『労働者の闘争』編集部への手紙

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、すでにスペイン内戦が全面的な展開がなされている段階で、トロツキーがフランス・トロツキストの公式機関紙『労働者の闘争(ルット・ウーブリエール)』編集部に宛てた手紙である。スペイン左翼反対派とカタロニア連合とが統一して1935年に形成されたマルクス主義統一労働者党(POUM)の指導部は、多くの点でトロツキーと意見を異にし、手紙などで激しい論争を繰り広げていた。とりわけ、POUMの指導者アンドレウ・ニンが、1936年に成立した人民戦線政府に司法大臣として入閣したことは、トロツキーにとって階級的裏切り行為に他ならなかった。ところが、POUMとニンは国際左翼反対派のあいだでも一定の支持を受けており、しばしばPOUMの国際機関紙『スパニッシュ・レボルーション』からの記事が各国の左翼反対派の機関紙に掲載された。トロツキーは、このような状況に苛立ちをおぼえ、この手紙に示されているように、そのような非原則的な態度を厳しく批判した。

 この手紙は発表を企図したものではなかったが、編集部の不注意で『労働者の闘争』紙に掲載された。「6年間というもの、彼らは、スペインの精力的で英雄的なプロレタリアートを最も恐るべき敗北に導くためにあらゆることをしてきた」とPOUM指導部に対する打撃的批判を行ない、ニンを「スペインのマルトフ」と罵倒したこの手紙の発表は、POUMと国際書記局(トロツキー)との対立を決定的なものにした。POUMの内部で、その指導部とトロツキストとのあいだの関係改善のために努力していた一部のトロツキストにとって、この手紙の発表は大きな打撃となった。

 本稿の最初の邦訳は、『ニューズ・レター』第18号に掲載されたが、今回アップするにあたって、「ですます」調を「である」調に変え、訳注を補充した。

Leon Trotsky, To the Editorial Board of the "La Lutte Ouvriere", The Spanish Revolution 1931-39, Pathfinder, 1973.


  親愛なる同志諸君。

 諸君の新聞の第9号(1937年2月27日土曜日付け)に、POUMの機関紙『スパニッシュ・レボルーション』からの記事が、諸君の賛辞的な紹介文つきで掲載されている。腹蔵なく言うと、これはPOUM労働者の闘争との連帯ではなく、POUM指導者の政策との連帯を示したものであり、これは単なる誤りというだけでなく、一つの犯罪であり、私は力のかぎり公然と抗議したい。

 諸君が再録した論文は最初から最後まで誤りであり、その誤りは、アンドレウ・ニン()とその同僚たちの政策の両義性と曖昧さとをこのうえなく暴露している。彼らは、「ブルジョア的反ファシズム」と「ブルジョア的ネオ共和制」の綱領に論争を挑んでいる。しかし、いったいどうしてまたニンはこの「ブルジョア的ネオ共和制」の大臣になったりしたのだろう? 彼は公然と自らの誤り――これは本当のところを言えば一つの裏切りなのであるが――を認めただろうか? ブルジョア政府の中に入りながら、どうしてブルジョア共和制と闘争することができるのだろうか? ブルジョア的「正義[司法]」の大臣としてブルジョア国家を代表しておきながら、どうしてブルジョア国家打倒のために労働者を動員することができるだろうか? これは物事を真剣に取り扱う態度だろうか、これはプロレタリアートの綱領と思想を愚弄するものではないだろうか?

 この論文は最初から最後まで誤っている。この論文は、「独占資本の消失によって台頭した」「小ブルジョアジーの指導者」について云々している。アサーニャ(2)やコンパニウス(3)らの機能についての性格づけとしては、これは完全に誤っている。これらの紳士諸君は小ブルジョアジーではない。真の小ブルジョアジーは、滅びつつあり階級脱落しつつある農民や職人や雇用主たち(クラーク)である。アサーニャやその類の連中は、大ブルジョアジーの利益のために小ブルジョアジーを利用している政治的搾取者である。彼らは、カラスよけのカカシとして人民大衆の陣営にとどまっている。そして、そのカラスとは、社会党員であり、改良主義者であり、そして悲しいかな、POUM派なのである。彼らは(アサーニャ、コンパニウス等)はあえて私有財産に手をつけたりはしない。そしてPOUM派は、私有財産にもとづいた「正義」の擁護者として役割を果たすまでに落ちぶれている。これが真実であり、それ以外はすべて嘘である。「独占資本主義」は、フランコが勝利するまで死んだふりをしているだけである。アサーニャとコンパニウスはその間に自分たちの仕事を遂行し、『ラ・バターリャ(闘争)』[POUMの中央機関紙]は、「POUMなしには、あるいは、POUMに対立しては」アサーニャらはその仕事を遂行できないだろうと言うのである。

 この論文にあるいっさいのことが誤りである。回顧も展望もそうである。「共存」(そう言いたければ、「諸階級の協同」でもけっこう)が可能であったのは、もっぱら「自由に対する戦争のおかげ」であった。しかし、この「共存」(すなわち、POUMとブルジョア・ネオ共和派の指導者たちとの協力)は、労働者と農民の高揚を麻痺させ、敗北につぐ敗北を積み重ねてきたのである。彼らはそのことについて何も語っておらず、次のようにモグモグしゃべるだけである。「しかし今日、戦争を遂行するためであってさえ、とるべき道についての決定を(誰による?)必要としている」。どうして「今日」なのか? 昨日の政策が今日の袋小路をもたらしたというのに? そして、袋小路の末端にあってさえ、POUMは、大衆を鼓舞して裏切り的指導者連中に反対させる代わりに、この指導者連中に相変わらずお説教をしている始末である。

 大衆を鼓舞して裏切り的指導者に反対させること、これこそボリシェヴィズムの出発点である。ブルジョア的ネオ共和制の大臣たちの前座芝居を演じるのではなく、ブルジョア大臣連中を追い出すために、そして、社会党やスターリニスト大臣を放逐するのを可能にするために、大胆かつ公然と労働者を動員することが必要であった。大衆の中で、そして大衆を通じてこの仮借なき仕事を遂行する代わりに、POUMは、労働者国家を支持する立場をとる必要性について曖昧な論文を書いている。

 「戦争を遂行するためには集産化と社会化を確かなものにしなければならない…」。革命的勇気の完全な欠如を隠すための完全に抽象的な三段論法。集産化なき戦争の遂行は敗北を意味する。勝利を確保するためには、武装大衆の直接的な圧力によって、ブルジョアジーを粉砕し、裏切り的指導者どもを窮地に追いつめなければならない、と。だが、抽象的な三段論法だけでは不十分である。行動が必要である。しかし、まさにこの点で、スペインのマルトフたるニンは屈服するのである。

 「カタロニアのプロレタリアートは強力な軍需産業を自己の手中に保持しており、このことは、戦争の必要性に配慮せざるをえない中央の共和国政府を臣下の地位(!)に追いやっている」。臣下の地位にあるのは、ブルジョア的ネオ共和制の政府に配慮しているPOUMの指導者の方である。これが真実である。この政策が続くならば、カタロニアのプロレタリアートは、1871年のパリ・コミューンに匹敵するほどの恐るべき破局をこうむることだろう。

 この6年間というもの、ニンは誤りばかり犯してきた。彼は思想をもてあそび、困難を避けてきた。闘争する代わりに、さまざまなプチ連合に従事してきた。スペインにおける革命党の建設を妨げてきた。彼につき従っているすべての指導者は、同じ責任を分かち合っている。6年間というもの、彼らは、スペインの精力的で英雄的なプロレタリアートを最も恐るべき敗北に導くためにあらゆることをしてきた。そして、これまでのあらゆる経験にもかかわらず、彼らの曖昧な態度は続いている。彼らは悪循環を断ち切ろうとしない。大衆を鼓舞してブルジョア共和制に反対させようとしていない。逆に、自らをブルジョア共和制に順応させ、それを補完し、その時々にプロレタリア革命についての論文を書いている。何と惨めなことだろうか! そして諸君は、エセ・ボリシェヴィキ的定式でもって自らを装っているメンシェヴィキ的裏切り者たちを指弾する代わりに、賛辞を呈しながら彼らの論文を再録しているのである。

 POUMの労働者は英雄的に戦っているなどと言わないでいただきたい。私は他の誰よりもそのことを承知している。しかし、われわれに真実を、そして真実のみを語るべく強制しているものこそ、まさに彼らの闘争であり、彼らの犠牲なのである。外交術やおふざけや曖昧さに終止符を。最も苛酷な真実を語ることに戦争と革命の運命がかかっているときには、その真実を語るすべを知らなければならない。われわれはニンの政策といかなる共通性も有していないし、その政策を擁護したり、カムフラージュしたり、弁護したりするいかなる連中に関してもそうである。

1937年3月23日

『スペイン革命 1931-39』(パスファインダー社)所収

『ニューズ・レター』第18号より

  原注

(1)ニン、アンドレウ(アンドレス)(1892-1937)……スペイン共産党の創始者、スペイン左翼反対派の指導者。最初はサンディカリストで、10月革命の衝撃で共産主義者に。左翼反対派の闘争に参加し、1927年に除名。スペインの左派共産党(国際左翼反対派のスペイン支部)を結成。その後トロツキーと対立し、1935年にホアキン・マウリンらを指導者とするカタロニア労農ブロックと合同して、マルクス主義統一労働者党(POUM)を結成。1936年の人民戦線に参加。カタロニアの自治政府の司法大臣に。スターリニストの策謀で閣僚を解任され、1937年、スターリニストの武装部隊に誘拐され、拷問の挙句、虐殺される。

(2)アサーニャ・イ・ディアス、マヌエル(1880-1940)……スペインのブルジョア政治家、弁護士。1931年6月のスペイン共和国政府の首相。1933年に右翼の圧力で辞任。1936年2月の人民戦線の勝利で再び首相に。1936年6月〜1939年3月大統領。1939年に人民戦線政府の崩壊で亡命。

(3)コンパニウス・イ・ホヴェル、ルイ(1883-1940)……カタロニアのブルジョア政治家。カタロニア・エスケラ党の指導者。マシアの死後、カタロニアの自治政府の首相に。

 

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