スペインの教訓――最後の警告

トロツキー/訳 西島栄

民兵を指導するドゥルティ

【解説】本稿は、すでにスペイン内戦が1年以上も継続し、しだいに大詰めを迎えつつあるときに書かれた、きわめて総括的なスペイン内戦分析である。(右の写真はアナーキストの革命的指導者ドゥルティ。戦闘中に不審な死を遂げたが、スターリニストに殺されたと言われている)

 この時期、しだいに共和派が後退し、共和派内部での権力争いが激化し、スターリニストがブルジョア共和派と手を結んで、人民戦線内部で支配権を獲得していた。スターリニストは、人民戦線内部の革命派を弾圧し、とりわけPOUMを反革命トロツキストとして系統的に迫害し、その指導者を逮捕して、モスクワ裁判のような見世物裁判を行なった。POUMの最高指導者アンドレウ・ニンはスターリニストによって拷問のうえ虐殺された。アナーキストの指導者たちは嫌悪しながらもスターリニストに追随しつづけた。

 この論文でトロツキーは次のように述べている。「スペインの共和派領内では二つの非和解的な綱領が対立していた。一方にはプロレタリアートから私的所有を何が何でも救おう、フランコから民主主義をできたら救おう、という綱領があった。他方には、プロレタリアートによる権力獲得によって私的所有を一掃しようという綱領があった」。この二つの傾向間の闘争は、前者の勝利に終わった。スペイン革命の最大の教訓は、現代の帝国主義の時代における革命を民主主義的段階にとどめるためには、「ブルジョア民主主義」さえ破壊して革命派を血まみれの弾圧によって押しつぶさなければならず、そのことによって革命そのものを決定的に弱め、民主主義体制そのものの崩壊と軍事ファシスト体制の確立に導くということである。まだスペイン内戦の帰趨は決定されていなかったが、トロツキーはこの苦い真実をしっかりと予想し、その教訓を徹底的に明らかにしようとした。

 ロシア革命を批判する後世の歴史家や評論家たちは、ロシア革命が無理に社会主義革命にまで突き進んだことを非難し、2月革命段階でとどめるべきだったとしたり顔で説教する。しかしながら、まさに、これらの歴史家や評論家の語る「教訓」を実際に実行に移したスペイン革命が(しかも、それを実践したのは、これらの歴史家や評論家が憎悪してやまないはずのスターリニストだったのだが)、どのような運命に陥ったかを見るべきであろう。

 それと同時に、トロツキーは、「スペインにおける最も誠実な政治組織であった中間主義政党POUMの崩壊が与える主要な教訓」にも執拗に言及する。革命の激動の過程においては、ただ政治的に誠実であるだけでは足りない。実際に革命を指導し、日和見主義的・反動的傾向を粉砕し、戦線を統一しなければならない。不幸なことにPOUMにはその意志と能力が欠けていた。そのため、POUMは真っ先にスターリニストの犠牲者となったのである。

 しかし、この論文の中でトロツキーは、唯一、自らの第4インターナショナルのスペイン支部についての教訓を明らかにしていない。スペインを捉えた大規模な革命的熱狂にもかかわらず、第4インターナショナル・スペイン支部はまったく大衆的な基盤を獲得することができず、スペイン革命の動向にほとんど何の影響も及ぼすことができなかった。革命期においては、たとえ少数派でも、正しい綱領を持ってすれば急速に多数派になることができるというトロツキーの確信は、このスペイン革命ではまったく実証されなかった。この問題は後に、トロツキーがスターリンの放ったスパイによって暗殺される最後の時期に彼が書き残した未完成の諸論文の一つ(「階級と党と指導部――なぜスペイン・プロレタリアートは敗北したか」)の主要テーマになる。

 本稿の最初の邦訳は、『スペイン革命と人民戦線』(現代思潮社)であるが、『反対派ブレティン』に所収のロシア語原文にもとづいて全面的に訳し直されている。

Л.Троцкий, Испанский урок - последнее предостережение, Бюллетень Оппозиции, No.62-63, Февраль 1938.


   スペインにおけるメンシェヴィズムとボリシェヴィズム

 あらゆる国の軍参謀本部は、来るべき世界大戦に備えて、アビシニア[エチオピア]、スペイン、極東における軍事作戦を念入りに研究している。将来の国際革命を予告する遠雷であるスペイン・プロレタリアートの闘争も、革命の参謀本部によって、これと同じくらい注意深く研究されなければならない。その場合のみ、われわれは来るべき事件によって不意をつかれずにすむのである。

 いわゆる共和派の陣営内では、3種類の思想が――不均等な力で――ぶつかり合った。メンシェヴィズムとボリシェヴイズムとアナーキズムである。ブルジョア共和派の諸政党に関して言えば、独立した考えも独立した政治的意義もなく、ただ改良主義者やアナーキストにおんぶしてもらうしかなかった。さらに、スペインのアナルコ・サンディカリスムの指導者たちが、自分たちの教義を捨て去って自らの意義をほとんどゼロにするためにあらゆることを行なったと言ってもけっして過言ではない。事実上、いわゆる共和派の陣営内には二つの教義、ボリシェヴィズムとメンシェヴィズムだけが対立したのである。

 社会党とスターリニスト、すなわち初代メンシェヴィキと二代目メンシェヴィキの考え方によれば、スペイン革命はその「民主主義的」課題のみを解決しなければならず、そのためには「民主主義的」ブルジョアジーとの統一戦線が必要である。ブルジョア民主主義の枠を出ようとするプロレタリアートのあらゆる試みは、この観点からして、単に時期尚早というだけでなく、破滅的なものだった。しかも、日程に上っているのは革命ではなく、フランコの反乱に対する闘争だ。ファシズムは「反動」である。この反動に対する闘争のためにはすべての「進歩」勢力が団結しなければならない、というわけである。しかし、ファシズムは封建的反動ではなく、ブルジョア的反動である。ブルジョア的反動と成功裏に闘争するためには、プロレタリア革命の力と方法によるしかない。これこそ、それ自身ブルジョア思想の一支流であるメンシェヴィズムが理解することができないし、そうすることも望まない考えである。

 第4インターナショナルの若いスペイン支部のみが完全な形で表現しているボリシェヴィキ的見地は、永続革命論に立脚している。すなわち、半封建的土地所有の清算といった純民主主義的な課題でさえ、プロレタリアートによる権力獲得なしには解決されえず、それはそれで社会主義革命を日程にのせることになる、という立場である。実際、スペインの労働者自身、革命の第一歩目から、事実上、民主主義的課題だけでなく、純粋に社会主義的な課題をも提出してきた。ブルジョア民主主義の限界を越えないよう要求することは、実際には、民主主義革命を擁護することではなく、それを拒否することを意味する。土地の所有関係の変革を通じてのみ、住民の主要部分を占める農民をファシズムに対抗する強力な砦とすることができるのである。しかし、地主は商工業ブルジョアジーおよびそれに依存するブルジョア・インテリゲンツィアと不可分の紐帯で結びついている。したがってプロレタリアートの党は、農民大衆とともに進むのか、自由主義ブルジョアジーとともに進むのか、このどちらかを選ぶ必要に迫られた。農民と自由主義ブルジョアジーを同じ連立政権の中に含めることには、ただ一つの目的を持つものでしかありえなかった。すなわちブルジョアジーが農民をだまして労働者を孤立させるのを助けることである。農地革命を実現することができるのは、ブルジョアジーに対抗することによってのみであり、したがって、プロレタリア独裁の措置によってのみである。いかなる中間的、中庸的体制も存在しえない。

 理論の面から見て、スターリンのスペイン政策の中で最も驚かされるのは、レーニン主義のイロハを完全に忘却してしまっていることである。二十何年も後になって――しかも何という年月だったことか!――コミンテルンはメンシェヴィズムの教義を完全に復権したのである。それだけではない。コミンテルンはこの教義に最も「首尾一貫した」、したがってまた、最も不条理な表現を与えようと努めた。1905年初頭の帝政ロシアにおいては、「純民主主義革命」の定式を支持することには、いずれにせよ1937年のスペインよりもはるかに大きな根拠があった。現在のスペインにおいて、メンシェヴィズムの「自由主義的労働者政治」(1)が、スターリニズムの反動的反労働者政治に変貌したのも、不思議ではない。それとともに、マルクス主義の戯画であるメンシェヴィキの教義は、それ自身の戯画に転じた。

 

   人民戦線の「理論」

 しかしながら、コミンテルンのスペイン政策が何らかの理論的「誤り」のせいで起きたと考えるのは無邪気であろう。スターリニズムを動かしているものはマルクス主義の理論ではなく、そもそも何らかの理論ではなく、ソヴィエト官僚の経験的利害である。モスクワの冷笑家たちは、仲間うちではディミトロフ(2)の人民戦線「哲学」を嘲笑している。しかし、彼らは大衆を欺くため、この神聖な定式を宣伝する多くのカードルを用意している。その中には真面目なものも詐欺師も、無邪気な者もイカサマ師もいる。ルイス・フィッシャー(3)は、その無知とうぬぼれの強さの点で、その田舎者的屁理屈の厚かましさの点で、そして革命に疎遠なその体質の点で、このみっともない集団の最も嫌悪すべき代表者である。「進歩勢力の統一」! 「人民戦線思想の勝利」! 「反ファシスト陣営の統一に対するトロツキストの攻撃」!… 共産党宣言が90年も前に書かれたとはとても信じられない。

 人民戦線の理論家は、基本的に算術の第一則、すなわち足し算から一歩も出ない。すなわち、「共産主義者」、社会党、アナーキスト、自由主義者を足した合計は、その個々の要素より大きいだろう。これが彼らの知恵のすべてである。しかし、この問題では算術は不十分なのだ。少なくとも力学が必要である。力の平行四辺形の法則は政治においても成り立つ。合力は、周知のように、諸力間の角度が大きいほど短かい。政治的同盟者たちが反対方向に引っ張れば、合力はゼロに等しくなる。労働者階級のさまざまな政治グループがブロックを結ぶことは、共通の実践的課題を実現するうえで絶対必要なことである。一定の歴史的条件下では、こうしたブロックはプロレタリアートの利害に近い利害関係を持つ被抑圧小ブルジョア大衆を引きつけることができる。こうしたブロックの共同の力は、それを構成する諸部分の個々の力よりもはるかに大きなものになる。逆に、プロレタリアートとブルジョアジーは、現在の時代においてはその利害が基本的諸問題に関して180度をなしており、したがって両者のブロックは総じて、プロレタリアートの革命力を麻痺させることにしかならない。

 内戦においては、剥き出しの強制力はほとんど有効性を持たず、その参加者による最高度の自己犠牲を必要とする。労働者と農民が勝利を確保することができるのは、彼らが自らの解放のために闘う場合のみである。こうした状況にもかかわらず、プロレタリアートをブルジョアジーの指導に従わせることは、あらかじめ内戦におけるプロレタリアートの敗北を保証することを意味する。

 この単純な真理はけっして純粋な理論的分析の産物ではない。それどころか、それは歴史的経験の全体、少なくとも1848年以降の歴史的経験の揺るぎない結論を表現している。ブルジョア社会の近現代史には、あらゆる種類の「人民戦線」、すなわち勤労者をだますための多種多様な政治的連合の例が満ちあふれている。スペインの経験は、この犯罪と欺瞞の鎖に新たな悲劇的環をつけ加えるものにすぎない。

 

   ブルジョアジーの幽霊との同盟

 政治的に最も驚くべきことは、スペインの人民戦線には実際のところ「力の平行四辺形」すら存在しないという事実である。ブルジョアジーの席に座っていたのはその幽霊だったからである。スターリニストと社会党とアナーキストを通じて、スペインのブルジョアジーは、わざわざ人民戦線に参加することなくプロレタリアートを自らに従えた。あらゆる政治的傾向をもった搾取者の圧倒的多数が公然とフランコの陣営に移った。スペインのブルジョアジーは、永続革命論に関していかなる知識もなかったが、大衆の革命運動が、その出発点が何であるにせよ、それが土地と生産手段の私的所有に対立するものであること、民主主義的な手段では絶対にこの運動を打ち負かすことができないことを最初の段階から理解したのである。

コンパニス

 それゆえに共和派の陣営にはアサーニャ氏(4)やコンパニス氏(5)[右の写真]やその同類のような、有産階級の取るに足りない残骸しか残らなかった。彼らは、ブルジョアジーの政治的弁護人ではあるが、ブルジョアジーそのものではけっしてない。有産階級は軍事独裁に自らのカードを全面的に賭けつつも、同時に昨日までの自己の政治的代理人を使って、「共和派」の領土における大衆の社会主義運動を麻痺・分裂させ、その後に押しつぶすことに成功したのである。

 左翼共和派は、スペインのブルジョアジーを少しも代表していなかったが、それにもまして労働者や農民を代表していなかった。彼らは自分自身以外の何者も代表していなかった。しかし、社会党、スターリニスト、アナーキストなどの同盟者のおかげで、この政治的亡霊は革命において決定的な役割を演じた。いかなる形でか? 非常に簡単である。「民主主義革命」の原理である私的所有の不可侵性の体現者としてである。

 

   人民戦線におけるスターリニスト

アサーニャ

 スペイン人民戦線の出現の原因とその内的力学はまったく明らかである。ブルジョア左翼の退役指導者たちの任務は、大衆の革命を押しとどめ、そうすることで、彼らが以前失った搾取者からの信頼を取り戻すことにあった。「なぜフランコが必要なのか? われわれ共和主義者にも同じことができるのに」というわけだ。この中心点に関して、アサーニャ[左の写真]とコンパニスの利害はスターリンの利害と完全に一致していた。スターリンにとって必要だったのは、自分が「無政府状態」から「秩序」を守りうることを実地に証明することによって、英仏ブルジョアジーの信頼を勝ちとることだった。アサーニャとコンパニスはスターリンにとって労働者に対する防壁として必要だった。スターリン自身はもちろん社会主義に賛成だが、共和派ブルジョアジーを突き放すことはできない! アサーニャとコンパニスにとって、スターリンは革命家としての権威をもった経験豊富な死刑執行人として必要であった。スターリンなしには、彼らは取るに足りない寄せ集め集団であり、労働者を攻撃する能力も勇気もけっして持てなかっただろう。

ラルゴ・カバリェロ

 階級闘争の進展によってとっくに軌道から投げ出されていた第2インターナショナルの指導者たちは、モスクワからの支持によってようやく自信を取り戻した。もっとも、その支持はすべての改良主義者に与えられたものではなく、その最も反動的な部分に与えられた。カバリェロ(6)[左の写真]は、労働貴族の方を向いている社会党の顔を代表していた。ネグリン(7)とプリエト(8)はいつもブルジョアジーの側に目を向けていた。ネグリンはカバリェロをモスクワの支援のもとに打ち破った。人民戦線のとりことなった社会党左派とアナーキストは、たしかに、民主主義からできるだけ多くのものを救い出そうと努めた。しかし、彼らには人民戦線の憲兵に対抗して大衆を動員する勇気がなかったために、彼らの努力も結局のところ惨めな不平不満の域を出なかった。こうして、スターリニストは社会党の最右翼、あからさまにブルジョア的な一翼と同盟を結んだのである。彼らは左側のPOUMやアナーキストや社会党「左派」に、すなわち、かろうじて革命的大衆の圧力を反映している中間主義グループに攻撃の矛先を向けたのである。

 この政治的事実は、それ自体きわめて重要であるが、それと同時にコミンテルンの堕落がこの数年間にいかに進行したかを示している。われわれはかつてスターリニズムを官僚的中間主義と定義した。事態はこの定義の正しさを示すいくつかの証拠を与えた。しかし今やそれは明らかに時代遅れになっている。ボナパルティスト官僚の利害は、もはや中間主義的中途半端さとは相いれなくなった。ブルジョアジーと和解したスターリニスト徒党は、国際労働貴族の最も保守的な分子とのみ同盟しうる。こうして、国際的舞台におけるスターリニズムの反革命的性格は完全に確立されたのである。

 

   スターリニズムの反革命的優位性

サモラ

 われわれはここで次のような謎の核心に到達したわけである。すなわち、数の上でも、指導力の上でも取るに足りないスペイン「共産」党が、はるかに強大な社会党とアナーキストの諸組織が存在したにもかかわらず、いかにして、なぜ、権力のいっさいのテコを自己の手中に集めることができたのか、である。スターリニストがソヴィエトの武器と引きかえに権力を得たにすぎないとするよくある説明は、あまりに皮相である。武器の代償として、モスクワはスペインの金(きん)を受け取った。資本主義市場の法則によれば、これで十分である。ではどうやってスターリンはさらに権力をも手に入れることに成功したのか? これに対する通常の回答はこうである。軍事物資の供与によって大衆から見て自己の権威を高めたソヴィエト政府は、「協力」の条件として革命家たちを断固として処分することを持ち出し、こうして危険な競争相手を取り除いたのだ、と。これはみなまったく議論の余地のない事実であるが、問題の一面、それもあまり重要でない一面にすぎない。ソヴィエトの武器供与によって生まれた「権威」があったにせよ、スペイン共産党は依然として小さな少数派であったし、労働者側からますます増大する憎しみにぶつかっていた。他方では、モスクワが条件を出しただけでは不十分であり、バレンシア政府がこれを受け入れる必要があった。ここに問題の核心がある。サモラ(9)[左上の写真]やコンパニスやネグリンだけでなく、カバリェロさえ首相時代には、多少とも進んでモスクワの要求を受け入れた。なぜか? これらの紳士たち自身も革命をブルジョア的枠内に収めておきたいと思っていたからである。社会党だけでなく、アナーキストもスターリンの綱領に真剣には反対しなかった。彼ら自身、ブルジョアジーとの決裂を怖れていたのだ。彼らは、労働者による革命的攻勢のたびごとに死ぬほど震え上がった。

 武器と反革命的最後通牒をたずさえたスターリンは、これらすべてのグループにとって救い主だった。スターリンは、彼らの望んだとおり、フランコに対する軍事的勝利を保証してやり、それと同時に、革命の過程に対するあらゆる責任から解放してやった。彼らは、社会主義者やアナーキストとしての仮面を安んじてタンスにしまい込むことができた。モスクワがブルジョア民主主義を再建してくれた暁には、これを再び使用することを期待して、である。何より都合のよいことに、これらの紳士諸君はプロレタリアートに対する自らの裏切りを、スターリンとの軍事協定の必要性によって正当化することができた。スターリンはスターリンで、自分の反革命的政策を、共和派ブルジョアーとの協定の必要性によって正当化した。

ネグリン

 このようなより広い観点に立ってはじめて、アサーニャ、コンパニス、ネグリン、カバリェロ、ガルシア・オリベル(10)などの、権利と自由の騎士たちが、ゲ・ペ・ウの犯罪に対して示した天使のごとき忍耐強さが、はっきりと理解できるようになる。彼らの主張するとおり、本当に他の選択肢がなかったとしても、それは革命家の首と労働者の権利によってしか飛行機や戦車の代価を払えなかったからではなくて、テロという手段による以外には自分の「純民主主義的」綱領、すなわち反社会主義的綱領を実現することができなかったからである。労働者と農民が自分たちの革命に足を踏み出すとき、すなわち工場や土地を接収し、旧来の地主を追放し、各地で権力を握るとき、ブルジョア反革命には――民主主義的であれ、スターリニスト的であれ、ファシスト的であれ、いずれも同じく――、この運動を抑える手段としては、嘘と欺瞞によって補完された流血の暴力しかない。この点におけるスターリニスト徒党の優位性は、アサーニャやコンパニスやネグリン[右上の写真]やその左翼同盟者の手に負えないような諸手段を躊躇なくただちに適用したことにある。

 

   スターリンもスターリンなりに永続革命論の正しさを確認している

 このように、スペインの共和派領内では二つの非和解的な綱領が対立していた。一方にはプロレタリアートから私的所有を何が何でも救おう、フランコから民主主義をできたら救おう、という綱領があった。他方には、プロレタリアートによる権力獲得によって私的所有を一掃しようという綱領があった。前者の綱領は、労働貴族、小ブルジョア上層、とりわけソヴィエト官僚を通じた資本の綱領を表現していた。後者の綱領は、大衆の革命運動が持つ、十分に自覚的ではないが強力な傾向をマルクス主義の言葉に翻訳したものである。革命にとって不幸なことに、一握りのボリシェヴィキと革命的プロレタリアートとのあいだには、人民戦線という反革命的隔壁がそびえ立っていた。

 人民戦線の政策は、それはそれで、武器供与者としてのスターリンのゆすりによって決定されたものではまったくなかった。もちろん、ゆすりには事欠かなかった。しかし、このゆすりの成功の原因は革命そのものの内的条件にあった。革命の社会的内容を規定していたのは、この6年間ずっと、半封建的・ブルジョア的所有の体制に対する大衆のますます増大する攻勢であった。ブルジョアジーをフランコの腕の中に投げ入れたものは、まさにこの所有を最も極端な方法で防衛することの必要性だった。共和党政府はブルジョアジーに対し「民主的」手段によって私的所有を守ると約束したが、その完全な破産が――とりわけ1936年7月に――明らかになった。所有の戦線の状況が軍事の戦線よりも危険なものになったとき、アナーキストを含むあらゆる毛色の民主主義者たちはスターリンに屈服した。そしてスターリンの武器庫には、フランコと同じ手段しか見つからなかった。

 トロツキスト、POUM派、革命的アナーキスト、社会党左派に対する迫害、汚らしい誹謗中傷、文書偽造、スターリニストの監獄での拷問、背後からの暗殺など、こうしたものがなければ、共和主義の旗のもとにあるブルジョア体制は2ヵ月と持ちこたえられなかったであろう。ゲ・ペ・ウが状況の支配者になることができたのは、彼らが他の者よりも首尾一貫した形で、すなわち、最も卑劣で血ぬられた残酷なやり方で、プロレタリアートからブルジョアジーの利益を守ったからである。

 社会主義革命との闘争において、「民主主義者」ケレンスキーはまずコルニーロフの軍事独裁に支えを求め、ついで君主主義者クラスノフ将軍の列車でペトログラードに帰還しようとした。他方、ボリシェヴィキは民主主義革命を徹底的に遂行するために、「民主主義的」詐欺師とホラ吹きの政府を転覆せざるをえなかった。そうすることで、ボリシェヴィキは同時に、軍事的(ないし「ファシスト的」)独裁のあらゆる試みにとどめを刺したのである。

 スペイン革命が改めて示しているように、革命的大衆から民主主義を守るには、ファシスト反動の方法による以外には不可能である。また逆に、ファシズムに対して真の闘争を行なうには、プロレタリア革命の方法による以外にない。スターリンはゲ・ペ・ウというボナパルティスト的手段によって民主主義を破壊することによって、「トロツキズム」(プロレタリア革命)と闘った。このことは、コミンテルンによって取り入れられた旧来のメンシェヴィキ理論、すなわち民主主義革命と社会主義革命とを時間的に相互に隔たった二つの歴史的章にしてしまう理論を、再びそして最終的に覆えすものである。モスクワの死刑執行人の仕事は、彼らなりに永続革命論の正しさを確認しているのである。

 

   アナーキストの役割

 アナーキストはスペイン革命においていかなる独立した立場も持たなかった。彼らがしたことは、メンシェヴィズムとボリシェヴイズムのあいだを揺れ動くことだけだった。もっと正確に言うと、アナーキスト労働者は本能的にボリシェヴィキの道に向かったが(1936年7月19日、1937年5月事件)、指導者は反対に、全力を挙げて大衆を人民戦線の陣営に、すなわちブルジョア体制の陣営に押しやった。

レオン・ブルム

 アナーキストは、自らの仕事を労働組合に、すなわち、日常の旧習墨守にがんじがらめになった平時の組織に限定しようとした時、革命の法則とその課題に対する致命的な無理解をさらけ出した。彼らは労働組合の外部で起きていること、大衆の中で、政党の中で、国家機構の中で生じていることを無視した。もしアナーキストが革命家であったならば、彼らは、何よりも都市と農村のすべての勤労者の代表を結集したソヴィエトの創設を呼びかけたであろう。これらの代表者の中には、労働組合に一度も入ったことのない最も抑圧された層も含まれる。このソヴィエトの中では、必然的に革命的労働者が指導的地位を占めるであろう。スターリニストは取るに足りない少数派となり、プロレタリアートは自己の無敵の力を確信しただろう。ブルジョア国家機関は宙に浮いてしまい、強力な一撃さえ与えれば、この機関は粉々になっていただろう。社会主義革命は強力な推進力を獲得し、フランスのプロレタリアートは、レオン・ブルム(11)[右上の写真]がプロレタリア革命をピレネー山脈の向こうにとどめておくことを長くは許さなかったであろう。モスクワの官僚もあのような贅沢をすることはできなかったろう。最も困難な問題もひとりでに解決されていたであろう。

 だがそうする代わりに、アナルコ・サンディカリストは、「政治」を避けて労働組合に逃げ込もうとし、全世界と彼ら自身も大いに驚いたことに、ブルジョア民主主義という馬車の第5の車輪[無用の長物の意]となっていたのである。それも長いことではない。というのも、第5の車輪など誰にも必要ではないからだ。ガルシア・オリベル一派が、スターリンとその仲間が労働者から権力を取り上げるのを助けた後、今度はアナーキスト自身が人民戦線内閣から追い出された。彼らは、この時、勝利者の戦車の後を追って走り回り、自らの忠誠ぶりを彼らに請け合うことがなしうる最良のことだと考えた。統一戦線(犠牲者と死刑執行人とのそれ)の神聖さ、自らの独裁を含むあらゆる独裁が許しがたいこと、等々に関する涙まじりの演説の下に、大ブルジョアジーに対する小ブルジョアジーの恐怖、大官僚に対する小官僚の恐怖を隠しているのである。「だってわれわれは1936年7月に権力を握ることもできたのだ」…、「だってわれわれは1937年5月にも権力を握ることができたのだ」…。こう言ってアナーキストは、ネグリンとスターリンに向かって、自分たちが革命を裏切ったことを認め、その対価を支払うよう懇願した。何と醜悪な構図ではないか!

 「われわれが権力を取らなかったのは、取れなかったからではなく、取りたくなかったからだ。なぜなら、われわれはあらゆる独裁に反対だから」云々という弁解一つとっただけで、アナーキズムを徹頭徹尾反革命的な教義だときっぱり告発することができる。権力の獲得を拒否することは、権力をすでに握っている者に、すなわち搾取者に進んで権力を委ねることを意味する。あらゆる革命の核心は、新しい階級を権力につけ、その階級に対しその綱領を実現する可能性を与える点にあったし、今日でもそうである。勝利を望むことなく戦うことはできない。アナーキストが権力を獲得した後に、彼らの必要だと思う体制を樹立することは、誰にも妨げることはできなかったろう。もちろん、彼らの綱領が実現可能なものであるとすればの話だが。しかし、アナーキストの指導者自身が、このことに対する確信を失ってしまっていた。彼らが権力から逃げたのも、「あらゆる独裁」に反対であったからではなく――実際、彼らは、不平を言ったり涙声を上げたりしながらも、ネグリンとスターリンの独裁を支持してきたし、現在もしている――、彼らが自らの原理原則と勇気とをすっかり消失してしまったからである。もっとも、そもそもそれを以前は持っていたとすればの話だが。彼らは恐れていた。彼らはあらゆるものを恐れていた。「孤立」も、「介入」も、「ファシズム」も。彼らはスターリンを怖れていた。ネグリンを怖れていた。彼らはフランスとイギリスを恐れていた。しかし、これらの美辞麗句の徒が何よりも怖れていたのは、革命的大衆だった。

 権力の獲得を拒否することは、必然的に、あらゆる労働者組織を改良主義の泥沼に投げこみ、これをブルジョアジーの玩具にしてしまうことを意味する。社会の階級的構造からして、そうなるほかはない。権力獲得という目的に反対することによってアナーキストは、結局のところ、革命という手段に反対しないわけにはいかなくなった。CNTとFAIの指導者たちは、ブルジョアジーが1936年7月に権力の影を維持するのを助けただけでなく、彼らが一度に失ったものを少しずつ取りかえすことさえ助けたのだ。1937年5月には彼らは、労働者の蜂起をサボタージュし、そのことによってブルジョアジーの独裁を救った。こうして、単に非政治的であることを望んだアナーキストが実際には非革命的であり、最も危機的な瞬間においては反革命的であることがわかった。

 アナーキストの理論家たちは、1931〜1937年の偉大な試練の後で、クロンシュタットに関する古い反動的たわごとを繰り返し、「スターリニズムは、マルクス主義とボリシェヴィズムの必然的産物だ」と念仏のように唱えているが、それによって彼らは自分たちが革命にとっては永久に死んだも同然だということを証明しているにすぎない。彼らは言う、マルクス主義それ自体に欠陥があって、スターリニズムはその法則的子孫である、と。それでは、なぜ革命的マルクス主義者であるわれわれは、世界中でスターリニズムと生死をかけた闘争を遂行しているのか? なぜスターリニストの悪党どもはトロツキズムを主要な敵とみなしているのか? われわれの見解や行動方法に近づく者たち(ドゥルティ(12)、アンドレウ・ニン(13)、ランダウ(14)など)がみな、スターリニズムのギャング団から血なまぐさい弾圧を受けるはめになるのはなぜなのか? 他方で、スペインのアナーキズムの指導者たちは、モスクワとマドリードでゲ・ペ・ウが犯罪を働いていた時期に、なぜカバリェロとネグリンの大臣、すなわちブルジョアジーとスターリンの従僕になっていたのか? どうして現在でも、アナーキストはファシズムとの闘争という口実のもとに、スターリンとネグリンの自発的捕虜にとどまっているのか? すなわち、ファシズムと闘争する能力のないことを証明した、革命の死刑執行人の自発的捕虜にとどまっているのか?

ネストル・マフノ

 クロンシュタットとマフノ(15)[左の写真]の背後に隠れているアナーキストの弁護人は誰もだますことはできない。クロンシュタット事件においても、マフノとの闘争においても、われわれは農民の反革命からプロレタリア革命を守ったのである。スペインのアナーキストは、プロレタリア革命からブルジョア反革命を守ったし、今も守っている。いかに詭弁を弄したとしても、スペイン革命においてアナーキズムとスターリニズムがバリケードの同じ側に立ち、労働者大衆と革命的マルクス主義者がその反対側に立ったという事実を歴史から消し去ることはできない。これがプロレタリアートの意識に永遠に刻み込まれるであろう真実なのだ。

 

   POUMの役割

 POUMに関しても事情は大してましではない。なるほどPOUMは理論的には永続革命の定式にもとづいていた(だからこそ、スターリニストはPOUM派をトロツキストと呼んだのである)。しかし、革命は理論的認識で尽きるものではない。POUMは、アナーキストを含む改良主義的指導者に対抗させて大衆を動員する代わりに、これらの紳士諸君を資本主義に対する社会主義の優位性について納得させようとした。POUM指導者のあらゆる論文、あらゆる演説はすべてこの基調に添うものである。彼らは、アナーキストの指導者と対立しないよう、CNT内に独自の細胞を組織しようとせず、そもそもCNT内で何の活動も行なわなかった。鋭い衝突を避けるために、共和国軍内でいかなる革命的活動も行なわなかった。それと引き換えに、彼らは、「自分自身の」組合と「自分自身の」民兵を組織した。そしてこの民兵は、「自分自身の」建物を守り、「自分自身の」戦線区域に従事した。POUMは革命的前衛を階級から孤立させることによって前衛を無力化させ、階級を指導部なしに放置した。

 政治的には、POUMはつねに、ボリシェヴィズムよりも人民戦線にずっと近く、その左翼を担っていた。それにもかかわらずPOUMが血まみれの卑劣な弾圧の犠牲となったのは、人民戦線には、自分自身の左側を少しずつ切りとる以外には、社会主義革命を圧殺するという自分の使命を果すことができなかったからである。

POUMのポスター

 その意図に反して、POUMは結局、革命党建設の途上における主要な障害となった。オランダの革命的社会主義党の指導者スネーフリート(16)のような、プラトニックないし外交的な第4インター支持者の負った責任はきわめて大きい。彼らは、POUMの中途半端さや不決断や回避的姿勢を、一言で言えばその中間主義を、これみよがしに支持したのである。革命は中間主義を容赦しない。革命は中間主義を暴露し一掃する。そのついでに革命は中間主義の友や弁護人の権威を失墜させる。これがスペイン革命の最も重要な教訓の一つである。

 

   武装の問題

 社会党とアナーキストは、モスクワからの武器の代償として原則と良心を犠牲にしなければならなかったという理屈でスターリンへの屈服を正当化しようとしているが、それはまったくの嘘であり、しかも下手くそな嘘である。もちろん、彼らの多くは、暗殺と偽造なしにすますことができれば、それにこしたことはないと思っている。しかし、どの目的もそれ自身の手段を要求する。1931年4月以来、すなわちモスクワの軍事介入のはるか以前から、社会党とアナーキストはプロレタリア革命を抑制するために、できることは何でもやってきた。スターリンは彼らにこの仕事を貫徹する方法を教えた。彼らがスターリンの共犯者となったのも、彼らがスターリンと同じ政治的目的を追求していたからにすぎない。

 もしアナーキストの指導者たちが多少なりとも革命家に類する存在であったなら、モスクワから最初のゆすりがあった時に、それに答えて、社会主義的攻勢を継続するだけでなく、スターリンの出した反革命的条件を世界の労働者階級の面前で暴露しなければならなかったはずである。そうすることによって、モスクワ官僚を、社会主義革命とフランコ独裁のどちらかを公然と選ぶことを余儀なくさせることができただろう。テルミドール派の官僚は革命を恐れ憎悪する。しかし、官僚はファシストの首吊り縄で絞め殺されることも恐れている。さらに彼らは労働者に依存している。その結果モスクワが武器を、それもおそらくはより手頃な値段で提供せざるをえなくなったと考える根拠は十分にある。

 しかし、何も世界はスターリンのモスクワを中心に回っているわけではない。1年半もの内戦のあいだに、一連の非軍需工場を戦争の必要に合わせて改造することで、スペインの軍需産業を強化し発展させることもできたし、そうしなければならなかった。この仕事が遂行されなかったのはただ、スターリンとそのスペイン内同盟者が労働者組織のイニシアチブを恐れたからに他ならない。強力な軍需産業が労働者の手に握られれば、それは強大な武器になっただろう。それゆえ人民戦線の指導者はモスクワに頼る方を選んだのだ。

 まさにこの問題において、「人民戦線」の不実な役割がとりわけはっきりと暴露されている。人民戦線は、ブルジョアジーとスターリンとの裏切り的取引の責任をプロレタリア組織に押しつけた。アナーキストが少数派であるかぎり、たしかに彼らは、支配ブロックがモスクワとその主人たるロンドンとパリに対して何らかの義務を引き受けることを妨げることはできなかったろう。しかし、前線では最良の戦士であることをやめることなく、裏切り行為や裏切り者から公然と一線を画し、大衆に真の状況を説明し、ブルジョア政府に対して大衆を動員することはできたし、そうしなければならなかった。そして、日ましに自らの力を増強していき、ついには権力を握り、それとともにモスクワの武器をも手中に収めることができたはずである。

 だが、人民戦線が存在しない場合に、モスクワがそもそも武器の提供を拒否したらどうするのか? われわれはそれに対してこう答える、では聞くが、ソヴィエト連邦がそもそも存在しなかったらどうするのか、と。これまで革命が、武器を供給してくれる外国の高位の保護者のおかげで勝利を得たことなど一度としてない。外国の保護者は普通、反革命の側にくみするものだ。ソヴィエトに対するフランス、イギリス、アメリカ、日本その他の軍隊の介入の経験を思い起こすまでもない。ロシアのプロレタリアートは、外国からの軍事援助もなしに、国内の反動と外国の干渉者を打ち破った。革命は何よりも、大胆な社会的綱領のおかげで勝利するのである。この綱領こそ、大衆が自国の領土上に存在する武器を手中におさめ、敵の軍隊を解体することを可能にするのだ。赤軍は、フランス、イギリス、アメリカの軍事物資を奪いとり、外国の遠征軍を海に放り込んだ。このことはもう忘れられてしまったのか?

 武装した労働者と農民の先頭に、すなわち、いわゆる「共和主義的」スペインの先頭に、ブルジョアジーの臆病な手先ではなく革命家が立っていたなら、武装の問題がそもそも第一級の役割を演じるようなことなどなかったろう。フランコの軍隊は、植民地のリフ族(17)やムッソリーニの兵隊も含めて、革命の伝染からけっして守られてはいなかった。四方を社会主義革命の炎で取り囲まれたなら、ファシズムの兵士はとるに足りない量に減ってしまっただろう。マドリードとバルセロナに足りなかったのは、武器でも軍事的「天才」でもない。足りなかったのは革命党なのだ!

 

   勝利の条件

 抑圧者の軍隊に対する内戦において大衆が勝利する条件は、実際には非常に単純である。

 1、革命軍の戦士は、自らの完全な解放のために戦っているのであって、旧来の(「民主主義的」)搾取形態を復興するためではないということをはっきりと自覚していなければならない。

 2、このことは、革命軍の後方においても、敵軍の後方においても、労働者と農民によって認識され理解されていなくてはならない。

 3、自軍の前線、敵軍の前線、および両軍の後方におけるプロパガンダには、社会革命の精神が全面的に浸透していなくてはならない。「まず勝利、次に改革」というスローガンは、聖書の諸王から始まってスターリンに至るまで、あらゆる抑圧者と搾取者のきまり文句である。

 4、政策を決定するのは、闘争に参加する階級および階層である。革命的大衆は自らの意思を直接表現する国家機関を持たなければならない。このような機関は労働者・兵士・農民代表のソヴィエトでしかありえない。

 5、革命軍は奪還した諸地方において、社会革命の最も差し迫った措置を宣言するだけでなく、ただちに実行に移さなければならない。その措置とは、現存する食料・工場生産物その他の物資を金持ちから収奪して困窮者に引き渡すこと、住居を労働者、とりわけ兵士の家族に有利に再配分すること、土地と農機具を地主から収奪して農民に引き渡すこと、生産の労働者統制を確立し、以前の官僚制に代えてソヴィエト権力を樹立すること、である。

 6、社会主義革命の敵、すなわち搾取分子およびその手先は、「民主主義者」、「共和主義者」、「社会主義者」、「アナーキスト」などの仮面をかぶっていても、容赦なく革命軍から放逐しなければならない。

 7、各部隊のトップには、革命家としても戦士としても非の打ちどころがない権威を持った政治委員(コミッサール)を配置しなければならない。

 8、各部隊には、労働者組織から推薦された最も献身的な戦士から構成される結束した中核が存在しなければならない。この中核のメンバーに与えられる特権は唯一つ、戦闘の最前線に立つことだけである。

 9、司令部には、最初の時期、多くの異分子や不安定分子が含まれることになるのは避けがたい。こうした分子の判別と淘汰は、戦闘経験、政治委員による判断、同僚の兵士による評価などに基づいて行なわなければならない。それと同時に、革命的労働者の中から指揮官を養成することにも努力を傾注しなければならない。

 10、内戦の戦略は、軍事技術の方法と社会革命の課題とを結合したものでなければならない。プロパガンダにおいてだけでなく、軍事的作戦においても、敵軍各部隊の社会的構成(ブルジョア志願兵なのか、動員された農民なのか、あるいはフランコ軍のように植民地奴隷なのか、等々)を考慮し、作戦計画の決定に際しては、その当該地域の社会的構造(工業地帯なのか、革命的ないし反動的な農民地域なのか、被抑圧民族の地域なのか、等々)を厳密に考慮しなければならない。簡単に言うと、革命的政策が戦略を決定するのである。

 11、労働者と農民の執行委員会としての革命政府は、軍隊と勤労住民の全幅の信頼を勝ち取ることができなくてはならない。

 12、対外政策は、全世界の労働者、収奪されている農民、被抑圧諸民族の革命的意識を目覚めさせることをその主要な目的としなければならない。

 

   スターリンは敗北の条件を保証した

 勝利の条件はこのようにまったく単純である。それらを総合して社会主義革命と呼ぶのだ。ところが、こういう条件はどれ一つとしてスペインには存在しなかった。その基本的理由は革命党が存在しなかったことである。スターリンはたしかにスペインの土壌にボリシェヴイズムの外面的方式を移植しようとした。政治局、政治委員、細胞、ゲ・ペ・ウ、等々。しかし、彼はこれらの形式からその社会主義的内容を抜き取ってしまった。彼はボリシェヴィキ的綱領を捨て、それとともに、大衆の革命的イニシアチブの必然的形態であるソヴィエトも捨て去った。彼はボリシェヴイズムの技術をブルジョア的所有権に役立てたのだ。その官僚的偏狭さゆえに、スターリンは「政治委員」それ自体が勝利を保証しうると想像していた。だが私的所有の政治委員には敗北を保証することしかできなかった。

 スペインのプロレタリアートは第一級の戦闘的資質を発揮した。国の経済に占める比重の点でも、政治的・文化的水準の点でも、スペインのプロレタリアートは革命の第1日目から1917年初頭のロシア・プロレタリアートに優るとも劣らない力量を示した。勝利に向けた途上で主要な障害となったのは、プロレタリアート自身の組織だった。スターリニストの司令部は、その反革命的機能にふさわしく、雇われスパイや、出世主義者や、脱階級分子や、あらゆる種類の社会内腐敗分子で構成されていた。その他の労働者諸組織の代表者たち――無気力な改良主義者、アナーキストの空論家、POUMの救いがたい中間主義者――は、ぶつぶつ不平を言い、ため息をつき、右往左往し、マヌーバーを行使したりしたが、結局はスターリニストと折り合った。彼らの活動全体の結果たるや、社会革命の陣営(労働者と農民)がブルジョアジーに、より正確に言えば、その幽霊に従属し、すっかり骨抜きにされ、無力化したことである。大衆のヒロイズムも、個々の革命家の勇気も不足していなかった。しかし、綱領も行動計画もないまま、大衆は見捨てられ、革命家はばらばらにされた。「共和派」の軍事指導者は戦争に勝利することよりも、社会革命を圧殺することに夢中になっていた。兵士は指揮官への信頼を失い、大衆は政府への信頼を失い、農民は傍観し、労働者は疲れ果ててしまった。敗北に敗北が続き、士気阻喪が蔓延した。こうしたことは内戦の最初の段階で容易に予測しえたことだった。資本主義体制の救済を任務とした人民戦線は、軍事的敗北を自らに運命づけた。スターリンはボリシェヴィズムを逆立ちさせて、革命の主要な墓掘り人の役を見事に演じてのけたのである。

 ついでに言っておくと、スペインの経験は、スターリンが10月革命からも内戦からも何一つ学ばなかったことを改めて示すものである。彼の偏狭で緩慢な思考は、1917〜21年の諸事件における嵐のような展開に絶望的に立ち遅れた。彼が自分自身の考えを開陳した1917年の演説や論文には、最近のテルミドール的「教義」がまるごと含まれている。この意味で1937年のスペインにおけるスターリンは、1917年のボリシェヴィキ3月協議会におけるスターリンの継続である。しかし、1917年にはただ革命的労働者を怖れていただけだったのに対して、1937年には労働者を絞め殺したのである。日和見主義が死刑執行人になったのだ。

 

   「後方における内戦」

C・R・アトリー

 だが、カバリェロとネグリンの政府を打ち破るためには共和国軍の後方で内戦を起さなければならなかったろう! こう、怯えた声で民主主義的俗物は叫ぶ。まるでそれさえなければ、共和国スペインで内戦が――しかも、最も卑劣で最も不誠実な内戦、すなわち、労働者と農民に対する有産者と搾取者の内戦が――起こらなかったかのように。この永続的戦争は、革命家の逮捕と暗殺、大衆運動の圧殺、労働者の武装解除、ブルジョア警察の武装、労働者部隊が武器も援軍もないまま前線に見捨てられること、そして最後に、軍需産業の発展の停滞に現われている。こうした行為はいずれも前線に対する過酷な打撃であり、ブルジョアジーの階級的利益のためになされた直接的な軍事的裏切りである。しかしながら、「民主主義的」俗物――スターリニスト、社会党、アナーキストも含む――は、プロレタリアートに対するブルジョアジーの内戦を、たとえそれが前線のすぐ後方でなされていても、「人民戦線の統一」を守ることを任務とした、当然で不可避的な戦争だと判断するのである。その代わり、「共和派」の反革命に対するプロレタリアートの内戦は、同じ俗物の目には「反ファッショ勢力の統一」…を破壊する犯罪的・「ファシスト的」・トロツキスト的戦争に見えるのである。ノーマン・トーマス(18)や、アトリー少佐(19)[右上の写真]や、オットー・バウアー(20)や、シロムスキー(21)や、マルロー(22)のような輩、あるいはデュランティ(23)やルイス・フィッシャーのような嘘つきの小商人が、こうした奴隷根性を全世界に広げている。その間に「人民」戦線政府はマドリードからヴァレンシアに、ヴァレンシアからバルセロナへと退却していっている。

 事実が物語っているように、ファシズムを粉砕することができるのは社会主義革命だけだが、他方では、プロレタリアートの蜂起が勝利しうるのは、支配階級が最大級の困難に直面して行き詰まってしまった時だけである。ところが民主主義的俗物どもは、プロレタリアートの蜂起が許されないことの証明として、まさにこの困難を持ち出すのだ。民主主義的俗物たちが解放の時を告げ知らせてくれるのを待っていたら、プロレタリアートは永遠に奴隷のままでいなければならないだろう。どんな仮面をかぶっていようと反動的俗物を識別し、その仮面にかかわりなくこれらの俗物を軽蔑するすべを労働者に教えること、これこそ革命家の第一の主要な義務である!

 

   大詰め

 共和派陣営内のスターリニスト独裁はその本質からして長続きしないだろう。人民戦線の政策によってもたらされた敗北がもう一度、スペイン・プロレタリアートを革命的突撃へと駆り立て、今度こそ成功したならば、スターリニスト一派は鉄の箒で一掃されるだろう。だが、不幸なことに、もっとありそうなのは、スターリンがその革命の墓掘り人としての仕事を最後までやり抜くことであるが、その場合でも、彼は感謝されないだろう。スペイン・ブルジョアジーは死刑執行人として彼を必要としているのであって、保護者や教師としてはまったく必要ない。一方ではロンドンとパリ、他方ではベルリンとローマの方が、ブルジョアジーから見てモスクワよりもはるかに堅実な仲間である。あるいはスターリン自身、決定的な破局の前にスペインから手を引こうとするかもしれない。そうしておいて敗北の責任を一番近い同盟者のせいにしようとするだろう。その後、リトヴィノフはフランコに外交関係の回復を懇請するだろう。こうしたことはすでに何度も見られたことである。

 さらに、いわゆる共和国軍がフランコ軍に完全な軍事的勝利をおさめたとしても、それは「民主主義」の勝利を意味するものではない。労働者と農民はこれまで2度にわたって、共和主義者およびその左翼代理人を政権に就けた。1931年4月と1936年2月にである。両方とも、人民戦線の英雄たちは人民の勝利をブルジョアジーのより反動的でより本格的な代表者に引き渡してしまった。人民戦線の将軍たちが3度目の勝利を勝ちとっても、それは不可避的に、彼らが労働者と農民の背の上でファシスト・ブルジョアジーと協定を結ぶことを意味するだろう。このような体制は、おそらく君主制もカトリック教会の公然たる支配もないかもしれないが、軍事独裁の一変種にすぎない。

ミアハ将軍

 最後に、共和派が部分的勝利を勝ちとり、その勝利が、英仏の「私心のない」仲介を通じて、両交戦陣営を和解させるために利用されるという可能性もある。この最後の場合においては、民主主義の残骸がミアハ(24)(共産党!)とフランコ(ファシスト!)という両将軍の友好的抱擁によって絞め殺されるだろうことは容易に予想できる。もう一度言おう。勝利しうるのは社会主義革命か、さもなくばファシズム、である。[左の写真はミアハ将軍]

 もっとも、悲劇が最後の瞬間になって喜劇になることもありえないことではない。人民戦線の英雄たちは、その最後の首都を明け渡さざるをえなくなったときに、蒸気船か飛行機に乗り込む前に、おそらく、人民に「良い思い出」を残そうと、一連の「社会主義的」改良を宣言するかもしれない。だが、そんなものは何の役にも立たない。全世界の労働者は英雄的な革命を破滅に追いやった諸政党のことを、憎悪と軽蔑をもって思い起こすことだろう。

 スペインの悲劇的経験は、全世界のすべての先進的労働者に対して向けられた恐るべき警告であり、おそらくは、それよりもずっと大きな事件の前に出された最後の警告である。マルクスの言葉によれば、「革命は歴史の機関車」である。革命は、半分だけ革命的な、あるいは4分の1だけ革命的な党の思想よりも速いスピードで前進する。立ち止まる者は機関車の車輪に轢かれてしまうだろう。しかも――そしてこれが主たる危険なのだが――、そのさい機関車それ自身がしばしば脱線する。革命の諸問題は、その具体的な最終結論に至るまで徹底的に考え抜かなければならない。政策は革命の基本法則、すなわち相たたかう諸階級の運動に適応させるべきであって、人民戦線やその他多くの戦線名で呼ばれている皮相な小ブルジョア・グループの偏見や恐怖に適応させるべきではない。革命においては、最も抵抗の少ない道は崩壊に至る最大の道である。ブルジョアジーからの「孤立」を怖れることは、大衆から孤立することを意味する。労働貴族の保守的偏見に適応することは、労働者と革命を裏切ることを意味する。過度の「慎重さ」は、最も破滅的な軽率さである。これが、スペインにおける最も誠実な政治組織であった中間主義政党POUMの崩壊が与える主要な教訓である。ロンドン・ビューロー(25)の諸政党と諸グループは、歴史の最後の警告から必要な結論を明確に引き出そうとせず、そうすることもできない。まさにそれゆえ、彼らは破滅を運命づけられているのだ。

 その代わり、現在、革命家の新しい世代は敗北の教訓を学んでいる。この世代は現実による検証を通じて第2インターナショナルの恥ずべき評判を確認した。彼らは第3インターナショナルの堕落がいかに深刻なものであるかを確信した。彼らはアナーキストをその言葉ではなくその行動で判断すべきことを学んだ。これこそ、無数の戦士の血で購われた測りしれないほど偉大な学校である。革命的カードルたちは今や第4インターナショナルの旗の下にのみ結集している。それは、勤労者を勝利に導くために、敗北の轟音のもとで生まれたのだ。

コヨアカン、1937年12月17日

『反対派ブレティン』第62・63号

新規

  訳注

(1)「自由主義的労働者政治」……レーニンが革命前の反動期にメンシェヴィキ解党派の政策を指して頻繁に用いた言葉。当時トロツキーはこうしたレッテル張りに強く反発し、そうした特徴づけにレーニンのセクト主義を見ていた。

(2)ディミトロフ、ゲオルギ(1882-1949)……ブルガリア共産党の指導者。植字工。1902年にブルガリア社会民主党に。党分裂後、左派のテスニャキ派に。ブルガリア共産党の創設者の一人。1923年にソ連に亡命し、コミンテルン執行委員に。1933年、ドイツへの旅行中に、ナチスが行った国会議事堂放火事件裁判の犯人として逮捕。ライプチヒ裁判でナチズムを糾弾し、国際世論で無罪となり、釈放。1934年、再度ソ連に行き、ソヴィエト市民に。1934〜1943年のコミンテルンの執行委員会書記。1935年のコミンテルン第7回大会で書記長として「反ファシズム人民戦線」を提唱。1946〜1949年のブルガリア首相。

(3)フィッシャー、ルイス(1896-1970)……アメリカで活躍したジャーナリスト。『イブニング・ポスト』『ネーション』の記者。1923〜36年、ソ連特派員として、ソ連に関する多数の記事を執筆。1920年代のスターリンとトロツキーとの論争では、スターリン派を支持。レーニンに関する伝記の執筆者。

(4)アサーニャ・イ・ディアス、マヌエル(1880-1940)……スペインのブルジョア政治家、弁護士。1931年6月のスペイン共和国政府の首相。1933年に右翼の圧力で辞任。1936年2月の人民戦線の勝利で再び首相に。1936年6月〜1939年3月大統領。1939年に人民戦線政府の崩壊で亡命。

(5)コンパニス・イ・ホヴェル、ルイ(1883-1940)……カタロニアのブルジョア政治家。カタロニア・エスケラ党の指導者。マシアの死後、カタロニアの自治政府の首脳に。

(6)カバリェロ、フランシスコ・ラルゴ(1869-1946)……スペインの社会主義政治家、スペイン社会党の左派指導者。1936年9月から1937年5月まで人民戦線政府の首相。

(7)ネグリン、フアン (1894-1956) ……スペインの政治家・生理学者。1936〜37 年、人民戦線のカバリェロ内閣の蔵相、1937〜39年に首相兼蔵相。内戦敗北後、パリ、次いでメキシコに亡命、1945年まで亡命共和国政府の首班をつとめた。

(8)プリエト・イ・トゥエロ、インダレシオ(1883-1962)……スペイン社会党の右派指導者。人民戦線政府のカバリェロ内閣の海空軍相。1938年にスターリニストの圧力で解任。

(9)サモラ、ニケト・アルカラ(1877-1949)……スペインの保守政治家、大地主。進歩党の党首。1931年4月に成立した第1次共和政権の最初の首相。1931年6月から1936年5月までスペイン共和国大統領。

(10)ガルシア・オリベル、ホセ(1901-?)……スペインのアナーキスト右派、CNTの指導者。1936年から内戦の終了まで、スペイン人民戦線政府の司法長官をつとめる。

(11)ブルム、レオン(1872-1950)……フランス社会党の指導者。ジョレスの影響で社会主義者となり、1902年に社会党入党。1920年、共産党との分裂後、社会党の再建と機関紙『ル・ポピュレール』の創刊に努力。1925年、社会党の党首に。1936〜37年、人民戦線政府の首班。社会改良政策をとったが、スペインの内戦に不干渉の姿勢をとる。第2次大戦中、ドイツとの敗北後、ヴィシー政府により逮捕。ドイツに送られる。戦後、第4共和制の臨時政府首相兼外相

(12)ドゥルティ、ブエナベントゥラ(1896-1936)……スペインのアナーキスト左派の代表的人物、FAIの指導者。1936年のスペイン内戦では民兵を率いてファシスト軍と闘争し大きな戦果を治めるが、マドリード攻防戦で斃れる。

(13)ニン、アンドレウ(アンドレス)(1892-1937)……スペイン共産党の創始者、スペイン左翼反対派の指導者。最初はサンディカリストで、10月革命の衝撃で共産主義者に。左翼反対派の闘争に参加し、1927年に除名。スペインの左派共産党(国際左翼反対派のスペイン支部)を結成。その後トロツキーと対立し、1935年にホアキン・マウリンらを指導者とするカタロニア労農ブロックと合同して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年の人民戦線に参加。カタロニアの自治政府の司法大臣に。スターリニストの策謀で閣僚を解任され、1937年、スターリニストの武装部隊に誘拐され、拷問の挙句、虐殺される。

(14)ランダウ、クルト(1903-1937)……オーストリアの左翼反対派。ドイツからフランスに亡命し、スペインでスターリニストに暗殺される。

(15)マフノ、ネストル(1884-1934)……ロシアの無政府主義者、「無政府将軍」。ロシア内戦初期には、農民部隊を率いて、ウクライナの白衛軍およびドイツ占領軍と戦い、1919年からソヴィエト政府と対立し、1921年に最後的に赤軍に敗北し、亡命。

(16)スネーフリート、ヘンドリク(1883-1942)……オランダの革命家、インドネシア共産主義運動の創設者。1902年にオランダ社会民主党に。1913年、インドネシアに渡り、マルクス主義の普及に努める。1914年、インド社会民主同盟(インドネシア共産党の前進)を結成。イスラム同盟内に共産主義の影響を広める。1918年に追放。第2回コミンテルン世界大会に参加し、アジアの運動の重要性を訴え、その責任者として中国に渡り、中国共産党の創設にも貢献。1923年、オランダに帰国。投獄中の1933年に国会議員に選出。革命的社会主義労働者党(RSAP)を創設。1933年、4者宣言に署名。その後、革命的社会主義労働者党とともに国際共産主義者同盟に加入。1938年に第4インターナショナルの運動から離れ、第2次大戦中にナチスによって逮捕され処刑。

(17)リフ族……モロッコ北部のリフ山脈に住んでいるベルベル人。

(18)トーマス、ノーマン(1884-1968/69)……アメリカの社会党指導者。1928年から1948年に至るまでのアメリカ社会党の大統領候補者。

(19)アトリー、クレメント(1883-1967)……イギリス労働党の指導者。1907年、イギリス独立労働党に入党。1914年、祖国防衛主義の立場からイギリス軍に参加し、大戦終了時点で少佐にまで昇進。1931〜35年、労働党の副党首。1935年に党首に。スペイン内戦期においては、フランコに対するイギリス志願兵の派遣を積極的に支持し、1937年12月には国際旅団の戦線を訪問。第2次大戦中はチャーチルに協力して挙国一致内閣の副首相をつとめる。マクドナルドの後を受けて、1945〜50年の労働党政府の首相。

(20)バウアー、オットー(1881-1938)……オーストリア社会民主党と第2インターナショナルの指導者。オーストリア・マルクス主義の代表的理論家。1918年のオーストリア革命後に外相に就任し、オーストリアのドイツへの併合を支持。1921年に社会主義労働インターナショナル(第2半インターナショナル)を創設。1934年に亡命。

(21)シロムスキー、ジャン(1890-?)……フランス社会党の左派指導者、親スターリニスト的傾向を持つ。第2次世界大戦後に共産党に入党。

(22)マルロー、アンドレ(1901-1976)……フランスの著名な作家。1923年にヨーロッパを脱出してフランス領インドシナに移住。その後、中国の広東革命に参加。1928年に広東革命を描いた小説『征服者』を発表。1933年に上海クーデターを描いた『人間の条件』を発表。1936年に勃発したスペイン内戦に共和軍側に参加し、義勇軍航空将校として活躍。1937年にルポルタージュ『希望』を発表。第2次大戦中にドゴール派のレジスタス運動に参加。戦後、ドゴールと協力し、情報相、文化担当国務相をつとめる。

(23)デュランティ、ワルター(1884-1957)……『ニューヨーク・タイムズ』のモスクワ特派員。スターリンによる反対派弾圧を好意的に報道。

(24)ミアハ・メナント、ホセ(1878-1958)……スペインの「共和派」の将軍で、スペイン共産党の支援を受けていた。内戦の終了間際、特別の声明を出して、ファシストへの屈服を訴えた。

(25)ロンドン・ビューロー……正式名称は「革命的社会主義政党のロンドン・ビューロー」。旧国際労働協会(IAG)で、第2インターナショナルと第3インターナショナルに属さないが、第4インターナショナルの結成に反対している中間主義左翼政党の連合体。ドイツの社会主義労働者党(SAP)、イギリスの独立労働党(ILP)、スペインのPOUM、フランスの社会主義労働者農民党(PSOP)が参加。

 

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1930年代後期