レニングラード反対派について

 トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、第15回党大会を頂点とするレニングラード反対派(ジノヴィエフ=カーメネフ派)と主流派(スターリン=ブハーリン派)との闘争に対するトロツキーの一連の覚書の一つである。

 なお、この覚書の中でトロツキーは、「農民の過小評価に関する絶え間ない叫び、「農村に顔を向けよ」という要求、閉鎖的な国民経済と閉鎖的な社会主義建設という思想の提起、こういった問題に関して、左翼反対派はすでに1923〜24年に、このような思想的路線がムジーク的テルミドールへのゆっくりとした堕落を準備し促進することになりうる危険性があると語っていた」と述べているが、これは明らかに誤解を生む書き方である。たしかに、たとえば1924年の11月の「われわれの意見の相違」の中でそのような危険性についても語っているが、それはあくまでも「工業の先走りの危険性」と並ぶ「二つの危険性」の一つとしてであり、しかも、それと同時に「同じく議論の余地がないのは、現段階においては、諸利益の均衡が何よりも農村に損失をもたらす形で破壊されている」と指摘していた。この点を正しく認識しておく必要がある。

Л.Троцкий, О ленинградской оппозиции, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том., 《Терра-Терра》, 1990.


 『プラウダ』と大会多数派の発言者たちはレニングラード反対派を、1923〜24年の反対派の継続でありその発展形態であると特徴づけた。このような同一視が単なる論争上の手法であるだけでなく、真実の一片を含んでいることを率直に認めざるをえない。必要なのは、いかなる点でそうであるのかを正しく説明することだけである。

 レニングラード反対派の本質は、農民がプロレタリアートを後景に退けはじめ、農民自身のあいだでもクラークが中農を、中農が貧農を押しのけつつあるとして、公式路線ないしその右翼を非難することにある。

 現在、第12回大会の時期以降、とりわけ第13回大会以降、いわゆるクラーク的偏向のさらなる発展に向けた最大の衝動が生じていることに、いかなる疑いもありえない。トロツキズムに対する闘争は主として農民の過小評価という非難を中心に行なわれた。この非難の核心はどこにあったか? 反対派が工業とその発展をきわめて重視していたこと、この発展テンポを速めるよう要求していたこと、すなわちその手段の再配分を要求していたこと、工業に計画原理を導入するよう要求していたこと、等々である。この立場はレーニン主義の修正だと説明され、レーニン主義の根本条件は、スムイチカ、すなわち労農同盟であると宣言された。これまでの数十年間の経験を忘れていない古い世代にあっては、この単純化された定式は、あくまでもプロレタリアートの階級政治のためのナロードニキとの長年にわたる闘争経験の上に追加されたものであった。階級的訓練を欠いている広範な若い世代に関して言えば、この数年間における党内論争は、あらゆる歪みや後から付加された要素を差し引いた上でも、次のようなものとしてこの世代の前に現われている。一方の側には、「工業の独裁」と国際革命の絶え間ない発展があり、他方の側には、農民とのスムイチカ、中農との同盟、発展のもう一つの道としての協同組合、等々がある、といったものである。基本的に、階級闘争の訓練を欠いている若い世代はこの論争にもとづいて自己を形成した。完全な確信をもって言うことができるが、これによってまさに、農民的偏向の発展にとって最も広範で豊穣な土壌がつくり出されたのである。わが国の社会生活全体は、世界革命の遅延と工業の立ち遅れのもとで、この偏向にとって有利な物質的条件をつくり出した。この点にいかなる疑問もありえない。したがって、反対派との闘争という旗のもとで、とりわけ若い世代やコムソモールの中で、ソヴィエト・ナロードニキ主義の形成が進行し、それは自己の理論的な輪郭の確立を目の前にしている。ブハーリン学派は――はなはだ恐る恐る中途半端な形でとはいえ――この輪郭を与えた。

 (レニングラード組織が警告の声に最も感受性が鋭かったことはけっして偶然ではない。同じく、反対派の指導者たちが自己保存のための闘争の中でレニングラード・プロレタリアートの階級的感受性に適応せざるをえなかったことも偶然ではない。その結果、外見上まったく途方もないパラドクスに見えるが実際にはまったく合法則的な現象が生じた。すなわち、反対派との闘争において最重要の支柱としての役割を果たし、農民の過小評価をさんざん非難し、「農村に顔を向けよ」というスローガンを誰よりもけたたましく提起していたレニングラード組織が、いわゆるトロツキズムとの闘争における思想的源泉である党の路線転換のもたらした結果から最初に飛びのいたのである。

 農民の過小評価に関する絶え間ない叫び、「農村に顔を向けよ」という要求、閉鎖的な国民経済と閉鎖的な社会主義建設という思想の提起、こういった問題に関して、左翼反対派はすでに1923〜24年に、このような思想的路線がムジーク的テルミドールへのゆっくりとした堕落を準備し促進することになりうる危険性があると語っていた。そして、われわれは今や、レニングラード派がまったく同じ危険性――その思想的準備に、レニングラード派の指導者自身が積極的に参加していたのだが――について語っているのを耳にしているのである)

 党の指導および経済指導におけるレニングラード派の方法とは何か。それは、煽動的絶叫と門地主義的傲慢さといったものであり、それは党内にレニングラード組織の上層に対する大きな不満を引き起こしている。この不満に加えてさらに、レニングラードから追放されて全国に散らばっていった何千・何百という活動家の側からのレニングラード組織の体制に対する先鋭な憤りもある。この事実はまったく議論の余地のないものであり、この意義を過小評価することはできない。この点で、レニングラード上層部を刷新し、レニングラード組織が全党に対してよりコミッサール的でない態度をとることは、まぎれもなく肯定的な意味を持つ事実である。

 しかし、第14回党大会においてレニングラード上層部の特徴や体質に対する敵意には、農村に対する都市の思想的独裁への敵意の気分が隠されていたという事実から目をそらすことは愚かなことだろう。中央にはきわめて多くの予算があり、中央には工業があり、中央には新聞雑誌があり、中央には最も強力な組織があり、中央には思想的優越性がある。それにもかかわらず、中央は農村のためにあまりにもわずかしか行動しておらず、抽象的なスローガンで農民の目をごまかしている。以上の傾向は、きわめて弱い余波としてだが、大会の多くの発言の中でも現われた。今日はレニングラードだが、明日にはモスクワの順番になるかもしれない。モスクワとレニングラードが相互に対立しあったことで、この可能性はより実現容易なものになっている。各地方はレニングラードに反対してモスクワにすがりついたが、それは都市全体に対して打撃を与える準備を整えるためであった。もちろん、現在生じているのは、このまま発展していけばプロレタリアートの役割にとって破滅的なものになるかもしれないプロセスの最初の徴候にすぎない(純粋に個人的な無原則性の事例でありかつきわめて滑稽でもあるのは、レニングラード反対派の指導者の1人が現在ソコーリニコフ(1)であるという事実である。彼は、農村に対するプロレタリアートの経済的武装解除の理論家であったし、今もそうである)

 タンボフ県もボロネシもグルジアも考慮から除くことはできない。農民的偏向は農民に対する党の客観的に必要な配慮から生じている。問題はすべてその程度にかかっており、この傾向に対する能動的な対抗錘が存在するかどうかにかかっている。最も能動的な対抗錘となりうるのは、中央工業地域の活動的で強力なプロレタリア組織、すなわちレニングラードとモスクワのプロレタリア組織である。これらの組織の内的生活が民主化されることは、両組織が農民的偏向に対して能動的かつ成功裏に対抗するための必要条件である。しかし実際にわれわれが目撃しているのは反対の現象である。機構的体制はこの両組織を麻痺させている。この体制を弱めようとする要求はおしなべて、小ブルジョア的自然発生性への屈服等々との烙印を押されている。機構的体制によって完全に手枷足枷をされたレニングラードは、「農村に顔を向けよ」というスローガンのもとで遂行された左翼反対派に対する闘争に100%寄与し、したがってまた民族的・農村的偏狭さの諸傾向が今回の党大会にはっきりと表現されるに至るまでに発展するのを助けた。たとえ公式の上でも誰も「極端な」ブハーリン学派に同意しないが、事実においては、すべての者がレニングラードに「銃撃」を向けているのである。

エリ・トロツキー

1925年12月22日

『トロツキー・アルヒーフ』第1巻所収

『トロツキー研究』第42/43合併号より

 

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