政治局への手紙

(83人の声明に添付された書簡)

トロツキー、ジノヴィエフ、スミルガ、エフドキーモフ/訳 西島栄

【解題】この手紙は、著名な「83人の声明」に添付されたものであり、手紙の目的と課題を簡潔に述べている。また、このちょうど同じ時期にイギリスによる外交断絶問題があり、情勢はいっそう緊迫したものとなっていた。ソ連国内では「戦争の危険性」がたちまち暗雲のようにのしかかり、党内闘争をいっそう先鋭で非和解的なものにした。

 なお本稿は本邦初訳。(右の写真はジノヴィエフ派の重鎮で合同反対派の指導者でもあったグリゴリー・エフドキーモフ。今回の書簡にも名前を連ねている)

 Л.Троцкий, Г. Зиновьев, И.Смилга, Г.Евдокимов, В ПолитбюроЦК ВКП(б), Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР, Том.3, 《Терра−Терра》, 1990.


 ここに提出する集団的書簡83人の声明が書かれたのは、内容を読めばわかるように、蒋介石のクーデターと英露委員会のベルリン会議の決定を通じて、国際的意義を持った諸問題に関する中央委員会多数の政策の全面的な誤りが暴露された直後のことである。まさにこれらの誤った政策は、国内問題に関する先鋭な転換とあいまって、ソ連の国際的地位をはなはだしく弱体化させた。集団的書簡が中央委員会に送付されたのは、ちょうどイギリスの保守党が中国革命およびイギリス本国の労働運動におけるわれわれの側の中途半端さを利用して事態を外交関係の決裂にまで持っていった時であった。こうして、例外的なまでに先鋭な状況が形成され、この状況はわれわれの深い確信によれば、この党内書簡を何十倍も重要なものにしている。

 正しい政策は常に必要である。しかし、状況が困難になればなるほどその必要性はますます増大する。そして、現在の状況においては、正しい政策は死活に関わる問題である。現在誤りを隠蔽することは、目をつぶったまま断崖絶壁のきわまで進むようなものである。イギリスとの外交関係が決裂したときにわれわれが隊列を乱そうとしているとか、あるいはもっと悪いことに、われわれが「困難を利用しようと」しているといったたぐいの叫び声が上げられているが、このような不可避的な叫び声をわれわれは、完全なまでの平静さと自己の正しさに対する確信を持って受け流すことができる。レーニンの学校でわれわれが学んだことは、プロレタリア政策に無縁なあらゆる偶然的で粉飾的で偽りの政策は投げ捨てられなければならないということである。われわれの前に立ちはだかる課題と困難が深刻なものになればなるほど、国内外の政策のすべての基本問題をできるだけ速やかに断固として党の前に提起しなければならない。革命や戦争のような事態にあっては、小細工や待機戦術や働きかけといった手段は誰の何の役にも立たないのである。

 ここで繰り返すまでもないことだが、わが国は平和政策を必要としている。しかし、もしわが国に本当に戦争の危険性が迫っているのならば、労働者もバトラーク(農業労働者)も貧農も、そして他方ではクラークも官僚もネップマンもみな、次の問題を正面から提起するだろう。それはどのような戦争なのか、誰のための戦争なのか、いかなる手段と方法によって遂行される戦争なのか、と。戦争は政治の継続である。それゆえ戦争の脅威は政治のすべての基本問題を正面から突きつけるのである。それらの問題に対しては正確かつ明白な回答が与えられなければならない――言葉の上でも実践の上でもである。かかる回答は今や、国際プロレタリアートにとってもかつてなく必要になっており、彼らの助けは今やこれまたかつてなくわれわれにとって必要になっている。われわれを破滅に追いやるのは、どっちつかずの態度であり、下手な小細工であり、諸階級間での動揺であり、中途半端さである。われわれを救いうるのは、いや確実に救うのは、正確で明確な路線、レーニン的な革命路線なのである。

 わが党の不幸は何よりも、昨今、労働者階級と労働者国家の運命を左右する諸問題をめぐって人為的に討議がはばまれ集団的な解決が妨げられていることである。どこの誰かが労働者階級や党に代わって目を光らせ問題を解決してくれるだろうとみなされている。大規模な危機の時期には、このようなやり方はまったくナンセンスで耐えがたいものである。われわれボリシェヴィキ・グループ、古参党員グループは中央委員会にこのことを警告するものである。中央委員会は本来、党が危機から脱出するのを助け、そうすることで迫り来る危機にあらゆる手段を講じて対処する可能性を党に与えることができるし、与えなければならない。これこそが唯一の救いの道であり、われわれはあらゆる手段、あらゆる力を尽くして中央委員会がこの道を取るよう助けるつもりである。

1927年5月25日

G・エフドキーモフ()

G・ジノヴィエフ

I・スミルガ()

L・トロツキー

『トロツキー・アルヒーフ』第3巻所収

新規、本邦初訳

  訳注

(1)エフドキーモフ、グリゴリー・エレメーエヴィチ(1884-1936)……1903年以来の古参ボリシェヴィキ。水兵。4度亡命。赤軍内のコミッサール。ペトログラード・ソヴィエト副議長。1923年、ロシア共産党中央委員、労働組合ペトログラード評議会議長。ジノヴィエフ派で、1925年の新反対派の指導者の一人。1926年7月の「13人の声明」に参加。1927年、中央委員会から追放。1927年末に除名され、1928年にスターリンに屈服して復党。1934年に逮捕。1936年、ジノヴィエフとともに処刑。

(2)スミルガ、イヴァール(イワン)・テニソヴィチ(1892-1937)……古参ボリシェヴィキ。1905年、活動家だった父の処刑後、1907年(資料によっては1908年)にボリシェヴィキに入党。1917年、ボリシェヴィキのクロンシュタット委員会メンバー、バルチック艦隊評議会議長。内戦中は、革命軍事評議会のメンバー、赤軍政治指導本部長。1921年に、その地位をグーセフに譲る。1921年、最高国民経済会議(ヴェセンハ)の副議長。1919〜20年、1925〜27年、党中央委員。1924〜26年、国家計画委員会(ゴスプラン)副議長。左翼反対派の指導者として1927年の第15回党大会で除名、翌年、シベリアに流刑。1929年に、ラデック、プレオブラジェンスキーとともに屈服。1930年に党に復帰。アカデミックな外国語文献の編集の仕事に従事。キーロフ暗殺事件後に逮捕。大粛清期に、裁判ぬきに銃殺ないし獄死。1987年に名誉回復。

 

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1920年代後期