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ナターリア・セドーヴァとの出会い

パリ時代のナターリア・セドーヴァ(1882-1962)

 「アクセリロートはトロツキーにいくばくかの金を与え、パリ経由でロンドンヘ旅立たせた。トロツキーはパリからロンドンまで2ヶ月かかっている。われわれは彼を献身の巡礼の途上にある若者として記述しているが、しばらく立ちどまって、2ヶ月かかったという事実を説明する必要がある。パリには、いつもロシアの革命的亡命者の居留地(コロニー)があった。そこには、他のコロニーと同じく、『イスクラ』派のグループが存在した。このグループにはロシアからの新しい移住者や亡命者を歓待する一種の非公式委員会があって、その当時、この委員会の長はナターリア・イワノーヴナ・セドーヴァだった。彼女は闘志を内に秘めた物静かな少女で、頬骨が高く、少し悲しそうな眼をしていた。貴族の出身だが、子どものころからの反逆者だった。ハリコフの寄宿女学校時代、彼女は、お祈りに出席することを拒否して聖書の代りにチェルヌイシェフスキー[ロシアの革命的ナロードニキ]を読むようクラス全体を説き伏せた。その後、モスクワ大学へ進学し、さらに知識と革命の仲間を求めてジュネーブヘおもむいた。そして、プレハーノフを中心とするジュネーブのサークルにそのどちらをも発見したのだった。彼女は『イスクラ』組織のメンバーになり、トロツキーがパリで会ったとぎには、彼女はすでに非合法文書を運ぶためにロシアヘ旅行した経験があった。

 亡命者を歓待する彼女の仕事というのは主に、彼らに住むための安い部屋を探してやることであり、いちばん安いレストランヘ案内してやることであった。そして彼女がトロツキーのために見つけてやった部屋は、通気孔のある押し入れに毛が生えたようなものだった。彼のためにこの部屋を手配してから、階段を降りてきたときに、彼は彼女に出会ったのである…。

 真に良心的な伝記作家なら数章を費すくらいのロマンスがたっぷりあっただろう、と私は想像する。彼の少年時代に少女との関係を特徴づけていた、素気なさで隠した羞恥心を、彼はしだいに捨てたらしい。あるいは、彼は羞恥心をまだ十分に持っていて、それが抗しがたい魅力となっていたのかもしれない。そして、若いころの彼を知っている人々の記憶している彼の評判から判断すると、この重大問題では、彼はエンゲルス派であって、マルクス派ではなかった。したがって、最も重要なことは、トロツキーが、彼の部屋から降りてきたこの少女とばったり出会って恋に落ちたことにあるのではなく、彼が彼女と非情に深く心の通いあった友情をつくりあげ、今日までいっしょに暮しているという事実である。

 ナターリア・イワノーヴナは、厳格な法的解釈からすれば、トロツキー夫人ではない。トロツキーはまだ、ブロンシュテインを名乗っているアレクサンドラ・リヴォーヴナと離婚していないからである。ナターリア・イワノーヴナは、トロツキーの最も親密で最良の友人であり、日々ともに生きている伴侶である。彼女は彼の息子たちの母親である。…そして、同時代の一伝記作者の対象ではない多くの事柄を総括すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナもまた彼の友人なのである。」(マックス・イーストマン『若き日のトロツキー』より)

 

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