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シベリアから脱走したトロツキー

 

シベリアから脱走したトロツキー(1902年)

 「秋が近づき、泥濘期が迫っていた。私の脱走を早めるために、二つの順番を一つにすることが決定された。仲間の農民が、マルクスの翻訳者であるE・Gという女性といっしょに私をヴェルホレンスクから連れ出してくれることになった。夜になって、野原で、その農民は荷馬車の乾草とむしろの下に私たちを隠し、荷物のように見せかけた。同じ頃、警察の目を数日間ごまかすために、私の家では、病人に見せかけた人形に毛布をかぶせておいた。御者は私たちをシベリア式で、すなわち時速20ヴェルスタものスピードで運んでくれた。私は、背中に感じる道のくぼみを一つ一つ数えながら、隣の女性の圧し殺した息づかいを聞いていた。途中で2度ばかり馬を取りかえた。鉄道に到着する前に、2人がいっしょにいることで失策や危険を倍加させないよう、私と連れの女性とは分かれ分かれになった。私はとくに危険な目に会うこともなく列車に乗り込むことができた。その列車にイルクーツクの仲間が、糊のきいたシャツやネクタイなど文明を象徴する品々のつまったトランクを届けてくれた。私の手には、グネディチが1行6脚のロシア語に訳したホメロスの詩集があった。ポケットには、私が何の気なしにトロツキーと署名した旅券が入っていたが、よもやそれが私の生涯の名前になるとは、その時は夢にも思わなかった。

 私はシベリア鉄道で西に向かった。主要駅に配置されている憲兵たちは、私がそばを通り過ぎていっても無関心であった。大柄のシベリア女たちが、ローストチキンや子豚、ビン入りの牛乳、大量の焼きパンを駅に持ち込んでいた。どの駅も、シベリアの豊かさを誇示する展示会のようだった。列車に乗っている間ずっと、どの車両の客もお茶を飲み、安いシベリア産の丸パンを食べていた。私はホメロスの詩集を読んだり、外国に思いを馳せたりしていた。脱走行には、ロマンチックなものは何もなかった。それは、ひたすらお茶を飲むことで明け暮れた。」(『わが生涯』第10章「最初の脱走」より)

 

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