党大会準備の方法

政治局へ、中央統制委員会幹部会へ、コミンテルン執行委員会へ

トロツキー、ジノヴィエフ、ムラロフ、ペテルソン/訳 西島栄

【解題】8月合同総会において最終的に第15回党大会の日程が決定され、第15回党大会は12月1日から、大会前の全党討論は、そのわずか1ヵ月前の11月1日からとされた。しかも、11月1日は10月革命10周年記念の式典が予定されており、討論は不可能であった。このような日程は、事実上、全党討論および大会代議員選挙を空洞化するものであった。大会の代議員を選出するための地方大会である地区党会議や県党会議はその全党討論が始まる前に大部分終わってしまうからである。このような日程上の策略と並んで、大会前のこの最も重要な時期に、スターリニスト分派は反対派に対する弾圧をいっそう強化した。とくに系統的に用いられた手段は、会議での反対派の発言を事前に組織されたフーリガン集団によって妨害すること、反対派メンバーを偏狭地方や国外の任務に「配転」して、事実上、中心地から追放してしまうこと、反対派の主張を歪めて誹謗中傷のネガティブ・キャンペーンを行なうことである。さらに、一般労働者の反対派メンバーに対しては解雇というより露骨な手段が用いられた。こうした事態を憂慮した反対派指導部は、この書簡を執筆し、こうした日程上の策略や反対派への弾圧が、最も重要なものとなるであろう第15回党大会の準備を台無しにし、それを破壊するものであると訴えた。

 反対派は、すでに作成されていた反対派の政綱を党員に配布することを政治局に訴えたが、政治局は9月8日に反対派政綱の配布を禁止する決定を下し、反対派はやむなく秘密裏に政綱を印刷して自主的に配布することを余儀なくされ、この行為は主流派に反対派に対するさらに大規模な弾圧を行なう口実を与えた。

 なお、トロツキー文庫所蔵の同文書コピーには、自分用のメモとして「集団的文書。かなりの部分は私が書いた、エリ・トロツキー」とあるので、主要執筆者がトロツキーであるのは間違いない。

 Г. Зиновьев, А Петерсон, Н. Муралов, Л.Троцкий, В Политбюро ЦК ВКП (б). В президиум ЦКК. В ИККИ, 6 сентября, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.4, 《Терра−Терра》, 1990.


  親愛なる同志諸君

 〔8月〕合同総会後にすべての者の眼前で展開された諸事実は、明らかに第15回党大会の準備そのものを脅かすものとなりつつある。

 言うまでもなく、第15回党大会は、しかるべき準備がなされる場合には、巨大な役割を果たすことができるだろうし、わが党を現在の危機から抜け出させる上で実際に役立つことだろう。それは、今後の闘争における正しい道筋を指し示すことによって、とりわけ迫り来る戦争の危険性に対するソ連の準備を整える筋道を指し示すことことによって、党の団結に寄与したことだろう。そしてそれは、上から開始されていたコミンテルン分裂の画策に終止符を打つことができただろう。

 しかしながら、こうしたことが可能となるのは、レーニンの時代に――そのときには意見の相違の深刻さははるかに小さなものであったが――わが党の大会が準備されたやり方と同じやり方で大会が準備される場合のみである。

 レーニン時代に党はどのように行動していたか?

 まず第1に、大会は正確に期間内に召集されていた。レーニン時代には1ヵ月の遅れも許されないとみなされていた。レーニン時代は、中央委員会自身が、大会から与えられた任期を、自ら1年間も余分に、すなわち2倍も享受するなどということは、けっして起こらなかった。しかも当時は、激しい内戦のせいで、現在よりもはるかに大会を召集することが困難であったにもかかわらずである。

 第2に、レーニン時代には、大会前に、すべての党員が実際に、党の機関紙誌に自らの提案、テーゼ、政綱を発表したり、自分の小冊子や著書を出版したり、任意の党会議で演説することが全面的に可能であった。

 第3に、以上のことは、討論にすべての党員が実際に参加できるように、そして大会代議員の選出が党の実際の意志を反映したものとなるようにという点を考慮した上でなされていた。レーニン時代には、最初に地区党会議〔地区レベルの大会のこと〕が開かれそこで実質的にすべての問題が事前に決定され、その後、県党会議〔県レベルの党大会のこと〕が招集されてはじめて「討論」が開始される、というようなことはなかった。そのような順序は、惨めで恥ずべきコメディとして全員から嘲笑され退けられただろう。

 第4に、レーニン時代には、大会前の時期に、中央委員会の路線に同意しない同志たちが労働者の中心地から辺境の地に追放されるというようなことがなかっただけでなく(レーニン時代にはそもそもこのような追放がなかった)、反対に、中央委員会の多数派と意見の一致しない同志やグループは、大会前および大会の場で中央委員会の路線を批判することができるよう、無条件に大都市中心部にとどまることが保証された。

 現在ではこのようなことはまったく見られない。それどころか、まったく反対のことがなされている。中央委員会自らが、規約に反して自らの任期を2倍に延長している。中央委員会は、第15回党大会を、第14回党大会から2年も経って召集している。中央委員会は大会前に、異論の持ち主たちに対する弾圧を10倍も強めている(とりわけ追放という手段で。後述)。大会の準備に際して、すべての党員が係争問題で実際に発言できるような形で日程や手続きが設定されるどころか、モスクワやレニングラードやウクライナでは、各地で地区党会議がもうすぐ開始され、10月末にはすでに多くの地区で党会議が終わっているだろうが、中央委員会によって約束された公式の全党討論が開始されるのは11月1日からなのである。つまり、公式の討論を開始することができるのは、地区党会議がすでに終わってからか、あるいは、いずれにせよ、そこでの大会代議員選出が終わってからなのである。もしそんなことになれば、それは党員の権利に対する侮辱であり嘲笑であろう。このことは、中央委員会が討論を死ぬほど恐れており、何らかの正確で誠実な内部討論がなされた場合には自己の政治路線を擁護する自信が中央委員会にはないのではないか、という考えを党の広範な層に抱かせている。このような日程上の策略が党内民主主義の正常な方法であると考えることができるだろうか? そのような方法で現在の危機から脱出することができると考えることができるだろうか?

 わが党における深刻な意見の相違は以前にもあったが、最近の時期ほど長引いたこともないし、これほど病的で先鋭な性格をとったこともない。これはどうしてなのか? かなりの程度それは、第14回党大会の準備がきわめて不正常な状況の中でなされたからである。「全党討論」は党大会の数週間前になってようやく始まった。意見の相違はまるで青天の霹靂のように姿を現わした。2つの首都組織(レニングラードとモスクワ)の県党会議同士が「一騎打ち」をしたことは、全党にとって思いもよらないものだった。党全体は自分の意見を述べる可能性を完全に奪われた。意見の相違は内部に追いやられた。事業に及ぼされた害は計り知れなかった。

 だが現在、実際に存在する意見の相違を解明し、各種の文書を党員に知らせ、あらゆる係争問題が公然と論じられ、全党の真の多数派の意見を形成していくという正常な方法の最後の可能性が、日程上の策略や書記局の陰謀などを通じて取り除かれるならば、何倍も大きな害が党にもたらされるだろう。中央委員会は、現在の状況のもとでこのような日程上の策略に訴えるならば、党員の多数派が本当に中央委員会の路線を支持しているとはまったく確信していないことを示すことになるだろうし、何が何でも自己の陣地を維持するためだけに何でもする用意があること、党の統一を破壊することさえ辞さないということを示すことになるだろう。

 中央委員会と中央統制委員会の合同総会は、それでなくとも短い討論期間をはなはだ控えめに設定した。周知のように、第15回党大会は12月1日に開催されるが、中央委員会によって承認された全党討論は大会のわずか1ヵ月前から、すなわち公式には11月1日からであるとされた。これはまたしても党の利益をはっきりと歴然とした形で破壊するものである。大会前の全党討論は、大会の1ヵ月前より後に開始されてはならないとなっている。この最小限の期間設定は、最も正常で平穏で健全な条件がある場合を想定したものであり、いずれにせよ大会が毎年召集されることを前提している。「1ヵ月以上」というのは、状況が求めるかぎりそれよりも長く討論期間を設定しなければならないということを意味する。そもそも、現在における党の危機の時期以上に全面的な討論を必要とするような時期を想像することができようか?

 しかし、1ヵ月の期間というのも実際にはフィクションなのである。11月の革命記念日を考慮すれば、討論期間は事実上、大会開催前の2〜3週間にあらかじめ限定されている。ところが、わが国では、『プラウダ』に掲載されるような重要論文でさえ、各地方にまで届くには優に2週間はかかるのである。したがって、県党会議で代議員は、全党員が最重要文書、たとえば反対派の政綱を読むことができるよりも前に選出されことになるのである。もし党中央委員会が地区党会議での選出期間に関する決定を取り消さないならば――取り消すならば、この党会議での代議員選出が討論後になる――、これは実際には規約で保証された大会前討論をすべて無効化することになるだろう。これは大会での選挙を単なる形式的なものに変質させるだろうし、現在の状況のもとでは、ありていに言えば、一個のコメディに変えてしまうことになろう。

 大会は党の最高機関である。大会は党活動において最も重大なイベントである。大会の権威は、全党員にとって疑問の余地や反論の余地を残さないものでなければならない。ボリシェヴィキ党の党員は、党大会の決定に無条件に従う義務を有している。しかし、実際にそうしたことが達成されるのは、党規約によって全面的に保証された条件、すなわち、全党員がこの決定に影響を及ぼすことができ、党機構だけでなく全党が投票に参加できるような条件が存在する場合のみである。

 われわれの意見によれば、政治局は、党の規約にのっとって、すべての地方組織に対し、各支部の全党員が現実に第15回党大会の全議題をしかるべき時期に――すなわち、すべての最重要文書が公表され、主要な論点について話を聞いた後で、かつ、大会の構成を決定することになる各代議員選挙がなされる前に――討議することができるように、大会準備の日程を組むよう義務づけるべきである。党員を欺きその完全なる規約上の権利を奪い取ることを目的とする、党書記による日程上の策略を、中央委員会はきっぱりと禁止するだけでなく、そのような試みを恥辱の柱に打ちつけなければならない。

※   ※   ※

 われわれは、多くの党組織で起こっている諸事実に諸君の注意を向けることをいっそう必要なこととみなしている。これらの諸事実は、中央委員会と中央統制委員会の合同総会後に、すなわち大会前の時期に党生活を取り巻いているまったく許しがたい状況に明白な光を当てるものである。

 これらの事実を総合するならば、次のことが明らかとなる。党官僚のかなり大きくかなり影響力のある部分が現在すでに、党員大衆が党内に存在する意見の相違を落ち着いて説明することを不可能にすることを自己の目的としていること、党内反対派の支持者たちをあからさまに恫喝することを自己の課題としていること、反対派メンバーが党組織の面前で自己の見解を擁護する党員としての権利を行使できなくすることを目論んでいること、である。

 われわれは、否定することのできない絶対に確認済みの諸事実のみを以下に列挙する。

 1、実に多くの都市で(モスクワ、レニングラード、ロストウ、バクー)、合同総会後に何重にも「厳選された」党活動者会議がわざと唐突に招集され、「絶対に信頼のおける」党員にのみ、すでにリストに名前の挙がっていた者にのみ参加証が交付され、しかも党活動に積極的に参加してきた何百という古参党員がそこに入るのを拒否された。

 2、モスクワやレニングラードやその他の諸都市における地区および全市の活動者会議において、事前に組織された集団、すなわち、会議の始まる前から準備され、しかるべきところに配置され、少人数だがどんなことでもする用意のある集団が、叫び声や脅し文句や口笛や野次によって反対派の演説を妨害している。どの会議においても主宰者は、これらのグループを静止したり会場からい追い出すような措置をまったくとろうとしない。たとえばイワン・ニキチッチ・スミルノフ(1)のように、25年もの党歴があり、広範な労働者によく知られ、地下活動や赤軍やソヴィエトの仕事などでともに活動したすべての同志たちによって深く尊敬されている党員が、モスクワの活動者会議で、中央委員会総会の結果について報告するために事前に割り当てられた10分さえもまともに話すことができなかった。まったく誠実で穏やかなものであった彼の演説は、議長である政治局員候補の同志ウグラーノフ(2)の黙認のもと、この種の小集団によって妨害――組織的に妨害――された。

 3、党会議を破壊するフーリガン的方法はとりわけレニングラードで顕著だった。レニングラード県委員会書記で政治局員候補である同志キーロフ(3)が出席していた全市党会議やブイボルク党会議などで、反対派党員が決議を読み始めると、「何者か」によって電気が消された。ペトログラード地区会議では、フーリガンたちは、決議を読もうとした反対派党員に襲いかかり、その決議文を破り捨て、しかもそのさい反ユダヤ主義的性格をもった叫び声を発した。いくつかの党会議では、会議の主宰者たちは、決議案を提出してそれに関する自分の意見を表明するという全党員の合法的な権利を守るどころか、そもそも決議を読み上げてもいいかどうかを投票にかけ、その際、決議案を読み上げることそのものに反対投票することを事前に選びぬかれた会議出席者に示唆する。

 4、こうした方法と並んで、反対派メンバーが党的手段で自己の見解を党員に伝えるのを妨げる目的で、反対派メンバーにさまざまな脅迫追放といった手段が用いられている。

 党会議の場で、中央委員会の著名な代表者たち(名前を挙げておくと、レニングラードでは中央委員のアンティポフ(4)――工場細胞での彼の演説は『ボリシェヴィキ』に掲載されている。バクーでは同志ミルゾヤン(5)、など)は労働者の反対派メンバーを口汚い野次でののしり、党からの除名でもって脅した。この脅しは多くの地域で実行に移されている。

 革命軍事会議の副議長ウンシュリフト(6)は、同組織の細胞会議で、公式の決議に反対投票した同志たちに対して、反革命分子として党と軍隊から除名するぞと言って脅した。

 つい最近、レニングラードから「緊急に」12人の同志たちが追放された。彼らのうち9人は古参党員で、1910年から1917年まで現場で働いていた労働者である。追放された同志たちの姓だけを挙げておくと、ボゴモリヌィー、レーヴィン、ヴォイツェホヴィチ、ディミトリエフ、ゲルツベルク、フォンベルシュテイン、ロツカン、コワレンコ、イワノフ、グリゴロフ、ピチューリンである。最後のピチューリンは、10万人もの構成員を抱え高い業績を上げている労働者協同組合の長であり、彼はその業績が認められて一等賞が授与されることになっていた古参同志である。ところが、地区の活動者会議で反対派的内容をもった演説をしたところ、ピチューリンはただちに解雇されて、ポルトラツク〔トゥルクメン共和国の首都〕に追放された。

 バクーからは以下の人々が追放された。(1)マメドリンスキー(彼がその一員であった地区委員会から「配転」され、偏狭の農村郡に追放)。(2)ギルシーク(ペルシャに追放)、(3)ミルゾエフ(ペルシャ国境地域に追放)、(4)シタビンスキー(ペルシャに追放)。

 ウラルからは次の古参同志が追放された。(1)ベリャーエフ、(2)デリャービン、(3)ネドレゾフ。

 このカテゴリーにはさらに、党暦20年の党文筆家である同志サファロフを入れることができるだろう。彼はかつて一度も商業にたずさわったことがないにもかかわらず、コンスタンチノープルの通商代表部のポストに任命された。

 全ソ労働組合中央評議会の労働出版部の編集部員である同志コワレンコは「84人の声明」に署名したことで中央アジアに追放された。同志コワレンコの解任は、労働出版部編集部の縮小という偽りの口実で強行されたが、実際には、コワレンコの解任後にスッタフが増員され、今では5人の元エスエルと元メンシェヴィキ――彼らはみなかつてはゲ・ペ・ウに捕まったことがある――と1人の共産党員によって構成されている。その一方で、古参党員が、「イデオロギー的動揺」という偽りの口実で中央アジアに飛ばされたのである。

 同地には、国際活動の経歴の長い革命家、同志アンドレイチンも「経済関係」の仕事をするという名目で放逐された。

 同志ルイジョフとアレクサンドロフ――どちらも生産現場で働く労働者――は、自分の支部でパゴーディンとかいう人物の醜悪で恥知らずな報告に対する苦情を同志ジノヴィエフに手紙を書いて訴えたというだけで弾圧にさらされた。前者は党から除名され、後者は警告つきの譴責処分を受けた。同志ジノヴィエフはこの手紙を合同総会の場で読み、この問題を調査するよう中央統制委員会に申し入れた。だがこの調査はなされず、労働者から広範な信頼を勝ち得ていたこの2人の労働者は過酷な弾圧にさらされたのである。

 モスクワでは、内戦の参加者で赤旗勲章の受勲者である同志マルトゥイノフ〔スターリニストのマルトゥイノフとは別人〕は、交通人民委員部の細胞会議で「84人の声明」からの引用を行なったとして、地区委員会と地区統制委員会の合同総会で党を除名された。

 同志マリュタは、同志ブジョンヌイ(7)の言いたい放題の演説の最中に抗議の野次を飛ばしたことで譴責処分となり、職務から解任された。

 「84人の声明」は中央統制委員会議長の同志オルジョニキッゼによって合法的な党内文書であることが認められたにもかかわらず(参照、8月12日付のウラル統制委員会決議)、多くの同志がこの声明に署名したことが理由で除名の脅しを伴った厳しい譴責処分を受けている。「84人の声明」に署名したかどで、除名の警告を伴った厳しい譴責処分を受けた同志としては、同志ドゥーカト、同志シチェコルジン、同志クルバトフ、同志ネドレゾフがいる。スベルドロフ管区統制委員会が党から追い出したがっているのがどのような同志であるかは、同志ドゥーカトに対する譴責通知に記載された彼の党暦を見れば明らかである。それは8月21日付『ウラル労働者』に公表されている。

 「ドゥーカト、ユーリー・イワノヴィチ。1904年からの党員、38歳、農民出身、中等教育修了、職業革命家。革命活動が理由で1906年から1909年まで投獄、1913年から1916年までペトロパブロフスカヤ要塞に投獄。赤軍に5年従軍し、赤軍の一兵士から軍管区司令官に。現在、失業中」。

 同志レレヴィチと同志ローテンベルクは、サラトフで警告つきの譴責処分と2年間の党員権停止処分を受けたが、その理由は単に両名が自分の見解を党会議で擁護したというだけのものであった。統制委員会の譴責通知にはその他のいかなる理由も明示されていなかった。

 同じサラトフでは、同志ヴァレイキス(中央委員候補)が、教育労働者およびその他のソヴィエト関係支部の会議で非党員の参加者がいる中、合同総会についての報告を行なった(その報告の中身については『サラトフ・イズベスチヤ』で読むことができる)。われわれの一人が、マルトゥイノフに対する若干の批判をしたところ、この会議には非党員もいるということが持ち出されて非難された。だが、中央委員候補のヴァレイキスは合同総会から直接、非党員も参加するこの会議にやってきて、「これらの非党員はこれこれの決議に賛成した」と公然と言ってのけた。

 さらにそれ以外の事例も出すことができる。アルハンゲリスク県委員会の機関紙(1927年8月30日付『ヴォルナ(波)』)には次のように書かれている――「会議は、この数日のうちに、合同総会の決定を全党支部および全コムソモール支部で具体化する作業に取りかかり、その後で労働者地区の非党員のあいだで報告と対話を行なうことを決定する」。さらにこうある――「ソ連共産党(ボ)中央委員会と中央統制委員会の合同総会の結果について聞くことによって、非党員を含む第15製材工場と第2製材取引所のソ連共産党支部とコムソモール支部の合同会議は、すべての総会決定が無条件かつ唯一正しいものであるとみなす」(1927年9月3日付『ヴォルナ』第200号)。

 中央統制委員会の議長オルジョニキッゼは、非党員も参加する会議の場で反対派を「批判する」ことは許されないと説明した。しかし、「何者か」が別の指令を与えているようである。

 オリョールの同志ヴァルジンは、反対派の見解を擁護しようとしたかどで、譴責処分を受けるとともに仕事から解任された。

 工場からの解雇をはじめとする、反対派労働者を襲った懲罰についても知らせておかなければならない。ロストウでは、1916年以来の党員である同志カントールがミコヤン製靴工場から解雇され、ソヴィエトの仕事に「配転」された。この党員は、地方の統制委員会に手紙を書いて「製靴工場の皮張り工の仕事に戻すよう」訴えた。

 バクーでは次の同志たちが解雇された。(1)シバノフ――今のところ失業中。(2)ロガチェフ――2ヵ月間失業。(3)ダニリアンツ――現在の仕事から解雇され、どこか不明の場所に追放。(4)ヴラソフ――解雇。(5)オガネソフ・アルセン――同じく。(6)ヴラソフ・イ――反対派の見解を一次資料にもとづいて党に知らせるよう求める修正案を提出したことで活動者会議の後に解雇。

 これらの事例はすべてこの数日間の出来事である! これらはいずれも、われわれにまで伝わった諸事実である。どれほど多くの事例がわれわれのもとに届いていないことか! 反対派メンバーはいったんトルケスタンや、中央ロシアの地方都市などに追放され、今では、「万一の場合に備えて」、再び別の場所に追放されている。彼らに対しては公然と次のように言われている――「君たちはしばらくそこにいてもらうが」と同情を込めて言われる――「大会前にはまた別の地域に移ってもらう」。このような例は何十とある。各地域の書記たちは、まさにこのようなやり方でもって第15回党大会の「準備」を着々と遂行しているのである。追放された先の郡や労働者街で何がなされるのか、これについては今のところわれわれは知らない。だがそこでも、おそらく、今よりもいっそう粗暴なことが――そんなことが可能だとすればだが――なされるに違いない。

 5、こうした脅迫や追放といった手段と同時に、新聞雑誌の中で反対派を攻撃する最も無分別で最も下劣なアジテーションがなされている。以前と同様、あらゆる粗製濫造のもの書きや出世主義者たちは、反対派を攻撃しているかぎり、どんな下劣なことも、どんな嘘も、どんな誹謗中傷も、新聞雑誌に掲載されることを知っている。そして、彼らは、そんなことをしてもけっして反駁される危険性がないことを知っていてこのように振る舞っているのである。というのも、彼らは、紙上であれ口頭であれ大会前にどんな討論も実際には許可しないことをあらかじめ決定しているからである。

 『コムソモール・プラウダ』のN・クジミン(8)のかなりよく知られた論文を指摘するだけで十分だろう。日本に放逐された同志プートナに代わって軍の青年活動家の「教師」となったこの人物は、クレマンソーに関する同志トロツキーの記述を、何と、戦争の際に前線で農民を銃殺することを要求するものであると解釈している。これが、労働者党の反対派部分に農民を対立させる目的を持った明白にテルミドール的な、いやもっとはっきり言えば黒百人組的なアジテーションでないとすれば、いったい何か? そして、中央統制委員会はこの論文に注意を向けたにもかかわらず、このような下劣きわまりない誹謗中傷は党指導部からのいかなる反論にも出くわさないのである。

 われわれはもう、『イズベスチヤ』に掲載されたスクヴォルツォフ(9)の惨めな社説や、同じ号に掲載されたデミヤン・ベードヌイ〔右の写真〕(10)の、「党内」問題を扱った詩形式の文章については言わないでおこう。この男のでたらめぶりは、その思想的・詩的荒廃と軌を一にしてますます昂進している。デミヤン・ベードヌイのクラーク的・ポルノ的論調は、けっして反対派ではない最も穏健な党員にさえますます嫌悪感と軽蔑心を掻き立てている。だがそれと同時に、まったく疑いのないことは、デミヤン・ベードヌイのこうした腐敗しきった文章が上から大いに「奨励」されていることである。新聞雑誌を指導しているのが書記局の新聞雑誌部、すなわち事実上同志スターリンであることは、すべての者が知っている。

 6、8月26日付の同志ヤロスラフスキーの論文は、反対派である党員候補〔正規の党員になる以前に一定期間設けられた地位で、「準党員」のような身分。一定期間のうちに「正規党員」への「昇格」が承認されない場合には、党員候補としての地位も失う〕を党員に登録替えしないよう各地の組織に命じた直接的な指令というべきものである。このような指令はいったい何を意味しているのか? これは事実上、反対派の党員候補を党から除名することを意味している。これは党規約に対する明々白々な嘲弄である。誰がこのような重大問題を決定したのか? もしかして同志ヤロスラフスキーがたった一人でこのような問題を決定したのか? いったいそれは専横とどこがどう違うのか? 党規約を両足で踏みにじっても労働者党員が罰なしに許してくれると考えているのか?

 7、反対派に対しては、ここでもやはり新聞雑誌の扉は閉ざされている。論争問題に関する論文が掲載されないというだけでなく、論争になっていない問題に関してさえ、反対派はそもそもからして新聞雑誌への登場を禁止されているのである。全ロ労働組合中央評議会のイニシアチブで、同志トロツキーとアメリカの代表団との対談がなされたが、これが『プラウダ』に掲載された際、中傷的で馬鹿げた後書きが付いていた。これにはさすがに、多数派の真面目な支持者の一部にも怒りを引き起こした。この「経験」に懲りたのか、今度は同志ジノヴィエフと同じ代表団との対談はまったく掲載されなかった。その際、まったく見え透いたことに、同対談を掲載しないという決定と同時に、同志トムスキーや同志カリーニンとの対談も掲載しないという決定もなされた。サッコとヴァンゼッティの死刑について論じた同志ラデックの論文に対する『プラウダ』編集部の扱いはもっと露骨な(そんなことが可能であればだが)ものだった。編集部はこの論文の掲載を拒否しただけでなく(その理由は示されなかった)、そもそも反対派の党文筆家に対する許しがたい専横の痕跡を残さないよう、筆者に対して論文の掲載の可否を通知することも拒否した。ラデックの論文の唯一の欠陥は、『プラウダ』の論文の水準よりも必然的に高いという事情にあったわけである。同志ジノヴィエフの論文「1917年の7月事件におけるレーニン」も掲載されなかったが、『プラウダ』編集部は何らかの回答をすることさえ拒否した。『プラウダ』はこのテーマに関する論文の執筆をいつものように……スレプコフに任せた。きっと、スレプコフが1918年の時点でまだカデットであったというのがその根拠なのだろう。1917年の7月事件におけるレーニンの役割について執筆する任務が他の誰でもなくスレプコフに与えられたのである! これは実に象徴的なことではないか?

 現在、同志ジノヴィエフと同志ラデックが何ら論争になっていない問題に関しても、反対派の一員であるという理由だけで『プラウダ』に登場することができないとすれば、反対派が大会前に論争となっている問題で紙面に登場することができるなどといったい誰が信じえようか?

 以上列挙したすべての諸事実のうち、われわれが最も深刻であると考えるのは以下のことである。反対派としての信念を持っているという理由で労働者党員および党員一般が除名されたり追放されたりしていることであり、上から組織された小集団によって党会議を妨害するシステムであり、新聞雑誌におけるポグロム的アジテーションである。党会議の妨害については、以下により詳しく論じよう。

 かつて、わが党も、ブルジョア政党によって招集された会議の場でこのような手段を用いたし、メンシェヴィキと完全に分裂した後にメンシェヴィキとの会議でも用いた。だがわが党の内部では、このような方法は最も断固とした形で禁じられなければならない。なぜならそのようなやり方は党内問題を党的手段で解決することを妨げるからである。少数派に対して多数派の代表者によって用いられたこの方法は、次のことを証明している。自己の手中に新聞雑誌を独占している党の多数派が、少数派の代表者によるいくつかの公開論文や演説だけで、多数派によって遂行されている政策に対する疑問の種をまくことになるのではないかと恐れている、ということである。

 このような方法は、党規約および最近の総会における政治局の約束によって保証されている大会の準備を完全に破壊しかねないものである。党会議における党内問題のあらゆる討議を暴力的に破壊する小グループは、大会前の時期の全党討論を破壊するために準備されている。中央委員会が今ただちにこのような方法に対してしかるべき措置をとらなければ、全党討論の完全な破壊に至るか、さもなくば、大会前の各種党会議において最も先鋭な衝突にまで至るだろう。

 われわれはさらに次のことにも注意を向けたい。合同総会は、13人の中央委員および中央統制委員(反対派)の声明を2つの部分に分け、第2の部分を政治局と中央統制委員会幹部会の検討に付すことを決定した。この第2の部分には、党内生活を健全化するためのいくつかの実践的提案が含まれている。この問題は、しかしながら、まったく進捗しなかった。政治局と中央統制委員会幹部会は合同総会のこの決議をあっさりと無視した。このようなやり方は許されることだろうか?

 その間に、中央委員や県委員会書記などによって招集された分派的活動者会議が全速力で進行している。書記たちは――公式の機構と党の資金を利用しながら――同意見者(事実上スターリン派)の秘密会議を招集し、反対派と闘う最良の方法について討議し、とりわけ、反対派メンバーの解任、追放、「配転」等々の問題について話し合っている。このような行動方法は必然的に、反対派メンバーにも大会前に個々の集まりを持つことを余儀なくさせている。なぜなら、大会準備への積極的な参加を拒否することができるのは、惨めな俗物的エセ党員だけであり、反対派党員は一人たりとも参加を拒否しはしないからである。

 党にいる者なら誰しも、これらの許しがたい反党的で犯罪的な手法が偶然用いられているなどと信じないだろう。もし偶然だとすれば、この種の行動がこれほど系統的なものではなかったろうし、これほど広範囲に広がることもなかったろうし、何よりもまったく罰を受けることなくすむことはなかったろう。問題になっているのはまさにシステムであり、大会準備のこのシステム、いやむしろ正常な大会準備を妨害するこのシステムは、一般にそう確信されているように、それ自身の中央部を有している。その中央部とは、党に対する「統制管理」の真の中心である中央委員会書記局である。実際のところ、書記局は中央委員会の上に立っており、あらかじめ自己の意志を大会に、すなわち党に押しつけようとしている。この点にこそ、反規約的・反党的メカニズムの意味があるのであり、このメカニズムは大会を「準備」するためにフル稼動している。

※   ※   ※

 第15回党大会の正常な準備のために、党の統一のために、われわれはただちに次の措置をとるよう中央委員会に提起する。

 (a)まだ党に知らされていない13人の声明の第2の部分を、ただちに――われわれの参加のもとで――検討すること。そして何よりも、党を除名された反対派メンバーを復党させること。

 (b)自由に自分の意見を述べ党会議に決議案を提出する権利を全党員に保障することを党会議の主催者に呼びかける通達を機関紙に発表すること。党の統制機関は、この基本的権利を行使するのを妨げようとする党員を罰しなければならない。少数派の権利を侵害するような会議主宰者は、党内処分に付すべきである。

 (c)反対派の公表されていない論文や演説や決議や政綱に対する機関紙上での論争を厳格に禁止すること――そしてそれを党規約に対する最悪の破壊とみなすこと。論争の対象とすることができるのは、全党的な検証に付されている文書だけである。「言葉を信じるものは度しがたい愚か者である」。言葉を信じるよう強制する者は、党に対する犯罪を犯しているのである。

 (d)意見の相違にかかわるすべての文書を読み自由に意見を述べるよう中央委員会の名前で全党員に呼びかけること。異論の持ち主に対していかなる弾圧もないことを中央委員会の名前で保証すること。

 (e)中央委員会のテーゼ、反対派の政綱、その他、あれこれの組織、党員グループ、個々の党員が大会に向けて出したすべての文書が公表され、各地方に送付された後ではじめて全党討論は開始されなければならない。全党員には、以上の後に1ヶ月間(せめて約束された1ヶ月間だけでも!)の自由な討議の期間が与えられなければならない。これと一致した形で、地区党会議、郡党会議など下級の諸大会の期間を見直さなければならない。全党討論の開始日を革命記念日の前の時期に再設定することが必要である。

 (f)以上のことをふまえて、われわれは、次の中央委員会総会の招集を早め――9月15〜20日の日程で行なうこと――、その場でしかるべき決定を採択することを提案する。そしてそれまでは、いかなるものであれ「選挙」をすることを禁止すること。さもなくば、それは大会の構成を討論前に決定するものとなってしまうだろう。

 第15回党大会が本当の意味で、党の前に立ちはだかっている諸課題を解決するものとならなければならない。そのためには、大会準備と代議員選挙の分派的性格を一掃しなければならない。上で列挙した反党的方法に訴える者は、第15回党大会の権威を掘りくずしているのである。中央委員会の第一の義務は、第15回党大会の権威を保護することであり、プロレタリア党にまったくふさわしからぬ、上で列挙した醜悪なやり口を断固としてやめさせることである。

 共産主義的挨拶を込めて

中央委員および中央統制委員

G・ジノヴィエフ、A・ペテルソン、N・ムラロフ、L・トロツキー

1927年9月6日

『トロツキー・アルヒーフ』第4巻所収

新規、本邦初訳

  訳注

(1)スミルノフ、イワン・ニキチッチ(1881-1936)……工場労働者出身の古参ボリシェヴィキ。1899年入党。第1次世界大戦まで何度か逮捕。1916年、前線に。内戦時は政治委員(コミッサール)として活躍。「シベリアのレーニン」と呼ばれる。1920年から党中央委員。郵便電信人民委員。1923年から左翼反対派。1927年、除名。スフミに流刑。1929年に屈服し、「トロツキズムとの決裂」を表明。1930年に党に復帰。1929〜32年までトラストの管理機構に勤務。1931年、ベルリンで、トロツキーの息子レフ・セドフと会い、反対派ブロックを結成。1933年1月、逮捕され、2月に再度除名。1936年の第1次モスクワ裁判の被告。同年、銃殺。1988年に名誉回復。

(2)ウグラーノフ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ(1886-1937)……古参ボリシェヴィキ。1905年革命に参加し、1907年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェヴィキ。1921年にペテルブルク県委員会書記。すぐにジノヴィエフと衝突し、ウグラーノフは1922年にニジニノヴィゴロト県委員会書記に配転。1921〜22年、党中央委員候補。1923〜30年、党中央委員。1924年にモスクワ県委員会書記に着任して、反対派狩りに辣腕を振るう。その後も反トロツキスト運動の先頭に立ち、出世。1924年8月に中央委員会組織局員および書記局員に。1926年に政治局員候補。1928年にブハーリンの右翼反対派を支持。1930年に、右翼反対派として、中央委員会から追放され降伏。1932年にリューチン事件に連座させられ、逮捕、除名され、もう一度降伏。1936年に再び逮捕され、1937年に銃殺。1989年に名誉回復。

(3)キーロフ、セルゲイ・ミロノヴィチ(1886-1934)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1904年以来の党員。1921年に中央委員会候補。1923年から党中央委員。1926年、レニングラードに乗り込み、レニングラード県委員会第一書記としてジノヴィエフ派を駆逐。1926年に政治局員候補。1930年から政治局員。1934年12月に、ジノヴィエフ主義者を名乗る青年によってクレムリンで暗殺され、この事件はその後の大粛清時代の幕開けを告げた。

(4)アンティポフ、ニコライ・キリロヴィッチ(1894-1938)……1912年からの党員。1917年に党ペテルブルク委員会メンバー。1923〜24年、モスクワ委員会書記。1924〜37年、党中央委員。1928〜31年、電信郵便人民委員。1931〜34年、中央統制委員会幹部会メンバー。1937年、すべての役職から解任され、党も除名され、逮捕。1938年に銃殺。1956年に名誉回復。

(5)ミルゾヤン、レーヴォイ・イサエヴィチ(1897-1939)……1917年にボリシェヴィキに入党。主にザカフカス地方で活動。1920〜25年、アゼルバイジャン労働組合評議会議長。1925〜29年、アゼルバイジャン共産党中央委員会書記。1927年からソ連共産党(ボ)中央委員会候補、1934年から中央委員。1938年に逮捕、1939年に銃殺。1956年に名誉回復。

(6)ウンシュリフト、ヨシフ・スタニスラヴォヴィチ(1879-1938)……ポーランド出身の革命家、軍事活動家。1900年来のロシア社会民主労働党員。1906年以降ボリシェヴィキ。反動期には何度も逮捕される。1917年、ペトログラード革命軍事委員会のメンバー。1925年、中央委員候補。1925〜1830年、革命軍事会議副議長。1920年代には反トロツキー闘争に積極的に加わるが、1937年に逮捕され、1938年に他の赤軍幹部とともに処刑。1956年に名誉回復。

(7)ブジョンヌィ、セミョン・ミハイロヴィチ(1883-1973)……ソ連の軍人、元帥。1903年に帝政ロシア軍に入隊。1917年に革命運動家となり、連隊兵士委員会議長。1919年にボリシェヴィキ入党。内戦では赤色騎兵隊を率いて活躍。1919〜23年、第1騎兵軍団長。1937年、モスクワ軍管区司令官。大粛清期には積極的にスターリンを助ける。1940年、軍事人民委員代理。1939〜52年、党中央委員。

(8)クジミン、ニコライ・ニコラエヴィチ(1883-1938)……古参ボリシェヴィキ、軍活動家、スターリニスト。1903年からのボリシェヴィキ。内戦中は第6軍の革命軍事会議メンバー。1920年4月からバルティク艦隊の革命軍事会議メンバー、第12軍司令官。1921年のクロンシュタット反乱の鎮圧に参加。その後、一連の軍事ポストを歴任。1937年5月に逮捕され、1938年に銃殺。1956年に名誉回復。

(9)スクヴォルツォフ=ステパーノフ、イワン・イワノヴィチ(1870-1928)……ボリシェヴィキ、編集者。1896年からロシア社会民主労働党員。10月革命後にボリシェヴィキに。1918年には左翼共産主義派としてブレスト講和に反対。1920年にマルクスの『資本論』のロシア語版を発行。1925年から中央委員で、『イズベスチヤ』の編集者。1927年から『プラウダ』の編集者。

(10)ベードヌイ、デミヤン(1883-1945)……ソ連の政治的詩人、ボリシェヴィキ。1909年からナロードニキの『ロシアの富』誌に作品を発表し始め、1911年からボリシェヴィキの各種機関紙に作品を発表。1912年にボリシェヴィキに入党。1925年から1930年までスターリニスト御用詩人。第2次世界大戦中にふたたびプロパガンダ詩を書いたが、人気を取り戻すことはなかった。

 

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