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プラハ協議会とボリシェヴィキ

 1912年のプラハ協議会の通報

(ボリシェヴィキがほぼ単独で開催した「全党」協議会である「プラハ協議会」は、ボリシェヴィキの別党路線に向けた画期となった)

 「今年の1月、一部のロシアの実践家たちとレーニン派の文筆家サークルによる会議が国外で開かれた[プラハ協議会]。レーニン派の『通報』[プラハ協議会の報告書のこと]の中で、この会議は「全ロシア党協議会」と呼ばれている。「フペリョート」派グループの決議の中では、この会議は『党に対する強襲』と呼ばれている。この会議のあらゆる事実と状況からして、われわれは、後者の呼び方のほうが事柄の本質をはるかに正しく伝えていると認識せざるをえない。……

 われわれは、レーニン派協議会の決議が、ロシアにおけるレーニン派自身の活動にさえ多少なりとも重要な影響を及ぼすことはできないだろうと確信している。党の真面目な活動家は誰1人として、自分の力をまったく絶望的な分派的事業に費やすことを望まないだろう。

 したがって、他の潮流やグループがロシアの各地において、レーニン派協議会の決議に答えて、レーニン派に対し、あたかも他党のメンバーに対するかのごとく態度をとったならば、それは最も重大な誤りであろう。大急ぎで準備されたレーニン派協議会は新党の出発点ではなく、古い分派主義の最後の痙攣である。われわれの党は以前と同様一つである。組織委員会も地方組織も――全党協議会の準備の過程で――、レーニン派の労働者を含むすべての自覚的労働者に対して、次のことを示さなければならない。すべての潮流の前にある課題は、新しい線引きでもなければ、新しい分派的陰謀でも、舞台裏でのサークル的取り引きでもなく、社会民主党の全勢力の誠実かつ公然たる結集にあることを。」(トロツキー「党に対する強襲」ウィーン『プラウダ』第24号より)

 

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