に、資本主義的無政府性と剥出しの利潤追求の結果である人間労働の法外な浪費を全社会の前に暴露することである。

 ブルジョア国家のいかなる役人も、たとえ全権を授けたとしても、このような仕事を遂行することはできない。それぞれの国の「60家族」や「200家族」の陰謀を前にしては、ルーズヴェルト大統領やレオン・ブルム首相といえどもまったく無力であったことは、全世界が目撃したところである。搾取者の抵抗を打ち破るためには、プロレタリアートの圧力が必要である。ただ工場委員会だけが、人民のために誠実に奉仕する専門家たち、すなわち計理士、統計家、技師、学者等々を――「テクノラート」としてでなく、相談役として――引き寄せることによって、生産に対する真の統制を実現することができる。

※  ※  ※

 失業に対する闘争は、とりわけ、公共事業を広範かつ大胆に組織することなしには考えられない。だが、個々の公共事業が、失業者自身にとってだけでなく社会全体にとっても持続的な進歩的意義を持つことができるのは、それが何年にもわたる見通しをもった全般的計画の一構成部分である場合のみである。この計画の枠内において労働者は、恐慌のせいで閉鎖された私企業を公的資金を使って再開することを要求するだろう。このような場合、労働者統制は直接的な労働者管理に取って代られるだろう。

 どんなに初歩的な経済計画であれ、それを――搾取者の見地からではなく、勤労者の見地から――作成することは、労働者統制なしには、すなわち資本主義経済のすべての公然・非公然の源泉に対して労働者の目が浸透することなしには、考えられない。個々の企業の委員会は、しかるべき協議会を開いて、トラスト、各工業部門、経済地域、そして最後に全体としての国民経済にそれぞれ対応する委員会を選出しなければならない。こうして、労働者統制は計画経済の学校になる。労働者統制の経験にもとづいて、プロレタリアートはその時機が到来するときに国有産業を直接管理するための準備を整えるだろう。

 時には労働者に対して自ら進んで帳簿を開いてみせる資本家たち(主に中小の資本家たち)がいるが、それはもっぱら賃金切り下げの必要を証明するためである。そうした資本家たちに対して、労働者は答える。われわれが関心を持っているのは、個々の破産した、ないし破産しかけた資本家の帳簿ではなく、全搾取者の帳簿である、と。労働者は自己の生活水準を、自分自身の体制の犠牲者である個々の資本家の利害に合わせることはできないし、またそうするつもりもない。課題となっているのは、生産と分配の全システムを、より理性的でより人間的な原理にもとづいて立てなおすことである。商業の秘密を廃止することが労働者統制の必要条件であるとすれば、労働者統制は経済の社会主義的指導への第一歩である。

 

   8、個々の資本家グループの収奪

 社会主義の綱領は、収奪者を収奪すること、すなわちブルジョアジーを政治的に打倒し、その経済的支配を一掃することであるが、しかしこのことは、現在の過渡期において、場合によっては、国民生活にとって決定的ないくつかの基幹産業部門あるいはブルジョアジーの最も寄生的なグループを収奪せよという要求を提起することをけっして妨げるものではない。

 たとえば、アメリカ合衆国における「60家族」やフランスにおける「200家族」の独裁についての民主主義的紳士諸君の哀れな嘆きに対して、われわれはこれら60あるいは200の資本主義的封建領主たちを収奪せよという要求を対置する。

 まったく同様に、われわれは軍事産業、鉄道、最も重要な原材料等々の分野の独占企業を収奪することを要求する。

 こうした要求と改良主義者の曖昧な「国有化」のスローガンとの相違は、次の点にある。(1)われわれは補償を拒否する。(2)われわれは、国有化を言葉のうえでは説教するが実際には資本の手先のままである人民戦線のペテンに対して、大衆に警告する。(3)われわれは、大衆が自分自身の革命的力にだけ依拠するよう呼びかける。(4)われわれは、収奪の問題を労働者と農民による権力の問題と結びつける。

 収奪のスローガンは、一般的な宣伝の形態においてだけではなく、日常の煽動においても、したがって部分的な形でも、提起する必要があるが、それは、産業のさまざまな部門があい異なる発展水準にあり、それぞれが社会生活においてさまざまな位置を占めており、階級闘争のあい異なる段階を経過しているという事実にもとづいている。プロレタリアートの全般的な革命的高揚だけがブルジョアジーの全般的な収奪を日程にのせることができる。過渡的諸要求の課題は、この課題の解決に向けてプロレタリアートを準備することである。

 

   9、私営銀行の接収と信用制度の国有化

 帝国主義は金融資本の支配を意味する。銀行は、トラストやシンジケートと並んで、そしてしばしばこれらの上に立って、経済に対する現実の指揮権をその手に集中する。銀行はその構造を通じて現代資本主義の全構造を集中的な形で表現している。すなわち銀行は、独占の傾向を無政府の傾向と結びつけている。銀行は科学技術の奇跡、巨大企業、強大なトラストを組織すると同時に、物価高、恐慌、失業を組織する。銀行という管制高地が略奪的資本家の手中にとどまるかぎり、相互に補完しあって破壊作用を及ぼしている独占的専横と資本主義的無政府性に対する闘争において、本格的な一歩を踏み出すことはおよそ不可能である。合理的計画にもとづき人民全体の利益と合致した投資ならびに信用の統一的なシステムをつくり出すためには、すべての銀行を単一の国民銀行に合同させることが必要である。私営銀行を接収し全信用制度を国家の手に集中することだけが、経済計画にとって必要で現実的な、すなわち単に紙の上での官僚的なものではない物質的手段を国家に与えるだろう。

 銀行の接収は、銀行預金の接収をけっして意味しない。その反対に、単一の国営銀行は、小預金者にとって私営銀行よりもはるかに有利な条件をつくり出すことができる。同様に、ただ国営銀行だけが、自営農や手工業者や小商人のための特恵的な条件、つまり廉価な信用条件を設定することができる。しかし、より重要なのは、全体としての経済、何よりもまず大工業と運輸が、単一の金融指令部によって方向づけられることで、労働者およびその他すべての勤労者の死活にかかわる利益に貢献することができることである。

 しかしながら、銀行の国有化がこのような有益な結果をもたらすことができるのは、国家権力そのものが搾取者の手から勤労者の手に完全に移行する場合のみである。

 

   10、労働者のピケット、防衛隊、労働者民兵、プロレタリアートの武装

 「坐りこみ」ストライキは、ブルジョアジーのみならず、第4インターナショナルを含む労働者組織に対する大衆からの重大な警告である。1919〜20年にイタリア労働者は自分自身のイニシアチブにもとづいて工場を占拠し、かくして彼らの「指導者」たちに社会革命の開始を合図した。「指導者」たちはこの合図に留意しなかった。その結果、ファシズムが勝利した。

 「坐りこみ」ストライキは、いまだイタリア型の工場占拠を意味しない。だが、それは占拠に向かう決定的な一歩である。現在の恐慌は階級闘争の歩みを著しく先鋭化させ、大詰めの瞬間を近づけることができる。だがこのことは、革命情勢がすぐに到来するということを意味しない。実際には、その接近は一連の痙攣によって告げ知らされる。その一つが「坐りこみ」ストライキの波である。第4インターナショナルの各国支部の課題は、プロレタリア前衛が現代という時代の全般的な性格とその発展テンポを理解することを助け、時機を失することなく、ますます断固たるスローガンと戦闘的な組織的手段でもって大衆の闘争を発展させることである。

 プロレタリアートの闘争が激化すれば、資本の側からの反撃の方法も激化する。「坐りこみ」ストライキの新しい波はブルジョアジーの側からの断固たる対抗措置を呼び起こしうるし、間違いなく呼び起こすだろう。そのための準備がトラストの本部ですでになされつつある。もしまたもや不意を打たれることになれば、革命組織とプロレタリアートは災厄に見舞われることだろう!

 ブルジョアジーはけっして公式の警察と軍隊に満足しているわけではない。アメリカ合衆国では「平和」時においてさえ、ブルジョアジーは軍事化されたスト破り部隊や私設の武装ギャング団を工場に持っている。今では、これにアメリカ・ナチスの武装部隊をつけ加えなければならない。フランス・ブルジョアジーは、危険が迫るやいなや、半合法および非合法のファシスト部隊――公式の軍隊内部のそれを含む――を動員した。イギリス労働者の圧力が再び強力になるやいなや、モーズリー卿[イギリスのファシスト指導者]のギャング団はただちに2倍、3倍、10倍にも増大して、労働者に対する血なまぐさい進撃を開始するだろう。ブルジョアジーは、現代においては階級闘争が内乱に転化しようとする不可抗力的な傾向を有していることをしっかりと理解している。イタリア、ドイツ、オーストリア、スペインその他の諸国の事例は、プロレタリアートの公式の指導者に対してよりも、大資本家とその従僕たちに対してはるかに多くのことを教えたのである。

 第2インターナショナルおよび第3インターナショナルの政治家たちは、労働組合官僚と同じく、ブルジョアジーの私設軍隊に対して意識的に目を閉じている。さもなくば、ブルジョアジーとの同盟をただの24時間も維持しえないはずである。改良主義者は、ブルジョアジーが歯まで武装し労働者が非武装であるときに、神聖なる民主主義が最もよく保障されるのだという考えを労働者に系統的に植えつけている。

 第4インターナショナルの義務はこのような奴隷的政策に終止符を打つことである。社会民主主義者、スターリニスト、アナーキストを含む小ブルジョア民主主義者は、実際において臆病にファシズムに屈服すればするほど、ますます声高に反ファシズムの闘争について叫びたてる。だが、ファシストのギャング団にまともに対峙することができるのは、幾千万の勤労者の支持を背後に感じる労働者の武装部隊だけである。ファシズムに対する闘争は、自由主義派の編集部からではなく、工場で始まり、街頭で終る。スト破りと私設憲兵はファシストの軍隊の基本的中核である。ストライキにおける労働者のピケットはプロレタリアートの軍隊の基本的中核である。これがわれわれの出発点である。どのストライキや街頭デモにおいても、労働者の防衛隊をつくる必要性を宣伝することが必要である。労働組合の革命派の綱領にこのスローガンを書き込まなければならない。可能なところではどこででも、実際に防衛隊を組織しなければならない。そして、青年の組織化からはじめて、彼らに武器の使用方法を教えなければならない。

 大衆運動の新しい波は、こうした部隊の数を増大させるだけでなく、それらを地域ごと、都市ごと、地方ごとに統一させることに貢献するだろう。スト破りやギャング団やファシスト部隊に対する労働者の正当な憎悪に組織的表現を与えなければならない。労働者の組織・集会・新聞雑誌を守るための唯一の本格的な保障たる労働者民兵のスローガンを掲げなければならない。

 つねに大衆自身の経験と結びついた、このような系統的で粘り強く倦むことのない勇敢な煽動と組織化の活動によってはじめて、大衆の意識から従順さと受動性の伝統を根絶し、すべての勤労者の手本となるような英雄的闘士の部隊を育成し、反革命のギャング団に戦術的敗北を与え、被搾取者と被抑圧者の自信を高め、小ブルジョアジーの眼前でファシズムの威信を掘りくずし、プロレタリアートによる権力獲得への道を切り開くことができるのである。

 エンゲルスは国家を「武装した人々の部隊」と規定した。プロレタリアートの武装は、その解放闘争の必要不可欠な構成要素である。プロレタリアートが望むならば、彼らは武装への道と手段を見い出すだろう。この領域においても、その指導責任は当然にも第4インターナショナル各国支部に帰せられる。

 

   11、労働者と農民の同盟

 農村における工業労働者の仲間であり戦友であるのは農業労働者である。この両者は同一の階級の二つの部分である。彼らの利益は不可分である。工業労働者の過渡的諸要求の綱領は、あれこれの部分を修正すれば、そのまま農業プロレタリアートの綱領にもなりうる。

 農民(自営農)は別の階級である。彼らは農村における小ブルジョアジーである。小ブルジョアジーは半プロレタリア的分子から搾取者的分子に至るまでさまざまな階層から成り立っている。したがって、工業プロレタリアートの政治的課題は階級闘争を農村に持ち込むことである。こうしてはじめて、工業プロレタリアートは自己の同盟者と敵対者との間に一線を画すことができる。

 各国の国民的発展の特殊性は、農民の状態、そしてある程度までは都市小ブルジョアジー(職人と商人)の状態のうちに最もはっきりと表現される。なぜなら、これらの階級は、いかに多数であったとしても、基本的には前資本主義的生産形態の代表的な残滓であるからだ。第4インターナショナルの各国支部は、各国の諸条件に合致した農民(自営農)と都市小ブルジョアジーに関する過渡的諸要求の綱領をできるだけ具体的に作成しなければならない。先進的労働者は、将来の同盟者の問題に対して明白で具体的な解答を与えることを学ばなければならない。

 農民が「独立」した小生産者であるかぎり、彼らは低利の信用、手ごろな価格での農業機器と肥料、有利な輸送条件、農産物市場の良心的な組織化を必要としている。だが、農民は銀行、トラスト、商人たちによって四方八方からむしり取られている。この強奪に枷をはめることができるのはただ、労働者の助けを借りた農民だけである。小農委員会が前面に登場し、労働者の委員会や銀行従業員の委員会と共同して、農業に関わる輸送、信用、商業活動に対する統制権を手中に収めなければならない。

 大ブルジョアジーは、労働者の「過度」の要求を欺瞞的に持ち出すことによって、物価の問題を労働者と農民、労働者と都市小ブルジョアジーとの間に打ち込むくさびに巧みにすりかえる。農民、職人、小商人は、労働者、従業員、下級公務員と違って、物価の上昇に応じた賃金のアップを要求することができない。物価高に対する公式の官僚的闘争は、大衆を欺くものにすぎない。しかしながら、農民、職人、商人は、消費者の資格において、労働者と肩をならべて価格政策に介入することができる。生産、輸送、商取引の費用に対する資本家の泣き言に対して、消費者はこう答える、「君たちの帳簿を見せろ、われわれは価格政策に対する統制を要求する」と。このような統制のための機関は、工場、労働組合、協同組合、農民組織、都市の小ブルジョアジー、主婦等々からの代表者によって構成される物価委員会でなければならない。この道を通じて労働者は、物価高の真の理由は高賃金にあるのではなくて、資本家の法外な利潤と資本主義的無政府性の間接費にあることを農民に証明することができるだろう。

※  ※  ※

 土地の公有化農業集団化の綱領は、小農民の収奪や強制集団化という考えを根本的に排除する形で作成されねばならない。農民は、それが可能であり必要であると考えるかぎり、自分の土地の所有者たりつづけるだろう。農民の目から見て社会主義綱領の名誉を回復するために、集団化のスターリン的方法――それは、農民ないし労働者の利益によってではなく、官僚の利益によって押しつけられた――を無慈悲に暴露しなければならない。

 収奪者の収奪もまた、小職人や小商人の財産の強制的没収を意味するものではない。その反対に、銀行とトラストに対する労働者統制、さらにはこれらの企業の国有化は、独占の無制約な支配のもとでよりもはるかに有利な信用・購買・販売の諸条件を都市小ブルジョアジーのためにつくり出すことができる。私的資本への依存は国家への依存に取って代られる。そして、この国家は、勤労大衆自身がその手中に国家をしっかりとつかんでいればいるほど、小協力者や代理人の必要に対してより注意深い態度をとるだろう。

 被搾取農民が経済のさまざまな分野に対する統制に実践的に参加することによって、農民自身が、集団的な土地耕作にいついかなる規模で移行するのが有利であるかを判断することができるだろう。工業労働者はこの途上において、労働組合、工場委員会、とりわけ労農政府を通じて、あらゆる協力を農民に提供しなければならない。

 プロレタリアートが同盟を提起する相手は、「中産階級」一般ではなく、都市および農村における小ブルジョアジーの被搾取階層であり、この同盟は「中産階級」の搾取者をも含むあらゆる搾取者に対抗する。この同盟は、強制ではなくて、ただ自由な同意にもとづいてのみ可能なのであり、この同意は特別の「協定」によって打ち固められなければならない。この「協定」こそ、双方の側によって自発的に受け入れられた過渡的諸要求の綱領である。

 

   12、帝国主義と戦争に対する闘争

 全体としての世界情勢、したがってまた各国の政治生活もまた、世界戦争の脅威に脅かされている。さし迫る破局は現在、人類の大多数の心を深くとらえている。

 今日コミンテルンが排外主義の第一バイオリンをひいているので、第2インターナショナルが今やなおさら確信をもって1914年の裏切り的政策を繰り返している。戦争の危険性が具体的な輪郭をとるやいなや、スターリニストはブルジョア的・小ブルジョア的平和主義者をはるかに追いこして、いわゆる「民族防衛」の宣布者となった。彼らは、ファシスト諸国だけを、すなわち彼ら自身が国内でいかなる役割も果たしていない諸国だけを「民族防衛」の例外にしている(2)。こうして戦争に対する革命的闘争はすべて第4インターナショナルの双肩にかかっている。

 この問題に関するボリシェヴィキ=レーニン主義者の政策は、国際書記局のテーゼ(「戦争と第4インターナショナル」1934年5月1日)の中で定式化されているが、それは今日においてもその有効性を完全に保持している。当面する時期において、革命党の成否は主として戦争の問題に関するその政策にかかっている。正しい政策は二つの要素からなっている。すなわち、帝国主義およびその戦争に対する非妥協的立場と、大衆自身の経験に立脚する能力である。

 他のいかなる問題よりも戦争の問題において、ブルジョアジーとその手先は、抽象的観念や一般的定式、情熱的な美辞麗句によって人民をだます。「中立」「集団的安全保障」「平和を守るための軍備」「民族防衛」「ファシズムに対する闘争」等々である。これらの定式はすべて結局のところ次のことに還元される。すなわち、戦争の問題、したがってまた人民の運命にかかわる問題は、人民に対するあらゆる陰謀と策謀にふける帝国主義者、その政府、外交、総司令部の手中に保持されなければならないということである。

 第4インターナショナルは、ファシスト陣営において「名誉」「血」「人種」というものが果たしているのと同一の役割を民主主義陣営において演じているこうしたいっさいの抽象的観念を怒りをもって拒絶する。だが、怒りだけでは十分でない。大衆が、検証に役立つ過渡的な基準・スローガン・要求によって、これらのペテン的な抽象的観念の具体的本質を見抜くのを助けることが必要である。

 「軍備縮小?」。だが、全問題は、どちらが武装解除するのか、ということにある。戦争を回避ないし阻止することができる唯一の軍縮は、労働者によるブルジョアジーの武装解除である。だが、ブルジョアジーを武装解除するためには、労働者は自ら武装しなければならない。

 「中立?」。だが、プロレタリアートは、日本と中国との戦争、あるいはドイツとソ連邦との戦争においてけっして中立ではない。では、中国とソ連邦を防衛するのか? もちろん。だが、中国とソ連の双方を絞殺しようとする帝国主義者の手によってではない。

 「祖国防衛?」。たが、この抽象的観念は、ブルジョアジーにとっては、その利潤と強奪を防衛することを意味する。もしわれわれが自国のブルジョアジーの手足を縛りあげ、彼らが他の国を攻撃するのを妨げるならば、もしわが国の労働者と農民が真に国家の主人になるならば、もし国家の富が極少数者の手から人民の手に移されるならば、もし軍隊が搾取者の武器ではなくて被搾取者の武器になるならば、そのときわれわれは進んで外国の資本家から祖国を防衛する。

 以上の基本的な思想を、事態の推移と大衆の考えの方向性に応じて、より個別的で具体的なものにすることができなければならない。その際、外交官・教授・ジャーナリストの平和主義と、大工・農業労働者・雑役婦の平和主義とを厳密に区別しなければならない。前者の場合には、平和主義は帝国主義の煙幕であり、後者の場合には、それは帝国主義に対する不信の混乱した表現である。

 小農や労働者が祖国防衛について語るとき、それは自分の家、自分の家庭、そして他人の同じような家庭を侵略と爆弾と毒ガスから防衛することを意味している。資本家とそのお抱えジャーナリストたちは、祖国の防衛を、植民地と市場の獲得、世界の富に対する「民族的」分け前の略奪的な増大として理解する。ブルジョアジーの平和主義と愛国主義は徹頭徹尾、欺瞞である。被抑圧者の平和主義の中には、いやその愛国主義の中にさえ、進歩的な要素が存在している(3)。われわれはこうした要素をつかみとり、そこから必要な革命的結論を引き出すことができなければならない。そして、平和主義と愛国主義という二つの形態が相互に敵対的にぶつかり合うように仕向けなければならない(4)

 こうした点にもとづいて、第4インターナショナルは、一定程度でも大衆を積極的な政治に引き入れ、彼らの批判力を目覚めさせ、ブルジョアジーの策動に対する大衆の統制を強めるものであれば、たとえそれがいかに不十分なものであっても大衆のあらゆる諸要求を支持する。

 こうした観点から、たとえばわがアメリカ支部は、開戦の問題をめぐって国民投票制を確立せよという提案を批判的に支持する。いかなる民主主義的改良も、それ自体としてはもちろん、支配者が望むときに戦争を引き起こすのを妨げることはできない。このことについて公然と警告しておかなければならない。しかし、国民投票制に対する大衆の幻想がいかなるものであれ、この要求は、ブルジョア政府と議会に対する労働者と農民の不信を反映している。幻想を支持したり容赦したりすることなく、搾取者に対する被搾取者の進歩的な不信を全力をつくして支持しなければならない。国民投票制のための運動が拡大すればするほど、ブルジョア平和主義者たちはますます急速にこの運動から離れ、コミンテルンの裏切者たちはますます深刻に面目を失墜し、帝国主義者に対する不信はますます先鋭になるだろう。

 同じ観点から、18歳以上の男女の選挙権という要求を掲げなければならない。明日ともなれば祖国のために死ぬことを求められる者たちは、今日、投票する権利を持つべきである。戦争に反対する闘争はまず何よりも、青年の革命的動員のための闘争でなければなければならない。

 戦争の問題は、それがその時々において大衆に対してどのような側面を向けるかに応じて、あらゆる面から解明されなければならない。

 戦争は巨大な営利事業であり、とりわけ軍需産業にとってそうである。したがって、「60家族」は第一の愛国主義者であり、主要な戦争挑発者である。軍需産業に対する労働者統制は戦争製造業者に対する闘争の第一歩である。

 戦争利潤に課税せよという改良主義者のスローガンに対して、われわれは戦争利潤の没収および軍需企業の収奪というスローガンを対置する。フランスのように軍需産業が「国有化」されているところでは、労働者統制のスローガンがいぜんとして完全に有効である。プロレタリアートは、個々のブルジョアに対してと同様、ブルジョアジーの国家に対しても何らの信も置かない。

 ブルジョア政府のためには、一人の人間も一銭の金も出すな!

 軍備計画ではなく、有益な公共事業の計画を!

 軍事的警察的統制からの労働者組織の完全な独立を!

 人民の背後で画策するどん欲で容赦のない帝国主義的徒党に人民の運命を委ねるような事態と永遠に手を切らなければならない。

 以上にもとづいて、われわれは次のことを要求する。

 秘密外交の完全な廃止。いっさいの条約と協定はすべての労働者と農民に公表されなければならない。

 労働者農民委員会の直接の監督下で行なわれる労働者と農民の軍事教練と武装。

 労働者組織によって勤労者から選ばれた指揮官を訓練するための軍事学校の創設。

 常備軍、すなわち兵営の軍隊を、工場、鉱山、農場等々と不可分に結びついた人民の民兵によって置きかえよ。

※  ※  ※

 帝国主義戦争はブルジョアジーの強奪政治の継続でありその先鋭化である。戦争に反対するプロレタリアートの闘争は、プロレタリアートの階級闘争の継続でありその先鋭化である。戦争の開始は状況を変え、部分的には諸階級間の闘争の手法を変える。だが、その目的と基本的な方向性は変わらない。

 帝国主義ブルジョアジーは世界を支配している。したがって、迫りつつある戦争はその基本性格において帝国主義戦争であるだろう。国際プロレタリアートの政策の基本的内容は、したがって、帝国主義とその戦争に対する闘争であるだろう。この闘争における基本原則は「主要な敵は自分自身の国にいる」あるいは「自分自身の(帝国主義)政府の敗北はより小さな悪」である。

 だが、世界のすべての国が帝国主義国なのではない。反対に、その大多数は帝国主義の犠牲者なのである。植民地・半値民地諸国の一部は疑いもなく、その奴隷状態をかなぐりすてるためにこの戦争を利用しようとするだろう。彼らの側からする戦争は帝国主義戦争ではなくて、解放戦争であるだろう。抑圧者に対する被抑圧者の戦争を支援することは、国際プロレタリアートの義務である。同じ義務は、ソ連邦、あるいは戦争以前もしくは戦争中に生まれるかもしれない他の労働者国家に対してもあてはまる。労働者国家あるいは植民地国家との闘争におけるどの帝国主義政府の敗北も、より小さな悪である。

 しかしながら、帝国主義国の労働者は、その時々における両当事国間の外交的・軍事的関係がいかなるものであろうとも、自分自身の政府を通じて反帝国主義国を支援することはできない。もしこれらの政府が、事の本質からして不安定な同盟を一時的に反帝国主義国と結んでいるとすれば、帝国主義国のプロレタリアートは、自己の政府に対する階級的反対の立場をとり続け、自分自身の方法、すなわち国際階級闘争の方法を通じて非帝国主義的「同盟国」を支持する。たとえば、労働者国家と植民地諸国を支持するアジテーションの矛先を、それらの国の敵に対してのみならず、その背信的な同盟者に対しても向けること。前者に対してはボイコットとストライキを行ない、後者に対してはボイコットとストライキを拒否すること、等々。

 戦争において植民地国あるいはソ連邦を支持するにあたって、プロレタリアートは植民地国のブルジョア政府やソ連邦のテルミドール官僚とほんのわずかでも連帯するものではない。反対に、プロレタリアートは前者に対しても後者に対しても完全なる政治的独立を維持する。正当性を持った進歩的な戦争を援助することによって、革命的プロレタリアートは、植民地諸国とソ連邦の労働者の共感を獲得し、これら諸国における第4インターナショナルの権威と影響力を強め、そうすることで、植民地諸国のブルジョア政府とソ連邦の反動的官僚を打倒することをより助けるのである。

※ ※ ※

 戦争の当初、第4インターナショナルの各国支部は不可避的に孤立させられるだろう。あらゆる戦争は人民大衆の不意を打ち、彼らを国家機構の側に押しやる。国際主義者は流れに抗して泳がなければならない。しかしながら、最初の数ヵ月間ですでに1914〜18年の血まみれの惨事をはるかに凌駕するにちがいない新しい戦争がもたらす荒廃と災厄は、急速に大衆の酔いを覚ますだろう。大衆の不満と反抗は飛躍的に増大するだろう。第4インターナショナルの各国支部は革命的波涛の先頭に立っているだろう。過渡的諸要求の綱領は焦眉の現実性を獲得するだろう。プロレタリアートによる権力奪取の問題が全面的に立ち現われるだろう。

※  ※  ※

 資本主義が自ら息絶えるかあるいは人類を血の海におぼれさせる前にすでに、資本主義は民族的・人種的憎悪の毒気で世界の空気を汚染しつつある。今や反ユダヤ主義は資本主義の死の苦悶の最も悪性の痙攣の一つである。

 人種的偏見と、あらゆる種類と色合いの民族的うぬぼれと排外主義、とりわけ反ユダヤ主義を容赦なく暴露することは、帝国主義と戦争に対する闘争の最も重要な教育活動として、第4インターナショナルのすべての支部の日常活動に組み入れられなければならない。われわれの基本的なスローガンは、以前と変わらず、こうである。万国のプロレタリアート、団結せよ!

 

   13、労働者と農民の政府

 「労働者と農民の政府」という定式は最初1917年にボリシェヴィキの煽動の中に現われ、10月革命後、最終的に確立された。後者の場合、それは、すでに確立されたプロレタリアート独裁に対する通俗的な名称以外の何ものでもなかった。この名称の意義は主として、それが、ソヴィエト権力の基礎をなすプロレタリアートと農民の同盟という思想を前景に押し出しているという点にあった。

 エピゴーネンのコミンテルンが、歴史によって葬られた定式である「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」を復活させようと試みたとき、彼らは「労働者と農民の政府」という定式に、まったく異なった純粋「民主主義」的な、すなわちブルジョア的な内容を与え、これをプロレタリアート独裁に対置した。ボリシェヴィキ=レーニン主義者はブルジョア民主主義的に解釈された「労働者と農民の政府」を断固として拒否した。ボリシェヴィキ=レーニン主義者は、プロレタリアートの党がブルジョア民主主義の限界を踏み越えるのを拒むとき、農民との同盟は――ちょうど1917年のメンシェヴィキとエスエル、1925〜1927年の中国共産党の場合がそうであったように、そして現在もスペイン、フランスその他の諸国における「人民戦線」がそうであるように――資本にとっての支柱に容易に変貌してしまうと当時断言したし、そして今日もそう断言する。

 1917年4月から9月にかけてボリシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキに対して、自由主義的ブルジョアジーと手を切り自らの手中に権力を握れと要求した。このような条件のもとで、ボリシェヴィキは、労働者と農民の小ブルジョア的代表としてのエスエルとメンシェヴィキに対して、ブルジョアジーに対抗するための革命的支援を約束した。しかしながら、ボリシェヴィキは、メンシェヴィキとエスエルの政府に参加することも、またその政府に対する政治的責任を負うこともきっぱり拒否した。もしメンシェヴィキとエスエルがカデットや外国帝国主義と実際に手を切っていたならば、彼らによってつくられた「労働者と農民の政府」はただプロレタリアート独裁の確立を促進し容易にしただけであろう。だが、まさにそれゆえ、小ブルジョア民主主義の指導部は自分自身の権力を打ち立てることに全力をつくして抵抗したのである。ロシアの経験は、きわめて有利な条件下においてさえ、小ブルジョア民主主義の諸党(エスエル、社会民主主義者、スターリニスト、アナーキスト)が「労働者と農民の政府」、すなわちブルジョアジーから独立した政府を樹立しえないことを示したし、またスペインとフランスの経験は今一度これを確認している。

 それにもかかわらず、ボリシェヴィキがメンシェヴィキとエスエルに突きつけた「ブルジョアジーと決別して、権力を君たち自身の手に握れ!」という要求は、大衆にとって巨大な教育的意義を持っていた。権力掌握に対するメンシェヴィキとエスエルの頑迷なまでの躊躇は、7月事件においてきわめて劇的な形で暴露され、大衆の前で完全にその権威を失墜させ、ボリシェヴィキの勝利を準備した。

 第4インターナショナルの中心的課題は、古い指導部からプロレタリアートを解き放つことである。この旧指導部の保守主義は、資本主義的衰退の破局的状況と完全に矛盾をきたし、歴史的進歩に対する主要なブレーキとなっている。第4インターナショナルがプロレタリアートの伝統的諸組織に対して加えている主要な非難は、彼らが政治的に半死半生のブルジョアジーから身を引き離そうとしないという点にある。このような状況のもとで、「ブルジョアジーと手を切って、権力を握れ!」という要求を旧指導部に対して系統的に突きつけることは、第2、第3インターナショナルおよびアムステルダム・インターナショナルの諸党・諸組織の裏切り的性格を暴露するうえで、きわめて重要な武器である。

 したがって「労働者と農民の政府」というスローガンは、それが1917年にボリシェヴィキによって語られた意味においてのみ、すなわち反ブルジョア的・反資本主義的スローガンとしてのみ受け入れられるのであって、後になってエピゴーネンがそれに与えた「民主主義」的な意味、すなわち社会主義革命への架け橋からその途上に立ちはだかる障害物に変えてしまった意味においてではない。

 労働者と農民に立脚し、彼らの名において語るすべての党と組織に対して、われわれは、ブルジョアジーと政治的に決別して労働者・農民の権力のための闘争に足を踏み出すよう要求する。この道において、われわれは資本主義的反動に反対して彼らを全面的に支持することを約束する。それと同時に、われわれは、「労働者と農民の政府」の綱領を構成するとわれわれがみなす過渡的諸要求を中心に倦むことなく煽動を展開する。

 伝統的な労働者組織がこのような政府を形成することは可能であろうか? すでに述べたように、過去の経験はこのことがきわめてありそうにもないことを示している。だが、諸状況のまったく尋常でない組み合わせ(戦争、敗北、財政の崩壊、大衆の革命的圧力等々)に影響されて、スターリニストを含む小ブルジョア諸党がブルジョアジーとの決別の道を彼ら自身が望む以上に進むかもしれない。この理論的可能性を、あらかじめ絶対的に否定することはできない。いずれにせよ、一つのことは疑いない。すなわち、たとえこのきわめてありそうにないことが、いつか、どこかで現実となり、上に述べた意味での「労働者と農民の政府」が実際に打ち立てられるとしても、それは真のプロレタリアート独裁への途上における短いエピソードでしかないだろう。

 しかしながら、臆測にふける必要はない。労農政府のスローガンを中心とする煽動は、あらゆる条件下において巨大な教育的価値を保持している。それは偶然ではない。この一般的なスローガンは、現代の政治的発展の基本線(旧ブルジョア諸党の破産と崩壊、民主主義の没落、ファシズムの成長、より能動的でより攻勢的な政策へとますます労働者が惹きつけられていく傾向)に完全に合致している。したがって、われわれの過渡的要求はいずれも、同一の政治的結論へと導かれなければならない。すなわち、労働者はブルジョアジーのいっさいの伝統的諸党と手を切り、農民と協力して自己自身の権力を確立しなければならないという結論である。

 大衆の革命的動員がどのような具体的諸段階を経るかを前もって予測することは不可能である。第4インターナショナルの各国支部は、新しい段階ごとに批判的に方向性を定め、独立した政策をめざす労働者の努力を促すようなスローガンを掲げ、これらの諸政策の階級的性格を深め、改良主義的・平和主義的幻想を粉砕し、前衛と大衆との結合を強め、権力の革命的奪取を準備しなければならない。

 

   14、ソヴィエト

 工場委員会はすでに述べたように、工場内における2重権力の要素である。したがって、その存在は、大衆の圧力が増大するという状況においてのみ考えることができる。また同様に、このことは反戦闘争のための特別の大衆組織や物価委員会、その他いっさいの新しい運動センターについてもあてはまる。このようなものが出現したということそれ自体が、階級闘争がプロレタリアートの伝統的諸組織の枠からはみ出しはじめたことを物語っている。

 しかしながら、これらの新しい機関やセンターが凝集性を欠き不十分であることがすぐに感じられるようになる。ブルジョア体制が維持されているかぎり、過渡的要求はただの一つたりとも十分に実現することはできない。その一方で、社会的危機の深化は、大衆の苦難だけでなく、彼らの焦燥と粘り強さと圧力をも増大させるだろう。被抑圧大衆の新しい層が次々と台頭し、自分たちの諸要求を突きつけるだろう。改良主義指導部によってこれまで一顧だにされなかった幾百方の未組織労働者たちは、労働者諸組織の戸を執拗に叩きはじめるだろう。失業者も運動に加わるだろう。農業労働者、零落した農民や零落しかけている農民、都市の下層民、女性労働者、主婦、プロレタリア化した知識人層――これらすべてが団結と指導を求めるだろう。

 たった一つの都市の枠組みにおいてさえ、さまざまな要求と闘争形態とをどのようにして調和させることができるのか? 歴史はすでにこの問いに回答を与えている。すなわち、すべての闘争グループの代表者たちを統一するソヴィエトを通じて、である。これまで他の組織形態を提起した者は誰一人としていない。事実、そのようなものを考え出すことは不可能である。ソヴィエトは何らかのアプリオリな綱領にもとづいて形成されるのではない。それはいっさいの被搾取者に対して門戸を開く。闘争の全般的流れに引き込まれたすべての層の代表がこの門戸をくぐる。この組織は運動とともに拡大しつつ、その内部で不断に更新される。プロレタリアートのあらゆる政治的潮流が、最も広範な民主主義にもとづいてソヴィエトの指導権を求めて争うことができる。したがって、ソヴィエトというスローガンは過渡的諸要求の綱領の頂点をなすのである。

 ソヴィエトは大衆運動が公然たる革命的段階に突入したときにはじめて発生する。ソヴィエトは、幾千万の勤労大衆が搾取者との闘争において団結する中軸であり、その発生の最初の瞬間から、地方権力に対する、続いて中央権力に対するライバルとなり、その対抗者となる。工場委員会が工場内に2重権力をつくりだすとすれば、ソヴィエトは国内における2重権力の時期を切り開く。

 そして2重権力は過渡期の頂点である。ブルジョア体制とプロレタリア体制という二つの体制は互いに敵対的に対立しあう。両者の衝突は不可避である。社会の運命はその結果にかかっている。革命が敗北するならば、ブルジョアジーのファシスト独裁がやってくるだろう。勝利のあかつきには、ソヴィエト権力、すなわちプロレタリアートの独裁および社会の社会主義的変革が開始されるだろう。

 

   15、後進諸国と過渡的諸要求の綱領

 植民地および半値民地諸国はその本質からして後進諸国である。しかし、後進諸国は、帝国主義によって支配されている世界の一部である。したがって、これら諸国の発展は複合的性格を有している。すなわち、最も原始的な経済的形態が最新の資本主義的技術および文化と結びついている。後進国のプロレタリアートの政策もまたこれによって規定される。すなわち、民族独立とブルジョア民主主義の最も初歩的な課題のための闘争は、世界帝国主義に対する社会主義的闘争と結びついている。さまざまな民主主義的諸要求、過渡的諸要求、社会主義革命の諸課題は、この闘争において異なった歴史的時期に分割されるのではなく、直接に相互に結びついており、一方から他方が生じてくる。中国プロレタリアートは、労働組合を組織し始めるやいなやただちにソヴィエトについて考えなければならなかった。この意味において、この過渡的綱領は、少なくともプロレタリアートが独立した政策を遂行しうるに至っている植民地・半値民地諸国に対して完全に適用可能である。

 植民地・半値民地諸国の中心的問題は、農地革命(すなわち封建的遺産の一掃)と民族独立(すなわち帝国主義のくびきの打倒)である。この二つの課題は密接に結びついている。

 民主主義の綱領を単に放り投げることはできない。闘争の中で大衆がこの綱領を乗り越えることが必要である。国民議会(あるいは憲法制定議会)のスローガンは、中国やインドのような諸国では、その有効性を完全に保持している。このスローガンは、民族解放および農地改革の課題と不可分に結びつけられなければならない。労働者はまず何よりも、この民主主義的綱領によって武装されなければならない。たた彼らだけが農民を立ち上がらせ、統一することができる。労働者は、革命的民主主義の綱領にもとづいて、「民族」ブルジョアジーと対峙しなければならない。

 革命的民主主義のスローガンにもとづく大衆動員のある段階において、ソヴィエトが登場しうるし、登場しなければならない。それぞれの時期におけるソヴィエトの歴史的役割、とりわけ国民議会との相互関係はプロレタリアートの政治的水準、プロレタリアートと農民の結合、そしてプロレタリア党の政策の性格によって決定されるだろう。遅かれ早かれ、ソヴィエトはブルジョア民主主義を打倒しなければならない。ただソヴィエトだけが民主主義革命を最後まで遂行し、それと同時に社会主義革命の時代を切り開くことができる。

 プロレタリアートの闘争において個々の民主主義的および過渡的諸要求の持つ比重、これらの諸要求の相互の結びつき、それらの提起される順序は、各後進国の特殊性と具体的な諸条件によって、またかなりの程度までその後進性の水準によって決定される。しかしながら、革命的発展の一般的方向性は、ロシアにおける三つの革命(1905年、1917年2月、1917年10月)によってはっきりと確定された意味における永続革命の定式によって規定することができる。

 コミンテルンは、強力で前途有望な革命をいかにして破滅させることができるかの古典的な実例を後進諸国に与えた。1925〜27年の中国における嵐のような大衆的高揚の時期、コミンテルンは国民会議のスローガンを提起せず、それと同時にソヴィエトの樹立をも禁止した。スターリンの計画によれば、ブルジョア政党たる国民党が国民会議とソヴィエトの両方の「代わり」になるはずであった。国民党によって大衆が粉砕されてしまった後で、コミンテルンは広東にソヴィエトのカリカチュアを組織した。広東蜂起の不可避的な崩壊の後に、コミンテルンは、産業プロレタリアートの側の完全な受動性にもかかわらず、ゲリラ戦争と農民ソヴィエトの道をとった。かくして袋小路に陥ったコミンテルンは、日中戦争を利用して、「ソヴィエト中国」をさっさと清算し、農民「赤軍」のみならず、いわゆる「共産」党をも同じ国民党、すなわちブルジョアジーに従属させてしまった。

 「民主主義」的奴隷所有者たちとの友好のために国際プロレタリア革命を裏切ったコミンテルンは、同時にまた植民地人民の解放闘争を裏切らざるをえなかった。しかも、彼ら以前に第2インターナショナルが行なった裏切りよりもはるかに破廉恥にである。人民戦線と「民族防衛」政策の任務の一つは、何億もの植民地人民を「民主主義」的帝国主義のために大砲の餌食にすることである。植民地・半植民地諸国における人民(すなわち人類の半数以上)の解放闘争の旗は、完全に第4インターナショナルの手中に移った。

 

   16、ファシスト諸国における過渡的諸要求の綱領

 ヒトラーの勝利は単にテールマンの勝利に向けた小さな一段階にすぎない、とコミンテルンの戦略家たちが声明したのはいまや昔のことである。テールマンがヒトラーの監獄に閉じ込められてから、はや5年以上が経っている。ムッソリーニは、16年以上にもわたってイタリアをファシズムの鉄鎖に縛りつけている。この時期を通じて、第2インターナショナルと第3インターナショナルの諸党は大衆運動を指導するうえで無力であっただけでなく、ツァーリズム時代のロシアの革命諸党といくらかでも比較できるような本格的な非合法組織をつくることさえできなかった。

 これらの失敗をファシスト・イデオロギーの力によって説明しうる理由はまったくない。基本的にムッソリーニには一貫していかなるイデオロギーもなかった。ヒトラーの「イデオロギー」が労働者を本格的につかむことはけっしてなかった。一時ファシズムに酔いしれた住民層、すなわち主として中間階級が酔いからさめるのに十分な時間が経過した。多少でも感知しうる反対がプロテスタントとカトリック教会関係者にかぎられているという事実は、「人種」や「血」に関する半ば妄想的で半ばペテン的な理論の力によって説明されるのではなくて、民主主義と社会民主主義とコミンテルンのイデオロギーの恐るべき破産によって説明されるのである。

 パリ・コミューンの壊滅の後、暗黒の反動がほぼ8年にわたって支配した。1905年のロシア革命の敗北後、労働者大衆はほぼ同じ期間にわたって茫然自失状態に陥った。だが、このどちらの場合も、以上のような現象は力関係によって余儀なくされた物理的敗北でしかなかった。しかも、ロシアにおいて、主役を演じたのはほとんど未経験のプロレタリアートであった。ボリシェヴィキ派は、その時まだ3回目の誕生日を祝ってもいなかった。しかし、ドイツにおいては事態はまったく異なっていた。ドイツでは、指導権は二つの強力な党に属していた。その一つはすでに70年間も存続していたし、もう一つの党はほぼ15年にわたって存在していた。ともに幾百方の投票者を背後に持ったこの二つの党は戦闘の前にすでに士気が麻痺し、一戦も交えることなく屈服した。このような破局は歴史上かつてなかった。ドイツ・プロレタリアートは、戦闘によって敵に打ち負かされたのではない。彼らは自分自身の二つの党の臆病さと卑劣さと裏切りによって粉砕されたのである。したがって、プロレタリアートが、ほぼ3世代にわたって信じてきたいっさいのものに対する信頼を失ったとしても、何ら不思議ではない。ヒトラーの勝利はまたムッソリーニをも強化した。

 スペインあるいはドイツにおける革命的活動の実践的行き詰まりは、社会民主主義とコミンテルンの犯罪的政策に対する報い以外の何ものでもない。非合法活動は大衆の共感だけではなく、先進層の意識的な情熱を必要とする。だが、歴史的に破産した諸組織に対して情熱を期待することができるだろうか。亡命指導者として登場している連中は、主として、骨の髄まで堕落しはてたクレムリンとゲ・ペ・ウの手先であるか、あるいは労働者たちが、何らかの奇跡によって、自分の失った地位を元通りにしてくれることを夢みている社会民主党の元ブルジョア大臣たちである。これらの紳士諸君が将来における「反ファシスト」革命の指導者たりうるなどと、たとえ一瞬でも想像することができるだろうか? 

 そして、世界的舞台の諸事件――オーストリア労働者の壊滅、スペイン革命の敗北、ソヴィエト国家の堕落――もまた、これまでのところ、イタリアおよびドイツにおける革命的高揚を助けることができなかった。ドイツとイタリアの労働者は決定的段階において政治的情報をラジオに頼らなければならなかったがゆえに、テルミドール的嘘を愚劣さと傲慢さに結びつけているモスクワのラジオ放送は、全体主義諸国の労働者を士気阻喪させる強力な要因になった。他の点でもそうであるが、この点でもまたスターリンはゲッペルスの助手にすぎない。

 その間、ファシズムに勝利をもたらした階級対立は、ファシズム支配下でもその作用を継続し、しだいにその支配を掘りくずしつつある。大衆はますます不満をつのらせている。あらゆる困難な事情にもかかわらず、幾百幾千の自己犠牲的労働者たちは革命的もぐらの活動を慎重に遂行しつづけている。偉大な伝統と希望の崩壊を直接には経験していない新しい世代が台頭しつつある。プロレタリア革命を準備する分子的運動は全体主義の重い墓石の下で進行しつつある。だが、覆いかくされたエネルギーが公然たる運動に転化するためには、プロレタリアートの前衛は新しい展望、新しい綱領、そして新しい汚れなき旗を見出さなければならない。

 ここに主要な困難がある。ファシスト諸国の労働者にとって新しい綱領をめざすことはきわめて難しい。綱領は経験によって検証される。ところが、全体主義的独裁国家において欠けているのは、まさに大衆運動の経験なのである。ファシストの支配する地域における革命運動に刺激を与えるためには「民主主義」諸国の一国においてプロレタリアートが大きな成功を治めなければならないということ、このことは大いにありそうなことである。財政的あるいは軍事的破局によっても同じような効果をもたらすことができる。だが現在なされなければならないのは主として宣伝的な準備活動であり、この活動はただ将来においてのみ大きな成果をもたらすことができる。現時点においてすでに一つのことは確信をもって言うことができる。すなわち、ファシスト諸国において革命運動がいったん爆発すれば、それはたちまち壮大な規模になり、ワイマールの死体を何らかの形で生き返らせようとする試みにとどまるようなことはけっしてないだろう。

 第4インターナショナルと、破産を遂げながらなお物理的に存在しつづけている古い諸党との非和解的な対立は、まさにこの点から始まる。亡命「人民戦線」は、可能なあらゆる人民戦線のうちで最も悪質かつ裏切り的なものである。基本的にそれは、存在してもいない自由主義ブルジョアジーとの連立に対する無力な憧憬を意味している。たとえそれがうまくいったとしても、スペイン型の一連の新しい破産を準備するにすぎない。それゆえ、「人民戦線」の理論と実践を容赦なく暴露することは、ファシズムに対する革命的闘争のための第一の条件である。

 もちろん、このことは、第4インターナショナルが民主主義的スローガン(5)を拒否するということを意味するものではない。反対に、そのようなスローガンはある瞬間に偉大な役割を演じることができる。だが、民主主義の諸定式(組合の自由、出版の自由、等々)はわれわれにとって、プロレタリアートの独立した運動における段階的ないしエピソード的なスローガンを意味するだけであって、ブルジョアジーの手先によってプロレタリアートの首に巻きつけられた民主主義的な首つり縄を意味するものではない(スペイン!)。運動がいくらかでも大衆的性格を帯びるやいなや、民主主義的スローガンは過渡的スローガンと絡み合うだろう。古い官僚たちが自分たちの事務所から労働組合の建設に着手しないうちに、工場委員会が出現するだろう。新たな憲法制定議会がワイマールで召集される以前に、ソヴィエトがドイツを覆うだろう。イタリアやその他の全体主義ないし半全体主義諸国についても同じことがあてはまる。

 ファシズムはこれらの諸国を政治的野蛮状態に投げ込んだ。だが、ファシズムはこれらの国の社会的構造を変えはしなかった。ファシズムは金融資本の道具なのであって、封建的地主の道具ではない。革命的綱領は、ファシスト諸国にとっても不可避な階級闘争の弁証法にもとづくべきであって、恐怖におののく破産者の心理にもとづくべきでない。「第三期」のかつての英雄であるスターリニストは、ただ自分自身の醜い顔を隠すために、次々とカトリック、プロテスタント、ユダヤ人、ドイツ民族主義者、自由主義者の仮面をかぶって登場したが、第4インターナショナルは、このような政治的仮面舞踏会の方法を嫌悪をもって排撃する。第4インターナショナルはいつでもどこでも自分自身の旗のもとに登場する。第4インターナショナルは、ファシスト諸国のプロレタリアートに対して自分自身の綱領を公然と提起する。すでに現在、全世界の先進的労働者たちは、ムッソリーニやヒトラー、そしてその手先と模倣者たちの打倒が第4インターナショナルの指導のもとでのみ起こるだろうということを固く確信している。

 

   17、ソ連邦と過渡期の諸問題

 ソ連邦は10月革命から生まれた労働者国家である。社会主義的発展の必要条件である生産手段の国有化は、生産力の急速な成長の可能性を切り開いた。だが、労働者国家の機構はその間に完全な変質をこうむった。それは労働者階級の道具から労働者階級に対する官僚的抑圧の道具と化し、時が経つにつれてますますこの国の経済をサボタージュする道具になっていった。後進的で孤立した労働者国家が官僚主義化し、その官僚が全能の特権階層に転化したことは、一国社会主義の理論に対する――理論的のみならず、こんどは実践的にも――最も強力な反駁となっている。

 ソ連の体制は、したがって、その内部に恐るべき矛盾を宿している。だが、ソ連はいぜんとして堕落した労働者国家であり続けている。これが社会的診断である。政治的予測は二者択一的な性格を有している。すなわち、官僚がますます労働者国家における、世界ブルジョアジーの機関となり、新しい所有形態を打倒し、この国を資本主義に投げ返すか、それとも労働者階級が官僚を粉砕して、社会主義への活路を開くかである。

 第4インターナショナルの各国支部にとって、モスクワ裁判は思いがけない突発事件でもなければ、クレムリンの独裁者の個人的狂気の結果でもなく、テルミドールの法則的な産物であった。モスクワ裁判はソヴィエト官僚内部の耐えがたい軋轢から生まれたものであり、これらの軋轢はまたそれはそれで、官僚と人民との間の矛盾を反映しており、さらに「人民」内部での深まりゆく対立をも反映している。裁判の血なまぐさい「猟奇的性質」はこれらの諸矛盾の激しさを示すものであり、それによって終局の接近を告げ知らせている。

 モスクワへ帰還することを拒んだクレムリンの前外交官たちの公にされた発言は、官僚の間にあらゆる色合いの政治思想が――真のボリシェヴィズム(I・ライス)から完全なファシズム(F・ブテンコ)に至るまで――存在することを反駁の余地なく裏づけている。官僚内部のほんの少数にすぎない革命分子は、たしかに受動的にではあるが、プロレタリアートの社会主義的利益を反映する。ファシスト的な、あるいは一般に反革命的な分子は絶え間なく増大しつつあり、世界帝国主義の利益をますます首尾一貫して表現しつつある。買弁派の役割を買って出ているこれらの連中は、それなりの根拠があって次のように考えている。すなわち、新しい支配層がその特権的地位を保障することができるのは、国有化と集団化と外国貿易独占を拒否し、「西欧文明」、つまり資本主義と同化することによってのみである、と。これら二つの極の間に存在しているのが、中間的で曖昧なメンシェヴィキ的、エスエル的、自由主義的諸潮流であり、これらはブルジョア民主主義のほうに引きつけられつつある。

 いわゆる「無階級」社会そのものの中にも、疑いもなく、官僚内部のそれと同じグループ分けが存在している。ただそれほど先鋭ではなく、反比例的な形で現わされているだけである。自覚的な資本主義的諸傾向は主としてコルホーズ農民の成功した部分に見られ、住民のうちごく少数部分に特徴的である。だが、彼らは、個人的蓄積の小ブルジョア的諸傾向のうちに自らの広範な基礎を見出しており、この傾向は、全般的貧困の中から成長し、官僚によって意識的に奨励されている。

 ますます内的対立を増幅させ、ますます社会的均衡を破壊しつつあるこのシステムの上には、テルミドール寡頭制が恐怖政治の方法によって君臨しており、この寡頭制は、今では主としてスターリンのボナパルチスト的徒党に還元されつつある。

 最近のでっちあげ裁判は左翼に向けられた打撃であった。このことは右翼反対派の指導者たちに対する弾圧についてもあてはまる。なぜなら、官僚の利益と傾向の見地からするとき、旧ボリシェヴィキ党の右派グループもまた左翼的危険を意味していたからである。ブテンコ型の右派同盟者をも恐れているボナパルチスト的徒党が、自己保存のために、ボリシェヴィキの古参世代をほとんど一人残らず殲滅せざるをえないという事実は、大衆の増大する不満だけでなく、これら大衆の間における革命的伝統の生命力をも物語る反駁の余地のない証拠である。

 つい先日までモスクワ裁判を額面通り受け取っていた西側の小ブルジョア民主主義者たちは、今日、「ソ連邦にはトロツキズムもトロツキストもいない」と執拗に繰り返している。しかしながら、彼らは、これらすべての粛清が何ゆえ他ならぬトロツキズムの危険性に対する闘争という旗のもとに行なわれているのかを説明できない。もし「トロツキズム」を一つの完成した綱領とみなすならば、ましてや一つの組織とみなすならば、ソ連邦における「トロツキズム」が極端に弱いことは疑いない。しかしながら、その不屈の力は、それがロシア労働者階級の革命的伝統のみならず、労働者自身の現在の反抗を表現しているという事実にある。官僚に対する労働者の社会的憎悪こそが、クレムリンの徒党の見地からするとき、「トロツキズム」そのものなのである。彼ら徒党が死ぬほど恐れているのは――そしてそれには十分根拠がある――、労働者の内に秘めた憤激と第4インターナショナル組織との結合なのである。

 ボリシェヴィキの古参世代と中堅および若手世代の革命的代表たちの殲滅は、政治的均衡を破壊し、国内における右派のブルジョア的翼である官僚とその同盟者たちにとっていっそう有利な方向へと力関係を移動させた。彼らの側から、つまり右翼の側からソ連邦の社会体制を変革し、それを「西欧文明」――主としてファシスト形態のそれ――へと近づけようとする試みが、次の時期においてますます断固としてなされるだろう。

 このような展望からして、「ソ連の防衛」の問題はいよいよ具体的なものとなる。もし明日にでもブルジョア・ファシストのグループ、すなわち「ブテンコ派」が権力奪取を試みるならば、「ライス派」は必然的にバリケードの反対側に立つであろう。彼らは一時的にスターリンの同盟者になるであろうが、にもかかわらず彼らが防衛するのは、言うまでもなく、ボナパルチスト的徒党ではなくて、ソ連邦の社会的基礎、すなわち資本家から奪って国有化された所有を防衛するのである。もし「ブテンコ派」がヒトラーと軍事同盟を結ぶならば、「ライス派」はソ連国内においても世界的舞台においても軍事干渉からソ連邦を防衛するだろう。他のいかなる行動も裏切りになるだろう。

 したがって、資本主義反革命の公然たる攻撃に対抗して官僚のテルミドール的部分との「統一戦線」――ただし厳密に限定された場合のそれ――の可能性を前もって否定することは許しがたいことであるが、しかしそれにもかかわらず、ソ連邦における主要な政治的課題はいぜんとしてこのテルミドール官僚を打倒することである。この官僚支配の一日一日は経済の社会主義的要素を揺るがせ、資本主義復活の機会を増大させる。まったく同じ方向性にそって、スターリニスト徒党の手先および共犯者たるコミンテルンは、スペイン革命を絞殺し、国際プロレタリアートを士気阻喪させている。

 ファシスト諸国におけると同様、官僚の主要な力は彼ら自身のうちにあるのではなくて、大衆の幻滅のうちに、大衆が新しい展望を持っていないという点にある。ファシスト諸国におけると同様――スターリンの政治機構は、いっそう野放図である点を除けば、これらの国と違いはない――、ソ連邦で今日可能なのは、準備的な宣伝活動だけである。ファシスト諸国におけると同様、ソヴィエト労働者の革命的運動に対する刺激はおそらく国外の諸事件によって与えられるだろう。国際的舞台におけるコミンテルンに対する闘争は、今日、スターリニスト独裁に対する闘争の最重要部分である。多くのことが物語っているように、コミンテルンは、ゲ・ペ・ウに直接依拠していないがゆえに、その崩壊はボナパルチスト徒党および全体としてのテルミドール官僚の崩壊に先行するだろう。

※  ※  ※

 ソ連邦における革命の新たな高揚は疑いもなく、社会的不平等政治的抑圧に反対する闘争の旗のもとに始まるだろう。官僚の特権を打倒せよ! スタハーノフ主義を打倒せよ! ソヴィエト貴族とその官僚および僧侶を打倒せよ! あらゆる形態の労働に対してより平等な賃金を!

 労働組合と工場委員会の自由、集会と出版の自由のための闘争は、ソヴィエト民主主義の再生と発展のための闘争として展開されるだろう。

 官僚は階級的機関としてのソヴィエトをヒトラー=ゲッペルス型の普通選挙権の虚構に置きかえた。ソヴィエトは、その民主主義的形態のみならず、その階級的内容をもまた取り返さなければならない。かつてブルジョアジーとクラークがソヴィエトに入ることを許されなかったように、今や官僚と新貴族をソヴィエトから追放しなければならない。ソヴィエトには労働者、下部のコルホーズ員、農民、赤軍兵士の代表しか入る余地はない。

 ソヴィエトの民主化は、ソヴィエト諸党の合法化なしには考えられない。労働者と農民自身が、自らの自由な投票によって、どの諸党がソヴィエト諸党であるかを示すだろう。

 生産者と消費者の利益にそって、計画経済を上から下まで再検討せよ! 工場委員会は自らに生産統制の権利を取り戻さなければならない。民主主義的に組織された消費者協同組合が生産物の品質と価格を監督しなければならない。

 コルホーズを、コルホーズ農民の意志と利益にそって再編せよ!

 官僚の保守的な(6)国際政策はプロレタリア国際主義の政策によって置きかえなければならない。クレムリンのいっさいの外交文書を公開しなければならない。秘密外交を打倒せよ!

 テルミドール官僚によって行なわれたいっさいの政治裁判を、完全な情報公開(グラスノスチ)と民主主義的原理にもとづいて再審せよ。ただ被抑圧大衆の勝利せる革命的決起だけがソヴィエト体制を再生し、その社会主義への発展を保障することができる。ソヴィエト大衆を決起に導きうるのは、第4インターナショナルの党だけである。

 カイン・スターリンのボナパルティスト的(7)ギャングを打倒せよ!

 ソヴィエト民主主義万歳!

 国際社会主義革命万歳!

 

   18、日和見主義反対、無原則な修正主義反対

 フランスにおけるレオン・ブルムの党[フランス社会党]の政策は、改良主義者が歴史の最も悲劇的な教訓からさえ何ごとも学びえないことを改めて示している。フランス社会民主主義はドイツ社会民主党の政策を卑屈に模倣し、同じ最後を向かえつつある。数十年の歳月をかけて、第2インターナショナルはブルジョア民主主義体制に根を張り、その不可欠の一部分となって、このブルジョア民主主義とともに腐りつつある。

 第3インターナショナルは、資本主義の危機がプロレタリア革命を決定的に日程にのせたときに改良主義の道に移行した。スペインおよび中国におけるコミンテルンの現在の政策――「民主主義」的および「民族」的ブルジョアジーに媚びへつらう政策――は、コミンテルンがもはや学ぶことも変わることもできないことを示している。ソ連邦における反動的勢力となった官僚は、世界的舞台においても革命的役割を演じることはできない。

 アナルコ・サンディカリズムも総じて同じような進化をとげた。フランスでは、レオン・ジュオー[労働総同盟議長]を筆頭とするサンディカリスト官僚はとっくの昔に労働者階級内部におけるブルジョアジーの手先と化している。スペインでは、アナルコ・サンディカリズムは、革命が到来するや否や、その見せかけの革命性をかなぐりすてて、ブルジョア民主主義という馬車の五番目の車輪となった。

 ロンドン・ビューローを中心とする中間主義諸組織は社会民主主義ないしコミンテルンの単なる「左翼的」付属物にすぎない。これらの諸グループは、歴史的情勢を正しく理解しそこから革命的結論を導き出す能力をまったく持ちあわせていないことを暴露した。彼らの頂点はスペインのPOUMである。POUMは革命的情勢のもとで革命的政策をとることがまったくできなった。

※  ※  ※

 長い年月にわたって世界プロレタリアートがこうむった諸々の悲劇的敗北は公式の諸組織をよりいっそう保守主義へと追いやり、それと同時に、幻滅した小ブルジョア「革命家」たちを「新しい言葉」の模索へと駆り立てた。反動と衰退の時代にはいつでも、まじない師やペテン師のたぐいがあらゆる方面から姿を現わす。彼らは革命思想の全行程を修正しようとする。彼らは過去に学ぶのではなくて、それを「拒否」する。ある者はマルクス主義の破綻を発見し、別の者はボリシェヴィズムの破産を宣言する。またある者は、革命理論を裏切った連中の誤りや犯罪の責任を革命理論そのもののに帰し、別の者は、薬が即座に奇跡的な回復をもたらさなかったからといって、薬そのものを呪う。もっと大胆な人々は、万能薬が発見されるだろうと約束し、それが見つかるのを待って、闘争を停止するよう勧める。「新しい道徳」を宣布するおびただしい数の予言者たちは倫理的同種療法によって労働運動を再生しようとする。これらの使徒たちの大多数は、戦場に到着する前に、自ら道徳的破産者と成り果てた。こうして、マルクス以前の社会主義の文書保管所にとっくの昔に埋葬されたはずの古い処方箋が、新しい装いを帯びてプロレタリアートに提示されるのである。

 第2・第3インターナショナルとアムステルダム・インターナショナルおよびアナルコサンディカリスト・インターナショナルの官僚たちに対し、そしてその中間主義的衛星組織に対し、改良なき改良主義、ゲ・ペ・ウと同盟する民主主義、平和なき平和主義、ブルジョアジーに奉仕するアナーキズム、革命を死ぬほと恐れる「革命家」たちに対し――第4インターナショナルは非和解的な闘争を宣言する。これらの諸組織はみな、未来の保証ではなく、腐朽しつつある過去の遺物なのである。戦争と革命の時代がこれらの組織を完膚なきまでに粉砕するだろう。

 第4インターナショナルは万能薬を探し求めはしないし、発明もしない。第4インターナショナルは、全面的にマルクス主義に立脚する。マルクス主義は、われわれがあるがままを理解し、敗北の原因を解明し、勝利に向けて自覚的に準備することを可能にする唯一の革命理論である。第4インターナショナルは、いかに権力を奪取すべきかをプロレタリアートに初めて示したボリシェヴィズムの伝統を継承する。第4インターナショナルは、まじない師やペテン師や招かざる道徳教師を拒否する。搾取にもとづく社会にあっては、最高の道徳は社会主義革命の道徳である。労働者の階級意識、自らの力に対する確信、自己犠牲的闘争への構え――これらを高める手段はすべて善である。抑圧者に対する恐怖と拝跪を被抑圧者の間に植えつけ、抗議と憤激の精神を挫くような手段、あるいは大衆の意志を指導者の意志に、説得を強制に、現実の分析をデマゴギーやでっちあげに置きかえるような手段はすべて許しがたい。まさにそれゆえ、魂を売ったマルクス主義たる社会民主主義は、ボリシェヴィズムのアンチテーゼたるスターリニズムと同様、プロレタリア革命とその道徳にとって不具戴天の敵なのである。

 現実を直視すること、できるだけ楽な道をとろうとはしないこと、物事をその本来の名前で呼ぶこと、いかに過酷であっても大衆に真実を語ること、障害にしり込みしないこと、小さなことに対しても大きなことに対しても誠実であること、階級闘争の論理に立脚すること、行動の時来たらば大胆になること――以上が第4インターナショナルの行動原理である。第4インターナショナルは、流れに抗して泳ぐことができることを示した。次の歴史的波は第4インターナショナルをその波頭に押し上げるだろう。

 

   19、セクト主義反対

 プロレタリアートの歴史的諸組織による裏切りと堕落に影響されて、さまざまなセクト的気分とセクト的グループが第4インターナショナルの周辺に発生ないし再生している。彼らの根底にあるのは、部分的および過渡的諸要求――すなわち、あるがままの労働者大衆の基本的な利益と要求――のために闘争することの拒否である。これらセクト主義者にとって、革命の準備とは社会主義の優越性について自分自身が確信することなのである。彼らは「古い」労働組合、つまり幾千万の組織労働者に背を向けるよう提案する――あたかも大衆が現実の階級闘争の諸条件の外部にとどまりうるかのように! セクト主義者は改良主義諸組織内における内部闘争に対し超然とした態度をとる――あたかもこの闘争に介入することなしに大衆を獲得しうるかのように! 彼らは実践においてブルジョア民主主義とファシズムとを区別することを拒否する――あたかも大衆がこの相違についていつでもどこでも感じなくてすむかのように!

 セクト主義者はただ赤と黒という二つの色しか識別しえない。誘惑にかられないようにと、彼らは現実を単純化する。彼らは、スペインにおいて相闘う二つの陣営を、どちらもブルジョア的性格を持っているという理由で、区別することを拒否する。同様の理由にもとづいて、彼らは日本と中国との戦争において「中立」を維持すべきであると考える。彼らはソ連邦とブルジョア諸国との間の原則的相違を否定し、ソヴィエト官僚の反動的諸政策を理由に、10月革命によって生み出された新しい所有形態を帝国主義から防衛することを拒否する。大衆へ至る道を見い出しえない彼らは、大衆が自ら革命的思想にまで高まりえないと言って声高に非難する。

 これらの不毛な政治家たちはそもそも過渡的諸要求という架け橋を必要としない。なぜなら、向こう岸に渡るつもりなどないからである。彼らは、同じ場所で足踏みし、同一の貧弱な抽象的観念を十年一日のごとく繰り返す。政治的諸事件は彼らにとって論評の機会であって、行動の機会ではない。一般にあらゆる種類の混乱屋や神秘家がそうであるように、セクト主義者は、その一歩ごとに現実からしっぺ返しを受けるので、いつも激昂状態にあり、絶え間なく「体制」や「方法」に不満を唱え、しょっちゅう小規模な陰謀にふける。彼ら自身の組織内ではたいてい専制的体制がとられている。セクト主義の政治的衰弱は、革命的展望をまったく欠いた日和見主義の衰弱を影のように補完している。実際の政策においては、セクト主義者はマルクス主義と闘争するためにいつでも日和見主義者、とりわけ中間主義者と統一する。

 この種のセクト主義者のグループと徒党の大部分は、第4インターナショナルのテーブルから偶然にこぼれ落ちるパン屑で糊口をしのぎながら、「独立」の組織的存在を保っている。彼らは、うぬぼれだけは人一倍大きいが、成功のチャンスはかけらもない。時間を空費しないボリシェヴィキ=レーニン主義者はこれらのグループを静かにその運命にゆだねる。しかしながら、セクト主義的傾向はわれわれ自身の隊列内部にも見出され、個々の支部の活動に破壊的な影響を与えている。こうした傾向を、これ以上一日たりとも大目に見ることはできない。労働組合に関する正しい政策は第4インターナショナルに所属するための基本条件である。大衆運動への道を探し求めようともせず、また見出しえない者は、党にとって、闘士ではなくて単なる重荷である。

 綱領は、編集部や読書室や討論クラブのためではなく、幾百方の大衆の革命的行動のために作成される。第4インターナショナルの隊列からセクト主義と救いがたいセクト主義者を一掃することは、革命を成功させるための最も重要な条件である。

 

   20、青年への道を見出せ! 女性労働者への道を見出せ! 

 「指導者」たちによってもたらされたスペイン革命の敗北、フランスにおける人民戦線の恥ずべき破産、モスクワ裁判のいかさまの暴露――これらの三つの事実はあいまってコミンテルンに回復不能な打撃を与え、ついでにその同盟者たる社会民主主義者とアナルコ・サンディカリストに重傷を負わせた。もちろん、このことは、これら諸組織のメンバーがただちに第4インターナショナルに向かうことを意味するものではない。恐るべき破産をこうむった古い世代のかなりの部分は、一般に運動から離れるだろう。それに第4インターナショナルは、革命の廃疾者と幻滅した官僚や出世主義者のための避難所になるつもりはさらさらない。それどころか、現在古い諸組織の機構を支配している小ブルジョア分子がわれわれの党に流れこんでくる可能性に対して厳格な「予防措置」を講じることが必要である。すなわち、非労働者の党員候補、とくに元官僚に対して長期の試験期間を設けること、最初の3年間は責任ある地位につくことを禁止すること、等々。第4インターナショナルには、旧インターナショナルの潰瘍であった出世主義者のための余地はないし、これからもないだろう。運動を犠牲にして生きるのではなく、運動のために生きたいと願う者だけがわれわれへの入口を見出すだろう。革命的労働者が自らを主人であると感じなければならない。組織の門戸は彼らに対して広く開かれている。

 もちろん、かつて第一線に立った労働者の間でさえ疲れて幻滅した者が少なからずいる。彼らは、少なくとも当面の間、傍観者としてとどまるだろう。ある綱領や組織が擦り切れると、それを自らの肩に担った世代もそれとともに擦り切れてしまう。運動の刷新は、過去に対する責任から免れている青年たちによって行なわれる。第4インターナショナルはプロレタリアートの若い世代に特別の注意を払う。第4インターナショナルはそのすべての政策を通じて、青年に自己の力と未来に対する信念を吹き込もうとする。ただ青年の新鮮な情熱と戦闘的な精神だけが、闘争における最初の成功を保証することができる。そして、ただこうした成功だけが古い世代の最良の分子を革命の道に呼び戻すことができるのである。かつてもそうであったし、これからもそうであろう。

 あらゆる日和見主義組織は、事の本質からして、主要な注意を労働者階級の上層に集中し、それゆえ青年と女性労働者を無視する。しかしながら、資本主義の衰退期は、賃金労働者であると同時に一家の主婦である女性に最も激しい打撃を与える。第4インターナショナルの各国支部は労働者階級の最も抑圧されている層、したがって女性労働者の間にその支柱を求めなければならない。第4インターナショナルの各国支部はここにこそ、情熱と献身と自己犠牲の尽きることのない源泉を見出すだろう!

 官僚主義と出世主義を打倒せよ! 青年への道を見出せ! 女性労働者への道を見出せ!――このスローガンは第4インターナショナルの旗にしっかりと書き込まれるだろう。

 

   21、第4インターナショナルの旗のもとに!

 懐疑論者は尋ねる。しかし、第4インターナショナル創設の時期は本当に到来しているのか? インターナショナルを「人為的に」創設することはできない――と彼らは言う――、それはただ重大な事件からのみ生まれることができるのだ、云々。こうした異論はすべて、懐疑論者たちが新しいインターナショナルの建設に役立たないということを示すだけである。もっとも、彼らはそもそもどんな問題でも役立たないが。

 第4インターナショナルはすでに重大な事件から生まれているのである。すなわち、プロレタリアートの歴史上最大の諸敗北がそれだ。これらの敗北の原因は旧指導部の堕落と裏切りのうちに見出される。階級闘争は中断を許さない。第2インターナショナルに続いて第3インターナショナルは革命にとって死んだ。第4インターナショナル万歳!

 だが、その創設を宣言するときは今すでに到来しているのか?――懐疑論者たちは静まらない。第4インターナショナルは「宣言」される必要はないとわれわれは答える。第4インターナショナルは現に存在しており、闘っている。それは弱いか? しかり、いまだその隊列の数は多くない。なぜなら、それはまだ若いからである。それは、今のところ、主としてカードル[基幹活動家]の組織である。しかし、これらのカードルは革命的未来にとっての唯一の保障である。これらのカードル以外に、真にその名に値する革命的潮流などこの地球上にただの一つも存在しない。

 われわれのインターナショナルがいまだ数的に脆弱であるのに対し、その教義と綱領と伝統の点で、そして鍛え抜かれた比類なきカードルの点で、わがインターナショナルは強力である。今日このことを理解することができない者は、今しばらく放っておこう。明日ともなれば、それはよりいっそう明白となるだろう。

 第4インターナショナルは現在すでにスターリニスト、社会民主主義者、ブルジョア自由主義者、そしてファシストによって当然にも憎悪されている。いかなる人民戦線にも第4インターナショナルのための場所はないし、ありえない。第4インターナショナルは、ブルジョアジーに結びついているいっさいの政治グループと非和解的に対立する。第4インターナショナルの任務は資本主義の支配を打倒することである。その目的は社会主義である。その方法はプロレタリア革命である。

 党内民主主義なしには、いかなる革命的教育もありえない。規律なしには、いかなる革命的行動もありえない。第4インターナショナルの内部体制は民主主義的中央集権制の原則、すなわち討論における完全な自由と行動における完全な統一にもとづいている。

 人類文化の現在の危機はプロレタリア指導部の危機である。第4インターナショナルに結集した先進的労働者は自己の階級に危機からの活路を指し示す。彼らは、プロレタリアートとすべての被抑圧者の解放闘争の国際的経験にもとづいた綱領を労働者に提示する。彼らは一点の汚れもない旗を労働者に差し出す。

 万国の男女労働者よ、第4インターナショナルの旗のもとに結集せよ! それは諸君の来るべき勝利の旗である!

1938年5月

『反対派ブレティン』第66/67

新規

  訳注

(1)「ブルジョアジーの左手が何かを与えるたびに、その2倍多くをブルジョアジーの右手が奪い取っているときに(税金、関税、インフレーション、デフレーション、物価の高騰、失業、警察によるストライキ統制、等々)」は英語版にはない。

(2)「彼らは、ファシスト諸国だけを、すなわち彼ら自身が国内でいかなる役割も果たしていない諸国だけを「民族防衛」の例外にしている」は英語版にはない。

(3)この後に英語版には次の一文が入る。「それは、一方において破壊的戦争に対する憎しみを、他方において彼らが自分自身の利益であると信じているものに対する執着を反映している。」

(4)「そして、平和主義と愛国主義という二つの形態が相互に敵対的にぶつかり合うように仕向けなければならない」は英語版にはない。

(5)「民主主義的スローガン」は、英語版では「ファシズムに対する大衆動員の手段としての民主主義的スローガン」になっている。

(6)「保守的な」は、英語版では「反動的な」になっている。

(7)「ボナパルティスト的」は、英語版では「官僚的」になっている。

 

トロツキー研究所

トップページ

1930年代後期