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ゼネストの勃発とペテルブルク総合技術高専

 

ペテルブルク総合技術高専(現サンクトペテルブルク工科大学)

(1899年に建設された総合的な科学技術高等教育の場。1905年革命においては運動の中心地の一つとなった。写真は建設当時のもの)

 「私が暮らしていたフィンランドの環境は、およそ永続革命を思い出させるようなものではなかった。丘陵、松林、湖水、秋の澄みきった空気、そして静寂。9月末、私はフィンランドのさらに奥へと引っ込み、森の湖畔にぽつんと建っている『ラウハ』というペンションに落ち着いた。この名前はフィンランド語で『静寂』という意味である。

 秋を向かえた広大なペンションは、完全に静まり返っていた。スウェーデンの作家がイギリスの女優といっしょにこの数日間をペンションで過ごしていたが、勘定を払わずに旅だった。宿の主人は彼らを追ってヘルシングフォルス[ヘルシンキ]に急行した。女主人は重い病でふせっていて、シャンパンの助けを借りてどうにか心臓を動かしていた。もっとも、私は一度も彼女の姿を見たことはなかったが。主人の留守中に彼女は死んだ。彼女の遺体は私の上の部屋に安置された。給仕長は主人を探しにヘルシングフォルスに向かった。客へのサービス係としてボーイが1人残されただけになった。

 大量の初雪が降った。松林は一面の雪に覆われた。ペンションは死んだように静まりかえっていた。ボーイは地下にある台所へと姿を消した。私の上には死んだ女主人が眠っていた。私は1人きりだった。それはまさしく『ラウハ』、静寂そのものだった。人の姿はなく、物音ひとつ聞こえなかった。私はひたすら書き、散歩した。

 ある日の晩、郵便配達人が一束のペテルブルクの新聞を持ってきた。私は片っぱしから開いて読んだ。それはまさに、開け放たれた窓から暴風雨が飛び込んできたようなものだった。ストライキが発生し、またたくまに広がり、都市から都市へと波及しつつあった。ホテルの静寂の中で、新聞のガサガサいう音が雪崩の轟音のように私の耳に響いた。革命は全速力で進行しつつあった。

 私は急いでボーイに勘定を払い、馬車を呼びつけ、『静寂』を置き去りにしたまま、雪崩に向かって馬を走らせた。そしてその夜、すでに私は、ペテルブルクにある総合技術高専の講堂の演壇に立っていた。」(『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)

 

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