反対派の戦術に関する手紙

ベルリンのクレスチンスキー()への手紙

トロツキー/訳 山本ひろし・西島栄

クレスチンスキー

【解題】反対派はけっして一枚岩の存在ではなく、情勢が厳しくなったり、何らかの戦術の転換を行なわなければならなくなるたびごとに、内部で先鋭な意見の相違が生じ、それはしばしば分裂や個々人の脱落を生み出した。いちばん最初に最も大きな内部分岐をもたらしたのは、1926年の10月16日の声明であった。その後も、反対派指導部が妥協をしたり攻勢に出たりするたびごとに、妥協に反対する戦闘的傾向をもった反対派メンバーや、逆に攻勢に出ることに躊躇する妥協的傾向をもった反対派メンバーから異論が出され、ときにはこれらの人々の脱落を生んだ。

 この手紙は、「83人の声明」(手紙の中では「84人の声明」)という形で攻勢に出ることに反対したベルリン在住の反対派メンバー、クレスチンスキー(右上の肖像)の異論にトロツキーが反論した手紙である。クレスチンスキーは結局、第15回大会後に主流派に屈服している。

 この手紙の中でトロツキーは、スターリン派による党内民主主義の抑圧とその日和見主義的政治路線とが密接に結びついているとして、次のように述べている。

 「党内体制は政治路線の一機能です。まさにスターリンが蒋介石とパーセルに、官僚や農村上層などに賭けているがゆえに、彼は自らの政策を、プロレタリア前衛の意識と意志を通じて実行することができず、機構を通じて上から前衛に圧力をかけることによって、したがってまたプロレタリアートに対する他階級の圧力を屈折反映させることによって実行することを余儀なくされているのです。だからこそ、この圧力に抵抗している反対派に対する狂暴な闘争がなされているのです」。

 さらに、テルミドールの道について次のように述べている。

 「ある政党から別の政党へと権力が交代するのではなく、同一政党内部での諸勢力の再編を通じて階級的権力移行が生じる道」。
 Л.Троцкий, Письмо Крестинскому в Берлин, 12 августа, 1927, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.4, 《Терра−Терра》, 1990.


 親愛なる友へ!

 あなたの手紙は私にとって驚きであり、がっかりさせられるものでした。あなたと会談した同志たちの報告はなおさらでした。孤立は罰なしにはすまされなかったようです。

 あなたは「84人の声明」は提出すべきではなかったと書いています。あなたの意見ではそれはタイミングが悪く、緊張を生み出す、等とのことです。集団的声明を提出するという考えを提起した同志たちは、当初、こっちでも多くの異論に出くわし、それらの異論は、おおむね、あなたが提起したのと同じ趣旨のものでした。反対した同志たちはかなりの数に上っていました。しかし今では、集団的声明がきわめて時機にかなっていること、それが著しく反対派を強化し、こうして、スターリン分派が反対派に加えようと準備していた打撃を和らげたこと、このことを認めていない同志はただの1人もいません。このことは、それ以降に起こった諸事件によってばかりでなく、別の陣営の同志から受け取った直接的な情報によっても裏づけられています。どうかこの点を再評価してほしい。そうすればあなたの他の多くの主張も再評価するようになるでしょう。

 関係が極度に緊張するようになったのは、あれこれの「不用意な」行動のせいではなく、中国革命の諸事件と結びついて起きたきわめて重大な意見の相違が突如生じたせいです。われわれが予言していた蒋介石のクーデターが起きた日、われわれは次のように述べました――「スターリンは反対派に対する闘争を10倍も激化させることを余儀なくされるだろう」。どのようにしてそれを避けることができたでしょうか? 一つの方法しかありません。すなわち、彼らによって犯された誤りに沈黙するか、あるいは、その誤りの原理的根源である彼らのメンシェヴィキ的路線にまで遡ることなく、この誤りを過小評価することです。けれどもそれは思想的裏切りの道に立つことを意味するでしょう。もし自らの義務を果たし、物事をその本来の名で呼ぶべきであるとするならば、「論調」の問題は2次的な意義しかもちません。さらに言えば、「論調」の問題に関してすら、実際にはわれわれはいかなる行きすぎも犯しませんでした。まさに中国と英露委員会の問題に関する意見の相違の先鋭さと深さとが、スターリンに、できるだけ早く反対派の指導層を粉砕せよとの考えを吹き込んだのです。集団的声明はより多くの人々の肩に責任を分散させ、それによって攻撃を和らげたのです。

 党内問題の鍵は、すべての場合と同様にこの場合でも階級路線です。もし中国問題または英露委員会に関して疑問を感じたならば、それはまた別問題です。けれども私はあなたがこれら2つの問題に関して疑問を感じているとは思いたくありません。ボルシェヴィキの全歴史の中で、事件の推移がこれほど短期間に、そしてこれほど完全に一方の(スターリニストの)路線の100パーセントの誤りと他方の(われわれの)路線の正しさを暴露した事例を見つけることはできないでしょう。

 同志のなかにはこう議論する者がいます。党内体制はたしかに我慢のできないものだが、他の諸問題に関しては議論の余地がある、と。党内体制が何か自足的なものとみなされているのです。なぜ党内体制が悪いのか、といぶかしげに問う者がいます。スターリンの粗野な性格が理由なのでしょうか。いや、党内体制は政治路線の一機能です。まさにスターリンが蒋介石とパーセル()に、官僚や農村上層などに賭けているがゆえに、彼は自らの政策を、プロレタリア前衛の意識と意志を通じて実行することができず、機構を通じて上から前衛に圧力をかけることによって、したがってまたプロレタリアートに対する他階級の圧力を屈折反映させることによって実行することを余儀なくされているのです。だからこそ、この圧力に抵抗している反対派に対する狂暴な闘争がなされているのです。

 「緊張をつくり出さず」、沈黙し、待機し、傍観していても、事態はおのずと形成されるだろうという俗物的哲学がありますが、このような哲学はまったく何の役にも立ちません。重要なことは、革命党の思想の発展における継続性を保持することであり、しかるべき条件下で必要な路線を定め政策を提示する能力のある革命的カードルを育成することです。それなしには、スターリンの誤りとそのグループの崩壊は、わが国の政治全体がさらにいっそう右傾化していくことを意味するだけでしょう。これこそテルミドールの道です。すなわち、ある政党から別の政党へと権力が交代するのではなく、同一政党内部での諸勢力の再編を通じて階級的権力移行が生じる道です。これは革命の解体と破局の道です。この(けっして必然的なものではない)結果に対して、受動的、待機的に抵抗することはできないのであって、わが国および党内で生じている全過程の容赦のないマルクス主義的分析によって、指導部の政策の堕落に対する無慈悲な批判によって、カードルの育成、ボリシェヴィキ的連続性の保持によって、つまりまさに現在反対派が行なっていることによってしか抵抗できないのです。

 論調や闘争の激しさ、そのテンポといった問題を事前に決定し、後で政治路線をこれらの諸条件に合わせる、といったことはできません。もちろんコミンテルン執行委員会や中央委員会総会でどの程度先鋭な調子で話すかという問題は非常に重要な意義を持っています。けれども、これらの問題は、基本路線に関する確固たる合意ができた後にようやく議論する意義の出てくるものです。国内政策とコミンテルンの政策に関する意見の相違の深刻さをほんのわずかでも糊塗することは犯罪であり、背教者に転落することであり、党を清算することであり、将来の分裂を準備することであり、それと同時に10月革命の崩壊を準備することです。

 党内におけるさらなる、しかもより根本的な再編は絶対に不可避です。右からの一連の仮借ない打撃が生じるでしょう。もし反対派が基本路線を堅持しているならば、党員大衆における政治的分化は加速され、プロレタリア分子を左に移動させるでしょう。事態を決するのは党のプロレタリア分子です。このような政治的分化のみが革命的基盤をもった党の統一を保障することができるのです。党の統一のための他の闘争方法は幻想であり、偽りであり、非ボリシェヴィキ的です。

 私は、あなたが1、2週間のうちにここにやってきて、党内状況を自分の目で確認すれば、われわれが現在追求している政策が唯一可能な政策であることを納得するだろう、と心底確信しています。

エリ・トロツキー

1927年8月12日

『トロツキー・アルヒーフ』第4巻

『トロツキー研究』第42/43号より

  訳注

(1)クレスチンスキー、ニコライ(1883-1938)……古参ボリシェヴィキ、法律家。1903年以来の党員。1918〜21年、財務人民委員。1921年からベルリン駐在大使。1917〜21年、党中央委員。1919〜21年、中央委員会書記。合同反対派のメンバー。1927年、第15回党大会で除名。その後屈服。1938年、第3次モスクワ裁判の被告として銃殺。

(2)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

 

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