バルセロナの蜂起

(若干の予備的考察)

トロツキー/訳 西島栄

【解説】これは、バルセロナで起きた5月事件の報を聞いた直後にトロツキーが予備的考察として書いた小論である。(右の写真は5月事件の際のバリケード)

 カタロニア州は伝統的にアナーキストの拠点であり、スペイン革命のさいにもファシスト軍をアナーキスト軍が打ち破り、アナーキストによる実効支配が成立した。しかし、アナーキストはブルジョアジーと妥協し、ブルジョア政党との連立政府を形成し、この連立政府の中には、最初は極小勢力であったスターリニスト政党のカタロニア統一社会党も参加した。この統一社会党はその後急速に勢力を伸ばし、アナーキスト勢力との対立を深めていった。1937年5月3日、ついにスターリニストの部隊はCNTの拠点であるバルセロナ中央電話局への襲撃を試みた。この攻撃に反撃して、バルセロナ全土でアナーキスト系労働者が自然発生的に決起し、バリケードを築き、治安部隊と対峙し、各地で銃撃戦を起こした。

 ことの重大さを理解したPOUM指導部は、すぐさまCNT−FAI指導部に共同闘争を提起したが、CNT−FAI指導部はあっさりその申し入れを拒否した。アナーキスト指導部は最初から事態の早期収拾に汲々としていた。数日間の苦労の末、アナーキスト指導部は武器を置くよう蜂起労働者を説得することに何とか成功し、POUM指導部も誠実な休戦を期待して結局それに追随した。だが労働者がバリケードを解いたのち、スターリニストを主力とする1万2000名もの軍隊がカタロニアに派遣されて、この地方を制圧した。

 この事件は、スペイン革命の決定的な転換点となった。POUMは反革命蜂起の煽動実行というでっち上げの罪を着せられ、非合法に追い込まれた。指導者は次々と逮捕され、POUMの最高指導者ニンは、このすぐあとに、スターリニストによってむごたらしい拷問をされたあげくに虐殺された。これによって、革命勢力は決定的に弱体化し、フランコ勝利への道を切り開いた。

 本稿の最初の邦訳は、『ニューズ・レター』第18号に掲載されたが、今回アップするにあたって、訳注を追加した。

L.Trotsky, The Insurrection in Barcelona (Some Preliminary Remarks), The Spanish Revolution (1931-39), Pathfinder Press, 1973.


 ごく最近起きた事件についてわれわれが聞いたニュースは、不完全であるばかりでなく、意識的に歪められている。こうした状況のもとで、われわれが定式化しうる結論はもっぱら仮説的でとりあえずの性格を持たざるをえない。

 この蜂起はその性格上「自然発生的」なものであったと思われる。すなわち、それは、POUMの指導者を含む指導者たちにとって予期せざるものとして勃発した。この事実のみが、一方におけるアナーキストおよびPOUMの指導者と、他方における労働者大衆との間に横たわっている深淵を説明する。ニンによって宣伝された、「プロレタリアートは平和的手段を通じて権力をとることができる」という考えが、まったくの誤りであることが証明された。われわれは、この蜂起におけるPOUMの実際の立場についてまったく、ないしほとんど知らない。しかしわれわれは奇跡を信じていない。この決定的瞬間におけるPOUM指導者の立場は、これまでの全時期における立場の単なる延長であろう。より正確に言えば、左翼中間主義の一貫性のなさが最も鮮やかにかつ悲劇的な仕方で暴露されるのが、まさにこうした決定的瞬間なのである。たとえば、1905年と1917年の諸事件におけるマルトフの運命がそのいい例である。

 われわれの隊列の中でさえ、左翼中間主義の代表者としてのマルトフの誤った考えがしばしば表明される。マルトフは、ケレンスキー=ツェレテリ=ダン体制を批判する中で、ボリシェヴィキに接近していた。その批判の急進性とその展望の遠大さにおいて、マルトフは『ラ・バターリャ』の編集者を大きく凌駕していた。しかし、マルトフは、その意識の奥底では、敵対者たちを説得したいと思っていたし、プロレタリアートを階級敵に対決させたくないと思っていた。まさにそれゆえ、労働者が行動に足を踏みだした瞬間、マルトフは、闘争の仮借なさに恐れおののいて、革命的行動の指導者としての役割を果たすのではなく、敗北した大衆の代弁者としての役割を果たしたのである。幸いなことに、マルトフの左には、何をなすべきかを知っている革命政党が存在した。

 スペインにおける情勢はまったく異なる。POUMの指導部は、昨日まで大衆にとって最も断固とした潮流を表現するものとして映っていた。労働者階級の前衛、少なくともカタロニアのそれは、POUMの文献を真剣に受けとめた。しかし、大衆がこの批判を行動によって実現しようと準備した瞬間、彼らは指導者なしに放置されてしまった。最近の蜂起においてまさにそのような状況だったのではないか。そうであることを私は恐れる。

 あるいは、あらゆることにもかかわらず奇跡が起き、大衆の圧力に押されてニンがボリシェヴィキの立場に立ったとすればどうか。もしそうなれば、それは実際すばらしいことだろう。そしてわれわれは新しい歴史的経験にもとづいてニンと共同の仕事をする可能性を喜ぶだろう。しかし、新しい言葉がやってくるまでは、POUMの公的政策に対する評価を変更する理由はいささかもない。

 外電が述べているバルセロナの休戦は何を意味するのか? 主として指導部の一貫性のなさによって決定された蜂起の敗北か、それとも人民大衆の圧力を恐れた指導者の直接の屈服か? われわれにはまだわからない。当面、闘争はバルセロナ以外で続きそうである。バルセロナでの攻勢を再び開始することができるだろうか? スターリニスト=改良主義者のくずどもの側の弾圧が大衆の行動をかきたてる新たな衝撃を与えるだろうか? 正確な情報が欠如しているので、ここでは予測するのは控えておこう。事件がどのようなコースをたどろうとも、いずれにせよ、指導部に対する批判はその決定的な重要性を保持している。蜂起における種々の誤りと弱さにもかかわらず、われわれは外部世界に対して、断固として、敗北した大衆の側につくだろう。しかし、このことは、指導部を容赦したり、その一貫性のなさを隠蔽したり、純粋にセンチメンタルな連帯を口実にその誤りについて沈黙を守ったりすることを意味しない。

 この衝撃的な経験がPOUMの間に分裂を引き起こすことは大いにありそうなことである。トロツキストを追い出しブランドラー主義者やドイツの社会主義労働者党(SAP)の指導者たち――スターリニズムからこぼれ落ちた垢――と友好関係を結んだ連中は、慈悲を求めて革命をはっきりと裏切り、その後でモスクワ官僚にすがるだろう。他方、革命的分子は、第4インターナショナルと裏切りとのあいだにいかなる中間もないことを理解するにちがいない。この政治的分化を助長し促進するために、われわれの批判は率直で公然かつ断固としたものでなければならない。何よりも、われわれの同志たちは全員、われわれの友人、ヴィクトル・セルジュ、スネーフリート()、フェレーケン()その他によって是認された受動的な寛大さという政策の誤りを理解しなければならない。われわれは偉大な事件から未来のためのあらゆる結論を引き出すすべを知らなければならない。

 1917年の7月事件とのアナロジーは、われわれにとってあまりにも明白なので詳しく論じる必要はない。何よりも強調しなければならないのは、その相違である。POUMは今だにカタロニアの地方組織にとどまっている。その指導者たちは、しかるべき時期に社会党に加入する機会を逃し、その根本的な日和見主義を不毛な非妥協性でもっておおい隠した。しかしながら、カタロニアの事件が社会党とUGT[社会党系の労働組合連合]の隊列に裂目と分裂を生み出すことを希望することができる。いずれにせよ、POUMの隊列の内部に自己を限定することは破滅的である。しかもPOUMは来る数週間に大きく縮小するだろう。必要なのは、カタロニアのアナーキスト大衆に顔を向けることであり、あらゆる地域の社会党と共産党の党員大衆に顔を向けることである。これは、古い外的な形態を保持する問題ではなく、未来をのための新しい立脚点を創出する問題である。

 敗北が深刻な場合でさえ(そしてわれわれはここからその深刻さの程度を測ることはできない)、それは決定的なものではありえない。スペイン自身、あるいはフランスにおける新しい要素が新しい革命的高揚を決定づけるだろう。

 スペインの10月がいつどのようにしてやって来るのかを、予測することは非常に困難である。とりわけ、この遠く離れた地からは。いずれにせよ、スペイン・プロレタリアートのすばらしい革命的力が使い果されたなどと誰もあらかじめ確証することなどできない。10月を準備するためには、革命的前衛は、プロレタリアートの上層における曖昧で混乱したどっちつかずのあらゆる姿勢に対して、国内的にも国際的にもあらかじめ警告しておかなければならない。第2インターナショナルおよび第3インターナショナルに対して第4インターナショナルをあえて対置しないあらゆる人々は、決定的な闘争においてけっして労働者を指導することはできないだろう。ブランドラーやSAP派やマクストン()やフェンナー・ブロックウェイ()のような連中とのつながりを維持する人々は、闘争の前夜ないし闘争の最中にプロレタリアートを裏切るだけであろう。スペインの労働者は今こそ、第4インターナショナルが、社会革命の科学的綱領を意味すること、大衆への信頼とあらゆる種類の中間主義者に対する不信を意味すること、闘争を最後まで導く意志を意味することを理解しなければならない。

1937年5月12日

『スペイン革命 1931-39』所収

『ニューズ・レター』第18号より

  訳注

(1)スネーフリート、ヘンドリク(1883-1942)……オランダの革命家、インドネシア共産主義運動の創設者。1902年にオランダ社会民主党に。1913年、インドネシアに渡り、マルクス主義の普及に努める。第2回コミンテルン世界大会に参加し、アジアの運動の重要性を訴え、その責任者として中国に渡り、中国共産党の創設にも貢献。1933年に革命的社会主義労働者党(RSAP)の前身「革命的社会党」を創設。4者宣言に署名し、国際共産主義者同盟に加入。1938年に第4インターナショナルの運動から離れ、第2次大戦中にナチスによって逮捕され銃殺。

(2)フェレーケン、ジョルジュ(1894-1978)……ベルギーの革命家、トロツキスト。ベルギー共産党の中央委員から左翼反対派に。1930年代、第4インターナショナルのベルギー支部の指導者。1936〜38年、スペイン革命の問題をめぐってトロツキーと論争。戦後、『トロツキスト運動におけるゲ・ペ・ウ』などの著作あり。

(3)マクストン、ジェームズ(1885-1946)……イギリスの社会主義者、1930年代におけるイギリス独立労働党の指導者。

(4)ブロックウェイ、フェンナー(1888/90-1988)……イギリスの社会主義政治家。イギリス独立労働党の指導者。ロンドン・ビューローの書記。

 

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